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(回答先: 平和よりも、もっと大切なものがある 投稿者 中川隆 日時 2019 年 4 月 10 日 07:09:14)
犠牲者100万?!
ナチ傀儡『クロアチア独立国』のセルビア・ユダヤ・ロマ人大量虐殺の全貌
【バルカンのアウシュビッツ】 2017/5/12
http://3rdkz.net/?p=498
あまり表に出てこないナチ傀儡国「クロアチア独立国」の、主に強制収容所のシステムの概要を説明します。
《対独協力》
大戦中にナチスドイツの手足となって協力した国々を対独協力国と呼びます。ソ連崩壊後、《対独協力》がこれまで考えられてきた以上に大きな規模で行われていたことがわかってきました。それまで《対独協力》はいわば影の歴史でした。ナチスが崩壊したあと、対独協力国は戦争やユダヤ人大虐殺の責任をすべてナチスやヒトラーやその親衛隊にかぶせようとしてきました。「自分たちも被害者だった」というテーゼを用いて国際社会の目をそらそうとしました。しかも、ほとんどの対独協力国は戦後、ソ連邦の鉄のカーテンの内側へと姿を暗ませます。新しい人民政府は当然自らの罪を認めず、「あれはドイツ人に強要されたことであった」と言い続けました。西側の調査はソ連崩壊後まで立ち入ることができず、《対独協力》は歴史の闇に埋もれて行くのです。
そんな対独協力国の中でも、ひと際異質だったのが、ナチ傀儡『クロアチア独立国(Nezavisna Država Hrvatska=以下NDH)』です。
1941年4月、ドイツ軍をはじめとした枢軸軍によって反独政府が打倒されると、その後釜として据えられたのがNDHです。指導者は弁護士のアンテ・パヴェリッチ博士で、この人物はもともとユーゴスラヴィア連合王国の政権を打倒し、クロアチアを独立させることを目指す政治家でした。彼は危険人物とみなされて国外追放され、イタリアなどに亡命します。いつしか、現状を打開するための手段として選んだのはテロでした。『ウスタシャ(=蜂起する者)』というテロ組織を率い、ハンガリーやイタリアのファシスト政権から支援を受けていました。1920年代には既にセルビア人を絶滅させるための計画を練っていたといわれています。
多様な民族を持つユーゴ
大戦期間中のユーゴスラヴィア全体の地図。ドイツ、イタリア、ブルガリア、ハンガリー、アルバニアなどに解体され、残った領土をNDHやセルビア救国政府などの傀儡政権が支配しました。
そんなテロ組織の代表者が、いまやもともとのクロアチアの領土に加え、ボスニア全土、セルビアの一部という広大な領土を統治する権限を得ました。国民はクロアチア人ばかりではなく、イスラム教を崇拝するボシュニャク人、セルビア正教会を崇拝するセルビア人、ユダヤ人やロマ人、その他多くの少数民族も混ざっていました。クロアチア人は国民の3分の2に過ぎなかったのです。
クロアチア人とセルビア人は長年の因縁がありました。クロアチア人は、セルビア人主導のユーゴ王国の中で冷遇されている、と長年感じていました。ユーゴ連合王国の中でクロアチア人が限定的ながら自治権をようやく得たのは1939年のことで、これはクロアチア人による怒りが最高潮に高まっていたからです。
とはいえ、クロアチア人とセルビア人には、人種的な違いはほとんどありません。どちらも南方スラヴ人に分類され、ほとんど同じ言語を話します。クロアチア語とセルビア語は、双方ともにラテン文字でもキリル文字でも表記することができます。違いがあるとすれば、それは宗教でした。クロアチア人は伝統的にカトリック教徒が多く、セルビア人はセルビア正教会の信者が多かったのです。よって、両民族の争いは自然と宗教戦争的色合いを強めました。
ウスタシャは棚ボタで転がってきた政権運営を単独ではうまくやれませんでした。党員は数百名にすぎず、主義主張もテロに頼る性格を除けばてんでバラバラでした。そんな中、思想的統一と新たな党員を大量に提供したのが、ユーゴ全土に存在していたカトリック教会です。ウスタシャの思想はカトリック教会の影響を強く受けています。そして真っ先に取りかかった仕事は異教徒の粛清でした。特にターゲットとされたのはセルビア人、ユダヤ人、ロマ人、共産主義者でした。ちなみに、ムスリムは第三帝国の方針に影響されたのか、クロアチアの絶滅政策に巻き込まれることはありませんでした。(イスラム教と第三帝国の黒い関係は、語りだすと膨大になる興味深いトピックスで、ここでは触れません)
クロアチアに存在した絶滅収容所
ユーゴに存在した強制収容所。約70のうち、いくつかは絶滅収容所と呼ばれました。ウスタシャはナチスドイツよりも早く絶滅収容所を欧州に設置しました。※アウシュビッツのほうが建設は早いですが、アウシュビッツ=ビルケナウが絶滅収容所として使用されはじめたきっかけは、独ソ戦の戦況の後退によるといわれビルケナウをはじめとしたドイツの絶滅収容所の多くは1941年10月以降に建設されています。
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1941年4月にはクロアチア各地でユダヤ人、セルビア人狩りが行われ、各地の収容所へと拘禁されました。そして彼らは下記の処刑場=絶滅収容所へと送られてゆくのです。
ヤドヴノ絶滅収容所(KZ Jadovno)
(41年5~8月)
犠牲者が投げ落とされた自然の穴。
1941年5月、ウスタシャ政権は欧州最初の絶滅収容所を作り上げました。それはヤドヴノ絶滅収容所と呼ばれました。クロアチアの西方、アドリア海に近いこの場所は、ゴスピッチ県警の管轄下の刑務所、『ゴスピッチ収容所』と隣接していました。ゴスピッチ収容所は中継地点としての役割を果たし、収監された者はほとんど確実にヤドヴノ絶滅収容所へと送られ、ほとんど確実に死亡しました。殺し方は、収容所周辺に存在したカルスト地形の洞穴に落とすという方法です。ヤドウノにはゴスピッチ経由で連日千人前後のセルビア人、ユダヤ人が連行されていたといいます。ヤドヴノで殺された人々の数は35000〜72000と言われています。
パグ島絶滅収容所(KZ Pag=KZ Slana,Metajna)
(41年6~8月)
ゴスピッチを経由して人々が連行された収容所はヤドヴノだけでなく、アドリア海に浮かぶパグ島も同様でした。41年6月にパグ島にはスラナ・メタイナという二つの収容所が設置され、これらはやはり人を殺すために作られた絶滅収容所でした(スラナは男性収容所、メタイナは女性収容所)。主な殺し方は重りを巻きつけて運河に蹴り落とすという方法が採用され、ほとんどの犠牲者は溺死でした。
8月20日にここは閉鎖され、その後島を占領したイタリア軍が、伝染病蔓延を恐れ死体を焼却しました。生き残った囚人はヤドヴノかヤセノヴァツに送られ、ほとんど死亡したと言われています。
パグ島のパノラマ写真。二つの絶滅収容所があった。
ヤセノヴァツ収容所群(KZ Jasenovac)
(41年8月〜)
ヤセノヴァツ収容所跡地に建立された「石の花」のモニュメント
クロアチアで最も有名な絶滅収容所で、1〜6の広大な収容所を傘下に収めていました。ヤセノヴァツは首都ザグレブとベオグラードを結ぶ鉄道の沿線のすぐそばにあり、インフラが存在していました。
ヤセノヴァツ収容所跡地にて。当時使われていた貨車。
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また、周囲を川に囲まれて敵からの防衛に有利であることに加え、囚人の脱出が困難でありました。またこの地域の湿原の灌漑は19世紀から行われており、囚人を使役してこれを継続するという方針を内外に宣伝することができました。
収容所の周囲は川で囲まれており、湿地帯となっていて地面はぬかるんでいます。
しかし、実際は上記に示したごとく、ヤセノヴァツとその周辺の下部収容所は一大処刑場であり、ここで死んだ人は7~150万と推定、かなりムラがあります。現クロアチア共和政府はヤセノヴァツの死者を7万人程度と主張し、セルビアは100万人以上を主張。歴史的な決着はついていませんが、こういう場合、中間付近に真実があるものです。
ヤセノヴァツはとても広大な施設で、単独の収容所を表す言葉ではありません。
この地方一帯に様々な施設や下部収容所が存在しています。
子供収容所のシサク。
一大処刑地点であったドーニャ・グラディナ。
女子収容所のスタラ・グラディシュカ。
ジプシー収容所のUštica。
といった具合です。
一番大きな収容所は、『レンガ工場』と呼ばれた第三収容所です。
ここでは様々な敵性人種、思想犯が集められて惨たらしく殺されました。高度なテクノロジーは一切使われませんでした。
囚人の処刑道具は50通りにも及び、リボルバー、カービン銃、機関銃、爆弾、ナイフ、斧、まさかり、木槌、鉄の棒、ハンマー、つるはし、ベルトや革の鞭と多岐にわたり、殺害方法も、絞殺、火炙り、火葬、凍死、窒息、餓死など様々でした。
ヤセノヴァツミュージアムにて。当時使われていた処刑道具。
サイミシュテ絶滅収容所(KZ Sajmište)
(42年〜)
サイミシュテで使用されたガス有蓋車と同系統のタイプ。写真はポーランドにて撮られたもの。この殺害方法はナチス親衛隊の手口である。
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旧セルビア領でNDHの最東部に位置する収容所です。クロアチア領内にありましたが、実質ドイツのゲシュタポの影響下にあったといわれます。旧ユーゴ首都ベオグラードやその周囲に古くから住まうユダヤ人やロマ人やセルビア人が多数連行され、サイミシュテからヤセノヴァツやスタラ・グラディシュカへ送られることも珍しくなかったといわれています。つまり、ここではドイツとクロアチア双方に殺戮の責任があるといって良い筈です。
ここでは10万人もの人々が殺戮されたといわれ、セルビアのユダヤ人の80〜90%が殺されたと言われており、死者数が多いことでも有名です。
殺戮と移送
このような、独自の絶滅センターを持ちつつ、ドイツの絶滅作業班と協働してアウシュビッツへの道を開きつつ、クロアチアの大量殺人政策は戦争が終わるまで執拗に続けられました。
また子供を再教育する場として、専用の強制収容所システム(シサク、ヤストレバルスコ、スタラ・グラディシュカなど)が構築され、子供たちは様々な場所へ連行されて行き、多くは二度と帰りませんでした。クロアチア人としての新しい名をもらったり、出生日を変更させられたりして、殺されなかった子供も多くは親もとへ帰れませんでしたし、多くの場合、親は既に殺されていました。また、43年以降はたくさんの子供たちがアウシュビッツへ送られました。
子供の収容と処刑地を兼ねたスタラ・グラディシュカ絶滅収容所。ヤセノヴァツ第V収容所の南東30キロに位置し、収容者のほとんどは女性と子供で、殺害方法は人工飢餓・疫病、毒ガス、銃刑、拷問…乳幼児をサヴァ川に投げ込むという方法もあった。死者数は第V収容所に匹敵するといわれる。
他の対独協力国が日和見的態度で、ソ連が近づくと態度を改める様子が見られたのに対し、クロアチアはあまりそういった態度が見られませんでした。もちろん、クロアチアにも日和見主義者はいたのでしょうが、ホロコーストやセルビア人抹殺政策は、全体としては終戦まで続けられました。これはNDHに実質の主権がなく、ドイツの操り人形であったことを意味します。アンテ・パヴェリッチはヴァチカンの手引きで逃亡に成功。のちにスペインで暗殺されます。
歴史教育
戦後、チトーの社会主義政権時代にはNDHのことを論ずることは禁じられました。このような血塗られた歴史は民族融和を阻害するものと考えられたのです。
この民族浄化の怨念や憎悪や復讐心は連綿受け継がれ、90年代のユーゴ内戦において噴出し、再び血みどろの殺戮が繰り返されました。
現在、クロアチアはナチス時代の罪を矮小化しようと努め、セルビアは逆に誇大に宣伝しようとしており、歴史観が一致した解決を見たとは言えません。うやむやのまま、ウスタシャの蛮行は闇に葬り去られようとしています。恐らく、解決を見ぬまま時代は移り変わって行くのでしょう。
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