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アメリカ人には音楽は理解できない _ 天才ピアニスト ヴァン・クライバーンとは何だったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/438.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 5 月 18 日 13:33:32: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: アメリカの演奏家は何故みんな演奏技術だけ凄くて中身ゼロなのか 投稿者 中川隆 日時 2019 年 5 月 18 日 13:17:45)


アメリカ人には音楽は理解できない _ 天才ピアニスト ヴァン・クライバーンとは何だったのか?


ヴァン・クライバーン 動画
http://www.nicovideo.jp/tag/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3
http://www.youtube.com/results?search_query=Van+Cliburn+&oq=Van+Cliburn+&gs_l=youtube-reduced.3..0.72235.74106.0.74453.2.2.0.0.0.0.133.249.0j2.2.0...0.0...1ac.1.j8mKnwV7CUo
http://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3&oq=%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3&gs_l=youtube-reduced.3..0l2.2092.2092.0.2825.1.1.0.0.0.0.287.287.2-1.1.0...0.0...1ac.8-JJirE_CYk

Kabalevsky Rondo 1958 Competition Finale Van Cliburn Rec 1958.wmv
http://www.youtube.com/watch?v=VF1mZZPtl54

The Van Cliburn Collection
An interview with Van Cliburn as he discusses highlights from his personal collection to be offered 17 May 2012 in New York.
http://www.youtube.com/watch?v=a5WqZqMcNrc

チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番変ロ短調OP.23
ヴァン・クライバーン(Pf) キリル・コンドラシン指揮シンフォニー・オーケストラ1958.5.30、ニューヨーク、カーネギーホール
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14114510
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20214185

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調
キリル・コンドラシン 指揮 モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団
1962年 モスクワ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15623235
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15623471

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番ハ短調 Op.18
ヴァン・クライバーン(Pf) フリッツ・ライナー指揮 シカゴ交響楽団
録音:1962年3月31日、4月2日、シカゴ、オーケストラホール
http://www.nicovideo.jp/watch/sm17994733

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲2番 ハ短調 作品18
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1750709
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1750930
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1751185

Van CLIBURN plays RACHMANINOV 3d Concerto VIDEO Moscow 1958
http://www.youtube.com/watch?v=apNTq-Tgf4w
http://www.youtube.com/watch?v=V6bOffYLYlM
http://www.youtube.com/watch?v=xGDMXQGpHzo
http://www.youtube.com/watch?v=hBuSHK2tAEQ
http://www.youtube.com/watch?v=lV9bmcE7d5Y

プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番ハ長調作品26
ワルター・ヘンドル(指揮) シカゴ交響楽団
1960年10月22,24日 シカゴ・シンフォニー・ホール
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20215627

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番 『皇帝』
キリル・コンドラシン 指揮 モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団
1962年 モスクワ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16256259
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16256585

シューマン:ピアノ協奏曲イ短調 Op.54   
フリッツ・ライナー(指揮)シカゴ交響楽団
1960年4月16日/シカゴ・オーケストラ・ホール
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20215384

Piano Concerto No 1 Op 11 in Em - Chopin (Van Cliburn)
http://www.youtube.com/watch?v=G5lClCK06xg


ショパン(Chopin)「12の練習曲 Op.10 第12番 ハ短調『革命』」
映像は1972年のモスクワ・リサイタルからです。 
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14109183

Van Cliburn plays Chopin Ballade
http://www.youtube.com/watch?v=k9D2aHiFpdk
http://www.youtube.com/watch?v=GaojdMtvVc4

Chopin Nocturne No.17 (Van Cliburn, piano)
http://www.youtube.com/watch?v=3mMjs-wa1O8


スクリャービン(Scriabin)
12の練習曲 Op.8 第12番 嬰ニ短調 『悲愴』
映像は1972年のモスクワ・リサイタルからです。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14109056

ドビュッシー(Debussy)『ベルガマスク組曲 第3番 月の光 変ニ長調』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10566272

Liszt Sonata in B Minor - Van Cliburn 1960
http://www.youtube.com/watch?v=kRNdPgZ0Y-4

Van Cliburn Plays Hungarian Rhapsody No.12
http://www.youtube.com/watch?v=mwMYHgQpKSE

【訃報】ヴァン・クライバーン(アメリカ合州国のピアニスト)

ピアニストのクライバーン氏死去 冷戦下にソ連で優勝、米の英雄に

 【ニューヨーク共同】冷戦下の1958年にソ連で開催された第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝した米国のピアニスト、バン・クライバーン氏が27日、南部テキサス州の自宅で死去した。78歳だった。米メディアが伝えた。最近は骨がんの治療を受けていたという。

 1934年、南部ルイジアナ州生まれ。ニューヨークのジュリアード音楽院で学んだ。チャイコフスキー国際コンクールの優勝で一躍、国民的英雄に。ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)によると、ニューヨーク・マンハッタンで帰国後に行われたパレードには約10万人が詰め掛けた。
2013/02/28 06:08 【共同通信】
http://www.guardian.co.uk/world/2013/feb/27/van-cliburn-pianist-moscow-dies

中村紘子著「チャイコフスキー・コンクール」
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E2%80%95%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%8C%E8%81%B4%E3%81%8F%E7%8F%BE%E4%BB%A3-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%B8%AD%E6%9D%91-%E7%B4%98%E5%AD%90/dp/4122018587


に、一介の「田舎のピアニスト」だった彼が、チャイコフスキーコンクールの第一位になり、文字通りの「アメリカン・ドリーム」を実現するまでと、その後の停滞と挫折までが、アメリカのクラシック事情と共に詳しく述べられている。

ピアニストの中村紘子は近年の来日公演に関して

「その演奏はもはや正面きってどうのこうの、といえるような対象ではありませんでした。」

と論じつつ、

「彼が芸術家として成熟することなく終わってしまったのは、結局アメリカのこの豊かさ、楽しい生活に問題があったのではないか、と考えたものです。」
と述べている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3


リヒテルの「人生表も裏もある。簡単に信じるな」と言わんばかりの屈曲した名演に比べ、将来を楽観し切った疑いを知らぬ若きヤンキーの演奏。

その後、短期金儲け主義の興行主の言うままに毎晩のようにチャイコを弾き、腕の筋肉を潰し、ピアニストとして終わった(中村紘子「チャイコフスキーコンクール」)クライバーンの運命を予言していたかのよう。
http://www.hmv.co.jp/artist_Tchaikovsky-Rachmaninov_000000000025861/item_%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3%EF%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%EF%BC%86%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%8E%E3%83%95%EF%BC%9A%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2%EF%BC%88%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%89%EF%BC%B3%EF%BC%A1%EF%BC%A3%EF%BC%A4%EF%BC%89_1830252/ref/history_3

ヴァン・クライバーンさん死去 2013年2月28日 (木)

さる2月27日、アメリカの名ピアニスト、ヴァン・クライバーンさんが、進行性の骨ガンのためテキサス州の自宅で亡くなられました。78歳でした。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

【プロフィール】
ホロヴィッツが「この若者は、他の人間の2倍の音を持っている」と称え、リヒテルがチャイコフスキー国際コンクールで満点を与えたピアニスト、ヴァン・クライバーン(本名ハーヴィー・レイヴァン・クライバーン・ジュニア)は、1934年7月12日、ルイジアナ州シュリーヴポートの生まれ。

 クライバーンは3歳からリストの直系の弟子でもあった母からピアノを習い始め、翌年には公衆の前で演奏、6歳でテキサス州に移ってからはさらに腕を上げ、12歳のとき、州のコンクールに優勝してヒューストン交響楽団と共演しています。

 この共演で注目を集めることとなったクライバーンは、ジュリアー度音楽院に進んでロジーナ・レヴィーンに師事、在学中にもいくつもの賞を受賞しています。

 そして1958年、23歳のときに第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝して、全米の注目を集めることとなり、コンクール直後に録音されたチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番はわずか2週間で100万枚の売上を記録、ビルボード誌アルバム・チャートで7週連続1位という凄まじい人気となりました。
 この成功により、世界各地で演奏活動をおこなうようになったクライバーンは、1966年には日本も訪れ、以後、たびたび公演をおこなっています。

 また、冷戦時代の一大トピックともなったクライバーンの優勝を記念し、1962年からはその名を冠した「ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクール」が開催されています。

 クライバーンの現役時代の芸風は、優れたテクニックと美しい音に恵まれたもので、端正な解釈をスケール大きく表現する手腕は実に見事なものでした。しかし、コンクール優勝後の異常なまでの多忙さは繊細なクライバーンにはこたえたようで、幾度もの休養を余儀なくされ、やがて1978年には44歳の若さで引退を表明、以後は何度かの例外的公演を除き、事実上の隠遁状態にあったとされています。
(HMV)
http://www.hmv.co.jp/news/article/1302280024/


ヴァン・クライバーン Van Cliburn はアメリカ合州国のピアニスト。1934年、アメリカ合衆国ルイジアナ州生まれで、本名はハーヴィー・ラヴァン・クライバーン・ジュニア Harvey Lavan Cliburn Jr.。

ロジーナ・レヴィーン Rosina Lhévinne に師事した後、1958年、23歳で第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝。冷戦下のソ連のイベントに赴き優勝したことにより、一躍国民的英雄となる。


彼の演奏を生で聴いたことはないし、録音も数回聴いた程度。したがって、彼の演奏をどうこうと振り返る資格も意欲もない。
彼がその名を轟かせることになったのは、上掲記事にもあるように、チャイコフスキー国際コンクールでの優勝によってである。

1958年といえば(私は生まれていないが)、米ソ両超大国による冷戦の真っ最中。すでに5年前にスターリンは死去しており、後を継いだフルシチョフは「雪解け」外交を展開しつつあったが、そんなことで直ちに緊張が緩和されるはずもない。前年にはスプートニク1号の打ち上げ成功もあり、ソ連脅威論が大いに喧伝されていた時である。

実際なにがどうなっていたのか、真実が明らかになることはないし、今となっては不要でもある。結果として、よりによって南部の「テキサス」人が、芸術の本場であるヨーロッパ(ロシアではあるが)のコンクールで、敵国首相を前にコンクールで優勝した、という凄まじい熱狂が残った。凱旋将軍よろしく、ニューヨークをパレード(音楽家としては史上初)したりもしている。

その後、特に大きな話題になることもなく、アメリカ国内でリサイタルを開催する程度だった。
チャコフスキー国際コンクール以前にも出場したコンクールの殆どで優勝し、また20歳にならないうちにニューヨーク・フィルハーモニックとも共演を果たしている。下手ではなかったのは間違いないだろうが、本人の思いとは別に、世界が彼を引き摺り回した面もあっただろう。

報道によれば、愛する家族に囲まれての死だったという。余人がとやかく言うのとは別に、本人としては納得できる人生だったのではなかろうか。
http://blog.livedoor.jp/minhir3151/archives/51253129.html

ヴァン・クライバーンを悼む 2013年02月28日

「米国のピアニスト、ヴァン・クライバーン氏、27日骨ガンのため死去、享年78歳」とのニュース。

私と同世代ながら、30年以上前に引退、隠遁生活に入ってしまったが、私にとっては忘れ得ぬ伝説的と言っていいピアニストである。

クライバーンは、1958年、モスクワで行われたチャイコフスキー・ピアノ国際コンクールで、審査委員に入ったリヒテルがクライバーンには満点をつけ、他の候補には全て零点を付けたという逸話を残して優勝した。当時は、米ソ冷戦時代、米国は熱狂して彼の凱旋を讃えた。一躍、時の寵児となったクライバーンは多忙を極め、練習もままならぬ状態で、いつしか演奏の質も落ちて行った。そして成熟期を迎えぬまま44歳で引退してしまった。

辻井伸行さんが日本人初の優勝を果たしたヴァン・クライバーン・ピアノ国際コンクールは、クライバーンが優勝した4年後にそれを記念してできたのだが、斯様なほどに周りの熱が高くそれに翻弄されてしまったことが、早い引退に繋がったと言えるのではないか。

引退後、公衆の前に殆ど姿を見せなかったというクライバーン、晩年の想いは何処に向けられていたのだろう。
http://blog.goo.ne.jp/nakano_s88/e/f24e71fb1704e04e583321f4d0c6a250

__________

クライバーン 英雄の末路 2011/7/12(火)

 ヴァン・クラーバーン、僕が初めてこの人の名前を知ったのは比較的早い時期だった。たぶん中学生になって間もない頃ではなかったろうか。チャイコフスキーコンクールに優勝した時ではなく、その後の活躍ぶりを示すレコードやラジオ・テレビの音源からである。

彼は、ジュリアード音楽院でロジーナ・レヴィーンに師事している。はて・・・と思ったらやっぱりそうだった。中村紘子の先生だった人だ。最初にこの人の話をしておくことにしよう。
 
 ロジーナ・レヴィーンは、ウクライナのキエフにうまれたピアニストでモスクワ音楽院を卒業した。夫のヨゼフ・レヴィーンと一緒に1919年にアメリカに亡命した。夫の死後、ジュリアード音楽院の教授に請われて、1976年に亡くなるまで32年間もピアノ科で数々の優秀な音楽家を育てた。あのジョン・ウイリムズも弟子だった。

 もっと面白いことがある。このロジーナ・レヴィーンは優秀な演奏家でありながら自分自身の演奏活動を公にすることはなかったのだが、75歳の時にソリストとして再デビューしている。その後、1963年レナード・バーンスタイン指揮、ニューヨーク。フィルハーモニー・オーケストラとショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏した。82歳だった。そのとき使った楽譜は65年前にモスクワ音楽院を金メダルで卒業した時のものだった。

  さて、肝心のクライバーンだが、ウィキペディアによれば以下のようになる。

  ヴァン・クライバーン(Van Cliburn, 1934年7月12日 - )は、アメリカ・ルイジアナ州生まれのピアニスト。本名はハーヴィー・ラヴァン・クライバーン・ジュニア(Harvey Lavan Cliburn Jr.)。

  ロジーナ・レヴィーンに師事した後、1958年、23歳で世界的に権威のある第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝。冷戦下のソ連のイベントに赴き優勝したことにより、一躍国民的英雄となる。
(なお、このコンクールに審査員として参加していたスヴャトスラフ・リヒテルは、クライバーンに満点の25点を、他の者すべてに0点をつけた)

凱旋公演では、コンクール本選で指揮を担当したキリル・コンドラシンを帯同させている(ちなみに、コンドラシンの海外デビューである)。この優勝を祝してヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールが1962年より開催されている。1966年には初来日も果たしていて、日本での人気も高い。

  こんなバカげた話がある。ヴァン・クラーバーンが決勝のラフマニノフの協奏曲第2番を弾き終わると、スタンディン・オベーションがおき、拍手は8分もの間鳴り止まなかったという。そのときの審査委員長は、会場にいる共産党第一書記ニキタ・フルチョフにいかがでしょうとお伺いを立てると、

「やつが、一番なのか」フルチョフは聞き返す。

「そうです」と答えると、一言

「それならば賞をやれ!」

って言ったらしい。それで決まり。
(本当かどうかは分からないがあり得る話です)


  チャイコフスキー・コンクールで優勝したクライバーンは一躍アメリカの英雄になった。紙吹雪の舞う中ニューヨークに凱旋した。

当時のアメリカとソビエトはとんでもない緊張状態にあった。核兵器の数を、宇宙への一歩を、科学の粋を集めて競っていた。「一番じゃなきゃだめなんですか」なんて悠長なことを言っていられる時代ではない。スパイ合戦、目に見えない場所での小衝突は数限り無いが、すべては闇から闇に葬り去られる。折しも、核弾頭搭載ミサイルの基地がキューバに建設されるや一触即発のきな臭い時代だった。

そんな時にルイジアナ生まれの23歳の若者がロシアで主催されたコンクールで優勝したのだ、大騒ぎにならないわけがない。笑ってしまうのは、タイム誌の表紙にクライバーンが載ったことだ。そのタイトルがまたふざけている。

          黄色の帯「テキサス人ロシアを征服」19,May1958,


 初来日の時には日本でもレコードが売れまくっていたようで、僕の記憶にも薄ぼんやりと残っている。コンドラシンは結局その後亡命してアムステルダム・コンセルトヘボウの永久指揮者として迎えられているが、そのコンドラシンとのレコードはポップスアート部門で7週連続第1位だったというからどんなにクライバーンが持てはやされていたかが分かろうというものだ。その後のラフマニノフの2番と3番のコンチェルトもアルバムチャートで10位など破格の記録を打ち立てた。こういうことはクラシック界では、あることではなかった。


  様々な音楽コンクールに優勝すると数々のご褒美がついてくる。いや、きたと書くべきだろう。レーベルとの契約、数回の記念演奏会、マスコミの取材、等々である。これらは今いろいろ見直されている。演奏家を保護する意味合いからだ。

たとえば、このクライバーンという一人の片田舎の若者が、ある日いきなりアメリカを代表する人間になり、日々演奏会やレコーディング、数々のマスコミの取材やらで自分の時間も持てないほどのスケジュールをこなしていく。やがて、目に見えない疲労が蓄積されていく。そして、それは極限状態に向かっていく。

  ・・・そのとある日、何かかが起きると緊張の糸がぷっつりと切れ、燃え尽き症候群を引き起こす。彼の場合父親の死がそれを引き起こした。そして、表舞台からぷっつりと姿を消した。

しばらくして、来日した時の公演に関して中村紘子はこんなことを言っている。
「その演奏は、もはや正面切ってどうのこうの、と言えるような対象ではありませんでした」
と言うのだ。さらに、
「彼が芸術家として成熟すること無く終わってしまったのは、結局アメリカの豊かさと、楽しい生活に問題があったのではないかと考えたものです」
と言っている。(2003NHK)

 中村紘子氏が言うように、コンクールで賞を取るということは容易なことではないが、そうしたことに押しつぶされず、自分の行くべき道をいつでも地道に成熟していく道を探すことは難しい。これは、音楽関係者はもちろん、聴衆やマスコミの問題でもある。

 自分という名もなき人間ですら、名もなく清く美しく生きたいと熱望しながらも惰性や諦めや屈辱の中で、時折挫折しそうになるではないか。況(いわん)や、天才をや!


 ※1958年とはどんな年だったか

前年10月に打ち上げられたスプートニクが大気圏に突入、
アメリカ初の人工衛星、エクスプローラー1号打ち上げ、
ナンシー梅木が日本人初のアカデミー助演女優賞を受賞
巨人・長嶋茂雄選手、4打席4三振デビュー。
日本コカ・コーラ、炭酸飲料「ファンタ」を日本で発売。2008年には発売50周年を迎えた。
富士重工業が「スバル・360」を発売。
シチズン時計が目覚まし付き腕時計「アラーム」を発売。
本田技研工業が「スーパーカブ」を発売。
日清食品が「チキンラーメン」を発売。
早稲田実業の王貞治投手の巨人軍入団決定。
朝日麦酒が日本初の缶入りビールを発売。
鎌田商会が「洋服タンス用 パラゾール」を発売。
三菱鉛筆が「ユニ」を発売。
東京タワー竣工。
巨人・川上哲治選手、引退。
宮内庁、皇太子・明仁親王と正田美智子の婚約を発表、ミッチー・ブームはじまる。
新1万円札発行。- 東京タワー完工式。
http://blogs.yahoo.co.jp/taroimofavor/5008222.html


ヴァン・クライバーン、進行性の癌で自宅療養中。 2012年9月 4日
ヴァン・クライバーンが進行性の骨のガンで、どうやら危ないようだ。78歳。

1958年、記念すべき第1回チャイコフスキー国際コンクールの覇者。クライバーンと言えば、私たちピアノを学んだ人間にとっては、必ず避けては通ることの出来ない、特別な存在だ。

ショスタコーヴィチにメダルを授与される写真や、ニューヨークでの歴史的な凱旋パレードの写真は、もちろん私はその出来事のはるか後年になって見たわけだが、脳裏に深く焼き付いており、今でも容易に、紙吹雪の舞うその写真を思い浮かべる事が出来る。

だがその実演に触れた人は多くないと思う。私も何枚かのCDと、DVDとでしか知らない。大きな存在だったが、巨匠と言われたわけではない。時代の寵児となり、振り回され、疲弊し、コンサートピアニストとしての華々しい活動とも縁遠くなって長い。

パートナーと共にテキサスのフォートワースに長らく住み、同地で開催される、自身の名前を冠したコンクール、それが遠く日本に住む我々との接点のほぼ全てだった。(最近では盲目のピアニスト辻井伸行が、このコンクールでハオチェン・チャンと優勝を分け合った。それによりこのコンクールの存在は一般にも知られるようになった。)

1996年に来日し協奏曲を弾いた時、演奏に対する評価はその頃も高くはなかったが、演奏を聴きに行った桐朋の私の友人が
「感動のあまり涙を堪えきれなかった」
と言ったのを印象深く覚えている。蛇足ながらこの友人は後日、ヴァン・クライバーン・コンクールに参加。クライバーン本人と話をする機会を得たそうだ。

地元の新聞、フォートワース・スター・テレグラム紙には、彼のパブリシストのコメントが掲載されている。

「彼は自宅におり、極めて平静にしている。精神状態もよい。どうか彼をそっとしておいて欲しい」。

また同紙には、近影を含む写真16枚が掲載されているが、衰えたその姿を見て、私はなんとももの哀しい気分になった。


クラシック音楽史上初めて、アルバムのミリオン・セラーを達成した人。トルーマンからオバマまで歴代の大統領全員の前で演奏を行った人。その人の生が、終わりに近づいている(もちろん、"奇跡的に回復"という可能性もあるのかもしれないが)。

一つの時代が終わりを告げようとしている。そしてクライバーンの名前は、ゆるやかに忘れ去られていく事になるのだ。

■ フォートワース・スター・テレグラム紙 2012年8月29日付の記事:
Van Cliburn diagnosed with advanced bone cancer
http://www.star-telegram.com/2012/08/27/4209871/van-cliburn-diagnosed-with-advanced.html

http://www.musashino-culture.or.jp/weblog/2012/09/post-132.html

 

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コメント
1. 中川隆[-10398] koaQ7Jey 2019年5月18日 13:34:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1921] 報告
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番、ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番、他 
クライバーン、コンドラシン&モスクワ・フィル


・チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 作品23
・ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番ニ短調 作品30
・カバレフスキー:ロンド イ短調 作品59

 ヴァン・クライバーン(ピアノ)
 モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団
 キリル・コンドラシン(指揮)

 録音:1958年4月11日、モスクワでの第1回チャイコフスキー国際コンクール本選のライヴ(モノラル)


HMV レビュー

テスタメント・レーベル日本語解説付き日本プレス盤
第1回チャイコフスキー国際コンクール本選ライヴ

冷戦時代のアメリカとロシアを音楽の力だけで結びつけてしまったピアニスト。
底知れぬ芸術の力を思い知らされる究極のライヴ!

第1回チャイコフスキー国際コンクールのファイナルの模様を収録した初登場音源。このコンクールの凱旋リリースとなった、同じくコンドラシンとのチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番のリリースは、ビルボードのポップアルバムチャートで7週連続1位を獲得するという驚異的な記録を打ち立てたことで知られていますが、今回のこの録音は、「凱旋公演」ではなく、まさにコンクールの最終選考演奏を記録した歴史的なものなのです。

 冷戦まっただ中、ソ連が国の威信を誇示するために企画した第1回チャイコフスキー・コンクール。そこに現れたのは、最大のライヴァル国アメリカからやってきたひとりの青年でした。24歳のクライバーンです。

驚くことに、リヒテルやショスタコーヴィチを筆頭にロシア側も完全に納得するかたちで、記念すべきこの第1回の優勝はクライバーンが勝ち取ることとなるのです。この一大事件は、ソ連とアメリカの国交にまで影響を与えたといわれ、武器ではなく音楽が、世界平和に貢献するという事実を全世界に知らしめることとなりました。

この歴史的快挙により、前述したように彼のアルバムはビルボード・ポップチャートをも席捲し、音楽家としての成功を超え、クライバーンは時代のヒーローとまでなったのです。


 そうした熱狂が、逆にクライバーンの演奏史には負の影響を与え、その後のキャリアは悲運ともいえるものとなりますが、だからといって彼の芸術性と超絶技巧を否定することはできません。この歴史的大快挙といえるコンクール本戦の録音には、敵対国民すら魅了した、音楽芸術の持つ絶大な力を聴いてとれます。(ユニバーサルIMS)
http://www.hmv.co.jp/artist_%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%EF%BC%881840-1893%EF%BC%89_000000000018904/item_%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%EF%BC%9A%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC%EF%BC%91%E7%95%AA%E3%80%81%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%8E%E3%83%95%EF%BC%9A%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC%EF%BC%93%E7%95%AA%E3%80%81%E4%BB%96%E3%80%80%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%80%81%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%B3%EF%BC%86%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%EF%BC%88%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E4%BB%98%EF%BC%89_2787435

ヴァン・クライバーンのチャイコフスキーコンクール・ファイナル 2009年1月10日

1958年4月11日、20世紀のクラシック音楽演奏史上有数の事件がモスクワで起こりました。この年に始まった、冷戦時代真っ只中のソ連の首都で、国の威信を懸けてロシアの若き演奏家の素晴らしさを知らしめようと開催したこの大会で、テキサスから乗り込んできてファイナルに残った23歳のピアニストが、いわば超完全アウェイの状況で、リヒテルをはじめとするいかにもクセの強そうな審査員にひねくれた絶賛を投げさせ、そして何よりホールを埋めた聴衆をわずか数十分のうちに熱狂のただ中に巻き込んだのでした。そして彼のこの演奏は一つの社会現象と言える状況を生みだし、政治的な意味でも時代の寵児というべき存在へと彼自身も祭り上げられてしまうことになったわけです。

ヴァン・クライバーン、アメリカ人のクラシックファンで彼の名を知らない人はいないと言ってもいいほどですが、それ以外の人にとっては、ピアノコンクールの名前になっている人、ということで終わってしまっているかも知れません。彼のスターとしての時代ははなはだ短く、それでも地元を中心に音楽活動を続けてはいるのですが、かつてミリオンセラーを生んだほどの熱狂というのはもはや戻ってくることはないのであります。

このディスクは、その4月11日のファイナルの演奏を収録したものであるようで、チャイコフスキー、ラフマニノフ、それにコンクールの課題曲であったカバレフスキーのロンドをアンコールとして演奏しています。

オケはコンドラシンが指揮するモスクワフィルなのですが、チャイコフスキーの有名な冒頭の、何とも「お仕事」って感じの、実に無粋でおざなりな音で始まりながら、その後クライバーンのゆったりとしかし弛みのない素晴らしいテクニック、そして絶妙にコントロールされた深みのあるロマンティシズムに、オケの音が次第に変わっていくのがわかります。恐らくホール自体の空気もどんどんと熱が上がっていたのでしょう。

チャイコフスキーの2楽章のPrestissimoあたりではオケのノリが随分と変わってきて、曲の終わりは、生で聞くか、あるいは現在の音響で聞けばさぞかし壮麗な音になっていただろうと思わせる音楽になっています(モスクワ音楽院のホールの音はあまり豊かと言えるものではない。また録音が1958年のソ連録音的水準であるからある程度はイメージで補わざるを得ないのは事実だ)。

これがラフマニノフに入るとまさにオケが興奮しながら演奏している、という感じになり、最後のコーダになるともう「このまま曲終わらんといてくれ〜」とでも言うように熱く歌います。そこに流れるクライバーンのピアノが、がっちりとした美しさを湛えつつそれでもどこかクールな部分も残しています。

若々しくカリスマ性を備えたこの演奏、ラフマニノフのあとの凄まじいほどの喚声に、一人のスターが誕生したことを確認できるのです。この後、米国に帰った彼は圧倒的な歓呼の声に迎えられ、RCAの同曲録音、と続いていきます。

音質云々よりも、50年前の歴史的記録として、是非聴いておきたい録音です。
http://bbrsun.blog.eonet.jp/bbr/2009/01/post-74b3.html


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クライバーン/チャイコフスキー&ラフマニノフ:ピアノ協奏曲(ハイブリッドSACD)


HMV レビュー

・チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
 ヴァン・クライバーン(p)  キリル・コンドラシン(指揮) RCA交響楽団
 1958年 カーネギー・ホールでの録音【3トラック録音】

・ラフマニノフ/ピアノ協奏曲 第2番
 ヴァン・クライバーン(p) フリッツ・ライナー(指揮) シカゴ交響楽団
 1962年 シカゴ・オーケストラ・ホールでの録音【3トラック録音】

ゆりぞう | 兵庫県 | 不明 | 2011年02月16日

本音源に愛着があり、良い音質のCDを入手したい人や、アナログから乗り換えを考えている人は、本盤ではなく、XRCD−SHM仕様をすすめます(どうしてもマルチに拘る人や併録のラフマニノフもほしい人は別にして)。XRCDに比べると本盤はまるでサロンミュージックのように軽く聴こえますので。


やっちゃん | 坂出市 | 2008年01月14日
”昔聴き潰した青春の思い出がこもる盤。
チャイコも力演だが、ラフマニノフの明るく甘い音を思い出した。リヒテルの「人生表も裏もある。簡単に信じるな」と言わんばかりの屈曲した名演に比べ、将来を楽観し切った疑いを知らぬ若きヤンキーの演奏。

その後、短期金儲け主義の興行主の言うままに毎晩のようにチャイコを弾き、腕の筋肉を潰し、ピアニストとして終わった(中村紘子「チャイコフスキーコンクール」)クライバーンの運命を予言していたかのよう。”
http://www.hmv.co.jp/artist_Tchaikovsky-Rachmaninov_000000000025861/item_%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3%EF%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%EF%BC%86%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%8E%E3%83%95%EF%BC%9A%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2%EF%BC%88%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%89%EF%BC%B3%EF%BC%A1%EF%BC%A3%EF%BC%A4%EF%BC%89_1830252

クライバーン / チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番(XRCD)

RCA秘蔵のオリジナルマスターで鮮烈に復活!

・チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 op.23
 1 Allegro non troppo e molto maestoso [20:48]
 2 Andantino Simplice [07:04]
 3 Allegro con fuoco [06:54]
 ヴァン・クライバーン(ピアノ)
 キリル・コンドラシン(指揮)交響楽団
 録音:1958年 ニューヨーク、カーネギー・ホール(ステレオ)

ゆりぞう | 兵庫県 | 2011年02月16日

スバラシイの一言。これを聴くと、同じ音源のSACDがいかにも作り物っぽく感じられるてしまう。SACDではクライバーンのピアノが浮ついたサロン・ピアニストのようである。

本盤は音が深い。オケともども実在感がある。本音源の好きな人は本盤が廃盤になる前にぜひとも購入されることを強くおすすめする(SACDはラフマニノフも付いていてお得などといったことはまったくポイントにならない。私はそれで先にSACDを購入したが、何となく気になって、少々勿体ない気もしたがこちらも購入した。けちくさいことを考えずに本当によかった)。・・・過去の音源のXRCD化はもう終りなのでしょうか?
http://www.hmv.co.jp/artist_%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%EF%BC%881840-1893%EF%BC%89_000000000018904/item_%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC1%E7%95%AA%E3%80%80%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3%EF%BC%88p%EF%BC%89%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%B3%EF%BC%86%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%A5%BD%E5%9B%A3-XRCD_1969840/ref/58204_1

ヴァン・クライバーンのチャイコフスキーとラフマニノフの協奏曲 2005.5.4

◎チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番
 ラフマニノフ   ピアノ協奏曲第2番

   ヴァン・クライバーン(ピアノ),
   コンドラシン指揮,RCA交響楽団(チャイコフスキー),
   ライナー指揮,シカゴ響(ラフマニノフ)

   米RCA 828766 61392 2 (SACD Hybrid)

 クライバーンといえば,1958年の第1回チャイコフスキーコンクールにおいて,地元ソ連勢やその他の強豪を抑えて見事に優勝を果たし,アメリカへの凱旋帰国の際はアイゼンハワー大統領が空港まで出迎え,ホワイトハウスで祝賀パーティ,コンクールファイナルで指揮をしたコンドラシンを迎えてのカーネギーホールでのコンサート,さらには紙吹雪が舞う中での5番街のパレードと,まさに一夜にしてヒーローとなったのでした。

 このCDに収録されているチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番は,帰国直後にカーネギーホールでコンドラシンの指揮により収録されたもので,発売後2週間でミリオンセラーとなったものです。以後,クライバーンはRCAに盛んにレコーディングを行うようになり,ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番はシカゴのオーケストラホールで録音されたものです。

 これらの録音はいずれもLP時代からの周知の名演とはいえ,SACD化によってどんな音で聴けるか大変楽しみだったのですが,実際に聴いてみると,いっそう緻密でスケール感があって自然な音であり,何よりもピアノの響きに実在感があって,演奏の姿をより明瞭に聴き取ることができるようになったと思います。

 そして何よりもこのハイブリッド盤を聴いて印象深いことは,CDとSACDとではその演奏の印象がかなり異なることで,CDで聴くクライバーンの演奏は,音に輝きがあって,華麗でドラマチックな演奏を繰り広げた文句なしの名演と感じられるのに対し,SACDで聴くとクライバーンの演奏の姿がより露わになっているように思えます。

 この印象の違いは,チャイコフスキーの協奏曲においていっそう顕著で,クライバーンは優れたテクニックでピアノを十二分に鳴り響かせ,十全なスケール感と率直でストレートな表現の一方で,細やかな表現にも欠けることもなく,さすがに名演として名高いだけのものを聴かせています。

 しかしながら,この録音を聴いていて気になって仕方がないのは,テクニックには全く問題がないにもかかわらず,1つ1つのタッチに力が入りすぎていて柔軟性に乏しく,余裕のない,切羽詰まったような演奏になっていることで,これはコンクール優勝後の目の回るような忙しさの中で,心身のリフレッシュを行う余裕もなく,それでも自らの最善を尽くしての無我夢中の演奏であったのでしょうか。

 また,この演奏でのコンドラシン指揮のRCA響は,実に快活で積極果敢な演奏を行っており,その表現はあっけらかんとしすぎている感すらあるのですが,一方でクライバーンのソロを力強く支え,鼓舞している面もあるように思えます。

 その意味では,これはコンクール優勝後の華々しい凱旋録音というよりも,この録音当時のクライバーンの,とまどいとプレッシャーの中で必死に演奏する姿が記録されたドキュメンタリーというべきなのかもしれないなと,聴きながら思ってしまいました。

 一方のラフマニノフの方は,クライバーンの演奏の持ち味,特色が無理なく表れているように思え,音には磨き上げられたクリヤーさはないにしても,リリカルで余韻が美しく,雑念を持たずに自ら作品と対話し感じたままに演奏しており,そのナイーブで率直な歌い口は聴いていて胸打たれる思いがします。

 この演奏を聴いていると,クライバーンは堂々たるテクニックで印形付けるというのではなく,自らの感性を大切にした率直な演奏を心がけているように思えますし,ここではライナー指揮のシカゴ響が,いつものシャープな演奏から一変して,大変デリケートにソロを支えているのがことさら印象的です。

 こうして収録された2つの録音を聴いてみましたが,なんといってもチャイコフスキーでの異様ともいえる演奏の姿が露わになっていることに驚嘆してしまいました。この録音はクライバーンの代表的名演の1つとされているというのに,SACDになってその演奏の姿が初めて明らかになったということなのでしょうか。あるいは私が単なる勘違いをしているに過ぎないのでしょうか。

 一方のラフマニノフは,クライバーンの優れたテクニックとナイーブな感性とによってこの作品の大変に優れた名演を聴かせてくれており,SACDではそれが惚れ惚れとするような美しさで聴くことができました。

 この録音はいずれも定盤中の定盤ですし,私もSACDになってよりよい音質で楽しもうと思ったに過ぎないのですが,いざ聴いてみると,全く予想外の感想を抱くことになってしまいました。その意味では定評ある名演を堪能するというのとは異なってしまいましたが,いずれにせよ実に印象深い演奏が聴けることは疑いなく,良好な音質ともども,一聴の価値があると思います。
http://homepage1.nifty.com/classicalcd/cdreviews/2005-1/2005050401.htm

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ヴァン・クライバーン・リサイタル1959(2CD)(日本語解説付)

【収録情報】
・英国国歌
・モーツァルト:ピアノ・ソナタ第10番ハ長調K.330
・ショパン:スケルツォ第3番嬰ハ短調作品39
・ショパン:バラード第3番変イ長調作品47
・ショパン:幻想曲ヘ短調作品49
・ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調作品57『熱情』
・プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第6番イ長調作品82
・リスト:ハンガリー狂詩曲第12番嬰ハ短調♪世界初発売
 ヴァン・クライバーン(ピアノ)


HMV レビュー
ずばぬけた技巧と豊かな音楽性が共存!
クライバーン・リサイタル1959

自らの名を冠したコンクールの若き受賞者によって今ふたたび脚光を浴びる事となったクライバーン。類まれなるピアニズムが結晶となった彼の絶頂期の素晴らしいコンサートライヴがここに登場しました。究極のテクニックをもちながら、技術に翻弄されること無く常にその根底には豊かな音楽性が根づいていたクライバーンの真価が刻まれた録音です。世界初発売。日本語解説付き。
(ユニバーサルIMS)


【解説書より抜粋】
夏の暑い午後、筆者はハリウッドスターの一団が混じる満員の聴衆の中でたぐいまれな個性と能力から紡ぎ出される、話術に長けた演奏を目の当たりにした。思い出をたどり、サウスバンク史上最も卓越したリサイタルの1つに数えられる演奏を今一度聴くとき、ある言葉が鮮明に心に浮かび上がる。その言葉は「雄弁(eloquence)」。

かつてないほどにその技巧に見合う音楽的な意思や響きを持たないピアニストであふれている、それが音楽界の現実だ。クライバーンのテクニックは、その圧倒的な幅、色彩、響きにおいて単なる技巧をはるかに超越しており、ずばぬけた技巧を持ちながらその演奏は常に豊かな精神に満たされ、素晴らしい音楽を称え、分かち合うことだけに捧げられた。リサイタルを通して、クライバーンは自身だけが持つ響きと意思を持って「語り」続けた。・・・・中略・・・・

このリサイタルがクライバーンの若き栄光の頂点であった。世界中の過大なまでの注目と賞賛を浴び、特にロシアと母国アメリカの熱狂はすさまじかった。しかし間もなくクライバーンは容赦なく注がれるスポットライトに疲れてしまう。華やかさは次第に薄れ、絶え間なく忙しすぎる仕事に追われ、クライバーンは自信を失い、隠遁と心の平安を強く求めるようになる。・・中略・・・

こうした試練と生来の傷つきやすいナイーブさが災いし、何度も休養期間を取り、過去の栄光の名残にすぎない演奏を残し、そして最終的には全くの沈黙に至ったのだろうか?

クライバーンはその後二度とロンドンでリサイタルを行わなかった。ここで抗し得ず言えば、もしクライバーンのキャリアがこれほど無責任に悪意を持って翻弄されなければ、彼はそのレパートリーを広げ、若き日の頂点にとどまったまま演奏活動を続け得たであろう。しかし、それはそれとして1959年のリサイタルに立ち返れば、その演奏は長く記憶され愛でられるべき伝説的な域に達していることがわかる。短い活動期間ではあったが、クライバーンは同世代の中で最も天賦の才に恵まれた不世出のピアニストといえるだろう。
http://www.hmv.co.jp/artist_%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%88_000000000230513/item_%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AB%EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%95%EF%BC%99%EF%BC%88%EF%BC%92%EF%BC%A3%EF%BC%A4%EF%BC%89%EF%BC%88%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E4%BB%98%EF%BC%89_3646436

ヴァン・クライバーンのロンドン・ライヴ 2010.1.31


◎英国国歌
 モーツァルト ピアノ・ソナタ第10番 K330
 ショパン   スケルツォ第3番
        バラード第3番
        幻想曲
ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第23番「熱情」
プロコフィエフ ピアノ・ソナタ第6番
リスト     ハンガリー狂詩曲第12番

   ヴァン・クライバーン(ピアノ)

   英TESTAMENT JSBT2 8445 (2CD)


 英TESTAMENTの新譜で,ヴァン・クライバーンが第1回チャイコフスキー・コンクールで優勝した翌年にロイヤル・フェスティバルホールで行った,最初で最後のロンドン公演のライヴ録音が発売になりました。

 これは,チャイコフスキー・コンクールの優勝後,無我夢中で演奏活動を行っていた時期のライヴ録音ですが,それがどのような演奏であったのか,興味が持たれるところです。

 さっそく聴いてみると,拍手の後に,おもむろに英国国歌が弾き始められ,事に気付いた聴衆が急いで起立するゴソゴソといった音が聴かれます。当時の演奏会での慣習はよく知らないのですが,解説書には

「これは英国民に対する極めてテキサス的な過剰なまでの(現代の外交用語で言えば「その特別な関係」に対する)讃辞だった。」

と書かれています。

 最初のプログラムのモーツァルトのソナタは,端正で粒立ちの良い演奏であり,その繊細で瑞々しい表現には,聴いていて心洗われる思いがする一方で,当時24歳のピアニストの演奏にしては未成熟な演奏ではないかと思われ,このあたりをどう感じるかによって演奏に対する評価が変わってくるのではないかと思われます。

 続いてショパンの作品が3曲演奏されているのですが,いずれもテクニックの面では余裕があり,明快かつ細やかで,ソノリティも美しいですし,フレッシュな魅力に溢れた演奏を聴くことができるのですが,明快さの反面で,クライバーン自身が演奏に込めた主張,あるいは詩情や情感といった面が希薄であることが気にならないでもありませんでした。

 次のベートーヴェンの熱情ソナタは,切れの良いタッチと,高い集中度によって,シリアスで正攻法な表現をつくり出しており,その若々しく果敢な演奏の姿には,聴くものを惹き付ける真摯さを感じますし,この作品の克明かつ誠実な演奏ではないかと思うのですが,この作品の演奏としてはやや線が細く,力感やエモーションはいまひとつではないかと感じてしまいました。

 プロコフィエフのソナタでは,克明でダイナミックな演奏となっており,高域の華やかさの加わったブリリアントな響きを聴かせ,メカニカルな印象のあるこの作品からフレッシュな表現を引き出しているところは大変に見事ですし,聴いて満足度の高い演奏ではないかと思いました。あえて難をいうとするなら,ガツンとしたエネルギー感や,求心的なシリアスさがあれば更に良かったということでしょうか。

 最後にアンコールのリストのハンガリー狂詩曲第12番が収録されていますが,これが実に目覚ましい演奏で,鮮やかなテクニックに加え,自信と活力が漲っており,まさに聴くものを圧倒する演奏で締め括っていました。

 こうして聴いてみると,当時のクライバーンの演奏の姿を如実に感じ取ることができ,鮮やかなテクニックと,フレッシュではち切れんばかりの若々しい魅力のほとばしる演奏によって,聴衆を熱狂させていたいたことが窺い知れます。

 しかしながら,私自身,この演奏を聴いて楽しめたか,あるいは感動できたかというと実はそうではなく,優れたテクニックと真摯な演奏姿勢は認めるものの,表現内容に乏しい未熟な演奏ではないかと思えてなりませんでしたし,さらには,クライバーン自身の必死の葛藤が感じられたのでした。

 しかも,その未熟さというのが「鈍感な未熟さ」であればまだよかったのですが,実際には「傷つきやすいナイーヴな未熟さ」であり,時間をかけて自己の演奏表現を深めていく余裕もなく,ある意味,見せ物的なテクニックを頼りに演奏活動に明け暮れていては,早晩行き詰まることとなるのは必定で,そのことに対する周囲の配慮も足りなかったのか,その懸念は現実のものとなってしまいました。

 もちろんこれは,半世紀後の私の耳で聴いてそう感じられたということであり,後知恵的な見方に過ぎないのですが,いずれにせよ,結果としてクライバーンはその演奏を過大評価され,賞賛され続けることによって,前途が閉ざされてしまうこととなったように思えてなりません。

 このCDは,秀逸な音質と相まって,当日の演奏会の姿を生々しく体験することができたのですが,当時のクライバーンの演奏に関して,すでに内面の危機が露わになっているなどという批評には,寡聞にして目にしたことがありません。私はかつてクライバーンの代表的な録音であるチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番のSACDを聴いたときにも同様の感想を抱いていたのですが,実は単なる思い込み,勘違いかもしれません。

 いずれにしても,これはクライバーンが最も充実した演奏活動を行っていた時期の,魅力的で鮮やかな演奏を堪能できるものであり,後は各々がこれを聴いてどのような印象を抱くかだろうと思いますし,その意味でもぜひとも一聴をお薦めしたい1枚ではないかと思います。
http://homepage1.nifty.com/classicalcd/cdreviews/2010-1/2010013101.htm

2. 中川隆[-10397] koaQ7Jey 2019年5月18日 13:35:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1922] 報告

終ってみれば唯の三流ピアニストだったヴァン・クライバーンの一時の成功の背景は?

ロシア人になることを夢見たピアニストのヴァン・クライバーン氏死去

米国の有名なピアニストで社会活動家だったヴァン・クライバーン氏(78)が2月27日、苦しい闘病の末、死去した。

生前のクライバーン氏と個人的に付き合いのあった音楽評論家でプロデューサーのヨセフ・ホロヴィツ氏は氏の死去の知らせをうけてVORからのインタビューに次のように語った。

「彼はロシア人になることを夢見ていたひとりだった。1958年にもこの夢をかなえ、冷戦最中にモスクワに来ると、チャイコフスキー記念コンクールで優勝を果たした。
ニューヨークでロシア人教師のロージナ・レーヴィナ女史に師事していたクライバーンはチャイコフスキー、ラフマニノフを独自の解釈で演奏し、万人の度肝を抜いた。あの時代の一流の演奏家はスヴャトスラフ・リヒテルをも含め、クライバーン氏の演奏には何か超自然的なものがあると認めていた。」

ロシア人にとってはクライバーン氏の死去は伝説との別れを示す。ヴァン・クライバーン、あるいはファンがつけた「ヴァーニャ」というロシア的な愛称はこの先も永遠に残ることだろう。この「ヴァーニャ」という愛称は58年、第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝をさらった際に彼に与えられた。クライバーン氏の勝利は単なる優勝をはるかに超える意味があった。米国人をソ連のコンクールで最優秀者として認めるということは、誇張なしに政治的意味をもち、冷戦の最中にあって米ソの氷が溶け出したことに等しかった。

クライバーン氏の最後となった訪露は2011年。この際、クライバーン氏には、長年に当たってチャイコフスキー・コンクールの組織委員会に「ヴァーニャ」の演奏に感銘を受けたファンから届いた膨大な量の手紙が手渡された。クライバーン氏は感激し、心底「生涯最後の日まで私はロシアを愛し続けるでしょう」と語ったという。
http://japanese.ruvr.ru/2013_02_28/106459161/

ヴァン・クライバーンは、ジュリアード音楽院でロジーナ・レヴィーンに師事している。
 
 ロジーナ・レヴィーンは、ウクライナのキエフにうまれたピアニストでモスクワ音楽院を卒業した。夫のヨゼフ・レヴィーンと一緒に1919年にアメリカに亡命した。夫の死後、ジュリアード音楽院の教授に請われて、1976年に亡くなるまで32年間もピアノ科で数々の優秀な音楽家を育てた。

このロジーナ・レヴィーンは優秀な演奏家でありながら自分自身の演奏活動を公にすることはなかったのだが、75歳の時にソリストとして再デビューしている。その後、1963年レナード・バーンスタイン指揮、ニューヨーク。フィルハーモニー・オーケストラとショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏した。82歳だった。そのとき使った楽譜は65年前にモスクワ音楽院を金メダルで卒業した時のものだった。

  ヴァン・クライバーン(Van Cliburn, 1934年7月12日 - )はロジーナ・レヴィーンに師事した後、1958年、23歳で世界的に権威のある第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝。冷戦下のソ連のイベントに赴き優勝したことにより、一躍国民的英雄となる。
http://blogs.yahoo.co.jp/taroimofavor/5008222.html


要するに、チャイコフスキー国際コンクールでの演奏はすべてロジーナ・レヴィーンの指示にそっくりそのまま従っただけのものだったのですね。

ヴァン・クライバーンは唯の才能の有る良い子で、ロジーナ・レヴィーン先生の言う事を何も疑わずに100%そっくりそのまま守る優等生だったのでしょう。

しかし、国民的英雄となった『天才ピアニスト』ヴァン・クライバーンに楽譜の読み方や音楽の意味を手取り足取り教えてくれる人はもう誰もいなくなってしまったのです。

自分の頭では何も考えられない若きヤンキーは今度は興行主の言うままに毎晩のようにチャイコを弾き、腕の筋肉を潰し、ピアニストとして終わってしまったのです。

まあ、20才の天才作曲家は沢山居ますが、20才の天才ピアニストは一人も存在しないんですね。 20才の『天才ピアニスト』の背後にはパペットを操る … が隠れていると思った方がいいです。

3. 中川隆[-10396] koaQ7Jey 2019年5月18日 13:37:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1923] 報告

2010/6/7 22:19:02
クライバーンって、永遠の青年なのよね。(とうの昔に60歳すぎてますが。笑)


デビューから10年弱、本当に魅力的だったと思います。モスクワで熱狂的に受け入れられたのは、たぶんラフマニノフの再来みたいなピアニストだったからでしょう。大きな手、繊細な表現、バランスのとれた構成感など、現代のピアニストが必要とされる要素を過不足なく持っていました。
・・・が、アメリカン・ドリームの実現者としてコキ使われる日々が続き、才能をすり減らしてしまいます。60年代後半には早くも録音からは輝きが消えうせ、機械的に音を並べているような印象が出てきます。

ちなみに、クライバーン・コンクールの優勝者は、クライバーンと同じ運命が待っている、というジンクスがあります。怖いです。

現在の演奏活動ですが、実は日本でときどきリサイタルを行っています!

ジュリアードのレヴィン門下でいっしょだった中村紘子さんがプライベートでも親しい関係だそうで、彼女の著書やインタビューでいろいろ出てきます。


「あんなに素晴らしいピアニストはいなかった」

「でも繊細すぎる彼には耐えられない仕事」

「今でも気遣いや立ち居振る舞いは超一流。でもアメリカ国民が望むであろうクライバーンを演じているようにしか見えず、痛々しい。」・・・
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1441918389

2012年11月30日
中村紘子『チャイコフスキー・コンクール ピアニストが聴く現代』新潮文庫、2012年。

 この本について語るときに聴いていたいのは、ヴァン・クライバーンの演奏によるチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番変ロ短調だ。変ロ短調だのなんだのと書くとまるで得体の知れない呪文のように見えるかもしれないが、じつはだれでも聴いたことのある、とりわけその第一楽章の序奏が有名な曲である。

 ヴァン・クライバーンというアメリカ人ピアニストは、この曲を超有名曲にした立役者とでもいうべき人物で、彼は1958年にモスクワで初めて開催された国際音楽コンクール、第一回チャイコフスキー・コンクールの優勝者なのだ。

わたしがいま聴いているのは、彼がアメリカに凱旋帰国した際の優勝記念演奏会、カーネギー・ホールでのライヴ盤である。当時のソ連が国家の威信をかけて開催したコンクールで優勝をかっさらったこのアメリカ人青年は、冷戦下という時代背景もあって一挙に国民的スーパースターと化し、このライヴ盤のCDは発売後わずか二週間足らずで100万枚も売れたそうだ。

 クライバーン以来、国際コンクールというものはスーパースターを生みだす装置として一般的関心を集めるようになったという。だが、そんなふうにして生まれたスーパースターたちの運命は、今も昔もほとんど変わらない。クライバーンの辿った道筋はスーパースターの典型とでもいうべきもので、じつに象徴的だ。


「彼の栄光が輝かしいものになっていけばいくほど、クライバーンの演奏そのものは不調に陥っていった。

アメリカという社会は、スターに決して休息の間を与えない。一日休めばその間にライヴァルが現れてチャンスを奪いとることを、みな知っているからである。それゆえスターは、まるでくるくる廻るコマのように、休むことなく人々の前に登場し続けることになる。

クラシック音楽のスーパースター、クライバーンとてもこの例外ではなかった。いつ何処に行っても大衆は、クライバーンにチャイコフスキーのピアノ協奏曲を要求した。彼には新しいレパートリーを勉強する時間もなかったし、また、そんなものに関心をもってくれる人は、ごく少数であった。

批評家たちは彼を「どれもこれも速く弾きすぎる」とこきおろし、同業者のピアニストたちは「ヴァンはこの頃どれもこれもゆっくり弾きすぎる」とあざ笑うようになった。彼は青ざめ、不安に満ちた眼差しで、おどおどと人を見つめるようになった」(27ページ)


 そんなことを踏まえてみると、この1958年のライヴ盤もずいぶんちがった響きを帯びてくるものである。

 中村紘子による本書は、彼女が審査員を務めた第八回(1986年)の大会の模様を中心に、コンクールというものが本質的に抱える問題点や現代ピアニズムの方向性などを記したノンフィクションだ。新潮文庫に入ったのは今年のことだが、1991年にはすでに中公文庫に入っており、そもそもの親本は大会のわずか二年後、1988年に刊行されたものである。

「今から十五年前、ニューヨーク・タイムズ紙上で四半世紀にわたって卓抜な音楽評論の筆を揮ってきたハロルド・ショーンバーグが初めて来日し、私を案内人にして、東京の演奏会のハシゴをしたことがあった。さまざまな演奏を聴きながら、彼は膝の上に拡げたプログラムに盛んにメモしていたが、時々ニヤッとして私にそのメモを示すことがあった。ミッキー・マウスがうまく描けたときであった。

 コンクールの一ヵ月間、私も審査用紙によく愛猫タンクの絵を描いた。隣の審査員がのぞきこんで尻尾にリボンをつけ足し、うしろからのびた鉛筆が眼鏡を描き込んだりした。

 しかし、審査用紙に書いたのはもちろん猫だけではなかった。以下、私が記すのは、いわばその審査用紙に書き込んだメモ、そしてそれに連なるもの想いである」(4ページ)

 世界に音楽コンクールは数あれど、ことピアノに関して言えば、なかでも圧倒的権威を持つといわれるのはショパン・コンクール、エリザベス・コンクール、そしてこのチャイコフスキー・コンクールの三つである。

ワンランク下のコンクールとなるとその数は膨れあがり、さらにまた下位となると収拾がつかないほどの数となる。しかし、コンクールという場で実施されていることはどこの場合でもきわめて似通っていて、その特徴は1890年に行われた史上初の国際的大コンクール、第一回アントン・ルビンシュタイン・コンクールにてすでに表れていたそうだ。


「最初の国際的大コンクールである第一回アントン・ルビンシュタイン・コンクールの優勝者は、かのイタリアのフェルッチョ・ブゾーニであった。

そして第二回は五年後の1895年に行われ、モスクワ音楽院の学生で二十歳のジョセフ・レヴィンが一位の栄冠を得た。

先に登場したヴァン・クライバーンの育ての親であり、私のジュリアード音楽院における恩師でもあったロジーナ・レヴィン夫人の未来の結婚相手である。

 このときのプログラムは記録を見ると、すでに「国際コンクール」というものの趣旨と目的とスタイルとが、この時点ではっきりと出来上っていることに気づく。

 即ち、五年に一度の開催、古典から現代曲に至るまで、小品から大作、独奏曲から協奏曲に至るまでのピアノの主要作品を網羅した課題曲、名誉だけでなく多額の賞金とそして多くの演奏契約を含む賞の内容。百年後の今日私たちが行っているものと、何ひとつ変るところがない」(52ページ)

 課題曲の範囲の広さから、コンテスタントたちはどんな作曲家の作品でも、ひととおり平均点以上の演奏ができることを求められている。なかでも大きな比重がかかっているのはロマン派、とりわけショパンの作品だ。

「ピアノにおけるコンセルヴァトワールの具体的意味が十九世紀ロマンティシズムの継承であるということは、

「ショパン(あるいはロマン派の作品)を聴くまで、その才能に決定的評価を下すのは待て」

 という言葉によく象徴されている。

 この言葉は、かつて私が教えを受けたロジーナ・レヴィンやニキータ・マガロフのような、ヴェテラン教育者であると同時に優れた演奏家でもあった人々が実によく口にする言葉であった。即ち、ショパンが弾ける者にはバッハもベートーヴェンもあるいはいっそジョン・ケージまで弾ける可能性があるが、その反対はまず起らない、と」(66〜67ページ)

「好むと好まざるとにかかわらず、ピアニスト修業の仕上げの過程においてロマン派を多く勉強せざるを得ないのは、ピアノという楽器自体の発展と一体化して成熟していったロマン派の奏法を身につけることによってこそ、ピアノの表現能力の多彩さ、そしてその制御方法を知ることになるからである。そしてそのなかに、あたかもロマン派ピアノ音楽の核を成しているかのように存在するのが、フレデリック・ショパンである。

 「ショパンはピアニストの試金石」といわれる意味は、まさにここにある。

 ショパン・コンクールが、そのプログラムの内容をショパンという作曲家の作品に限定しているにもかかわらず、何故チャイコフスキー・コンクールやエリザベス・コンクールなどといった大コンクールと同様に重要視されているのかは、もうここでその理由を改めて述べるまでもないことであろう。

 また、チャイコフスキー・コンクールにしても、その課題曲は古典から現代曲までと幅広いが、しかしその中心となっているのは十九世紀ロマン派の作品と、そしてチャイコフスキーからラフマニノフにつながるロシア・ロマン派の作品であることも当然といえよう」(70〜71ページ)

 ここに書かれているとおり、ロマン派というのはなにも19世紀の作曲家たち、すなわちショパンやリスト、シューマンやメンデルスゾーンのみを指した言葉ではないのだ。その流れはとりわけロシアにおいて長く継承され、チャイコフスキーやリムスキー=コルサコフ、さらにはリヒャルト・シュトラウスやラフマニノフらを輩出した。コンクールと関連してじつにおもしろいのは、このロシア・ロマン派の最後の継承者と言われたピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツに対する審査員たちの評価である。

「コンクールにおける審査には「コンセルヴァトワール」に象徴される或るオーソドックスな価値判断の基準があり、その基準とはよい音楽を生むためのさまざまな具体的な要素の集積として採点される現実性を或る程度までもっている(そうでなければ、コンクールは成立しない)。

ところが、一見唐突のようではあるが、そういった価値基準を総合し、つきつめていったところには、コンクールの現実とはかけ離れた理想のピアノ音楽、理想のピアニストとでも呼ぶべきものがあるわけで、そういった理想のいわば典型が、現在ではホロヴィッツとリヒテルに代表されるのである。

 たとえばどこのコンクールにおいても、審査をしながら審査員たちが、思わず冗談半分にぼやく言葉がある。

 「こんなに厳しい審査では、仮にホロヴィッツが受けたとしても、とうてい受かりっこないだろうね」

 これは大体、一つのミスもせず難曲を速いテンポで弾きのけ、にもかかわらず結局落選という結果に終ったコンテスタントたちの点数を眺めたりしているときに出る冗談である。ところがそうぼやく彼らが、ではピアニストの中でいったい誰を一番尊敬しているかといえば、異口同音に、「ホロヴィッツ」という答が返ってくるのだ」(59〜60ページ)


 クラシック音楽が好きなひとにはわざわざ言うまでもないことだが、ホロヴィッツというのは逸話の多い人物で、いまでもじつにたくさんの人びとに愛されている。そのことがよくわかるのは彼についてなにかが語られるときで、そういうときの語り口はたいてい、ちょうど親しい友人の話をしているときのような、語っているひとの微笑みが目に浮かんでくるような愛情のこもったものなのだ。本書でもハロルド・ショーンバーグはこんなことを言っている。

「ホロヴィッツに、ネコの脳ミソほどの知性も期待してるやつはいないよ。しかし、彼の演奏は素晴しい」(234ページ)。

同時代のピアニスト、こちらもまた圧倒的技巧で知られる、スヴャトスラフ・リヒテルとの対比もじつに興味深い。

「端的に言ってホロヴィッツは、ピアニズムからいうとラフマニノフで頂点を極めた十九世紀ロマン派的ロシアン・スクールの、現代における唯一の継承者といえよう。彼が現代最高のテクニシャンである(あった?)ことは知られているが、しかしその魅力の最大の特徴は、実はディテイルの扱い方にひそんでいる。

たとえば、ショパンのマズルカなどにおけるさり気ないメロディの歌い方、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」の二曲目などの内声部のゆらめきなど、何気ないものが彼によって突如ズームレンズのように拡大されたり、遠くにふっと突き放されたりする。メロディやベースを美しく魅惑的に弾くピアニストは沢山いるが、ホロヴィッツのように内声にひそむさまざまなメロディを、あたかも第三本目の手が備わっているかのように自由奔放に弾きのけるピアニストは他にいない。

 興味深いことに、そういった彼の最も魅惑的なディテイル、例えば或る一音を強調する為にハーモニーを崩して弾いたり、構成上当然大きく盛り上ってしかるべき個所を、むしろ逆に弱音におとして心理的な効果を一層高めるというようなことは、大抵の場合、アカデミックな演奏解釈の約束事においては「やってはならない」とされていることが多い。

即ちホロヴィッツの演奏には、世のまじめな先生方が「真似をしてはいけませんよ」と生徒に諭すものの典型が「きらきらと」溢れているのである」(61〜62ページ)

「リヒテルの演奏は、すべてのピアニストから尊敬され、勉強の手本とされる。しかし、「リヒテルのようなピアニストを目指して頑張ろう」と本気で思うピアニストは少ない。というところがまた、極めて興味深い点であろう。

 一方ホロヴィッツの演奏は、すべてのピアニストから憧れられるが、実際に勉強の手本にしたら一巻の終りだと広く信じられている。まるでセレーネかローレライといった感じであるが、しかし、「ホロヴィッツのようになりたい」と心密かに思ったことのないピアニストはいない」(62〜63ページ)

 コンクールという場においては、ホロヴィッツのような異常な天才は求められていないのだ。求められていない、というのは言いすぎかもしれないが、たとえば特定の作曲家の作品だけを抜群にうまく弾ける、といった類の個性的なピアニストは、コンクールの膨大な課題曲を前にしては勝ち抜くことができない。必然的に、オールラウンダータイプのピアニストばかりが駒を進めることになるのだ。

「コンクールの参加年齢の制限は、簡単に言うと、コンクールというものが、クラシック音楽の普及とその大衆化という社会基盤の発展の上に成立したことに関係する。

 クラシック音楽の普及と大衆化とは、即ち音楽教育の普及と制度化ということでもあるが、それは言いかえると、優れたピアニストが広く組織的に育てられることを可能にする一方で、思いもかけぬ神童が突如として未知の領域に生れる、そしてしかも三十歳過ぎまで埋れたまま終る、などということはほぼあり得ない、という状況を「常識」としてもたらしたと思われるのである。言ってみれば、コンクールとは極端に早熟、或いは極端に晩成の異常な天才のためにあるものでなく、あくまでも正常な才能のための定期的発掘装置とでもいうべきものなのだ。

 言うまでもなくこれは、なんだか少し淋しいような常識である。とりわけ早熟の天才を期待しないという意味を持つ下限制限の方は、夢に欠けるであろう。そこで興味深いことには、むしろそのアンチテーゼのように、欧米には神童モーツァルトの六歳でのデビュー以来、まことに根強い「神童出現願望」のようなものがあって、それはそれで伝統化されている感じさえある」(44〜45ページ)

「このような形でふるいにかけられると、結果は当然のこととして、「万能型」のピアニスト、しかもロマン派音楽の演奏において「ヴィルチュオジティ」をふるうタイプのピアニストが、一般に有利になる傾向になる。

82年、86年と二度にわたって、私が審査員として見聞したチャイコフスキー・コンクールに限っていっても、たとえば或るピアニストがモーツァルトやバッハ、あるいはドビュッシー、ラヴェルといったロシア物以外の或る特定の作曲家の作品において、仮に圧倒的な出来映えを披露しようとも、そういったいわば異能奇才型よりも、満遍なく一応すべてのピアノのレパートリーを水準以上に演奏し、バランスよく能力を披瀝する優秀な“凡才”の方が、はるかに勝ち残る可能性をもつということがいえるのである」(160ページ)

 中村紘子は審査員として、万能型ではないという理由でコンクールを去っていった、優秀なピアニストたちのことを想う。

「第一次予選の百十一人のなかには、本当に素晴しい才能に恵まれた若者が、少なからずいた。ある者はバッハを、ある者はベートーヴェンを、実に深い味わいと共に演奏した。しかし、ラフマニノフやリストやショパンで失敗し、ステージから消えていった。その姿を思うと、私の心は痛む。

チャイコフスキーのあの華やかなピアノ協奏曲が弾けなくとも、あのように美しく知的なバッハが弾けるなら、それもまた素晴しい人生ではないだろうか、と、私の心は恐らくはもう二度と聴くチャンスは廻ってこないであろうランダルのバッハを懐かしむ」(175〜176ページ)

「あの、ランダルをはじめとするいわば万能型ではない、しかし素晴しい才能に恵まれた若者たちの中から、未来のミケランジェリやベルマンが育つだろうか。そしてその特異な才能を発揮させられる場に十分恵まれるだろうか。

そんなことをふと想像するとき、私は、人が人を選ぶコンクールというものの虚しさ哀しさ、とでもいったような感情が、一瞬私の心の中深くを通り過ぎていくのを感じるのだった」(176〜177ページ)


 もちろん、コンクールだけがピアニストとしてデビューするための道というわけではない。上に名前が挙がっているミケランジェリやベルマンというのは、エリザベス・コンクールで失敗をしながら、その後世界的な名声を築きあげたという稀有な例である。

とはいえ、そういった人びとがやはり幸運な例外であるということも忘れてはならない。そうでなければ、こんなにも厳しいコンクールをわざわざ受ける人間などいないだろう。幸運を求めるピアニストたちのエピソードとして、以下のルービンシュタインに関する逸話には衝撃を受けた。中村紘子が演奏会前の楽屋に、挨拶に行ったときの話である。

「そのとき、私たちの横を黙ってすり抜けて楽屋を出ていく三人の若者がいた。あとで知ったのだが、なんと彼らは高齢のルービンシュタインの万が一を狙って自主的に現れ待機していた無名のピアニストたちだったのである。

彼らは、老ルービンシュタインにとっては気の毒なことだが彼らにとっては千載一遇の幸運になるかもしれないこと、の勃発を期待していたわけだ。もっとも、そんな若者が目の前をウロチョロしていたにもかかわらず、この当時すでに八十六歳の老巨匠は若者顔負けのエネルギーと艶やかさをもって、ショパンとベートーヴェンの協奏曲を二曲演奏し、更に余裕たっぷりにアンコールを三曲弾きのけて、悠々とステージを退場したのであった」(56ページ)

 おとなしくコンクールを受けて研鑽を積むことにしたピアニストたちの道も、一筋縄ではいかない。コンクールの乱立と課題曲の構成の類似は、「プロフェッショナル・ファイナリスト」と呼ばれる人びとを生みだしてしまったのだ。

「近年、国際コンクールの席上でしばしばささやかれていることとして、大物の新人が見当らなくなったこと、一位が登場しても芸術家として大成しなくなったこと、などがあるということは既に述べた。今改めて思うことだが、若いピアニストが、乱立するコンクールという場で例の「プロフェッショナル・ファイナリスト」としてあちらで三位、こちらで二位と経験を積み重ねていく過程において、何か芸術家にとって大変に大切なものをすり減らしていっているということが確かにあるのではないだろうか。

 今回のチャイコフスキー・コンクールにおいても、その甚だしい例として、世界の主だったコンクールを十数ヵ所受けて、みなそれぞれに二位や三位や六位や七位を獲得したというキャリアをもつ猛者がいた。しかしそれは彼の演奏の平均点の高さを示して人々を感心させる効果よりも、彼のピアニストとしての資質のなかで、何か決定的な魅力が欠如しているのではないかという疑惑、いや確証につながってしまうことになった。コンクールのヴェテランたちの演奏を聴く時、ふと私は、若い才能を聴く喜びよりも未来を憂う重い気持にさせられてしまうことがある」(303ページ)

「彼らは必ずしも優勝を狙ってくるわけではないのですよ。彼らのなかには、ただよい聴き手の前で演奏するチャンスが欲しくてくる、いわば永遠のアマチュア・ピアニストがいるんです。彼らには弾くチャンスがない。たとえあったとしても、よい聴き手、彼らが信頼するに足るような聴き手に聴いてもらうチャンスなど、全くない。コンクールにくれば、少なくとも審査員たちは真面目に聴いてくれますからね」(308〜309ページ)

 これは、とても淋しいことだ。

「プロの演奏家と学生の演奏との相違はなにか。それは、他者の耳と心に曝された体験の多さと深さで決まる。他者の耳と心に曝されることによって、プロはしたたかにたくましく、より複雑に成長をとげていく」(123ページ)

 クラシック音楽界における需要と供給のアンバランスはじつに深刻な問題で、「コンサートよりもコンサートに出たいピアニストの数の方が上廻る」のである(301〜302ページ)。そのくせ乱立するコンクールはたくさんのコンクール優勝者を輩出し、それらに片っ端から挑戦する「プロフェッショナル・ファイナリスト」のような人びとを生みだしてしまう。問題はあまりにも根深い。

「クライバーンのようにずば抜けた才能が参加していないときには、コンクールというのはまことに判定が難しくなる。そんな場合、特に審査員が多い大コンクールとなると評価は極端にまちまちとなり、そうした中で突如幸運に見離される者が出るかと思えば、風向きがくるりと変って幸運を手にする者も出てくる。

一位もそうだが、特に二位以下の判定は曖昧にならざるを得ない。すなわちコンクールであるからには、それがどの程度のものであれ一位にはそれなりの意味がある。しかし、一位以外であるならば二位も十位も、あるいは三位も六位も、その才能や技術には数字で表されるほどの違いはないといっていい」(172ページ)

「どこのコンクールでも、古典から現代曲に至るまでのピアノ独奏曲の主要作品を中心に課題曲が構成されており、違いといえば、モスクワではチャイコフスキーを、スペインのコンクールではアルベニスを弾かされるといったこと、また場合によってはセミ・ファイナルで他の器楽と室内楽を演奏させられる、といった程度でしかない。そして、しかもその課題プログラムは、現代では質量共にますます重くなって、時には「いったいこのコンクールは、何を目的としてこんなに多大な量のプログラムを参加者たちに要求するのだろうか」と、半ば呆れさせられてしまうことさえある。

これでは、まるでピアノ演奏のトライアスロンではあるまいか。実際のところ、参加者たちは、音楽的才能や芸術的感性がいかに優れているかなどということよりも先に、一にも二にも人並みはずれて強靱な肉体、体力と、そして何事にもたじろがない図太い神経を持ち合せていなければ、こうしたタフな長丁場を勝ち抜いてはいけなくなる。「悩める青白きインテリタイプの病的芸術家」ふうなどでは、とてもピアニストとして生きていくことはできないといった有様になっているのである」(281〜282ページ)

 ところで、コンクールの本選ではオーケストラとの協奏曲が課題となることが多いが、協奏曲においては経験がものを言うのだそうだ。プロとしてデビューする前のコンテスタントたちに、オーケストラと協演する機会などそうそうあるものではないだろうから、これはじつに苛酷な課題といえるだろう。なぜ経験が重要なのか、中村紘子は自身のピアニストとしての体験から、とても貴重なことを書いてくれている。

「一般的にいっても、普通の演奏会の場合、オーケストラとソリストが合せるチャンスは、滅多に上演されることのないような難曲大曲あるいは現代物の初演などということでもない限り、大抵は前日と当日の会場練習との二回限り、というのが国際的にも習慣となっているようである。

 もちろん、その作品をオーケストラと合せた経験がない場合は、私たちソリストはオーケストラ・スコア片手にレコードを聴いたりするのはもちろんのこと、友人などに頼んでオーケストラの部分をピアノで弾いて貰って二台のピアノで一緒に合せたりして、事前にオーケストラ・サウンドに馴染んでおこうと努力する。

 具体的に言うと、ここでティンパニーを三拍聴いて、四拍目に一緒に出る、次は主題がチェロに移って、ピアノは半拍ずつズレながらそれに合せる、そして、という具合に、協演のポイントをチェックし、ピアノ譜に注意マークを書き込んだり、あれこれと詳しく分析をしたりする訳だが、ところが、ああ、なんということだろう、いざ、オーケストラと一緒に弾き始めてみると、どういう訳かレコードでは手にとるように聴こえていたチェロが、実際にはさっぱり響いてこない、などといった事態が必ず、それも一つや二つならず発生するのだ。

そのため、あのチェロを合図にこちらが弾き始めればいい、などと頼りにしていると、とんでもないことになったりして、それでカーッとあがってしまって、あとはもう……といったような苦い味わいを、ソリストならば誰しもが一度は体験しているであろう」(252〜253ページ)


「オーケストラにぐるりと囲まれて座ってみて初めて知るのだが、あの中には響きの時差とでもいうようなものも存在するし、自分の近くに座って演奏している楽器の響きに消されてしまって、遠くにある楽器の音が聴きとり難くなるなどということは、むしろ当然のことである。例えばベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番に「皇帝」というニックネームで知られた名曲があるが、その最終楽章のそれこそ一番最後の部分に、十四小節にわたってピアノとティンパニーだけが二人で演奏する個所がある。だんだん音を弱めテンポもゆるやかになっていって、そのあと華やかに一気に駆けのぼるフィニッシュを「嵐の前の静けさ」ふうに強調する部分なので、とても緊張感に満ちているのだが、この部分はコンサートホールの響きによっては、オーケストラの最端部に陣取っているティンパニーと最前列中央のピアノとの間に時差が生じて合せにくくなるのだ。お互いに見合ったりして合せようとすると、音はかえってズレたりする。

こんなときは、ほとんどカンに頼る他はない。何故、指揮者という存在が原則として皆より一段高い所に上って、しかも立ちっ放しでいることになっているのかが、突如として納得させられたりもする。私のやや強引な一人合点によれば、あれでは恐らく背のひどく高い指揮者とひどく低い指揮者では、それが良いか悪いかはべつとして、聴こえてくる音響の世界は相当に違ったものとなっているに相違ない」(253〜254ページ)

 これからコンクールを受けようと思っている日本人ピアニストは、中村紘子の著作の存在を喜ぶことだろう。がんばれ。日本人ピアニストといえば、こんな記述もあった。

「国際的なコンクールなどの場では何故か今でも依然として、日本人のピアニストといえば

「一つのミスもなく平然と演奏するが、機械のように無表情である」

「きちんと弾くが、個性に乏しい」

といった評判を耳にする。今回のチャイコフスキー・コンクールにおいても、善戦した岡田氏や小川さんに対して、むしろ予想以上に厳しく醒めた反応があったのも、このような先入観によるところがあるのではないかと思われる。こうした印象は、ワーカホリックでエコノミック・アニマルとされる例の日本人の既成流通イメージと重なって、一般論としては何やらもっともらしい説得力さえ帯びてくる感じがある。そしてコンクールの場で私が一番つらくもの思いに沈むのは、実にこの点に他ならない」(222ページ)

 がんばれ。

 それから、クラシック音楽の演奏家、とりわけピアニストを育む土壌についても、印象的な文章があった。これはなにもクラシック音楽にかぎったことではなく、おもしろいものに溢れている現代ではすべての芸術に共通の困難なのではないかと思う。

「極端に乱暴で大雑把な言い方になるが、クラシックの演奏家、特にピアニストは、要するに他に面白いことがいっぱいある社会では成熟しにくいのではあるまいか、と私はかねがね考えてきた。

経済的にも豊かで、多元的な価値観のもと、文化的にも技術的にも次々と新しい知的冒険と刺激が生まれ、多様なライフ・スタイルが試みられる社会では、長時間に亘る持続的で精妙な鍛錬を必要とするピアニストの育つ土壌は極めて限られるのではないか。

逆に言えば、或る程度貧しく、固定された価値観のもとにあって、保守的で時の歩みの遅い種類の国の方がピアニストにはよろしい……」(360ページ)

 でも、そのぶん続けることにも価値が生まれるのだ。

 中村紘子の文章はユーモラスで、ひとつの大きなテーマがあると、じつに楽しく言葉を紡いでいってくれる。テーマが、などと余計なことを書いたのは、じつはこの本よりも先に、同じ著者の『ピアニストという蛮族がいる』を読んでいたからだ。これについては、いずれこの本を紹介するときに書こうと思っている。

 ぐんぐん進んでいける読みやすさや現実特有のおかしみなど、ノンフィクション作品の持つ楽しさに溢れた一冊で、すばらしい読書時間を過ごせた。これはおすすめ。
http://blog.livedoor.jp/nina313/archives/2012-11.html


2009/06/15

中村紘子『コンクールでお会いしましょう』(中央公論社)とヴァン・クライバーン・コンクール


アメリカのヴァン・クライバーン・コンクールで、辻井伸行さん(20)が1位となった先週のニュースは、彼が生まれながらの全盲というハンディキャップを背負っていることもあり、大々的に報じられ、帰国後の公演やコンクール前に録音されたCDも大変なセールを記録しているという。

ヴァン・クライバーンといえば、冷戦時代のソ連で開催された第1回チャイコフスキーコンクールを何と仮想敵国人でありながら(またはそれゆえに)圧倒的な好評で優勝し、その凱旋はアメリカン・ヒーローそのもので、彼の録音したチャイコフスキーやラフマニノフの協奏曲は(現在も現役盤として立派に通用する水準だが)、当時のアメリカで大々的なベストセラーとなった。

我が家にはそのヴァン・クライバーンが、いわゆるショーマンではないピアニストとして脱皮しようと試みた頃の、ベートーヴェンのいわゆる三大ピアノソナタのLPがあり、私にとっては、これがこれらの曲への入門音盤となったということでも恩を感じているピアニストである。

このLPのジャケット写真を以前このブログで紹介したことがあるが、
http://kniitsu.cocolog-nifty.com/zauber/2006/05/8lp__c2b4.html

そのまさにプロフィール(横顔)を見ても、彼がそのような華やかな栄誉や過大な期待を背負うようなギラギラとしてタフな野心家ではない雰囲気が窺がわれる。

一夜明ければ有名人そのままに、その後彼は厳しい批評にさらされ、彼は心身の調子を崩し、ピアニストとしては大成しないまま引退し、その後、ヴァン・クライバーンの名を冠したコンクールの名誉主催者としての地位にあるといい、先日の辻井氏の1位のときにも、暖かいコメントを寄せている。

ヴァン・クライバーンとチャイコフスキー・コンクール、ヴァン・クライバーン・コンクールそのものについて、さすがの筆致で書かれているのが、表題の中村紘子女史による

『コンクールでお会いしましょう ---名演奏に飽きた時代の原点』
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%A7%E3%81%8A%E4%BC%9A%E3%81%84%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%E2%80%95%E5%90%8D%E6%BC%94%E3%81%AB%E9%A3%BD%E3%81%8D%E3%81%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%82%B9-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%B8%AD%E6%9D%91-%E7%B4%98%E5%AD%90/dp/4122047749


だが、ここで、ヴァン・クライバーン・コンクールについて、その優勝者達が、その後のリーズ国際で優勝したあのラド・ルプー以外に世界的ピアニストとして大成した人がいないという不可思議な事実を記している(単行本 P.85)。

この優勝者に与えられる法外なリサイタル契約が、せっかくのその才能を早い段階ですりつぶしてしまうのではないかというような趣旨のことが書かれていた。特に、あのカーネギー・ホールでのリサイタルが鬼門だという。

だから、辻井氏の優勝(1位)には快挙だとは思いながらも、素直に喜べない部分がある。既に、日本のマスコミやプロダクションは、中村紘子女史という大御所が書いたこのような基本的な情報を棚上げにして、辻井氏の才能を消費しようとしているかのように感じて、少しうそ寒い感じがする。

コンクール出身者としては、ポリーニにしろ、ツィメルマンにしろ、ショパンコンクールでの優勝は、演奏家人生の入り口に立っただけだということを自覚してか、それからさらに研鑽を積んだ上で、改めて世に出たという実例もある。

是非、賢明な諸氏は、音楽コンクールの優勝は、オリンピックや世界選手権の金メダルが象徴する世界のその時点でのトップということとは違い、たまたまそのコンクールに参加したプロ演奏家志望の演奏者の中で1位になったに過ぎないということをもっと知るべきだ(ほとんど中村女史の受け売りだが)。


盲目の鍵盤楽器奏者としては、高名なチェンバリストであり、オルガニストだったヘルムート・ヴァルヒャの存在を忘れることはできない。また、日本のピアノ界でもヴァン・クライバーン・コンクールよりもさらに権威のあるコンクール、ロン・ティボーで2位を獲得した梯剛之(かけはし たけし)氏や、ヴァイオリニストでは、和波孝禧(わなみ たかよし)氏など、障害をものともせずに活躍している演奏家もいる。

祝福の輪が広がることは結構なことだが、まだ20歳の学生でもあり、じっくりとレパートリーを広げるだけの研鑽の時間がもてるように周囲が配慮してあげて、稀有とされる才能が消費されるのは避けてもらいたいものだと思う。
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/37182/37411/58525926


ヴァン・クライバーン・コンクール

******* Mr.ビーハイブ楽師のコメント  *******


  最近盲目の辻井伸行君という若いピアニストが優勝したと言う事で、騒がしいことである。

 メディアもヴァン・クライバーン・コンクールの事はあまりわかっていなくて、どのTVも新聞も、そして雑誌もショパンコンクール、チャイコフスキーコンクールに並ぶ、権威あるコンクールで優勝した・・・これは素晴らしい事だと騒ぎ立てている。

これは誤解である。

ショパンコンクールやチャイコフスキーコンクールと同等なものではないが、わかっていない人はそう思ってしまうようである。NETではあまり評判が良くない。

 私はファイナルを聴いたが、これで、優勝は無いよ!と言う話や、はじめからわかっているのになぜレヴェルの低いヴァン・クライバーン・コンクールを受けに行ったの?

 さらにヴァン・クライバーン・コンテストで優勝した人の中で、名をなした人は一人もいない、いわばレヴェルの低いコンクールなのに・・・と言った始末である。

そしてその理由として、優勝すれば3年間で100回の演奏会の権利をもらえるとは言うもの、実際には言いなりに動かなくてはならないので、つぶれてしまうと言うものである。


 ヴァン・クライバーンという人は、第一回のチャイコフスキーコンクールに優勝した。本来ならばロシアのピアニストが優勝すべきだったのに、鉄のカーテンの向こうのアメリカから来た、ヴァン・クライバーンによって優勝をさらわれてしまう。アメリカは大喜びで、彼を国民的英雄として迎える。

 その時私は、映画館のニュースで、(当時はテレビが無かった)その状況を見たが、紙吹雪の中オープンカーでパレードをやるし、ホワイトハウスで演奏するなど大騒ぎになったらしい。このクライバーンはその後あちらこちらと引っ張り回されているうちに、崩れてしまう。

 確かにチャイコフスキーコンクールで優勝した頃はすごく良かったそうである、審査員の一人であったリヒテルはヴァン・クライバーンに5点入れたが他のピアニストにはすべて0点を入れたと言うし、中村紘子さんの著作である、チャイコフスキーコンクールの中では、彼は本当に素晴らしかったと言っている。しかし酷使されてすぐに押しつぶされてしまった・・・と記述している。

 今回の優勝でも3年間で100回の演奏会が保証されているという(100回は少し自信は無いが、すごく多い回数は確か)3年間で100回というと月に3回の演奏会をこなこなさなければならない。

同じ曲目なら物理的に可能かも知れない。しかしそうは行かない。勉強する暇は無いのである。こんな状況で基礎的な音楽を勉強する暇もないまま進んでしまうと。押しつぶされてしまうのでは無いか・・・

クライバーンはこの様にしてつぶされてしまった。今ではあまり派手な活動が出来ないばかりか、若い人の中には彼の名前を知らない人もいる。

 辻井伸行君のスケジュールをテレビで一寸写ったが、日本での凱旋演奏会はおびただしい数である。

加えて今後3年間果たして勉強するいとまがあるのだろうかと心配する。ましては盲目というハンデを抱えている。彼がヴァンクライバーンの二の舞にならないことを祈るのみである。

 ショパンコンクールで優勝したポリーニは審査員であったルビンシュタインが我々審査員の中で彼より上手く弾ける人がいるだろうか・・と言ったと言うが、彼は優勝後すぐに演奏活動に入らずに勉強に勉強を重ねて十分に成熟してから演奏活動に入った、今や世界で屈指のピアニストである。

日本の諏訪内晶子さん(Vn)もチャイコフスキーコンクールに優勝した後ジュリアードでVnを勉強し直して、デビューをしている。


本来このようにあるべきでは無いかと、私は考えている。コンクールとは音楽家の登竜門であるはずである。

 ただ心配なのはクライヴァーンだけで無く、エイヴェックスがマネジメントをしている様に思われるので、よほど自分をしっかりと捉えないと、もみくちゃにされてしまう可能性もある。 

長文になったついでに現在のヨーロッパにおけるコンクールの位置付けを見てみると、必ずしも優勝した人が、将来伸びているわけでは無く、2位3位のいわゆる個性のある人たちが伸びることが多いために、コンクールはあまり重視されていないと、聞いている。

一方コンクールこそいい手がかりであり、それから飛躍をしていこうと考えている人もいる。
http://chauchaw.web.fc2.com/hafuna-04-16.html

4. 中川隆[-10395] koaQ7Jey 2019年5月18日 13:44:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1924] 報告

「あんなに素晴らしいピアニストはいなかった」

「でも繊細すぎる彼には耐えられない仕事」

「今でも気遣いや立ち居振る舞いは超一流。でもアメリカ国民が望むであろうクライバーンを演じているようにしか見えず、痛々しい。」・・・


まあ、本物の芸術家や天才で先生の言い付けを守ったり、期待される人間像を演じようとする人は存在しないですからね。

良い子は芸術家には向かないという事でしょう。




▲△▽▼


本物の天才とはこういうもの

『ピアニストという蛮族がいる』(中村紘子)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E8%9B%AE%E6%97%8F%E3%81%8C%E3%81%84%E3%82%8B-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%B8%AD%E6%9D%91-%E7%B4%98%E5%AD%90/dp/4122052424


 「この私自身をも含めてこのピアニストという種族について、気取っていえば神話的感慨、社会的公正を期していうならば、洗練された現代の人間とはまこと異質な、言ってみれば古代の蛮族の営みでも見るみたいな不思議な感慨、を、或る感動と哄笑と共に催すことがある」(Kindle版 No.18)


 古今東西の大ピアニストを取り上げ、その数奇な人生や奇妙なエピソードを語ってくれる素晴らしく面白いエッセイです。登場するピアニストは奇人変人というべき変わった方が多いのですが、それも無理はないのだと最初にこう断りを入れています。

 「大体みんな、三、四歳の時から一日平均六、七時間はピアノを弾いているのだ。たった一曲を弾くのに、例えばラフマニノフの「ピアノ協奏曲第三番」では、私自ら半日かかって数えたところでは、二万八千七百三十六個のオタマジャクシを、頭と体で覚えて弾くのである。それもその一音一音に心さえ必死に籠めて・・・。すべてが大袈裟で、極端で、間が抜けていて、どこかおかしくて、しかもやたらと真面目なのは、当たり前のことではないだろうか」(Kindle版 No.21)

 この一文を書くためにだけに28,736個の音符を数え上げた著者がいうのだから説得力があります。そういうわけで、著名なピアニスト達のエピソード満載なのですが、これがまた。

 「滅多にコンチェルトを弾かなかったホロヴィッツは、理由を訊かれて「オーケストラは邪魔だから」と答えた」(Kindle版 No.2952)

 「ホロヴィッツはただ一度、パリでルービンシュタイン夫妻を夕食に招待したことがあり、あまりにも珍しい出来事であったのでルービンシュタインはわざわざオランダから夜行列車でパリに戻ったのだが、なんとホロヴィッツは、その約束をすっぽかして競馬に行ってしまった」(Kindle版 No.209)

 「「世界のピアニストには三種類しかない。ユダヤ人とホモと下手糞だ」と放言してニヤリと笑ったのはかのホロヴィッツだった」(Kindle版 No.339)

 と、最初のホロヴィッツだけでもお腹いっぱい。蛇足ながら、もちろんホロヴィッツはユダヤ人で同性愛者でした。

 24歳にもなってからチェルニーの教則本で本格的に練習し始めたという異常に遅いスタートから、ほぼ一日おきのコンサートをこなしながらなんと毎日17時間の猛練習をやり抜き、米国だけでも1500回以上の演奏会を行い、500万人の聴衆を魅了した挙げ句、うっかり独立ポーランドの初代首相となり、ヴェルサイユ和平会議の席上で「あの有名なピアニストが今やポーランド首相とは。お気の毒に、なんたる転落か」と嘆かれたという、イグナッツ・ヤン・パデレフスキー。

 四歳で最初のコンサートを開き、七、八歳の頃にはペルシャの宮廷ピアニストになり、十一歳で千回記念リサイタルを開いたというラウル・フォン・コサルスキー。「ひとくちに千回というけれども、これは四歳のデビュウから十一歳までほとんど休みなく2.555日に一度ぐらいの割合で演奏会をしていた勘定になる」(Kindle版 No.2325)

 住む家もない鉱山労働者のテントの中で生まれ、草原で拾ったカンガルーの子供を唯一の友とし、素足で野山を駆けめぐり、ボロ同然の服を一年中着ていたというのに、ピアノに出会うや奇跡的な才能を示し、一躍ロンドン音楽界の寵児となって、やがて映画スターになったアイリーン・ジョイス。

 「ショパンを弾きながら途中を忘れて盛大に間違え、自分で即興的に「作曲」して弾き終わったあと、聴衆に向かって、この方がいいのだ、と演説した」(Kindle版 No.2732)ウラディミール・ド・パッハマン。

 「不充分な演奏をしたら、聴衆に申し訳ない」(Kindle版 No.2916)と大真面目に主張して演奏会をドタキャンしまくったり、「拍手が少ないのに憤然とした余り、ステージの上から静かな客席に向かって一言「ブタに真珠よ」と捨てゼリフを吐いた」(Kindle版 No.3065)り、八十九歳のときにずっと年下のイタリア娘と結婚し九十六歳にして二時間の演奏会を平然とこなしてしまったり、ピアニストにまつわる面白い話には種切れというものがありません。

 中でも白眉は、日本最初のピアニストでもある幸田延、その弟子である久野久の二人の伝記でしょう。日本における西洋音楽の黎明期に活躍した二人の女性ピアニストの苦難の物語は涙なくして読めません。特に久野久に関する記述には力がこめられています。

 「久にはピアニストになるための音楽的条件と音楽的必然性が何ひとつ備わっていなかった。にもかかわらず、運命は彼女にピアノ以外の何物をも与えることを拒否するのである」(Kindle版 No.1609)

 「彼女と音楽との出逢い、関わり合いには何一つ豊かなもの幸せなものはなく、あるのは不安とつらさばかりであった。そして音楽に身を打ち込めば打ち込むほどにその不安は広がって、彼女から音楽はますます遠くへだたっていくのを彼女は知っていた」(Kindle版 No.1876)

 「名古屋での演奏会では、演奏の途中で指が裂け、血が吹き出してキイがまっ赤に染まってもなお弾き続け、聴衆を圧倒したという。きゃしゃで色白の足の不自由な娘が物の怪に憑かれたように全身全霊をこめてピアノに立ち向かう。満身の力をこめてピアノを叩くと、結い上げた髪はパラバラと肩に落ち、さしていたかんざしはどこかにすっ飛び、帯までもがゆるゆるとほどけていく・・・」(Kindle版 No.1296)

 大いなる悲劇へと向かう彼女の凄絶な人生を劇的に語りながらも、「同じピアニストとして私は、一体どうやったら「指先が破れて血がほとばしり出る」ような奏法になるのか、理解に苦しむ」(Kindle版 No.1792)と冷静に演奏技術の未熟さを指摘するところなど、さすがピアニスト。

 けっこう辛辣な文章が多いのも特徴的で、例えばこんな描写が。

 「ちょっと目の表情のきょとんとした、やや蓮っ葉な感じの極めて愛想の良い人だが、失礼ながら知性や教養といったものには程遠いタイプの人という印象であった」(Kindle版 No.1223)

 「日和見主義者で権力志向で酒飲みで、ときに音楽家としてもイイカゲンな、一言にいってヤな奴らだったようである」(Kindle版 No.2228)

 「女性ピアニストというのは、どうしても性格的には勝ち気で負けん気で強情でしぶとくて、神経質で極めて自己中心的で気位が高く恐ろしく攻撃的かつディフェンシヴで、そして肉体的には肩幅のしっかりとした筋肉質でたくましい、というタイプになってしまう」(Kindle版 No.3038)

 というわけで、出てくる伝記とエピソードが強烈な印象を残し、また文章から感じられる「勝ち気で負けん気で(中略)たくましい」パワーに魅了される、そんな傑作エッセイです。あまりの面白さに一気読みしてしまいました。
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/_pages/user/iphone/article?name=2013-02-06


▲△▽▼


本物の天才と紛い物の天才がどれ位違うかは以下を聞き比べて下さい:

ホロヴィッツのチャイコフスキーピアノ協奏曲第1番 1943年
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6847048
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6847082
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6847152

トスカニーニ&ホロヴィッツ 《チャイコフスキーピアノ協奏曲第1番1941》
http://www.nicovideo.jp/watch/sm17329798

チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番変ロ短調OP.23
ヴァン・クライバーン(Pf) キリル・コンドラシン指揮シンフォニー・オーケストラ1958.5.30、ニューヨーク、カーネギーホール
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14114510
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20214185

▲△▽▼

チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 作品23
ピアノ:ホロヴィッツ トスカニーニ指揮NBC交響楽団
録音:1941年5月6日、14日、カーネギーホール


これは70年前の録音です。70年前! 当然モノラルで、オーディオ的にはその後に登場した数々の録音には遠く及びません。であるにもかかわらず、この演奏を知っているがために、私はどのような名人の演奏を聴いても満足できなくなってしましました。ほかのピアニストの演奏でもある程度のカタルシスが得られますが、70年も前の録音から得られるカタルシスは比類がありません。ある意味では不幸な出会いなのですが、この演奏を知らないより知っていた方が良かったと思います。

 そもそもこれほどのピアノの巨人がこの世に実在したこと自体が驚異です。ここではその絶頂期の演奏にノックアウトされます。冒頭から圧倒的なパワーによる雷鳴のような音、華麗で目も眩むほど鮮やかなタッチ。文字通り度肝を抜かれます。

演奏は協奏曲というよりひとり舞台に近いものがあります。ホロヴィッツのピアノはそれこそ自由奔放、唯我独尊、傍若無人です。ちょっと自由奔放・・・・というのでもなく、激しく自由奔放、激しく唯我独尊、激しく傍若無人です。こんな演奏はほかにありません。第3楽章の最後の最後までホロヴィッツ節のオンパレードで、私は興奮を抑えきれません。スピーカーに向き合って聴いていてなお、立ち上がって拍手したくなります。何という臨場感でしょうか。

 伴奏をつけている指揮者とオーケストラも凄い。本気でぶつからなければたったひとりのピアニストに押しつぶされてしまいます。そのため、オーケストラからも切迫感のある猛烈な音が聴けます。それでもなお、ホロヴィッツはオーケストラを威圧し、完全にリードしています。トスカニーニ指揮のNBC交響楽団だからついて行けたのでしょうが、普通のオーケストラでは途中で崩壊していたでしょう。

 ホロヴィッツは晩年には晩年の良さがありますが、ここに聴くホロヴィッツは圧倒的な輝きを放っている大スターです。こうした演奏だと、演奏を耳にできるだけでありがたいと思います。録音の古さなど全く気になりません。名盤の条件に、音質の良さ、例えば良好なステレオ録音でなければならない、などということは不要です。

 また、ライブ録音でなければ熱い演奏が聴けないということもありません。ムラヴィンスキーのチャイコフスキーもそうでしたが、ホロヴィッツの録音もいわゆるスタジオ録音に分類されます。「ライブならでは」というのは使い勝手が良い都合のいい言葉ですが、経費を節減するためのライブより、しっかりとしたスタジオ録音の方がよほど充実した演奏が聴けると思います。もっとも、1941年当時、演奏家たちは録音という行為に対して現代とは比較にならないほど真剣であったと考えられます。それが演奏にも色濃く反映されていると考えて差し支えないでしょう。

 チャイコフスキーのピアノ協奏曲に関しては、この1枚があれば足りると言いたいところですが、そうはいきません。ホロヴィッツには同じ組み合わせによるライブ録音があるからです。

チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 作品23
ピアノ:ホロヴィッツ トスカニーニ指揮NBC交響楽団
録音:1943年4月25日、カーネギーホールにおけるライブ

 これは1941年盤同様自由奔放、唯我独尊、傍若無人なピアノです。聴衆は第1楽章から熱狂していて(当然です)、第1楽章が終わるやいなや激しい拍手が待っています。

 RCAは放送した録音を元にマスターテープを作って商品化したようですが、その過程でかなり苦労をしたらしく、ライブであるにもかかわらず1941年の録音と音質的に大きく遜色がない点もすばらしいです(好き嫌いの差はあるでしょうが)。国内盤が入手しやすいであろう1941年盤とこの43年盤があればホロヴィッツのチャイコフスキーは堪能できるでしょう。


 参考に、もう1枚挙げておきます。MUSIC & ARTSの1948年盤です。

チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 作品23
ピアノ:ホロヴィッツ ワルター指揮ニューヨークフィルハーモニー管弦楽団
録音:1948年4月11日、ライブ


 これは最も新しい録音である割に、音は最も貧弱です。しかし、これまた聴き始めると音質など気にならなくなります。超絶的に優れた演奏を前にすると、音質のことなどどうでも良くなるのですね。第1楽章の後、盛大な拍手が入るのは1943年盤と同様です。この演奏で拍手がない方がどうかしていると私は思いますが。第3楽章の終わり方は凄すぎて何回聴いても笑いがこみ上げてきます。

 この圧倒的な才能、それこそ太陽のような輝きを持つピアニストがいなくなった後、我々にはどのような演奏が選択肢として残されているのでしょうか。
http://www.kapelle.jp/classic/greatCDs/horowitz.html


▲△▽▼

上に ホロヴィッツ +トスカニーニ の二種類の演奏のリンクを貼りましたが、この二つでは 1943年4月25日のライブ録音の方が断然優れています。 録音は極端に悪いのですけどね。
録音が良い1941年版の方がいいと思った方は音楽が全然わからないと思って下さい。

こういう音楽がわからない人が多いのでヴァン・クライバーンの録音が良いだけのどうしようもない演奏が空前のベストセラーになったのですね:


私の音楽ライブラリですが、二人の競演のCDを次の3種類持っています。
いずれも、

  独奏:ウラディミール・ホロヴィッツ
  指揮:アルトゥーロ・トスカニーニ
  演奏:NBC管弦楽団

の演奏で、モノラルの録音です。


 【1】1941年5月6,14日、ニューヨークのカーネギー・ホールでのスタジオ録音
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000V2RWCG/nrsnn999-22/ref=nosim/

私が最初に買って良く聴いていたLPはこの演奏でした。
聴きやすいスタジオ録音です。 演奏もスタジオ録音の割には熱気を帯びています。

 【2】1943年4月25日のカーネギー・ホールでのライブ録音
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005EGZ2/nrsnn999-22/ref=nosim/
http://www.amazon.co.jp/dp/B000003EYF/ref=as_li_tf_til?tag=19741216-22&camp=243&creative=1615&linkCode=as1&creativeASIN=B000003EYF&adid=09WEDTXR736D7K5EFFDV&&ref-refURL=http%3A%2F%2Fclassicalmusic.livedoor.biz%2Farchives%2F52238846.html

二人の凄まじい熱気に、第1楽章が終わったところで聴衆が拍手をしています。
感動的な演奏ですが、残念なことに録音がよくありません。
本当に聴きにくいのが残念です。

 【3】1941年4月19日のカーネギー・ホールでのライブ録音

案外、このCDが一番よい演奏かも知れません。
ダイソーからホロヴィッツさんの演奏した協奏曲のCDが2種類でたので、即購入(1枚100円)しました。

実は、いつのどういった演奏か分からずに購入したのですが、 その後、1941年のライブ録音と分かって、お買い得な1枚だったと改めて感激したものです。
http://pub.ne.jp/akichi/?entry_id=3559009

トスカニーニとホロヴィッツによる共演でのチャイコフスキーピアノ協奏曲第1番は3種類の録音があります。すべてNBC交響楽団との演奏


・1941年4月19日(カーネギーホール、ライヴ録音)Naxos 、Music & Artsから出ています。

・1941年5月6、14日(カーネギーホール、スタジオ録音)RCA正規盤

・1943年4月25日(カーネギーホール、ライヴ録音)RCA正規盤(1959年初発売ホロヴィッツが発売の許可与えた。)


♪チャイコフスキーピアノ協奏曲 第1番は、1943年4月25日、カーネギーホール、第1回「戦争債券募集特別演奏会」ライヴ録音。

このときのプログラムはオール・チャイコフスキーで「くるみ割り人形」組曲、交響曲第6番「悲愴」、そしてピアノ協奏曲第1番でした。

そのピアノ協奏曲第1番は2年前にスタジオ録音がありますがホロヴィッツもトスカニーニも演奏録音に満足してなかったようです。しかしながら41年の録音はかなりストレートな演奏でトスカニーニ主導の中で進められて入るものの、その中でホロヴィッツ縦横に鍵盤を駆け巡る指の鮮烈な技巧をみせていますね。まさに「炎の名演」で勢いがあります。スタジオ録音であるためかしっかり音が取れている録音です。

43年の演奏は、ライヴ録音で41年で見せたストレートな演奏からやや第1楽章の最初のほうのテンポを抑えめにして丁寧に聴かせています。(アメリカらしく?第1楽章が終わると拍手あります。)


♪なぜチャイコフスキーピアノ協奏曲 第1番二回録音(コンサートをしたか)したのかのエピソード♪

1941年におこなわれたものは、これはニューヨークのカーネギーホールが1891年に柿落としをした際に、ここに訪れたチャイコフスキーの来訪50周年記念演奏会(1941年4月19日のコンサートのこどですかね?)の直後にレコード録音されたもので、レコードもすぐ発売されてうる。しかし指揮者とソリストとがうまく一致してない、ミスタッチがある、さらには音質的にも問題があるとして当時あまり評価になにず、逆に1933年(1932年と思われます。)に録音されたホロヴィッツのライヴァルともいうべきルービンシュタインの「1932年バルビローリ指揮ロンドン響(EMI)との共演盤」レコードの評価を高めることになってしまった。

これを気を悪くしたトスカニーニは、早速ホロヴィッツを自宅に呼び付け、蓄音機のヴォリュームを一杯にあげて、その演奏のまずい個所について徹底的に分析したということでした。そしてその2年後の1943年にふたたびチャイコフスキーピアノ協奏曲 第1番を共演し、この日ラジオでも実況中継されたチャイコフスキーピアノ協奏曲は大成功で、トスカニーニにとってもホロヴィッツとっても大変満足いく成果を納めた。
http://blogs.yahoo.co.jp/rboarder30/44074029.html

2011年06月22日
ホロヴィッツ&トスカニーニのチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番(1943年ライヴ)/ホロヴィッツのムソルグスキー:展覧会の絵(1951年ライヴ)
http://www.amazon.co.jp/Tchaikovsky/dp/B000003EYF%3FSubscriptionId%3D175BC0N2BCT0X4DAZG82%26tag%3Damebablog-a411407-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB000003EYF


 クラシック演奏史における伝説の指揮者とピアニストによる競演が実現した、ドリーミーなアルバムだ。この演奏は1943年に録音されたが、もう一枚1941年のものが存在するらしい。僕は両者について詳しいことは知らないけれど、トスカニーニの娘がホロヴィッツと結婚した事実を鑑みると、良い関係だったのだろう。

 さて、このアルバムは最高にエキセントリックでおもしろい。やりたい放題演奏するホロヴィッツに、トスカニーニが正面から張り合っている。一般的に協奏曲ではオケとソリストが助け合うことが理想的な関係なのだろうが、この演奏からはそのような思いやりはあまり感じ取れない。むしろついてこれるかと挑発し、互いを振り落とそうとしているかのようだ。

 第一楽章の冒頭からして、狂っている。鍵盤を激しく打ち鳴らすホロヴィッツに、応酬するトスカニーニ。ニ頭の竜が激しく争いながら天を駆け上っていくような力強さがある。何もそんなお互い意固地にならんでも、と可笑しくなるくらいだ。

第二楽章はさすがに休戦状態、お互い和やかな雰囲気で進んでいく。しかしそれはあくまでも次の戦いへの準備にすぎないのだ。

第三楽章は、予想どおり再びぶつかり合いが始まる。ホロヴィッツはテンポをがんがんあげ、トスカニーニも堂々とそれを受け止める。崩壊しそうでしない独特の緊張関係の上にこの演奏は成り立っている。もうわけのわからない圧倒的な迫力が生まれている。
 
 別に喧嘩し合っているわけではない。互いの限界を演奏の中で引き出し合うような、実に高度な掛け合いが繰り広げられているのだ。最後のクライマックスにおけるスケールの大きさは、間違いなく伝説上の二人だからこそ作り上げることができたのだろう。

 協奏曲のあるべき姿はこのアルバムにあらわれていると思う。協奏曲とは馴れ合いではない。互いの限界のギリギリを追求していく実に挑戦的な形態であるのだ。

 この演奏は先日発売したボックスに収録されている他、単品でも手に入る。際物好きにはたまらない逸品かと思います。
http://classicalmusic.livedoor.biz/archives/52238846.html

ホロヴィッツ&トスカニーニのチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番(1943年ライヴ)/ホロヴィッツのムソルグスキー:展覧会の絵(1951年ライヴ)


ホロヴィッツが岳父トスカニーニと共演したチャイコフスキーはこの曲を語るときに決して忘れることの出来ない名盤である。

筆者の考えではこの名作の現在までの最高の演奏であると同時に、ホロヴィッツが残した膨大な量の録音の中でも、その頂点にランクされる名演である。

ホロヴィッツは、驚嘆すべき技巧、鋭いタッチで圧倒するばかりでなく、ホロヴィッツ特有のアクセントの付け方が、ここではすべて曲の内的論理に適っており、聴き手の心に一音一音が突き刺さってくる。

かなり速めなテンポが設定されたこの演奏では、ホロヴィッツがそれを少しも苦にせずに唖然とするような快演を展開しているが、トスカニーニとの極限まで緊迫した対話から生まれる白熱的な緊張感は、この演奏そのものが作品を高濃度のエネルギー体に昇華させているかのような印象さえも抱かせる。

フィナーレなどは、とくに時間が一瞬に凝縮されたと思えるほどの燃焼度を示しており、信じられないような熱気を放っている。

ホロヴィッツの《展覧会の絵》には1947年のスタジオ録音もあり、演奏の完成度ではそちらをとるべきかもしれないが、より彼らしい白熱した演奏はこちらの1951年のカーネギー・ライヴであろう。

ヴィルトゥオーゾ・スタイルを貫きながら、変幻自在のタッチによってそれぞれの絵をまるで手に取るように表現していく。

そこには空疎感は微塵もなく、聴き手は彼の自由に飛翔するファンタジーにただ心を奪われるばかりだ。

最後の〈キエフの大門〉では自ら編曲を加え、より演奏効果が上がるように工夫されている。
http://classicalmusic.livedoor.biz/archives/52238846.html


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Vladimir Horowitz 1947 / Mussorgsky Pictures at an Exhibition
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8991917
https://www.youtube.com/results?search_query=Vladimir+Horowitz+1947+%2F+Mussorgsky+Pictures+at+an+Exhibition+


Vladimir Horowitz 1951 Live Mussorgsky: Pictures At An Exhibition
https://www.youtube.com/results?search_query=Vladimir+Horowitz+1951+Live+Mussorgsky%3A+Pictures+At+An+Exhibition+

5. 中川隆[-10394] koaQ7Jey 2019年5月18日 13:45:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1925] 報告

本物の天才と紛い物の天才と何が違うかというと:


ウラディミール・ホロヴィッツ(VLADIMIR HOROWITZ、1904〜1989、ロシア)

呼称:鍵盤の魔術師

孤高の天才ピアニスト・ウラディミール・ホロヴィッツは、悪魔に魂を売りそれと引き換えに超絶技巧を譲り受けたという伝説さえ産んだヴァイオリニスト・パガニーニのピアニスト版とも言えるでしょう。作曲家でピアニストでもあったセルゲイ・ラフマニノフとも深い親交があり、彼のヴィルトゥオーゾ・スタイルの流れを受け継いだ巨匠としても尊敬を集め、とても有徳の人とは思えない悪魔的な鍵盤の魔術師として、20世紀最高の巨匠として君臨した大ヴィルトゥオーゾでした。

ホロヴィッツを聴くということはまず第一に彼の並外れたパワーによる超絶技巧を聴くということでしょう。消え入るような最弱音から雷のようなフォルテッシモまで音量を自在に操り、88鍵を完全支配するテクニックはまさに驚異的です。その意味で彼と度々比較され並び称された巨匠ルービンシュタインとは全く性格の異なるピアニストです。

ホロヴィッツのレパートリーは決して広くはなく、レコードではまとまった録音をあまり残していないようですが、オムニバス形式でのライブ盤など、彼の持ち味がいかんなく発揮された超絶的な名演奏が多いです。とくに彼はその超絶技巧を誇示するために既存の作品に独自のアレンジを施して、ピアニスティックな装飾を随所にちりばめ、演奏会で好んで取り上げていたようです。とくに傑作なのはスーザ作曲ホロヴィッツ編曲の「星条旗よ永遠なれ」で、これはどう聴いても腕2本で弾ける曲ではないように思えます(腕3本で弾いているように聞こえる)。

ホロヴィッツ自身は非常に神経質な人だったそうで、ピアニストの奇人変人伝説には必ずと言ってよいほど登場します。演奏スタイルも彼独自の信念に基づいたもので、一時の気の緩みも許されないほどの緊迫感に満ちています。演奏中、常識ではおよそ考えられないようなアゴーギクやデュナーミクを酷使するため、次の瞬間起こるであろう出来事の予測が難しく、常に強い緊張を強いられます。演奏中随所にただならぬ気配を感じさせる音の運びをし、どーっと雷を落とす彼の演奏スタイルは彼独自のもので、この人の演奏がツボにはまると、他の誰の演奏からも体験することのできない、恐怖に満ちたスリリングな感動を味わうことができます。
http://www10.plala.or.jp/frederic3/pianist/horowitz.html

   改めて「ホロヴィッツが好きなピアニストです」と言うのはなんとも気恥ずかしいのだが、やはり取り上げない訳にはいかないピアニストであろう。ホロヴィッツの伝記的内容や演奏論等は山のようにあり、ホロヴィッツ一本でHPを運営されている方もいらっしゃるのでここでは極めて個人的な体験としてのホロヴィッツを書くことにする。

 ホロヴィッツは若い頃から怜悧な超絶技巧を身につけていたのは古いEMI録音を聴けばわかることだが、実際その超絶技巧が我々の思っている程のものであったのかは微妙なような気がする。勿論指捌きが悪いなどという事はないが、むしろホロヴィッツの美質はその研ぎ澄まされた鋭い音色にあり特に小さな音による速いパッセージでの彼独特の鍵盤をはじく様なノンレガートによる奏法−これは人間の聴覚にはあたかもレガートのように聴こえる−にあると私は思っている。ホロヴィッツの爆音は伝説であるが、爆音は小さな音が磨き抜かれてこそ爆発するのである。

 極端な言い方をすればホロヴィッツにとって音楽の真髄などどうでもいいことで、いかに人間の聴覚を騙し(言葉が悪ければ錯覚させ)その作品の音符を音響的に磨きあげるか、という事がホロヴィッツトーンの謎をとく最大の秘密ではなかろうかと思う。そして彼の神経過敏症−それは演奏活動を中断するほどの病的なものであったが−気質と密接に関係があるといえる。

ホロヴィッツのライヴ盤、ヒストリックリターンでもいいのだが、を聴くとまず他のピアニストの演奏から聴くことの出来ない神経症的な緊張感、それはほとんどその場から逃げ出したくなるようなギリギリの精神状態が聴き手に伝わってくるのである。

ホロヴィッツはルービンシュタインを軽視しルービンシュタインは非常に気を悪くしたということだが、ホロヴィッツにとってルービンシュタインの余裕のある安定した安心して聴ける音作りこそが批判の的だったのではないかと私は思う。ホロヴィッツはあくまで音楽は聴覚的なものであることに拘ったピアニストであったと言うのが私の見解である。
 
    勿論、現実のホロヴィッツが上記のようなことを言っていた訳ではないのであくまで私の感想なのだが、このことは多くの人が少なからず感じているのではないだろうか。

 しかし、残されたホロヴィッツの録音は一部不調時の時のものを除いて本当に素晴らしい(不調時の時でさえその素晴らしさは伝わってくる)。中でも私はRCAでの録音が最もホロヴィッツの翳りのある鋭い音質感覚を想像する事ができるように思う。それに比べCBSでの録音は録音優秀ではあるが調整が入っているのかあまりホロヴィッツの音をとらえ切れていないように思う。

 最後に一つ。SonyからCBS録音の紙ジャケット仕様オリジナル盤のCDが復刻されたがRCAも見習ってもらいたい。せめてLP時代に出たRCAの「ホロヴィッツコレクション」レベルのジャケットデザインにならないものだろうか。「生きながらにして伝説と化したピアニスト」ホロヴィッツをこれほど端的に表現したジャケットは無いのではなかろうか(左写真)?
http://www.ne.jp/asahi/yagi/piano/music/pianist/pianist8/pianist8.htm


要するに、鬼気迫るオーラが有るかどうかが天才と秀才の違いなのですね。

そしてそのホロヴィッツも天才であったのは 1938年頃からコンサート活動を引退した 1953年までの僅か15年間で、それ以降は完全におまけの人生でした。

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