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イエスの本当の教え
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/507.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 7 月 04 日 14:45:30: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 欧米のキリスト教徒全員の行動指針となっているヨハネの默示録 投稿者 中川隆 日時 2019 年 7 月 04 日 14:22:34)


イエスの本当の教え


イエスの神の国は釈迦の涅槃の世界を翻案したもの

トマスの福音書3

神の国はあなたたちの内側にある。
常に自分を認識する人は、神の国を見出すであろう。

トマスの福音書22

イエスは乳を飲んでいるいくにんかの幼な子をごらんになった。
そして彼は弟子たちに言われた。

”乳を飲んでいるこの幼な子たちは神の国に入る者たちに似ている”。

彼らは彼に言った。

”それではわたしたちは幼な子として神の国に入るのでしょうか”。

イエスは彼らに言われた。


”あなたがたがふたつのものを ひとつにするとき、

そして、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、

そして男性と女性とをひとつにし、男性がもはや男性ではなく、女性が女性ではないようにするとき、

そしてひとつの目の代わりに目を、ひとつの手の代わりひとつの手を、一つの足の代わりにひとつの足を、ひとつの像の代わりにひとつの像をつくるとき、


あなたがたは神の国に入るであろう”。
http://www.mars.dti.ne.jp/~fenot/jesus/cr_tomas.html

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イエスは クンダリーニ・ヨーガ と ヒーリング の技術を何処で学んだのか?

聖イッサ伝

十三歳になったイエスはひそかに両親の家を離れ、エルサレムを立ち、商人とともにシンド (Sindhはパキスタン南部の州) に向けて出発した。

神のことばにおける完成を目指し、大いなるブッダの法を学ぶために。

若いイエスは十四歳のとき、シンドのこちら側に来て、神の愛された地、アーリア人の間で一人立ちしていた。

イエスはジャイナの謝った信仰を捨てて、オリッサの国ジャガナートに行った。
そこにはヴィアーサ・クリシュナの遺骸が安置されており、バラモンの白い僧らがイエスを歓迎した。

彼らはイエスにウェーダを教え、祈祷によって病人を治すことを教えた。
聖典を講じ解釈することを教え、人体から悪霊を払い、正気に戻すことを教えた。

イエスは、夜に紛れてジャガナート地方を去り、山に入って、仏教徒の国、唯一にして崇高なブラフマンを信じる人々の間に住むことにした。

すなわち、かの偉大なブッダ・シャカムニ誕生の地である。

義の人イエスは、パーリ語を完全に習得した後、聖なる仏典の研究に専念した。

六年後、聖なる教えを広めるため、ブッダが選んだ人イエスは聖典の完全な講術者になった。

その後は、ネパール、ヒマラヤ山地を離れ、ラージプータナの谷へ降り、さまざまな国の民に、人間の究極の完成について説きながら、西へ向かった


われらの主、神のご加護により、イエスは苦しむことなく自分の道を進んだ。


堕落して、真の神に背いた人間に警告するために、創造主が選んだ人イエスは、二十九歳のときイスラエルに帰った。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/374.html

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ユダの福音書

キリストはユダに対し、自分達を取り巻く圧迫が最終局面に至っている事を語り、それへの「最終的な打開策」を打ち明け、最も信頼する弟子と考える彼に対し「最後の助手としての役割」を果たす事を要求した。


「過越(すぎこし)の祭りが始まる3日前、イスカリオテのユダとの1週間の対話でイエスが語った秘密の啓示」

これは秘密の啓示である・・・。

イエスは過越しの祭りの3日前にユダにこう語られた・・・

イエスは地上に出現されたとき、人々を救う奇跡を行われた。

正しい道を歩くものもいれば、誤った道を歩く者もいたので、12人の使徒を集められた。

イエスは時にご自身としてではなく、子供として姿をお見せになった。


福音書の初めの部分で、イエスは「お前たちの神」に祈りを捧げる弟子たちを笑います。 この神とは、世界を創造した旧約聖書の劣った神のことです。

そしてイエスは、この私を直視し、真の姿を理解せよと迫りましたが、弟子たちは目を向けようとしません。


イエスがユダヤに居たある日の事・・・

12人の使徒たちは信心深く食事をしていた。
イエスは祈りを捧げている使徒たちに近付き笑い出した。

彼は使徒たちの間違った信仰を笑っていた。

使徒たちは世界の創造主を崇拝していた。
だが、ユダだけは違っていた

イエスは言う・・・

イエス「なぜ怒るのだ?あなたたちの中で強い心をを持つ者が立って私に示すがよい・・・・
己の内にある真の魂を」

ユダを除く使徒たち「私たちは強い心を持っています!」

しかし、言葉には出しても本当に立ち上がる者はいなかった。
・・・イスカリオテの『ユダ』を除いて・・・。

ユダはたった一人立ち上がってイエスに向かってこう言った。

ユダ「私は、あなたが何者か存じています・・・
あなたを送られた方の名は畏れ多くて申し上げられません。」

イエスはユダに近付きいて彼にこう言う・・・

イエス「他の者たちから離れよ・・・私はあなたに王国の秘密を教えよう。
     そこは果てしなく広がる国。天使させ見たことがない土地。人の
     心には想像さえ及ばぬ世界。その国に名前はない。」


■『キリスト』が『ユダ』に自分を『ローマ』に売るように諭す場面。

キリスト「You will be greater than all others. Judas, you will sacrifice the man that clothes me. 」

 (あなたは誰よりも素晴らしい。ユダよ。犠牲にするのだ。私の魂の衣ある者を。)


■『キリスト』が『天国の秘密』を『ユダ』に明かす場面。

キリスト「Step away from the others, and I shall tell you the mysteries of kingdom. It is a great and boundless realm which no eye of an angel has ever seen, no thought of the heart has ever comprehended.」

(他の者から離れよ。あなたに教えよう。王国の秘密を。そこは果てしなく広がる国。天使させ見たことがない土地。人の心には想像さえ及ばぬ世界。)

http://wildoldboy.cocolog-nifty.com/wild_old_boy/2006/04/the_gospel_of_j_eab8.html


イエスはユダに語ります。

「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう」

「他の者たちから離れなさい。そうすれば、お前に[神の]王国の神秘を語って聞かせよう。その王国に至ることは可能だが、お前は大いに悲しむことになるだろう」

「聞きなさい、お前には[真理の]すべてを話し終えた。目を上げ、雲とその中の光、それを囲む星々を見なさい。皆を導くあの星が、お前の星だ」
 
「お前はこの世代の他の者たちの非難の的となるだろう
   ――そして彼らの上に君臨するだろう」


ユダは他の弟子たちから猛反発を受ける幻視を見たと語ります。

「幻視の中で、私は12人の弟子から石を投げつけられ、[ひどい]迫害を受けていました」


「ユダは目を上げ、光輝く雲を見て、その中に入っていった」

地上の人間たちは雲から聞こえる声を耳にします。


福音書の記述は、次のような場面で唐突に終わっています。

「彼ら[イエスを捕らえにきた人々]はユダに近づき、
『ここで何をしているのだ。イエスの弟子よ』と声をかけた。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/373.html


▲△▽▼


イスカリオテのユダの悟境

【イエスは「お前たちの神」に祈りを捧げる弟子たちを笑います。この神とは、世界を創造した旧約聖書の劣った神のことです。そしてイエスは、この私を直視し、真の姿を理解せよと迫りましたが、弟子たちは目を向けようとしません。】

「お前たちの神」とは、自分とは別の存在として位置する神という認識のことを言っているのであり、自らのうちに神があるのを知らないと指摘しているのだと思う。


イエスがこの私を直視し、真の姿を理解せよと迫ったところは、バガヴァッド・ギータで、全能の聖者クリシュナが弟子のアルジュナに同じ言葉で迫ったのと同じ響きがある。全能の神の顕現として現れたイエスが、もう少しで覚醒しようとしている弟子たちに「神のありのままを目をそらすことなく見なさい」と詰め寄っているのである。

この話の中では、ユダが裏切り者でなかったことよりは、ユダの悟境が他の弟子より進んでいたことが確認されていたことのほうが意義は大きい。


【イエスがユダにこう語りかける場面もあります。「聞きなさい、お前には[真理の]すべてを話し終えた。目を上げ、雲とその中の光、それを囲む星々を見なさい。皆を導くあの星が、お前の星だ」】

これは、長い講義が終わったから、一息ついて空の星を見ようというものではなく、ひとつの冥想状態の中で、見なさいと指示しているもので、「雲とその中の光」とは、神そのもののこと、それを囲む星々とは、実際の空の星に仮託された神々の一柱のことだろう。

「目を上げ」というのは、肉体の目を上げることではないだろう。いずれにせよこれで、ユダが13人の弟子の中で最上位であったことがわかる。


死海文書によると洗礼のヨハネはエッセネ派に属し、イエスもエッセネ派に属していたと推測されているが、イエスもクンダリーニ・ヨーガ系の技法が伝わるその集団のメンバーと見られる。

クンダリーニ・ヨーガ系では、神々の姿をありありとイメージするトレーニングがよく行われている。

星々とは、イメージ対象の神々であり、ここは、その冥想過程の中の出来事を書いたものではないかと思う。

師弟相承のルールというものは、師匠を超えるレベルの弟子を出すことが師匠の責務であるということ。禅の場合でも、一人でも半人でも本物の弟子を出すことが師匠の最低限の責務であり、かつ師家(老師)以上の力量の弟子を出さねばならないことになっている。

イエスの場合でも、その例外ではなく、自分が神を知っている師家である以上は、自分以上の力量のある弟子を育成することが、覚者としての責務であったと考えられ、イスカリオテのユダが正に力量ある弟子であったと考えられる。

また師匠を超える弟子を出すというのは、当時の考え方からすれば、革命的なことであり、一人一人が神の顕現であるニューエイジ(アクアリアン・エイジ)の考え方の先駆と見ることができる。

【ユダは目を上げ、光輝く雲を見て、その中に入っていった。】
光輝く雲は、例の荘子の見た混沌であり、神の姿であり、それに入って行ったというのは、神と合一したことを言うと考えられ、これは見神や見性などという軽いものではなく、神人合一を指しているように思う。これでユダの力量のほどが証明されている。
http://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/99ffcbce33957c1622488284f1e54d21


詳細は

イエスが殺された本当の理由
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/371.html


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マグダラのマリアによる福音書


ペトロは、

「マグダラのマリアよ、イエスが他の女性たちにまさってあなたを愛したことを、私たちは知っています。あなたの思い起こすイエスの言葉を、私たちに話して下さい。あなたが知っていて私たちの知らない、私たちが聞いたこともないそれらの言葉を」

と要請する。


 ペトロの求めに応じ、マグダラのマリアは、彼女がイエスから示された教えの内容を語り始める。


 可視的な世界は、以下の七つの「権威」(アルコーン)たちによって支配されている。

  第一の権威 闇
  第二の権威 欲望
  第三の権威 無知
  第四の権威 死ぬほどの妬み
   第五の権威 肉の王国
  第六の権威 肉の愚かな知恵
  第七の権威 怒っている人の知恵

 七つの天を通り抜け、プレーローマ界に帰昇しようとする魂に対して、権威たちは尋問を行う。魂は、イエスから教えられたとおりの言葉を語ることにより、彼らに打ち勝ってゆく。

________________


・・・・・・・・そして彼女は彼らにこれらの言葉を話し始めた。

「私は」

と彼女は言った、

「私は一つの幻の内に主を見ました。

そして私は彼に言いました、


「主よ、あなたを私は今日、一つの幻の内に見ました。」


彼は答えて私に言われました、

「あなたは祝されたものだ、私を見ていても動じないから。

というのは叡知のあるその場所に宝があるのである。」


私は彼に言いました、

「主よ、幻を見る人がそれを見ているのは、魂か霊か、どちらを通してなのですか。」


イエスは答えて言われました、

「彼が見るのは、魂を通してでもなければ、霊を通してでもなく、それら二つの真ん中にある叡知、幻を見るものはその叡知であり、その叡知こそが・・・・・・・


(このあと欠落)


・・・・・・・・・を。


そして欲望が言った、

「私はお前が降るところを見たことがないのに、今お前が昇るところを見ている。

お前は私に属しているのに、どうして私を騙すのか。」


 魂が答えて欲望に言った、


「私はあなたを見た。

あなたは私を見たこともないし、私を知覚したこともない。

私はあなたにとって着物のようであったのだが、あなたは私を知らなかった。」


これらのことを言った後、魂は大いに喜びつつ、去って行った。


 それから魂は第三の権威、無知と呼ばれるもののところに来た。

その権威が魂を尋問した、


「お前が行こうとしているのはどこへなのか。

お前は悪の内に支配されてきた。

お前は支配されてきた。裁くな。」


と魂に言って。そこで、魂が言った、


「あなたが私を裁くのはなぜなのか、私は裁いたりしたことなどないのに。

私は支配したことがないのに、私は支配されてきた。

私は知られなかったが、私の方は、地のものであれ、天のものであれ、すべてものが解消しつつあるときに、それらのものを知っていた。」


・・・・・・・・・・・魂は第三の権威にうち勝ったとき、上の方に去って行った。


そして第四の権威を見た。

それは七つの姿をしていた。

第一の姿は闇であり、第二のは欲望、第三のは無知、第四のは死ぬほどの妬みであり、第五のは肉の王国であり、第六のは肉の愚かな知恵であり、第七のは怒っている人の知恵である。

これらが怒りのもとにある七つの権威なのである。


彼らが魂に

「人殺しよ、お前が来るのはどこからなのか。

それとも場所にうち勝った者よ、お前が行こうとしているのはどこへなのか」


と尋問すると、魂は答えて言った、


「私を支配するものは殺された。

私を取り囲むものはうち負かされた。

そして私の欲望は終りを遂げた。

また無知は死んだ。

世にあって、私が解き放たれたのは世からであり、また範型の内にあって私が解き放たれたのは天的な範型からであり、一時的な忘却の束縛からである。

今から私が沈黙の内に獲ようとしているのは、時間の、時機の、そして永久の安息である。」


マリアは以上のことを言ったとき、黙り込んだ。

イエスが彼女と語ったのはここまでだったからである。・・・・・・・・・・
http://gnosticthinking.nobody.jp/gnosismyth017.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/375.html

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詳細は


イエスが殺された本当の理由
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/371.html

参考資料 _ トマス福音書
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/372.html

参考資料 _ ユダの福音書
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/373.html

参考資料 _ 聖イッサ伝  
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/374.html

参考資料 _ マリアによる福音書
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/375.html

参考資料 _ マルコによる福音書(文語訳)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/376.html

参考資料 _ 舊約聖書 傳道之書
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/550.html


 

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コメント
1. 中川隆[-9255] koaQ7Jey 2019年7月04日 15:16:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3410] 報告

釈迦の悟りとは何であったのか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html

釈迦の本当の教え
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/735.html

不可触民(ダリット)の世界 _ 釈迦が見た地獄とは何だったのか
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/707.html

異教徒は「人間」ではないので殺してもいい
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/798.html

イエスのヒーリングは本物のシャーマンには敵わない
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/609.html

西洋の達人が悟れない理由 _ 巫女は神と交わる聖なる女性
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/385.html

2. 中川隆[-9265] koaQ7Jey 2019年7月05日 05:15:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3414] 報告

魔術師イエス _ イエスの実像


キリストの実在を示す直接的史料、アレキサンドリアでキリストの名前が刻まれた世界最古の壷が発見【Technobahn 2008/10/2 21:04】


イエス・キリストに関して直接言及した記述が残されたものとしては世界最古の壷がアレキサンドリアの海中遺跡で発見されていたことが1日までに、この壷の発見に成功した発掘調査グループの発表によって明らかとなった。


この壷の発見に成功したの水中考古学の分野では世界的権威となるフランス人考古学者のフランク・ゴディオ氏を中心とする発掘調査グループ。


発掘調査グループはアレキサンドリアの海底遺跡の発掘の過程でこの壷を発見。その後の調査によりこの壷は紀元前2世紀から紀元1世紀のものであること、更に、壷の表面には古代ギリシャ語で

「DIA CHRSTOU O GOISTAIS(魔術師たるキリストによるもの」という意味)」

という文字が刻み込まれていることを突き止めた。


発掘調査グループではこの壷はキリストについて直接言及した史料としては世界最古のものとした上で、この壷によってキリストが実在した人物であること、更に、

キリストの同時代にはキリストは「魔術師(magician)」的存在として見なされていた貴重な史料だと述べている。


新約聖書「マタイによる福音書」には「東方のマギ(magi=magusの複数形、英語のmagicの語源)」と呼ばれる賢者達が壷を使って儀式を行ったという記述が残されており、発掘調査グループでは今回、発見された壷に刻まれた「GOISTAIS(magician)」という表現もこのマタイ伝にあるマギの由来する可能性を指摘、その上で当時のマギは壷にキリストの名前を刻み込むことで彼らの神秘的能力を正当化していたのではないかと見ている。


キリストと同時代のキリストに関わる史料の発見に成功したことは、キリスト教文明を知る上で近代考古学史上、稀に見る成果となりそうだ。
http://kurokamenews.blogspot.com/2009/06/blog-post_30.html

要するに、イエスは同時代人からはグノーシス派の始祖_魔術師シモンと同じ様に捉えられていたという事なのですね:


魔術師シモンの明暗


イエスの伝道時代から、十字架に架かって後弟子達がローマまで福音を述べ伝えた頃まで、ローマではイエスキリストは無名でした。当時有名な人物に魔術師シモンがいました。

シモン・マグス(偉大なシモンと言う意味)と呼ばれた人物は、サマリアの小さな村で生まれたと言われてます。洗礼者ヨハネの弟子だったとも言われますが、ヨハネが斬首された後、アレクサンドリアの町で哲学と魔術を学び、その後サマリアに戻り伝道活動を行い、後にフェニキアからローマに移動して活動した宗教家であり、魔術師シモンで知られます。

ローマ皇帝ネロから宮廷魔術師の地位を得たとも伝えられますが、真偽は不承です。ただし、ローマ帝国内では相当知られた人物であったのは、間違いないようです。

魔術師シモンと聞いてピンと来る人は、クリスチャンだけでしょうか?シモンはキリスト教の使徒たちと同時代人で、それゆえに新約聖書にも登場します。

使徒言行録著者ルカの記述では、シモンはフィリポから洗礼を受けた、ペトロに聖霊を授けられる力を金で売ってほしいと持ちかけて叱責され反省した事になっています。ルカらしい書き方で、魔術師シモンは悔い改めたように、やんわりとさりげなく説明を入れてますが、実際は少し違うようです。

シモンの教義は、様々な文書に断片的な形で残っているようです。

「エンノイア」と呼ばれると呼ばれる至高神が最初の流出を起こし活動を開始、その神より劣るものが世界を創造し支配している。

だからこの世界は悪に満ちたものであり、人間の魂が物質世界にとじこめられてしまった。

シモンは、こうした物質に閉じ込められた魂の解放者であり、解放のための「呼びかけ」を行った。

彼の信徒達は、彼を「至高の力」を示す神の体現者であったと伝える。

肉体に閉じ込められている霊が高まれば、人間は神と同等の力を持つという考え方を人々に説いた。

初期キリスト教史をかじった人ならすぐに分かると思いますが、グノーシス派の源流の一つと理解できます。


霊的に高次元であると自負した彼は、様々な魔術を見せます。

彼の魔術は、病気の癒し、死者の復活、悪魔の呼び出し、石をパンに変える、空を自由に飛ぶ、岩をくぐり抜ける、様々な獣に変身できたと言われます・・・

まさに奇跡のオンパレードですね。
 
シモンはヘレナと呼ばれる女性を常に随行させていました。

キリスト教界側の記録では、

「彼女はシモンによって売春宿から身請けされた女性である。

彼の信者達は、この女をシモンから生み出された第一の思考の流出、エンノイアであると言う。

この女はあらゆる人間の母であり、天使をも創造した。

そして天使たちは世界を創造したが、やがてヘレナを妬むようになり、彼女を人間の肉体の中に幽閉した。

こうして彼女は物質的な肉体に幽閉されたまま、何世紀もの間、転生を続けたが、売春婦として生まれ変わっていたところに、救済者となって天から降りてきた神であるシモンによって見出され解放された。

ヘレナを幽閉した天使たちは、世界を支配するためにこの世を悪く治めた。

彼ら天使の首長は、旧約聖書の神と同一である(デミウルゴス)。

そこで、こうした事態を正すために、至高神たるシモンは降臨した。

彼はまずヘレネを覚醒させ解放する。

そして、全ての人類に救いをもたらそうとしている。

この救世主をユダヤ教徒の一部は受難したと見なしているが、本当は受難したのではない」

と伝えます。

シモンの教義は弟子たちにも引き継がれ、2世紀頃にはその哲学も高度化していったと言われ、シリア・アレクサンドリア型のグノーシス思想に分類されるそうです。

この思想は一部キリスト教集団にも取り込まれ、異端宗教となります。

4世紀ごろまでには完全に消滅したと推測しますが、キリスト教界が危機感を持って排除した歴史でもあったようです。

その証拠に、新約聖書外典のペトロ行伝は、かなりの部分が魔術師シモンとペトロの対決で描かれてます。ただし、ペトロ行伝はほとんどが大衆読物の域を出ない、トンデモ系の書物ですが・・・

内容は、サマリアではシモンがペトロに聖霊を授ける力を金で買おうとして(聖職売買Simonieの言葉はここから生まれた)断られ、空中浮遊の魔術をシモンが見せれば、ペトロは祈りでシモンを落下させて骨折。

シモンがローマに渡ると、ペトロも追いかけて行き、最後は皇帝ネロの前で奇跡対決。

シモンが空中飛行を行うがペトロの力で塔から落ちて死んでしまう。


・・・キリスト教側の宣伝が入っている所がミソですが、お笑い系の話とも言えそうです。

結局、奇跡と区別される魔術に反対する宣伝材料として(キリスト教内部で)使われたのは間違いないと思いますが、魔術の時代は、シモン・マグスが聖なる道に落ちて滅びた時に葬られたと言えるのかも知れません。

結局、最後にキリスト教が残ったのは、書物志向としての聖書や文書類があり、貧者救済の教義が広く受け入れられた事にあったと考えます。

シモンが魔術を見せた事はかなり民間伝説では有名だったようですが、その真偽は調べようがありません。

しかし、当時の時代背景を考えると、奇跡や魔術が当たり前の時代と思われますし、福音書著者が奇跡伝承資料を盛り込んだ一部には、シモン教団との対決があったのかもと想像するのは、多少なりと根拠があると私は受け止めておりますが・・・

結局、魔術師シモンはキリスト教側の反感から付けられた名前かもしれません。

実際は、宗教家哲学者であったと思います。キリスト教のライバルであったのは間違いないでしょう。

余談ですが、ゲーテが書いた『ファウスト』に登場する魔術師ファウストは、魔術師シモンをモデルにしたという話も有ります。
http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/jesus/appendix-01.htm


即ち、イエスは革命家でも大工でも教祖でもなかった。

トマス福音書やユダの福音書のイエスが本当の姿だったのです:


303 :神も仏も名無しさん:2008/11/15(土) 06:10:51 ID:tucU7Ix0

トマスによる福音書はなんだか哲学的で仏教にも通じる思想があるね。

キリストは仏教思想に触れえる文化圏に居たことが分かっているし
ユダヤ教に比べ仏教の影響臭い部分もあるし
本来の思想を色濃く残してるのかもしれないな。

仏教でもブッダ死後、理解の浅い弟子達は徐々にバラモン教的に教えを歪めたが
同じようにキリスト以後本来のユダヤ教的なものへの退化は程度のほどはあれ起こっているだろうし。


330 :神も仏も名無しさん:2009/04/01(水) 23:26:53 ID:tY2wbx3O

正典にも、天に上げられたとか書いてあるし、グノーシスの霊と物質の二元は仕方が無いと思うんだな。

現代のように人工衛星が太陽系の端まで行ってないし、物質も最小の単位はエネルギーとか知らないから

驚愕するのは、トマス福音書の説く迷妄の無さだよ。

物質と霊は一元、御国や新しい世は、天にも海にもなく自己を見出せば地上に拡がっていると説く。

インドの聖者、ラーマ・クリシュナやラマナ・マハルシの説く不二一元論の境地にも読み取れるところが凄い。


331 :神も仏も名無しさん:2009/04/02(木) 18:52:46 ID:CdQJdcon

よく読めば、トマス福音書はグノーシスとも違うよ。

グノーシスは物質界が悪で、旧約の創造主が否定されたらしいから

トマス福音書は、どちらかといえばヴェーダンタの不二一元の境地だと思うけど、
もし、仮にそうなら、正典が何故あそこまで外界に救いを求めるような教義なんだろう?

と不思議に感じるけど、最古のマルコ福音書が受難から40年も経てから記されたり、
その長い空白期間と大量に処分されたグノーシス文書にその答えがあるのかも知れない。

332 :神も仏も名無しさん:2009/04/03(金) 21:21:58 ID:LoXAcH/N

旧約とあまりに矛盾したり、ユダヤ教の改宗者や律法やら色々とあったのだろうけど、そりゃユダヤ教のメシアだったわけだからそれでも第三者が選別するべきではなかったね。

恐れ多いからと全ての資料を後世に残してくれる気概が欲しかった。
マルコ福音の記者がグノーシス文書の記者と同一人物かも知らないし、そんなことも現在なら色々とわかるから、宣教のために奇跡や奇抜なことを大袈裟に説いていただけかも知れないし

下手に選別して処分なんてしたから、終末論や再臨信じてカルトがのさばるわけだし、

トマス福音書が仮にイエスの真意ならカルト要素無いわけだから相当重要なことだと思うね。


333 :神も仏も名無しさん:2009/04/03(金) 22:16:05 ID:nrjuKGw9

この世界が完成された物なら人類は死ぬことも無く、飢えること無く、互いに憎み合うこともない 世界を造った者が意図した事なら、憎しみ故か、怠慢故か。造った者に人類の救済の責任を「媚びずに」当然の事として求めた形だと思う。

他の宗教が神に媚びるなかグノーシスの毅然とした対決姿勢は「神」に依存し過ぎる状況に決別を採択した結果だと考える。


334 :神も仏も名無しさん:2009/04/07(火) 13:06:08 ID:Iwgw2a/G

トマス福音書のイエス語録は本物っぽい

物質界には救いがないとしたグノーシス派の人たちが、ヨガマスターの真我意識、ニルヴィカルパ・サマーディなんて知ってるわけないから、語録で似たような境地を表現しているので本物ではないのかと思っている。

337 :神も仏も名無しさん:2009/04/08(水) 17:53:53 ID:7k58Tugo

ユダヤ教主流の地に、イエス降臨後なぜグノーシスのような禁欲的な仏教みたいなのが
不自然に一大勢力になるほどに現れたのか

トマス福音書はクリスチャンが思っている以上に外典どころか、貴重なイエスを知る一級資料だと思うけどね。


354 :神も仏も名無しさん:2009/07/28(火) 11:58:32 ID:1aBKH4bk

釈迦の周りに居たような求道者でもなく、寄せ集めの5,6千人くらいだから
トマス福音書やヨハネ福音書の使徒が記した梵我一如思想が難解すぎて理解されなかったのだろうね

ユダヤ教と違いすぎるのもあるから、グノーシスがいきなり現れた歴史がそれを証明してるような
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1147765258/

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神の子の本当の意味

マルコ3-33

わが母、兄弟とは誰ぞ
誰にても神の御心を行うものは、是わが兄弟、わが姉妹、わが母なり。


ヨハネ 10-34

われ言ふ、汝らは神なり。
かく神の言を賜りし人々を神と云えり。


本当の神の国は

トマスの福音書113

神の国は地上に広がっている。 そして、人々はそれを見ない。


トマスの福音書3

神の国はあなたたちの内側にある。
常に自分を認識する人は、神の国を見出すであろう。


ヨハネの福音書18-35

神の国はこの(外なる)世界には属していない。


ルカ17-20

神の国は汝らの中に在るなり。


トマスの福音書113

「どの日に神の国は来るのでしょうか。」

「それは待ち望んでいるうちはくるものではない。」

トマスの福音書22

イエスは乳を飲んでいるいくにんかの幼な子をごらんになった。
そして彼は弟子たちに言われた。

”乳を飲んでいるこの幼な子たちは神の国に入る者たちに似ている”。

彼らは彼に言った。

”それではわたしたちは幼な子として神の国に入るのでしょうか”。

イエスは彼らに言われた。


”あなたがたがふたつのものを ひとつにするとき、

そして、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、

そして男性と女性とをひとつにし、男性がもはや男性ではなく、女性が女性ではないようにするとき、

そしてひとつの目の代わりに目を、ひとつの手の代わりひとつの手を、一つの足の代わりにひとつの足を、ひとつの像の代わりにひとつの像をつくるとき、


あなたがたは神の国に入るであろう”。

http://ime.st/emikikuchi.exblog.jp/i40


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ユダの福音書

キリストはユダに対し、自分達を取り巻く圧迫が最終局面に至っている事を語り、それへの「最終的な打開策」を打ち明け、最も信頼する弟子と考える彼に対し「最後の助手としての役割」を果たす事を要求した。


「過越(すぎこし)の祭りが始まる3日前、イスカリオテのユダとの1週間の対話でイエスが語った秘密の啓示」

これは秘密の啓示である・・・。

イエスは過越しの祭りの3日前にユダにこう語られた・・・

イエスは地上に出現されたとき、人々を救う奇跡を行われた。

正しい道を歩くものもいれば、誤った道を歩く者もいたので、12人の使徒を集められた。

イエスは時にご自身としてではなく、子供として姿をお見せになった。


福音書の初めの部分で、イエスは「お前たちの神」に祈りを捧げる弟子たちを笑います。 この神とは、世界を創造した旧約聖書の劣った神のことです。

そしてイエスは、この私を直視し、真の姿を理解せよと迫りましたが、弟子たちは目を向けようとしません。


イエスがユダヤに居たある日の事・・・

12人の使徒たちは信心深く食事をしていた。
イエスは祈りを捧げている使徒たちに近付き笑い出した。

彼は使徒たちの間違った信仰を笑っていた。

使徒たちは世界の創造主を崇拝していた。
だが、ユダだけは違っていた

イエスは言う・・・

イエス「なぜ怒るのだ?あなたたちの中で強い心をを持つ者が立って私に示すがよい・・・・
己の内にある真の魂を」

ユダを除く使徒たち「私たちは強い心を持っています!」

しかし、言葉には出しても本当に立ち上がる者はいなかった。
・・・イスカリオテの『ユダ』を除いて・・・。

ユダはたった一人立ち上がってイエスに向かってこう言った。

ユダ「私は、あなたが何者か存じています・・・
あなたを送られた方の名は畏れ多くて申し上げられません。」

イエスはユダに近付きいて彼にこう言う・・・

イエス「他の者たちから離れよ・・・私はあなたに王国の秘密を教えよう。
     そこは果てしなく広がる国。天使させ見たことがない土地。人の
     心には想像さえ及ばぬ世界。その国に名前はない。」


■『キリスト』が『ユダ』に自分を『ローマ』に売るように諭す場面。

キリスト「You will ge greater than all others. Judas, you will sacrifice the man that clothes me. 」

 (あなたは誰よりも素晴らしい。ユダよ。犠牲にするのだ。私の魂の衣ある者を。)


■『キリスト』が『天国の秘密』を『ユダ』に明かす場面。

キリスト「Step away from the others, and I shall tell you the mysteries of kingdam. It is a great and boundless realm which no eye of an angel has ever seen, no thought of the heart has ever comprehended.」

(他の者から離れよ。あなたに教えよう。王国の秘密を。そこは果てしなく広がる国。天使させ見たことがない土地。人の心には想像さえ及ばぬ世界。)

http://wildoldboy.cocolog-nifty.com/wild_old_boy/2006/04/the_gospel_of_j_eab8.html


イエスはユダに語ります。

「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう」

「他の者たちから離れなさい。そうすれば、お前に[神の]王国の神秘を語って聞かせよう。その王国に至ることは可能だが、お前は大いに悲しむことになるだろう」

「聞きなさい、お前には[真理の]すべてを話し終えた。目を上げ、雲とその中の光、それを囲む星々を見なさい。皆を導くあの星が、お前の星だ」
 
「お前はこの世代の他の者たちの非難の的となるだろう
   ――そして彼らの上に君臨するだろう」


ユダは他の弟子たちから猛反発を受ける幻視を見たと語ります。

「幻視の中で、私は12人の弟子から石を投げつけられ、[ひどい]迫害を受けていました」

「ユダは目を上げ、光輝く雲を見て、その中に入っていった」

地上の人間たちは雲から聞こえる声を耳にします。


福音書の記述は、次のような場面で唐突に終わっています。

「彼ら[イエスを捕らえにきた人々]はユダに近づき、
『ここで何をしているのだ。イエスの弟子よ』と声をかけた。

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マタイ28-13

その弟子ら夜きたりて、我らの眠れる間に彼(イエスの亡骸)を盗めリ
此の話ユダヤ人の中にひろまりて、今日に至れり。

イエスの復活については、ペテロら弟子たちがイエスの遺体を墓から運び出して、イエスの復活をふれ回ったとする解釈(自作自演説)もありますが、どうにも不自然です。

ペテロらの自作自演なら、福音書によって記述がかなり食い違う点も説明が困難です。目撃証言や伝聞をつなぎ合わせていったから、あのような食い違いが起きたのであり、自作自演なら矛盾なくきれいに話がつながったはずでしょう。


イエスの遺体を墓から運び出させたのは誰でしょうか。

イスカリオテのユダしか考えられません。

イスカリオテのユダは、他の弟子たちがイエスの真意をようやく悟り始めたことを知りますが、弱い彼らは時が経てば逃げてしまうだろう、そうなれば、イエスは忘れ去られ、その教えは地上から消滅します。

イスカリオテのユダにとって、それは耐えられないことでした。

彼は、イエスの復活を演出します。墓からイエスの遺体を密かに運び出させました。

早朝、空になった墓を見て、イエスの遺体に香油を塗りに来た婦人たちは悲鳴を上げて逃げ出します。やがてイエス復活の噂がエルサレムの街のあちこちで囁かれるようになりました。

それを見届けたイスカリオテのユダは首を吊って自殺したのではないでしょうか。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/6832/juda.html

ユダの福音書解読

◎イスカリオテのユダは、最高位の弟子だった。

イスカリオテのユダの福音書が出ることになりました。

出版前なのでナショナルジオグラフィックの広告ページの情報しかありませんが、気がついたことを、挙げてみます。(【】内は、ナショナルジオグラフィックのプレスリリース和訳からの引用です。)なお、プロットだけからの考察なので、全体が出るとまた内容が変わるかもしれませんが。

私の見方では、イスカリオテのユダは、神を十分に承知していたし、イエスを官憲に引き渡すことの意義と結果を十分に承知していたし、それは単にイエスから指示されたから実行したというものではないように思います。


1.イスカリオテのユダの悟境

【イエスは「お前たちの神」に祈りを捧げる弟子たちを笑います。この神とは、世界を創造した旧約聖書の劣った神のことです。そしてイエスは、この私を直視し、真の姿を理解せよと迫りましたが、弟子たちは目を向けようとしません。】

「お前たちの神」とは、自分とは別の存在として位置する神という認識のことを言っているのであり、自らのうちに神があるのを知らないと指摘しているのだと思う。


イエスがこの私を直視し、真の姿を理解せよと迫ったところは、バガヴァッド・ギータで、全能の聖者クリシュナが弟子のアルジュナに同じ言葉で迫ったのと同じ響きがある。全能の神の顕現として現れたイエスが、もう少しで覚醒しようとしている弟子たちに「神のありのままを目をそらすことなく見なさい」と詰め寄っているのである。

この話の中では、ユダが裏切り者でなかったことよりは、ユダの悟境が他の弟子より進んでいたことが確認されていたことのほうが意義は大きい。


【イエスがユダにこう語りかける場面もあります。「聞きなさい、お前には[真理の]すべてを話し終えた。目を上げ、雲とその中の光、それを囲む星々を見なさい。皆を導くあの星が、お前の星だ」】

これは、長い講義が終わったから、一息ついて空の星を見ようというものではなく、ひとつの冥想状態の中で、見なさいと指示しているもので、「雲とその中の光」とは、神そのもののこと、それを囲む星々とは、実際の空の星に仮託された神々の一柱のことだろう。

「目を上げ」というのは、肉体の目を上げることではないだろう。いずれにせよこれで、ユダが13人の弟子の中で最上位であったことがわかる。


死海文書によると洗礼のヨハネはエッセネ派に属し、イエスもエッセネ派に属していたと推測されているが、イエスもクンダリーニ・ヨーガ系の技法が伝わるその集団のメンバーと見られる。

クンダリーニ・ヨーガ系では、神々の姿をありありとイメージするトレーニングがよく行われている。

星々とは、イメージ対象の神々であり、ここは、その冥想過程の中の出来事を書いたものではないかと思う。

師弟相承のルールというものは、師匠を超えるレベルの弟子を出すことが師匠の責務であるということ。禅の場合でも、一人でも半人でも本物の弟子を出すことが師匠の最低限の責務であり、かつ師家(老師)以上の力量の弟子を出さねばならないことになっている。

イエスの場合でも、その例外ではなく、自分が神を知っている師家である以上は、自分以上の力量のある弟子を育成することが、覚者としての責務であったと考えられ、イスカリオテのユダが正に力量ある弟子であったと考えられる。

また師匠を超える弟子を出すというのは、当時の考え方からすれば、革命的なことであり、一人一人が神の顕現であるニューエイジ(アクアリアン・エイジ)の考え方の先駆と見ることができる。

【ユダは目を上げ、光輝く雲を見て、その中に入っていった。】
光輝く雲は、例の荘子の見た混沌であり、神の姿であり、それに入って行ったというのは、神と合一したことを言うと考えられ、これは見神や見性などという軽いものではなく、神人合一を指しているように思う。これでユダの力量のほどが証明されている。
http://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/99ffcbce33957c1622488284f1e54d21


◎ユダのカルマは昧(くら)まず

一度神を見るという体験をした者は、いかに師のいいつけとはいえ悪事を為すことはできない。そこで次の疑問が湧き起こる。イエスが「自分を官憲に引き渡せ」と指示したのは悪行であったのか、師に対しては絶対服従のユダがそれに従ったとしても、それは悪行ではなかったか。

【最も重要なくだりは、イエスがユダにこう語る部分です。「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう」】

イエスが十字架にかかるが、それと同時にユダも裏切り者の汚名を甘受するとともに、聖者殺しのカルマという重荷を負った。裏切り者の汚名は1700年を経て晴らされようとしているが、聖者殺しの意義は別格である。

神を知る者でない限り、その重荷を受けることはできないと見て、イエスはユダにそれを指示し、ユダもそれを了解したのだろう。間接的ではあるものの、聖者殺しの引き金を引くというのは、その行為のカルマの重さを考えれば、創造主と同等の意識レベルにある人でないと、容易になし得る業ではない。自分というものが少しでも残っていたら、たちまち落ちてしまう。従ってユダも自らの残りの人生・転生を、この神業に捧げたと考えられるのである。

ここは、古代インドのバガヴァッド・ギータで、聖者クリシュナが王子アルジュナに、人(敵)を殺すことを勧めた場面を彷彿とさせるものがある。

全体の構図としては、覚醒者イエスが、その力量に匹敵するほどの弟子ユダを養成し得たこと、そしてユダも、イエスを官憲に引き渡すことの意義を十分に理解していて、それを行ったというものではないだろうか。

この福音書は、【彼ら[イエスを捕らえにきた人々]はユダに近づき、『ここで何をしているのだ。イエスの弟子よ』と声をかけた。ユダは彼らが望むとおりのことを答え、いくらかの金を受け取ると、イエスを引き渡した。】で終わっている。

イエスが自らを官憲に引き渡せというような指示をしたというのは予想外であったが、ユダもある程度自らの意思によって官憲に引き渡したのだと思う。そしてユダは、師たるイエスの指示したとおり、官憲に引き渡し、その秘密の指示を生涯他に漏らすことなく守り切って死んでいった(自殺とされる)が、ユダの高潔さもまた並みはずれたものである。
http://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/92d2b6b940b5e978ea3082e03f241177


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神とは何か?


ユングが、1920年頃だったかアメリカ・インディアンのところに行くと、みんな太陽を拝んでいるのです。

ユングは感心して見ていた。いろいろ訊きたかったもので、昼頃になって長老のところに行き、

「あなた方は太陽を拝んでいるけれども、太陽は神なのか」

と訊いた。そしたら長老が笑って、

「あんなのは神ではない」

と言ったらしいのです。ユングが

「朝、あなた方は太陽を拝んでいたじゃないか。 神様じゃないのに拝んでいたのか」

と言うと、インディアンの人々はユングの質問の意味がわからなくなってくる。

話をしていてだんだんわかってきたことは、要するに朝拝んでいるときだけは太陽は神様なのです。

「太陽は神であるのか、ないのか」という我々の考え方は、悪いところでもあり、いいところでもある。我々は、どうしてもそういう考え方をしてしまうのですね。

 今の話で言えば、西洋の発想では「薔薇は神ですか、神ではありませんか」と訊いて、神だったら拝む、神でなかったら拝まないということになるというふうに、何でも二つに分けて考えようとするのです。

インディアンの話を聞いてユングがわかったことは、こういうふうに書いているのですが、

太陽が昇る瞬間のすべて、つまり、それを見ている私、共にいるみんな、それからおそらく雲など、そのすべてのものがものすごく内的な感動を生みます。

それこそが「神」だと言うのです。

だから、これが神だと指し示せるものではなく、生きているということが神の体験になっているから拝むのです。

それをどうしても近代人は、拝んでいる対象が神だと間違ってしまう。

ここが非常に大事なところです。

今でも日本人には名残が残っています。

山に登ったら大きな木にしめ縄がしてあったり、大きな岩にしめ縄がしてあったりする。

あれは、別に木や岩が神様なのではなく、大きい木や石に対面したときに感じるすべて、これが神なんです。

区別して考えるのは我々の癖であって、昔の人はそういう考え方ではなく、全体的なものを神と感じていたのです。
http://ime.st/www.geocities.co.jp/Milkyway/4017/meigen/kamisyu.html


C・Gユングは、人間の心というものは人それぞれ違うが、深層意識の中には万人共通のファクターがいくつも存在している、とした。

そのファクターのことを元型(アーキタイプ)と呼び、代表的な元型は影(シャドウ)、太母(グレートマザー)、アニマ、アニムス、老賢者(オールドワイズマン)の4つである。

大雑把に言えば、、これらの元型が外界の刺激を受けて互いに反応しあい、人の思考・行動パターンを左右する、というわけだ。


対馬の神は海の中に住んでいる。その姿は子ども、老人、そして蛇体の神として感得された。潜水漁法で生計を立てていた水人(海女、海士)たちの崇める神の名を海童磯良という。

磯良のイメージが老翁や童子の姿になるのは、ユングの深層心理学の立場から見ても老賢者(Old Wise Man)の元型に関連づけてみることができる。

それはわれわれの普遍的、集合的意識の表現されたものであると考えられる。 老賢者は自己性(Self)=超越的自己=神が人格化されてイメージされるもので、われわれに知恵を与え、その人の進むべき道を示唆する指導者的な役割を果たす元型である。
http://ime.st/homepage3.nifty.com/yahoyorodu/kaidoh.htm

http://ime.st/contest.thinkquest.jp/tqj2000/30110/ryu2.html


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イエスと弟子の会話  


過ぎ越しの祭りの三日前、弟子たちが着席し感謝の祈りを捧げていると、
やってきたイエスが声を立てて笑う。

弟子たち「先生、感謝の祈りを捧げる私たちを笑うのですか?
      正しきことを行っていたのですが。」

イエス「あなた方のことを笑ったのではありません。
    あなた方は自らの意思によってではなく、
    あなた方の神をたたえるために、祈りを捧げているのです。」

《注:生かされていることに対する感謝は、この世の低位の神に捧げる祈り。
 グノーシスの叡智はこの世は低位の神が造ったものと考えている。
 イエスは上位の神・世界から使わされた存在》

弟子たち「先生あなたは・・・・私たちの神の子です。」

イエス「どうして、あなた方は私をわかっているというのですか?
    本当のことを言いますが、いかなる世代でも、
    私をわかるという人はいないでしょう。」

弟子たちは怒りを覚えた。

イエス「なぜあなた方は怒りを感じるのですか?
    あなた方の内にいる神・・・完全なる人を取り出して私の眼前に立たせなさい。」

弟子全員「私にはそれだけの勇気があります。」

口ではそういいながらも誰もイエスの前には立とうとしなかった。
そのときユダだけがイエスの前に立った。
しかし彼はイエスの眼をまっすぐに見る勇気は持たなかった。

ユダ「あなたが誰か、何処から来たのか私は知っています。
   あなたは不滅の王国バルベーロー(あらゆるものの神聖なる母である)から来ました。」
  「私にはあなたを遣わした方の名前を口にするだけの価値がありません。」

イエス「来なさい。
    いまだかって何人も眼にしたことのない秘密をお前に教えよう。
    それは果てしなく広がる永遠の地だ。
    そこには天使たちでさえ見たことがなく、あまりにも広大で、
目に見えず、いかなる心の思念によっても理解されず、
いかなる名前でも呼ばれたことのない『み国』がある。」

二人だけになるとイエスはユダにこう告げる。

イエス「お前はそこ(み国)に達することは出来るが、大いに嘆くことになるだろう。」

ユダ「そういったことについてあなたはいつ私に教えてくれるのですか?」

イエスは謎のごとく立ち去ってしまう。

翌朝、戻ってきたイエスは弟子たちの前に再び姿を現す。
そしてユダに向かって言う。

イエス「お前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、
    すべての弟子たちを超える存在になるだろう。」

弟子たち「今この地上の王国には存在しないが、私たちよりすぐれ、神聖なあの世代とは何を意味しているのですか?」

イエスは笑い出すとその秘密の場所と時に到達するのがいかに難しいか、詳しく語った。

イエス「死をまぬかれない生まれのものは、そこへはいけない。」
   「あなた方が見た、生贄の牛は、あの祭壇の前であなた方に道を
誤らせる人々なのです。」

   「恥知らずにも、私の名において実らぬ木々を植える人々がいる。」
   「あらゆるものの主であり、命じることのできる主が、
    最後の日にその人々を裁くであろう。」

ユダ「先生あの世代は一体どのような実りをもたらすのですか?」

イエス「人間の魂はやがて死んでしまうものです。
    だが、み国の時を成就した人々の霊魂は彼らから離れます。
    肉体は死んでも魂は生き続け、天に上げられるでしょう。」

ユダ「その他の世代の人々は何をもたらすのですか?」

イエス「実りを得たければ岩の上に種をまくことはできません。」

時が過ぎ、ユダは自分の見た幻について質問する。

ユダ「先生、(他の弟子たち)皆の話に耳を傾けるなら、私の話も聞いてください。 とても奇妙な幻を見たのです。」

イエスは再び笑う

イエス「13番目の聖霊であるお前が、
どうしてそんなに躍起になるのですか?

    それはそれとして、さあ、話してごらんなさい。
    私はお前の話を信じるでしょう。」


ユダ「あの12人の弟子たちが私に石を投げて(私のことをひどく)
虐げるのです。

  (大きな家)を見ました・・・。
たくさんの人々がそこへ向かって走っていきます。・・。
   家の中央には(大勢の)人がいます。
   先生、私を連れて行ってあの人々の中に加えてください。」

イエス「ユダよ、お前の星はお前を道に迷わせてしまった。
    死をまぬかれない生まれのものは、お前が見たあの家の中へ入るに値しない。

    あそこは聖なる人々のために用意された場所なのだから。」

ユダ「先生やはり私の種(霊的な部分)は支配者たちの手中にあるというのですか?」

イエス「来なさい・・・。だが『み国』とその世代の人々を見れば、
    お前は深く悲しむことになるでしょう。」

ユダ「私がそれを知るとどんな良いことがあるのでしょうか?
   あなたはあの世代のために、私を特別な存在にしたのですから。」

イエス「お前は13番目(の聖霊)となり、後の世代の非難の的となり
    -―そして彼らを支配するだろう。

    最後の日には、聖なる世代へと(旅立つ)

お前を彼らは罵るだろう。」

イエスは自分を引き渡し犠牲となるようユダに求めているのだ。
そのわけは徐々に明らかになっていく。

イエスの地上における人としての生は、うわべだけのものに過ぎない。
その人間は内に存在する霊を、覆い隠す衣装のようなものである。
イエスは永遠なる存在であり、より高次の神の一部である。
人間とは異なる偉大な存在であり不滅なのだ・・・・・・・。

イエス「見なさい、前にも告げたように雲とその中の光、
それを囲む星星を見なさい。

    みなを導くあの星が、お前の星だ。」


こうしてユダは自分の特別な立場を確信する。

そして重大な瞬間がやってくる。
新約聖書の四福音書の記述にも劣らない、強烈で劇的な瞬間だ。

――ユダは眼を上げると明るく輝く雲を見つめ、その中へと入っていった。――
http://mandalaya.com/juda.html

3. 中川隆[-9264] koaQ7Jey 2019年7月05日 05:33:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3415] 報告

聖イッサ伝によって明らかになった真実


イエスの処刑を決めたのはユダヤ人祭司長や長老ではなく、ピラトであった
ユダヤ人もユダヤ教の祭司と長老も最後までイエスの味方だった


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聖イッサ伝


福音書で見る限り、イエス・キリストは12才から29・30才くらいまでの消息が全然分からない。

私たちが知っているイエスの知識は生誕から幼年期の少しとあと12才くらいの説明が少し、それから30才くらいからの3・4年の活動期だけなのである。

E.C.Prophet イエスの失われた十七年 はその失われた空白の間、イエスがインド及び現在のチベットを訪れたというものである。

ここでイッサという名前で知られるイエスは仏教の奥義をマスターしてブッダとなった後、再びパレスチナに戻ったとこの書は主張する。

ブッダはもちろん悟りをひらいたものへの尊称である。

最初から常識とは違う結論を与えられ、それを順々に解明していくという手法を取っている。

一般的にはイエスは父ヨゼフの大工の職をついで、青少年期から布教を開始する30才くらいまでパレスチナないしエジプトあたりにいたのだろうというのが通説だろう。

ただそれを裏付けるものは何も無いが、漠然とそう想像されているようである。

それに真っ向から対立するものだから、奇想天外のように聞こえるが、必ずしもそうではない。

本書にも出てくるルナンがイエス伝を書く19世紀まで、厳密な意味でのイエス伝は書かれなかったのではないのか。

イギリスに行ったとか、あるいはコーランではイエスは十字架の上では死んではいないと書かれていることなど私も以前に聞いていることは多い。

それに福音書を初めとする新約聖書と言われるものが、果たして本当に原始キリスト教ないしキリストの教えを正しく反映しているものなのかどうか。

もともとキリスト教はアジアに発生し、その後景教やユダヤ教の一派としてアジアの各地でも広がりを見せていた。

それが西の方に向かったキリスト教がローマ帝国の国教になり、そしてなりよりヨーロッパが世界史の中で果たした影響もあって、私たちはその解釈を通してのイエス像に親しいんでいる。

だからイエス像が見えにくくなっているのも確かだろう。

ローマカトリックないしはそれに反抗する形で発生したプロテスタントの教えより、ビザンチン帝国内で信じられた正教の方がより原始キリスト教の影響を残しているというのは、今でもかなりのかなりの人が信じている。

さらに一般的に12使徒のうち、トマス、パルトロマイ、マッテアの3人はチベット・インド・中国で福音を説いたらしい。

現在残されている手書きの福音書は、もっとも早くても4世紀にまでしか遡らない。

キリスト教成立よりその時までに、グノーシス派を始めとするさまざまな教えが異端とされ消えて行った。数多くの文書が失われ、そしてその中には現在の福音書と微妙に異なる教えの重要文書があったかもしれない。

現代になって、新約として編纂される以前のそうした原始文書のいくつかが発見された。そしてアジアに向かったキリスト教もなんらかの文書をしたと考えても別に不思議ではない。

もちろんこうした議論が現代においてはたして意味を持つものなのかどうか、少し疑問の点もある。しかし少なくとも真のイエス像がはたして新訳聖書に書かれたとおりだったのかどうかについては多くの謎があることは確かなのだ。

それに私には仏陀とイエスの教えの間には、そんなに相違は無いようにも思える。

1894年、ロシアのジャーナリスト、二コラス・ノートヴィッチが「知られざるイエス・キリスト伝」をかいた。

彼は1887年ラダーク(小チベット)を旅行中、古代仏典の中にキリストがインド及びチベットにきて、修行してブッダ・イッサとなったという言い伝え、及びそれを記録している「聖イッサ伝」の写しを手に入れたとされる。

この本は成功を収めるのだが、当然一部学者たちからの批判反撃も激しかった。

この過程でミュラーやルナンも登場するのだが、一応ノートヴィッチの業績というか、その本の内容は正統の学会からは無視されたままになるらしい。

しかしそのあと、かなり信頼すべき人物たちがその真実性を認める。

本書は第1章でそうした流れを概観し、2章以下ではノートヴィッチ(2章)、スワーミー・アベーダナンダ(3章)、二コラス・レーリッヒ(4章)、エリザベス・カスパリ(5章)など、そうした写本が存在すること、及びアジアの人々の間にイッサの伝説が広く伝わっていることを聞いた人々の証言から成り立っている。

ラダークは中国、インド、パキスタンの国境が接しているところで、私が持っている平凡社の地図でも国境線は確定していないし、1996年版のTIMEのWORLD Atlasを見ても、やはりあいまいでわからない。あまり詳細な地図を持たないから、仕方が無いのだが。

イエスは聖書に書かれていない17年間どこにいたのかという問題は、歴史的な大問題だけになかなかスリリングである。

チベットの寺院には古代の文書が数万巻もあるとか、その中にイエス関係のものも多く含まれているとか、またバチカンの地下室にも古代のイエスにかんする文書は残っているとか、いろいろ書かれているが、そうした意味では一種の謎解きを含んでおり、ミステリーを読んでいるような趣もある。

実際作者は、1章はそうした視点から書いている。

何故チベットなのかという気はするが、この地は古代の教えを多く伝えているのだろうか。

私には河口慧海の名前が思い浮かぶくらいだが、そういえばヒットラーの晩年には何人かのラマ僧が共にいたとか言う話も聞いたような気もする。神秘主義者にはチベットは魅力的な土地らしい。

ただ面白かったのは、聖書の中でも私などが読んでも少し不思議に思う点をうまく説明していることである。


例えば、福音書の記述とは違って、

イエスの処刑を決めたのはユダヤ人祭司長や長老ではなく、ピラトであったこと、

そしておそらくローマ帝国内でキリスト教を普及するためには、ピラトとユダヤ人僧侶たちの実際の果たした役割を交替して記述せざるを得なかっただろうという説明はなかなか説得力がある。

イエスが磔にされる瞬間叫んだ言葉、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」の謎もそうであったが、私もこのへんは少しおかしいと思っていたから、なかなか面白かった。

さらにイッサことイエスはインドでもバラモンやクシャトリアから迫害されていたバイシャやシュードラの味方であったことなども書かれている。

ここでの革命家イエスの描写は、新約で描かれたように既成の権威を恐れず民衆の立場にたって行動したイエスを髣髴とさせるものがある。
http://www.pluto.dti.ne.jp/~ohto/reading/read00/read000202.html


▲△▽▼


イエスが磔刑にかけられる裁判においての記述は、

「ユダヤの長老達が死刑を迫り、ピラトがそれを拒んで最後には潔白を示すために手を洗った」

という聖書に対し、イッサ伝では

「ピラトがイエス様を目の敵にしていたが、長老がそれに反対して、手を洗った」

と180度逆になっています。

ローマ布教に際して、ローマ提督を悪者に出来ない為、ピラトと長老たちの立場を入れ替えたという解説がありますが、

「手を洗って潔白を証明」する行為はユダヤの風習であり、

ピラトが現地の風習にならってそうしたというように聖書にはわざわざ説明を入れて記述されていますが、

ローマ提督であるピラトがそのように媚びたことをするのは、考えてみればおかしなことです
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-651.html

▲△▽▼

イエスは、二十九歳のときイスラエルに帰った。

彼がいない間、異教徒はイスラエルの民に、なお一層恐ろしい苦しみを与え、人々の気力はどん底に沈んでいた。

イエスは町々を巡り、絶望の重みに耐えかねていたイスラエルの民の勇気を、神のことばによって強めた。

数千人の群集が、イエスに従って説教を聞いた。

町々の指導者らは、イエスを恐れはじめた。

そしてエルサレム駐在の統治者に通報した。

イエスと呼ぱれる男が町に来たこと、説教しながら、権威に抗うよう民をそそのかしていること、群集は国の仕事もかえりみず、熱心に彼に聞き従っていること、そして侵人

して来た統治者が、間もなく迫い払われるだろうと彼は断言している、と。


エルサレムの統治者ビラトは、説教者イエスの身柄を抑え、町に迎れて来て裁きにかけよ、と命令した。

しかし民衆の怒りを買わぬよう、祭司や学識あるへブライの長老たちに、イエスを神の宮の中で裁くようにと勧告した。

しかし、イエスの釈明を聞いた祭司と、賢い長老らは、彼を裁かぬことに決めた。

なぜならイエスは、だれも傷つけてはいなかったから。

そして彼らは、ローマの国の異教徒の王によって、エルサレムの統治者として定められていたピラトの前に出て、こう述べた。

「町々の長らは、あなたに間違った報告をしています。

というのは、この男は民に神のことばを教える義人です。

彼を尋問して私たちは安心し、彼を行かせました」


これを聞いて統治者は怒りに駆られ、変装させた家来をイエスの身近に送り込んだ。

イエスの行動すべてを監視させ、彼が民に向けて語ることばを、細大漏らさず報告させるために。

イエスの驚くばかりの人気は、統治者ピラトをおののかせるようになった。

イエスに敵対するものたちによると、民衆の中にはイエスこそ王だと主張するものがあり、イエスが彼らをそそのかしているという。

ピラトは彼のスパイの一人に、イエスを告発せよと命じた。

そこで兵士らが、命じられてイエスの逮捕に向かった。彼は捕らえられ地下牢に囚われた。

牢にはさまざまな拷問が待っていた。彼らは彼を死に定めるため、拷問にかけて自白を得ようとした。

聖者が受けている苦しみと、拷問のことを聞き知った大祭司、賢い長老たちは、統治者のもとへ赴き、近づいている祭りの栄光のためにも、イエスを自由にしてほしいと頼んだ。

だが為政者は、にべもなく拒んだ。

イエスは総督に向き直り、こう言った。

「どうしてあなたは、自分の品位を恥ずかしめるのですか。
どうして家来に、間違った生き方を教えるのですか。
自分の手は汚さずに、無実のものを罪に落とす方を持っているあなたが」


総督はこれを聞いて怒り狂い、イエスに死の宣告と、二人の盗賊の赦免を命じた。

協議を終えた裁判官らは、ピラトに言った。

「私たちは無実の人を有罪にし、盗賊らを釈放するという大きな罪を負うことはできません。 それは法に背きます」。


「だからどうぞ、あなたの思いのままに」。

祭司と賢い長老たちは、こう言い残して法廷を出、聖なる鉢で手を洗って言った。


「この義人の死について、私たちに責任はない」

▲△▽▼

イエスの本当の教え

イエスが言った。

この世は橋である。

渡って行きなさい。

しかしそこに棲家を建ててはならない。


________


イエスが言った。

過ぎ去り行く者となりなさい。

4. 中川隆[-9263] koaQ7Jey 2019年7月05日 05:43:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3416] 報告

ユダ福音書が発見されて明らかになった事は


1. 福音書に書かれたイエスの受難物語はイエスとユダが書いた原稿をそのまま転記したものだった

2. イエス受難劇はイエスとユダが台本を書き、イエスと弟子達とマグダラのマリアが演じた世紀末の大芝居だったのです。


詳細は


新説!キリストを殺したのは誰だ? - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%96%B0%E8%AA%AC%EF%BC%81%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%92%E6%AE%BA%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%AF%E8%AA%B0%E3%81%A0%EF%BC%9F+

5. 中川隆[-12726] koaQ7Jey 2020年5月07日 13:40:12 : IC9sJkmouQ : MEtrMm16cm5xY0k=[15] 報告
2012年09月19日
キリストはマグダラのマリアと結婚していたかもしれない謎のテキストを発見
https://gigazine.net/news/20120919-jesus-married-mary-magdalene/

映画にもなった小説ダ・ヴィンチ・コードではイエス・キリストがマグダラのマリアと結婚していた、という描写が出てきますが、ハーバード大学のKaren Kingさんはイエス・キリストが「私の妻」と発言している文章が書かれたパピルスを発見ました。この文章は同時に「Mary(マリア)」についても言及しており、これはマグダラのマリアを指していると推測され、キリスト教徒たちに衝撃を与えています。

The Inside Story of a Controversial New Text About Jesus | History & Archaeology | Smithsonian Magazine

ムービーは以下から。



パピルスの破片はクレジットカードよりもさらに小さく、両面に黒いインクで文字が書かれていました。Kingさんによれば文書は古代エジプトの言語によるもので、初期のキリスト教文書の多くのものと同様に3世紀から4世紀の間に翻訳されたと考えられています。



パピルスには33語の言葉が不完全な14行の文章によって書かれているので、厳密に読み取るのは難しいとのこと。Kingさんはパピルスから以下の8つの文章を拾い集めました。

(1) “not [to] me. My mother gave to me li[fe] … ”(「私にではない。母は私に命を与えた……」)
(2) The disciples said to Jesus, “(弟子たちはイエスに言った、「)
(3) deny. Mary is worthy of it(そうではない。マリアはそれにふさわしい)
(4) ” Jesus said to them, “My wife(」イエスは彼らに言った、「私の妻は)
(5) she will be able to be my disciple(彼女は私の弟子となることができるだろう)
(6) Let wicked people swell up(邪悪な人々を増えさせています)
(7) As for me, I dwell with her in order to (私の場合、彼女と共に暮らしています)
(8) an image(一つのイメージ)

彼女の分析によると、(3)に書かれている「Mary(マリア)」は「おそらく」マグダラのマリアであり、イエスが弟子からマリアを守っている描写であると推測されています。そして(4)にある「My wife(妻)」と、そして(5)の「she(彼女)」は同じくマグダラのマリアを示しているとのこと。この文書は書物の1ページだった可能性もありますが、いずれにしてもこれは初めてにして唯一の、イエス・キリストが結婚していたことを描写する古代文書です。

Kingさんは2010年に手稿コレクターから「グノーシス派の福音書を手に入れたのですが、その中にイエスと彼の弟子、そしてマグダラのマリアについての文書が含まれていました。写真を送るので見てくれますか?」というメールを受けとったそうです。詳しい情報と写真を受け取った後もで彼女は偽物ではないか、と疑っていたそうですが、パピルス学で高名なニューヨーク大学のRoger Bagnallさんに写真を送ったところ、「信じていい。それは本物である」という返事をもらったとのこと。


By mzeecedric

しかし、Kingさんはこの破片が実際にイエス・キリストが結婚していた、ということの証拠だとは主張していません。彼女の分析によれば福音書はイエス・キリストの生涯(そして来世)を文書化したものであり、多くの福音書はイエスの磔の後、紀元2世紀にギリシャで書かれたと考えられています。そしてその2世紀ほど後に古代エジプト語に訳されたため、イエスの結婚の証拠としては不十分なのです。

この破片が明らかにしたことはもっと微妙で複雑なことです。パピルスからわかるように、初期のキリスト教徒たちは彼らに教えを説いたイエス・キリストを崇高で、知的であり、妻のあるものとして書いていました。しかもそれはただの妻でなはく、新訳聖書の中でもっとも言及された女性、マグダラのマリアの可能性があるのです。Kingさんによれば、この発見が提示する疑問とは「どうしてイエス・キリストが独身であるという文献だけが生き残ったのか?」ということ、そしてイエスがマグダラのマリアや、その他の女性と親密な関係にあったという文書は残っていないのか?ということです。これは単なる偶然なのか、それともキリスト教徒たちにとって独身こそが理想だったからなのか、明らかではありません。


By jaci XIII

なお、パピルスはまだインクを調べるなどの科学的試験を終えておらず、この発見の重要性は「このパピルスは本物である」という仮説の上に成り立っていることはKingさん自身も述べています。彼女は今後、スペクトル分析などの科学的試験を行った後、「The Gospel of Jesus’s Wife(イエスの妻の福音書)」という論文を発表する予定だそうです。

https://gigazine.net/news/20120919-jesus-married-mary-magdalene/

6. 中川隆[-4402] koaQ7Jey 2021年6月25日 08:48:03 : Y9oTEacvoA : QzVXUGt6a1F4bmc=[14] 報告
【ゆっくり解説】記憶の捏造は簡単?脳へ偽の記憶を埋め込む方法


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