http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/438.html
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(回答先: アメリカの演奏家は何故みんな演奏技術だけ凄くて中身ゼロなのか 投稿者 中川隆 日時 2019 年 5 月 18 日 13:17:45)
アメリカ人には音楽は理解できない _ 天才ピアニスト ヴァン・クライバーンとは何だったのか?
ヴァン・クライバーン 動画
http://www.nicovideo.jp/tag/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3
http://www.youtube.com/results?search_query=Van+Cliburn+&oq=Van+Cliburn+&gs_l=youtube-reduced.3..0.72235.74106.0.74453.2.2.0.0.0.0.133.249.0j2.2.0...0.0...1ac.1.j8mKnwV7CUo
http://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3&oq=%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3&gs_l=youtube-reduced.3..0l2.2092.2092.0.2825.1.1.0.0.0.0.287.287.2-1.1.0...0.0...1ac.8-JJirE_CYk
Kabalevsky Rondo 1958 Competition Finale Van Cliburn Rec 1958.wmv
http://www.youtube.com/watch?v=VF1mZZPtl54
The Van Cliburn Collection
An interview with Van Cliburn as he discusses highlights from his personal collection to be offered 17 May 2012 in New York.
http://www.youtube.com/watch?v=a5WqZqMcNrc
チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番変ロ短調OP.23
ヴァン・クライバーン(Pf) キリル・コンドラシン指揮シンフォニー・オーケストラ1958.5.30、ニューヨーク、カーネギーホール
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14114510
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20214185
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調
キリル・コンドラシン 指揮 モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団
1962年 モスクワ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15623235
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15623471
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番ハ短調 Op.18
ヴァン・クライバーン(Pf) フリッツ・ライナー指揮 シカゴ交響楽団
録音:1962年3月31日、4月2日、シカゴ、オーケストラホール
http://www.nicovideo.jp/watch/sm17994733
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲2番 ハ短調 作品18
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1750709
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1750930
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1751185
Van CLIBURN plays RACHMANINOV 3d Concerto VIDEO Moscow 1958
http://www.youtube.com/watch?v=apNTq-Tgf4w
http://www.youtube.com/watch?v=V6bOffYLYlM
http://www.youtube.com/watch?v=xGDMXQGpHzo
http://www.youtube.com/watch?v=hBuSHK2tAEQ
http://www.youtube.com/watch?v=lV9bmcE7d5Y
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番ハ長調作品26
ワルター・ヘンドル(指揮) シカゴ交響楽団
1960年10月22,24日 シカゴ・シンフォニー・ホール
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20215627
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番 『皇帝』
キリル・コンドラシン 指揮 モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団
1962年 モスクワ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16256259
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16256585
シューマン:ピアノ協奏曲イ短調 Op.54
フリッツ・ライナー(指揮)シカゴ交響楽団
1960年4月16日/シカゴ・オーケストラ・ホール
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20215384
Piano Concerto No 1 Op 11 in Em - Chopin (Van Cliburn)
http://www.youtube.com/watch?v=G5lClCK06xg
ショパン(Chopin)「12の練習曲 Op.10 第12番 ハ短調『革命』」
映像は1972年のモスクワ・リサイタルからです。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14109183
Van Cliburn plays Chopin Ballade
http://www.youtube.com/watch?v=k9D2aHiFpdk
http://www.youtube.com/watch?v=GaojdMtvVc4
Chopin Nocturne No.17 (Van Cliburn, piano)
http://www.youtube.com/watch?v=3mMjs-wa1O8
スクリャービン(Scriabin)
12の練習曲 Op.8 第12番 嬰ニ短調 『悲愴』
映像は1972年のモスクワ・リサイタルからです。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14109056
ドビュッシー(Debussy)『ベルガマスク組曲 第3番 月の光 変ニ長調』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10566272
Liszt Sonata in B Minor - Van Cliburn 1960
http://www.youtube.com/watch?v=kRNdPgZ0Y-4
Van Cliburn Plays Hungarian Rhapsody No.12
http://www.youtube.com/watch?v=mwMYHgQpKSE
【訃報】ヴァン・クライバーン(アメリカ合州国のピアニスト)
ピアニストのクライバーン氏死去 冷戦下にソ連で優勝、米の英雄に
【ニューヨーク共同】冷戦下の1958年にソ連で開催された第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝した米国のピアニスト、バン・クライバーン氏が27日、南部テキサス州の自宅で死去した。78歳だった。米メディアが伝えた。最近は骨がんの治療を受けていたという。
1934年、南部ルイジアナ州生まれ。ニューヨークのジュリアード音楽院で学んだ。チャイコフスキー国際コンクールの優勝で一躍、国民的英雄に。ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)によると、ニューヨーク・マンハッタンで帰国後に行われたパレードには約10万人が詰め掛けた。
2013/02/28 06:08 【共同通信】
http://www.guardian.co.uk/world/2013/feb/27/van-cliburn-pianist-moscow-dies
に、一介の「田舎のピアニスト」だった彼が、チャイコフスキーコンクールの第一位になり、文字通りの「アメリカン・ドリーム」を実現するまでと、その後の停滞と挫折までが、アメリカのクラシック事情と共に詳しく述べられている。
ピアニストの中村紘子は近年の来日公演に関して
「その演奏はもはや正面きってどうのこうの、といえるような対象ではありませんでした。」
と論じつつ、
「彼が芸術家として成熟することなく終わってしまったのは、結局アメリカのこの豊かさ、楽しい生活に問題があったのではないか、と考えたものです。」
と述べている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3
リヒテルの「人生表も裏もある。簡単に信じるな」と言わんばかりの屈曲した名演に比べ、将来を楽観し切った疑いを知らぬ若きヤンキーの演奏。
その後、短期金儲け主義の興行主の言うままに毎晩のようにチャイコを弾き、腕の筋肉を潰し、ピアニストとして終わった(中村紘子「チャイコフスキーコンクール」)クライバーンの運命を予言していたかのよう。
http://www.hmv.co.jp/artist_Tchaikovsky-Rachmaninov_000000000025861/item_%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3%EF%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%EF%BC%86%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%8E%E3%83%95%EF%BC%9A%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2%EF%BC%88%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%89%EF%BC%B3%EF%BC%A1%EF%BC%A3%EF%BC%A4%EF%BC%89_1830252/ref/history_3
ヴァン・クライバーンさん死去 2013年2月28日 (木)
さる2月27日、アメリカの名ピアニスト、ヴァン・クライバーンさんが、進行性の骨ガンのためテキサス州の自宅で亡くなられました。78歳でした。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
【プロフィール】
ホロヴィッツが「この若者は、他の人間の2倍の音を持っている」と称え、リヒテルがチャイコフスキー国際コンクールで満点を与えたピアニスト、ヴァン・クライバーン(本名ハーヴィー・レイヴァン・クライバーン・ジュニア)は、1934年7月12日、ルイジアナ州シュリーヴポートの生まれ。
クライバーンは3歳からリストの直系の弟子でもあった母からピアノを習い始め、翌年には公衆の前で演奏、6歳でテキサス州に移ってからはさらに腕を上げ、12歳のとき、州のコンクールに優勝してヒューストン交響楽団と共演しています。
この共演で注目を集めることとなったクライバーンは、ジュリアー度音楽院に進んでロジーナ・レヴィーンに師事、在学中にもいくつもの賞を受賞しています。
そして1958年、23歳のときに第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝して、全米の注目を集めることとなり、コンクール直後に録音されたチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番はわずか2週間で100万枚の売上を記録、ビルボード誌アルバム・チャートで7週連続1位という凄まじい人気となりました。
この成功により、世界各地で演奏活動をおこなうようになったクライバーンは、1966年には日本も訪れ、以後、たびたび公演をおこなっています。
また、冷戦時代の一大トピックともなったクライバーンの優勝を記念し、1962年からはその名を冠した「ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクール」が開催されています。
クライバーンの現役時代の芸風は、優れたテクニックと美しい音に恵まれたもので、端正な解釈をスケール大きく表現する手腕は実に見事なものでした。しかし、コンクール優勝後の異常なまでの多忙さは繊細なクライバーンにはこたえたようで、幾度もの休養を余儀なくされ、やがて1978年には44歳の若さで引退を表明、以後は何度かの例外的公演を除き、事実上の隠遁状態にあったとされています。
(HMV)
http://www.hmv.co.jp/news/article/1302280024/
ヴァン・クライバーン Van Cliburn はアメリカ合州国のピアニスト。1934年、アメリカ合衆国ルイジアナ州生まれで、本名はハーヴィー・ラヴァン・クライバーン・ジュニア Harvey Lavan Cliburn Jr.。
ロジーナ・レヴィーン Rosina Lhévinne に師事した後、1958年、23歳で第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝。冷戦下のソ連のイベントに赴き優勝したことにより、一躍国民的英雄となる。
彼の演奏を生で聴いたことはないし、録音も数回聴いた程度。したがって、彼の演奏をどうこうと振り返る資格も意欲もない。
彼がその名を轟かせることになったのは、上掲記事にもあるように、チャイコフスキー国際コンクールでの優勝によってである。
1958年といえば(私は生まれていないが)、米ソ両超大国による冷戦の真っ最中。すでに5年前にスターリンは死去しており、後を継いだフルシチョフは「雪解け」外交を展開しつつあったが、そんなことで直ちに緊張が緩和されるはずもない。前年にはスプートニク1号の打ち上げ成功もあり、ソ連脅威論が大いに喧伝されていた時である。
実際なにがどうなっていたのか、真実が明らかになることはないし、今となっては不要でもある。結果として、よりによって南部の「テキサス」人が、芸術の本場であるヨーロッパ(ロシアではあるが)のコンクールで、敵国首相を前にコンクールで優勝した、という凄まじい熱狂が残った。凱旋将軍よろしく、ニューヨークをパレード(音楽家としては史上初)したりもしている。
その後、特に大きな話題になることもなく、アメリカ国内でリサイタルを開催する程度だった。
チャコフスキー国際コンクール以前にも出場したコンクールの殆どで優勝し、また20歳にならないうちにニューヨーク・フィルハーモニックとも共演を果たしている。下手ではなかったのは間違いないだろうが、本人の思いとは別に、世界が彼を引き摺り回した面もあっただろう。
報道によれば、愛する家族に囲まれての死だったという。余人がとやかく言うのとは別に、本人としては納得できる人生だったのではなかろうか。
http://blog.livedoor.jp/minhir3151/archives/51253129.html
ヴァン・クライバーンを悼む 2013年02月28日
「米国のピアニスト、ヴァン・クライバーン氏、27日骨ガンのため死去、享年78歳」とのニュース。
私と同世代ながら、30年以上前に引退、隠遁生活に入ってしまったが、私にとっては忘れ得ぬ伝説的と言っていいピアニストである。
クライバーンは、1958年、モスクワで行われたチャイコフスキー・ピアノ国際コンクールで、審査委員に入ったリヒテルがクライバーンには満点をつけ、他の候補には全て零点を付けたという逸話を残して優勝した。当時は、米ソ冷戦時代、米国は熱狂して彼の凱旋を讃えた。一躍、時の寵児となったクライバーンは多忙を極め、練習もままならぬ状態で、いつしか演奏の質も落ちて行った。そして成熟期を迎えぬまま44歳で引退してしまった。
辻井伸行さんが日本人初の優勝を果たしたヴァン・クライバーン・ピアノ国際コンクールは、クライバーンが優勝した4年後にそれを記念してできたのだが、斯様なほどに周りの熱が高くそれに翻弄されてしまったことが、早い引退に繋がったと言えるのではないか。
引退後、公衆の前に殆ど姿を見せなかったというクライバーン、晩年の想いは何処に向けられていたのだろう。
http://blog.goo.ne.jp/nakano_s88/e/f24e71fb1704e04e583321f4d0c6a250
__________
クライバーン 英雄の末路 2011/7/12(火)
ヴァン・クラーバーン、僕が初めてこの人の名前を知ったのは比較的早い時期だった。たぶん中学生になって間もない頃ではなかったろうか。チャイコフスキーコンクールに優勝した時ではなく、その後の活躍ぶりを示すレコードやラジオ・テレビの音源からである。
彼は、ジュリアード音楽院でロジーナ・レヴィーンに師事している。はて・・・と思ったらやっぱりそうだった。中村紘子の先生だった人だ。最初にこの人の話をしておくことにしよう。
ロジーナ・レヴィーンは、ウクライナのキエフにうまれたピアニストでモスクワ音楽院を卒業した。夫のヨゼフ・レヴィーンと一緒に1919年にアメリカに亡命した。夫の死後、ジュリアード音楽院の教授に請われて、1976年に亡くなるまで32年間もピアノ科で数々の優秀な音楽家を育てた。あのジョン・ウイリムズも弟子だった。
もっと面白いことがある。このロジーナ・レヴィーンは優秀な演奏家でありながら自分自身の演奏活動を公にすることはなかったのだが、75歳の時にソリストとして再デビューしている。その後、1963年レナード・バーンスタイン指揮、ニューヨーク。フィルハーモニー・オーケストラとショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏した。82歳だった。そのとき使った楽譜は65年前にモスクワ音楽院を金メダルで卒業した時のものだった。
さて、肝心のクライバーンだが、ウィキペディアによれば以下のようになる。
ヴァン・クライバーン(Van Cliburn, 1934年7月12日 - )は、アメリカ・ルイジアナ州生まれのピアニスト。本名はハーヴィー・ラヴァン・クライバーン・ジュニア(Harvey Lavan Cliburn Jr.)。
ロジーナ・レヴィーンに師事した後、1958年、23歳で世界的に権威のある第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝。冷戦下のソ連のイベントに赴き優勝したことにより、一躍国民的英雄となる。
(なお、このコンクールに審査員として参加していたスヴャトスラフ・リヒテルは、クライバーンに満点の25点を、他の者すべてに0点をつけた)
凱旋公演では、コンクール本選で指揮を担当したキリル・コンドラシンを帯同させている(ちなみに、コンドラシンの海外デビューである)。この優勝を祝してヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールが1962年より開催されている。1966年には初来日も果たしていて、日本での人気も高い。
こんなバカげた話がある。ヴァン・クラーバーンが決勝のラフマニノフの協奏曲第2番を弾き終わると、スタンディン・オベーションがおき、拍手は8分もの間鳴り止まなかったという。そのときの審査委員長は、会場にいる共産党第一書記ニキタ・フルチョフにいかがでしょうとお伺いを立てると、
「やつが、一番なのか」フルチョフは聞き返す。
「そうです」と答えると、一言
「それならば賞をやれ!」
って言ったらしい。それで決まり。
(本当かどうかは分からないがあり得る話です)
チャイコフスキー・コンクールで優勝したクライバーンは一躍アメリカの英雄になった。紙吹雪の舞う中ニューヨークに凱旋した。
当時のアメリカとソビエトはとんでもない緊張状態にあった。核兵器の数を、宇宙への一歩を、科学の粋を集めて競っていた。「一番じゃなきゃだめなんですか」なんて悠長なことを言っていられる時代ではない。スパイ合戦、目に見えない場所での小衝突は数限り無いが、すべては闇から闇に葬り去られる。折しも、核弾頭搭載ミサイルの基地がキューバに建設されるや一触即発のきな臭い時代だった。
そんな時にルイジアナ生まれの23歳の若者がロシアで主催されたコンクールで優勝したのだ、大騒ぎにならないわけがない。笑ってしまうのは、タイム誌の表紙にクライバーンが載ったことだ。そのタイトルがまたふざけている。
黄色の帯「テキサス人ロシアを征服」19,May1958,
初来日の時には日本でもレコードが売れまくっていたようで、僕の記憶にも薄ぼんやりと残っている。コンドラシンは結局その後亡命してアムステルダム・コンセルトヘボウの永久指揮者として迎えられているが、そのコンドラシンとのレコードはポップスアート部門で7週連続第1位だったというからどんなにクライバーンが持てはやされていたかが分かろうというものだ。その後のラフマニノフの2番と3番のコンチェルトもアルバムチャートで10位など破格の記録を打ち立てた。こういうことはクラシック界では、あることではなかった。
様々な音楽コンクールに優勝すると数々のご褒美がついてくる。いや、きたと書くべきだろう。レーベルとの契約、数回の記念演奏会、マスコミの取材、等々である。これらは今いろいろ見直されている。演奏家を保護する意味合いからだ。
たとえば、このクライバーンという一人の片田舎の若者が、ある日いきなりアメリカを代表する人間になり、日々演奏会やレコーディング、数々のマスコミの取材やらで自分の時間も持てないほどのスケジュールをこなしていく。やがて、目に見えない疲労が蓄積されていく。そして、それは極限状態に向かっていく。
・・・そのとある日、何かかが起きると緊張の糸がぷっつりと切れ、燃え尽き症候群を引き起こす。彼の場合父親の死がそれを引き起こした。そして、表舞台からぷっつりと姿を消した。
しばらくして、来日した時の公演に関して中村紘子はこんなことを言っている。
「その演奏は、もはや正面切ってどうのこうの、と言えるような対象ではありませんでした」
と言うのだ。さらに、
「彼が芸術家として成熟すること無く終わってしまったのは、結局アメリカの豊かさと、楽しい生活に問題があったのではないかと考えたものです」
と言っている。(2003NHK)
中村紘子氏が言うように、コンクールで賞を取るということは容易なことではないが、そうしたことに押しつぶされず、自分の行くべき道をいつでも地道に成熟していく道を探すことは難しい。これは、音楽関係者はもちろん、聴衆やマスコミの問題でもある。
自分という名もなき人間ですら、名もなく清く美しく生きたいと熱望しながらも惰性や諦めや屈辱の中で、時折挫折しそうになるではないか。況(いわん)や、天才をや!
※1958年とはどんな年だったか
前年10月に打ち上げられたスプートニクが大気圏に突入、
アメリカ初の人工衛星、エクスプローラー1号打ち上げ、
ナンシー梅木が日本人初のアカデミー助演女優賞を受賞
巨人・長嶋茂雄選手、4打席4三振デビュー。
日本コカ・コーラ、炭酸飲料「ファンタ」を日本で発売。2008年には発売50周年を迎えた。
富士重工業が「スバル・360」を発売。
シチズン時計が目覚まし付き腕時計「アラーム」を発売。
本田技研工業が「スーパーカブ」を発売。
日清食品が「チキンラーメン」を発売。
早稲田実業の王貞治投手の巨人軍入団決定。
朝日麦酒が日本初の缶入りビールを発売。
鎌田商会が「洋服タンス用 パラゾール」を発売。
三菱鉛筆が「ユニ」を発売。
東京タワー竣工。
巨人・川上哲治選手、引退。
宮内庁、皇太子・明仁親王と正田美智子の婚約を発表、ミッチー・ブームはじまる。
新1万円札発行。- 東京タワー完工式。
http://blogs.yahoo.co.jp/taroimofavor/5008222.html
ヴァン・クライバーン、進行性の癌で自宅療養中。 2012年9月 4日
ヴァン・クライバーンが進行性の骨のガンで、どうやら危ないようだ。78歳。
1958年、記念すべき第1回チャイコフスキー国際コンクールの覇者。クライバーンと言えば、私たちピアノを学んだ人間にとっては、必ず避けては通ることの出来ない、特別な存在だ。
ショスタコーヴィチにメダルを授与される写真や、ニューヨークでの歴史的な凱旋パレードの写真は、もちろん私はその出来事のはるか後年になって見たわけだが、脳裏に深く焼き付いており、今でも容易に、紙吹雪の舞うその写真を思い浮かべる事が出来る。
だがその実演に触れた人は多くないと思う。私も何枚かのCDと、DVDとでしか知らない。大きな存在だったが、巨匠と言われたわけではない。時代の寵児となり、振り回され、疲弊し、コンサートピアニストとしての華々しい活動とも縁遠くなって長い。
パートナーと共にテキサスのフォートワースに長らく住み、同地で開催される、自身の名前を冠したコンクール、それが遠く日本に住む我々との接点のほぼ全てだった。(最近では盲目のピアニスト辻井伸行が、このコンクールでハオチェン・チャンと優勝を分け合った。それによりこのコンクールの存在は一般にも知られるようになった。)
1996年に来日し協奏曲を弾いた時、演奏に対する評価はその頃も高くはなかったが、演奏を聴きに行った桐朋の私の友人が
「感動のあまり涙を堪えきれなかった」
と言ったのを印象深く覚えている。蛇足ながらこの友人は後日、ヴァン・クライバーン・コンクールに参加。クライバーン本人と話をする機会を得たそうだ。
地元の新聞、フォートワース・スター・テレグラム紙には、彼のパブリシストのコメントが掲載されている。
「彼は自宅におり、極めて平静にしている。精神状態もよい。どうか彼をそっとしておいて欲しい」。
また同紙には、近影を含む写真16枚が掲載されているが、衰えたその姿を見て、私はなんとももの哀しい気分になった。
クラシック音楽史上初めて、アルバムのミリオン・セラーを達成した人。トルーマンからオバマまで歴代の大統領全員の前で演奏を行った人。その人の生が、終わりに近づいている(もちろん、"奇跡的に回復"という可能性もあるのかもしれないが)。
一つの時代が終わりを告げようとしている。そしてクライバーンの名前は、ゆるやかに忘れ去られていく事になるのだ。
■ フォートワース・スター・テレグラム紙 2012年8月29日付の記事:
Van Cliburn diagnosed with advanced bone cancer
http://www.star-telegram.com/2012/08/27/4209871/van-cliburn-diagnosed-with-advanced.html
http://www.musashino-culture.or.jp/weblog/2012/09/post-132.html
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