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ドイツにもまともな軍人はいたけど _ カナリス提督 
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投稿者 中川隆 日時 2019 年 4 月 19 日 19:12:43: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: ドイツ人を変えたヒトラー奇跡の演説 _ ヨーロッパの戦い こうして始まった!  投稿者 中川隆 日時 2019 年 4 月 17 日 12:50:36)


ドイツにもまともな軍人はいたけど _ カナリス提督 


ヒトラーと将軍たち カナリス提督 Hitler's Generals Canalis - YouTube 動画
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ヴィルヘルム・カナリス
http://www10.plala.or.jp/elf_/hakenkreuz/canaris.html


カナリス提督 反ヒトラー派のスパイ

1942年9月30日。アウシュヴィッツに列車が向かいました。乗客800人の大部分はオランダのユダヤ人です。同日、ドイツからスイスに向かう急行列車。ここにもユダヤ人がいました。乗客は全員で12人です。バーゼル駅まで行けば、彼らは自由です。

ドイツ系ユダヤ人 イルムガルト・アムソン「バーゼル到着は夜明けでした。覚えているのは、みんながユダヤ人の印を袖からちぎったことです。服が破れるのも一向に構いません。激しくちぎると床を足で踏み鳴らしました。忘れられません。」

彼らを救ったのはヒトラーの部下でした。何百人も救った人物。ヴィルヘルム・カナリス、国防軍情報部長(写真右)。

そのころの東部戦線。後方でのパルチザンとの戦いを指示したのもカナリスです。スパイ活動、妨害活動、口コミ(プロパガンダ)が任務でした。損失の大きい、汚い戦争です。

情報員訓練教官 R・シュターリッツ「後方で活動した情報員で、生き残ったのはせいぜい5から10パーセントだ。」.

ヒトラー配下の軍人。服従と良心の狭間で彼らは戦いました。抑圧と抗議。ヒトラーに助力した敵対者。人々を救いつつ他の人々の殺害命令を出す。カナリスに答えはわかりませんでした。

イギリス情報部員 H・トレヴァー・ローバー「法律と宗教の対立はギリシア悲劇でも描かれている。常に自身に問い、答えを見出さねばならない。」.

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情報部長として

1935年の夏。幻想の時代です。数年後に何が起こるか、彼らには想像できません。カナリスはこの年、情報部長になりました。情報部アップヴェーアは国防軍所属でした。この部門は、新しい国家と共に歩みます。

「国防の日」で彼の姿は撮影されていません。痕跡が残るカメラを彼は嫌いました。

カナリスの友人 W・レーフェルト「彼が50歳くらいのときに私は知り合いました。海軍に所属することを誇りに思う、とても善良なドイツ人でした。」.

ハンス・オスターの娘 バルバラ・V・クラウス「カナリス提督は、とても親切で、物静かな人でした。」.

カナリスの部下 Rラインハルト・シュピッツィ「彼は小柄で、純真な丸い目で見つめていた。人をだますことを楽しんでいた。」

戦後、彼は伝説となりました。独裁者の陰にいた「善人」の典型です。しかし事実は複雑です。当初は「総統」を尊敬しこの文章を書きました。

“国防軍は総統の意向を正確に実現するべきだ”。非ナチ党員でしたが、ヒトラーを国家元首にふさわしいと考えました。

ドーナニーの息子 クラウス・V・ドーナニー「彼は積極的な愛国者だった。ヴェルサイユ条約など1920年代のドイツの状況は、民主主義者たちも、ひどいと感じていた。それを排除したヒトラーは正しいと考えられた。そののちに、恐怖を知った。彼の本質は悪魔だと感じた人は少なかった。」

カナリスは悪魔に気づきません。親衛隊のスパイ活動も気にしませんでした。警告した人物にこう言いました。“私はこの若者たちで十分だ”。

優秀な情報部〜反乱運動への参加

やがて情報部は注目を浴び、スパイ活動を拡張します。情報員は増え、装備もよくなり、敵は感心しました。

イギリスの情報員 ビル・クルーム「カナリスはまさにプロで情報員も優秀。うらやましかった。」

彼はヒトラーと面識がありました。1933年(ヒトラーの)キールの艦隊訪問。彼らは互いを高く評価しました。当時カナリスは、戦艦シュレージエンの艦長でした。彼はヒトラーにとって必要な人物でした。これまでに多くの仕事をした人物です。第一次世界大戦ではUボート艦長として叙勲。既に中立国のスペインで情報員の経験を積んでいました。2度逮捕されました。一度は命がけのアンデス越えで、チリからアルゼンチンに脱出。次は聖職者の服を着てイタリアの刑務所から脱出。女スパイ、マタ・ハリと関係したともいわれます。彼が好んで広めたうわさです。

ローザ・ルクセンブルク殺害の裁判では、彼は犯人に協力しました。彼は軍法法廷で、犯人に軽い刑を宣告しました。2年間の懲役です。間もなく、偽の軍服と書類で、ある軍人が犯人を逃がしました。カナリスには、共産主義者殺害は犯罪ではありません。政治的なバランスの取れた判決と、上司は評価しました。彼はナチ国家でも昇進を始めます。

カナリスの部下 Rラインハルト・シュピッツィ「ヒトラーは、彼のことを優秀な情報部長だと考えた。比肩しうる者はいないとも。」

優秀だと誤認される最初の経歴。1936年スペイン内戦、敵は再び共産主義者です。右翼の希望フランコは、彼の知己ちきでした。モロッコにいた軍の移動を、フランコはヒトラーに依頼。当時バイロイトにいた彼はこの冒険をためらいます。カナリスは疑念の払拭に務めました。ドイツが移動に協力し内戦の戦況が変わりました。フランコとカナリスは親交を深めました。

カナリスは引退後の生活に、スペインの別荘を夢みました。執務室の机にはフランコの写真がありました。その他は歴史や宗教、哲学の本ばかりです。そして、彼の仕事では不可欠な三猿の像です。

カナリスの秘書 インガ・ハーグ「最初のサルは口をふさいで、二匹目が目を、三匹目が耳をふさいでいました。つまり、言わざる、見ざる、聞かざる。気をつけろという警告信号です。」

カナリス自身もそうでした。1938年、ズデーテン地方をヒトラーは要求しました。チェコスロバキアでは、動員がかけられました。カナリスが危惧する戦争は、目の前でした。ズデーテンのために危険を冒す?カナリスはチェコ軍の強さを認識し、西側の反応を危惧しました。必要ならばヒトラーに逆らうつもりでした。

1936年9月12日(ヒトラーの声)「チェコスロバキアのドイツ人は、身を守る術すべがない。彼らを守ろうではないか。」

共謀者は、友人で同僚のハンス・オスター大佐(写真左)。そして参謀総長ルートヴィヒ・ベック(写真右)です。彼らはためらいました。ヒトラー相手では、反逆罪があります。カナリスは特殊部隊にヒトラー逮捕の準備を命じました。目標は近くありませんでした。

カナリスの秘書 インガ・ハーグ「当時の参加者は全員、過去への見解は異なっても、一致していました。実際に反乱を起こす準備を、十分に整えていました。」.

ハイドリヒとの親交とハイデン牧師の救出

突然、転機が訪れます。イギリス首相はヒトラーにズデーテン割譲を認めました。戦争準備の時間稼ぎが目的です。平和の使者としての歓迎。反乱者は一時的に解散。歓迎される人物の打倒は、不可能です。カナリスは冷静に判断しました。計画は敵に気づかれたでしょうか。親衛隊の実力者ハイドリヒ(写真右)は?カナリスは彼と親交を深め、乗馬仲間になりました。ヒトラー信奉者との交友は職務からか、友情からか。

ハンス・オスターの娘 バルバラ・V・クラウス「ハイドリヒは、以前から提督と知り合いでした。この交友関係は、当然大切に続けられました。提督には情報部長として重要でしたから。ハイドリヒを敵に回したら、大部分の仕事ができません。」

仕事以上のものでした。カナリスの家の向かいにハイドリヒが転居し、家族ぐるみで交際しました。第三帝国内の奇妙な関係。カナリスと大量虐殺の首謀者の友情です。シナゴーグ破壊が始まっても、関係は続きました。1938年、カナリスは動揺します。上司のカイテルは、苦情に対し何もしませんでした。彼は、大悪の中の小悪を正そうとしました。第三帝国内の奇妙な関係。カナリスと大量虐殺の首謀者の友情です。牧師ハイデンはユダヤ人迫害に反対し、ゲシュタポに逮捕され、カナリスが救出しました。

ハイデン牧師の息子 ジークフリート・ハイデン「同じ日の午後、カナリスは尋問にこう答えた。牧師はそう言わなかった、と。そうやって彼は罠から抜け出した。父のためにした、最もよい行動だった。」

彼は同時に、独裁者の有能な助手でした。戦艦ディルビッツの命名式(写真左)。軍備拡張の功績により、カナリスが来賓でした。見えない前線、スパイ活動です。多くの戦利品を得ました。アメリカの高性能の爆撃照準器。フランス海軍の暗号の解読法は、今後活用できます。情報員同様、テロリズムも中央の指示で輸出されました。アイルランドではIRAの支援です。

IRAテロリストの息子 D・オドノヴァン「ドイツとの連絡用無線機をIRAは求め、手に入れた。武器購入の資金も手に入れた。ドイツからの軍事支援も求めたが、これは夢で、実現しなかった。」

ドイツ情報部の支援によるIRAの爆破テロ。イギリスの敵は、ドイツが支援しました。アイルランドのテロリストも。犠牲者への責任は、カナリスにあります。迫害される人々を守り、不正を主導する。矛盾する行動を、同時に処理しました。

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西側への戦争阻止の試み

1939年8月。スペインからコンドル軍団が帰還。カナリスが道をつけた戦争です。彼は、大きな戦争の序曲にすぎないと気づきました。これは唯一現存するカナリスの動画(写真左 註:動画フィルムに収められてはいるが、あまり動きはない。)です。当時彼は志を同じくする将官たちと、災厄の回避を試みました。

カナリスの部下 Rラインハルト・シュピッツィ「彼は心の底からキリスト教徒だった。そしてこう確信し、ひどく悩んでいた。この無意味な戦争で、ドイツの終わりが訪れる、と。」

ドイツの終わりは1週間早く始まりました。8月26日の朝。ある部隊がポーランド南部を襲撃しました。第二次世界大戦初の戦闘(を行ったの)はカナリスの部下でした。彼らに無線機がなかったからです。全軍への攻撃命令は当日夜に撤回されました。彼らだけが、撤回を知りませんでした。独裁者は5日後に攻撃を命じました。

カナリスは占領後間もないワルシャワに入り、驚愕します。破壊、窮乏、最初の殺戮さつりく。再び手続き通り、上司に苦情を言いました。再び却下されました。彼は忠実に働く罪ほろぼしか、人々を助けました。迫害されたポーランド人を保護し、外国に送り出しました。

カナリスが救出した K・マンコフスカ伯爵夫人「彼はロンドンで何もしなくていいと。彼が唯一頼んだのは、残酷ではないドイツ人もいると伝えること。全員が醜悪なのではない、連合軍が理解を示し抵抗運動を支援すれば、共同戦線を張れるかもしれない、と。」

戦線は実現せず、将官で賛同する者はいませんでした。彼は西側への侵略戦争を防ぐ共謀者を捜しました。彼らはヒトラーに従います。

ハンス・オスターのヒトラー背信とハイドリヒの看破

1940年初頭、ドイツ兵のノルウェーに向けた乗船。カナリスは最後まで阻止に努めました。同時に、入念な準備。西側への裏切りを、彼は知りません。彼の友人オスター(写真右)は、ヒトラーへの背信を決意。.

ハンス・オスターの娘 バルバラ・V・クラウス「ルビコン川を越えたと、彼は言っていました。そして良心にかけて責任を取ると。釈明しなければならない日が来る、とも。ヒトラーよりも高い存在に。」

ヒトラーに西側の強さを見せ付けようと、オスターはオランダ側に作戦内容を連絡。多くの兵士は、現在でもこの方法を許せません。

ブランデンブルク師団 H・クリスティアンセン「味方の兵士を死に追いやる行為だ。平和を望んでも、作戦漏洩ろうえいはいけない。裏切り者が優雅に暮らす一方で、裏切られた兵士が戦場で攻撃されるのだから。」

1940年5月、フランスへの攻撃。西側はオスターの情報を信用しません。彼の行動は無意味でした。一方、カナリス指揮下の部隊が、短期での勝利をもたらします。ブランデンブルク師団の活躍で、電撃戦を制しました。ヴェルダンの総司令官。友人の裏切りをまだ知らないカナリスも喜びました。国家反逆罪防止も情報部の役目でした。プロパガンダとの協力です。

<静かに!>『密告者』1936年のプロパガンダ映画「彼は軽率に秘密を外国に手渡した。立派な犯罪行為。その行為が意図的なものなら国家反逆罪だ。情状酌量はない。」

「スローガンは『口をつぐめ、敵が聞きつけるぞ』。」<静かに!>.

盗聴記録でオスターの行為が報告されました。カナリスは、自分のためにも彼を擁護。しかし、親衛隊のライバルも知り、情報部長を攻撃する材料としました。

親衛隊情報部員 W・ヘッテル「ハイドリヒは早くからカナリスを見抜いていた。ハイドリヒはヒトラーに何度も知らせ、警告していた。そしてハイドリヒは驚いた。事情を知る我々も驚いたことに、ヒトラーはカナリスを高く評価していた。そして長い間、彼をかばっていた。」

ヒムラー(写真左、中央の人物)も彼をかばいました。野心家ハイドリヒの対抗相手として。(カナリスは)ハイドリヒとの友情を続け、一方で情報機関の地位をめぐり争いました。カナリスは敗北を予感しました。協議での欠席が増えます。悪と道徳の狭間で揺れ、仕事に疲れました。すべての前線において。

カナリスの部下 Rラインハルト・シュピッツィ「彼は戦争の間じゅう、ずっと恐れていた。だから彼は旅をし、落ち着かなかった。心の平穏を失い、突然旅に出ていた。1週間不在のあと戻ってきたり、彼はとても突飛とっぴだった。」

部下がゲットー開設を報告します。大量虐殺の前段階です。彼は情報を集めました。彼の親友ドーナニー(写真右)は、有罪の証拠を集めました。ヒトラーを裁判にかける日のために。後日、この資料が破滅をもたらします。

薄暗いカトリック教会に彼は逃げました。精神の慰めです。

カナリスの秘書 インガ・ハーグ「意気消沈していたのは、表情で分かりました。彼の眼はすっかり曇り、悲しげでした。」.

フランコへの助言〜ドイツ破滅への道

スペイン旅行は気晴らしでした。ヒトラーの指示で極秘の旅。ジブラルタル征服をフランコに説得します。

カナリスの部下 Rラインハルト・シュピッツィ「セヴァストーポリに集まった巨大な大砲があれば、激しい戦いになるが、容易に勝てただろう。」

艦隊基地が地中海支配の鍵でした。しかし彼は任務遂行を考えず、フランコに不関与を助言しました。友好的に拒絶したため、(カナリスは)その後も地位を保ちました。

1941年6月9日、オランダ。ヴィルヘルム2世(写真左:ヴィルヘルム2世の棺の葬列)の埋葬。カナリスにとってのドイツも、これで葬られました。そして、ドイツの破滅への道。カナリスが警告した、ソ連侵攻の始まりです。(カナリスは)頭上を飛ぶ爆撃機の増加を予想しました。軍備では対抗できないことも。

総司令官にとって、情報部長の予想は悲観的でした。

イギリスの情報員 ビル・クルーム「絶望的だったろう。納得ゆく情報を集めても上司が聞き入れないのだから。」

ソ連侵攻〜ハイドリヒの死

1941年6月22日、国防軍のソ連侵攻が始まります。機甲兵が個人的に撮影した破壊の様子です(右の3枚の写真)。冬は攻撃が停滞しました。ドイツ側の損害が増加します、カナリスの予想通り。(写真左:ドイツ兵の戦地の墓)

彼はスケープゴートとして職を解かれましたが、任務継続を主張しました。彼は司令部に赴き、総統に再任を求め、成功しました。

カナリスの秘書 インガ・ハーグ「カナリスは直接対話ができました。対処法を知っていました。ヒトラーはそのとき、とても礼儀正しくふるまい、そして好意を示しました。情報部の仕事を称賛しました。」

なぜ彼は、責任ある地位を求めたのでしょう。最悪を回避するためでした。最悪とは?血なまぐさい情報部の任務。戦争捕虜から情報員を選びます。多くは教育中に死にました。

情報員訓練教官 R・シュターリッツ「私も目にした。情報員として教育した人々が、行動開始直前に集められた。装備を整えても、不安で任務を拒否する者がいた。機密を知った者として、全員殺された。我々は殺していない。だが情報部の上司たちが、親衛隊保安部に引き渡した。処刑直前の彼らの姿を見た。」

不安を感じたスパイは射殺。ブランデンブルク師団も巻き込んだゲリラ戦です。すさまじい戦いを、元兵士はこう弁明します。

ブランデンブルク師団 H・クリスティアンセン「我々はパルチザンと同じことをした。そうしなければと考えた。なぜなら以前にドイツの負傷兵が、移動中に襲われた。きれいごとではない。自分の身を自分で守らねばならなかった。」

守れないものもいました。カナリス配下の秘密軍警察の犠牲者です。後方での殺害に関与しました。(写真右:〔ドイツ軍に逆らったユダヤ人〕)秘密軍警察は国防軍の一部隊で、構成員は6,000人、親衛隊と協力関係でした。カナリスはその行動の責任を負いました。ハイドリヒ(写真左)は親衛隊への編入を考えました。カナリスが認めませんでした。部隊をめぐり書類上で戦います。(写真右:文書「秘密警察の引継ぎ…」)結論を前に、乗馬仲間が倒れました。

カナリスの部下 Rラインハルト・シュピッツィ「階段を降りていたら、背後から声を掛けられた。“知っているか。ハイドリヒが殺された”。私は軽くこう言った。“やれやれ、あの豚が死んだ”。すると10時に来るように言われた。10時に行くと、彼はこう話した。第1に、ハイドリヒも人間だ、死者に鞭打つことをするな。第2に、あれは提督と話す口調ではない。」

国家行事としてのハイドリヒ葬礼の映像(写真左右)。国民の多くは大量虐殺の首謀者と知りません。カナリスは友人の死に涙しました。.

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情報部の作戦失敗と西側との交渉失敗

情報部の課題は、大西洋でUボートの損害が拡大する理由です。彼らは知りませんでした。連合軍がエニグマ解読に成功したことを。手痛い敗北です。情報員の逮捕による損失も増加。彼らにとって絶望的な活動でした。

IRAテロリストの息子 D・オドノヴァン「十分な教育がされず、情報も古かった。ある男性を思い出す。Uボートでやってきて、近くの駅で列車を待った。レールの錆さびに気づかないのか、数時間待った。そこは20年間使われていない駅だった。」

情報部の活動は前線から遠くなりました。パレスチナ人への武器の提供。イラクの反乱への資金提供。エジプトでの諜報活動。本物の「イングリッシュ・ペイシェント」。映画のモデルになったアルマシー伯爵(写真右)です。彼も任務に失敗。

(カナリス指揮の別の諜報員は)Uボートでアメリカへ。パストリウス作戦です。工作員はフロリダとニューヨークに上陸。任務は爆発物による攻撃とパニックの拡大。しかし上陸直後、FBIにより逮捕。アメリカのニュース映像(写真左:逮捕された工作員たち)です。6人が電気椅子で処刑。ヒトラーは怒りました。(逮捕、処刑された)彼らは功績あるナチ党員です。“ユダヤ人か犯罪者を使え”と彼(ヒトラー)は言いました。カナリスはそれに飛びつきます。ヒムラーと協議し、ユダヤ人を情報員に仕立て、解放しました。

ドイツ系ユダヤ人 ドロテー・フリース「ヒムラーが許可したそうです。私たちは諜報員としてスイスへ向かいました。イギリス人やアメリカ人から情報を探る名目でした。」

誰もスパイ活動をしません。毎日何千人もが収容所に送られ、助かった数百人は、スイスやスペインへ向かいました。彼らは今でも評価しています。

カナリスが救出した イルムガルト・アムソン「100パーセント確実なのは、1942年当時、国外脱出できなければ助からなかったということ。」

人々を救い、殺人者を助けるその顔は一致しません。カナリスは収容所のことも、自分が体制側なのも知っていました。彼はその重荷に勝てません。

カナリスの秘書 インガ・ハーグ「彼は自殺するのではと、何度も考えました。しかし彼の哲学は“助けることができる”でした。それなりの数は妨げるだろう、と。」

カナリスは再び反乱者として西側と接触します。政治的解決を探りました。相手はイギリス情報部長メンジーズ(写真右)です。

イギリス情報部員 H・トレヴァー・ローパー「条件は、西部戦線のみでの和平だった。東部でドイツはソ連との戦争を継続する。しかしこれはドイツの本来の政策だ。背後の脅威がなくなれば、ヒトラーは喜ぶだろう。」

西側諸国は拒否し、彼との接触を止めました。ソ連との同盟は、ドイツ降伏まで続きます。ドイツの劣勢は、もはや明らかでした。

ヒトラー暗殺失敗

1943年3月13日。独裁者のスモレンスク航空基地視察。ヒトラーのパイロットによる撮影(写真左)。カナリスも特別機に同乗しました。荷物の中には暗殺用の爆弾。オスターとドーナニーが首謀者。カナリスの関与の程度は?

カナリスの秘書 インガ・ハーグ「全ては聞いていないと言いました。彼らをある程度まで守れるかもしれない。だが詳細を知りたいとは思わない、と。」

詳細を知らずに、彼は裏切りを支援します。寒さで爆弾は不発に終わりました。暴君の死で解決するのかは、以前からカナリスの疑問でした。

カナリスの部下 エーベルハルト・ベートゲ「我々の全員が確信していた。この行動が、ドイツを救うものだと。ドイツの救済には必要だった。そのためには罪を犯し、指導者を排除しなければならない。その罪は、自ら負わねばならない。」.

疑念にさらされ彼は肉体的にも弱りました。1943年4月、情報部の執務室が捜索されました。照準は、謀反人のオスター(写真左)とドーナニー(写真右)です。カナリスには守れません。.

カナリスの部下 Rラインハルト・シュピッツィ「カナリスは動けなかった。あのとき、何か言うべきだった。まだ執務室に入らずに控えの間で待つように、とでも。カイテルに連絡できたはずだ。もしかしたらヒムラーやヒトラーにも、異議を申し立てられたはずだ。」

その力はありません。ヒムラーが情報部を掌握し、テロ機構は完成。カナリスは抵抗のすべなく、職を外れました。

親衛隊情報部員 W・ヘッテル「彼は自分が落ち目だと分かっていた。私は感じた。彼はもともと、退職を嫌っていなかった。恐ろしかったのだろう。」

現実が彼の予想に近づくのも恐ろしいことでした。

バイエルン東部でカナリスは軟禁状態でした。ラウエンシュタイン城(写真左)です。尊敬すべき提督の罪を、誰も立証できません。海軍除隊通知の電報は不吉な兆候でした。.

彼は家政婦あてに書きました。“家に帰りたいと思う。”.

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カナリスの逮捕

1944年7月20日、“総統は無事でした”――。カナリスは暗殺計画をベルリンで知りました。何も知らない彼も、報復に巻き込まれます。カナリスは逮捕され、尋問を受けます。彼は命がけですべてを否認します。ゲシュタポ地下室の尋問調書です。“戦争中の政権交代は、当然、卑怯な攻撃に等しいものだ。”.

ベルリンが攻撃されるなか、彼は終戦を望みました。囚人は移送されました。

ハンス・オスターの娘 バルバラ・V・クラウス「1945年2月、ベルリンは激しい攻撃を受けました。彼らは姿を消しました。新しい連絡先が分かりませんでした。やがて葉書が届きました。他愛のない内容です。住所はありません。書けなかったのでしょう。」.

そこはフロッセンビュルクの強制収容所です。

同じ場所にいた囚人 J・モーゲンセン「激しい拷問を受けたと言った。そして鼻を折られたとも言った。実際、そのようなやり方が普通だった。拷問や尋問では、締め上げる方法が採られた。彼にもやったのだろう。」

1945年3月、司令部の地下壕。偶然の発見です。カナリスの日記が鋼鉄の棚から見つかりました。ヒトラーはただちに、カナリス、オスター、ドーナニーの殺害を指示。4月9日、提督は絞首刑となりました。彼が逆らうと同時に助けていた人物の命令です。自らの罪を、どう見たのでしょう。

ドーナニーの息子 クラウス・V・ドーナニー「これはもっとも難しい問いだろう。戦争中、抵抗運動に加わった人々は、隠さねばならず、気づかれてはならなかった。戦争を行う機構に、常にいなければならなかった。」.

直後にアメリカ軍が、収容所の少数の囚人を開放しました。4日早ければ、カナリスは助かりました。勝者は彼をどう扱ったでしょうか?かつての部下は、知ろうと思いません。.

情報員訓練教官 R・シュターリッツ「彼の出動命令を忘れてはならない。人々が死へと送られた命令だ。そして人々を術にはめた。情報部の優秀さを示すため。そして一方で、反逆した。ある人にとっては命の恩人でも、何人もの人々が彼の命令で死んだ。」

カナリスは最後まで、国に尽くすことを考えました。総司令官が犯罪者と知り、反逆が始まりました。(しかし)最後の一歩を踏み出せませんでした。

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イギリス情報部員 H・トレヴァー・ローパー「ハムレットは、不正の阻止と復讐を自分に課した。しかし決断できず、そのままにとどまった。結局、最悪の結果をもたらした。その意味で、カナリスは、古いドイツのハムレットだった。」
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ヴィルヘルム・フランツ・カナリス(Wilhelm Franz Canaris, 1887年1月1日 - 1945年4月9日)は、ドイツ海軍の軍人。国防軍情報部の部長。最終階級は海軍大将。ナチス党政権下におけるドイツ国の軍事諜報機関のトップとしてアドルフ・ヒトラーを補佐する一方で、ヒトラー暗殺計画を含めた反ナチス運動に関与していたことが発覚し処刑された。

1887年1月1日、ドイツ帝国プロイセン王国ヴェストファーレン州(ドイツ語版)ドルトムント郊外のアプラーベック(ドイツ語版)にカール・カナリスとアウグスタ・カナリス(旧姓:ポップ)夫妻の末子として生まれる。父カールはルール地方で鋼鉄産業に携わる裕福な実業家だった。

1892年に一家はドイツ西部のデュッセルドルフ、同じ年にデュースブルクへと移住し、カナリスもここで育った。デュースブルクのギムナジウムに通っていた1905年4月1日に家族の反対を押し切って士官候補生として帝国海軍に入隊した。父のカールはカナリスが陸軍の騎兵隊へ入隊することを希望していた。1910年に海軍中尉に昇進した。


第一次世界大戦

第一次世界大戦前の1913年9月から防護巡洋艦ドレスデン級「ドレスデン」の艦長の副官を務めていた。この立場で第一次世界大戦開戦を迎えた。ドレスデンはドイツ東洋艦隊の一隻としてコロネル沖海戦でイギリス軽巡洋艦タウン級「グラスゴー」と交戦し撃退した。その後、ドイツ東洋艦隊が壊滅したフォークランド沖海戦の唯一の生き残り艦となり、その後、中立海域のチリへと逃れたが、1915年3月14日、チリ、ファン・フェルナンデス諸島のマス島カンバーランド湾で機関酷使により行動不能となり、本艦を発見したイギリス軽巡洋艦グラスゴーから攻撃を加えられて操舵不能に陥った。艦長はもはや自沈しかないと判断したが、それにも準備の時間が必要であり、語学に堪能なカナリス中尉をグラスゴーへ派遣して、交渉のふりをして時間を稼がせることとした。グラスゴーに入ったカナリスは「ここは中立海域であり、イギリスの攻撃は国際法違反」とグラスゴー艦長に抗議したが、グラスゴーの艦長は交渉の余地はないことをカナリスに通達した。だが、それでも自沈の時間は稼ぎ、ドレスデンはこの間に自沈に成功している。

この後、カナリスはじめドレスデンの乗組員全員がチリ当局に拘束された。しかしカナリスは、1915年8月初めに収容所から脱走した。チリ人パスポートを手に入れて、南米が真冬のこの時期にアンデス山脈を越えるという危険な旅路を経て、親独国アルゼンチンのブエノスアイレスに到達した。チリ人パスポートでイギリス船に乗り込み、イギリス軍の監視の目をすり抜けて中立国オランダへと逃れ、10月にはドイツのハンブルクへ戻ることに成功した。

ドイツ海軍はカナリスのこの脱走劇を高く評価し、カナリスをスパイとして一級の素材と判断した。1915年11月にカナリスは海軍大尉に昇進するとともに中立国スペインへ派遣され、ここにUボート補給基地を作る工作任務を与えられた。マドリードについたカナリスは「キーカ」なる偽名で工作を開始した。スペインの人士に様々なコネクションを作り、Uボートの秘密補給基地を作りあげた。この補給基地から出る漁船に偽装した補給船からUボートは弾薬や食糧、燃料を受け取り、活動の場を地中海西岸にも広げることが可能となった。またカナリスは連合軍船舶の正確な位置情報などをアドリア海ポーラにあるドイツ海軍Uボート基地に伝達した。なおこのスペイン滞在中にスペイン陸軍将校フランシスコ・フランコ(後のスペイン独裁者)と親しくなっている。

1916年に入るとドイツ海軍本部からキール軍港で魚雷艇の訓練を受けよとの命令を受けた。カナリスはドイツへ帰国するため、再度チリ人になり済まして、敵国のフランスと北イタリアを列車で通過して中立国スイスへ入ろうとしたが、スイスに入る前にイタリア警察に捕まってしまい、ジェノヴァの刑務所へ送られた。この後、スペインのマドリードに戻った(その経緯は諸説あり定かではない。脱走ともイタリアに送還されたともいわれる)。スペインからUボートでドイツへ帰国した。1917年に潜水艦隊に異動となり、大戦の後期二年はUボートに勤務した。終戦時にはUボートの艦長となっていた。

カナリスは大戦中に「マタ・ハリ」ことマルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレとの交際があり、恋人でもあった。


ヴァイマル共和国時代

カナリスは他の多くのドイツ軍人と同様、ドイツ革命とヴァイマル共和政に反対し、フライコール(義勇軍)に参加した。エアハルト海兵旅団(コンスル(執政官組織)の前身)の指導者ヘルマン・エアハルトと仲間と見られる。 1919年にカナリスは、ローザ・ルクセンブルク ならびにカール・リープクネヒト殺害で告発された同義勇軍メンバーの軍法会議に関与した。被告の大部分は釈放された。カナリスの手回しによるところが大きかった、同年彼はエリカ・ヴァークと結婚した。カナリス夫妻は二人の娘を儲けた。

その後、カナリスはグスタフ・ノスケ国防相の副官の一人となったが、1920年のカップ一揆に関与したために一時逮捕された。しかし無罪となりすぐに釈放されて、結局、キール軍港へ左遷されるのみで済んだ。カナリスは1923年にブレーメン級小型巡洋艦「ベルリン」の艦長となり、ここで海軍に入隊したばかりのラインハルト・ハイドリヒと知り合う。ハイドリヒを引き立てて彼を海軍士官学校へと進ませた。ハイドリヒとカナリスは年齢は離れていたが、親密な交友関係を持つようになった。しかしハイドリヒは結局1931年に女性問題のもつれから海軍を不名誉除隊することになる。


ナチス政権時代

カナリスは1933年成立のヒトラー政権(ナチ党の権力掌握)を賛意を持って迎えた。1934年には戦艦シュレジエンの艦長となる。さらに1935年にカナリスは親衛隊と対立を続けて更迭されたコンラート・パッツィヒ(ドイツ語版)に代わって国防軍情報部の部長に任じられた。この任命は、カナリスの第一次大戦の時のスパイとしての経歴もさることながら、カナリスがSD(親衛隊情報部)長官ラインハルト・ハイドリヒと親交関係にあったので、親衛隊やSDといたずらに対立することはないだろう、と見られたのが最大の理由であった。

ナチス時代、カナリスとハイドリヒは親交と緊張の二面的な関係を維持した。カナリス家とハイドリヒ家はベルリン郊外のシュラハテンゼー(ドイツ語版)に家を並べて隣人として家族ぐるみの付き合いをした。両者は外見上は共に家庭音楽会を開き、また、ベルリンのティーアガルテンで乗馬を楽しむ等友好的な関係を結んでいたが、個人的には嫌悪と不信があった。カナリスの価値観、ナチ政権に対する反感、犯罪的手法・テロリズムの拒否感は、ドイツの二つのスパイ機関のトップのあいだの溝を深めていった。ハイドリヒとカナリスの交渉は常にヴァルター・シェレンベルクが「緩衝材」として必要になるほど緊張していたという(シェレンベルクが回顧録に書いたところによると、シェレンベルクが二人の交渉の場からいつの間にか立ち去ると、必ずハイドリヒかカナリスのどちらかが慌てて自分を捜しに来て連れ戻したという)。カナリスは日記に「ハイドリヒに心を開いて一緒に仕事をするのは、たぶん無理だろう。あいつは血も涙もない狂信者になってしまった…。」と書いている。それでも1942年のハイドリヒの葬儀ではカナリスは涙を見せている。

国防軍情報部長としてカナリスが携わった工作には、IRAの対英テロやフランコ将軍のクーデター、アラブの民族主義者によるパレスチナ、イラク、エジプトにおける反英運動の支援などがある。また1936年には、日本と対立する中華民国と友好関係にあった陸軍主流派に逆らい、日独軍事協力を推進し、駐独日本大使大島浩と共に日独防共協定を成立に導いた。1939年8月末のポーランド侵攻の口実作りのためのグライヴィッツ事件の工作に、カナリスのアプヴェーアはうまく理由をつけて参加を拒否し、グライヴィッツ事件はSDのみで実行することとなった。1937年カナリスは大本営陸軍参謀本部から派遣された陸軍大佐大越兼二と対ソ戦争についてナチスに知られること無く秘密裏に研究を行った。その結果は対ソ戦は日独ともに国を滅ぼすというものであった。また、日本の米英との戦争は国を危うくするものと結論された。日独とも平和的手段国力を高め、諸国民の信望を集めるべきだ、というのが彼ら二人の結論であった。カナリスは日独とも平和の道以外に生きる道ないと信じており、ナチス党への不信をあらわにしていたのである。大越大佐は1938年転任を命じられ、日本に帰任した。

処刑

しかし第二次世界大戦の開戦前より、カナリスにはヒトラーの戦争も辞さない外交政策に対して疑念が生じ始め、それは時と共に増大した。彼は部長として情報機関を指揮していたが、ヒトラー暗殺とクーデターを計画していた部下のハンス・オスターやハンス・フォン・ドホナーニに協力していた。

1944年2月半ば、カナリスは国防軍情報部長から解職された。同年7月20日にヒトラー暗殺未遂事件が発生するとその3日後にライバルの親衛隊情報部 (国家保安本部第VI局)のヴァルター・シェレンベルクに逮捕された。ドイツ敗戦の直前である1945年4月に国家保安本部長のエルンスト・カルテンブルンナーは、国防軍情報部の金庫からカナリスの反逆を示す証拠文書を発見し、4月5日にこれをヒトラーに報告した。ヒトラーは即座にカナリスとその関係者の処刑を命じた。4月9日にカナリスはディートリヒ・ボンヘッファーやハンス・オスターとともにフロッセンビュルク強制収容所で絞首刑に処された。

キャリア


海軍階級

1905年4月1日 少尉候補生として入営
1906年4月7日 見習士官[要リンク修正]
1908年9月28日 少尉
1910年8月29日 中尉
1915年11月16日 大尉
1924年1月1日 海軍少佐
1929年6月1日 海軍中佐
1931年10月1日 海軍大佐
1935年5月1日 海軍少将
1938年4月1日 海軍中将
1940年1月1日 海軍大将
1944年6月30日 除隊

受章

名誉十字章前線戦士章
1918年版Uボート戦闘徽章
一級及び二級剣付戦功十字章
鉄十字勲章 1914年版二級鉄十字章 1939年版二級鉄十字章略章

1914年版一級鉄十字章 1939年版一級鉄十字章略章


ドイツ十字章銀章

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%B9
 

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コメント
1. 中川隆[-10657] koaQ7Jey 2019年4月20日 18:37:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1404] 報告

ヒトラーを敵にまわすとこういう目に遭う:

ヒトラーはあらかじめ

「陰謀者たちの死の苦しみをできるだけ長くせよ。連中にはいかなる慰めを与えてはならない。連中を家畜の生肉の様に吊るせ。」

と命令、絞首刑執行は上半身裸にし、ピアノ線の輪に首を通し時間をかけて首を絞め、さらに執行人たちは苦しみもがく被処刑者のズボンを脱がすなど、徹底して人間としての尊厳を傷付ける、非常に残忍な方法で処刑したという。

処刑の模様はヒトラーに見せるため撮影された。また見せしめのため陸軍士官学校で上映されたが、それは激しい反発を巻き起こした。処刑の映像を見てヒトラーは楽しんだという説と、嫌がったという説の両方がある。いずれにせよ、ドイツの敗戦間近にヒトラーはフィルムの廃棄を厳命し、戦後連合軍関係者が捜索したが、今日に至るまで発見されていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%B3


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