まともな人間は芸術家にはなれない _ 4
雪国 - アンサイクロペディア 雪国とは、1935年に執筆が開始され、1937年に刊行されたノーベル文学賞作家川端康成による小説である。その後、続編も発表され、最終的に現在の形にまとまったのは1948年になる。 そして、あれほど美にこだわった作者がホースをくわえて死んじまうという醜態をさらすのは1972年になる。 新潟県南魚沼郡湯沢町を舞台に、主人公である文筆家島村と芸者駒子をめぐる人間関係を描いた作品である。 なお、雪国のつらさはこれっぽっちも描かれてはいない。 1934年から1937年にかけて、川端康成は新潟県湯沢町にある旅館「高半旅館」に逗留し、そこで雪国を舞台にした小説の構想を考え出す。その際、当時文壇の主流である「自分が経験したことを脚色して発表」という観点により、誰も知らない場所で、誰もが経験したい恋愛を、何よりも実情を正確に伝えない形で執筆する。
その結果、日本なんだけど日本じゃないような場所での恋愛という、川端が伊豆の踊り子で培った手法がまったくそのままに再現された作品ができあがり、見事いたいけな読者をだますことに成功する。もっとも、だまされない地元民にとって、ものすごく微妙な作品であることは言うまでもない。 また、当時の文壇にはもう一つの流行があり、旅行業界というものがなかった時代、観光案内的な作品を書くことにより多くの人間を作品の舞台へと旅立たせるという、今で言うタイアップ的な作品が好まれた時期であることも大きい。そのため、読者がもっとも好む清廉なイメージで語られた湯沢町は、多くの文学愛好家たちをとりこにした。 実情を鑑みずに。
作品発表当時の湯沢町 1934年当時の湯沢町は新潟と群馬の県境にある宿場町にすぎず、1931年、ようやく三国連峰にトンネルを通して、国鉄の路線である上越線が整備されたばかりだった。そんな鄙びた温泉に、後のノーベル賞作家がやってきて、その後の湯沢町の運命を大きく左右するとは、このとき誰も想像していない。 ただし、湯治場としての歴史は古く、「高半旅館」の創始者「高橋半六」によって平安時代に温泉が発見されている。ただし、日本三大薬湯と謳われた松之山温泉がすぐ近くにあったため、さほど有名というわけではなかった。 なお、1918年に湯沢町では日本史上最悪と言われる雪崩が発生し、158人が亡くなっている。地元民にとっては、こちらのほうがよっぽど雪国である。 あらすじ 書き出し
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。 日本有数の書き出しとされるこの文章にも実に惜しい部分があり、川端康成がもし、1936年にこの小説を書き始めていたら、実装が始まった雪を吹き飛ばすラッセル車のイメージにより、男女の恋愛の機微すら吹き飛ばされた可能性が高い。 なお、「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった」という形で人口に膾炙しているが、これに関しては後の映像作品が悪い。 内容(途中まで)
12月始め、主人公の島村は新しく整備された上越線に乗り込み、三国連峰をつらぬく清水トンネル(1931年開通、9702m)を抜けて新潟県を目指していた。長大な清水トンネルを抜けるには蒸気機関車では煙害が激しいため、客車は群馬県側の水上からは当時世界最先端であった電気機関車によって牽引されていた。しかし、それだとイメージが悪いので、作品ではあくまでも汽車で通す。 上越線は、それまで11時間かかっていた東京―新潟間の運行を4時間短縮させる、まさに画期的な路線であった。 無論、そんな男女の関係にまったく関係ないことは記述されていない。 客車の中で島村は、病人らしい男と一緒にいる娘・葉子に興味を惹かれる。自分が降りた駅で、その二人も降りるのを確認した島村は、行き着けの旅館に赴き、なじみの芸者、駒子を呼び、朝まで過ごす。 なお、ここでは芸者と呼んでいるが当時の温泉宿の芸者は実質アレに近い。 (回想)島村が駒子に会ったのは新緑の5月、山歩きをした後、島村が初めての湯沢を訪れた時のことである。
なお、実際の湯沢において5月の山歩きは命がけになる可能性もある。 年にもよるが、山から雪が消えるのはだいたい6月、作者の川端康成が通った、群馬県からのルートだとそれこそ7月まで雪が残っていることもザラである。 また、湯沢町と群馬県みなかみ町の境にある名峰谷川岳は特に険峻とされ、1931年から2005年までに、781人もの尊い命を奪っている。これは、エベレスト(178人)をぶっちぎりで超える、世界で一番人の命を奪った山である。 この作品における「山歩き」という言葉に誘われた人間が犠牲になっていないことを祈るばかりである。 山歩きの後、訪れた旅館で島村は駒子に出会う。駒子は当時19歳。 徒弟制度の中で19歳はまだまだ半人前である。 島村は東京から来た文筆家で一人きりの客という、旅館にとってはあまりうれしくない類の客だったため、こんな場合は団体客を優先とばかりに、半人前の駒子が島村の部屋にお酌に来ることになる。 なお、風営法ができたのは1948年のことだった。 翌日、島村は堂々と駒子に女を世話するよう頼むが、東京から来たわけの分からない客にアネさんがたを紹介すると、後で大変な目にあうかもしれないと、駒子は断る。そのくせ、夜になると酔った駒子が部屋にやってきて、二人は一夜を共にしたのだった。未成年者飲酒禁止法の制定は1922年、この段階ですでにアウト。 昼の散歩中、島村は街道で出会った駒子に誘われる。なお、駒子にはモデルは、実際に川端康成の世話をしていた松栄という芸者だといわれている。彼女は1999年まで生きている。
駒子に誘われ、島村は駒子の住む部屋に寄ってみると、そこは踊りの師匠の家の屋根裏部屋であった。 そして、来る途中の車内で見かけた二人の男女は駒子の踊りの師匠の息子(行男)と娘(葉子)だったことを知る。 行男は腸結核で長くない命だという・・・などとうまくぼかして書いてあるが、 踊りの師匠の家とは、芸者置屋、今風で言うならホステスの斡旋所である。←この文章ですらぼかして書いているんだから、実情は推して知るべし。 作品発表後の反響 作品発表後、単なる田舎の温泉だった場所にわんさか文学バカどもがやってきたもんだから、地元民は驚いたもんさ。んでもって、ノーベル賞を受賞して世界的にも有名になっちまったもんだから、芸者置場や雪国の暮らしの実情をしっている地元民は本当に困ったもんさ。 貴様ら全員、鈴木牧之の北越雪譜を読んでから来いやあ! その後の湯沢町 なお、この作品に描かれている雪国の情景は、田中角栄がすべてにおいてぶち壊している。 上越新幹線が通り、関越自動車道が建設されただけでも作品の情景がグダグダになるってのに、その上、バブル期において、その東京との連絡網のよさ、およびスキー場の立地条件のよさなどから、町全体が投機の対象となり、なんのことはない田んぼや畑に1億円、商品価値なんてまるでなかった山腹に2億円など、湯沢町全体が異常な空気に包まれる。 周辺市町村にはそんな話は全くなかったが。その結果、東京都湯沢町とまで揶揄されるほどの地価の高騰と各種施設の建設ラッシュ、何よりも情緒もクソも関係ない都会の若者たちの乱入が始まり、川端康成の言う「雪国」の情緒は完全に失われることになった。 もっとも、その後のバブル崩壊でかなりの打撃を受けることになったが、現在でも各種施設からのアガリを得ることで、新潟県有数の裕福な町として君臨している。 平成の大合併においても貧乏な隣町から合併をお願いされるも、自分たちは一人でやれると宣言し、合併した南魚沼市を尻目に、現時点において唯一の新潟県南魚沼郡の町として存在し続けている。 ・・・雪国の情景って、なに? 作者による評 「とにかく、金がないときに原稿をたくさん上げなければいけないので大変だった」 http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E9%9B%AA%E5%9B%BD ▲△▽▼
英訳すると情痴小説(ポルノ小説)『雪国』が 出来の悪い純愛小説になってしまう理由 雪国と Snow Country (上巻)
『雪国』を読めば、日本語と英語の発想がわかる! ものとものとの関係 − 発想の違いを検証する 松野町夫 (翻訳家) 日本語は抽象的な表現を好み、動詞が主役。これに対して、英語は具体的・説明的で能動的な表現を好み、名詞が主役、特に「ものとものとの関係」は実に明瞭である。 川端康成の小説『雪国』とサイデンステッカーの英訳 ”Snow Country” を教材として、日本語と英語の発想の違いを検証したい。ちなみに、エドワード・ジョージ・サイデンステッカー(Edward George Seidensticker)は、コロラド州生まれアメリカ人。川端康成自身、「私のノーベル賞の半分は、サイデンステッカー教授のものだ」と言わしめたほどの名文家・知日家であり、私たち英語学習者から見れば、彼はいわば「神さま」みたいな存在だ。教材としてこれ以上のものはないと思う。 (原文) 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れこんだ。 娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、「駅長さあん、駅長さあん。」 明かりをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。 (訳文) The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop. A girl who had been sitting on the other side of the car came over and opened the window in front of Shimamura. The snowy cold poured in. Leaning far out the window, the girl called to the station master as though he were a great distance away. The station master walked slowly over the snow, a lantern in his hand. His face was buried to the nose in a muffler, and the flaps of his cap were turned down over his face. 上記の英文を再度、日本語に訳してみる。これは訳をもう一度訳した文なので、訳訳文と呼ぶことにする。
(訳訳文) 汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た。大地は夜空の下、白く横たわっていた。信号所に汽車が止まった。
同じ車両の反対側に座っていた娘が来て、島村の前の窓を開けた。雪の冷気が流れこんだ。窓いっぱいに乗り出しながら、娘は駅長を、ずっと遠くにいるかのように大声で呼んだ。 駅長は雪を踏みながら手に明かりをさげてゆっくり歩いて来た。彼の顔は襟巻きで鼻まで包まれ、帽子の耳おおいは顔まで垂れさがっていた。 原文の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は、翻訳者泣かせの文である。この種の和文は英訳が極端に難しい。この文は、複文なのか、それとも重文なのか?トンネルを抜けたのは何だろうか?人か、車か、汽車か?雪国であったのは何か?英文では主語が必須だが、この和文には、主語に相当する主格や主題が出てこない。主語を特定できないので英訳作業に着手できないのだ。「抜ける」とか「〜であった」という動詞は大事にするが、その主体となるもの(名詞)はあっさりと省略されてしまっている。
しかし、この文は日本語として特におかしな感じはしない。それどころか、日本の第一級の文学者の、しかも文学作品の書き出しだから、推敲に推敲を重ねた名文のはず。名文なのに、どうしてこうもわかりづらいのだろうか。それはたぶん、この文が単独では自己完結しておらず、文脈に依存しているからだろうと思う。主語を特定するには、物語をもっと先の方まで読み続ける必要がある。和文は文脈に依存したものが多い。 もし、この文が報告書のような実務文書であれば、私はためらうことなく悪文とみなし、もっと具体的にわかりやすく書き直してくださいと、書き手に注文をつけたいような気にもなる。 文脈依存文で、もっと先の方まで読んでもどこにも主語を特定できる手がかりがないことも、たまにある。それでも翻訳作業は何が何でも開始しなければならない。こういう場合、私は、逐語訳の手法を採用して日本語の発想をそのまま英文に持ち込むことにしている。たぶん、苦し紛れに以下のように訳すような気がする。 Getting through the long border tunnel led to the snow country. 国境の長いトンネルを抜けると雪国へ出た。 典型的な逐語訳であり、これぐらいなら、いっそのこと動詞 get through を省略して、The long border tunnel led to the snow country. (国境の長いトンネルは雪国に出た)の方が英文としては、もう少しマシかもしれない。 サイデンステッカーは、主語を汽車にして簡潔に表現する。まさに「コロンブスの卵」である。 The train came out of the long tunnel into the snow country. 汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た。 彼は、国境ということばを無視(省略)し、The train という単語を主語として補充した。わかりやすい自然な英文だ。目をつぶると、その光景がいきいきと目に浮かぶ。”out of the long tunnel” (長いトンネルを抜け)の前置詞 out of があたかも動詞「〜を抜け」であるかのように機能している。「雪国であった」と原文ではいわば静の状態で表現されていたものが、英文では "The train came into the snow country." と能動的に表現されている。 ここで、原文と訳文の表現をもう一度比較してみよう。日英の発想の違いが一目瞭然である。 原文: 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。(日本語的発想の文脈依存文)
訳訳文: 汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た。(英語的発想の自己完結文) 訳訳文は、汽車・トンネル・雪国の「ものとものとの関係」が明白である。原文をやまとことば本来の名文だとすると、訳訳文は、英語的発想から生み出された新しいタイプの明文(わかりやすい文)である。この種の表現(自己完結文)を積極的に日本語に取り入れることで、日本語は、「あいまいさ」を排除して、さらに豊かな表現を手に入れることができるのではないか。日本語的発想の文脈依存文は文学や詩歌などの芸術分野に、英語的発想の自己完結文(明文)は報告書や説明書などの実務的分野に、という具合に使い分けるのもおもしろい。
英語的発想の自己完結文(明文)、たとえば、「汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た」は、文構造が単純なので、誰でも簡単に翻訳ができる。The train came out of the long tunnel into the snow country. 逆に言うと、日本語的発想の文脈依存文にでくわしたら、一度それを、英語的発想の自己完結文に置換してから翻訳に着手すると、作業が瞬時に完了するばかりか、作品もわかりやすい自然な英文に仕上がるといえる。英語的発想とは、主語を特定し、「ものとものとの関係」を明白にすること、たったこれだけの簡単な話である。たとえば、汽車・トンネル・雪国の3つのもの中から主語となるものを特定し、主語と別のものとを、動詞または前置詞を使用して関連付けるのである。 ちなみに、雪国の舞台は、新潟県南魚沼郡湯沢町。国境(くにざかい)は、上野国(こうずけのくに、群馬県)と越後国(えちごのくに、新潟県)の県境のこと。長いトンネルは、羽越線鉄道の清水トンネルで全長、9.7キロ。 夜の底が白くなった。 The earth lay white under the night sky. 「夜の底が白くなった」とはどういう意味なのだろうか?「夜」は通常、日が沈んで暗いとき(=時間)を意味する。しかし、時間は流れるが形がないので当然「底」などない。つまりここの「夜」は、通常の意味の「夜」ではない。では、どういう状況を表現しているのだろうか?おそらく、この「夜」は島村の車窓から見た「暗闇」を文学的に表現したのではないかと私は思う。具体的に言うと、トンネルに入る前の群馬県側では雪はなく、車窓からの夜景はただ一面の「暗闇」にすぎなかった; しかし長いトンネルを抜け雪国(=新潟の湯沢町)に入った途端、「暗闇」は一変する; 実際には、雪はずっと以前からそこの地面に積もっていたのであり、変化したわけではないのだが、島村(=川端康成)の目には、あたかも「暗闇」の下部(=地面)が突然、白く変化したかのように映ったのにちがいない。 「夜の底」という日本語の抽象的な表現に比べて、英語の The earth under the night sky (夜空の下の大地)は「具体的」「説明的」でわかりやすい。「大地」と「夜空」を前置詞 "under" で明確に関係付けている。まさに、日本語は抽象的な表現を好むが、英語は具体的な表現を好み、「ものとものとの関係」が実に明瞭だ。 "The earth lay white under the night sky." を意訳すると、「大地は夜空の下、白く横たわっていた」。要は、「地面に雪が積もっていた」ということ。直訳の "The bottom of the night became white." (夜の底が白くなった)では、何のことかさっぱりわからず、これではノーベル文学賞はとても無理だったでしょうね、きっと。 信号所に汽車が止まった。 The train pulled up at a signal stop. ウーン、やはりネイティブ・スピーカーの英文は簡潔で美しい。民族英語はいきいきとした英米文化を背景に持つ。さりげなく訳してあるが、表現が生きていますね。 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。 この文はわかりやすい。私ならおそらく原文にひきづられて、次のように訳しそうだ。 From the opposite seat a girl stood up, came over and opened the window in front of Shimamura. しかし、サイデンステッカーは、この場面をはっとするほど正確に描写する。 訳文: A girl who had been sitting on the other side of the car came over and opened the window in front of Shimamura. 同じ車両の反対側に座っていた娘がやって来て、島村の前の窓を開けた。 the car は、ここでは車ではなく、車両の意味。向側の座席 the opposite seat は、向かい側とみれば、対面または背面する座席に、向こう側とみれば同じ車両の反対側の座席に解釈される。要するにこの表現では「あいまい」なのだ。実際には、娘(葉子)と島村はちょうど斜めに向かい合っていたので、同じ車両の反対側の座席が正しい。このため、訳文では、原文にはない「車両」という名詞を新たに補充している。これにより、「ものとものとの関係」、つまり、娘の座席と島村の座席の関係が明白となる。
「立って来て、窓を開けた」 stood up, came over and opened the window であれば、娘は時系列の順番に動作しているので、動詞はすべて過去形でよいが、「座っていた娘が来て、窓を開けた」となると、時制が異なるので 「座っていた娘」は、A girl who had been sitting と過去形よりさらに過去を表す過去完了進行形が必要となる。 原文: 娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、「駅長さあん、駅長さあん。」 訳文: Leaning far out the window, the girl called to the station master as though he were a great distance away. 訳訳文: 窓いっぱいに乗り出しながら、娘は駅長をずっと遠くにいるかのように大声で呼んだ。 原文は直接話法「駅長さあん、駅長さあん。」なのに、サイデンステッカーは間接話法で訳している。これは日本語と英語の特性に関係する。日本語は、敬称、敬語、謙譲語など待遇表現が英語よりはるかに豊富なので直接話法が威力を発揮するが、英語は間接話法が得意だ。「駅長さあん」の「さあん」は、敬称「さん」の変化したもので、日本人ならこれだけで、大声で呼んだとすぐにわかるが、英語には翻訳しづらい。マレーシア英語なら、日本人の多用する敬称「さん」に慣れているので、直接話法の ”Station Master san, Station Master sa-aaa-n!” でも理解してもらえるかもしれないが。 原文: 明かりをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
訳訳文: 駅長は雪を踏みながら手に明かりをさげてゆっくり歩いて来た。彼の顔は襟巻きで鼻まで包まれ、帽子の耳おおいは顔まで垂れさがっていた。 訳文: The station master walked slowly over the snow, a lantern in his hand. His face was buried to the nose in a muffler, and the flaps of his cap were turned down over his face. 原文は「男」を主題にして文全体をひとつにまとめているのに対して、訳文は、「駅長」、「顔」、「耳おおい」と3つのものをそれぞれ主語に設定して3つの文に分けてある。「駅長」、「顔」、「耳おおい」は、いずれも原文には存在しない。「駅長」と「男」、「帽子の耳おおい」と「帽子の毛皮」は実質的に同じものなので、これは別としても、「手」や「顔」は新たに補充されたもので、「顔」などは2度も登場する。実際、訳訳文は原文よりも1.5倍ほど長い。この結果、訳文はものとものとの関係が明白だ。 「明かりをさげて」 = “a lantern in his hand” 「襟巻で鼻の上まで包み」 = “His face was buried to the nose in a muffler” 「耳に帽子の毛皮を垂れていた」 = “the flaps of his cap were turned down over his face” 「明かりをさげて」の「さげて」は動詞だが、訳文では前置詞 “in” で表現している。明かりは手に、(たとえば、腰にではなく)さげていたのだ。ここにも、名詞を多用して具体的に説明する英語の特徴が如実に現れている。
「襟巻で鼻の上まで包」んだのは何か?「顔」である。当たり前じゃないか!などと憤慨しないでください。”His face” という主語を立てないかぎり、普通の英語にはならないのです。 「耳に帽子の毛皮を垂れていた」は、「帽子の耳おおいは、顔まで垂れさがっていた」と表現している。たいした違いはないじゃないか、ですって!?いいえ、垂れていたのは、「耳」にではなく「顔」にでしょうと、訂正している。なるほど、確かに「耳おおい」は、耳を越えて顔にまでかかるものですね。いやはや、恐れ入りました。 長文は短文に分割すると翻訳が簡単! 直訳か意訳か
直訳か意訳かは翻訳者にとって永遠のテーマ。直訳は原文を字句・文法にしたがって一語一語忠実に訳すこと(literal translation)、逐語訳ともいう。意訳は字句にこだわらないで意のあるところを訳すこと(free translation)、自由訳ともいう。 若い頃、私は極端な直訳信奉者だった。といっても、主義とか思想とか、そんな高遠なものに裏うちされたものではない。単に経験不足で自分勝手にそう思い込んでいたにすぎない。当時の私は原文を絶対視していたようだ。原文の語句はすべて翻訳しなければならない、原文にない語句を勝手に補充してはならない、原文が長い文章であっても勝手に分割してはいけない、原文の形容詞や副詞は、訳文でも形容詞や副詞にしなければならない、つまり、品詞は変更してはならない、などなど。思い込みは恐い。 言語学的に似通った言語間の翻訳ならいざしらず、お互いにかけ離れた構造を持つ日本語や英語間の翻訳にそのような偏狭な手法だけで対処できるはずはないのだが、当時はしかし、そのように思い込んでいた。 川端康成の『雪国』とサイデンステッカーの英訳 ”Snow Country” は、こうした永遠のテーマに対してひとつのガイドライン(指針)を示してくれている。サイデンステッカーは必要に応じて、原文の語句を省略したり、原文にない語句を新たに補充したり、長文を短文に分割したり、品詞を変更したりする。つまり、わかりやすい英文に翻訳するために必要に応じて意訳する。 (原文) もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。 (訳文) It’s that cold, is it, thought Shimamura. Low, barracklike buildings that might have been railway dormitories were scattered here and there up the frozen slope of the mountain. The white of the snow fell away into the darkness some distance before it reached them. (訳訳文) もうそんな寒さかと島村は思った。鉄道の官舎らしい低いバラックのような建物が凍結した山の斜面のあちこちに散らばっている。雪の白さはそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。 原文は、島村の眺めた景色として文全体をひとつにまとめているが、訳文では、島村・建物・雪の白さという3つの名詞をそれぞれ主語にして3つの文に分割して仕上げてある。原文の流れも自然なら、訳文も同様に自然な流れで分断の後遺症など、まったく感じさせない。 原文は日本語的な発想に基づいた名文である。このような名文から直接、訳文のような自然な英文を創造することは極端に難しい。日本人にはまず無理。こういう場合には、名文を一度、英語的な発想の明文(わかりやすい文)に読み砕くことである。まず、長文ならいくつかの文に分断する。分断するときは動詞に注目し、概念(意味のひとまとまり)ごとに切り出す。分断箇所にはスラッシュ(斜線 “ / “) を入れる。スラッシュ (slash) は動詞では「切り裂く」の意。明文を書くには、「1つの文に1つの概念」が原則。現に、訳文ではこの原則が採用されている。英作文はこれに限る。これだと書くのが簡単で読み手も理解しやすい。 もうそんな寒さか/ と島村は外を眺める/ と、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっている/ だけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた/。 次に、分割した各文の主語(S)や動詞(V)、目的語(O)、補語(C)などを特定する。これらが省略されているときは補充する。 もうそんな寒さか/ → もうそんな寒さかと島村は思った。 島村は外を眺める/ → 島村は外を眺めた。 鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっている。 雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。 ここまでの作業で難解だった長文の名文が4つの短い明文に変換された。これなら、私たち日本人でも何とか翻訳できそう、でしょう?。俄然、やる気もわいてくる。以下に私の訳とサイデンステッカーの訳を示す。対比することで日本英語(JE)と米語(AE)の違いが実感できる。
もうそんな寒さかと島村は思った。 JE: It’s already such cold, thought Shimamura. AE: It’s that cold, is it, thought Shimamura. 島村は外を眺めた。
JE: He looked out. AE: (訳文では省略されている) 鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっている。 JE: Railway dormitorylike barracks were coldly scattered at the foot of the mountain. AE: Low, barracklike buildings that might have been railway dormitories were scattered here and there up the frozen slope of the mountain. 雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。
JE: The color of snow disappeared in the darkness on the way before it arrived there. AE: The white of the snow fell away into the darkness some distance before it reached them. ちょっと気になるのは、原文の「島村は外を眺め」は、訳文では省略されている点である。私などはつい、He looked out. という英文を挿入したくなるが、山裾のバラックなどの光景は島村の眺めた景色だということは誰の目にも明快なので、実際にはこの文がなくても少しも不都合はない。 どちらかというと逐語訳調の私のジャパニーズ・イングリッシュに比べて、サイデンステッカーの訳はすべて、当然のことながら、さすがに格調高く洗練されていて、特にバラックの描写など臨場感すら漂っており、実にいきいきとまるで映画のシーンを見ているようである。この違いはどこから来るのか? もう一度、バラックの文に焦点をあて、仔細に検討しよう。 (原文) 鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっている。 (訳文) Low, barracklike buildings that might have been railway dormitories were scattered here and there up the frozen slope of the mountain. (訳訳文)鉄道の官舎らしい低いバラックのような建物が凍結した山の斜面のあちこちに散らばっている。 バラックは米語ではbarracks(単複同形)で通常、「兵舎」を意味するようだ。もちろん、「粗末な家」の意味もあるが。訳文では、「低い」や「凍結した山の斜面」、「あちこちに」が補充されていて、これらが臨場感の演出に一役かっている。これらの語句は原文にはない。「低い」は平屋を連想させる。確かに当時の鉄道の官舎はそんな感じだったようである。「凍結した山の斜面」は原文の「寒々と」を具体的に表現したもの。「あちこちに」はバラックの散在するさまを強調しているので、挿入した方が英文ではわかりやすい。ちなみに「あちこちに」は、日本語の語順と異なりhere and there 「こちあちに」となる。 (原文)寒々と → 凍結した山の斜面に up the frozen slope of the mountain 原文では「寒々と」と副詞を使用して抽象的に表現しているが、訳文では「凍結した山の斜面」と具体的に表現している。川端康成の「寒々と」に込めた想いが訳文の ”the frozen slope” に完全に一致するとは思えないが、「日本語は抽象的な表現を好み、英語は具体的な表現を好む」という日英2つの言語の特徴が出ていておもしろい。「寒々と」を具体的に表現せよと問われたら、私は "in the freezing air" と答えるような気がする。この場面ではこの副詞句が私の語感に近い。 でも、サイデンステッカーはなぜリスクをおかしてまで「寒々と」を「凍結した山の斜面」と訳したのか?私が思うに、日本語では「家が寒々と散らばっていた」はごく普通の表現であるが、英語では、Houses were coldly scattered. とはあまり表現しないのではないか。 scatter は widely (広く)などとは連語 (collocation) になるが、coldly 「寒々と」とはあまり連結しない。だから「寒々と」を断念したのではないかと思う。インターネットを検索しても "scatter" と "coldly" の連結は見当たらない。実際、Cambridge Advanced Learner's Dictionaryは "coldly" を以下のように定義している。ロングマン米語辞典(LAAD)やオックスフォード辞典(OALD)でも似たり寄ったり。もちろん、"coldly" は cold + ly なので「寒い」という概念をいずれにせよ持っているのはまちがいないが、Houses were coldly scattered. は英米人の普通の表現にはないのかもしれない。 coldly: adverb in an unfriendly way and without emotion: "That's your problem, " she said coldly. (それはあなたの問題よ、と彼女は冷たく言った) サイデンステッカーが翻訳で目指したのは「ごく普通の自然な英文」であるのはまちがいない。どの訳文を見てもお手本になる自然な英文ばかり。だからこそ、『雪国』と "Snow Country" は日本人にとって和文英訳の手引書となり得るのである。さらにまた、これは和文英訳についての手引きではあるが、その基本的な手法や考えかたは英文和訳にも、あるいはもっと一般化して、他の言語の翻訳にも相当に適用できるのではないかと私は思っている。私にとっては手引書というよりは名人による翻訳の指導書、いや極意の書である。 日本語には間接話法はない! 地の文と会話文
会話文はわかりやすい。説明や描写の文(地の文)が長々と続いた後に会話文を目にするとほっとする。会話文は砂漠の中のオアシス。子供のころから不思議なことに、会話の部分だけは文字を読むまでもなく、音声と映像で瞬時にして理解できた。まるで、話し手の声が聞こえ表情までもいきいきと見えてくるかのように。同じような体験をお持ちの方は大勢いらっしゃるはずだと思う。 (原文) 「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます。」 「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ。」 「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ。」 「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな。」 (訳文) "How are you?" the girl called out. "It's Yoko."
"Yoko, is it. On your way back? It's gotten cold again." "I understand my brother has come to work here. Thank you for all you've done." "It will be lonely, though. This is no place for a young boy." (訳訳文) 「ご機嫌いかがですか?葉子です。」と娘は叫んだ。
「葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったね。」 「弟が今度こちらにお勤めさせていただいているそうですね。お世話になります。」 「今に寂しくなるだろうにね。ここは若いのが住むところじゃないよ。」 上述の会話文は本人の話を直接、引用しているので英文法の直接話法に相当する。英語には直接話法と間接話法がある。直接話法 (direct speech) は人のことばをそのまま伝える方法で、間接話法 (reported speech) は人のことばを話し手のことばに直してから伝える方法である。英語の直接話法と間接話法はお互いに変換することができる。 例: 「私は今、元気です」と彼は言った。
He said, "I am fine now." (直接話法 direct speech) He said (that) he was fine then. (間接話法 reported speech) 日本語は直接話法は得意だが間接話法は苦手、というより間接話法は英語の概念であり日本語にはもともと存在しない。日本語では「会話文」と「地の文」という概念がある。「地の文」とは説明や描写の文のこと。大雑把に言うと、会話文は日本語では直接話法で表現し、英語では直接話法かまたは間接話法で表現する。
「日本語の会話文」 = 日本人は「直接話法」で表現する
「英米語の会話文」 = 英米人は「直接話法」または「間接話法」で表現する 日本語では複雑な内容であっても直接話法でなら完璧に表現できるが、間接話法ではそうはいかない。私自身、間接話法の英文をそのまま間接話法で日本語に翻訳しようとして、四苦八苦した苦い経験が何度もある。単純な内容なら間接話法で表現できなくもないが、ちょっと込み入った内容になるとすぐにお手上げとなる。いくら工夫してもなかなか素直な日本語にならない。 英語の直接話法と間接話法は、表現こそ異なるが内容(意味)はまったく同じもの。複雑な内容の間接話法の英文を和訳するときは、直接話法で処理した方が自然な日本語を得やすい。この場合、意味が不明瞭にならないかぎり、かぎかっこ(「」)を省略するなど、ちょっと工夫することであたかも間接話法であるかのように見せることもできる。 例: He said he was fine then. (間接話法の英文を和訳する場合) 「私は今、元気だ」と彼は言った。 (直接話法で和訳してもよい) 今、元気だと彼は言った。 (かぎかっこを省略して間接話法のように見せることもできる) 話法の話はこれくらいにして、『雪国』の本文に戻る。 原文: 「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます。」
訳文: "How are you?" the girl called out. "It's Yoko." 「駅長さん」は今回も訳文にはない。"How are you, Station Master? It's me." と逐語訳したくなるところだが、訳文の方がもちろん、自然な英文である。 原文: 「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ。」 訳文: "Yoko, is it. On your way back? It's gotten cold again." 「ああ、葉子さんじゃないか」を "Yoko, is it." と疑問形にして疑問符はつけない。これを仮に、"Ah, it's you, Yoko, aren’t you?" などと普通の付加疑問文にすると、アメリカ風の社交的な駅長というイメージを読者に与える恐れがある。 "Yoko, is it." か、なるほどね。これなら、日本人の駅長の感じが出ている。 原文: 「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ。」 訳文: "I understand my brother has come to work here. Thank you for all you've done." 日本人は「今度」という語を愛用するが一筋縄では行かないことばだ。場合に応じて、this time, next, recently などに訳し分ける必要がある。この場合は "my brother has (recently) come" の意だが、訳文にはない。 原文: 「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな。」 訳文: "It will be lonely, though. This is no place for a young boy." 訳訳文:「今に寂しくなるだろうにね。ここは若いのが住むところじゃないよ。」 "It will be lonely" の "it" は、おなじみの形式主語。 It rains (雨が降る), It's dark here (ここは暗い) などのように、形式主語の "it" は天気や時間、距離、情況などを漠然と指す。英語は形式上、主語が必要なので挿入されたもの。通常、"it" は日本語に訳さない。 会話文はわかりやすいが、皮肉なことに会話文の翻訳は非常に難解になる場合が多い。上記の、「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな。」もその典型的な例である。民族の文化や生活に深く根ざした表現は逐語訳ではうまく処理できないのだ。「参るだろうよ」= He'll be frustrated. や「可哀想だな」= I feel (sorry) for him. などと直訳せずに、lonely や “no place for a young man” などを使用して言外ににおわせる、まさに高等技法である。 川端康成の官能的表現 直訳か意訳か
川端康成の『雪国』(新潮文庫)の8ページには「左手の人差指」について述べた長文がある。この文は物語全体とやや趣(おもむき)を異にする。私は少し違和感を覚えた。彼の作品にしては珍しく表現が露骨で肉感的な感じが強い。サイデンステッカーの英訳版 ”Snow Country” でこの文を確認したら、どうやらサイデンステッカーも戸惑いを感じていたようである。 (原文) もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどろろなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった。彼は驚いて声をあげそうになった。 (訳文) It had been three hours earlier. In his boredom, Shimamura stared at his left hand as the forefinger bent and unbent. Only this hand seemed to have a vital and immediate memory of the woman he was going to see. The more he tried to call up a clear picture of her, the more his memory failed him, the farther she faded away, leaving him nothing to catch and hold. In the midst of this uncertainty only the one hand, and in particular the forefinger, even now seemed damp from her touch, seemed to be pulling him back to her from afar. Taken with the strangeness of it, he brought the hand to his face, then quickly drew a line across the misted-over window. A woman's eye floated up before him. He almost called out in his astonishment. (訳訳文) 三時間前のことだった。退屈まぎれに、島村は左手を眺め人差指が屈伸するのを見つめていた。この手だけがこれから会いに行く女の、生き生きしたじかの思い出を持っているようだ。鮮明な女の画像を思い出そうとすればするほど、記憶は萎え、女がますます薄れてゆき、つかまえておきたいのに何も残らない。この不確実さの中で、この片手だけが、特にこの人差指が今も女の触感で濡れていて、遠くから自分をその女へ引き戻しているかのようだ。不思議に思いながら、彼は左手を顔に近づけて、それからすっかり曇った窓にさっと線を引いた。女の片眼が彼の面前に浮かび出た。彼は驚いて声をあげそうになった。 他の部分は原文に忠実なのに、「鼻につけて匂いを嗅いでみた」の部分だけは、"he brought the hand to his face" (彼は左手を顔に近づけた)とぼかして訳してある。「鼻につけて左手の匂いを嗅ぐ」を直訳すると、”he smelled his left hand” または “he put his left hand on his nose to smell it” となる。しかし訳文には「鼻」も「嗅ぐ」もどこにも出てこない。具体的な表現を好む英語がこの部分に限っては、日本語のお家芸を奪うかのごとく曖昧に表現している。なぜか?おそらくサイデンステッカーもこの部分については違和感を覚えたにちがいない。だから彼は意図的に曖昧に表現したのではないだろうか? 欧米文化では鼻はタブーらしい。英米の小説では「顔は克明に描かれている場合でも、どうしたことか鼻への言及が少ない」、「どうも欧米人は、鼻を何となくわいせつな感じ(obscene)を起こさせるものと見ているようだ」(『ことばと文化』 鈴木孝夫著、岩波新書、ものとことば、50〜51ページから抜粋) だとしたら、「鼻につけて匂いを嗅いでみた」は欧米人にとっては、いよいよ卑猥な表現となる。結局サイデンステッカーは、翻訳者としての原文への忠誠の義務に逆らってまでも、具体的な表現を好む英語の用法に逆らってまでも、あえて曖昧に表現せざるを得なかったのであろう。原文は確かに少々卑猥な感じはするが、日本語の文学的表現の許容範囲内にぎりぎり収まっている。少なくとも川端康成はそう考えた。しかし、欧米文化ではこの部分の逐語訳、たとえば、“he put his left hand on his nose to smell it” は到底一般読者の容認できるものではないのかもしれない。「鼻につけて匂いを嗅いでみた」の意訳、"he brought the hand to his face" (彼は左手を顔に近づけた)は、文化レベルにまで引き上げて考えてみると、一転して原文に忠実な訳となる。日英両文とも、お互いに文化的(= 文学的)許容範囲内にあるからだ。翻訳者としての原文への忠誠義務違反は「ことば」のレベルではまさにその通りだが、上位概念の「文化」のレベルでは免罪され忠誠義務違反に当たらない。この意訳で OK だと私は思う。 原文の2つの文のうち、最初の文は相当に長い。文字数を数えてみたら何と226文字ある。ちなみに、マイクロソフトのワードで文字数を確認するには、ワードを起動し、目的の文を新規文書に入れ、ワードのメニューバーから「ツール」、「文字カウント」の順にクリックすると、「文字カウント」ウィンドウが表示され、文字数や単語数を確認できる。それにしても 226文字とは相当に長い文だが、そこは名人、誰でも難なくすらすらと読みこなせるように仕上げてはある。 この長文は、訳文では7つの文に分割されている。長文は短文に分割する、サイデンステッカーは徹底してこの手法を採用する。分割するときは、文頭から順番に、動詞に注目しながら概念(意味のひとまとまり)ごとに切り出す。このようにして分割したものを次に示す。 もう三時間も前のことだった/ 島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めた/ この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている/ はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどろろなくぼやけてゆく/ 記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだ/ 不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引く/ そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった/ ここで時制について一言。英語の時制 (tense) は時間軸に沿った単純明快なもの。このような時間軸に沿った単純明快な時制という概念は日本語にはない。たとえば、上述の7つの文は過去の話なので、英語の動詞はすべて過去形を使用しなければならない。現在形は使用できない。しかし、日本語の文末の動詞に注目すると、「ことだった」、「眺めた」、「覚えている」、「ぼやけてゆく」、という具合に「〜する」、「〜した」、「〜だ」、「〜だった」が混在している。このように日本語では過去の話に「〜する」とか「〜だ」とかも使用できるのである。中学校の英語の時間に私たちが教わった「〜する」=現在形、「〜した」=過去形、「〜でしょう」=未来形などの公式は、現実の日本語には通用しないことがわかる。時制について詳しくは http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-280.html を参照してください。 英語的な発想の明文(わかりやすい文)を書くには「1つの文に1つの概念」が原則。英作文はこれに限る。これだと書くのが簡単で読み手も理解しやすい。さらに嬉しいことに、コンピュータまでもが明文は理解できるのだ。英日・日英間の機械翻訳は実用にはまだまだ程遠いのが現状だが、実は先日、この手法を用いて自分で書いた英文メールを遊び心で、市販の英日・日英機械翻訳ソフト(訳せ!!ゴマ)にかけたところ、4ページほどの英文が2、3分後に日本語に翻訳され、ほとんどすべての訳文(和文)が理解可能な、したがって実用的なレベルに仕上がっていた。驚き桃の木、山椒の木!そばでこの作業を見守っていた同僚も「完璧ですね」と叫んだ。私も興奮した。そうか、明文は機械翻訳できるのか!明文は書くのが簡単、わかりやすい、機械翻訳も可能。だから「実務文書は明文で」。ね、そうでしょう。 会話文には接続詞はいらない!? 会話文 (2)
(原文) 「ほんの子供ですから、駅長さんからよく教えてやっていただいて、よろしくお願いいたしますわ。」 「よろしい。元気で働いてるよ。これからいそがしくなる。去年は大雪だったよ。よく雪崩れてね、汽車が立往生するんで、村も炊出しがいそがしかったよ。」 「駅長さんずいぶん厚着に見えますわ。弟の手紙には、まだチョッキも着ていないようなことを書いてありましたけれど。」 「私は着物を四枚重ねだ。若い者は寒いと酒ばかり飲んでいるよ。それでごろごろあすこにぶっ倒れてるのさ、風邪をひいてね。」 駅長は官舎の方へ手の明りを振り向けた。 「弟もお酒をいただきますでしょうか。」 「いや。」 「駅長さんもうお帰りですの?」 「私は怪我をして、医者に通ってるんだ。」 「まあ。いけませんわ。」 (訳文) "He's really no more than a child. You'll teach him what he needs to know, won't you."
"Oh, but he's doing very well. We'll be busier from now on, with the snow and all. Last year we had so much that the trains were always being stopped by avalanches, and the whole town was kept busy cooking for them." "But look at the warm clothes, would you. My brother said in his letter that he wasn't even wearing a sweater yet." "I'm not warm unless I have on four layers, myself. The young ones start drinking when it gets cold, and the first thing you know they're over there in bed with colds." He waved his lantern toward the dormitories. "Does my brother drink?" "Not that I know of." " You're on your way home now, are you?" "I had a little accident. I've been going to the doctor." "You must be more careful." .................................................................................................. 「ほんの子供ですから、駅長さんからよく教えてやっていただいて、よろしくお願いいたしますわ。」 "He's really no more than a child. You'll teach him what he needs to know, won't you." 原文は単文だが、訳文は2つに分割されている。 「子供ですから」の中の「から」に相当する語は訳文にはない。「から」は原因・理由を示す接続詞で、英語の because, sinceに近い意味を持つ。因果関係が重要な意味を持つ論文はともかく、日常会話のような文章では、「なぜならば because」はまだいいとしても、「したがって thus, consequently, therefore」のような形式ばった接続詞は英文では無視される場合が多い。(接続詞を使うとしてもせいぜい and を挿入する程度)。 たとえば、「今朝、朝食をとらなかったので、今、おなかがすいている」は I had no breakfast this morning, (and) I'm hungry now. ぐらいで十分でしょう。もちろん、I'm hungry now because I had no breakfast this morning. もOKでしょうが、少しくどい感じがしませんか。 長文を短文に分割すると、この接続詞の問題は必ず浮上する。サイデンステッカーは、長文は複数の短文に分割しているが、その際、分割箇所の接続詞は省略している。たとえば、「バラックが散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた」の「だけで」もやはり無視されていた。 私たち日本人は「〜だから」や「なので」、「したがって」、「このため」などの接続詞が大好きで日常的な文章でも頻繁に使用する。こうした接続詞がないと文と文のつながりが希薄になりそうで不安なのだ。実際、日本語では接続詞を挿入した方が文の座りがいい。しかし英米人は一般に、こういう種類の接続詞はあまり使用しない。これを翻訳の観点からいいかえると、英文和訳の際には「文の座り」をよくするため、たとえ英文になくとも接続詞を補充し、逆に、和文英訳の際には自然な英文にするために、和文の接続詞を省略するぐらいの気持ちが必要ということ、かもしれない。 「あんなことがあったのに」は英語でどう言うの? 婉曲表現:
男と女の出会い・別れ・再会はいつも感動的だ。物語の中で最も人を魅了する部分である。私も子供の頃からラブストーリーが大好きで、石坂洋次郎の『陽のあたる坂道』、アンソニー・ホープの『ゼンダ城の虜』(The Prisoner of Zenda)、田山花袋の『蒲団』など夢中になって読みふけった時期がある。以下の文も男と女、島村と駒子の再会のシーンである。(『雪国』 新潮文庫16ページから抜粋) (原文) あんなことがあったのに、手紙も出さず、会いにも来ず、踊の型の本など送るという約束も果たさず、女からすれば笑って忘れられたとしか思えないだろうから、先ず島村の方から詫びかいいわけを言わねばならない順序だったが、顔を見ないで歩いているうちにも、彼女は彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じていることが知れるので、彼は尚更、どんなことを言ったにしても、その言葉は自分の方が不真面目だという響きしか持たぬだろうと思って、なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれていたが、階段の下まで来ると、「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」と、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。 「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。 原文の最初の一文は299文字と非常に長い。サイデンステッカーはいつものように長文は分割する。この長文は7つに分割されている。 あんなことがあったのに、手紙も出さず、会いにも来ず、踊の型の本など送るという約束も果たさなかった。 In spite of what had passed between them, he had not written to her, or come to see her, or sent her the dance instructions he had promised. あんなことがあったのに → 二人の間に起こったものにもかかわらず 「あんなこと」とは、ここでは男女間の肉体関係を指す。婉曲(えんきょく)な表現は難しい。私のような実務翻訳者には特にそうだ。以前、原田克子さんの詩を英訳したときの話。『壊心 3』の第2パラグラフの3行目、「肌を触れ合うことがなくなったわたしたち」で困ってしまった。ウーン、難しいなあ… We can no longer sleep together とか We don't touch each other any longer now とか訳してはみたが、いまひとつ自信が持てない。「あんなことがあったのに」は In spite of what had passed between them というのか。なるほど。よーし、忘れないようにこのまま暗記しようっと。 「あんなことがあった」 (直訳すると there was a thing like that) が、訳文では「二人の間に起こったもの」 what had passed between them = the thing that had happened between them と、より具体的に名詞で表現されている。このように、日本語では文(節)で表現してあるのに、英語では名詞(もの)で表現する場合が多い。「動詞が主役」の日本語と「名詞が主役」の英語との違いがここにも顔を出している。 女からすれば笑って忘れられたとしか思えないだろう。 She was no doubt left to think that he had laughed at her and forgotten her. “no doubt” は「疑いなく」 (undoubtedly) という副詞。She was left ... は受身。能動態に直すと、He left her ... (彼は彼女をほったらかした)。原文、訳文ともに、受動態と能動態が混在している。She was no doubt left to think that she had been laughed at and forgotten (by him). (彼女は彼にほったらかしにされ、笑われて忘れ去られたと彼女はきっと思ったことだろう) と従属節を受身にすることもできる。 先ず島村の方から詫びかいいわけを言わねばならない順序だったが、顔を見ないで歩いているうちにも、彼女は彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じていることが知れた。 It should therefore have been his part to begin with an apology or an excuse, but as they walked along, not looking at each other, he could tell that, far from blaming him, she had room in her heart only for the pleasure of regaining what had been lost. 「体いっぱいになつかしさを感じている」 → 「彼女は、失っていたものを取り戻したという喜びだけの余裕を心に抱いていた」 “she had room in her heart only for the pleasure of regaining what had been lost.” ワオ、これは驚いた!原文の日本語には名詞は2つ、「体」と「なつかしさ」しかないのに訳文の英語にはどちらの名詞も出て来ない。 その代わりに、5つの名詞、「she (彼女)」、「room (余裕)」、「heart (心)」、「pleasure (喜び)」、「what had been lost (失っていたもの)」が新たに補充されている。英語的な発想とはいえ、これはしかし私たちには複雑すぎる。もっと単純に、たとえば、she was filled with longing for him. (彼女は、彼に対するなつかしさでいっぱいだった) でいいのではないのかな。これだと原文の「いっぱい」も「なつかしさ」も出て来る。 彼は尚更、どんなことを言ったにしても、その言葉は自分の方が不真面目だという響きしか持たぬだろうと思った。 He knew that if he spoke he would only make himself seem the more wanting in seriousness. なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれて彼は歩いた。 Overpowered by the woman, he walked along wrapped in a soft happiness. 階段の下まで来ると、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。 Abruptly, at the foot of the stairs, he shoved his left fist before her eyes, with only the forefinger extended. 階段の下まで来ると → 階段の下で (at the foot of the stairs) 私などつい、原文にひきずられて文(節)として when they came to the foot of the stairs と直訳しそうなところだが、なるほど、動詞 come 「来る」の代わりに、前置詞 at 「(下)で」で充分ですね。日本語の動詞は、英語では前置詞で表現される場合が多い。たとえば、冒頭の「長いトンネルを抜けると」 = out of the long tunnel. 逆に言うと、英文和訳の際には、英語の前置詞は日本語では動詞で訳した方が自然な和文になる場合が多い、ということですね。 「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」 “This remembered you best of all.” 「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。 “Oh?” The woman took the finger in her hand and clung to it as though to lead him upstairs. 「居住まいを直す」は英語でどう言うの? 駒子との出会い
新緑の登山季節、山歩きから七日振りりで温泉場へ下りて来た島村は、宿屋に芸者を呼ぶように頼んだ。ところが、あいにくその日は道路普請の落成祝いで芸者は皆出払っていた。三味線と踊の師匠の家にいる娘(駒子)は芸者というわけではないが、もしかしたら来てくれるかも知れないと女中は言う。以下は島村と駒子の出会いのシーンである。(『雪国』 新潮文庫18ページから抜粋) (原文) 怪しい話だとたかをくくっていたが、一時間ほどして女が女中に連れられて来ると、島村はおやと居住まいを直した。直ぐ立ち上がって行こうとする女中の袖を女がとらえて、またそこに座らせた。 女の印象は不思議なくらい清潔であった。足指の裏の窪みまできれいであろうと思われた。山々の初夏を見て来た自分の眼のせいかと、島村は疑ったほどだった。 怪しい話だとたかをくくっていた。 An odd story, Shimamura said to himself, and dismissed the matter. 「怪しい話だとたかをくくる」は英語的な表現では、「怪しい話だと島村は独り言を言ってこの件を気にもとめなかった」となるのですか、ウム、なるほど、そうですか。 ちなみに、dismiss = to refuse to consider someone or something seriously because you think they are silly or not important. という意味。 一時間ほどして女が女中に連れられて来た。 An hour or so later, however, the woman from the music teacher’s came in with the maid. 原文では「女」となっているが、英語では “the woman from the music teacher’s (house)” 「音楽教師の家から来た女性」と具体的に説明されている。また、原文では「女中に連れられて来た」と受身の表現も “came in with the maid” 「女中と一緒に入って来た」と主体的に表現されている。いずれも英語的な発想だ。 島村はおやと居住まいを直した。 Shimamura brought himself up straight. 「居住まいを直す」はきちんと座りなおすこと。“sit up straight” の意。品のある女性に会うと、どんな男も思わずいずまいを正す。訳文の “Shimamura brought himself up straight.” は、畳文化に馴染みのない読者は “stood up straight” (直立した)の意味に解釈するかも知れない。そこで、“Shimamura sat up straight.” を私は提案したい。 直ぐ立ち上がって行こうとする女中の袖を女がとらえて、またそこに座らせた。 The maid started to leave but was called back by the woman. 原文は「女」が主語で女中をそこに座らせたとあるが、訳文は「女中」を主語にしている。文頭の「直ぐ立ち上がって行こうと」したのは女中なので、女中を主語にするのは自然な流れ。翻訳は「頭から順番に訳して行く」のが原則だ。現に、サイデンステッカーはほとんどの場合、頭から順番に訳して行く技法を採用している。頭から順番に訳して行かないかぎり、同時通訳は成立しない。この原則は和文英訳にかぎらず、英文和訳にも当てはまる。 中村保男 『英和翻訳の原理・技法』 より要点のみ抜粋する。 I'm afraid he is not here today because he caught a cold. きょうは風邪を召して、お見えになっていないのが残念です。(英文解釈流) あいにくですが、きょうは出社しておりません、お風邪を召したそうで。(頭から訳す) 上の受付嬢の応対では、「頭から訳す」方法のほうが遥かに実感もこもっているし、流れも快調だ。 「女中」は古くは婦人に対する敬称だったらしいが、現代では卑語となってしまった。今は「お手伝いさん」。英語ではメード “maid”。ところで「日女中本」の意味をご存知かな?これは四字熟語などではなく、単なることばのお遊び。解答は “made in Japan”。だって、日本の中に「女中」の文字が入っているでしょ、だから、メード・イン・ジャパン。私の若い頃に、こんな「ことば遊び」が一時流行したことがありました。 女の印象は不思議なくらい清潔であった。 The impression the woman gave was a wonderfully clean and fresh one. 女の印象 → The impression the woman gave (女が与えた印象) 「女の印象」を “the woman’s impression” というと、「女が抱いた印象」とも解釈されることもある。”The impression the woman gave” は、いかにも英語らしい的確な表現だ。最後の “one” は不定代名詞で「印象」の意味。「印象」を2回、繰り返すのを避けている。“one” が使用されたことで、この場合の「印象」は可算名詞だとわかる。 足指の裏の窪みまできれいであろうと思われた。 It seemed to Shimamura that she must be clean to the hollows under her toes. 足指の裏の窪み “the hollows under her toes” には、あか(垢)がたまりやすい。 訳文では ”must be” (〜にちがいない)と現在形が使用されている。ははーん、この場合は現在形の方がいいんですか!?。過去についての推定の表現は通常、”must have been” (〜だったにちがいない)と ”must have + pp” とばかり丸暗記していましたが…。 山々の初夏を見て来た自分の眼のせいかと、島村は疑ったほどだった。 So clean indeed did she seem that he wondered whether his eyes, back from looking at early summer in the mountains, might not be deceiving him. この文は、She seemed so clean indeed that 〜 という例の (so ... that) 「非常に〜なので...」の倒置法ですね。 芸者を呼ぶ 「お湯道具」は「タオルと石鹸」だけ?
山歩きから一週間ぶりに温泉場で一泊した翌日の午後、島村は唐突に駒子に芸者の世話を頼んだ。しかし、駒子はこのときまだ19歳。男の生理にとまどってしまう。(『雪国』 新潮文庫19ページから抜粋) (原文) 女は翌日の午後、お湯道具を廊下の外に置いて、彼の部屋に遊びに寄った。彼女が座るか座らないうちに、彼は突然芸者を世話してくれと言った。 「世話するって?」 「分かってるじゃないか。」 「いやねえ。私そんなこと頼まれるとは夢にも思って来ませんでしたわ。」と、女はぷいと窓へ立って行って国境の山々を眺めたが、そのうちに頬を染めて、 「ここにはそんな人ありませんわよ。」 「嘘をつけ。」 「ほんとうよ。」と、くるっと向き直って、窓に腰をおろすと、 「強制することは絶対にありませんわ。みんな芸者さんの自由なんですわ。宿屋でもそういうお世話は一切しないの。ほんとうなのよ、これ。あなたが誰かを呼んで直接話してごらんになるといいわ。」 「君から頼んでみてくれよ。」 「私がどうしてそんなことしなければならないの?」 「友だちだと思ってるんだ。友だちにしときたいから、君は口説かないんだよ。」 「それがお友達ってものなの?」と、女はつい誘われて子供っぽく言ったが、後はまた吐き出すように、 「えらいと思うわ。よくそんなことが私にお頼めになれますわ。」 「なんでもないことじゃないか。山で丈夫になって来たんだよ。頭がさっぱりしないんだ。君とだって、からっとした気持ちで話が出来やしない。」 原文: 女は翌日の午後、お湯道具を廊下の外に置いて、彼の部屋に遊びに寄った。 訳文: On her way to the bath the next afternoon, she left her towel and soap in the hall and came in to talk to him. (サイデンステッカー訳、ちなみにこの英文の訳は、翌日の午後お風呂へ行く途中、彼女はタオルと石鹸を廊下に置いて、彼の部屋に遊びに寄った。) 英語は具体的な表現を好む。なるほど、「お風呂へ行く途中」と状況が具体的に補足してある。しかし原文では「お湯道具を廊下の外に置いて」というだけで、お風呂へ行く途中だとも、お風呂から上がって帰る途中だとも書いていない。可能性は五分五分、どちらもありうる。原文の「お湯道具」も英文では「タオルと石鹸」と具体的に明示してある。確かにタオルと石鹸はお風呂の必須アイテム。しかしタオルと石鹸を洗面器(washbowl)に入れて廊下に置いた可能性もある。私など、南こうせつの「神田川」の世代なので、お風呂というと洗面器までも連想してしまう。日本人なら The next afternoon, she left her bath items out in the hall and came into his room to talk to him. と、あたりさわりのないように訳すような気がするが、具体性を欠くこのような英文は、アメリカ人には生理的に居心地が悪いのかもしれない。 原文: 彼女が座るか座らないうちに、彼は突然芸者を世話してくれと言った。 訳文: She had barely taken a seat when he asked her to call him a geisha. うーん、さすがにネイティブの英文はすばらしい!頭から順番に自然に英訳してある。芸者は "geisha"、可算名詞なので 単数のときは a geisha、複数形は geisha or geishas となる。「世話する」というと通常、take care of, look after, help などを連想するが、この場合は call (呼ぶ)がふさわしい。 原文: 「世話するって?」 訳文: "Call you a geisha?" 原文: 「分かってるじゃないか。」 訳文: "You know what I mean." 原文: 「いやねえ。私そんなこと頼まれるとは夢にも思って来ませんでしたわ。」と、女はぷいと窓へ立って行って国境の山々を眺めたが、そのうちに頬を染めて、「ここにはそんな人ありませんわよ。」 訳文: "I didn't come to be asked that." She stood up abruptly and went over to the window, her face reddening as she looked out at the mountains. "There are no women like that here." 原文は会話文を前後に挿入して、全体を単一の長文に仕上げてあるが、訳文は3つの文に分割してある。この手法は随所に見られる。長文を翻訳するときは、このように分割した方が自然な英文を得やすい。「いやねえ」は訳してない。和文ではこれがあるとないとでは全体の印象が微妙に変わる。男は女の「いやねえ」を聞くと少し安堵する。まだ修復の余地が残されていると。 原文: 「嘘をつけ。」 訳文: "Don't be silly." (へーえ、”Don’t tell a lie.” じゃないんだ) 原文: 「ほんとうよ。」と、くるっと向き直って、窓に腰をおろすと、 「強制することは絶対にありませんわ。みんな芸者さんの自由なんですわ。宿屋でもそういうお世話は一切しないの。ほんとうなのよ、これ。あなたが誰かを呼んで直接話してごらんになるといいわ。」 訳文: “It’s the truth.” She turned sharply to face him, and sat down on the window sill. “No one forces a geisha to do what she doesn’t want to. It’s entirely up to the geisha herself. That’s one service the inn won’t provide you. Go ahead, try calling someone and talking to her yourself, if you want to.” 「窓に腰をおろした」は、sat down on the window sill. と英訳されている。 “sill” は「下枠」の意味。英語は具体的な表現を好む。ここでも腰をおろしたのは「窓」ではなく、「窓の下枠」だと表現する。「お湯道具」を「タオルと石鹸」と言い換えたように。これとは反対に、日本語は抽象的な表現を好む。たとえば、米国人が “We must construct roads and bridges soon.” (道路や橋をすぐに建設しなければならない)と具体的・能動的に表現するようなところを、私たちは「社会基盤(インフラ、infrastructure)の整備が急務である」と抽象的に表現する。「道路や橋をすぐに建設しなければならない」よりも「社会基盤の整備が急務」の方が、私たちには何となく高尚な感じがするのである。 原文: 「君から頼んでみてくれよ。」 訳文: “You call someone for me.” 原文: 「私がどうしてそんなことしなければならないの?」 訳文: “Why do you expect me to do that?”
原文: 「友だちだと思ってるんだ。友だちにしときたいから、君は口説かないんだよ。」 訳文: “I’m thinking of you as a friend. That’s why I’ve behaved so well.” 「友だちにしときたいから(=だから)、君は口説かないんだよ」は直訳すると、That’s why I’m not coming on to you. とでもなるところ。「口説く」は “come on to” だが、この表現は少しいやらしい感じがして、露骨すぎるのかもしれない。”That’s why I’ve behaved so well.” は、「だから、行儀よくふるまっているのじゃないか」みたいな感じ。なるほど、確かにこの方が品があり、主人公の島村の気持ちにも近い。 原文: 「それがお友達ってものなの?」と、女はつい誘われて子供っぽく言ったが、後はまた吐き出すように、「えらいと思うわ。よくそんなことが私にお頼めになれますわ。」 訳文: “And this is what you call being a friend?” Led on by his manner, she had become engagingly childlike. But a moment later she burst out: “Isn’t it fine that you think you can ask me a thing like that!” 原文: 「なんでもないことじゃないか。山で丈夫になって来たんだよ。頭がさっぱりしないんだ。君とだって、からっとした気持ちで話が出来やしない。」 訳文: “What is there to be so excited about? I’m too healthy after a week in the mountains, that’s all. I keep having the wrong ideas. I can’t even sit here talking to you the way I would like to.” 「なんでもないことじゃないか」は、私など原文につられて、”That’s nothing special, you see?” などと、つい単調に訳してしまいそうな気がする。やはり名訳はちがう。 “What is there to be so excited about?” は実に英語らしい表現だ。直訳すると、「そんなに興奮するような何があるのかい?」 → 「何をそんなに興奮しているの?」 「山で丈夫になって来たんだよ」は、英語では、原文にない「一週間」という語を補充し、“I’m too healthy after a week in the mountains, that’s all.” 「一週間、山にいたので元気になりすぎた、それだけのことだ」と具体的に表現にする。確かに島村はこのとき一週間山にいた。たとえ原文にはなくとも、「一週間」という語を補充した方が情況がわかりやすい。 「頭がさっぱりしないんだ」は、たとえば、"I don't really feel refreshed." だが、訳文では "I keep having the wrong ideas."(よくない考えがまとわりついて離れない)と、さらに踏み込んだ表現を採用し欲情を暗示する。 「君とだって、からっとした気持ちで話が出来やしない」も直訳すると、"I can't even talk to you frankly or cheerfully." とでもなるところだが、訳文では "I can’t even sit here talking to you the way I would like to.” (ここに座って君と話すことさえ、本当の気持ちで話ができやしない)と、原文にない "I can’t even sit here" とい節を補充し、これにより、臨場感あふれるなまなましいシーンをたくみに創出している。 なにしたらおしまいさ 婉曲語法、ユーフェミズム (euphemism)
川端康成の『雪国』を私が初めて読んだのは中学生の頃。思春期の多感な年ごろで男女間の秘め事には強烈な関心を抱いてはいたものの経験はもちろんない。しかし当時、この「なにしたらおしまいさ」のくだりは何となくわかったような気がした。よほど感銘を受けたのか、その後十数年たって実際に恋に悩んだり失恋したりしたときに思い出していた。それからさらにずっと後になってからでも、ときどきこの部分がふっと頭をよぎる。男と女の関係は微妙でややこしい。 島村と駒子の会話。川端康成 『雪国』 新潮文庫22ページから引用する。 「なにしたらおしまいさ。味気ないよ。長続きしないだろう。」 「そう。ほんとうにみんなそうだわ。私の生まれは港なの。ここは温泉場でしょう。」と、女は思いがけなく素直な調子で、 「お客はたいてい旅の人なんですもの。私なんかまだ子供ですけれど、いろんな人の話を聞いてみても、なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人の方が、いつまでもなつかしいのね。忘れないのね。別れた後ってそうらしいわ。向うでも思い出して、手紙をくれたりするのは、たいていそういうんですわ。」 女は窓から立ち上がると、今度は窓の下の畳に柔かく座った。遠い日々を振り返るように見えながら、急に島村の身辺に座ったという顔になった。 婉曲(えんきょく)な表現は英訳がむずかしい。この「なにしたらおしまいさ」も、遠まわしで婉曲な表現である。英語は具体的な表現を好むとはいえ、何でもかんでも直接的にずばずば表現するというわけではない。やはり、そこは同じ人間、婉曲表現、ユーフェミズム (euphemism) は当然ある。 OALD辞典によると、euphemism (for something) = an indirect word or phrase that people often use to refer to something embarrassing or unpleasant, sometimes to make it seem more acceptable than it really is: *Pass away is a euphemism for 'die.' 'User fees' is just a politician's euphemism for taxes. 英訳する際、まず、日本語の意味を正確に理解する必要がある。「なにしたらおしまいさ」は単純な表現に見えるが、その意味は意外と複雑だ。文頭の「なにしたら」は婉曲表現だが、意味は誰にでもわかる。「なに」する = セックスする、という意味。問題はつぎの語句「おしまいさ」の方である。これはあいまいな表現だ。いったい何がおしまいなのか、何が終わるのか、主語は何だろうか。和文ではこのように、しばしば主語が省略されるが、英文では主語は不可欠。主語を特定しないかぎり英文は書けない。主語や目的語が省略された和文を私は便宜上「文脈依存文」と呼ぶ。文脈依存文の主語や目的語は通常、前後の文脈から判断できる。 駒子(19歳)は不思議なくらい清潔な女性。足指の裏の窪みまできれいであろうと島村が思ったほどだ。島村は駒子に芸者の世話を頼んでいる。駒子は友だちにしときたいから口説かないという。なるほど、そうか、ならば主語は「男女間の友情」にちがいない。 つまり、「なにしたらおしまいさ」の意味はわかりやすく表現しなおすと、露骨になるので少し気がひけるが、「セックスすると友情がおしまいになる」ということを一般論として述べている。 「なにしたらおしまいさ」を直訳すると、 Friendship will be over if you have an affair. (仮定法現在) Friendship would be over if you had an affair. (仮定法過去) ここの "you" は「あなた」という意味ではなく、総称的に一般の人をさす「人は(誰でも)」という意味。また affair は、ここでは「情事、浮気」 (love affair) を意味する。 仮定法 if について: 日本語では、仮定法はすべて「A ならば B」という形式で表現し、内容にまで踏み込むことはしない。しかし、英語では面倒なことに、内容にまで踏み込んで実現の可能性が高いか低いかを区別し、それぞれに異なる表現法を採用する。実現の可能性の高いものの場合(=あり得る話)には、英語では条件節 (if-clause) に現在形を使用する。現在形を使用するのでこれを仮定法現在と呼ぶ。実現の可能性の低い場合や事実と異なるものの場合(=あり得ない話)には、英語では条件節に必ず過去形を使用する。過去形を使用するのでこれを仮定法過去と呼ぶ。しかし、過去形は使用するがその意味は現在。また、可能性が高いか低いかの判定は、話し手本人の主観的判断に依存する。 if については「if の創出する不思議な世界」http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-364.html を参照してください。 「なにしたらおしまいさ」は島村のせりふなので、島村の気持ちに即して考えれば、仮定法過去の Friendship would be over if you had an affair. がふさわしい。ただし、この英文は私が英訳したものなので、いわば典型的なジャパニーズイングリッシュ。そこで、ネイティブ・スピーカーの模範解答と比較・検討する。わが師匠(私が勝手にそう思っているだけ)、サイデンステッカー教授の英訳は次の通り。 原文:「なにしたらおしまいさ。味気ないよ。長続きしないだろう。」 訳文: "An affair of the moment, no more. Nothing beautiful about it. You know that--it couldn't last." 訳訳文: 「つかのまの情事、それだけのこと。味気ないよ。長続きしないだろう」 あれえ、「なにしたらおしまいさ」の部分は「つかのまの情事、それだけのこと」 "An affair of the moment, no more." と訳されている。変だなあ。ひょっとしたら師匠は、「なにしたらおしまいさ」を「なにするだけでおしまいにする。それ以上のことはしない」と解釈されたのではないか?まさかね、日本語の堪能な大先生がそんなはずはない。はてさて、それじゃあ、どう考えたらいいんだろう。どうも「おしまい」という語に問題がありそうだ。ここの「おしまい」の用法は、フーテンの寅さんの 「それをいっちゃーおしめぇーよ」 (Things will be over if you say that.) と類似している。日本語大辞典は「おしまい」を次のように定義する。 お-しまい【*御仕舞(い)】 《「仕舞い」の丁寧語》 (1) 終わり。the end (用例>物語はこれで〜。 (2) 物事がだめになること。be all up (用例>こう不景気では、商売も〜だ。 (3) お化粧。身じまい。make up 問題の「おしまい」の意味は、定義の (2) 物事がだめになること、に該当する。それなら私の解釈でもよさそう。そこで、"An affair of the moment, no more." の文を私の訳文と差し替えて、全体をもう一度、原文と比較してみよう。 原文: 「なにしたらおしまいさ。味気ないよ。長続きしないだろう。」 提案: "Friendship would be over if you had an affair. Nothing beautiful about it. You know that--it couldn't last." うん、これでもよさそう。(なーんてね、独り合点だったりして) 罪滅ぼしに、以下の英文はすべてサイデンステッカー教授の "Snow Country" から引用する。 「そう。ほんとうにみんなそうだわ。私の生まれは港なの。ここは温泉場でしょう。」 "That's true. It's that way with everyone who comes here. This is a hot spring and people are here for a day or two and gone." 「私の生まれは港なの」は訳されていない。この文がない方がすっきりしてわかりやすいと師匠は判断されたのであろうか。代わりに、原文にない "and people are here for a day or two and gone." (温泉客は1泊か2泊してから出て行く)という文が新たに補充されている。翻訳ではこのように、省略や補充が必要な場合がある。 女は思いがけなく素直な調子で(言った)。 Her manner was remarkably open--the transition had been almost too abrupt. 「お客はたいてい旅の人なんですもの。私なんかまだ子供ですけれど、いろんな人の話を聞いてみても、なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人の方が、いつまでもなつかしいのね。忘れないのね。別れた後ってそうらしいわ。向うでも思い出して、手紙をくれたりするのは、たいていそういうんですわ。」 "The guests are mostly travelers. I'm still just a child myself, but I've listened to all the talk. The guest who doesn't say he's fond of you, and yet you somehow know is--he's the one you have pleasant memories of. You don't forget him, even long after he's left you, they say. And he's the one you get letters from." 女は窓から立ち上がると、今度は窓の下の畳に柔かく座った。遠い日々を振り返るように見えながら、急に島村の身辺に座ったという顔になった。 She stood up from the window sill and took a seat on the mat below it. She seemed to be living in the past, and yet she seemed to be very near Shimamura. 「今度は」が単に "and" と訳されている。なるほど、そうですね。「遠い日々を振り返るように見えた」が "She seemed to be living in the past," ですか。なるほどね。名人の手にかかると、実に簡潔に表現できるものですね。でもね、師匠、「柔かく座った」の「柔かく」は省略しないでほしかった。この表現は女性が心を開いてうちとけたさまを表す男どもにとってとても大事なこと。私など着物を着た女性の優美なしぐさばかりか、まろやかな白肌のうなじまでも連想してしまいそう。思わず、"and took a seat" の部分を "and sat down softly" に変更したい衝動に駆られる。 黙って立ち去ったのは誰?
『雪国』では、「女」という語は駒子のみをさす 翻訳をしていてよかったと思えることのひとつに、原文を精読できることである。もちろん翻訳などしなくても本は精読できる。しかし精読の濃さがちがう。たとえば、川端康成の『雪国』の文庫本は、単に読むだけなら一日、腰をすえてじっくり熟読したとしても、せいぜい数日もあれば十分だ。ところがこれを英訳するとなるとそうはいかない。最短でも1ヶ月はかかる。文章にとことんこだわる人であれば、半年とか一年かかったとしても不思議ではない。翻訳は、原作者が作品を完成させるのに要する時間とほぼ同じくらい、あるいはさらに長い時間かかることもある。一字一句、句読点までも吟味しながら作品と長く接することで、翻訳者は普通の読者が見落としたり勘違いしたりする箇所に気づくこともある。これからその一例を紹介したいが、まずは原文をご覧あれ。 川端康成の『雪国』 新潮文庫 27ページから引用する。 「それでどれくらいいるの。」 「芸者さん?十二三人かしら。」 「なんていう人がいいの?」と、島村が立ち上ってベルを押すと、 「私は帰りますわね?」 「君が帰っちゃ駄目だよ。」 「厭なの。」と、女は屈辱を振り払うように、 「帰りますわ。いいのよ、なんとも思やしませんわ。また来ますわ。」 しかし女中を見ると、なにげなく座り直した。女中が誰を呼ぼうかと幾度聞いても、女は名指しをしなかった。 ところが間もなく来た十七八の芸者を一目見るなり、島村の山から里へ出た時の女ほしさは味気なく消えてしまった。肌の底黒い腕がまだ骨張っていて、どこか初々しく人がよさそうだから、つとめて興醒めた顔をすまいと芸者の方を向いていたが、実は彼女のうしろの窓の新緑の山々が目についてならなかった。ものを言うのも気だるくなった。いかにも山里の芸者だった。島村がむっつりしているので、女は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしまうと、一層座が白けて、それでももう一時間くらいは経っただろうから、なんとか芸者を帰す工夫はないかと考えるうちに、電報為替の来ていることを思い出したので郵便局の時間にかこつけて、芸者といっしょに部屋を出た。 訳文: "Snow Country" translated by Edward G. Seidensticker (Page 28, Vintage Books)
"How many are there in all?" "How many geisha? Twelve or thirteen, I suppose." "Which one do you recommend?" Shimamura stood up to ring for the maid. "You won't mind if I leave now." "I mind very much indeed." "I can't stay." She spoke as if trying to shake off the humiliation. "I'm going. It's all right. I don't mind. I'll come again." When the maid came in, however, she sat down as though nothing were amiss. The maid asked several times which geisha she should call, but the woman refused to mention a name. One look at the seventeen- or eighteen-year-old geisha who was presently led in, and Shimamura felt his need for a woman fall dully away. Her arms, with their underlying darkness, had not yet filled out, and something about her suggested an unformed, good-natured young girl. Shimamura, at pains not to show that his interest had left him, faced her dutifully, but he could not keep himself from looking less at her than at the new green on the mountains behind her. It seemed almost too much of an effort to talk. She was the mountain geisha through and through. He lapsed into a glum silence. No doubt thinking to be tactful and adroit, the woman stood up and left the room, and the conversation became still heavier. Even so, he managed to pass perhaps an hour with the geisha. Looking for a pretext to be rid of her, he remembered that he had had money telegraphed from Tokyo. He had to go to the post office before it closed, he said, and the two of them left the room. 引用が少し長くなってしまいましたが、それでは質問。 「島村がむっつりしているので、女は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしま(った)」とありますが、黙って部屋を立ち去ったのは誰ですか? 正解はもちろん芸者でしょうと、たいていの人は答える。私も最初そう思った。実際、この文庫本の注解でも、動作主は芸者だとみているようだ。「黙って立ち上って」は、「客つまり島村に気に入られないで、断られたと、この女は判断したため」と記載されている。 しかし、たぶんそうではない。動作主は駒子だと私は思う。というのは、このとき部屋にいたのは島村と芸者、駒子の三人。気をきかせて駒子が部屋を出て行った。残されたのは島村と芸者。座はいっそう白けた。それから一時間ほどしてから、島村は芸者といっしょに部屋を出たのだ、と思う。実は『雪国』では、「女」という語は駒子をさすのである。 サイデンステッカー教授はこの部分を次のよう翻訳している。 原文:島村がむっつりしているので、女は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしまうと、一層座が白けて、それでももう一時間くらいは経っただろう He lapsed into a glum silence. No doubt thinking to be tactful and adroit, the woman stood up and left the room, and the conversation became still heavier. Even so, he managed to pass perhaps an hour with the geisha. 訳訳文: 彼は不機嫌に黙り込んだ。女は気をきかせようと思ったようで、立ち上って部屋を出て行ったので、会話はさらに重たくなった。それでも彼は何とか一時間ほど芸者と時間をつぶした。 英文でも the woman が使用されているので、英文読者も一瞬、the woman = the geisha (女=芸者)と勘違いした人もいると思う。この文を明文(わかりやすい文)に変更するには、「女」を「駒子」に置き換えるだけでよい。「島村がむっつりしているので、駒子は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしま(った)」と、固有名詞の「駒子」を使用しさえすれば誤解は生じない。実務畑出身の私などは、ついそう思ってしまう。しかし、そこはそれ、文学の世界。「女」という語に並々ならぬこだわりがある。島村にとって「女 (woman)」は駒子のみ、である。『雪国』のその他の登場人物、たとえば、娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように「駅長さあん、駅長さあん」、と叫んだのは葉子であるが、葉子は「娘 (girl)」であり「女」ではない。それ以外の女性たちも、それぞれ「女中」、「芸者」、「細君」であり、「女」という語では表現されていない。ただし、一箇所だけ例外に見える文章はある。 宿屋の客引きの番頭は火事場の消防のようにものものしい雪装束だった。耳をつつみ、ゴムの長靴をはいていた。待合室の窓から線路の方を眺めて立っている女も、青いマントを着て、その頭巾をかぶっていた。(『雪国』 新潮文庫 13ページから抜粋) これは、長いトンネルを抜け汽車から降り立った島村が最初に目にした湯沢町の駅前の光景である。このときは島村は青いマントの女が誰か知らないが、その後、宿屋の番頭との会話からこの「女」が駒子だったことを知る。女=駒子(一対一)。ワーオ、徹底しているなあ!でも、「女」には並々ならぬこだわりがあるのに、「男」にはあっけらかんとしている。無頓着というか、無関心というか、まったくこだわりが見えない。駅長も、葉子の連れの病人も、屋根の雪を落とす人も、すべて「男」という語で表現されている。男=男一般(一対多)。このふたつの用法は、言語学的には不均衡といえないこともないが、生物学的には男の本性に忠実でとてもわかりやすい。 対の黄蝶 求愛活動の美しさと愛の破局を暗示する
色恋はしばしば、つがいの蝶にたとえられる。梅沢富美男のヒット曲『夢芝居』(作詞・作曲:小椋 佳)でも、♪男と女 あやつりつられ、対のアゲハの誘い誘われ…。蝶のもつれ合いは絵になる。アゲハ(揚羽蝶)はどことなく妖艶で、黄蝶は可憐な感じだ。『雪国』の黄蝶のくだりは、私にとって印象深いシーンのひとつである。川端康成の『雪国』 新潮文庫 28ページから引用する。 原文: しかし、島村は宿の玄関で若葉の匂いの強い裏山を見上げると、それに誘われるように荒っぽく登って行った。なにがおかしいのか、一人で笑いが止まらなかった。ほどよく疲れたところで、くるっと振り向きざま浴衣の尻からげして、一散に駆け下りて来ると、足もとから黄蝶が二羽飛び立った。蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった。 訳文: But at the door of the inn he was seduced by the mountain, strong with the smell of new leaves. He started climbing roughly up it. He laughed on and on, not knowing himself what was funny. When he was pleasantly tired, he turned sharply around and, tucking the skirts of his kimono into his obi, ran headlong back down the slope. Two yellow butterflies flew up at his feet. The butterflies, weaving in and out, climbed higher than the line of the Border Range, their yellow turning to white in the distance. 原文:しかし、島村は宿の玄関で若葉の匂いの強い裏山を見上げると、それに誘われるように荒っぽく登って行った。
訳文: But at the door of the inn he was seduced by the mountain, strong with the smell of new leaves. He started climbing roughly up it. 訳訳文:しかし宿の玄関で、彼は若葉の匂いの強いその山に魅了された。彼は荒っぽく登り始めた。 サイデンステッカーは原文を2つの文に分割している。長文は分割すると英訳が簡単になり、訳文も自然な英文となる。「裏山を見上げると、それに誘われるように」が単に、「その山に魅了された」と要約して英訳されている。「裏山」も単に 「その山」 the mountain と訳してある。しかし、英文を読み返してみても不自然さはなく、いずれもこの表現で十分だという感じがする。 原文:なにがおかしいのか、一人で笑いが止まらなかった。 訳文: He laughed on and on, not knowing himself what was funny. 訳訳文:なにがおかしいのか自分でもわからないまま、彼は笑い続けた。 なるほど、「笑いが止まらない」というのと「笑い続ける」は同じことですね。 on and on (引き続き) は、動作の継続を意味する副詞句。 動作がとぎれたり続いたりするときは、on and off = off and on (時々、不規則に)。 It rained on and off for the whole afternoon. (午後はずっと雨が降ったり止んだりした) 原文:ほどよく疲れたところで、くるっと振り向きざま浴衣の尻からげして、一散に駆け下りて来ると、足もとから黄蝶が二羽飛び立った。 訳文: When he was pleasantly tired, he turned sharply around and, tucking the skirts of his kimono into his obi, ran headlong back down the slope. Two yellow butterflies flew up at his feet. 訳訳文:気持ちよく疲れたところで、彼は急に振り向いて、着物のすそを帯に押し込み、いっさんに坂道を駆け下りた。足もとから黄蝶が二羽飛び立った。 ここでもひとつの和文が2つの英文に分割して英訳されている。擬態語の「くるっと」は sharply (急に) に訳されている。「浴衣(ゆかた)の尻からげ」は、「着物のすそを帯に押し込み」 (tuck the skirts of his kimono into his obi)。 ウーン、なるほど。「足もとから」は、前置詞が from (〜から) ではなく at (〜で) が使用されていることに注意する。日本語の「〜から」は通常、 from を使用して、たとえば、 わが社の営業時間は9時から6時までです。Our business hours are from nine to six. と表現するが、たまに from の代わりに in, at となる場合もある。 太陽は東から昇る。The sun rises in the east. 学校は9時から始まる。School begins at 9. ドロップダウンリストから項目を選びます。Select an item in the drop-down list. 原文:蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった。 訳訳文:蝶はもつれ合いながら、国境の山並みより高く上り、遠くで体の黄色は白に変わった。 The butterflies, weaving in and out, climbed higher than the line of the Border Range, their yellow turning to white in the distance. 原文は「蝶」を題(topic)にして、「蝶はもつれ合い、山並みより高く、黄色が白くなり、遥かだった」と、一文にまとめてある。これに対して、英文では前半は butterflies を主語としているが、後半では yellow を主語にしている。ピリオドの代わりにコンマを使用することで、あたかも一文のように見せかけてはあるが、実質的には2つの文(重文)である。だから、The butterflies, weaving in and out, climbed higher than the line of the Border Range. Their yellow turned to white in the distance. としてもそれほど違和感はない。もっともここでは、原文の表現により近いサイデンステッカーの訳文の方が良いのは言うまでもない。原文では「遥かだった」と述語(形容動詞)だが、英文では " in the distance" (遠くで) と副詞句として処理している。 「蝶はもつれ合いながら〜」というこの表現は、注解にあるように、島村と駒子の愛の破局を暗示しているのだろうか?そうかもしれないが私の印象を少し付け加えたい。 島村、つまり川端康成は、黄蝶がもつれ合いながら上空高く舞い上がるのをずっと見続けていた。しかも「黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった」というぐらいだから相当に長い時間、見続けていたことになる。しかし私の子供の頃の観察では、蝶は一般に、せいぜい10 m ほどの低空を飛翔するものである。開張 4 cm ほどの黄蝶が山並みより高く舞い上がることなど、実際にはまずありえない。これはきっと文学者特有の心象風景にちがいない。そうだとすれば、この個所は、生殖本能の烈しさや求愛活動の美しさ・永遠性など、彼自身が心の中に抱くイメージが投影されているのではないだろうか。そして、永遠に続くように思えていた燃えるような恋情もいつかは色あせ、やがて遥かかなたの思い出に変わる。「黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった」のくだりは、こうした愛の破局を暗示しているのだろうか。 どうなすったの? 日本語は敬語などの待遇表現が豊富
【川端康成の『雪国』 新潮文庫 28ページ】 「どうなすったの。」女が杉林の陰に立っていた。 「うれしそうに笑ってらっしゃるわよ。」 「止めたよ。」と、島村はまたわけのない笑いがこみ上げて来て、「止めたよ。」 「そう?」女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくり入った。彼は黙ってついて行った。 「どうなすったの」は女性が使用する丁寧語である。尊敬表現の「どうなさったのですか」から派生したもの。「なさる」は「する」の尊敬語。「なさった」は「なすった」の形になることがある。「どうしたのですか」も丁寧語でこちらは男女とも使用可能。「どうしたの」は丁寧語ではあるが、(ですか)が省略されている分、丁寧さが不足しているので目上には使用できない。「どうなさったのですか」や「どうなすったの」、「どうしたのですか」、「どうしたの」は、表現は異なるが、意味はまったく同じである。 このように、日本語は敬語などの待遇表現が豊富だ。敬語は人に敬意を表すために用いるもので、尊敬語・謙譲語・丁寧語の3種類がある。尊敬語は相手のことを話すときに、謙譲語は自分(身内を含む)のことを話すときに、また、丁寧語は相手に関係なく丁寧に話すときに、それぞれ使用する。「ご飯を食べる」を例にとると、ご飯を召し上がる(尊敬語)、ご飯をいただく(謙譲語)、ご飯を食べます(丁寧語)となる。丁寧語は、いわゆる「です・ます」体がメインになるので一番使いやすい。 英語には丁寧な表現はあるが敬語はない。そこで日本語の敬語を英訳するとき、私は敬語を一度、基本語に直してから英訳するようにしている。たとえば、 いらっしゃる(尊敬)、うかがう or 参る(謙譲) → 行く おみえになる(尊敬)、参る(謙譲) → 来る なさる(尊敬)、いたす(謙譲) → する 「どうなすったの」についても同様に、基本語に直すと、「どうしたの」となる。ちなみに、「どう」は副詞で、「どのように」の意味。英語の疑問詞 how, how about, what などに相当する。「どうしたの」は何かが発生し、その何かを質問するときに使用する。「何があったの」とか「どんな事が起こったのか」という意味なので、what がふさわしい。「どうしたの」 = What's the matter? または What happened? ただし、LAAD辞典によると、What's the matter? は、心配事とか病気など、相手が何かよくない状態のとき、その理由を質問するときに使用する (used when someone seems upset, unhappy, or sick and you are asking them why) ものなので、ここの文脈にはふさわしくない。(島村は山を駆け下りてきて、今はすっきりした気分だから)。 用例として、たとえば、Honey, what's the matter with you? Don't you feel well? (あなた、どうなすったの。気分でも悪いの?)。つまり、 What's the matter with you? = What's wrong with you? という感じですね。 「どうなさったのですか」は敬語だが、「どうした?」は敬語ではない。ため語(=ためぐち)に近いので、目上の人に使用すると失礼になる。しかし英語には敬語がないので「どうした?」も「どうなさったのですか」もいずれも "What happened?" で表現してよい場合が多い。強いて訳せば、たとえば、 「どうした?」 Hey, what happened? 「どうなさったのですか」 May I ask what happened? "Hey" や "May I ask" などを付加することで、日本語の雰囲気に多少、近づけることは可能かもしれないが、根底に常に日英ふたつの文化の違いが存在する以上、決して完璧に一致することはない。あまり敬語にこだわりすぎると、不自然な英文になる恐れがある。 「どうしたの」 = What's the matter? または What happened? であるが、興味深いことに、「どうするの」となると、その英訳は大きく変身する。英文の主語が「こと」から「あなた」に変化するのだ。 「どうするの」 What are you going to do? (発音は「ワユゴナヅ」) 映画などの会話を聞いていると、この表現 (What are you going to do?) は頻発するが、日本人の耳にはまちがいなく、「ワユゴナヅ」と聞こえるはず。決して「ワッツ・アー・ユー・ゴーイング・ツー・ヅー」と聞こえることはない。 私たちが日常何気なく使用している表現、「どうしたの」や「どうするの」は、日本語としては同じ文法構造なのでその違いを意識できないが、英訳するとその相違点がはっきりと浮かび上がってくる。 事柄(matter)を質問する「どうしたの」 = What's the matter? or What happened? 未来の事柄(matter)を質問する「どうなるの」 = What will happen? 相手の行為を質問する「どうしたの」 = What did you do then? or What have you done? 相手の今後の行為を質問する「どうするの」 = What are you going to do? それではここで本文に戻って、わが師匠、サイデンステッカー教授の訳文を確認しよう。 原文: 「どうなすったの」
訳文: "What happened?" 原文: 女が杉林の陰に立っていた。 訳文: The woman was standing in the shade of the cedar trees. 原文: 「うれしそうに笑ってらっしゃるわよ。」 訳文: "You must have been very happy, the way you were laughing." 原文: 「止めたよ。」と、島村はまたわけのない笑いがこみ上げて来て、「止めたよ。」
訳文: "I gave it up." Shimamura felt the same senseless laugh rising again. "I gave it up." 原文: 「そう?」女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくり入った。
訳文: "Oh?" She turned and walked slowly into the grove. 原文: 彼は黙ってついて行った。 訳文: Shimamura followed in silence. ウーン、当然といえば当然のことながら、ネイティブ・スピーカーの英語はさすがに簡潔ですね。「杉林」は、the cedar forest などといわず、the cedar trees と tree (木) を複数形にしてある。そういえば、日本語でも「林」は「木」がふたつ並んでいますね。後半の「杉林のなかへゆっくり入った」は、"walked slowly into the grove" と、今度はその「杉林」を単に、the grove(木立)ですか。定冠詞 (the) がここでもぐっと効いていますね。いやはや、恐れいりました。 神社であった 神社と寺院は異なる
【川端康成の『雪国』 新潮文庫 29ページ】 神社であった。苔のついた狛犬(こまいぬ)の傍の平な岩に女は腰をおろした。 「ここが一等涼しいの。真夏でも冷たい風がありますわ。」 「ここの芸者って、みなあんなのかね。」 「似たようなものでしょう。年増にはきれいな人がありますわ。」と、うつ向いて素気なく言った。その首に杉林の小暗い青が映るようだった。 島村は杉の梢(こずえ)を見上げた。 「もういいよ。体の力がいっぺんに抜けちゃって、おかしいようだよ。」 神社(お宮)や寺院(お寺)は両方とも、私たちにはなじみ深い。しかし神社と寺院は異なる。小学生の頃、私はそのことを一番上の姉に教わった。「あのね、お宮は神様、お寺は仏様がまつってあるのよ」。そのとき、どういうわけか、姉の説明にすぐに納得ができ、なんだか自分が少し賢くなったような気がした。田舎の幼稚園は当時、お寺の境内の一角にあり、姉は幼稚園の先生だった。盆踊りなどお祭りは、お宮の境内に臨時の舞台が設置されて、そこで盛大に行なわれた。 神社は shrine, 寺院は temple と私たちは暗記する。日本では神社や寺院は、「神社仏閣」と総称されるように両方とも同等だ。その違いは説明しないとわからないほどに。しかし、キリスト教徒が圧倒的多数を占める英米では、英語の shrine と temple は事情が異なる。一言で言うと、shrine は誰でも訪れる身近なところだが、temple はキリスト教以外の、異教徒たちが礼拝に行くところである。shrine の定義に come が、temple の定義に go が使用されているのも、英米人の心の奥底にひそむ親近度を反映しているようで興味深い。 shrine: a place where people come to worship because it is connected with a holy person or event. (from OALD) (シュライン: 聖人や聖祭に関連している場所で、人々が礼拝に来るところ) temple: a building where people go to worship, in the Jewish, Hindu, Buddhist, Sikh, and Mormon religions. (from LAAD) (テンプル: ユダヤ教・ヒンズドゥー教・仏教・シーク教・モルモン教の人々が礼拝に行く建物) a shrine to the Virgin Mary (from OALD) 聖母マリアをまつっている殿堂 Wimbledon is a shrine for all lovers of tennis. (from OALD) ウィンブルドンはテニス愛好家たちの聖地である。 それではここで本文に戻って、原文と訳文を鑑賞する。 原文: 神社であった。
訳文: It was a shrine grove. 原文: 苔のついた狛犬の傍の平な岩に女は腰をおろした。 訳文: The woman sat down on a flat rock beside the moss-covered shrine dog. 原文: 「ここが一等涼しいの。真夏でも冷たい風がありますわ。」
訳文: "It's always cool here. Even in the middle of the summer there's a cool wind." 原文: 「ここの芸者って、みなあんなのかね。」 訳文: "Are all the geisha like that?" 原文: 「似たようなものでしょう。年増にはきれいな人がありますわ。」と、 訳文: "They're all a little like her, I suppose. Some of the older ones are very attractive, if you had wanted one of them." 原文: うつ向いて素気なく言った。 訳文: Her eyes were on the ground, and she spoke coldly. 原文: その首に杉林の小暗い青が映るようだった。 訳文: The dusky green of the cedars seemed to reflect from her neck. 原文: 島村は杉の梢(こずえ)を見上げた。 訳文: Shimamura looked up at the cedar branches. 原文: 「もういいよ。体の力がいっぺんに抜けちゃって、おかしいようだよ。」 訳文: It's all over. My strength left me--really, it seems very funny. 最初の文はいきなり、「神社であった。」で始まる。駒子が杉林の中に入って行き、島村はその後をついて行ったのだが、その行った先が「神社であった」のである。このように、題が何かがわかっている場合、日本語では無理して題を文に含める必要はない。「(そこは)神社であった。」の意味。ちなみに、場所を表す「ここは」、「そこは」、「あそこは」などは、英語では this (not here), it, that で表現できる。 ここは文京区本郷1丁目です。(住所標示板) This is Hongo 1-chome, Bunkyo-ku. (not Here is Hongo 1-chome ... ) 「そこは神社であった」は、日本人なら10人中9人は "It was a shrine." と訳し、それ以上何もこだわる個所はなさそうに思えるところだが、サイデンステッカー教授は、It was a shrine grove. と 原文にない単語 "grove" をわざわざ補充している。ちなみに、"grove" (グローブ)とは a small group of trees という意味で、木が群がって立っている所、すなわち、日本語の「木立」にあたる。ここでは杉の木立 (a grove of cedar trees) を指す。彼は、「神社」をそのまま "shrine" と逐語訳するのではなく、この「神社」は正確には、「神社の(境内の杉の)木立」を指していると解釈したにちがいない。 狛犬(こまいぬ)は shrine dog ですか。なるほど。では、お寺の狛犬は temple dog ですね。 苔(こけ)のついた = moss-covered, moss-grown, or mossy 苔 (moss) は、日本文化では価値あるものである。盆栽でも苔を巧みに活用する。こけ色(モスグリーンmoss green)を見ると、日本人は心が落ち着く。苔は、園芸(ガーデニング)の先進国イギリスでも価値あるものだが、アメリカでは無価値なものとなるらしい。だから、苔(こけ)の諺(ことわざ)が英米では解釈が反対になるという。 A rolling stone gathers no moss. 転石、苔を生ぜず。ころがる石にはこけが生えない。 職業を転々と変える人は益がなく、ろくなことはない。(イギリスの解釈) 職業を転々と変える人はカビが付かず、いつも清新だ。(アメリカの解釈) 「年増にはきれいな人がありますわ」は、今の女の子ならたぶん、「30代にはきれいな人がいますわ」と表現すると思う。現代日本語では、無生物・植物・物事が存在するときには「あります」を、人や動物の場合は「います」を使用するのが普通である。 「うつ向いて素気なく言った」は、” Her eyes were on the ground, and she spoke coldly.” となっている。主語をひとつにして She spoke coldly with her head down. も可能だが、しかし、この表現はすっきりしている分、文学的な余韻があまり感じられない。 「もういいよ」は “It's all over.”(もうすべて終わったよ)。これも上品な表現ですね。 こういう日常的な常套句の英訳が一番むずかしい。専門用語であれば、専門辞書の見出し語に掲載されているので検索も容易で問題はないが、日常、頻繁に使用することば、たとえば、「もういいよ」、「じゃあ、いいよ」、「いい加減にしろよ」、「だといいけど」などになると、途方にくれる。 「もういいよ」: “It's all over.” or “That’s enough.” or “Forget it.”, etc. 「じゃあ、いいよ」: “OK, I’ll give it up.” or “In that case, forget it.”, etc. 「いい加減にしろよ」: “Cut it out.” or “You talked too much.”, etc. 「だといいけど」: “That would be nice, but ...” or “I wish I could, but ...” , etc. コンピュータ用語は直訳できるが、日常語はそうはいかない。ひとつの語句には多くの意味がある。同じ「もういいよ」でも、その場の状況に応じて七変化したり百変化したりもするのだ。だから内容はともかく翻訳作業という観点からみれば、科学論文・契約書・仕様書などよりも、日常語の翻訳の方がはるかにむずかしい。 思いちがい 英語の ”mistake” は行為だけでなく「意見」も含む
【川端康成の『雪国』 新潮文庫 29ページ】 「僕は思いちがいしてたんだな。山から下りて来て君を初めて見たもんだから、ここの芸者はきれいなんだろうと、うっかり考えてたらしい。」と、笑いながら、七日間の山の健康を簡単に洗濯しようと思いついたのも、実は初めにこの清潔な女を見たからだったろうかと、島村は今になって気がついた。 原文はひとつの長文である。長文は分割してから英訳すると、翻訳が簡単で自然な英文にまとめることができる。「長文は分割してから翻訳する」は私の信条。でも、そんなことをしたら、原文のよさが損なわれるのではないのかと反論する人もいる。確かにそれも一理ある。分断することで、文体が犠牲になるし、また、接続助詞(〜だから、〜ながら、〜ので)がおうおうにして割愛されてしまう。できることなら分断などしないで、原文のことばひとつひとつを忠実に逐語訳(直訳)したい、と私も思う。しかし、和文英訳や英文和訳は、直訳では意味不明となりどうしても意訳(自由訳)しないわけにはゆかない場合が多い。英語と日本語は構造的に、大きくかけ離れているので、「長文は分割してから翻訳する」より仕方がない。
まず、長文をいくつかの文に分断する。分断するときは動詞に注目し、概念(意味のひとまとまり)ごとに切り出す。分断箇所にはスラッシュ(斜線 “ / “) を入れる。スラッシュ (slash) は動詞では「切り裂く」の意。これだと書くのが簡単で読み手も理解しやすい。 「僕は思いちがいしてたんだな。/ 山から下りて来て君を初めて見たもんだから、/ ここの芸者はきれいなんだろうと、うっかり考えてたらしい。」と/ 、彼は笑った。/ (〜ながら、) 七日間の山の健康を簡単に洗濯しようと思いついたのも、実は初めにこの清潔な女を見たからだったろうかと、島村は今になって気がついた。/ 試訳: “I must have misunderstood. I saw you for the first time when I came down from the mountains, and I mistakenly thought that all the geisha here were beautiful like you,” he laughed. Shimamura now realized that the idea, too, of washing away soon his energy of seven days in the mountains had perhaps come to him because he first saw this nice clean woman. 試訳は私が英訳したので典型的なジャパニーズ・イングリッシュ(国際英語)。洗練された格調高いアメリカ英語(民族英語)をお望みの方は、試訳はざっと目を通すだけにして、文末のサイデンステッカーの訳を心ゆくまで堪能してください。 「見たもんだから」→「見たものだから」→「見たので」 接続助詞(〜だから、〜ので)は、理由・原因を示す。本来、"because" の意味だが、"and" で代用できる場合が多い。たとえば、 ゆうべはほとんど寝ていないので、今とても眠たい。
I hardly slept at all last night, and I'm very sleepy now. (= I'm very sleepy now because I hardly slept at all last night.) 朝ごはんを食べなかったので、今おなかがすいている。
I didn't have breakfast and I'm hungry now. このように、"because" を "and" で代用すると、日本語にそって頭から順番に訳していけるし、英文もごく自然な英文となる。理由・原因を明示する必要のある場合を除き、私は、接続助詞(〜だから、〜ので)はたいてい "and" で代用する。職場に "because" の大好きな同僚がいる。あるとき、彼の書いた一通の英文メールに 3 回も "because" が出てきた。いくらなんでも、これはちょっと多すぎる。よく見ると、ほとんど "and" に置き換えることができるものばかりだった。 原文: 「僕は思いちがいしてたんだな。 訳文: “I made a mistake. 原文: 山から下りて来て君を初めて見たもんだから、 訳文: I saw you as soon as I came down from the mountains, and 原文: ここの芸者はきれいなんだろうと、うっかり考えてたらしい。」と、 訳文: I let myself think that all the geisha here were like you,” 原文: 彼は笑った。 訳文: he laughed. 原文: 七日間の山の健康を簡単に洗濯しようと思いついたのも、実は初めにこの清潔な女を見たからだったろうかと、島村は今になって気がついた。 訳文: It occurred to him now that the thought of washing away in such short order the vigor of seven days in the mountains had perhaps first come to him when he saw the cleanness of this woman. 「私はミスをした」は ”I made a mistake” という。しかし、日本語のミスは間違いとか誤りなど、主として「行為」を指すが、英語の ”mistake” は行為だけでなく「意見」をも含む。mistake: an action or an opinion that is not correct, or that produces a result that you did not want. (from OALD)。つまり、”I made a mistake” は、(私はミスをした)の場合も当然あるが、(私は思いちがいをした)という意味のときもある。"Don’t worry, we all make mistakes." (くよくよするな、人は誰でも誤りを犯すものだ)。 山から下りて来て = I came down from the mountains, 「山」が the mountains と複数形になっていることに注意する。これが the mountain と単数形であれば、島村が宿泊している宿の「裏山」と勘違いされてしまう。七日間も山を歩けば、当然、近辺の複数の山に足を踏み入れているはずだ。 うっかり考えた = I let myself think 日本語の「うっかり」は副詞なので、日本人ならたいてい、英語の副詞、たとえば、mistakenly, carelessly, unconsciously, accidentally などをそのときどきの状況に合わせて使用したくなる。訳文では動詞 ”let” の過去形が使用されている。(let-let-let) 動詞 ”let” は奥が深い。 Let me help you.(お手伝いさせてください)やLet me go!(行かせてください=はなしてください)は、まだ理解しやすい。いずれも「〜させてください」という感じ。しかし、ビートルズのヒット曲 ”Let It Be” になると少しやっかいだ。「そのままにしておきなさい」という意味だが、わかったようでわからないような感じがつきまとう。おまけに発音までも日本人の耳には「レリビー」としか聞こえない。 ”let” にはこれ以外にも、「不注意や怠慢でそうなるにまかせる」という意味もある。「うっかり考えた」 ”I let myself think” は、これに該当する。「うっかり考えた」から ”I let myself think” という表現は、日本人にはまず思い浮かばない。ここが民族英語と国際英語のちがい。これは動詞 ”let” を熟知しているネイティブ・スピーカー(英米人)ならではの発想だ。 お煙草でしょう 日本語の語順
都市化や過度の文明化はヒトの中性化を促すのだろうか。最近、恋愛やセックスに消極的な草食系男子が増加する傾向にあるという。こう不景気ではそれも仕方がない。これに呼応するかのように20代から30代の女性の間では、意外なことに戦国武将ブームが広がりを見せる。伊達政宗の重臣・片倉小十郎の居城、白石城がある宮城県白石市には今、若い女性が多数訪れる。東京・神田小川町の歴史専門書店 『時代屋』にも、多数の女性客が来店し、戦国武将関連の本やグッズを購入しているという。この書店では現在、「戦国婆裟羅 伊達政宗公の兜(かぶと)」を展示中。女性たちは、時代劇のヒーローに理想の男性像を見出しているのだろうか。ブームの火付け役のひとつは、戦国武将アクションゲーム「戦国BASARA」シリーズだという。しかし、ブームの根底にはおそらく、生物の本能「種の保存」の働きが関与しているにちがいない。「行き過ぎた文明」に対する本能の反撃である。 【川端康成の『雪国』 新潮文庫 30ページ】 西日に光る遠い川を女はじっと眺めていた。手持無沙汰になった。 「あら忘れてたわ。お煙草でしょう。」と、女はつとめて気軽に、 「さっきお部屋へ戻ってみたら、もういらっしゃらないでしょう。どうなすったかしらと思うと、えらい勢いでお一人山へ登ってらっしゃるんですもの。窓から見えたの。おかしかったわ。お煙草を忘れていらしたらしいから、持って来てあげたんですわ。」 それでは早速、原文と訳文をじっくり鑑賞する。(訳: サイデンステッカー) 原文: 西日に光る遠い川を女はじっと眺めていた。 訳文: She gazed down at the river, distant in the afternoon sun. 原文: 手持無沙汰になった。 訳文: Shimamura was a little unsure of himself. (島村は少し不安になった) 原文: 「あら忘れてたわ。お煙草でしょう。」と、女はつとめて気軽に、 訳文: "I forgot," she suddenly remarked, with forced lightness. "I brought your tobacco. 原文: 「さっきお部屋へ戻ってみたら、もういらっしゃらないでしょう。 訳文: I went back up to your room a little while ago and found that you had gone out. 原文: どうなすったかしらと思うと、えらい勢いでお一人山へ登ってらっしゃるんですもの。 訳文: I wondered where you could be, and then I saw you running up the mountain for all you were worth. 原文: 窓から見えたの。 訳文: I watched from the window. 原文: おかしかったわ。 訳文: You were very funny. 原文: お煙草を忘れていらしたらしいから、持って来てあげたんですわ。」 訳文: But you forgot your tobacco. Here." 原文: そして彼の煙草を袂(たもと)から出すとマッチをつけた。 訳文: She took the tobacco from her kimono sleeve and lighted a match for him. 英語に語順 (word order) があるように、日本語にも当然、語順がある。本多勝一によると、日本語の語順の四原則は、T 述部(動詞・形容詞・形容動詞)が最後にくる。 U 修飾辞が被修飾辞の前にくる。 V 長い修飾語ほど先に。 W 句を先に。 ということである。 「西日に光る遠い川を女はじっと眺めていた」 を例にとると、 西日に光る遠い川を女はじっと眺めていた。(正順) 女は、西日に光る遠い川をじっと眺めていた。(逆順) 女はじっと眺めていた、西日に光る遠い川を。(逆順) 「西日に光る」も「遠い」も両方とも「川」に係る修飾語。このように複数の修飾語がある場合、日本語では長い順に、または句を先に並べる。「遠い」は2文字、「西日に光る」は5文字。5文字の方が当然長いので、「西日に光る遠い川」が日本語の正しい語順(正順)である。正順の場合は原則としてテンは不要。しかし、これを逆順にして「遠い西日に光る川」とするときには、テン(読点)をつけて「遠い、西日に光る川」とする。つまり、逆順の場合はテンが必要となる(逆順のテン)。 「遠い」を、たとえば「遥か遠くに見える」(8文字)に置換すると、「遥か遠くに見える」も「西日に光る」も両方とも長い修飾語だが、「遥か遠くに見える」の方がさらに長いので先頭に来る。「遥か遠くに見える西日に光る川」が正順。長い修飾語が2つ以上のときは境界にテンをつけ、「遥か遠くに見える、西日に光る川」とする(長い修飾語は境界にテン)。日本語の語順やテン(読点)のつけ方について詳しくは、本多勝一著 『実戦・日本語の作文技術』 朝日新聞社発行 を参照してください。 西日に光る遠い川 = the river, distant in the afternoon sun (サイデンステッカー訳) 西日に光る遠い川 = the distant river shining in the afternoon sun (試訳) サイデンステッカー訳には詩的な余韻があるが、試訳にはあまりそれが感じられない。この違いはどこから来るのか?これはおそらく、日本語では修飾語(遠い)は被修飾語(川)の前に配置するしかないが、英語の修飾語(形容詞)は、被修飾語の前でも後でも置くことができる場合が多いので、たとえば訳文のように、the river の後にコンマを付けて " the river, distant in the afternoon sun" と続けることができる。このコンマが余韻を醸成しているのではないか。舞曲にしろ話芸にしろ「間(ま)」が重要だ。間がずれたり抜けたりすると芸事は台無しとなり、それこそ「間抜け」な印象を与える。コンマにより間(小休止)が創造され、あとにまで残る味わい(=余韻)が醸し出されるのではないだろうか。 「手持無沙汰(てもちぶさた)だった」は字義どおりには、「することがなく退屈だった」という意味なので、"Shimamura was bored." と訳してしまいそうになるところだが、ここではどうもそういう意味ではない。島村は退屈などしていない。好きな女と一緒にいて退屈するはずがない。この点、さすがに師匠の訳は、"unsure of himself" 「不安になる」と、島村の気持ちがそれなりに、ちゃんと酌んではある。 以前、「どうなすったの」は、"What happened?" と訳されていた。それに従うと「どうなすったかしらと思う」は、"I wondered what happened to you." これでもよさそうだが、今回は、「どうなすったかしらと思う」 → 「どこにいらっしゃるのかしらと思う」 → "I wondered where you could be." である。 「えらい勢いで」は「一生懸命に」の意。英語の "for all one is worth" (= with as much effort as possible) に相当する。例: He ran for all he was worth. 彼は一生懸命に走った。 「タバコ」といえば現代の日本人ならたいてい、「紙巻きたばこ」、つまり、シガレット(cigarette)を連想する。しかし、訳文の "tobacco" は「刻みたばこ」を指す。そういえば、私が子供の頃、祖父は刻みたばこを煙管(きせる)に詰めて吸っていたようだ。祖父の年代では、シガレットよりも刻みたばこが普通だったのかもしれない。 あの子に気の毒したよ 英語の使役動詞(causative verb)
「あの子に気の毒したよ」は、「あの子に気の毒なことをしたよ」ともいう。気の毒とは「心の毒」、気持ちを害するものという意味。あの子とはここでは、肌の底黒い腕がまだ骨張っていて、どこか初々しく人のよさそうな17歳か、18歳の芸者のこと。何もしないまま途中で帰らせたので相手の気持ちを傷つけてしまったと、島村は悔やんでいる。 【川端康成の『雪国』 新潮文庫 30ページ】 「あの子に気の毒したよ。」 「そんなこと、お客さんの随意じゃないの、いつ帰そうと。」 石の多い川の音が円い甘さで聞こえて来るばかりだった。 杉の間から向うの山襞(やまひだ)の陰るのが見えた。 「君とそう見劣りしない女でないと、後で君と会ったとき心外じゃないか。」 「知らないわ。負け惜みの強い方ね。」と、女はむっと嘲るように言ったけれども、芸者を呼ぶ前とは全く別な感情が二人の間に通っていた。 それでは早速、原文と訳文をじっくり鑑賞する。(訳: サイデンステッカー) 原文: 「あの子に気の毒したよ。」 訳文: "I wasn't very nice to that poor girl." 原文: 「そんなこと、お客さんの随意じゃないの、いつ帰そうと。」 訳文: "But it's up to the guest, after all, when he wants to let the geisha go." 原文: 石の多い川の音が円い甘さで聞こえて来るばかりだった。 訳文: Through the quiet, the sound of the rocky river came up to them with a rounded softness. 原文: 杉の間から向うの山襞(やまひだ)の陰るのが見えた。 訳文: Shadows were darkening in the mountain chasms on the other side of the valley, framed in the cedar branches. 試訳: Through the cedar branches he saw the mountain chasms darkening on the other side. 原文: 「君とそう見劣りしない女でないと、後で君と会ったとき心外じゃないか。」 訳文: "Unless she were as good as you, I'd feel cheated when I saw you afterwards." 原文: 「知らないわ。負け惜みの強い方ね。」と、 訳文: "Don't talk to me about it. You're just unwilling to admit you lost, that's all." 原文: 女はむっと嘲るように言ったけれども、芸者を呼ぶ前とは全く別な感情が二人の間に通っていた。 訳文: There was scorn in her voice, and yet an affection of quite a new sort flowed between them. 人に何かをさせたいときは使役動詞(しえきどうし)を使う。日本語の使役動詞は、動詞の未然形に助動詞の「せる・させる」を添えて作る。行く→行かせる、食べる→食べさせる、働く→働かせるなど。日本語の使役動詞は、内容と関係なくほとんど形式的に、このように簡単に作ることができる。 英語の使役動詞(causative verb)といえば、make, let, have, get が有名だ。英語の場合は、日本語とちがって、内容に応じて動詞を使い分ける必要がある。だから、英語の使役動詞を苦手とする日本人は多い。しかし、説明さえ聞けば、この4つの動詞の使い分けは意外と簡単である。たとえば、 「彼女に行かせましょう」は4通りの英訳が可能だ。 1. I'll make her go. (make は無理やりに行かせる場合。彼女は行きたくない) 2. I'll let her go. (let は望み通りに行かせてあげる場合。彼女が行きたい) 3. I'll have her go. (have は頼んで行ってもらう場合。頼まれれば彼女はそうする責務がある) 4. I'll get her to go. (get は説得して行ってもらう場合とか、そうしむける場合とか) Mom makes us eat lots of vegetables. ママは僕たちに野菜をいっぱい食べさせるんだよ。(僕たちはあまり食べたくないのに) My wife won't let me watch football on TV. 妻は私にテレビでサッカーの試合を観戦させてくれない。(サッカーの試合を見たいのに) I want to have my men report. 部下に報告させようと思う。(部下はそうする職務がある) Get your friends to help you. 友人に助けてもらいなさい。(説得すればそうしてくれるはず) たとえば、アメリカの友人を自宅に招待し、スキヤキをご馳走したいとき、 「今晩、妻にスキヤキを作らせましょう」 → I'll have her cook sukiyaki tonight. となる。 I'll make her cook sukiyaki tonight. だと、妻に無理強いするので離婚話に発展する恐れがある。 I'll let her cook sukiyaki tonight. だと、妻がスキヤキを作りたいので、今夜は妻の望みどおりにさせてあげるという意味になる。この状況では、make, let 両方ともふさわしくない。 I'll get her to cook sukiyaki tonight. だと、妻はあまりスキヤキを作らないが、今夜は何とか説得して作ってもらおうという気持ち。have の用法に近いので、この状況では、get でもいいかもしれない。 原文の「そんなこと、お客さんの随意じゃないの、いつ帰そうと。」に対して、訳文は "But it's up to the guest, after all, when he wants to let the geisha go." となっている。ここで "let the geisha go" に注目する。使役動詞の "let" から類推すると、芸者本人が行きたいことになってしまうが、そうではない。客が行かせるのであるから、本来は "make the geisha go" となるべきところではある。 この "let somebody go" は、実は「仕事をやめてもらう」という慣用句(to dismiss someone from their job)である。つまり、「解雇する」の婉曲(えんきょく)表現なのだ。 例: We've had to let three people go this month. (今月、弊社ではやむなく3人辞めてもらった)。 会社が従業員を解雇する場合、従業員自らが解雇を望むわけではないので、 The company makes employees go. となるべきところだが、これだと会社があまりにも無慈悲で残酷なイメージがある。また従業員にしてもこれでは惨め過ぎる。そこで、英語では婉曲表現を使用して The company lets employees go.(会社は従業員にやめてもらう) と表現する。 この点、日本語も同じだ。経営側は従業員に対して「仕事をやめていただく」と婉曲的に表現する。「〜していただく」は「〜してもらう」の謙譲語。自分のために相手に何かをしてもらうことなので、文字通りに解釈すれば、従業員が会社のために自ら身を引いてくれることになるのだが、実際そうでないことは労使双方とも百も承知している。A さんが解雇され、後日、A さんにかかってきた電話に会社の同僚は、「A さんはお辞めになりました」と婉曲表現で応ずる。こうした婉曲表現に異を唱える人はあまりいない、日本にも英米にも、そして、たぶん別の国であっても。 遠回り 「回り道」の反意語は「近道」
「遠回り」という語で私がまず思い出すのは、菅原 都々子(すがわら つづこ)の『月がとっても青いから』である。1955年(昭和30年)に発表され100万枚を超える大ヒットとなった曲だが、当初タイトルは『遠回りして帰ろう』だったという。ちなみに、作曲を手がけたのは菅原の実父で作曲家の陸奥明、作詞はその父の友人で菅原をよく知る作詞家の清水みのる。そう聞けば、若い男女のロマンチックな歌なのに、歌全体にどことなく父性愛のような暖かみが感じられる。 『月がとっても青いから』 月がとっても 青いから/遠廻りして 帰ろ あのすずかけの 並木路は/想い出の 小径よ 腕を優しく 組み合って/二人っきりで さあ帰ろう 「遠回り」と「回り道」は同意語である。英語で「遠回り」や「回り道」は、おなじみの「ディーツア」 “a detour” または “a roundabout route”。「遠回りする」は “make/take a detour” なので、「遠回りして帰ろう」は、たとえば ”Let’s take a detour home.” という感じだろうか。 detour: noun a longer route that you take in order to avoid a problem or to visit a place: It’s well worth making a detour to see the village. (from OALD) (試訳:回り道してその村を見ることは十分価値がある。→ その村は回り道してでも行くべきだよ。) しかし訳文では「遠回り」に ”roundabout way” が使用されている。これは、言葉などで遠回しに表現する場合、“detour” とか “route” ではなく、 ”in a roundabout way” 「遠回しに」というように “way” を使用するのがよいからである。「回り道」と、道そのものを表現する場合は、”way” でもいいが、”route” も使用できる。以下のふたつの英文を比較するとこの違いがわかりやすい。 ・The taxi driver took a roundabout route to the hotel. (from LAAD) (タクシードライバーは遠回りしてホテルに到着した。) ・In a roundabout way, she admitted she was wrong. (from LAAD) (遠回しに、彼女は自分のあやまちを認めた。) 「回り道」の反意語は「近道」である。英語で「近道」は「ショートカット」”shortcut” とか、あるいは “shorter way” という。「近道をする」は “take a shortcut”。 We took a shortcut through the downtown. 私たちは近道をして中心街を抜けた。 There are no shortcuts to economic recovery. 経済回復に近道はない。 それでは本文に戻って、原文と訳文を鑑賞する。 【川端康成の『雪国』 新潮文庫 30ページ】 原文: はじめからただこの女がほしいだけだ、それを例によって遠廻りしていたのだと、島村ははっきり知ると、自分が厭になる一方女がよけい美しく見えて来た。 訳文:(サイデンステッカー) As it became clear to Shimamura that he had from the start wanted only this woman, and that he had taken his usual roundabout way of saying so, he began to see himself as rather repulsive and the woman as all the more beautiful. ワーオ、原文、訳文ともに切れ味鋭い洗練された表現ではないか!とても、わたくしめごときが介入できる余地などない。ここはただ子供のように素直になって、このふたつの名文を暗誦できるほどに、くりかえしくりかえし読み返すのみだ。そうすることで、願わくば、表現が大脳のどこか記憶域に蓄えられ、いつの日かふと必要な場面でタイムリーに読み出されますように…。 ことばの習得には本当のところ、近道などない(There aren't really any shortcuts to learning languages)。実際には、3つの「き」、暗記・根気・年季が必要だと思う。暗記して根気強く継続して何年も続ければ、やがてはそれなりに習得できる。近道はないが、しかし効果的な学習方法はある。反論があるかもしれないが、それが文法だと私は考えている。暗記・根気・年季プラス文法、これが日本にいて独学で、英語などの外国語を習得する最も実践的で効果的な学習方法ではないだろうか。 うちへ寄っていただこうと思って if 節(条件節)に単純未来を表す "will" が使用できる場合
【川端康成の『雪国』 新潮文庫 50ページ】 「うちへ寄っていただこうと思って、走って来たんですわ。」 「君の家がここか。」 「ええ。」 「日記を見せてくれるなら、寄ってもいいね。」 「あれは焼いてから死ぬの。」 「だって君の家、病人があるんだろう。」 「あら。よく御存じね。」 「昨夜(ゆうべ)、君も駅へ迎えに出てたじゃないか、濃い青のマントを着て。僕はあの汽車で、病人の直ぐ近くに乗って来たんだよ。実に真剣に、実に親切に、病人の世話をする娘さんが付き添ってたけど、あれ細君かね。ここから迎えに行った人?東京の人?まるで母親みたいで、僕は感心して見てたんだ。」 「あんた、そのこと昨夜どうして私に話さなかったの。なぜ黙ってたの。」と、駒子は気色ばんだ。 「細君かね。」 しかしそれには答えないで、「なぜ昨夜話さなかったの。おかしな人。」 ここの会話は短いが、日本人にとって興味深い英訳が随所に出てくる。「うちへ寄る」、「走って来た」、「君の家がここか」、「日記を見せてくれるなら、寄ってもいいね」など、さすがに名人の手にかかると、すべての訳文があたかも原文だったかのように、いきいきとよみがえる。 原文: 「うちへ寄っていただこうと思って、走って来たんですわ。」 訳文: " I ran after you because I thought I might ask you to come by my house." 「立ち寄る」は米語では "come by"。come by = to go to someone's house for a short time before going somewhere else. 原文の「走って来た」は、直訳の "came running" よりも意訳の "I ran after you" (あなたを追いかけた) の方がここではぴったりする。 原文: 「君の家がここか。」 訳文: "Is your house near here?" 訳訳文: 「君の家はこの近くなのかい?」 「君の家がここか」は "Is your house here?" と、私など、つい直訳しそうな気がするなあー。もちろん、こういう訳もあるとは思うが、"Is your house near here?" の方がここではより的確な表現だ。 原文: 「ええ。」 訳文: "Very near." 原文: 「日記を見せてくれるなら、寄ってもいいね。」 訳文: "I'll come if you'll let me read your diary." ここでは "I'll come" と "come" が使用されている。"come" と "go" は、基本的には同じ動作を示す。ただし視点は異なる。日本語の用法だと、ここでは「行く」となるところだが、英語では、話し手(島村)の視点が聞き手(駒子)の家にあるので "come" が正しい。「夕食、準備できたわよ」(Dinner's ready!) と妻に呼ばれて、「わかった。今、行くよ」は、"OK, I'm going." ではなく、"OK, I'm coming." と言う。それと同じこと。 原文: 「あれは焼いてから死ぬの。」 訳文: "I'm going to burn my diary before I die." 原文: 「だって君の家、病人があるんだろう。」 訳文: "But isn't there a sick man in your house?" 原文: 「あら。よく御存じね。」 訳文: "How did you know?" 原文: 「昨夜(ゆうべ)、君も駅へ迎えに出てたじゃないか、濃い青のマントを着て。僕はあの汽車で、病人の直ぐ近くに乗って来たんだよ。実に真剣に、実に親切に、病人の世話をする娘さんが付き添ってたけど、あれ細君かね。ここから迎えに行った人?東京の人?まるで母親みたいで、僕は感心して見てたんだ。」 訳文: "You were at the station to meet him yesterday. You had on a dark-blue cape. I was sitting near him on the train. And there was a woman with him, looking after him, as gentle as she could be. His wife? Or someone from Tokyo? She was exactly like a mother. I was very much impressed." あれえ、変だな?「娘」が "a woman" と訳されているぞ! "a girl" の方が断然いいのに。この娘は、冒頭の「駅長さあん、駅長さあん」と叫んだ葉子を指すので、冒頭部分の英訳と同じように、"a girl" の方がいいと思う。『雪国』の中では「女」という語は「駒子」のみを指すいわば「予約語」なので、翻訳でも "woman" は「駒子」の専用語として確保しておきたい。 原文: 「あんた、そのこと昨夜どうして私に話さなかったの。なぜ黙ってたの。」と、駒子は気色ばんだ。 訳文: "Why didn't you say so last night? Why were you so quiet?" Something had upset her. 原文: 「細君かね。」 訳文: "His wife?" 原文: しかしそれには答えないで、「なぜ昨夜話さなかったの。おかしな人。」 訳文: Komako did not answer. "Why didn't you say anything last night? What a strange person you are." 学校では、「if 節(条件節)には単純未来を表す "will" を使用しない」と教わる。それが頭にこびりついているので、たいていの人は、訳文の "I'll come if you'll let me read your diary." のような英文を見ると不安になる。でも、ご安心あれ、これは真正の英文である。ただし、if 節に "will" を除いた英文ももちろん可能。両者は少し意味が異なる。 1. I'll come if you let me read your diary. 日記を見せてくれるなら寄ってもいいよ。 2. I'll come if you'll let me read your diary. (見せたくないだろうけど)日記を見せていただけるなら寄ってもいいね。 多くの単語がそうであるように、"will" も複数の意味を持つ。つまり、上記2のif 節 の "will" は「単純未来」を表す "will" ではなく、「(相手の好意を期待して)〜してくださるなら」、という期待を表す "will" である。 未来のことを話すのに「単純未来」を表す "will" を使用しないのは、if 節だけではない。 when節, while節, before節, after節, as soon as節, until節or till節 などでも同じ。 明日、雨なら試合は延期されます。 The game will be postponed if it rains tomorrow. (not if it will rain tomorrow) 雨が降っている。出かけたら濡れるよ。 It's raining. We'll get wet if we go out. (not if we will go) 「雨が止んでから出かける」というような場合: We'll go out when it stops raining. (not when it will stop) We'll go out after it stops raining. (not after it will stop) We'll go out as soon as it stops raining. (not as soon as it will stop) 彼が私を抱いてくれるまで、じれったいけど待つわ。 Till he holds me, I'll wait impatiently. コニーフランシスの「ボーイハント」 "Where the Boys Are" より http://home.att.ne.jp/yellow/townsman/SnowCountry_1.htm ▲△▽▼ 欧米人には絶対にわからない『雪国』の背後の世界 802:tky10-p121.flets.hi-ho.ne.jp:2011/01/22(土) 22:33:30.90 0 川端康成の「雪国」は死後の世界 みんな幽霊という設定 803:tky10-p121.flets.hi-ho.ne.jp:2011/01/22(土) 22:35:37.56 0
ちなみに千と千尋も死後の世界だね トンネル抜けるとそこは黄泉の国ということ http://2chnull.info/r/morningcoffee/1295616090/1-1001 講演の中で、奥野健男は川端康成の「雪国」に触れ、実際に川端康成と話したときのことを語ってくれた。
川端によると「雪国」というのは「黄泉の国」で、いわゆるあの世であるらしい。 「雪国」があの世であるというのは何となくわかる気がする。島村はこの世とあの世を交互に行き交い、あの世で駒子と会うのである。駒子とはあの世でしか会えないし、この世にくることはない。島村と駒子をつなぐ糸は島村の左手の人差指である。島村が駒子に会いにくるのも1年おきぐらいというのも天の川伝説以外に何かを象徴しているのだろうか。
とてつもなく哀しく、美しい声をもつ葉子はさしずめ神の言葉を語る巫女なのか。その巫女の語る言葉に島村は敏感に反応するのだ。もしかしたら葉子は神の使いなのかもしれない。 駒子は葉子に対して「あの人は気違いになる」というのは、葉子が神性を帯びているからではないのか。 日本人とって、あの世とは無の世界ではない。誰もが帰るべき、なつかしい世界である。あいまいな小説「雪国」がなぜか私になつかしい思いをさせるのはやはり「雪国」が黄泉の国だからなのだろうか。 http://www.w-kohno.co.jp/contents/book/kawabata.html 川端は代表作雪国でトンネルを効果的に使っているが、1953年4月に発表された小説『無言』でも現世とあの世をつなぐ隠喩として名越隧道をうまく使っている。なお、川端が自殺した逗子マリーナには、車で鎌倉から一つ目の名越隧道と二つ目の逗子隧道を抜けてすぐ右折し5分程度の距離にある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E8%B6%8A%E9%9A%A7%E9%81%93 http://blog.livedoor.jp/aotuka202/archives/51017908.html
ずいぶん昔、何かの会合のあと友人数人とスナックで 飲んでいた時、そのうち一人との会話である。
「川端康成の『片腕』はシュールな傑作だね。口をきく片腕と添い寝 して愛撫するとは」と友人。 「あれはハイミナールの幻覚だと言われているがね」と傑作であるこ とは認めつつ、 「川端康成なら君など問題にならないくらい読んでいる がね」と言う代わりに、どうでもいいような不確かなゴシップ を喋る私。 「『眠れる美女』はまさしく屍姦だが、あれもハイミナールの幻覚か い?」
「いや、あれは実際にやっていたと言う話だ。死体愛好癖とロリコンは 川端康成の二大テーマだからね」 渡部直己『読者生成論』(思潮社)の中にある「少女切断」を読みつつ 上記の会話を思い出した。この「少女切断」は非常に刺激的で、一瞬、川 端康成全集を買って読み返そうかなどと思ったくらいだ。
読み返すとは言っても川端康成が少女小説を書いていたのは知らなかった。 昭和十年から戦後四、五年まで数にして二十以上の長短編少女小説を 書き、これらの少女小説は渡部直己によれば読み応えのある傑作である という。またこの少女小説の一つである「乙女の港」には、中里恒子 による原案草稿20枚が発見されているとのことだから、本物の少女小説 である。 今日すでに存在していない、ここで言う「少女小説」とは渡部直己によ れば、次のようなものである。 「 お互いの睫の長さも、黒子の数も、知りつくしてゐたような、少女の 友情……。
相手の持ちものや、身につけるものも、みんな好きになって、愛情を こめて、わはってみたかったやうな日……。(『美しい旅』) そうした日々の静かな木漏れ日を浴びて、少女たちはふと肩を寄せあい、 あるいは、人垣をへだててじっと視つめあい、二人だけの「友情と愛の しるし」に、押し花や小切れなどさかんに贈りあっては、他愛なくも甘美な 夢にひたりつづける。お互いを「お姉さま」「妹」と呼びかわし、周囲から 《エスの二人》と名ざされることの悦びに、いつまでも変わらぬ「愛」を 誓いあう二人の世界を彩って、花は咲き、鳥は唄い、風は薫りつづける」
この「少女小説」は、現在の ギャル向けポルノ雑誌と同じ機能も果たしていたのであろう。
今日存在する「少女小説」は、だいぶん様子が違ってきている。たとえば 耽美小説と呼ばれる美少年の性愛を露骨に描写した小説も「少女小説」の一種 であろう。この少年とは大塚英志が言うような、少女の理想型としての少年で ある。 実はこのジャンルはまるで苦手だ。子供の頃、少女マンガというのは 実に退屈なものだなと思った。したがって、後年その少女マンガから傑作が 生まれることなど私の想像力の範囲を超えていた。文学が痩せこけていくのに 反比例して、様々な表現分野が豊饒になり、いわゆる文学を超えた傑作が 多く生まれた。それもまた私の守備範囲を超えていたのであった。 友人の一人(男)が鞄の中に常時少女マンガ雑誌を携帯し、赤川次 郎的少女小説なども愛読している。この感性はどちらかといえば少数派に違いない。 時々「わぁーっ、素敵」などとこの男が言ったりするのは少女マンガの悪影響 だろうが、聞いている方にはかなりの違和感がある。これは異化作用とは 言えない違和感である。 渡部直己が模範的反少女小説として詳細に論じているのは『千羽鶴』で ある。 『千羽鶴』の主人公三谷菊治や『雪国』の主人公島村はその年齢に比して ひどく老成した印象を受ける。彼らはテクストから、はみ出さない。 島村は視点に過ぎないし、冥界を往還する傍観者的な過客の分際から踏み 出そうとはしない。『伊豆の踊子』の一高生にとって 伊豆がそうであったように、島村にとって『雪国』は黄泉の国であり異界で あり、彼は 異人の劇に観客的に出演する。異界は彼にとって慰藉であり、生への意志 を充填する場所なのだ。 三谷菊治は、死者が紡ぎだす美に翻弄されるだけで、 自らの欲望を生きることはなく、作品の狂言まわしですらない。彼は 死者と近親相姦的にかかわる。自殺してしまう太田未亡人も文子も、 もともとこの世の人ではなかった。 或いは三谷菊治自身が死者なのかもしれない。 渡部直己によれば、 事態をなかば抑圧し、なかばそれを使嗾する検閲者である栗本ちか子は、 読みの場の知覚をみずから模倣しつつ作品に介入する 人物の典型、作者の分身たちがひしめきあう世界に紛れこんで、むしろ 読者の分身たらんと欲する人物で、小説一般に幅広く散在する。渡部直己 は『千羽鶴』の場合、作品はあげてこの人物を唾棄しようとすると書いて いる。 だが栗本ちか子は此岸の人であり、テクストを抜け出して我々の人生に 顔を出したりする。彼女は物語の検閲者であり、その欲望は使嗾しつつ抑 圧することのように見えて、実は他者を破滅させることにある。 http://homepage3.nifty.com/nct/hondou/html/hondou73.html ▲△▽▼ 『雪国』の『国境の長いトンネル』は能舞台の橋掛かりと全く同じ意味を持っている: 能は能舞台という専有の演技空間を持っています。横浜能楽堂に一歩足を踏み入れるとすぐにお気づきのように、 客席に突き出た三間(約6メートル)四方の本舞台(ほんぶたい)と、向かって左に延びる橋ガカリからなること、
室内でありながら舞台上にも屋根があること、 橋ガカリ奥に5色の揚幕(あげまく)という幕があるのみで、観客と舞台を隔てるものがないこと、 枝振りのよい松が描かれた鏡板(かがみいた)が背景となること など、横に広く長い日本の大多数の劇場とは随分違っているのです。能舞台は非常に特異な空間ですが、これは能と狂言の演技の本質に深くかかわっています。
まず本舞台。この正方形の空間は、左右より前後の動きが演技の中心となっていることを意味します。足を一歩出す、一歩引くというほんのわずかな動作が、説得力に満ちた表現になるのです。客席に張り出す舞台では、役者の身体の前から背中まで、すべてが見えてしまいます。「動く彫刻」といわれるように、一分の隙も許されず、全身全霊の力を外に放つ気迫が役者に要求されます。
また能には神、仙人などの超人間的な存在や、あの世の者が多く登場します。人間の生身の肉体である素顔を使わず能面を用いるのはそのためですが、異次元の世界からこちら側へ渡って来るには、果てしなく遠い道のりを辿らねばならないのでしょう。その距離とエネルギーとを象徴するのが橋ガカリなのです。 http://www.yaf.or.jp/nohgaku/98spr/001-2.html
橋掛かりとは、揚幕から本舞台へとつながる長い廊下部分のこと。
ここには、微妙な傾斜がつけられており、観客から見て遠近感が強く感じられるように設計されているそうです。 この橋掛かりを通って、シテは、揚幕から本舞台へと現れ、消えていきます。 それは、亡霊が現れては消えていく、能の物語そのものです。 まるで、橋掛かりが、あの世とこの世を結ぶ道のようです。 http://www.sense-nohgaku.com/noh/articles/whats_no/youhashigakari.php 橋掛りは、異次元とこの世を繋ぐ架け橋です。 http://www.ryosuikai.com/distript.htm
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「雪国」駒子のモデルの周辺事情など ところで、怒涛の三角関係がもにょもにょ…な展開の 「雪国」 だが、そのメインヒロインである駒子には、実在のモデルがいたことが知られている。松栄(まつえ)という芸名の若い芸者で、川端康成と最初に出会った昭和9年当時、彼女は19歳であった。
川端康成はこのとき35歳。…なんというロリコン! …とか言っちゃいけないんだろうけれど(^^;)、この16歳も年下の芸者を川端はいたく気に入った様子で、たびたび指名買いしては部屋で飲んだり、散策に連れ出したり、その他いろいろなことをしたらしい。…といっても川端本人はあまり酒は飲むほうではなく口数も少ないむっつり男だったというから、どのような時間の過ごし方をしたのか少々不思議というか、非常に興味津々なところではある(^^;) そんな逗留の日々の中、小説の筆は進んでいった。最初から一本の作品として書いた訳ではなく、登場人物を共通にして細切れの短編として雑誌に発表し、のちにそれをまとめて一冊の本にした。タイトルは最終的に 「雪国」 となった。
…が、後にこれを読んだ松栄はシェーっ(古^^;)…とばかりにぶっ飛んだらしい。小説に書かれた内容が、ほとんどそのまま川端康成と自分の過ごした日々をトレースしていたからであった。関係者が読めば登場人物が実在の誰であるかが分かってしまうし、しかも中身は色恋沙汰のもにょもにょ話で、もちろん小説として面白くなるようにあれこれと演出が入っていた。 まあ一般読者からすればどこまでが事実でどこからが創作かなど分かろう筈もないのだが、書かれた側にとってはかなり困惑…というより傍迷惑MAXなものであったのは間違いないだろう( ̄▽ ̄;) こういう自分の体験をそのまま文章に書きだす作風は "私小説" とか "掌小説" などと呼ばれ、大正時代から昭和の中頃あたりにかけて流行した小説の1ジャンルであった。典型的な作家としては、太宰治を挙げればおおよその雰囲気は掴めるだろう。
川端康成はまさにこの系列の作家で、「雪国」 においても意図的に他人の私生活を暴露しようとした訳ではなく、当時なりの流行のフォーマットに従って自分の体験をネタに物語を書いたつもりのようだ。ただし配慮を欠いて突っ走りすぎたという点で、ツッコミを受けても仕方の無い部分があった。 これについては川端康成本人も 「やっちまった」 感は持っていたようで、後に生原稿を松栄の元に差し出して無断で小説に書いたことを詫びている。作家にとって生原稿を差し出すというのは命を差し出すようなものであるから、このときの侘びの入れ方はかなり本気だったようである。そしてこれ以降、川端は湯沢に通うのをやめ、「雪国」 は清算すべき過去の負い目の作品となった。 一方の松栄の方はというと、芸者の契約期間満了(=年季が明ける、と花柳界では言う) とともにこの世界から足を洗い、三条市に移った。新たな勤め先は市内の和裁店で、のちに彼女はそこの主人氏と結婚してささやかな家庭を築くことになる。「雪国」 の原稿は湯沢を出るときに焼き捨ててきた。昭和15年(1940)のことであった。 しかしそんな作者側 (…と、書かれた側) の事情とは関係なく、「雪国」 は小説としては異例のロングセラーとなり、戦後になって映画化、演劇化、そしてTVドラマ化…と何度も映像化されることとなった。駒子のモデルがいるということはほどなく公知の事実となり、レポーターの突撃取材(?)なども行われたようである。 …つまり 「雪国」 の一件は、原稿を焼き捨てても終わることなく松栄(この頃は一般人:小高キクとなっていた)の人生に後々までずっと影響を及ぼし続けたのであった。 資料館には映画のロケ地で女優の岸恵子と対談する松栄の写真(昭和32年)があった。地元の観光宣伝になるため取材には協力していたようだが、すでに人妻となっているにも関わらず独身時代の他の男との関係を面白おかしく取り上げられたり、ましてや映画化(!!)されたり…というのはどんな気分だったことだろう。
一方その間、川端康成は文壇で着実に知名度、実績を上げ続け地歩を築いていった。各種文芸賞のほか、日本ペンクラブ会長、国際ペンクラブ副会長に就任し、文化勲章まで受章した。役員として名前を貸した文芸系の団体などは数え切れない。 そしてついに昭和43年(1968)、川端康成は日本人初のノーベル文学賞を受賞し、その名声の頂点を極めたのであった。「雪国」 は代表作のひとつと言われるようになり、小説の中身を知らない人でも冒頭の一文だけは知っている…というほどに知名度が上がった。 ※写真は 「雪国」 湯沢事典(湯沢町役場/湯沢町教育委員会/新潟県南魚沼郡湯沢町) より引用。ちなみに湯沢町はノーベル賞以前から 「雪国」 で町興しをしており、資料館内には受賞以前の川端康成の書などが展示されている。 …ところが、ノーベル賞受賞の後、実は川端はほとんど作品を発表していないのである。
一説には賞の重圧が筆をとることを躊躇(ためら)わせたのでは…とも言われているが、筆者的には "燃料の枯渇" も相当程度あったのではないかという気がしてならない。 …というのも、高名な賞や肩書きは、分かり易く作家をランク付けしてくれる一方で希少動物か珍獣のような扱いにもするからだ。静かな地方を尋ねて小さな体験を積み重ねつつ、物語をひねり出す…という川端康成の創作の方法論は、ノーベル賞受賞後は "珍獣" に集まる人だかりによって明らかに破綻してしまったように思える。 晩年の川端が行く先々で行ったのは、小さな出会いでも散策でもなく、「日本の美」 とか 「芸術について」 といった大仰な講演会であった。 ■そして駒子が残った
ノーベル文学賞受賞から4年後、川端康成は神奈川県逗子市の書斎で遺体となって発見された。昭和47年4月16日のことである。死因はガス自殺とされているが、遺書はなく、その真相は今でも不明である。 昭和初期の頃の小説家というのは自らの苦悩を作品にしつつ、たびたび自殺で世を去った。川端康成は比類なき成功と栄光を手にした果てに、結局周回遅れで彼らの仲間入りを果たしたともいえる。 私小説とは自己を切り売りしているような作風だという人がいるけれども、おそらくそれは正しい認識だろう。切り売りできるものが無くなってしまった時点でその小説家は詰んでしまう。だから常に燃料を補給しなければならない。
昭和9年の川端は実はその "詰んだ" 境遇にあり、湯沢にやってきた時点で彼は何を書くべきかというテーマを持っていなかった。たまたま現地で出会った若い芸者と過ごした日々が、創作の糧となって文章のネタとなり、彼を救ったような印象を筆者はもっている。 しかし20年後の彼には、もうそういう人は現れなかった。川端はよく言えば 「恋多き男」 で、若い頃には取材旅行で地方に滞在するたびに色々な女性にちょっかいを出したらしいのだが、偉くなりすぎた後にはそういう勝手もしにくくなった。さすがに講演会で 「芸術とは〜」 などとやっている一方で、あまり下世話な行動もとりにくかっただろう。 しかし面白い小説というのはそんな下世話で赤裸々な感情の集積という側面をもっている。…偉くなりすぎた果てにこのギャップを埋められなくなったあたりに、もしかすると晩年の彼の不幸があったのかもしれない。 川端康成が最後にちょっかい…いや、癒し(^^;)を求めたのは、随分と手近なところで家政婦の女性であったという。しかし彼女はどういう訳か川端の元を去ってしまう。後には誰も残らなかった。
一方、松栄は平成11年まで矍鑠(かくしゃく)として存命した。享年83歳。読書が趣味で、亡くなったとき自室の書棚には800冊あまりの蔵書があったというが、川端康成の作品は、やはり1冊もなかったそうだ。
資料館には、川端と出会った頃の松栄の住んだ部屋が移築、保存してある。高半旅館からほどちかい諏訪社の付近にあった豊田屋という置屋(芸者を派遣する業者)の2階部分で、小説にも登場する部屋である。
…昭和9年、ここに居た一人の芸者が、とあるネタ切れ作家の座敷に呼ばれた。それがささやかな物語の始まりであった。作家は口数も少なく、酒もほとんど飲まない扱いにくい客で、それでも芸者は三味線を弾き謡い、この堅物の興味を引きそうな話を振って精一杯のもてなしを試みた。それまで幾人もの芸者を呼んでは返していた作家は、不思議なことにこの芸者に限っては何度も指名するようになった。おそらくこのとき、作家にインスピレーションの神が降りたのだろう。
…と、とりあえず筆者はそんな推測をしている。 座敷に座っている駒子(=松栄)の人形は、静かに窓の外を眺めるばかりでこちらには顔を向けない。
もう関係者もあらかた鬼籍に入ってしまった今、真実が奈辺にあるかなどということを気にする者はいなくなった。いまは小説が一冊、残っているだけである。 一通り見学した後に外に出ると、また雪が激しくなってきていた。
すっかり発展して巨大繁華街となった新温泉の領域を歩くと、駒子の名のついた土産物が実に多いことに驚く。これらのアイテムはもう定番の観光記号と化していて、小説の中身を知らなくても 「雪国」、 「駒子」、 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」 さえ押さえておけば何となく文学体験をした気分になれるほどに認知されている。 これはこれで、不思議な風景なのであった(^^;) …変わらないのは、雪ばかりである。 完
■あとがき 久しぶりに豪雪地帯をゆるゆると歩いてみて、やはり越後の冬山はスゴイな〜という感慨を持ちつつ、有名なネタである川端康成の周辺を眺めてみました。今回は文学の素養もないのに 「雪国」 をテーマにしてしまったので正確性には不安がありまして、もしトンチンカンなことを書いていたら何卒ご容赦頂きたいです(汗 ^^;) さて川端康成というと、もう近づきがたいほどの超有名な大文豪…というイメージを筆者は持っていたのですが、少なくとも戦前の20〜30代の頃はかなり行き当たりばったり的に作品を書いていたような印象があります。彼が湯沢にやってきたときがまさにそのパターンで、何を書くかを事前に決めないままに宿に入り、いきなり芸者遊びと散策という 「お前、何しに来たんだよ」 的な日々が始まります。しかしそれは 「何かが起きる」 ことを期待しての行動で、彼としては小説のネタ探しのつもりだったのでしょう。 「雪国」 としてまとめられる前の小説の冒頭部分は 「夕景色の鏡」 の題で雑誌に掲載されたそうですが、締め切りにはかなりギリギリの入稿だったようで、しかもなんと川端康成はこの時点でストーリーの結末をどうつけるかまだ決めていませんでした。芸者の松栄嬢と過ごした日々のエピソードがそのまま小説に取り入れられてしまったあたりから見ても、ネタ切れで苦し紛れ…という雰囲気がそこはかとなく感じられ、よくもまあ話がつながったな(※)…というのが正直な感想です。 なおエピソードに苦しんだらしい連載2回目は、締切りに間に合わず原稿を落としてしまい、締切りの遅い別の雑誌に載せるという漢気な計らいが行われました。今ではちょっと考えられませんが、当時は雑誌の編集部もナカナカおおらかな時代だったようです。 ※現在入手できるのは加筆修正が進んだ昭和22年発行の 「決定版」 と呼ばれるバージョンで、オリジナルの初版は古書店で相当探さないと入手は難しい。 さて川端康成は何度も湯沢を訪れては連泊していますが、本当の厳冬期に来たことはなかったといいます。小説内で駒子は芸者の衣装のまま雪の中を一人でパタパタ往来しているように描かれますが、実際には雪が深くなると芸者は裾が汚れないように専用の送迎用のソリに乗りました。この描写が 「雪国」 には見られません。観察眼の鋭い川端も実際に見ていないものは描きようがなかったのでしょう。
調べてみると、川端康成は3年少々の湯沢通いの間、最長でも年間で一ヶ月ほどの滞在だったようです。時期的には他の作品も同時に書いていた筈で、このあたりの足跡を追うと作家の執筆活動がどのようなものだったのかが何となく見えてくる気がします。本編中では戦前の作家は四六時中どこかの温泉旅館を渡り歩いていたような書き方になってしまいましたが(笑)、やはり限度というものはあったようですね…(^^;) ■おまけ:カンヅメ旅館について ところでカンヅメ旅館について調べていて、明治大学図書館の講演会資料に面白いものを見つけました。 「ウルトラマンから寅さんまで、監督・脚本家・作家の執筆現場」 http://www.lib.meiji.ac.jp/about/publication/toshonofu/kurokawaM07.pdf
というもので、内容は下手に解説するより実物を読んで頂いたほうが良いと思いますが(^^;)、主に戦後のカンヅメ旅館の面白エピソードを集めたものです。
興味深いのは映像関係者と小説家の対比で、映画の脚本などは大人数でワーワー騒ぎながら書く (さらには旅館側に対して注文が多い) のに対して、作家は一人黙々と書いているので手間が掛からない(笑)などと書いてあります。そうするとむっつり男の川端康成などは、旅館にとっては扱いやすい客だったのでしょうかね…(^^;) http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2012/2012_0209_Yuzawa/2012_0209_04.html ▲△▽▼
駒子を探せ!(越後湯沢への旅1)
雪国がもっとも雪国らしい季節になっています。 と言うわけで、川端康成の「雪国」の舞台、越後湯沢を訪れてみました。
小説に登場する駒子にはモデルがいたそうです。 当時19歳、置屋「藤田屋」に身を置く芸妓「松栄」です。 http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6482_640.jpg?c=a0 駒子の面影を求めて湯沢を散策してみます。 駒子の容貌について、小説の中では次のように描写されています。 「細く高い鼻が少し寂しいけれども、その下に小さくつぼんだ唇はまことに美しい蛭の輪のように伸び縮みが滑らかで・・・濡れ光っていた。目尻が上がりも下がりもせず、わざと真直ぐに書いたような眼はどこかおかしいようながら、短い毛の生えつまった下り気味の眉が、それをほどよくつつんでいた。 少し中高の円顔はまあ平凡な輪郭だが、白い陶器に薄紅を刷いたような皮膚で、首のつけ根もまだ肉づいていないから、美人というよりもなによりも、清潔だった。」 さて駒子には会えるのでしょうか。 昭和9年から昭和12年にかけて、川端は越後湯沢に滞在して雪国を執筆しました。 旅館「高半」は今は鉄筋コンクリート造りのホテルに変わっていますが、川端が逗留した「かすみの間」は当時のままに保存されています。 http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6414_640.jpg?c=a0 この部屋で雪国が執筆されたのです。 当初幾つかの短編として発表され、戦後「雪国」としてまとめられました。 小説の中では、「椿の間」として出てきます。 島村を訪ねた駒子は、椿の間に泊まり、当初は旅館の人が出入りするときは、次の間に隠れていました。 部屋の間取りを紹介したパネルにはご主人高橋半左ヱ門氏の話が紹介されています。 「はじめのころは芸者の松栄さんが慌てて次の間に隠れたからだ、公認のようになってからはもう彼女は隠れなくなりましたが」 小説が執筆された部屋でもあるが、川端と松栄の密会の場でもあったのです。 当時、川端にはすでに奥さんがいたはずです。 昔の高半を遠望する写真です。
http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6443_640.jpg?c=a0 岡の上の建物が高半です。 右手の杉木立の中に諏訪神社があります。 小説の中に出てきます。 「女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくりと入った。 彼は黙ってついて行った。 神社であった。 苔のついた狛犬の傍らの平らな岩に女は腰をおろした。」 高半の女将さんに諏訪神社までの道を訪ね、岡を下りました。 http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6457_640.jpg?c=a0 残念ながら、雪に閉ざされて神社の境内までたどり着く事ができませんでした。 雪に埋もれた鳥居を遠望するのみで、苔のついた狛犬も、その側の平な岩も確認することは出来ません。 芸者を辞めて湯沢を去る松栄は、この境内で川端から届けられた雪国初稿の生原稿や自分がつけていた日記を焼いたそうです。 その松栄が身を置いた「豊田屋」はこの神社近くにあったそうです。 湯沢町歴史民俗資料館には、松栄の住んだ部屋を移築して「駒子の部屋」と名付け展示してあります。 記事冒頭の写真がそれです。 http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6448_640.jpg?c=a1 ホテル高半に展示されていた松枝の写真です。 向かって右側が松栄19歳のころの写真です。 冒頭に紹介した、駒子の容貌の描写と比較してみてください。 似ているというか、そのまま・・・と思いませんか。 駒子のモデルとなった、松栄は昭和15年芸妓をやめ、その後結婚し、1999年に新潟県三条市で亡くなっています。 良いご主人に恵まれ、その人生は幸せだったようです。 駒子であった松栄にスポットをあてた『「雪国」あそび』(村松友視・恒文社)という本があります。 その中に、「キク(松栄の本名)さんは生前、久雄(ご主人)さんに『雪国』の中のできごとはほとんどが実際のできごとだと話した」との記述がありました。 「国境のトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった。」 http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6506_640.jpg?c=a1 この冒頭部分があまりにも有名なためか、「雪国」をなんとなく読んだようになっていました。 冷静に考えてみると読んだことはありませんでした。 なぜ、読んだことがあると思い込んでいたのでしょうか。 ひょっとすると教科書に載っていたからだろうか。 今回、雪国を読んでみて、「教科書に載っていたかも」というのも思い違いだったようです。 内容は教科書に載せられるような代物ではありませんでした。 これは不倫小説です。 しかも冒頭部分で 「結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている。 ・・・この指だけは女の感触で今も濡れていて、」 とかなり不穏当な表現がでてくるのです。 (この指の感触の表現部分は昭和10年に「夕景色の鏡」として文藝春秋に発表されたときは伏字が使われているそうです。さもありなんと思います。) 妻子ある男と芸妓の逢瀬の描写が繰り返し描写され、そして山場らしい山場もなく終わってしまいます。 新潮文庫版「雪国」の解説文で伊藤整が「抒情小説」といい、「さて、完成されても、ドラマティックなカタストローフは決して設定されず、本当に終わったのかどうか、読者にも疑問に思われる。」(永遠の旅人)と三島由紀夫が評したのも良くわかりました。 http://odori.blog.so-net.ne.jp/2011-02-06 ▲△▽▼ 愛のゆくえ 「雪国」 - 魔界の住人・川端康成 森本穫の部屋 愛のゆくえ「雪国」その1 越後湯沢へ 1932、3年(昭和7,8年)ころ、川端康成はしばしば上州(群馬県)の温泉へ原稿を書きに行っていた。 その前、昭和6年には、直木三十五に連れられて、池谷信三郎と3人で、上州の法師温泉へも出かけている。 法師温泉は三国(みくに)峠の麓で、直木が特に好きな温泉だった。 その昭和6年には清水トンネルが開通し、越後がぐっと近くなった。 「雪国」を書く前私は水上(みなかみ)温泉へ幾度か原稿を書きに行つた。 水上の一つ手前の駅の上牧(かみもく)温泉にも行つた。(中略)水上か上牧にゐた時私は宿の人にすすめられて、 清水トンネルの向うの越後湯沢へ行つてみた。水上よりはよほど鄙(ひな)びてゐた。それからは湯沢へ多く行つた。 上越線で湯沢は越後の入口になつたが、清水トンネルの通る前は、三国越えはあつても、越後の奥とも言へたのである。 (「独影自命」6ノ2) 昭和9年6月初旬、康成は上牧温泉の大室旅館に滞在して原稿を書いていた。 6月8日附で群馬県利根郡桃野村(上越線上牧駅前)大室温泉旅館の康成から、東京下谷上野桜木町36の川端秀子に宛てた書簡が遺されている。 11日、12日には、同じく上牧駅前利根川向岸大室温泉旅館から秀子に手紙を出している。 11日の手紙には、「明日改造すめば、どこかへ遊びに行つて来る。ここは配達1回しかないので、まだ杉山の手紙を貰つただけ、さつぱり様子分らず閉口だ。/文学界はどうかしらん。」と書いてある。 原稿に追われつづけ、ここらで「どこかへ遊びに行つて」心身の回復をはかりたかったのだろう。また上牧の郵便事情の不便なことをも嘆いている。 12日のには、「新潮と文藝7月号送れ、/なぜ報告の手紙をよこさんのだ、馬鹿野郎、手がくさつたつて代筆されることも出来るだらう」と癇癪を起こしている。 改造の仕事で疲れ、気をまぎらす術なく、婆さんのやうな顔になつた。 これだつて、原稿受けとり、改造に渡し、間に合つたと、電報でもくれたら、どれだけ安心して、仕事疲れの翌日が眠れるかしれん、僅か30銭ですむぢやないか。 それくらゐの心は配れ。 と、八つ当たり気味の手紙である。疲れてもいたのだろう。
そのころは、車掌にチップを出して鉄道便の上野駅止めで原稿を送り、秀子に電報を打って上野駅で受け取らせ、出版社に直接持参させていたようだ。 http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/38bdc6f0c695da88fc77ee638f489cb0 愛のゆくえ 「雪国」その2 越後湯沢の初印象 6月14日附(づけ)で新潟県南魚沼(みなみうおぬま)郡越後湯沢高半(たかはん)旅館より上野桜木町36の秀子に宛てた書簡(15)は、冒頭に、越後湯沢の印象が書いてある。 文学界の原稿を出しかたがた、水上駅に来たついで、一休みに、清水トンネルを越え、越後湯沢に来た。戸数四百ばかりの村、湯の宿も13,4あり、水上のやうになにか肌あらいところなく、古びてゐてよい。この宿は部屋も40ある。 この旅館が越後湯沢随一の、主人が代々高橋半左衛門を名のる高(たか)半(はん)旅館である。 康成はこの宿が気に入ったのだろう、こののちずっと、この宿を定宿とすることになる。 ちなみに、康成に与えられた部屋は、清水トンネル開通のあと、新築された「長生閣」の二階「かすみの間」である。「雪国」作中では、「椿の間」として描かれる。 なお14日附の秀子宛て書簡15は長いもので、途中「13日 康成」と記したあとに、翌朝書き加えた文言がある。 つまり、康成が初めて湯沢に来たのは6月13日、翌14日に書簡を投函したことが明かとなる。 このことは、当時、中央公論の編集者であった藤田圭雄(たまを)宛ての書簡にも明記してある。煩雑になるが資料として貴重なので、引用しておこう。 第4次37巻本『川端康成全集』補巻2(新潮社、1984・5・20)の藤田宛て書簡1(昭和9年6月14日附 新潟県魚沼郡湯沢温泉高半旅館より東京麹町(こうじまち)丸の内ビルヂング中央公論編輯部宛て) 拝啓、 水上の1つ手前の駅の大室温泉に1週間ほど滞在の後、今日清水トンネルを越えて越後湯沢に参りました。古ぼけた村です。でもこの宿は客室が40ばかりもあります。(中略)21日頃までここに滞在いたします。(以下略) 14日 川端康成 藤田圭造(ママ)様(正しくは、藤田圭雄) この書簡の日付が14日となっているのは、到着の翌14日に大室温泉に荷物をとりに戻り、14日にあらためて高半旅館に腰を落ち着けたからであろう。すなわち、康成が初めて越後湯沢に来たのは、1934(昭和9)年6月13日、腰を落ち着けたのが翌14日と確定してよいだろう。
ちなみに、この点はつとに平山三男が「雪国」論(『川端康成 作家・作品シリーズ6』東京書籍、1979・4・日付記載なし)において指摘している。 この気晴らしの旅で、康成はひとりの女とゆくりなくもめぐり逢い、もう1度その女に逢いにゆくために、その年の12月初旬、今度は上野から汽車に乗って越後湯沢の駅に降りた。 やはり夫人宛て書簡によって、それが12月6日のことであるとわかる。 康成はこの宿に籠もって、『文藝春秋』と『改造』の新年号2つの原稿を書く予定であった。もっとも、このとき、何を書くか、内容は、まったく頭の中になかった。ただ、6月の旅でめぐり逢った女と再会すれば、何か書く材料ができるだろうという、ぼんやりした期待があるばかりだったろう。 「雪国」初出(はじめて雑誌に発表されたもの)
「雪国」が昭和9年末から書き始められ、いろいろな雑誌に分載されて、最初に創元社から昭和12)年6月12日に刊行され(旧版『雪国』)、それからさらに書きつがれて、戦後の1948(昭和23)年12月25日に、あらためて同じく創元社から刊行され、これが〈決定版『雪国』〉と呼ばれていることは、よく知られている。 その後、20年あまりたって、すこし手を加えられて、1971(昭和46)年8月15日、牧羊社から『定本雪国』が刊行された。 康成が、これを『定本』にすると宣言し、以降、新潮社の第3次全集、第4次全集も、また新潮文庫103版以降も、この牧羊社版を底本にしていることは、平山三男の指摘によって、よく知られているとおりである。 しかしやはり重要なのは、初出としてあちこちに分載された文章が、大幅に手を入れられて昭和12年の創元社版、あるいは昭和23年の決定版になった、その経過である。 そこに、『雪国』にこめた康成の渾身の努力が刻印されているからである。 さて、その最初の分載が「夕景色の鏡」と「白い朝の鏡」であることも、読者はよく御存知のことであろう。康成は、この2作のできた由来を、〈決定版『雪国』〉の「あとがき」で語っている。 「雪国」は昭和9年から12年までの4年間に書いた。(中略) はじめは「文藝春秋」昭和10年1月号に40枚ほどの短篇として書くつもり、その短篇1つでこの材料は片づくはずが、「文藝春秋」の締切に終わりまで書ききれなかつたために、同月号だが締切の数日おそい「改造」にその続きを書き継ぐことになり、この材料を扱う日数の加はるにつれて、余情が後日にのこり、初めのつもりとはちがつたものになつたのである。 このことばを裏づけるように、1934(昭和9)年12月7日附で上越線越後湯沢高半旅館より秀子に出した書簡には、 斎藤君(注、『文藝春秋』の記者)は9日中にくれといふ。やはり正月で校了が2日早い由、9日は日曜。9日の汽車で全部送れるといいが、10日にまたがるだらう。(中略) もつとも何枚かけるかまだ分らぬが。 しつかりした材料を持つて来ず、例によつて、夢のやうなつくりごとなるが厭(いや)である。 (補巻2の21) とあり、さらに10日の書簡には、次のような一節がある。
文藝春秋の小説は書き切れず尻切れとんぼ。 (10日夕方の)今から改造にかかる。 綱渡りのような、あやうい売文生活をつづけていたのである。もっとも、補巻に収められた書簡を見ると、このころの康成には『モダン日本』『婦人倶楽部』『若草』『行動』『中外新報』『中央公論』などから注文が殺到していて、それを1つ1つこなしてゆくのは、並大抵のことではなかっただろう。 ――このような状況で初出「夕景色の鏡」は書かれた。 よく知られているように、第1作「夕景色の鏡」の冒頭は、現在の「雪国」の有名な文章とは異なっていた。 濡れた髪を指でさはつた。――その触覚をなによりも覚えてゐる。その一つだけがなまなましく思ひ出されると、島村は女に告げたくて、汽車に乗つた旅であつた。 http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/1ff09e0b54d8d44a456a67455ef79ba6 愛のゆくえ 「雪国」その3
連載第一回「夕景色の鏡」の冒頭 濡れた髪を指でさはつた。――その触覚をなによりも覚えてゐる。その1つだけがなまなましく思ひ出されると、島村は女に告げたくて、汽車に乗つた旅であつた。 この部分は〈決定版『雪国』〉では完全に消滅しているが、視点人物島村を雪国に導くものが何であったかを明確に語っている。それは女――駒子の思い出であり、それも単なる情緒的なものではなく、指の触覚というきわめて官能的なものであった。 冒頭では、指の触れたのは単に「髪」となっているが、少しあとに駒子の心理の説明として「まだ16,7の頃に、自分がどんなにいい女であるかを、男から噛んでふくめるやうに教へられ、その時はそれを喜ぶどころか、恥ぢるばかりだと……」とあることからも、それが駒子の肉体的な魅力を暗示していることは明らかである。 もっと具体的にいうと、島村が左指で覚えていたのは、のちに出て来る表現ではあるが、駒子の「みうちのあついひとところ」の生ま生ましい触感だったのである。 島村は駒子、というより駒子の肉体に再会しようとして、雪国に向かう汽車に乗った。そしてその車中で葉子に出会うのである。 もう三時間も前、島村は退屈まぎれに、彼を女のところへ引き寄せてゆくやうな、左手の〈人指指〉をいろいろに動かして眺めてみたり、鼻につけて匂ひを嗅いでみたりしてゐたが、ふとその〈指〉で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片目から片頬がはつきり浮き出たのだつた。 (初出では、〈 〉の中は伏せ字になっている。) この車窓の鏡に浮かび出た女が葉子であり、島村はやがて窓外の夕景色と二重写しになった葉子の顔の非現実な美しさに胸がふるえるのであるが、ここに短篇「夕景色の鏡」の意図はあらわになる。 すなわち、前の旅でなじんだ女との再会を胸に描いて官能の思い出の世界にただよっていた島村が、眼前に現出した「この世ならぬ象徴の世界」の美に陶然となるのである。〈官能的な世界〉と〈象徴的な美の世界〉が、ここでは鮮やかに対比されている。 康成の「はじめは……40枚の短篇として書くつもり」が、この対比を描くことであったことは、明かである。 はたして、『改造』新年号に発表されたのは、「白い朝の鏡」であった。「夕景色の鏡」と対比する意図はよく現れている。 ところがこの「白い朝の鏡」のなかに、その題名に相応する内容は登場してこないのである。 それが発表されるのは、それから10ヶ月もたった『日本評論』11月号に「物語」と題して発表された作品の末尾においてである。 第三回「徒労」 つづけて『日本評論』の12月号に「徒労」が発表されているのは、翌年の1935(昭和10)年の秋、蛾が卵を産みつける時期に10ヶ月ぶりに湯沢をおとずれた康成の身に、駒子のモデルとなる女性との再会があって、「余情」が深まるような出来事が生じたためであろう。 実際、作品の中で女が「駒子」と名づけられて登場するのは「徒労」からで、それまでは、単に「女」と呼ばれているに過ぎないのである。 1、2回の短篇で終わるはずだった素材が内容の濃いものとなり、続編を書き継ぐ意志の生じたことが、そのような変化をもたらしたといってもいいだろう。 これを裏づけるように、ずっとのちの1959年(昭和34年)になって、康成は「『雪国』の旅」と題するエッセイを発表していて、その中に、1935(昭和10)年秋の日記を公開している。 1935年(昭和10年)秋とは、「雪国」作中では、島村が3度めに湯沢をおとずれて、長い逗留をすることになっている。しかし現実の康成はこの昭和10年の秋、この湯沢で「物語」「徒労」を書いたのである。 そのときに、駒子のモデルとの濃い接触のあったことが、この日記に記されている。きわだったところだけを写す。なお、( )の中の説明は、康成が付したものである。 昭和10年9月30日 「少女倶楽部」、書き終る。1時55分の汽車で湯沢に行く。駒。(註、駒子が宿へ来たことである。)
10月1日 午前より宿の子供を部屋に呼ぶ。(註、「雪国」に書いてある。)3時過ぎ帰る。(註、駒子が。) 10月2日 朝、7時ごろに起される。(註、駒子が来て。)夜、駅まで行く、宴会の後で。 10月4日 西川博士よりレントゲン写真の結果の手紙。夜中11時に。(註、駒子が来る。) 10月5日 「讀賣(読売)」の原稿終り。10時より。(註、駒子が来る。) 十月十一日 「日本評論」のための「物語」(註、「雪国」の一部)、18枚で打切り、その原稿を送る。 このように、ほとんど毎日、駒子が時ならぬ時刻にやって来ている。そしてこれらの素材を康成は「雪国」作中に書きこんでいる。そういう、ただならぬ状況のなかで、「物語」は短いながら完成し、これを康成は『日本評論』に送っているのである。
「夕景色の鏡」
では、「雪国」最初の2つの短篇のなかでは、何が語られたのであろうか。 まず「夕景色の鏡」から見てゆくことにしよう。 「夕景色の鏡」では、冒頭の2行で、先ほど紹介したように、島村のこの旅が、その触感だけがなまなましく思い出されると女に告げたくて汽車に乗った旅であったことが書かれる。 ついで、 「あんた笑つてるわね。私を笑つてるわね。」 「笑つてやしない。」 「心の底で笑つてるでせう。今笑はなくつても、後できつと笑ふわ。」 と、最後までは拒み通せなかつたことを、その時女は枕を顔に抱きつけて泣いたのだつたけれども、彼はやはり水商売の女だつたと笑つて忘れるどころか、それがあつたために反つて、いつも女をまざまざと思ひ浮かべたくなるのだつた。 と、回想の核心部分が書かれる。それから、現在の「雪国」冒頭の原型にあたる1行が登場する。 国境のトンネルを抜けると窓の外の夜の底が白くなつた。信号所に汽車が止つた。 ちなみに、現行の「雪国」冒頭は、以下のようになっている。 国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。夜の底が白くなつた。信号所に汽車が止まつた。
そこから一転して現在の車中の光景となり、向こう側の座席から娘が立ってきて、島村の前のガラス窓を落して、身を乗り出し、駅長を呼ぶのである。 駅長の応える言葉で、この娘の名が葉子であることは、すぐ読者に伝えられる。 そのやうな、やがて雪に埋れる鉄道信号所に、葉子といふ娘の弟がこの冬から勤めてゐるのだと分ると、島村は一層彼女に物語めいた興味を増した。 こうして、娘が病人連れで、甲斐々々しく世話をしていること、もう3時間も前、窓ガラスに葉子が映って驚いたこと、それ以来彼がずっと鏡の中の彼女を注視していて、娘の顔に野山の火が重なったとき、胸がふるえたこと……と、この作品の頂点が記されるのである。 さうしてともし火は彼女の顔のなかを流れて通るのだつた。しかし彼女の顔を光り輝かせるやうなことはなかつた。冷く遠い光であつた。小さい瞬きのまはりをぽうつと明るくしながら、つまり娘の眼と火とが重つた瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮ぶ、妖しく美しい夜光虫であつた。 半時間後、葉子達も島村と同じ駅に下りたので、彼はまたなにが起るかと自分にかかわりがあるかのようにやうにあわてたりするが、宿屋の客引きの番頭と出会って、「お師匠さんとこの娘はまだいるかい」と尋ねる。 http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/9987e54b50d12c1dce54bc68a1d42abc 愛のゆくえ 「雪国」その4 再会 前に泊まった温泉宿に落ちついた島村は、内湯に行く。そして長い古びた廊下を部屋へ戻ってゆくとき、女と再会するのである。 その長いはづれの帳場の曲り角に、裾を黒光りの板の上へ冷え冷えと拡げて、女が立つて待つてゐた。 と(ママ)うとう芸者に出たのであらうかと、その裾を見てはつとしたけれども、こちらへ歩いて来るでもない、體のどこかを崩して迎へるしなを作るでもない、その立ち姿から、彼は遠目にも真面目なものを受け取つて、急いで来たが、女の傍(かたわら)に立つても黙つてゐた。(中略) 手紙も出さず、会ひにも来ず、踊の型の本など送るといふ約束も果さず、女からすれば笑つて忘れられたとしか思へないだらうから、先づ島村の方から詫びかいひわけを云はなければならない順序だつたが、顔を見ないで歩いてゐるうちにも、女は彼を責めるどころか、體いつぱいになつかしさを感じてゐることが知れるので、彼は尚更、どんなことを云つたにしても、その言葉は自分の方が不真面目だといふ響きしか持たぬだらうと思つて、なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれてゐたが、階段の下まで来ると、 「こいつが一番よく君を覚えてゐたよ。」と、人差指だけ伸した左手の握拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。 女との再会は、このように印象的にはたされる。 しかし同時に、男の不誠実もまた、しっかり刻印される。 その不誠実を徹底するように、男は「こいつが一番よく君を覚えてゐたよ」と人差指を女の面前に突きだすのである。 だが女は怒らない。 「さう?」と、女は彼の指を握ると、そのまま手を離さないで手をひくやうに階段を上つて行つた。 そうして彼の部屋に来ると、女はさっと首まで赤くなって、それを誤魔化すためにあわてて彼の手を拾いながら、「これが覚えてゐてくれたの?」「右ぢやない、こつちだよ」と、女の掌の間から右手を抜いて、炬燵に入れると、改めて左の握拳を出した。彼女はすました顔で「ええ、分かつてるわ」と、ふふと含み笑いしながら、島村の掌を拡げて、その上に顔を押しあてるのである。 「ほう冷い。こんな冷い髪の毛初めてだ。」 「東京はまだ雪が降らないの?」 「君はあの時、ああ云つてたけれども、あれはやつぱり嘘だよ。さうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来るものか。」 ここで文章は冒頭につながり、また、最初の出会いへと回想に移るきっかけとなるのだが、じつは、この前に、重要な記述が20行ばかり、初出にはあった。 女の體(からだ)の秘密
それは、たった1度の出会いで、女がどうしてこの男を忘れられないようになったか、という女の微妙な心理の説明である。 この心理の説明が消去されてしまった現在の「雪国」では、読者は、どうしてああも簡単に女が島村に恋心を抱いてしまったのか、理解できないのである。 初出で康成は、女の心の秘密を、こんなに克明に説明していた。 それではこの男も、私をほんたうに知つてくれたのだつたか、それにひかれて遙々来たのだつたか、どこを捜しても私のやうな女はさうゐないので忘れなかつたのかと、彼女はなんだか底寂しい喜びに誘ひこまれた。ほつと安心したやうな親しさで、心が男に寄り添つて行つた。許されたやうな思ひだつた。かういふ男は彼女にとつて逆らひ難い誘惑だつた。 と云つたところで、彼女はまだ水商売が身にしみてゐるわけでなし、多くの男を知つてゐるわけでもないが、まだ16、7の頃に、自分がどんなにいい女であるかを、男から噛んでふくめるやうに教へられ、その時はそれを喜ぶどころか、恥ぢるばかりだと、男はいよいよむきになつて褒めちぎつたので、やがて男の云ふことが彼女の頭の底に宿命のやうに沈みついてしまつたのだつた。 けれども、それが彼女自身ではつきりと分るやうになつた後まで、天刑をあばかれたやうな初めの悲しみは消え残つてゐるのだつた。余りに早く愛なくして知つたためであったらう。 島村といふ男は1週間も山登りをして来たほどで、よく整つた體はさう弱さうに見えなかつたけれど、肉附の色白い円みがいくらか女じみてゐるし、まして道楽した風はなく、女のあつかひが淡白なところから考へても、あの時彼女のほんたうが分つてくれたとは、たうてい思へなくて、それが後々まで未練のもとのやうでもあり、また反つてそのきれいさが愛着の種ともなつてゐるのだつた。彼女の幾人かの男のうちで、彼だけはそれを知らない。 けれども、あの時自分は酔つてゐたから、男を見抜くことが出来なかつたのだらうか。さうではない、気は確かだつた。そんなら、この人を初めてほんたうに愛したゆゑの迂闊だつたのだらうかといふ結論に辿りついて、女はふふと含み笑ひしながら、島村の掌を拡げて、その上に顔を押しあてた。 この長い引用は、駒子の心理を知るには欠かせない部分なのだが、現在の「雪国」では、削除されてしまった。 女は16、7のころ、男に教えられて、自分が女として類稀(たぐい、まれ)な肉体を持っていることを知ってしまった。 だから最初に思ったことは、島村が自分のほんとうの肉体の秘密を知って、それにひかれて遙々(はるばる)来たのだったか、ということだった。底寂しい喜びに誘われ、ほっと安心したような親しさを感じた。 しかし次に考えたことは、島村は女のあつかいも淡白であったから、彼女のほんとうの秘密を知ったとは到底思えず、それが後々までの未練のもとであり、またそのきれいさが愛着の種ともなっている、ということだった。「彼女の幾人かの男のうちで、彼だけはそれを知らない。」 彼に肉体の秘密を悟らせないままに終わったのは、「この人を初めてほんたうに愛したゆゑの迂闊だつたのだらうか」、最後に女はそう考えて、ふふと含み笑いするのである。 さて、男は掌に顔を押しあてられて、女の髪の冷たさに驚く。 「ほう冷い。こんな冷い髪の毛初めてだ。」そう言って、女に「東京はまだ雪が降らないの?」と訊かれても、それには応えず、言おうと思っていた言葉を口にするのである。 「君はあの時、ああ云つてたけれども、あれはやつぱり嘘だよ。さうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来るものか。」 この言葉をきっかけに、「あの時は――雪崩の危険期が過ぎて、新緑の登山季節に入つた頃だつた。」と、最初の邂逅を振り返る回想場面――第1の旅へと、叙述は戻るのである。 無為徒食(むいとしょく)の島村 「無為徒食の島村は」と、その冒頭で島村の人物像が提示される。 無為徒食とは、定まった職業も持たず、親から遺された財産でもあって、それをいたずらに喰いつぶしている、生活に責任を持たぬ男、というほどの意味であろう。 少し後に、「白い朝の鏡」のところで、島村が西洋舞踊を趣味にしていて、時々西洋舞踊の研究や紹介を書くので、文筆業者の片端に数えられているが、島村みずから、それを「机上の空論」と冷笑し、そこに虚無の匂いを嗅いでいる、との説明がある。 このほか、東京に妻子があることがのちに説明されるが、「雪国」の中で島村について読者が具体的に与えられる知識はこれだけである。 そんな島村はしぜんと自分に対する真面目さも失いがちになるので、それを呼び戻すために、よく一人で山歩きをするが、その夜も、国境の山々から7日ぶりで温泉場へ下りて来ると、芸者を呼んでくれと云った。 ところがその日は道路普請の落成祝いで、12、3人の芸者は手が足りなくて、とうてい貰えないだろうが、三味線と踊りの師匠のところにいる娘なら、来てくれるかも知れぬ、ということだった。 その娘は、芸者ではないが、まったくの素人ともいえない、という女中の説明だった。 怪しい話だとたかをくくつてゐたが、1時間ほどして女が女中に連れられて来ると、島村ははつと唇を結んだ。(中略) 女の印象は不思議なくらゐ清潔であつた。足指の裏の窪みまでぬかりなくきれいであらうと思はれた。山々の初夏の風景を見て来た自分の眼のせゐであらうかと、島村は疑つたほどだつた。 女はこの村から眺められる山々の名もろくろく知らなかったけれど、自分の身の上話は案外率直に話した。19であるともいった。また歌舞伎の話をしかけると、女は彼よりも俳優の芸風や消息に精通していた。そういう話相手に飢えていたのか、夢中でしゃべった。 その夜は何事もなく過ぎ、女は帰っていった。 そして翌日の午後、宿へお湯をもらいに来るついでに彼の部屋に遊びに寄った。 ところが女に、島村はいきなり、芸者を世話してくれ、と云った。女が怒ると、 「友だちだと思つてるんだ。友だちにしときたいから、君は口説かないんだよ。」 「夕景色の鏡」は、ここで突如、終わる。康成が妻への手紙に、 「文藝春秋の小説は書き切れず尻切れとんぼ。」と書いたとおりである。 http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/4510ff64754c3b064cd14671dbf6ceaf 愛のゆくえ 「雪国」その5 「白い朝の鏡」 つづけて『改造』に書かれた続編では、はじめに、読者を面食らわせないないためだろうか、芸者代わりに呼んだ女とのいきさつが少し書いてある。 それから、つづきがあって、間もなく来た芸者を一目見ると、「島村の山から里へ出た時の女ほしさは、味気なく消えてしまった」ので、郵便局の時間がなくなるという口実をもうけて芸者を返す。そして、若葉の匂いの強い裏山へ登ってゆく。ほどよく疲れて、駈け下りてくると、 「どうなすつたの?」と、女が杉林の陰に立つてゐた。 「うれしさうに笑つてらつしやるわよ。」 「止めたよ。」と、彼はまたわけのない笑ひがこみ上げて来て、 「もう止めだ。」 「さう?」と、女は表情のなくなつた顔であちらを向くと、杉 林のなかへゆつくり入つた。彼は黙つてついて行つた。 神社であつた。苔のついた駒(ママ)犬の傍の平な岩に、女は腰を下 して、 「ここが一等涼しいの。真夏でも冷い風がありますわ。」 ここでふたりは会話をかわしながら、夕暮れまでの時間を過ごす。島村のとらえた女の特徴も書きこまれている。 「少し中高の円顔は平凡な輪郭ながら、白陶器に薄紅を刷いたやうな皮膚で、首のつけ根も肉づいてゐないから、美人といふよりもなによりも、清潔だつた。」 自分の男を呼ぶ声
それから問題の場面が登場する。 その夜の10時ごろ、女が廊下から島村の名を大声で呼んで、ばたりと倒れるように彼の部屋へ入ってくる。宴会の途中だった。 「悪いから行つて来るわね。後でまた来るわね」と、よろけながら出て行く。 一時間ほどしてまた廊下にみだれた足音で、 「島村さあん、島村さあん。」と、助けを求めるやうに叫んだ。それはもうまぎれもなく、酔つたあげくの本心で、女が自分の男を呼ぶ声であった。それは島村の胸のなかへ飛びこんで、むしろ思ひがけないほどだつたが、宿屋中に聞えてゐるにちがひなかつたから、当惑して立ち上がると、女は障子紙に指をつつこんで桟(さん)をつかみ、そのまま……〈伏せ字8字〉倒れかかつた。 「女が自分の男を呼ぶ声」とは、女が自分の好きな男を呼ぶ声、の意味だろう。 ちなみに、現行の定本では、この箇所はみごとに彫琢されて、こんなに簡潔な文章に変わっている。 一時間ほどすると、また長い廊下にみだれた足音で、あちこちに突きあたつたり倒れたりして来るらしく、 「島村さあん、島村さあん。」と、甲高く叫んだ。 「ああ、見えない。島村さあん。」 それはもうまぎれもなく女の裸の心が自分の男を呼ぶ声であつた。島村は思ひがけなかつた。 女は酔って、本心から、「自分の男」を呼んだのである。 だが、女はいつのまに、島村を「自分の男」と思うようになったのか。 さきほどの夕暮れの杉林の中での会話からだろうか。前夜、芸者の代わりに呼ばれて、島村と話が合ったからであろうか。それとも、今日の午後、芸者を呼んでくれと、失礼なことを云われたことが、かえって女の心を刺激したのか。 いずれにしても、前夜、ふたりの話の合ったことが基本であろう。だからこそ好意を抱いて、女は翌日の午後、島村の部屋を遊びに訪れたのである。それなのに芸者を世話してくれといわれて、女の心は傷ついた。しかしこの危機は、女の素直な心によって回避された。 しかし、それでもなお、女がここまで深く島村を思ってしまった心の因はわからない。 女の心はわからないままに、物語は進行する。 島村の部屋で、女は酔ったままにさまざまな姿をみせるが、結局、島村に抱かれることになる。しかしその時になっても、「お友達でゐようつて、あなたがおつしやつたぢやないの」と、幾度繰り返したかしれなかった。 島村はその言葉の真剣な響きに打たれ、また、固く渋面をつくつて自分を抑へてゐる意志の強さには味気なくなるほどで、女との約束を守ろうかとさえ思うのである。 この場面の初出は伏せ字だらけで、意味が通らないので、定本によって補正すると、 「私はなんにも惜しいものはないのよ、決して惜しいんぢやないのよ。だけど、さういふ女ぢやない。私はさういふ女ぢやないの。きつと長続きしないつて、あんた自分で言つたぢやないの。」(中略) などと口走りながら、よろこびにさからふために袖をかんでゐた。 女はこんなに簡単に男に身を任せることで、男が誤解することを恐れているのだ。好きな男にあげる。だから惜しいんじゃない。だけど、あなたは誤解する。あたしが、こんなふうに誰にだって簡単に身を任せてしまう女だと誤解する。それは違う!
女は、よろこびがこみ上げてくるなかで、それに逆らいながら、必死で言いつのっているのだ。 ……しばらく気が抜けたみたいに静かだったが、女はふと突き刺すように、 「あなた笑つてるわね。私を笑つてるわね。」と言って、泣くのである。旅の男に簡単に身を任せた、男からすれば、据え膳喰わぬは……と、そんな女を安っぽい、尻の軽い女として馬鹿にするだろう。女は、そう思われることを避けようと、必死で男を刺すのである。 この場面は、女が行きずりの島村に本気で惚れて身を任せ、その自分の気持ちを軽いものと誤解されることを恐れていると、読者に繰り返し訴える。女の真剣な好意がつよく印象づけられるシーンである。 それとともに、そのように言わねばならぬほど、男に容易に身を任せてしまった女の哀れが読者に迫ってくる。 「白い朝の鏡」は、それから女が夜が明けるのを恐れて、宿の人が起きる前に帰ってゆくところで閉じられる。 「夕景色の鏡」との対照は、この作品では書かれずじまいだったのである。 「物語」
「夕景色の鏡」「白い朝の鏡」と1935年(昭和10年)の新年号に発表されたまま、作品は1年ちかく放置される。 次に第3作「物語」、第4作「徒労」が発表されるのは、同年11月号、12月号のことである。 先にも指摘したように、その秋の康成の3度目の越後湯沢への旅が、「余情」を後に残す契機となったのである。 「物語」も、読者にこれまでの経緯を説明するところから始まっている。女が夜明けに宿を抜け出して帰っていったあと、「その日島村は東京へ帰つてしまつた。女の名も聞き忘れたほどの別れやうであつた。」 それから、新しい「物語」が始まる。 女はしきりに指を折って勘定している。島村が問うと、「5月の23日ね」といい、今夜がちょうど「199日目だわ」と応えるのである。 ここは、これまでいくつもの論考で指摘されてきたように、平安の昔に、深草(ふかくさ)の少将が小野小町を99夜たずねた、その故事「深草少将の百夜(ももよ)通い」に関連づけているのであろう。女は、自分たちの関係に何か意味を見出そうとしているのである。 それから、この「物語」の中心となる、女の生きる姿が示される 「だけど、五月の二十三日つて、よく覚えてるね。」 「日記を見れば、直ぐ分るわ。」 「日記、日記をつけるのか。」 「ええ、古い日記を見るのは楽しみですわ。なんでも隠さずその通りに書いてあるから、ひとりで読んでゐても恥しいわ。」 「いつから?」 「東京でお酌に出る少し前から。(以下略)」 これだけでも島村を驚かすには十分だったが、島村をもっと驚かせたのは、女が、読んだ小説を1つ1つ雑記帳に書きつけている、ということだった。 日記の話よりも、尚島村が意外の感に打たれたのは、彼女は十六の頃から、読んだ小説を一一書き留めておき、そのための雑記帳がもう十冊にもなつたといふことであつた。 「感想を書いとくんだね?」 「感想なんか書けませんわ。題と作者と、それから出て来る人物の名前と、その人達の関係と、それくらゐのものですわ。」 「そんなものを書き止めといたつて、しやうがないぢやないか。」 「しやうがありませんわ。」 「徒労だね。」 「さうですわ。」と、女はこともなげに明るく答へて、しかしぢつと島村を見つめてゐた。 全くの徒労であると、島村はなぜかもう一度声を強めようとした途端に、しいんと雪の鳴るやうな静けさが身にしみて/それは女に惹きつけられたのであつた。 島村は、女の意外な一面を知って驚く。山深い田舎のひとりの無名の女が、読んだ小説の題名をノートにつけたとて、いったいそれが何の役にたつというのだろう。 彼女にとつては、それが徒労であらうはずがないとは彼も知 りながら、頭から徒労だと叩きつけると、なにか反つて彼女の 存在が純粋に感じられるのであつた。 このとき初めて、島村は女に惚れたのである。あるいは、女の一生懸命に生きている姿を知って、そこにひとりの女の生きる息づかいを感じて、女に対する心からの愛情が湧いてきたのである。 ……その夜、つまり再会の最初の夜も、女は島村の部屋に泊まって朝を迎える。 部屋が明るんでくると、女の赤い頬があざやかに見えてくる。寒いせいだろうと島村が訊くと、白粉(おしろい)を落としたからだ、と女は答える。 「寒いんぢやないわ。白粉を落したからよ。私は寝床へ入ると直ぐ、足の先までぽつほ(ママ)して来るの。」と、島村の枕もとの鏡台に向つて、 「たうとう明るくなつてしまつたわ。帰りますわ。」 島村はその方を見て、ひよつと首を縮めた。鏡の奥が真白に光つてゐるのは雪である。その雪のなかに、女の真赤な頬が浮んでゐる。なんともいへぬ清潔な美しさであつた。 この場面でようやく、康成の初めの構想――「夕景色の鏡」と、人差指が覚えていた女の「白い朝の鏡」との照応が完成するのである。 1つの短篇で終わるはずだった作品が、3作めの「物語」の最後になって、やっと当初の目的を完成したのである。康成は、ここでこの連作を終わってもよかった。 それがさらに次の「徒労」へとつづいてゆくのは、この「物語」の中で、日記をつけているばかりか、読んだ小説を雑記帳に書きとめているという、ひとりの女の、徒労の生を懸命に生きている姿を知って、男の内部に、遊びごとではない、女への真剣な思いが芽生えたからである。 これが「余情が後に残って」の意味であろう。ここから、作品は真剣な愛を抱いた男と女の物語へと変貌してゆくのである。 http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/2e44c3f542df85f121f5b87a87d3c7f3 愛のゆくえ「雪国」 その6
「徒労」 「雪国」のプレオリジナル(初出)第4作目にあたる「徒労」は、かなり長い。作者の興がのっているからだろう。 ここでも、作品をたどりながら、ふたりの移りゆきを、細かく見ていこう。 ……昼すぎ、島村が温泉宿からの坂道を歩いてゆくと、軒かげに芸者が5、6人、立ち話をしている。そのなかに駒子もいた。 島村が通りすぎると、駒子が追ってくる。「うちへ寄つていただかうと思つて」という。その家は、前日、汽車で乗り合わせた病人のいる家だった。駒子の師匠の家である。 その2階、というよりも屋根裏部屋に、駒子は住んでいた。もとはお蚕(かいこ)さまの部屋だったという。 その古びた部屋の、障子は貼り替えられ、壁にも丹念に半紙が貼られて、古い紙箱に入ったようだった。壁や畳は古びているものの、いかにも清潔であった。蚕(かいこ)のように、駒子も透明な體で、ここに住んでいるかと思われた。 駒子は、階下の病人を、腸結核で、もう故郷に死にに帰って来たのだと話した。三味線と踊りの師匠であるひとの、ひとり息子であると、これまでのいきさつも話した。けれども、この息子――行男を連れて帰った娘がなにものであるか、どうして駒子がこの家にいるのかということは、一言も話さなかった。 やがて、澄み上がった、悲しいほど美しい声が聞こえる。葉子である。だが葉子は島村をちらっと刺すように一目見ただけで、ものも言わずに通り過ぎた。 島村は表に出てからも、彼女の眼つきが彼の額の前に燃えてゐさうでならなかつた。 島村が、駒子とこういう仲になりながらも、頭の片隅で、この葉子を意識していることが、ここで期せずして語られている。 島村は、通りかかった按摩(あんま)を宿の部屋に呼んで、その按摩の口から、師匠の息子である行男と駒子がいいなづけであり、行男の療養費をかせぐために駒子が芸者に出たのだ、という消息を聞く。 その夜、宿の宴会が果てて島村の部屋に来た駒子は、島村の来なかった八月いっぱい、神経衰弱でぶらぶらしていたと話す。また浜松の男に言い寄られたことも告白する。 そして「私妊娠してゐると思つてたのよ。ふふ、今考へるとをかしくつて、ふふふ」と含み笑いする。 もちろん、島村の子を宿したと思ったのである。 それから島村の追求に答えて、行男とのいきさつを語る。 「はつきり云ひますわ。お師匠さんがね、息子さんと私といつしよになればいいと、思つた時があつたかもしれないの。心のなかだけのことで、口には一度も出しやしませんけれどね。さういふお師匠さんの心のうちは、息子さんも私も薄々知つてたの。だけど、二人は別になんでもなかつた。ただそれだけ。」 けれどもまた、「東京へ売られて行く時、あの人がたつた一人見送つてくれた。一番古い日記の一番初めに、そのことが書いてあるわ」ともいう。 駒子の三味線
宿へ葉子に持たせてきた三味線を、駒子が弾き、唄う。 忽ち島村は頬から鳥肌立ちさうに涼しくなつて、それが腹まで澄み通つて来た。たわいなく空にされた頭のなかいつぱいに、三味線の音が鳴り渡つた。全く彼は驚いてしまつたと云ふよりも、叩きのめされてしまつたのである。敬虔の念に打たれた。悔恨の思ひに洗はれた。自分はただもう無力であつて、駒子の力に思ひのまま押し流されるのを、快いと身を捨てて浮ぶよりしかたがなかつた。(中略) 勧進帳が終ると、島村はほつとして、ああ、この女はおれに惚れてゐるのだと思つたが、それがまた情なかつた。 「こんな日が音がちがふ」と、雪の晴天を見上げて、駒子が云つただけのことはあつた。 それからは、泊ることがあっても、駒子はもう強いて夜明け前に帰ろうとはしなくなった。 2、3日後、月の冴えた夜、空気がきびしく冷えてから、午後11時近くだのに、駒子は散歩をしようといってきかなかった。 駅へ行く、という。 「あんたもう東京へ帰るんでしょう。駅を見にゆくの」という。 駅から帰ると急にしょんぼりして、島村の要求に、「ううん、難儀なの」という。月経中という意味である。「なあんだ、そんなこと。ちっともかまやしない」と島村は笑って、「どうもしやしないよ」という。 「つらいわ。ねえ、あんたもう東京へ帰んなさい。つらいわ」といって炬燵(こたつ)の上に顔を伏せる。 「もう帰んなさい。」 「実は明日帰らうかと思つてゐる」 「あら、どうして帰るの?」と、駒子は目が覚めたやうに顔を起した。 「いつまでゐたつて、君をどうしてあげることも、僕には出来ないんぢやないか。」 ぽうつと島村を見つめてゐたかと思ふと、突然激しい口調で、 「それがいけないのよ。あんた、それがいけないのよ。」と、じれつたさうに立ち上つて来て、いきなり島村の首に縋りついて取り乱しながら、 「あんな、そんなこと云ふのがいけないのよ。起きなさい。起きなさいつて云へば。」と口走りつつ自分が倒れて、物狂はしさに體(からだ)のことも忘れてしまつた。 月経中であることも忘れてしまった、というのである。駒子の方から身を投げだしたのだ。 それから、温かく潤んだ眼を開くと、 「ほんたうに明日帰りなさいね。」と、静かに云つて、髪の毛を拾つた。 見過ごすことのできぬ言葉があった。それは島村の、「いつまでゐたつて、君をどうしてあげることも、僕には出来ないんぢやないか」という言葉である。 島村は東京の人であり、東京には妻子がある。それを捨ててまで駒子との愛をつらぬこうとは、初めから考えていない。 では、駒子との愛は、どうなるのか。 島村は、駒子を愛しても、それ以上、どうしてやることもできないのである。この点に、駒子の哀切さが浮かび上がる。どんなに島村を愛しても、島村はその時点では愛し返してくれても、それだけである。つまり、ふたりの愛の行く末はない。 ――島村は次の日の午後三時の汽車で立つことになる。 駅の前で
その日、ふたりが駅まで来たところへ、あわただしく葉子が駈けてきて、「ああっ、駒ちゃん、行男さんが、駒ちゃん。」と駒子の肩をつかんで、「早く帰って、様子が変よ、早く」とすがる。 駒子は肩の痛さをこらへるかのやうに、目をつぶると、さつと顔色がなくなつたが、思ひがけなく、はつきりかぶりを振つた。 「お客さまを送つてるんだから、私帰れないわ。」 島村は驚いて、 「見送りなんて、そんなものいいから。」 「よくないわ。あんたもう二度と来るか来ないか、私には分りやしない。」 駒子は極度の葛藤(かっとう)のため、げえっと吐き気を催すが、口からはなにも出ず、目の縁(ふち)が湿って、頬が鳥肌立つ。 葉子が島村にも必死で頼んで後向いて走り出したのを見送った島村は、「なぜまたあの娘はいつもああ真剣な様子なのだらうと、この場にあるまじき不審」が心を掠めて、「遠ざかる後姿は尚更寂しいものに見えた。」 さらに、 「葉子の悲しいほど美しい声は、どこか雪の山から今にも木魂(こだま)して来さうに、島村の耳に残つてゐた。」とある。 こんな場合なのに、島村の頭には、葉子にたいする関心がつよく尾を曳いているのである。 それに対して、駒子は島村のために、他のすべてを捨てる。 島村は駒子に、帰ってやるように説得するが、駒子は聞き入れない。 いや、人の死ぬの、見るなんか。 ここは、どう解釈すればいいのだろう。 駒子の決断
駒子にとって、島村は、今度汽車に乗ったら、いつまた来てくれるかわからない男である。だからここで見送っておかないと、一生後悔する。 これに対して、行男は過去のひとである。今の駒子にとっては、もう一度逢えるかどうかわからぬ島村を見送る方が大切なのである。駒子は決然と、島村を選んだ。 島村は、それを受け入れるしかない。 ……やがて改札が始まる。駒子は、フォームには入らないといって、待合室で島村を見送る。汽車が走り出すと、駒子の姿はたちまち見えなくなってしまう。待合室のガラスが光って、駒子の顔はその光のなかにぽっと浮ぶかと見る間に消えてしまう。それはあの雪の朝、雪の鏡の時と同じに真赤な頬であった。 またしても島村にとつては、現実といふものとの別れ際の色であつた。 汽車に乗って東京に帰ってゆく島村には、夕闇に浮かんだ葉子の目も、駒子の赤い頬の色も、現実との別れの色だった、と康成は書いているのだ。つまり、雪国の現実と別れて、彼はふたたびトンネルの向こうの世界へと帰ってゆくのである。 http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/f0071e44892b2506824a7246bc34d0df 愛のゆくえ「雪国」 その7 川端書簡 ――ところで、「徒労」をめぐって、川端康成書簡に、面白いものがあった。封筒が欠けていて、1935(昭和10)年10月末と推定されるものだが、越後湯沢から、妻・秀子に宛てたものと思われる。 それは、そのころ『日本評論』社とは、原稿と引き替えに必ず稿料を渡すという約束があったのに、秀子夫人が持参しても、どうしても金を渡さなかったのである。それで、原稿を渡さず、持ち帰った秀子から、康成に、どうしたらよいかと指示を乞うたらしい。 康成は、次のように書いている。 日本評論デクレヌノカ。 日本評論デクレヌノナラ、原稿取リ戻シ、火急他ヘ売ツテ貰フヨリ仕方ナイト思フガ。 コノ手紙ツクノハモウ三日ダカラ、評論社ノ方ハドウカトキメテ貰(もら)ツテ下サイ。 他ヘ売ルナラ中央公論デモ改造デモヨイガ、中央公論ノ方ヨカロウ。他ヘ売ル時ハ、題ハ「徒労」、続キナレド、独立シテ少シモ差支(さしつかえ)ナク、チヤントマトマリ、相当面白イモノダト云ツテ下サイ。枚数は七八十枚。後直グ届ケルト。 「徒労」について、「続キナレド、独立シテ少シモ差支ナク、チヤントマトマリ、相当面白イモノダ」と康成が珍しく自信を持って語っているところに注目したいのだ。この挿話は、秀子夫人の『川端康成とともに』にも書かれている。秀子も「自分の作品についてこうはっきりと言うことは滅多にないことですから、この作品にはよほど自信があったのだと思います」と書いている.。 同時代評
結局、「徒労」は、「物語」に引きつづいて日本評論社が引き取ったが、同時代評は、この作に高い評価を与えた。 林武志『川端康成作品研究史』(教育出版センター、1984・10・10)の「雪国」評価を見ると、作品が、あとになるほど評価がますます高くなり、「徒労」「火の枕」などは、ほぼ絶讃されていることが印象深いのである。 ここで少し前戻りするが、「夕景色の鏡」「白い朝の鏡」から、同時代評を、前引の『川端康成作品研究史』から引用させていただこう。いずれも、抄出である。 ☆深田久弥「〈新年雑誌文芸時評(3)受難期の一群―川端氏の作品を推す」(『読売新聞』、1934・12・27) 川端氏の「白い朝の鏡」及びその続編「夕景色の鏡」は傑作である。小説の理屈はともかく、お終ひになるのを惜しみながらたのしみ読めたのは、新年号幾十の小説のうちこれだけであつた。 ☆正宗白鳥「〈新年号の創作評(終)稚気と匠気―川端氏の短篇二つ」(『東京朝日新聞』1935・1・6)
川端康成氏の「夕景色の鏡」は、何の事やら腑(ふ)に落ちなかつたが、「改造」所載の「白い朝の鏡」を読んで、やうやく得心が行つた。この二篇は必ず併(あわ)せ読まなければならぬのである。(中略)二つの小篇に含まれてゐる事実をそのまゝに見ないで、鏡に映して見たところに、芸術としての異つた色彩が豊かに現れてゐる。 ☆上林暁(かんばやし・あかつき)「〈文芸時評〉『文藝春秋』―旅情について」(『作品』1935・2・1) 東京は遠い、と田舎に居てこの頃思ひつづけてゐる僕は、「比叡」(横光利一)、「夕景色の鏡」(川端康成)の二作を読んで、焼きつくやうな旅情を感じた。(中略)ただ作者横光氏は、旅の風光の中にあつて、風光を睥睨(へいげい)(へいげい)し、考察し、時に子供のやうに風光の中に身を構へてゐるに反し、作者川端氏は、旅から湧く感情に身も心も焦がしてゐる相違が感じられた。(中略) 「夕景色の鏡」は未完であるらしい。雪に埋れた信号所に汽車が停つて、汽車の中の娘が、窓の外を通る駅長と言葉を交はすので、僕の感は極まつた。僕たちが文学の修業をしてゐるのは、こんな美しい情景を探り当てるためだ。 「「徒労」の同時代評
何の用意もなく、時間もないまま書き出したというのに、「夕景色の鏡」「白い朝の鏡」は、いずれも好評である。康成が続編を書きつぐ気になった原因の1つは、この好評にあったかもしれない。 しかし「徒労」以下になると、同時代評は、さらに絶讃の傾向をおびる。 ☆青野季吉「文学と方法―川端氏の『徒労』に就て」 川端康成の「徒労」(日本評論)はこれまでの言葉で云へば、清純なること珠玉の如き作品である。またじつさい私には、この田舎芸者の姿態を描いた作品をよみ耽りつつ、そういふ古い讃美の言葉が、思はず頭にうかんで来たのであつた。またそれと同時に、至芸といふやうな、旧い言葉も思ひ出された。(中略)
またこの作品には、謂ゆる心理をとり出した描写といふものが、ぜんぜん無い。女のその場その場で男にしめす姿態と言葉のうちに心理の内容と変化とを見てとるより外はない。そして作者は執拗頑強にこの方法を守り通してゐるのである。しかも作者によつて捉へられた女の姿態と言葉のうちに、いかに精妙に心理の内容と変化が「表現」されてゐることであらうか。驚歎するばかりである。 「徒労」の文学としての独自の性格は、まさにかくの如きものである。複雑なものが、その複雑さを失はずして、単純化され、圧縮され、すべての含蓄によつて答へられてゐる。而(しこう)して、雪の山地の自然と、人間の在り様とが、渾然(こんぜん)とした一致のなかにおかれ、空間、時間の正確な感じまでが、そこに精細に盛り込まれてゐる。これを絵画にたとえ(ママ)れば巧緻な写生と見へ(ママ)て、さうでなく、既に凡(すべ)てをふくむ写意の妙境に達してゐるものと云つてよいかも知れない。 ☆河上徹太郎「文芸時評」(『新潮』1936(昭和11)・1・1)
(上略)然し今月の傑作はと問はれたなら、私は躊躇(ためらい)なく川端康成氏の「徒労」(日本評論)を挙げる。実際此の一篇があつただけで、お勤めで数十篇の小説を読まされた労を悔いないのであつた。 「萱の花」
「雪国」の第5編「萱(かや)(かや)の花」は、1936(昭和11)年8月の『中央公論』に掲載された。 2度めの旅から東京へ帰ってゆく車中から書き出される。 国境の山を北から登つて、長いトンネルを通り抜けてみると、(中略)こちら側にはまだ雪がなかつた。 上野(こうずけ)と越後の国境を隔てる山塊の底を、1931年(昭和6年)に開通したループ式の長い清水トンネルが通りぬけてゆくのだ。その間に、雪国という現実から離れて行く。 車中で、島村は放心状態になる。 島村はなにか非現実的なものに乗つて、時間や距離の思ひも消え、虚しく體を運ばれて行くやうな放心状態に落ちると、単調な車輪の響きが、女の言葉に聞えはじめて来た。 それらの言葉はきれぎれに短いながら、女が精いつぱいに生きてゐるしるしで、彼は聞くのがつらかつたほどだから忘れずにゐるものだつたが、かうして遠ざかつて行く今の島村には、旅愁を添へるに過ぎないやうな、もう遠い声であつた。彼はすつかり安心して、別離の情に溺れるばかりだつた。 それから、ふたりがはじめて会ったときから、これまでのいきさつが語られる。そして、三度めの旅について、次のように説明される。 来年の2月の13、4日頃スキイに来ると、島村は約束して置きながら、3度目に来たのは、まる1年以上を過ぎた10月の初めだつた。 2度目は12月だったから、2月には来ると約束しておいて、それをすっぽかし、10ヶ月もたって、彼はこの土地に現れるのである。 その10月の初め、3度目の旅は、蛾の精細な描写から始まる。 http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/f74b0abbc30ea2dd9df645c2d2313ce6 愛のゆくえ「雪国」 その8 2度目は12月だったから、2月には来ると約束しておいて、それをすっぽかし、10ヶ月もたって、彼はこの土地に現れるのである。 その10月の初め、3度目の旅は、蛾(が)の精細な描写から始まる。 蛾(が)の精細な描写
蛾が卵を産みつける季節だから、洋服を衣桁(いこう)や壁にかけて、出しつぱなしにしておかぬやうにと、出がけに細君が云つた。 いかにも、、宿の部屋の軒端に吊した装飾燈には、玉蜀黍(たうもろこし)色(とうもろこしいろ)の大きい蛾が六七匹もぢつと吸ひついてゐた。次の間の3畳の衣桁にも、小さいくせに胴の太い蛾がとまつてゐた。 以下につづく蛾の描写は、康成の技量を示して、すさまじいばかりの迫力である。さらにこの章の中ほどに、秋が深まって昆虫どもの死んでゆく場面が描かれる。見過ごすことのできない描写だから、ここに引用しておこう。 彼は昆虫どもの悶死するありさまを、つぶさに観察してゐた。 秋が冷えるにつれて、彼の部屋の畳の上で死んでゆく虫も、日毎にあつたのだ。翼の堅い虫はひつくりかへると、もう起き直れなかつた。蜂は少し歩いて転び、また歩いて倒れた。季節の移るやうに自然と亡びてゆく、静かな死であつたけれども、近づいて見ると、脚や触覚を顫(ふる)はせて悶(もだ)えてゐるのだつた。それらの小さい死の場所として、八畳の畳はたいへん広いもののやうに眺められた。 わたくしたちはここに、「禽獣」に描かれた数々の鳥や犬や人の死の姿を思い出す。「禽獣」の「彼」の冷酷非情な眼が、ここには存分に発揮されているのだ。そしてこの眼はそのままに、駒子や葉子を映しだす冷え冷えとした眼である。島村は、「禽獣」の「彼」のまぎれもない後身である。 鳥追い祭 駒子は少し後れて来た。 廊下に立つたまま、真向に島村を見つめて、 「あんた、なんしに来た。こんなとこへなんしに来た。」 「君に会ひに来た。」 「心にもないこと。東京の人は嘘つきだから嫌ひ。」 そして坐りながら、声を柔かに沈めると、 「もう送つて行くのはいやよ。なんともいへない気持だわ。」(中略) 「あんた二月の十四日はどうしたの。嘘つき。ずゐぶん待つたわよ。もうあんたの云ふことなんか、あてにしないからいい。」 2月の14日には、鳥追い祭がある。雪国らしい、子供の年中行事である。その頃は、雪もいちばん深い時であろうから、島村は鳥追い祭を見に来ると約束しておいて、すっぽかしたのだった。 駒子は、二月は商売を休んで実家に帰っていた。そこへお師匠さんが肺炎になったという知らせが来た。駒子は看病に行っていたのだが、14日には、島村が来ると思って、わざわざ看病を途中にして、この温泉に帰ってきたのだった。 この作品のところどころに出て来る「港」とは、駒子のモデル松栄の生まれ故郷、三条市を想定しているのであろう。 湯沢から近くに、港に該当するような町はない。新潟も直江津も遠すぎる。湯沢からほどよい距離で、少し整った町、というと、三条市がいちばん適切である。 駒子は師匠の看病を途中で放棄して湯沢に帰ってきたのだった。それなのに、島村は来なかった。お師匠さんは死んだ。 島村の不誠実が、かえって駒子を惹(ひ)きつける一例である。 二十一歳の意味
駒子は、「胃が痛い」といって島村の膝へ突っ伏す。襟をすかして、白粉の濃い首が見える。 首のつけ根が去年より太つて、脂肪が乗つてゐた。二十一になつたのだと、島村は思つた。 この作品の構造を考える上に、無視できぬ1行である。 島村とはじめて会ったとき、駒子は19であった。もちろん戦前の数え方であるから、数えである。 島村が二度目に来たのは、その年の12月、そして3度目の今回は、それから10ヶ月後の10月である。 だから当然ここは、「二十」とあるのが正しい。この年立ての乱れを論じた平山三男は、作者の錯誤であるとする。 しかし作品をここまで読んできた読者は、その濃密な連続する空気から、島村と駒子とは、はじめて会ってから、かなり長いように錯覚している。それほどに濃密なのである。 2月の鳥追い祭に来ないで10月に来た、と書いた川端康成は、もちろんここが正しくは「二十」と書くべきであることをよく知っていただろう。しかも康成は、あえてここを「二十一になつたのだ」と書いたのである。 「雪国」全体を通して、この3度目の逗留が長くなり、次の年の2月ごろになるのではあるけれども、実際は、島村は都合3度しか雪国に来ていない。 駒子とはじめて会ってから、雪中火事の場面まで、実際には2年足らず、1年と7、8ヶ月程度である。しかしその事実を読者に自覚させると、せっかくの作品の厚みが薄っぺらなものになってしまう。 康成は、濃密な内容に合わせて、島村と駒子の仲が3年も4年もつづいているかのように読者を錯覚させなければならないのである。 そこであえて、ここを正しく「二十」とは書かずに、「二十一」と書いて読者を欺いたのである。作品として、その方がいい、とわたくしは考える。 雪国の現実
しかし、3度目の訪問で、雪国の現実が大きく変貌していることも事実である。 駒子が姉のように慕う芸者菊勇は、好きな男に騙(だま)されたために、せっかく旦那に建ててもらった店を手放し、別の町に新しく稼ぎに出ることになる。 行男はもちろん、駒子のお師匠さんも死んだ。 駒子も、置屋(おきや)が変わって、新しく4年の年季奉公に出るようになっている。 容赦(ようしゃ)ない現実の波が、この雪国の世界にも押し寄せているのである。変わらないのは、駒子の島村に寄せる一途の愛だけである。 「あんた私の気持分る?」 「分るよ。」 「分るなら云つてごらんなさい。ね、云つてごらんなさい。」と、駒子は突然思ひ迫つた声で突つかかるやうに云つた。 「それごらんなさい。云へやしないぢやないの。嘘ばつかり。あんたは贅沢に暮して、いい加減な人だわ。分りやしない。」 さうして声を落すと、 「悲しいわ。私が馬鹿。あんたもう明日帰んなさい。」 (中略) 「一年に一度でいいからいらつしやいね。私のここにゐる間は、一年に一度、きつといらつしやいね。」 何と哀切な、美しい言葉であろう。男が不誠実であることを百も承知しながら、1年に1度でいいから来てほしい、と女はいうのである。 ところで、次の1節も、この作品の構造に関係がある。 「私がここへ来てから4年だもの初めは心細くて、こんなところに人が住むのかと思つたわ。汽車の開通前は寂しかつたなあ。あんたが来はじめてからだつて、もう3年だわ。」 その3年の間に3度来たが、その度毎に駒子の境遇の変つてゐることを、島村は思ひ出した。 汽車の開通とは、もちろん1931(昭和6)年に開通した清水トンネルを指している。上越線は、この開通によって東京から新潟県まで楽に来られるようになり、越後湯沢の湯治客も桁(けた)違いに殖えたのだ。 「その3年の間に3度来たが」は、正しくは「2年の間に3度来たが」である。あるいは、「2年ちよつとの間に」とすべきところを、康成は強引に「3年の間に3度」と、あえて錯誤を犯したのである。さきに述べたのと同じ理由からである。 また「萱(かや)の花」では、駒子に旦那のいることがはじめて明かされる。その人は「港にゐる」という。芸者松栄(まつえ)の旦那は東京にいた。が、この作中では「港」とされている。「親切な人だのに、一度も生き身を許す気になれないのは、悲しい」と駒子はいう。 じつは、ずっとのちに駒子のモデル芸者松栄に会って取材した和田芳恵によれば、松栄には、まだこのほかに意中の人がいた。しかしこれは、のちに述べることにしよう。 「火の枕」
「雪国」の第6篇「火の枕」は、1936(昭和11)年10月号の『文藝春秋』に発表された。 その冒頭近くに、駒子の言葉に触発されて、島村が人間の官能について考える場面が登場する。康成の、男女のあり方についての考えの示された、重要な一節である。 「人間なんて脆(もろ)いもんね。すつかりぐしやぐしやにつぶれてたんですつて。熊なんか、もつと高い岩棚から落ちたつて、體(からだ)はちつとも傷がつかないさうよ。」 と駒子が云った。岩場でまた遭難があったのだ。このことばを聞きながら、島村は次のように思う。 熊のやうに硬く厚い毛皮ならば、人間の官能はよほどちがつたものであつたにちがひない。人間は薄く滑らかな皮膚を愛し合つてゐるのだ。 島村のこの感想には、自分が官能というものに深くとらわれていることを痛感した上での、そのようなものにつき動かされて生きてゆかねばならぬ、自分や駒子を含めた人間のあり方に対する限りない愛惜がある。 人間がたとえば熊のように逞しく荒々しいだけの官能を与えられているのなら、人間の生存様式はおのずから別のものとなっていただろう。けれども人間に付与されたのは、「薄く滑らかな皮膚」であった。そのような脆い繊弱な肌を与えられた結果、人間は舐めるようにささやかに、互いの肌を愛しあいながら生きてゆかねばならぬ。そこに人の世のさまざまの哀歓も生じてくる。…… 「雪国」の本質を示唆したような一節である。 葉子の登場 これまでも、葉子は時々、いろいろなところで登場していた。そしてそのたびに島村は、その一挙一動が心に残るのであった。 しかし「火の枕」の後半では、葉子が大きく迫るように前面に出て来る。 そのピークは、島村の留まっている宿で土地の人の宴会があり、さすがの駒子も「今日は来られないわよ、多分」と云った夜である。 駒子の結び文をことずかって葉子が来たあと、酔って島村のところへ来た駒子のことばは異様である。 「あの子なんて云つた? 恐しいやきもち焼きなの、知つてる?」 「誰が?」 「殺されちやい(ママ)ますよ。」 「あの娘さんも手伝つてるんだね。」 「お銚子を運んで来て、廊下の陰に立つて、ぢいつと見てんのよ、きらきら目を光らして。あんたああいふ目が好きなんでせう。」 ここで「恐しいやきもち焼き」と言われているのはもちろん葉子のことであり、やきもちを焼いている相手は駒子である。しかし何故に葉子は駒子に嫉妬し、「きらきら目を光らして」駒子の座敷を見ているのだろうか。 「殺されちやい(ママ)ますよ。」――これも素直に読めば、島村が葉子に殺されかねないと駒子は言っているのである。前後から考えると、駒子と島村の仲を葉子が嫉妬している、それも島村を殺しかねないほど激しく、ということになる。 この時点まで、島村は葉子を遠くから凝視していたばかりであり、葉子とことばを交わしたことも、二度めの旅の終りのあわただしいやりとりだけであった。だから、葉子が島村を恋しているとも受けとれるこの場面は唐突である。 あるいは葉子は、島村自身を恋しているのではなく、激しい恋愛をしているということ自体で駒子を嫉妬しているとも考えられるが、しかしそれにしても葉子のこの感情は異常であり、読者は意表をつかれた思いがする。 けれども不思議なのは、この場面が意外であるにもかかわらず、いやむしろ、意外である故にかえって、読者は、この妖しい心理の交錯に惹きこまれるのである。 この緊張は、次の場面でさらに高まる。ふたたび駒子の結び文を持ってきた葉子に、島村が話しかけた部分である。 「あの人は(中略)君の話をするのをいやがるくらゐだよ。」 「さうですか。」と、葉子はそつと横を向いて、 「駒ちやんはいいんですけれども、可哀想なんですから、よくしてあげて下さい。」 早口に云ふ、その声が終りの方は微かに顫(ふる)へた。 「しかし僕には、なんにもしてやれないんだよ。」 葉子は今に體まで顫へて来さうに見えた。危険な輝きが迫つて来るやうな顔から、島村は目をそらせて……。 葉子が「そつと横を向いて」「駒ちやんはいいんですけれども」と言ったのは、駒子の自分に対する態度を受けとめて、微妙な心の波立ちをおさえ、それは赦してもいいと答えたのであるが、しかし次の「可哀想なんですから、よくしてあげて下さい」と頼んだのはわかるとして、「早口に云ふ、その声が終りの方は微かに顫へた」というのは、何を意味するのだろう。 心の表層では駒子が島村に愛されることを願いながら、本心はそれに烈しい悋気(りんき)の焔をもやし、自分の方が島村に愛されることをひそかに希っている――そう考えなければ、次に「體まで顫へて来さうに」なる葉子の内面は理解できない。さらに「危険な輝きが迫つて来るやうな顔」とは、葉子が今にも自分を愛してくれと言い出すかもしれぬ、きわどい瞬間がおとずれていたことを示唆しているとしか考えられない。 つまりここでは、それまで島村から見られるばかりの存在で、あたかも影のようであった葉子が、いつのまにか島村に愛を訴えかねない危険な存在になっているのである。 http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/e57427e059a851b111e57c77fbf903a5 愛のゆくえ「雪国」 その9 激しい謝罪の方法
この場面はさらに発展して、 「早く東京へ帰つた方がいいかもしれないんだけれどもね。」 「私も東京へ行きますわ。」 「いつ?」 「いつでもいいんですの。」 「それぢや、帰る時連れて行つてあげようか。」 「ええ、連れて帰つて下さい。」と、こともなげに、しかし真剣な声で云ふので、島村は驚いた。(中略) 「あの人に相談した?」 「駒ちやんですか。駒ちやんは、憎いから云はないんです。」 さう云つて、気のゆるみか、少し濡れた目で彼を見上げた葉子に、島村は奇怪な魅力を感じると、どうしてか反つて、駒子に対する愛情が荒々しく、燃えて来るやうであつた。得体の知れない娘と、駈落ちのやうに帰つてしまふことは、駒子への激しい謝罪の方法であるかとも思はれた。 「雪国」後半の山場の1つである。それまで背景にちらちらと影を見せた葉子が前面に出て来て、島村の言葉に誘発されるように「ええ、(東京に)連れて帰つて下さい」と、こともなげに言う。 もしこの得体の知れぬ娘を連れて、駈落ちのように東京に帰ったら、それはもちろん、駒子への最大の裏切りである。駒子が気にしている葉子を連れて帰ることは、駒子にいちばん傷を与えることである。 それを島村は、「駒子への激しい謝罪の方法であるか」とも思うのである。駒子の一途に慕い寄ってくる愛を、島村は十分に自覚している。しかも、そんな駒子に対して、自分は何もしてやれないという呵責(かしゃく)が島村には深くある。そんな駒子への最大の謝罪が、思い切った裏切りであると、島村は考える。それほどまでに、駒子の愛の深さを知り、追いつめられているのだ。 こんな島村に呼応するように、少し後のところではあるが、駒子がこう言う一節がある。 「あの子を見てると、行末私のつらい荷物になりさうな気がするの。(中略)私の荷を持つて行つちやつてくれない?」(中略) 「あの子があんたの傍で可愛がられてると思つて、私はこの山のなかで身を持ち崩すの。しいんといい気持。」 駒子には、島村がそれほど遠くない先、自分を捨てて雪国を去るという予感がある。それを、自分の最もつらい方法で実行してほしい、その方が自分は捨てられたことが身にしみて、気が楽になる、というのである。
あの子があんたの傍で可愛がられてると思って、私はこの山のなかで身を持ち崩すの。――それは、駒子の何と哀切な愛情であろう。 そのように駒子の愛を牽制する存在として、葉子は描かれているのだ。 なお、初出にはないが、1937(昭和12)年に刊行された〈旧版『雪国』〉では、 「得体の知れない娘と、駈落ちのやうに帰つてしまふことは、駒子への激しい謝罪の方法であるかとも思はれた。」のあとに、「またなにかしら刑罰のやうでもあつた。」の1行が加えられている。定本も、加えられたままである。 「謝罪」「刑罰」――島村の、駒子に対する自責の感情を重く引きずった気持ちがよく表れている表現である。 小林秀雄の「文芸時評」
小林秀雄は、「火の枕」を、「作家の虚無感―川端康成の『火の枕』」と題して、「報知新聞」の「文芸時評」(1)で評した。単にこの作品だけを論じたというよりも、「雪国」論、川端康成論としても、その本質を射抜いた言葉と思われる。これについては、のちにもう1度考える予定であるが、とにかくその核心部分をここに引用しておこう。 しかし、この作品も、氏の多くの作品と同時に、その主調をなすものは氏の抒情性にある。ここに描かれた芸者等の姿態も、主人公の虚無的な気持に交渉して、思ひも掛けぬ光をあげるといふ仕組みに描かれてゐて、この仕組みは、氏の作品のほとんどどれにも見られるもので、これはまた氏の実生活の仕組みでもあるのだ。 氏の胸底は、実につめたく、がらんどうなのであつて、実に珍重すべきがらんどうだと僕はいつも思つてゐる。氏はほとんど自分では生きてゐない。他人の生命が、このがらんどうの中を、一種の光をあげて通過する。だから氏は生きてゐる。これが氏の生ま生ましい抒情の生れるゆゑんなのである。作家の虚無感といふものは、ここまで来ないうちは、本物とはいへないので、やがてさめねばならぬ夢に過ぎないのである。 「火の枕」につづく第7篇「手毬(てまり)歌」は、1937(昭和12)年5月号の『改造』に発表された。 「駒子が憎いつて、どういふわけだ?」 「駒ちやん?」と、そこにゐる人を呼ぶかのやうに云つて、葉子は島村を刺すやうに睨んだ。 「駒ちやんをよくしてあげて下さい。」 「僕はなんにもしてやれないんだよ。」 葉子の目頭に涙が溢れて来ると、畳に落ちてゐた小さい蛾を掴んで泣きじやくなりながら、 「駒ちやんは、私が気ちがひになると云ふんです。」と、ふつと部屋を出て行つてしまつた。 最後の1行は、「雪中火事」の終幕の伏線ともいうべき部分である。 ――連載はここで終わって、翌6月に、創元社から、いわゆる〈旧版『雪国』〉が刊行される。 http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/88be5ad7261da1dda852fbb933b679cc 愛のゆくえ「雪国」 その10 「いい女」の意味 種々の雑誌に気随気ままに分載された「雪国」は、1937(昭和12)年6月12日、創元社から刊行された。いわゆる 旧版『雪国』である。 第7篇「手毬歌」までを加筆削除し、さらに八頁ばかり書き加えられている。 物語の冒頭は、現在も人口に膾炙(かいしゃ)する、次の名文に変わっている。 国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。夜の底が白くなつた。 この加筆のなかで、最も重要な箇所は、「いい女」をめぐる言葉のやりとりだろう。 その一人の女の生きる感じが温く島村に伝はつて来た。 「君はいい女だね。」 「どういいの。」 「いい女だよ。」 「をかしな人。」と、肩がくすぐつたさうに顔を隠したが、なんと思つたか、突然むくつと肩肘立てて首を上げると、 「それどういふ意味? ねえ、なんのこと?」 島村は驚いて駒子を見た。 「云つて頂戴。それで通つてらしたの? あんた私を笑つてたのね。やつぱり笑つてらしたのね?」 真赤になつて島村を睨みつけながら詰問するうちに、駒子の肩は激しい怒りに顫へて来て、すうつと青ざめると、涙をぽろぽろ落した。 「くやしい、ああつ、くやしい。」と、ごろごろ転がり出て、うしろ向きに坐つた。 島村は駒子の聞きちがひに思ひあたると、はつと胸を突かれたけれども、目を閉ぢて黙つてゐた。 「悲しいわ。」 駒子はひとりごとのやうに呟いて、胴を円く縮める形に突つ伏した。 島村は、単純に、駒子をいろいろの面から「いい女」と言ったのである。ところが駒子は、その意味をとり違えた。男に快楽を与える生まれつきの體をもっている女、という意味に受けとめた。 だから、「それで通つてらしたの?」「やつぱり笑つてたのね」と言い、「くやしい」と、ごろごろ畳を転がるのである。 駒子が部屋を出ていったあと、「島村は後を追ふことが出来なかつた。駒子に云はれてみれば、十分に心疚(やま)(やま)しいものがあった。」と考えるのである。 この箇所は、駒子について読者に新しい知識を与えるものであるが、以前、「夕景色の鏡」のところで大きく削除した部分を補った、とも考えられる。 まだ16、7の頃に、自分がどんなにいい女であるかを、男から噛んでふくめるやうに教へられ、その時はそれを喜ぶどころか、恥ぢるばかりだと、男はいよいよむきになつて褒めちぎつたので、やがて男の云ふことが彼女の頭の底に宿命のやうに沈みついてしまつたのだつた。 この削除した一節を、「いい女」という表現で補ったのではなかろうか。 「雪国」は、このあと、その次の朝、駒子が早くから島村の部屋に来て謡をうたうところで終幕を迎える。 今年初めての雪が降りはじめたのだ。紅葉の季節はもう終わりである。 島村は去年の暮のあの朝雪の鏡を思ひ出して鏡台の方を見ると、鏡のなかでは牡丹雪の冷たい花びらが尚大きく浮び、襟(えり)を開いて首を拭いてゐる駒子のまはりに、白い線を漂はした。 駒子の肌は洗ひ立てのやうに清潔で、島村のふとした言葉もあんな風に聞きちがへねばならぬ女とは、到底思へないところに、反つて逆らひ難い悲しみがあるかと見えた。 紅葉の銹(さび)色(にびいろ)が日毎に暗くなつてゐた遠い山は、初雪であざやかに生きかへつた。 薄く雪をつけた杉林はその杉の一つ一つがくつきりと目立つて、鋭く天を指しながら地の雪に立つた。 〈旧版『雪国』〉は、ここで閉じられる。紅葉の季節が終わり、初雪が降ったという季節の変わり目である。 作品集として少し頁が足りないので、「父母」「これを見し時」「夕映少女」「イタリアの歌」の四編が加えられている。いずれも、1936(昭和11)六年に各誌に発表されたものである。 「あとがき」はない。ただ各篇の初出が一覧として挙げられている。発行は1937(昭和12)年6月12日、定価1円70銭である。版元は、創元社。 このほか、この初版には、各誌に挙げられた讃辞・批評を集めたパンフレットがついていた。 「雪中火事」「天の河」
それから3年たった1940(昭和15)年、『公論』という雑誌の12月号に、突然「雪中火事」という川端康成の作品が掲載された。 はじめは、これまでの「雪国」とは少し趣きが変わって、「昔の人の本」が長々と紹介されているが、読んでゆくと、明らかに「雪国」の続編である。 旧版『雪国』は、3度めの旅の、季節が紅葉から初雪の降る場面で終わっていた。いわば終わりともいえない終わり方だった。 それに対して、この作品は、3度目の旅のつづきと思われる。 ふたりの愛の行く末がもう見えている、という書き方だった。 また駒子とかうしげしげ会ふにつれて、島村は動くのがいやになつた。うちへ帰るのも忘れた長逗留だつた。別れともないからではない。つかれてものういからでもない。いはば自分のさびしい姿を見ながら、ただぢつとたたづ(ママ)んでゐるのだつた。 駒子がせつなく迫つて来れば来るほど、島村は自分が生きてゐないかのやうに思はれ出した。駒子の熱い火に身のまはりをつつまれて、島村は自分のなかにも一点の小さいともし火が見えて来たが、それはなぜか死の象徴を感じさせた。駒子を愛する術さへ知らぬことが情なくてならなかつた。 駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じはしない。このやうな島村のわがままはいつまでも続けられるものでなかつた。駒子が形のない壁に突きあたる音を島村は雪の夜空に聞いた。 島村はこの温泉場から出発するはずみをつけるつもりもいくらかあつて、縮(ちぢみ)の産地へ行つてみることにした。 ここには、ふたりの愛の行き違いが、はっきりと書かれている。 「駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じはしない。」それを康成は、「駒子が形のない壁に突きあたる音を島村は雪の夜空に聞いた」と表現する。 島村はもう、別れなければならない、と思っているのだ。この温泉場を自分が去るしかない、と思っている。そのはずみをつけるために、縮の産地へ行ってみようかと考えるのである。 雪中火事の構想
いったいなぜ、康成は続編を書くというような無謀を企てたのだろうか。 この点について康成は決定版『雪国』(創元社、1948〈昭和23)年12月25日刊行)の「あとがき」に、こう書いている。 昭和12年に創元社から出版し、その後改造社版の私の選集や1、2の文庫本にも入れた「雪国」は実は未完であつた。どこで切つてもいいやうな作品であるが、始めと終りとの照応が悪いし、また火事の場面は中頃前を書く時から頭にあつたので、未完のままなのは絶えず心がかりであつた。しかし、本にまでなつて1度この作品を片づけて立ち去つた気持も強く、残りはわづかながら書きづらかつた。 これによると、続きを書く気持になった原因は2つ――ひとつは、始めと終りとの照応が悪いこと、もうひとつは、雪中火事を書く構想が、かなり早くからあったことである。 この2つのために、康成はあえて、1度本に出したものの続編を書くというみっともないことに、踏み切ったのであろう。 このうち、後者については、すでに重要な指摘がなされている。 「雪国」について精力的な探求をつづける平山三男は、「『雪国』の虚と実――『雪中火事』の新資料報告――」(『解釈』1977・1・1)において、重要な資料を提示して解説を加えている。また『遺稿「雪国抄」――影印本文と注釈論考――』(至文堂、1993・9・20)でも詳しく述べられている。 平山によると、1935(昭和10)年10月22日、越後湯沢で火事があった。火が出たのは、「有限責任 湯沢乾繭(かんけん)場劇場 旭座」である。これは当時、湯沢村、神立村など5つの村の組合による共同経営がなされていたもので、集められた繭(まゆ)を乾燥するのが本来の目的だが、蚕(かいこ)の合間や冬期には劇場にも使われ、映画や素人歌舞伎・芝居などが演じられた建物という。 火事の当日は、神立村の青年会が、会の活動資金を得るため、長岡から映画の上映権を買ってきて映画を上映していた。 2巻目の「あゝ玉杯に花うけて」を上映中、夜9時ごろ、出火した。 その様子は、「雪国」の中で宿の番頭がいう「活動のフイルムから、ぼうんといつぺんに燃えついて、火の廻りが早いさ」という言葉どおりであったという。 1935(昭和10)年10月のこの時期、康成は、この湯沢に長期滞在していた。「物語」と「徒労」を書いたときである。まだ雪は降っていなかった。 この火事を目撃したことが、康成の「雪国」執筆に大きな波紋をもたらした。 平山は、その事実を証するため、第4次37巻『川端康成全集』補巻2に収録された水島治男宛て「昭和10年10月23日附」川端康成書簡(2の2)を紹介している。 (前略)この小説は「雪国」と題し、来年2月、もう1度ここに来て、最後を書きます。雪に埋もれた活動小屋の火事で幕を閉じやうかと、昨夜火事(繭の乾燥場に活動写真あつて焼けました。)を見て思ひつきました。 水島治男は『改造』の編集者であるが、注目すべきは、この時期、康成が「白い朝の鏡の続きを今書いてゐます」という点である。非常に早い時点で、雪中火事の構想が康成のうちに生じているのである。また作品も、「来年2月、もう1度ここに来て、最後を書きます」とあるように、決して長篇の構想があったのではなく、中編ぐらいの長さを康成が頭に描いていたことが推定されるのである。 このときの康成の湯沢滞在は1935年の9月30日から10月29日までの、1ヶ月に及ぶ長いものであった。 この時の日記が、以前に引用したように「『雪国』の旅」に掲載されているが、その掲載された期間は、同年9月25日から10月16日までである。 つまり康成は、「雪国」の手の内を読者に見せたふりをして、火事のあった22日以前の16日で、この日記を切っている。すなわち、絶好の素材となるであろう雪中火事の事実を、読者に知らせることなく、日記を打ち切っているのである。 鈴木牧之『北越雪譜』
書きおくれたが、「雪中火事」の冒頭は、鈴木牧之(ぼくし)の『北越雪譜』を引用したものである。 康成はこの書を、〈旧版『雪国』〉刊行後に知って読んだという。 ちなみに鈴木牧之は越後の商人で文人でもあった人(1770―1842)。『北越雪譜』は7巻から成り、越後の雪の観察記録を中心に、雪国の風俗、習慣、言語を記したもので、天保年間に刊行された。 康成はそのなかから、特に縮(ちぢみ)について書かれた部分を引用した。縮を織ることは、雪国の女たちの勤勉で我慢づよい性格をよく現し、それは駒子の美質に通じると考えたからであろう。また越後縮(えちご ちぢみ)の清涼な肌合いが駒子の清潔な気質にも通じると考えたからであろう。 縮の肌に涼しいのを書いたあと、「島村にまつはりついて来る駒子にもどこか根の涼しさがあつた。そのためによけいに駒子のみうちのあついひとところが島村にあはれであつた。」と記した1節が、そのことを語っているだろう。 もう1つ、以下の1節も、この作品に深いところで通じていると思ったに違いない。 しかしその無名の工人は無論とつくに死んで、その縮だけが残つてゐる。その暮しの苦しみはこの世に跡形(あとかた)(あとかた)もなく消えて、ただその美しいものだけが生きてゐる。なんの不思議もないことが島村はふと不思議であつた。 恋愛も、その過程のさまざまな葛藤(かっとう)は時間が過ぎるときれいに消えて、ただ恋愛の名残りだけがはかない美しさとして残されてゆく。あるいは、恋愛の実質は跡形なく消えて、あとにはなにも残らない。 その不思議が、縮(ちぢみ)の不思議と重なると考えられたからではあるまいか。 http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/2b7102eebd22144442d2ba45201c224a 愛のゆくえ「雪国」 その11 「天の河」の構想
「雪中火事」の続編「天の河」は、それから8ヶ月たった1941(昭和16)年8月に、『文藝春秋』に発表された。 「雪中火事」の終わりでふと2行、天の河が描かれる。 「天の川、きれいねえ。」と駒子はつぶやきながら、また走り出した。 島村は空を見上げたまま立つてゐた。 「天の河」は、これを受けて書き出されている。 康成がおそらく渾身(こんしん)の力をこめて観察したに違いない天の河の描写が、描かれる。 ああ、天の河と、島村も振り仰いだとたんに、天の河のなかへ體(からだ)がすつと浮き上つてゆくやうだつた。天の河の明るさが島村を掬(すく)ひ上げさうに近かつた。旅の芭蕉が荒海の上に見たのは、このやうにあざやかな天の河の大きさであつたか。裸の天の河が夜の大地を素肌で巻かうとして、直ぐそこに降りてきてゐる。恐ろしい艶(つや)めかしさだ。 康成はここで、芭蕉が佐渡を詠んだ一句の大きさを思い出している。 荒海や佐渡に横たふ天の河 荒海を前景として、眼前に黒々と横たわる佐渡の島。その海と島のすべてを巻くように、全天に拡がる冴えわたった天の河――。 康成が島村に託して描いた、巨大な、荒々しい、それでいて艶めかしい天の河こそ、卑小な人間世界と対比される自然の広大さであった。 「ねえ、あんた私をいい女だつて言つたわね。行つちやふ人がなぜそんなこと言つて、教へとくの? 馬鹿。」 女のあたたかい哀しみが島村を絞めつけた。 「泣いたわ。離れるのこはいわ。だけどもう早く行きなさい。言はれて泣いたこと、私忘れないから。」 人間の世界の、小さな、だが何と一生懸命な、美しい言葉だろう。 この篇は、次の行によって終わりを告げる。 島村も新しい火の手に眼を誘はれて、その上に横たはる天の河を見た。天の河は静かに冴え渡つてゐた。豊かなやさしさもこめて、天に広々と流れてゐた。 ここで「天の河」、すなわち追加された「雪国」は結ばれる。素人にも、平凡すぎる終幕と思われる。 「雪国抄」「続雪国」
以上2編が発表されたのは、まだ太平洋戦争開戦以前の1940、41(昭和15、16)年のことであった。 それから5年後の1946(昭和21)年、戦争も終わった敗残の国土のなかで、康成は三たび筆をとって、「雪国」の続編を新しく書き直して発表した。 「雪国抄」は、『暁鐘』1946年5月号に発表された。 「雪国抄」の、冒頭は、『北越雪譜』を踏まえて、「雪中火事」と、ほとんど同文である。ただ途中から、引用部分を大幅に削って、引き締まった文章となっている。 また「雪中火事」で引用した、作品の核となる部分は、彫琢(ちょうたく)されて、珠玉のような名文へと変貌している。 妻子のうちへ帰るのも忘れたやうな長逗留だつた。離れられないからでも別れともないからでもないが、駒子のしげしげ会ひに来るのを待つ癖になつてしまつてゐた。さうして駒子がせつなく迫つて来れば来るほど、島村は自分が生きていないかのやうな呵責がつのつた。いはば自分のさびしさを見ながら、ただぢつとたたづんでゐるのだつた。 駒子が自分のなかにはまりこんで来るのが、島村は不可解だつた。駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じてゐさうにない。駒子が虚しい壁に突きあたる木霊に似た音を島村は自分の胸の底に雪が降りつむやうに聞いた。このやうな島村のわがままはいつまでも続けられるものではなかつた。 こんど帰つたらもうかりそめにこの温泉場へは来られないだらうといふ気がして、島村は雪の季節が近づく火鉢によりかかつてゐると、宿の主人が特に出してきてくれた京出来の古い鐵瓶(てつびん)で、やはらかい松風の音がしてゐた。(中略) 島村は鐵瓶に耳を寄せてその鈴の音を聞いた。鈴の鳴りしきるあたりの遠くに鈴の音にほど小刻みに歩いて来る駒子の小さい足が、ふと島村に見えた。島村は驚いて、最早ここを去らねばならぬと心立つた。 そこで島村は縮の産地へ行つてみることを思ひついた。この温泉場から離れるはずみをつけるつもりもあつた。 島村は汽車に乗って、さびしそうな駅に降りる。そうして雁木(がんぎ)の連なる、昔の宿場町らしい町通りを歩いて、また汽車に乗る。もう1つの町に降りる。寒さしのぎにうどんを1杯すすって、また汽車に乗り、駒子の町に帰ってくる。 車に乗って宿に帰ってゆこうとすると、小料理屋菊村の門口で立ち話をしている一人が駒子だった。 駒子は徐行した車に飛び乗って、窓ガラスに額を押しつけながら、「どこへ行った? ねえ、どこへ行った?」と甲高く叫ぶ。 「どうして私を連れて行かないの? 冷たくなつて来て、いやよ。」 突然擦り半鐘(すりはんしょう)が鳴り出した。 二人が振り向くと、 「火事、火事よ!」 「火事だ。」 火の手が下の村の真中にあがつてゐた。 「雪国抄」は作品が長くなって、「雪中火事」では、火事の発端だけだったのが、もう少しつづけて書いてある。 作品の終わりに、作者の言葉がある。 ――10年前の旧作「雪国」は終章を未完のまま刊行し、折節気にかかつてゐたが、ここにとにかく稿を続けてみることにした。既稿の分も改稿して発表し得たのは本誌編輯者の雅量による。作者―― 「続雪国」の新展開
つづけて、1年あまりを経た1947(昭和22)年10月、『小説新潮』に最終篇「続雪国」が発表された。 火事のつづきである。繭倉(まゆぐら)で映画のあったことがわかって、駒子のあとを追って島村も繭倉の方へ駆け出す。 「天の河。きれいねえ。」という駒子の声に誘われて、島村は空を見上げる。 1941(昭和16)年の「天の河」と同じく、芭蕉の見た天の河を連想する。 しかし次がこれまでと異なる。 あつと人垣が息を呑んで、女の體が落ちるのを見た。 やがて、それが失心(ママ)した葉子だとわかる。 ――10年を経て、康成は葉子の失心と墜落という、物語の新しい展開、物語のフィナーレを思いついたのだ。 葉子はあの刺すやうに美しい目をつぶつてゐた。あごを突き出して、首の線が伸びてゐた。火明りが青白い面の上を揺れて通つた。 幾年か前、島村がこの温泉場へ駒子に会ひに来る汽車のなかで、葉子の顔のただなかに野山のともし火がともつた時のさまをはつと思ひ出して、島村はまた胸が顫へた。一瞬に駒子との年月が照し出されたやうだつた。なにかせつない苦痛と悲哀もここにあつた。 「幾年か前」という表現に注意したい。島村が葉子を初めて見たのは、2度めの旅、12月だった。3度めの旅は、それから10ヶ月後の10月から、この冬まで。長逗留で、今が1月とも2月とも判別しがたいが、いずれにしても、葉子を初めて見てから今まで、1年とちょっとである。 「雪国」の正確な年立(としだて)という問題からみれば、ここは明らかに作家の錯誤である。 だが、そうだろうか。 この濃密で緊張感にみちた島村と駒子の愛を読んできた読者には、ふたりの仲は3年にも4年にも、あるいは5年にも感じられる。 その読者の錯誤を考えると、ここは正確に「一年ちょっと前」と書いてはならないのである。「幾年か前」と朧化(ろうか)されることによってはじめて、島村と駒子の、のっぴきならぬ愛情の積み重ねが読者に納得させられるのだ。 もう1つ大切な部分は、「一瞬に駒子との年月が照し出されたやうだつた。」とある一行である。 「雪国」という作品にとって、葉子は重要な存在である。3度めの旅の紅葉の季節には、葉子は「東京に連れて行つてください」と島村に頼み、島村もこの「得体の知れない娘と駆け落ちのやうに東京へ帰る」ことは、駒子への最大の謝罪だと考えた瞬間もあった。 そのように葉子は、島村と駒子のあいだにあって、駒子と島村の愛の成り行きを、刺すような美しい目で、じっと観察する存在としても考えられた。 島村はいま、失心した葉子を見ながら、初めて葉子と会ったとき、汽車の夕景色の流れの中に映った、葉子の顔のなかにともったともし火を思い浮かべている。あれからの歳月、それは駒子と過ごした歳月でもあったのだ。 島村の内部に「なにかせつない苦痛と悲哀」が湧き上がるのに、何の不思議もない。 葉子の失心と墜落というアイデアが、駒子との歳月を写し出す鏡のような葉子の役割を、ふたたび思い出させたのである。 「この子、気がちがふわ。気がちがふわ。」 さう言ふ声が物狂はしい駒子に島村は近づかうとして、葉子 を駒子から抱き取らうとする男達に押されてよろめいた。 さあつと音を立てて天の河が島村のなかへ流れて来た。 康成は、最後に推敲して単行本にするとき、この最後の部分を、次のように改変した。 「この子、気がちがふわ。気がちがふわ。」 さう言ふ声が物狂はしい駒子に島村は近づかうとして、葉子を駒子から抱き取らうとする男達に押されてよろめいた。踏みこたへて目を上げた途端、さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるやうであつた。 この最後の場面は、長い物語の終焉として、まことに劇的なものであろう。 駒子の愛の高まりと、それを受けとめる島村の追いつめられた意識が、物語の最後近くで、どうにも身動きできない状況になる。 島村が、この雪国を去るしか、とるべき道は残されていないのである。 物語のフィナーレに火事が起こり、その火事という非日常的な出来事の喧噪をはるかに見下ろすように、すべての人々を包み込むような壮麗な天の河が天空いっぱいに広がる。それに気づいた島村に流れ落ちるかと思われて、物語は結ばれる。 伊藤整は、新潮文庫『雪国』の解説(1947〈昭和22〉・7・16)において、次のように作品の終幕の必然性を説いている。 生きることに切羽つまつてゐる女と、その切羽詰りかたの美しさに触れて戦(をのの)いてゐる島村の感覚との対立が、次第に悲劇的な結末をこの作品の進行過程に生んで行く。そしてその過程が美の抽出に耐へられない暗さになる前でこの作品は終らねばならぬ運命を持つてゐるのである。 ――11年間にわたる、康成の格闘がここに終わった。 この「雪国抄」「続雪国」の2編にさらに彫琢を加えて、1948(昭和23)年12月25日、創元社から〈決定版『雪国』〉が刊行される。 http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/3c9d030fb609dbf9dfc7cdaab6f4e27c 愛のゆくえ「雪国」 その12(最終回)
「雪国」は、どのような作品か ……これまで、プレオリジナル(初出)を中心に、「雪国」の要(かなめ)となる部分を見てきた。そのつど、意味するところは書いてきたはずである。 しかし、それでは、「雪国」は、結局どのような作品なのか。 以下を書くために、わたくしはこれまで、作品の細部を見てきたといってもいいくらいである。 さて、「雪国」の本質を考えるとき、当然ながら、この作品の視点人物たる島村とは何者であるか、について考えさせられる。 この場合、かつて「火の枕」が発表されたとき、小林秀雄が「報知新聞」に書いた「文芸時評」の一節が、川端康成理解の有力な手がかりとなる。(「作家の虚無感―川端康成の『火の枕』」) 小林は、康成の抒情性の本質を、次のように喝破した。 しかし、この作品も、氏の多くの作品と同時に、その主調をなすものは氏の抒情性にある。ここに描かれた芸者等の姿態も、主人公の虚無的な気持に交渉して、思ひも掛けぬ光をあげるといふ仕組みに描かれてゐて、この仕組みは、氏の作品のほとんどどれにも見られるもので、これはまた氏の実生活の仕組みでもあるのだ。 氏の胸底は、実につめたく、がらんどうなのであつて、実に珍重すべきがらんどうだと僕はいつも思つてゐる。氏はほとんど自分では生きてゐない。他人の生命が、このがらんどうの中を、一種の光をあげて通過する。だから氏は生きてゐる。これが氏の生ま生ましい抒情の生れるゆゑんなのである。作家の虚無感といふものは、ここまで来ないうちは、本物とはいへないので、やがてさめねばならぬ夢に過ぎないのである。 この川端評は、そのまま「雪国」の島村に通じるのではないだろうか。特に後半の評言「がらんどう」は、「雪国」の本質をみごとに言い当てている。 この小林の言葉をわたくしなりに翻訳すると、まず、島村の胸底は、虚無という「がらんどう」である。「禽獣」の「彼」と同じ構造をもっている。その虚無の胸底を、彼の見た生命体の美しさが、「一種の光をあげて」通過する。それが「雪国」という作品である。 つまり島村は生きていながら、生きていない。彼はただそこに在るだけである。彼の眼に映じたもののうち、彼のうつろな胸底を、美しいと戦慄するように通り過ぎたものだけを、彼はすくい取り、それを彼は胸にしっかりしまい込むのだ。 読者は、その島村の厳しい眼を通過した美しいものだけを受け取り、それを美しいと感じることができるのである。 すなわち島村は胸底に虚無をたたえた冷ややかな感受性の持ち主であって、彼は蜘蛛が身のまわりに繊(ほそ)い糸をはりめぐらすように、 鋭い感受性をはりめぐらしていて、美しいものが通り過ぎるのを待っている。 駒子のさまざまな姿態や言葉も、葉子の刺すような目も澄んだ声も、すべて彼の蜘蛛の網にかかる。 それを彼は、こわれぬように繊細な手つきによって言葉に変え、そっと読者の前に提示するのである。 読者が享受するのは、そのようにして川端康成の胸底を通過した美しいものだけである。この場合、島村は、そのまま川端康成自身である。 伊藤整の島村観
戦前戦後にかけて、川端康成について最も多く発言し、またその理解が深いと思われるのは、前掲の『川端康成作品研究史』を執筆した林武志が指摘するように、伊藤整である。 その数々の文章のなかで、ここでは「川端康成の文学」(『作家論U』角川文庫、1964〈昭和39〉年・12・10に収録。初出は『東京新聞』1953年2月とあるが、該当する文章は掲載されていない)の、「雪国」について述べた部分から、その核心となるところを引用してみよう。 主人公の島村は作者の説明では「自然と自身に対する真面目さも失ひがちな」無為徒食の人間で、山を好み、舞踊が好きだ、と簡単に書かれてゐる。しかし、それはどうでもよいことで、美と生命の燃焼を求める感受性の細い絃が島村といふ人物の中に縦横に張りめぐらされてゐるのである。 その絃に触れる美は悉(ことごと)く音を立てるが、生活そのものはその絃に触れることがない。だから、その生き方において悲しいまでに真剣な駒子のやうな存在、またその駒子よりももつと張りつめた生き方をしてゐる葉子の存在は、生活者としては島村に触れることなく、ただその張りつめた生き方の発する美の閃光(せんこう)としてのみ島村に把へられる。そこから島村と駒子の間、島村と葉子の間に、接近すればするほど行きちがふといふ悲劇が生れる。 島村が美の感受者として自分の周囲に独特の世界を見出して作つて行くさまは、光を持つた人間が闇の中を歩くのに似る。 この理解は、先述の小林秀雄の理解と相通ずるところがあると思われる。 伊藤整は別のところでも、島村を「美しく鋭いものの感覚的な秤(はか)り」と述べている。 山本健吉の「雪国」観
少し後れて、川端康成の文学に深い共感を示し、駒子と葉子を、能のシテとツレと見立てた山本健吉の「雪国」観も、見ておく必要があるだろう。 山本は『近代文学鑑賞講座13 川端康成』(角川書店、1959〈昭和34〉・1・10)の編著者であるが、この創見に満ちた1冊の書で、山本は次のように述べている。 ……自分を全然人生の葛藤の渦中から外側に置いて、駒子や葉子のなかに瞬間的に現れる純粋な美の追究者として、人生的には非情の傍観者としてふるまうところに、この作品の世界が成立していると言えるのである。(中略) このような純粋に審美的なものの追求、生活の塵埃(じんあい)から、雪国の別世界への感受性の逃避行そしてそのことによって、女心の哀愁と美とを捕えようとしたのが、この作品なのである。 ……伊藤整や山本健吉から、以後、たくさんの研究者たちが出て、「雪国」や島村について、さまざまな考察を提示した。 しかしわたくしは、ここまで引用してきた小林秀雄、伊藤整、山本健吉らの考えを、「雪国」の本質を衝いたものとして、自分の「雪国」観を少しも改める気にはならないのである。 駒子のモデルと和田芳恵 ……1957(昭和32)年の正月5日、評論家の和田芳恵は、写真家大竹新助とともに、新潟県南蒲原(かんばら)地方の三条市に、駒子のモデルとされる小高キクを訪ねた。雑誌『婦人朝日』に「名作のモデルをたずねて」を連載する、その第1回のためである。 途上の湯沢では、豊田四郎監督、池辺良、岸恵子主演で「雪国」がはじめて映画化されることになり、その撮影で大騒ぎの最中であった。 そのころ、かつて越後湯沢で芸者松栄として出ていたキクは、三条市の仕立物師・小高久雄の妻となって、小高キクとなっていたが、条理のわかった夫の協力もあって、この日の取材となったのである。 以下は、この和田芳恵の記述「名作のモデルをたずねて(一)」(『婦人朝日』1957〈昭和32〉・3・1)によったものである。 キクの本名は丸山きく。三条市島田に、1915(大正4)年11月23日、鍛冶屋(かじや)の長女として生まれた。兄がひとりあったが、十人兄弟の大所帯であった。 川端康成と出会った1934(昭和9)年には、ちょうど数え20歳であったことになる。 数えで10歳の7月15日に小学校をやめて、長岡市の立花家という芸者屋の下地っ子に出された。当時、南蒲原地方では、生活のために娘を芸者にすることを、さほど不思議と思わない風習があったという。 長岡には、下地っ子のための特殊な学校があって、きくはそこに通ったそうだ。 1928(昭和3)年、17歳になったきくは、湯沢の若松屋という芸者屋から松栄という芸名で出ることになった。年期は3年であった。 しかし和田芳恵のここの記述はおかしい。1928年なら、キクは14歳だったはずである。これは年号の方が不確かで、「17歳」の方が正しいと考えたい。 清水トンネルが開通した年(といえば1931〈昭和6〉年のはずだが、和田は1930年と書いている)、湯沢駅前の土産物店兼自動車屋に、峠(とうげ)豊作という運転手が雇われた。 豊作は、1912(大正元)年の生まれ。きくと3つ違いだ。新潟県東南部の織物で名高い塩沢の、うどん屋の息子であったが、蕎麦(そば)づくりの技術を覚えるため、1928(昭和3)年に上京、日本橋室町の更科(さらしな)に弟子入りしたのだが、その仕事がいやになり、自動車の運転手になった。当時、運転手は、はなやかな職業であった。 22歳の美貌の豊作と19歳のきくは、やがて深い恋仲となった。小説「雪国」は、この年から書き始められている。 この土地では、芸者の住んでいる部屋を「きりやど」という。たいてい置屋の母屋から廊下でつづいているが、母屋からは離れている。そこに客が泊まることもあった。 豊作は仕事がすむと、夜が更けたころ「きりやど」から、きくを呼び出し、ひっそりした湯舟につかって、あまい恋をささやいたという。「ふたりはしあわせに夢のような日をおくっていました」と和田は書いている。 きくは豊作と一緒になりたいと考えていたが、3年の年期を終えて家に帰ると、すぐ富山県の高岡に、また芸者として出なければならなかった。このときの身代金で、親は住む家を建てた。芸名は、いろは、だった。 しかし高岡では我慢のならないことがあった。それは、抱え主が芸者に客をとることを強要したことである。 1932(昭和7)年、18歳の松栄
きくは、「21歳になった昭和7年の8月に、湯沢へ住みかえました」と和田は書いている。(年齢か年代か、どちらかが間違っている。平山三男の調査によれば、数え18歳の1932(昭和7)年が正しい。 そのときの置屋が豊田屋で、抱えは三人いた。松栄(まつえ)という名が通っていたので、今回も松栄で出た。 豊作との仲は、この土地では誰知らぬ者はないほどであった。きくは、豊作の兄貴分であった人を通して、年期があけたら一緒になってほしいと申し入れた。豊作は喜んで、かたい約束をした。ふたりは夫婦きどりでつき合っていたが、1937(昭和12)年の秋、豊作に召集令状が来て、高田に入隊することになった。そこで双方の親を説得して仮祝言をあげた。 ところがじつは、きくには、東京に旦那がいた。60に近く、めったに来ることはなかった。その旦那が話を耳にして、どうしても手放さないと言い、きくは豊田屋をやめて上京し、旦那に囲われることになった。26歳のときだった。 豊作の部隊は中支の漢口に行き、豊作はここで3年の軍隊生活を送り、現地で2年、軍属をしてから陸軍病院の酒保に店を出した。生活が安定したので、きくを呼び寄せる手続きをして、このとき初めて、きくに長いあいだ裏切られていたことを知った。 和田芳恵は、峠豊作にも会って、取材している。この『週刊朝日』には、峠の近影も掲載されている。 峠は、和田芳恵に、きくと、結婚の仮祝言をすませた仲であることを認めた。また康成を定宿の「高半」へ幾度も送り迎えをしたことなども話したという。 1958(昭和33)年の取材の当時、峠は東京の八重洲口に近いところで料亭を営んでいた。 松栄のその後
一方、きくは、旦那も死に、戦争も激しくなったので、郷里三条市に帰り、帯や袴(はかま)の仕立てをしている小高(こだか)久雄の弟子になった。 やがてきくは、これまでの閲歴をすべて小高に打ち明け、二人は結婚して、現在に至ったという。 和裁ばかりでは生活が苦しいので、きくはミシンを置いて、婦人子供の既製服の製造をはじめ、のちには内弟子や通いの弟子が七、八人もできるほど、手広く経営するようになっているそうだ。 ――以上が和田芳恵の伝える丸山キクの半生である。年代にところどころ錯誤があるので、正確な事実として確認できないところが残念だが、中見出しに「哀れ、7年の恋は終りぬ」とあるところからも、このとき、きくは和田芳恵に率直に、峠豊作のことを含め、これまでの人生を詳細に語ったと思われる。 問題は、康成が湯沢に滞在して「雪国」を執筆した時期と、峠豊作ときくが恋仲であった時期が重なるのではないかと思われることである。 高半旅館の次男・高橋有恒も、「『雪国』のモデル考――越後湯沢における川端康成」(『人間復興』第2号、1972(昭和47)・11・期日不明)のなかで、「峠豊作と芸者松栄との間に当時、すこし噂があった」と書いている。 また、あるとき、峠の運転する車に有恒が乗せてもらっていると、峠は芸者置屋豊田屋の前で車をとめ、二階の芸者松栄に声をかけた。すると松栄が降りてきて、車に同乗した。このとき松栄は、「オツさま、この本、川端さんがくれたの」と1冊の本――「水晶幻想」を差し出した、とも述べている。 これらの事実を、どう解釈したらいいのだろうか。 1932(昭和7)年、18歳のきくが、若松屋から松栄という名で芸者にでた事実は確かであろう。康成がはじめて湯沢に来たのは、2年後の1934(昭和9)年である。 このときすでに松栄は、峠豊作と恋仲になっていたと思われる。 というのも、松栄と峠豊作が恋仲になったのは、松栄が高岡に行く前のことと、和田芳恵は書いているからである。湯沢に帰ってきて、ふたたび松栄という名で芸者に出たきくと峠豊作は、感無量のうちに再会したはずである。 もっとも、作品で見てきたように、潔癖で正直な松栄が、ふたりの男に二股(ふたまた)をかけるような女でないことは確かである。 わたくしが注目したいのは、3度目の旅で、縮の産地から帰った島村の乗った車に、駒子が飛び乗る場面である。 車が駒子の前に来た。駒子はふつと目をつぶつたかと思ふと、ぱつと車に飛びついた。車は止まらないでそのまま静かに坂を登つた。駒子は扉の外の足場に身をかがめて、扉の把手(とって)につかまつてゐた。(中略) 駒子は窓ガラスに額を押しつけながら、 「どこへ行つた? ねえ、どこへ行つた?」と甲高く呼んだ。 (中略) 駒子が扉をあけて横倒れにはいつて来た。しかしその時車はもう止まつてゐるのだつた。 これは、実際の体験を描いた場面ではなかろうか。そうだとすれば、駒子が大胆にも走っている車に飛び乗ることができたのは、峠豊作の運転する車で、豊作が危険な操作をするはずがないと安心して、駒子は無茶をしたのではないだろうか。 つまり、豊作もまた、駒子が島村とつき合っていることを知っていて、島村の前で車の速度を落し、また危険のないよう配慮したのである。 わたくしは、すでに駒子こと、きくと豊作は恋仲であったと確信する。 そこへ、いきなり東京から得体の知れぬ、これまで会ったこともないような男が現れ、きくは電撃に打たれたように、その男に惚れてしまったのだ。駒子は夢中になって、その新しい男に心血をそそいで恋をする。 豊作は黙ってそれを傍観しているしかなかった。 およそ2年間、駒子は命がけの恋をした。それは次元の異なる恋だった。豊作は黙って見ているより術(すべ)がなかった。 島村が雪国を去ってしばらくたって、駒子こと、きくは豊作のもとに戻ってきた。駒子は豊作との結婚を本気で考えた。…… 康成は、駒子にそのような想い人があったことを知っていただろうか。 小高久雄は和田芳恵の取材のとき、「この人には、そのころ、7年も思いつめた男の人がいたのですよ」と語ったそうだ。また、「雪国」の作者のことは、きくから聞いてはいたが、「雪国」を読んだのは結婚してからだったという。 最後にきくは、康成のことを、「あの方は、これまで知った多くの人たちから感じられない独特な雰囲気を持っていました」と和田に語ったという。 峠豊作というひとがありながら、駒子のきくは、魅入られたように康成との恋に命を傾けたのではなかろうか。 http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/7d45b23134e8d90da385ae91582324aa ▲△▽▼
フランス文学に造詣が深い伊藤整の『氾濫』における心理描写がある。 それに対して、川端康成の心理描写がある。 わたしにはこの二人の心理描写は本質的な違いがあると思えてならないのだ。 伊藤整は『氾濫』において、人の心をそれこそ「合理的思考」で、らっきょうの皮を剥いていくように解剖していくのだ。主人公自身が自分の心理を解剖していくことさえも容赦なく、暴露的であり客観的だ。
私小説的世界を描いているが、私小説的な意味での客観描写ではなく、西欧的な意味での客観描写であり、それでいて心理学的な描写である。 評論家の奥野健男が『氾濫』(新潮文庫)の解説で「心理描写の極北」と絶賛していたが、そうであったとしても、わたしには無味乾燥な世界にしか思えなかった。 そうして心理を余すことなく剔抉できたとして、その人間はそれだけですべてないのか、人と命との不可解さとはそんなものなのか、と思えるのだ。そうした解剖学的、そして心理学的な心理描写で生きて蠢く人間が描けると思っていることが、不思議でならないのである。 伊藤整の心理描写は、すぐれて西欧的である。無意識の闇まで、光を当てて暴き立て、またそれで無意識の闇の本質を描き出せると信じているかにみえる。その発想が理解できないのである。 一方、川端康成の心理描写は暴露的ではなく、また分析的でもない。川端は初めから人の心理を解剖学的に、そして分析的に解明できるとは考えてはいないし、そうした発想が元々ないのではないかと思える。それでいて、川端の心理描写は鮮やかである。
川端の心理描写は、伊藤整のように、人の心に下りていって、「合理的思考」という眼によって分析的に暴かれていくのではなく、むしろ自分ではなく、自然という対象や他者によって気づかされるというような形をとっている。したがって、風景の中に自分の心理を見つけ出したり、他者のしぐさによって自分の心理に気づかされたりするのである。 風景を描写しながら、それは自分の心理を写した鏡であり、他者を描写しながら、その他者の中に自分の心理が生きて動いているという描写方法なのである。風景描写であって心理描写であり、他者を描きながら、自分の心理を他者の姿の中に浮かび上がらせているのだ。 これは西欧的な意味での「合理的思考」による認識ではなく、日本的な感覚的認識によって、自然の風景や他者の中に隠れている、自分という不可思議な生き物の心理に気づかされるという描写手法である。 伊藤整は『氾濫』において、神のような存在である。登場人物の心の隅々まで余すところなく把握し、あらゆる動作と、行動の意味を心理学的に理由付けられるのである。
私小説の意味で、登場人物が伊藤整の傀儡になっているといっているのではない。私小説よりははるかに高度な人間把握であり、心理的描写であり、また人物造形である。フランス文学に精通した伊藤整であり、『小説の方法』を書いている伊藤整が、単なる私小説を書くはずはないし、また私小説の形骸化でしかない風俗小説を書くはずはないのである。 「心理小説の極北」というからには、伊藤整の心理描写の方法論からすれば、『氾濫』が限界だということになるのだろうか。わたしは翻訳小説を読んでいるような錯覚を覚えたのだが、それだけ伊藤整の心理描写の手法が西欧的だったのかもしれない。 一方の川端康成であるが、小説の登場人物の心をすべて把握してはいない。また、把握することを最初から放棄しているように、わたしは思っている。 人間とはそれほどまでに、不可解な生き物だからだろう。おぼろげに、ぼんやりと人の心理を浮かび上がらせるだけである。それでいて、一瞬だけ鮮やかにみせてくれたりするが、ぼんやりとした中の一瞬だから、鮮やかであり印象的なのである。 その一瞬とは、直観に通じているものなのだろう。感覚的認識とは、西欧的な「合理的思考」によって、らっきょうの皮を一枚一枚剥いていって本質を暴くことではなく、一瞬の中で感覚的に本質を掴み取ることである。 伊藤整の『氾濫』は、らっきょうと一緒で、剥く皮がなくなってもついに本質が見えてはこないのと似ている。すべてを「論理的思考」で心を分析的に暴き立てたから、かえって心がみえなくなり、空虚なものでしかなくなってしまったのではなかろうか。 何故ならば心は自らで動いて呼吸をしているもので、生きた生命をもっているからだ。断片としての事実を繋ぎ合わせても生命ではない。生命とはそうした得体のしれないものであり、だからこそ尊厳があるのだろう。 川端康成の描いた人間の心は、ぼんやりとしたものだから、不可思議な生命そのままに生きて呼吸をしているのである。しかし、ぼんやりとではあるが、だからこそその人間の本質的なものが浮かび上がってくるのだろう。 わたしは当然に、川端康成の心理描写における手法の方向性でいくつもりだが、そのままではなく、わたしなりの手法を取り入れていくつもりだ。 国学を論じた中で、わたしは川端康成に言及した。その箇所を抜粋してみたい。 「川端の感覚と文学的感性とはすぐれて日本的なものと思っている。日本という風土が色濃く反映しているのだ。が、川端は契沖的なあり方ではない。かといって宣長的ではない。
しかし、川端の対象へと注がれる感情と、対象から跳ね返ってくるものを受け取る感覚と、またその感覚によって醸し出される感情とが、宣長のいう『物のあはれ』のように一所に留まることをしないで、拘りを離れて流れていくように、わたしは感じている。 宣長の自我の喪失の絶対化という意味での『物のあはれ』とは違う。濃密な自我を宿したものだ。川端もやはり『情としてのロマンチック・イロニー』を生きていたのだろうか。 日本の四季の移ろいのように、瞬時に情としての姿を変えていく。この情は一方通行の自己完結型の情だけではなく、対象と交感し合う情でもあるのだが、だからといって交感し、合一し、そこに留まろうとする意志がないのだ。早くから親をなくし、肉親の愛情に溺れて育った経験のない川端の特異性なのだろうか」 と書いたのであるが、「感覚によって醸し出される感情」が、「一所に留まることをしないで、拘りを離れて流れていく」という川端の特質が、作品の中に随所に現れている。そしてその流れ方が、余韻を引き摺るようにして、関連性をもっているのだ。感情を表現した比喩が、新たな比喩を呼び起こし、更にその比喩が新たな比喩を呼び起こすというような流れ方なのである 竹西寛子が新潮社の文庫本『雪国』の解説『川端康成 人と作品』で、 「私見によれば、川端康成の文学における日本については、本来モノローグによる自己充足や解放を好まず、ダイアローグによってドラマを進展させたり飛躍させたりする谷崎潤一郎の文学と較べると、少なくとも一つのことははっきりとするように思う。
それは、谷崎文学が、日本の物語の直系であるようには、川端文学はドラマの欠如あるいは不必要によって直系とはいい難く、本質的にはモノローグによるものという点で、和歌により強く繋がっているということである。 しばしば小説の約束事は無視されて一見随筆風でもあるのに、あえて日記随筆の系譜に与させないのはほかでもない。さきにふれたように、この文学は、ゆめ論述述志の文学でなく、感覚と直観によってこの世との関係を宙に示しているからである」 と論じている。 鋭い指摘であるが、わたしは和歌には様々な要素があると思っている。相聞歌もあれば、短いなかに物語を秘めた和歌もある。和歌がモノローグによるものだとは言いがたいように思う。
川端文学は和歌に通じている面はあるが、俳諧連歌のような「心の動き」に特徴性があるように思う。句と句を繋ぎ逢わせているのが、感覚的な言葉であり、それが比喩の役割もしているのではないだろうか。 竹西寛子は、「感覚と直観によってこの世との関係を宙に示している」と書いているが、これこそが本居宣長の「もののあわれ」的な感情の発露であり、そして感情が一所に留まって執着することを拒んで流れて行くことに当たるのだろう。 「この世との関係」は「感覚と直観」で一瞬に花となって結ぶが、忽ちにして花びらを散らして、川面に浮かべた花びらとともに流れていくのだ。「この世との関係」はあるようでありながら、ないようでもあり、おぼろげなものでしかないのだろう。執着することで、その執着するものを失ったときの痛手と悲哀とが身に染みついているからだろうか。 竹西寛子は谷崎潤一郎と川端とを比較して、谷崎を「日本の物語の直系」としているのに対して、川端を「小説の約束事は無視されて一見随筆風でもある」と指摘しているが、わたしは川端の小説に秘められた企みと構造性には舌を巻いている。 わたしが小説でやろうとしていることと密接に関連しているので、川端の不朽の名作『雪国』を例に説明してみたい
有名な冒頭の文、「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった」であるが、わたしはこれを「比喩」と捉えている。 いわゆる比喩ではない。 どうして「比喩」と見るかというと、「雪国」とは「非日常の世界」を表しているからだ。 トンネルとは「日常の世界」から「非日常の世界」へと通じている扉なのである。 「日常の世界」にあって、「非日常の世界」とはどんなものなのか、川端は書いている。 「これから会いにいく女をなまなましく覚えている、はっきりと思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の感触で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片目がはっきり浮き出たのだった。」 凄いとしかいいようのない仕掛けであり、これほど的確に、そして感覚的に「雪国」という「非日常」の世界を暗示はできないであろう。 「雪国の世界」とは、「はっきりと思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りな」い世界なのだ。 トンネルがこの文章では、「指の感触」に置き換わっている。それもエロチックであり、すこぶる感覚的だ。
「日常の世界」にあって、「雪国の世界」を生々しく、そして瑞々しく覚えているのは、つまり二つの世界を結んでいるのは「指の感触」なのである。記憶を超えた、感覚の息づく世界こそが「雪国の世界」なのだろう。 「雪国の世界」とは二重の世界でもある。
島村にとっては「非日常の世界」であるが、駒子と葉子にとっては「日常の世界」である。 駒子と葉子は、島村を「欲」で「日常の世界」へと引き摺り込もうとするが、島村は「もののあわれ」で、するりと駒子と葉子の欲という手から、すり抜けてしまうのである。 「日常の世界」に生きている駒子と葉子の「情」と、「非日常の世界」にいる島村の「情」とが、一つの「欲」となって絡み合うことはないのだ。たとえ身体が絡み合ったとしても、それは島村にとっては感覚の動きでしかなく「もののあわれ」的な世界(竹西寛子のいう「宙」)を生きているにすぎないのである。 「日常の世界」にいる駒子と葉子には、島村とはつかみ所がない綿毛のような存在にみえてしまうのだろう。何故ならば「非日常の世界」にあって、「もののあわれ」を生きており、「欲」としての存在ではないからだ。「日常の世界」にいる駒子と葉子から見たら薄情と映ることだろう。 島村は「雪国の世界」から、「日常の世界」へと戻る汽車のなかで、「雪国の世界」を回想して、 「いつでも忽ち放心状態に入り易い彼にとっては、あの夕景色の鏡や朝雪の鏡が、人工のものとは信じられなかった。自然のものであった。そして遠い世界であった」 と描いている。 小説「雪国」とは、「非日常の世界」のなかで「もののあわれ」を生きている島村の眼が捉えた世界を描き、「もののあわれ」を生きている島村と、「日常の世界」にあって「欲」を生きている駒子と葉子との、永遠に絡み合うことがない情の動きを描いているように思う。絡み合わないからこそ、島村の眼に映った駒子と葉子の切ないほどの美しさと艶やかさが浮き上がってくるのだろう。 川端の比喩は、まず大きな「雪国」という世界を作り、その世界のなかで、俳諧連歌的に感覚を飛翔させているのだと思える。単なる比喩ではない。そして、和歌の修辞法である「掛詞」的な色合いを出しているのだ。感覚的に関連させることで、次の描写に色を添える「枕詞」と「序詞」的な効果を生み出しているのかもしれない。だから奥が深く、高度なのだろう。
おそらく川端は技法として意識的に表現に反映させているのではないだろう。無意識にやっているのだ。『雪国』における二つの異なった世界という設定をして、その世界の対比と、永遠に結び合うことがない「情」と「情」との絡み合いと、「非日常の世界」だからこそ見えてくる一瞬の表情(人と自然と暮らしの風景)とを描こうとした、とわたしは推測しているのだが、もしかしたらこれさえも非作為的にやっているのかもしれない。
川端は「日常の世界」と「非日常の世界」との絡み合いを描いた。 わたしは世界観の違いによって見えてくる世界が違ったものになると思っているが、それを小説の中で表現したいと考えている。単なる視点の移動ではなく、違った世界観が絡み合ったらどうなるか、見えている世界が違うのだから、ちぐはぐな絡み合いになるだろうが、どんなものになるのか、それを描きたいと思っている。 川端は横光利一とともに新感覚派を旗揚げしたが、新感覚派とは私小説的な伝統に、「表現形式」で反旗を翻した文学運動である。私小説はあるがままの事実を小説に写し出そうと、主観的な装飾を排除した客観描写を基本としたが、新感覚派はそれを感覚的描写に置き換えたものにすぎない。
横光は志賀直哉に私淑していたのだが、だからこそ客観描写の極北である志賀の文体を超えることはできないと悟り、客観描写を捨てて、感覚的な主観描写を企てたのではないだろうか。しかし、それはあくまでも描写技法でしかなく、文学における「感覚」の意味を突き詰めたものではなかった。そればかりか、横光にいたっては客観描写を裏返したという意味での主観描写であったと、わたしはみている。 私淑していただけに、文体の核が志賀のものなのである。意識的にその呪縛から逃れようとしているから、よりそれが鮮やかになるのかもしれない。要は、志賀の文章に感覚的な形容詞やら比喩やらをねじ込んだのだと思う。そしてその肝心の感覚であるが、横光と川端とでは根本的に違っているといえるだろう。 川端の感覚は優れて日本的であり、感覚的認識が基本にあるのに対して、横光の感覚は人工的であり、優れて西欧的であるように思う。
晩年の横光は日本主義的な言動をしたが、横光が立っていたのは西欧近代主義の上であり、この日本主義とは国家主義的な色彩を帯びたものだったように感じている。そして、西欧的合理主義を裏返した日本的な精神主義へと傾斜するのだが、今まで縄文時代まで遡って見てきた日本的な心とは、似ても似つかぬものでしかないのではないだろうか。 三島由紀夫もまた横光的であり、いわゆる武士道とは日本人の心とは違うものだと思っている。これは武士という支配階級の道徳観であって、すぐれて儒教的な色彩の濃いものである。「切り捨て御免」をとってみても、とても民衆レベルで共有していた精神ではありえない。 武士道を美化するのは、西欧的ロマン主義に毒されているとしか思えないし、だからこそ、西欧人が武士道と侍に好奇の目を向け、それが高貴であり崇高なものをみる眼差しへと変わるのだろう。これほど西欧人に理解されやすいものはない。西欧にも騎士道がある。 この儒教的な匂いがする武士道に対して、「神さびる」といった日本的な感覚認識にいたっては、西欧人には想像するのは難しいのではないだろうか。 しかし、これこそが日本的な心の核的なものであり、精神性に通じたものなのだ。 だからこそ小泉八雲は只者ではないといえるが、西欧人でも「交感の場」は生きられるという証でもある。里山へと引き寄せられる西欧人の心に通じているのだろう。 川端は思想音痴であり、三島の思想を理解していなかっただろうし、横光の日本的精神主義も無理解だったと推察するが、川端と三島とは感覚も精神構造も違っており、また横光とも違っていたと考えている。但し、政治とはそうしたものとは無関係なので、政治的な姿勢は同じだとしても何ら不思議ではないのである。 https://blogs.yahoo.co.jp/azuminonoyume/32135156.html ▲△▽▼ 異界の女性に魅せられた男の運命は… 802:tky10-p121.flets.hi-ho.ne.jp:2011/01/22(土) 22:33:30.90 0
川端康成の「雪国」は死後の世界 みんな幽霊という設定 803:tky10-p121.flets.hi-ho.ne.jp:2011/01/22(土) 22:35:37.56 0
ちなみに千と千尋も死後の世界だね トンネル抜けるとそこは黄泉の国ということ http://2chnull.info/r/morningcoffee/1295616090/1-1001 講演の中で、奥野健男は川端康成の「雪国」に触れ、実際に川端康成と話したときのことを語ってくれた。 川端によると「雪国」というのは「黄泉の国」で、いわゆるあの世であるらしい。 「雪国」があの世であるというのは何となくわかる気がする。島村はこの世とあの世を交互に行き交い、あの世で駒子と会うのである。駒子とはあの世でしか会えないし、この世にくることはない。島村と駒子をつなぐ糸は島村の左手の人差指である。島村が駒子に会いにくるのも1年おきぐらいというのも天の川伝説以外に何かを象徴しているのだろうか。
とてつもなく哀しく、美しい声をもつ葉子はさしずめ神の言葉を語る巫女なのか。その巫女の語る言葉に島村は敏感に反応するのだ。もしかしたら葉子は神の使いなのかもしれない。 駒子は葉子に対して「あの人は気違いになる」というのは、葉子が神性を帯びているからではないのか。 日本人とって、あの世とは無の世界ではない。誰もが帰るべき、なつかしい世界である。あいまいな小説「雪国」がなぜか私になつかしい思いをさせるのはやはり「雪国」が黄泉の国だからなのだろうか。 http://www.w-kohno.co.jp/contents/book/kawabata.html 川端は代表作雪国でトンネルを効果的に使っているが、1953年4月に発表された小説『無言』でも現世とあの世をつなぐ隠喩として名越隧道をうまく使っている。
なお、川端が自殺した逗子マリーナには、車で鎌倉から一つ目の名越隧道と二つ目の逗子隧道を抜けてすぐ右折し5分程度の距離にある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E8%B6%8A%E9%9A%A7%E9%81%93 http://blog.livedoor.jp/aotuka202/archives/51017908.html 川端康成 『片腕』 「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」
と娘は言った。そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた。 「ありがとう。」と私は膝を見た。娘の右腕のあたたかさが膝に伝わった。 「あ、指輪をはめておきますわ。あたしの腕ですというしるしにね。」 と娘は笑顔で左手を私の胸の前にあげた。「おねがい……。」 左片腕になった娘は指輪を抜き取ることがむずかしい。
「婚約指輪じゃないの?」と私は言った。 「そうじゃないの。母の形見なの。」 小粒のダイヤをいくつかならべた白金の指輪であった。 「あたしの婚約指輪と見られるでしょうけれど、それでもいいと思って、はめているんです。」と娘は言った。 「いったんこうして指につけると、はずすのは、母と離れてしまうようでさびしいんです。」 私は娘の指から指輪を抜き取った。そして私の膝の上にある娘の腕を立てると、紅差し指にその指輪をはめながら、「この指でいいね?」 「ええ。」と娘はうなずいた。 「そうだわ。肘や指の関節がまがらないと、突っ張ったままでは、せっかくお持ちいただいても、義手みたいで味気ないでしょう。動くようにしておきますわ。」 そう言うと、私の手から自分の右腕を取って、肘に軽く唇をつけた。指のふしぶしにも軽く唇をあてた。 「これで動きますわ。」 「ありがとう。」私は娘の片腕を受け取った。 「この腕、ものも言うかしら? 話をしてくれるかしら?」
「腕は腕だけのことしか出来ないでしょう。
もし腕がものを言うようになったら、返していただいた後で、あたしがこわいじゃありませんの。でも、おためしになってみて……。 やさしくしてやっていただけば、お話を聞くぐらいのことはできるかもしれませんわ。」 「やさしくするよ。」 「行っておいで。」と娘は心を移すように、私が持った娘の右腕に左手の指を触れた。 「一晩だけれど、このお方のものになるのよ。」 そして私を見る娘の目は涙が浮ぶのをこらえているようであった。 「お持ち帰りになったら、あたしの右腕を、あなたの右腕と、つけ替えてごらんになるようなことを……。」 と娘は言った。「なさってみてもいいわ。」 「ああ、ありがとう。」 私は娘の右腕を雨外套のなかにかくして、もやの垂れこめた夜の町を歩いた。電車やタクシイに乗れば、あやしまれそうに思えた。娘のからだを離された腕がもし泣いたり、声を出したりしたら、騒ぎである。 私は娘の腕のつけ根の円みを、右手で握って、左の胸にあてがっていた。その上を雨外套でかくしているわけだが、ときどき、左手で雨外套をさわって娘の腕をたしかめてみないではいられなかった。それは娘の腕をたしかめるのではなくて、私のよろこびをたしかめるしぐさであっただろう。 娘は私の好きなところから自分の腕をはずしてくれていた。腕のつけ根であるか、肩のはしであるか、そこにぷっくりと円みがある。西洋の美しい細身の娘にある円みで、日本の娘には稀れである。それがこの娘にはあった。ほのぼのとういういしい光りの球形のように、清純で優雅な円みである。娘が純潔を失うと間もなくその円みの愛らしさも鈍ってしまう。たるんでしまう。美しい娘の人生にとっても、短いあいだの美しい円みである。それがこの娘にはあった。 肩のこの可憐な円みから娘のからだの可憐なすべてが感じられる。胸の円みもそう大きくなく、手のひらにはいって、はにかみながら吸いつくような固さ、やわらかさだろう。娘の肩の円みを見ていると、私には娘の歩く脚も見えた。細身の小鳥の軽やかな足のように、蝶が花から花へ移るように、娘は足を運ぶだろう。そのようにこまかな旋律は接吻する舌のさきにもあるだろう。 袖なしの女服になる季節で、娘の肩は出たばかりであった。あらわに空気と触れることにまだなれていない肌の色であった。春のあいだにかくれながらうるおって、夏に荒れる前のつぼみのつやであった。私はその日の朝、花屋で泰山木のつぼみを買ってガラスびんに入れておいたが、娘の肩の円みはその泰山木の白く大きいつぼみのようであった。娘の服は袖がないというよりなお首の方にくり取ってあった。腕のつけ根の肩はほどよく出ていた。服は黒っぽいほど濃い青の絹で、やわらかい照りがあった。このような円みの肩にある娘は背にふくらみがある。撫で肩のその円みが背のふくらみとゆるやかな波を描いている。やや斜めのうしろから見ると、肩の円みから細く長めな首をたどる肌が掻きあげた襟髪でくっきり切れて、黒い髪が肩の円みに光る影を映しているようであった。
こんな風に私がきれいと思うのを娘は感じていたらしく、肩の円みをつけたところから右腕をはずして、私に貸してくれたのだった。 雨外套のなかでだいじに握っている娘の腕は、私の手よりも冷たかった。心おどりに上気している私は手も熱いのだろうが、その火照りが娘の腕に移らぬことを私はねがった。娘の腕は娘の静かな体温のままであってほしかった。また手のなかのものの少しの冷たさは、そのもののいとしさを私に伝えた。人にさわられたことのない娘の乳房のようであった。 雨もよいの夜のもやは濃くなって、帽子のない私の頭の髪がしめって来た。表戸をとざした薬屋の奥からラジオが聞えて、ただ今、旅客機が三機もやのために着陸出来なくて、飛行場の上を三十分も旋回しているとの放送だった。こういう夜は湿気で時計が狂うからと、ラジオはつづいて各家庭の注意をうながしていた。またこんな夜に時計のぜんまいをぎりぎりいっぱいに巻くと湿気で切れやすいと、ラジオは言っていた。私は旋回している飛行機の灯が見えるかと空を見あげたが見えなかった。空はありはしない。たれこめた湿気が耳にまではいって、たくさんのみみずが遠くに這うようなしめった音がしそうだ。ラジオはなおなにかの警告を聴取者に与えるかしらと、私は薬屋の前に立っていると、動物園のライオンや虎や豹などの猛獣が湿気を憤って吠える、それを聞かせるとのことで、動物のうなり声が地鳴りのようにひびいて来た。 ラジオはそのあとで、こういう夜は、妊婦や厭世家などは、早く寝床へはいって静かに休んでいて下さいと言った。またこういう夜は、婦人は香水をじかに肌につけると匂いがしみこんで取れなくなりますと言った。 猛獣のうなり声が聞えた時に、私は薬屋の前から歩き出していたが、香水についての注意まで、ラジオは私を追って来た。猛獣たちが憤るうなりは私をおびやかしたので、娘の腕にもおそれが伝わりはしないかと、私は薬屋のラジオの声を離れたのであった。娘は妊婦でも厭世家でもないけれども、私に片腕を貸してくれて片腕になった今夜は、やはりラジオの注意のように、寝床で静かに横たわっているのがいいだろうと、私には思われた。片腕の母体である娘が安らかに眠っていてくれることをのぞんだ。
通りを横切るのに、私は左手で雨外套の上から娘の腕をおさえた。車の警笛が鳴った。脇腹に動くものがあって私は身をよじった。娘の腕が警笛におびえてか指を握りしめたのだった。 「心配ないよ。」と私は言った。 「車は遠いよ。見通しがきかないので鳴らしているだけだよ。」 私はだいじなものをかかえているので、道のあとさきをよく見渡してから横切っていたのである。その警笛も私のために鳴らされたとは思わなかったほどだが、車の来る方をながめると人影はなかった。その車は見えなくて、ヘッド・ライトだけが見えた。その光りはぼやけてひろがって薄むらさきであった。めずらしいヘッド・ライトの色だから、私は道を渡ったところに立って、車の通るのをながめた。 朱色の服の若い女が運転していた。女は私の方を向いて頭をさげたようである。とっさに私は娘が右腕を取り返しに来たのかと、背を向けて逃げ出しそうになったが、左の片腕だけで運転出来るはずはない。しかし車の女は私が娘の片腕をかかえていると見やぶったのではなかろうか。娘の腕と同性の女の勘である。私の部屋へ帰るまで女には出会わぬように気をつけなければなるまい。女の車はうしろのライトも薄むらさきであった。やはり車体は見えなくて、灰色のもやのなかを、薄むらさきの光りがぼうっと浮いて遠ざかった。 「あの女はなんのあてもなく車を走らせて、ただ車を走らせるために走らせずにはいられなくて、走らせているうちに、姿が消えてなくなってしまうのじゃないかしら……。」と私はつぶやいた。
「あの車、女のうしろの席にはなにが坐っていたのだろう。」 なにも坐っていなかったようだ。なにも坐っていないのを不気味に感じるのは、私が娘の片腕をかかえていたりするからだろうか。あの女の車にもしめっぽい夜のもやは乗せていた。そして女のなにかが車の光りのさすもやを薄むらさきにしていた。女のからだが紫色の光りを放つことなどあるまいとすると、なにだったのだろうか。こういう夜にひとりで車を走らせている若い女が虚しいものに思えたりするのも、私のかくし持った娘の腕のせいだろうか。 女は車のなかから娘の片腕に会釈したのだったろうか。こういう夜には、女性の安全を見まわって歩く天使か妖精があるのかもしれない。あの若い女は車に乗っていたのではなくて、紫の光りに乗っていたのかもしれない。虚しいどころではない。私の秘密を見すかして行った。 しかしそれからは一人の人間にも行き会わないで、私はアパアトメントの入口に帰りついた。扉のなかのけはいをうかがって立ちどまった。頭の上に蛍火が飛んで消えた。蛍の火にしては大き過ぎ強過ぎると気がつくと、私はとっさに四五歩後ずさりしていた。また蛍のような火が二つ三つ飛び流れた。その火は濃いもやに吸いこまれるよりも早く消えてしまう。人魂か鬼火のようになにものかが私の先きまわりをして、帰りを待ちかまえているのか。しかしそれが小さい蛾の群れであるとすぐにわかった。蛾のつばさが入口の電灯の光りを受けて蛍火のように光るのだった。蛍火よりは大きいけれども、蛍火と見まがうほどに蛾としては小さかった。
私は自動のエレベエタアも避けて、狭い階段をひっそり三階へあがった。左利きでない私は、右手を雨外套のなかに入れたまま左手で扉の鍵をあけるのは慣れていない。気がせくとなお手先きがふるえて、それが犯罪のおののきに似て来ないか。部屋のなかになにかがいそうに思える。私のいつも孤独の部屋であるが、孤独ということは、なにかがいることではないのか。娘の片腕と帰った今夜は、ついぞなく私は孤独ではないが、そうすると、部屋にこもっている私の孤独が私をおびやかすのだった。 「先きにはいっておくれよ。」
私はやっと扉が開くと言って、娘の片腕を雨外套のなかから出した。 「よく来てくれたね。これが僕の部屋だ。明りをつける。」 「なにかこわがっていらっしゃるの?」 と娘の腕は言ったようだった。 「だれかいるの?」 「ええっ? なにかいそうに思えるの?」 「匂いがするわ。」 「匂いね? 僕の匂いだろう。暗がりに僕の大きい影が薄ぼんやり立っていやしないか。よく見てくれよ。僕の影が僕の帰りを待っていたのかもしれない。」 「あまい匂いですのよ。」 「ああ、泰山木の花の匂いだよ。」 と私は明るく言った。私の不潔で陰湿な孤独の匂いでなくてよかった。泰山木のつぼみを生けておいたのは、可憐な客を迎えるのに幸いだった。私は闇に少し目がなれた。真暗だったところで、どこになにがあるかは、毎晩のなじみでわかっている。 「あたしに明りをつけさせて下さい。」 娘の腕が思いがけないことを言った。 「はじめてうかがったお部屋ですもの。」 「どうぞ。それはありがたい。僕以外のものがこの部屋の明りをつけてくれるのは、まったくはじめてだ。」 私は娘の片腕を持って、手先きが扉の横のスイッチにとどくようにした。天井の下と、テエブルの上と、ベッドの枕もとと、台所と、洗面所のなかと、五つの電灯がいち時についた。私の部屋の電灯はこれほど明るかったのかと、私の目は新しく感じた。
ガラスびんの泰山木が大きい花をいっぱいに開いていた。今朝はつぼみであった。開いて間もないはずなのに、テエブルの上にしべを落ち散らばらせていた。それが私はふしぎで、白い花よりもこぼれたしべをながめた。しべを一つ二つつまんでながめていると、テエブルの上においた娘の腕が指を尺取虫のように伸び縮みさせて動いて来て、しべを拾い集めた。私は娘の手のなかのしべを受け取ると、屑籠へ捨てに立って行った。 「きついお花の匂いが肌にしみるわ。助けて……。」 と娘の腕が私を呼んだ。 「ああ。ここへ来る道で窮屈な目にあわせて、くたびれただろう。しばらく静かにやすみなさい。」
とベッドの上に娘の腕を横たえて、私もそばに腰をかけた。そして娘の腕をやわらかくなでた。 「きれいで、うれしいわ。」
娘の腕がきれいと言ったのは、ベッド・カバアのことだろう。水色の地に三色の花模様があった。孤独の男には派手過ぎるだろう。 「このなかで今晩おとまりするのね。おとなしくしていますわ。」 「そう?」 「おそばに寄りそって、おそばになんにもいないようにしてますわ。」 そして娘の手がそっと私の手を握った。娘の指の爪はきれいにみがいて薄い石竹色に染めてあるのを私は見た。指さきより長く爪はのばしてあった。 私の短くて幅広くて、そして厚ごわい爪に寄り添うと、娘の爪は人間の爪でないかのように、ふしぎな形の美しさである。女はこんな指の先きでも、人間であることを超克しようとしているのか。あるいは、女であることを追究しようとしているのか。 うち側のあやに光る貝殻、つやのただよう花びらなどと、月並みな形容が浮んだものの、たしかに娘の爪に色と形の似た貝殻や花びらは、今私には浮んで来なくて、娘の手の指の爪は娘の手の指の爪でしかなかった。脆く小さい貝殻や薄く小さい花びらよりも、この爪の方が透き通るように見える。そしてなによりも、悲劇の露と思える。娘は日ごと夜ごと、女の悲劇の美をみがくことに丹精をこめて来た。それが私の孤独にしみる。私の孤独が娘の爪にしたたって、悲劇の露とするのかもしれない。 私は娘の手に握られていない方の手の、人差し指に娘の小指をのせて、その細長い爪を親指の腹でさすりながら見入っていた。いつとなく私の人差し指は娘の爪の廂(ひさし)にかくれた、小指のさきにふれた。ぴくっと娘の指が縮まった。肘もまがった。 「あっ、くすぐったいの?」 と私は娘の片腕に言った。 「くすぐったいんだね。」 うかつなことをつい口に出したものである。爪を長くのばした女の指さきはくすぐったいものと、私は知っている、つまり私はこの娘のほかの女をかなりよく知っていると、娘の片腕に知らせてしまったわけである。 私にこの片腕を一晩貸してくれた娘にくらべて、ただ年上と言うより、もはや男に慣れたと言う方がよさそうな女から、このような爪にかくれた指さきはくすぐったいのを、私は前に聞かされたことがあったのだ。長い爪のさきでものにさわるのが習わしになっていて、指さきではさわらないので、なにかが触れるとくすぐったいと、その女は言った。 「ふうん。」私は思わぬ発見におどろくと、女はつづけて、 「食べものごしらえでも、食べるものでも、なにかちょっと指さきにさわると、あっ、不潔っと、肩までふるえが来ちゃうの。そうなのよ、ほんとうに……。」 不潔とは、食べものが不潔になるというのか、爪さきが不潔になるというのか。おそらく、指さきになにがさわっても、女は不潔感にわななくのであろう。女の純潔の悲劇の露が、長い爪の陰にまもられて、指さきにひとしずく残っている。 女の手の指さきをさわりたくなった、誘惑は自然であったけれども、私はそれだけはしなかった。私自身の孤独がそれを拒んだ。からだの、どこかにさわられてもくすぐったいところは、もうほとんどなくなっているような女であった。 片腕を貸してくれた娘には、さわられてくすぐったいところが、からだじゅうにあまたあるだろう。そういう娘の手の指さきをくすぐっても、私は罪悪とは思わなくて、愛玩と思えるかもしれない。しかし娘は私にいたずらをさせるために、片腕を貸してくれたのではあるまい。私が喜劇にしてはいけない。 「窓があいている。」と私は気がついた。ガラス戸はしまっているが、カアテンがあいている。 「なにかがのぞくの?」 と娘の片腕が言った。 「のぞくとしたら、人間だね。」 「人間がのぞいても、あたしのことは見えないわ。のぞき見するものがあるとしたら、あなたの御自分でしょう。」 「自分……? 自分てなんだ。自分はどこにあるの?」 「自分は遠くにあるの。」 と娘の片腕はなぐさめの歌のように、 「遠くの自分をもとめて、人間は歩いてゆくのよ。」 「行き着けるの?」 「自分は遠くにあるのよ。」 娘の腕はくりかえした。 ふと私には、この片腕とその母体の娘とは無限の遠さにあるかのように感じられた。この片腕は遠い母体のところまで、はたして帰り着けるのだろうか。私はこの片腕を遠い娘のところまで、はたして返しに行き着けるのだろうか。娘の片腕が私を信じて安らかなように、母体の娘も私を信じてもう安らかに眠っているだろうか。右腕のなくなったための違和、また凶夢はないか。娘は右腕に別れる時、目に涙が浮ぶのをこらえていたようではなかったか。片腕は今私の部屋に来ているが、娘はまだ来たことがない。
窓ガラスは湿気に濡れ曇っていて、蟾蜍の腹皮を張ったようだ。霧雨を空中に静止させたようなもやで、窓のそとの夜は距離を失い、無限の距離につつまれていた。家の屋根も見えないし、車の警笛も聞えない。 「窓をしめる。」と私はカアテンを引こうとすると、カアテンもしめっていた。窓ガラスに私の顔がうつっていた。私のいつもの顔より若いかに見えた。しかし私はカアテンを引く手をとどめなかった。私の顔は消えた。 ある時、あるホテルで見た、九階の客室の窓がふと私の心に浮んだ。裾のひらいた赤い服の幼い女の子が二人、窓にあがって遊んでいた。同じ服の同じような子だから、ふた子かもしれなかった。西洋人の子どもだった。二人の幼い子は窓ガラスを握りこぶしでたたいたり、窓ガラスに肩を打ちつけたり、相手を押し合ったりしていた。母親は窓に背を向けて、編みものをしていた。窓の大きい一枚ガラスがもしわれるかはずれかしたら、幼い子は九階から落ちて死ぬ。あぶないと見たのは私で、二人の子もその母親もまったく無心であった。しっかりした窓ガラスに危険はないのだった。 カアテンを引き終って振り向くと、ベッドの上から娘の片腕が、 「きれいなの。」 と言った。カアテンがベッド・カバアと同じ花模様の布だからだろう。 「そう? 日にあたって色がさめた。もうくたびれているんだよ。」 私はベッドに腰かけて、娘の片腕を膝にのせた。 「きれいなのは、これだな。こんなきれいなものはないね。」 そして、私は右手で娘のたなごころと握り合わせ、左手で娘の腕のつけ根を持って、ゆっくりとその腕の肘をまげてみたり、のばしてみたりした。くりかえした。 「いたずらっ子ねえ。」
と娘の片腕はやさしくほほえむように言った。 「こんなことなさって、おもしろいの?」 「いたずらなもんか。おもしろいどころじゃない。」 ほんとうに娘の腕には、ほほえみが浮んで、そのほほえみは光りのように腕の肌をゆらめき流れた。娘の頬のみずみずしいほほえみとそっくりであった。 私は見て知っている。娘はテエブルに両肘を突いて、両手の指を浅く重ねた上に、あごをのせ、また片頬をおいたことがあった。若い娘としては品のよくない姿のはずだが、突くとか重ねるとか置くとかいう言葉はふさわしくない、軽やかな愛らしさである。腕のつけ根の円みから、手の指、あご、頬、耳、細長い首、そして髪までが一つになって、楽曲のきれいなハアモニイである。
娘はナイフやフォウクを上手に使いながら、それを握った指のうちの人差し指と小指とを、折り曲げたまま、ときどき無心にほんの少し上にあげる。食べものを小さい唇に入れ、噛んで、呑みこむ、この動きも人間がものを食っている感じではなくて、手と顔と咽とが愛らしい音楽をかなでていた。娘のほほえみは腕の肌にも照り流れるのだった。 娘の片腕がほほえむと見えたのは、その肘を私がまげたりのばしたりするにつれて、娘の細く張りしまった腕の筋肉が微妙な波に息づくので、微妙な光りとかげとが腕の白くなめらかな肌を移り流れるからだ。さっき、私の指が娘の長い爪のかげの指さきにふれて、ぴくっと娘の腕が肘を折り縮めた時、その腕に光りがきらめき走って、私の目を射たものだった。それで私は娘の肘をまげてみているので、決していたずらではなかった。肘をまげ動かすのを、私はやめて、のばしたままじっと膝においてながめても、娘の腕にはういういしい光りとかげとがあった。
「おもしろいいたずらと言うなら、僕の右腕とつけかえてみてもいいって、ゆるしを受けて来たの、知ってる?」
と私は言った。 「知ってますわ。」と娘の右腕は答えた。
「それだっていたずらじゃないんだ。僕は、なんかこわいね。」 「そう?」 「そんなことしてもいいの」 「いいわ」 「…………。」 私は娘の腕の声を、はてなと耳に入れて、 「いいわ、って、もう一度……。」 「いいわ。いいわ。」 私は思い出した。私に身をまかせようと覚悟をきめた、ある娘の声に似ているのだ。片腕を貸してくれた娘ほどには、その娘は美しくなかった。そして異常であったかもしれない。
「いいわ。」 とその娘は目をあけたまま私を見つめた。私は娘の上目ぶたをさすって、閉じさせようとした。娘はふるえ声で言った。 「(イエスは涙をお流しになりました。《ああ、なんと、彼女を愛しておいでになったことか。》とユダヤ人たちは言いました。)」
「…………。」 「彼女」は「彼」の誤りである。死んだラザロのことである。女である娘は「彼」を「彼女」とまちがえておぼえていたのか、あるいは知っていて、わざと「彼女」と言い変えたのか。
私は娘のこの場にあるまじい、唐突で奇怪な言葉に、あっけにとられた。娘のつぶった目ぶたから涙が流れ出るかと、私は息をつめて見た。 娘は目をあいて胸を起こした。その胸を私の腕が突き落とした。 「いたいっ。」 と娘は頭のうしろに手をやった。 「いたいわ。」 白いまくらに血が小さくついていた。私は娘の髪をかきわけてさぐった。血のしずくがふくらみ出ているのに、私は口をつけた。 「いいのよ。血はすぐ出るのよ、ちょっとしたことで。」 娘は毛ピンをみな抜いた。毛ピンが頭に刺さったのであった。 娘は肩が痙攣しそうにしてこらえた。 私は女の身をまかせる気もちがわかっているようながら、納得しかねるものがある。身をまかせるのをどんなことと、女は思っているのだろうか。自分からそれを望み、あるいは自分から進んで身をまかせるのは、なぜなのだろうか。女のからだはすべてそういう風にできていると、私は知ってからも信じかねた。この年になっても、私はふしぎでならない。そしてまた、女のからだと身をまかせようとは、ひとりひとりちがうと思えばちがうし、似ていると思えば似ているし、みなおなじと思えばおなじである。これも大きいふしぎではないか。私のこんなふしぎがりようは、年よりもよほど幼い憧憬かもしれないし、年よりも老けた失望かもしれない。心のびっこではないだろうか。 その娘のような苦痛が、身をまかせるすべての女にいつもあるものではなかった。その娘にしてもあの時きりであった。銀のひもは切れ、金の皿はくだけた。 「いいわ。」と娘の片腕の言ったのが、私にその娘を思い出させたのだけれども、片腕のその声とその娘の声とは、はたして似ているのだろうか。おなじ言葉を言ったので、似ているように聞えたのではなかったか。おなじ言葉を言ったにしても、それだけが母体を離れて来た片腕は、その娘とちがって自由なのではないか。またこれこそ身をまかせたというもので、片腕は自制も責任も悔恨もなくて、なんでも出来るのではないか。しかし、「いいわ。」と言う通りに、娘の右腕を私の右腕とつけかえたりしたら、母体の娘は異様な苦痛におそわれそうにも、私には思えた。 私は膝においた娘の片腕をながめつづけていた。肘の内側にほのかな光りのかげがあった。それは吸えそうであった。私は娘の腕をほんの少しまげて、その光りのかげをためると、それを持ちあげて、唇をあてて吸った。 「くすぐったいわ。いたずらねえ。」
と娘の腕は言って、唇をのがれるように、私の首に抱きついた。 「いいものを飲んでいたのに……。」と私は言った。 「なにをお飲みになったの?」 「…………。」 「なにをお飲みになったの?」 「光りの匂いかな、肌の。」 そとのもやはなお濃くなっているらしく、花びんの泰山木の葉までしめらせて来るようであった。ラジオはどんな警告を出しているだろう。私はベッドから立って、テエブルの上の小型ラジオの方に歩きかけたがやめた。娘の片腕に首を抱かれてラジオを聞くのはよけいだ。しかし、ラジオはこんなことを言っているように思われた。たちの悪い湿気で木の枝が濡れ、小鳥のつばさや足も濡れ、小鳥たちはすべり落ちていて飛べないから、公園などを通る車は小鳥をひかぬように気をつけてほしい。もしなまあたたかい風が出ると、もやの色が変るかもしれない。色の変ったもやは有害で、それが桃色になったり紫色になったりすれば、外出はひかえて、戸じまりをしっかりしなければならない。
「もやの色が変る? 桃色か紫色に?」
と私はつぶやいて、窓のカアテンをつまむと、そとをのぞいた。もやがむなしい重みで押しかかって来るようであった。夜の暗さとはちがう薄暗さが動いているようなのは、風が出たのであろうか。もやの厚みは無限の距離がありそうだが、その向うにはなにかすさまじいものが渦巻いていそうだった。 さっき、娘の右腕を借りて帰る道で、朱色の服の女の車が、前にもうしろにも、薄むらさきの光りをもやのなかに浮べて通ったのを、私は思い出した。紫色であった。もやのなかからぼうっと大きく薄むらさきの目玉が追って来そうで、私はあわててカアテンをはなした。 「寝ようか。僕らも寝ようか。」
この世に起きている人はひとりもないようなけはいだった。こんな夜に起きているのはおそろしいことのようだ。 私は首から娘の腕をはずしてテエブルにおくと、新しい寝間着に着かえた。寝間着はゆかたであった。娘の片腕は私が着かえるのを見ていた。私は見られているはにかみを感じた。この自分の部屋で寝間着に着かえるところを女に見られたことはなかった。 娘の片腕をかかえて、私はベッドにはいった。娘の腕の方を向いて、胸寄りにその指を軽く握った。娘の腕はじっとしていた。 小雨のような音がまばらに聞えた。もやが雨に変ったのではなく、もやがしずくになって落ちるのか、かすかな音であった。 娘の片腕は毛布のなかで、また指が私の手のひらのなかで、あたたまって来るのが私にわかったが、私の体温にはまだとどかなくて、それが私にはいかにも静かな感じであった。 「眠ったの?」 「いいえ。」と娘の腕は答えた。 「動かないから、眠っているのかと思った。」 私はゆかたをひらいて、娘の腕を胸につけた。あたたかさのちがいが胸にしみた。むし暑いようで底冷たいような夜に、娘の腕の肌ざわりはこころよかった。 部屋の電灯はみなついたままだった。ベッドにはいる時消すのを忘れた。
「そうだ。明りが……。」と起きあがると、私の胸から娘の片腕が落ちた。 「あ。」私は腕を拾い持って、 「明りを消してくれる?」 そして扉へ歩きながら、
「暗くして眠るの? 明りをつけたまま眠るの?」 「…………。」 娘の片腕は答えなかった。腕は知らぬはずはないのに、なぜ答えないのか。私は娘の夜の癖を知らない。明りをつけたままで眠っているその娘、また暗がりのなかで眠っているその娘を、私は思い浮べた。右腕のなくなった今夜は、明るいままにして眠っていそうである。私も明りをなくするのがふと惜しまれた。もっと娘の片腕をながめていたい。先きに眠った娘の腕を、私が起きていてみたい。しかし娘の腕は扉の横のスイッチを切る形に指をのばしていた。
闇のなかを私はベッドにもどって横たわった。娘の片腕を胸の横に添い寝させた。腕の眠るのを待つように、じっとだまっていた。娘の腕はそれがもの足りないのか、闇がこわいのか、手のひらを私の胸の脇にあてていたが、やがて五本の指を歩かせて私の胸の上にのぼって来た。おのずと肘がまがって私の胸に抱きすがる恰好になった。 娘のその片腕は可愛い脈を打っていた。娘の手首は私の心臓の上にあって、脈は私の鼓動とひびき合った。娘の腕の脈の方が少しゆっくりだったが、やがて私の心臓の鼓動とまったく一致して来た。私は自分の鼓動しか感じなくなった。どちらが早くなったのか、どちらがおそくなったのかわからない。 手首の脈搏と心臓の鼓動とのこの一致は、今が娘の右腕と私の右腕とをつけかえてみる、そのために与えられた短い時なのかもしれぬ。いや、ただ娘の腕が寝入ったというしるしであろうか。失心する狂喜に酔わされるよりも、そのひとのそばで安心して眠れるのが女はしあわせだと、女が言うのを私は聞いたことがあるけれども、この娘の片腕のように安らかに私に添い寝した女はなかった。 娘の脈打つ手首がのっているので、私は自分の心臓の鼓動を意識する。それが一つ打って次のを打つ、そのあいだに、なにかが遠い距離を素早く行ってはもどって来るかと私には感じられた。そんな風に鼓動を聞きつづけるにつれて、その距離はいよいよ遠くなりまさるようだ。そしてどこまで遠く行っても、無限の遠くに行っても、その行くさきにはなんにもなかった。なにかにとどいてもどって来るのではない。次ぎに打つ鼓動がはっと呼びかえすのだ。こわいはずだがこわさはなかった。しかし私は枕もとのスイッチをさぐった。 けれども、明りをつける前に、毛布をそっとまくってみた。娘の片腕は知らないで眠っていた。はだけた私の胸をほの白くやさしい微光が巻いていた。私の胸からぽうっと浮び出た光りのようであった。私の胸からそれは小さい日があたたかくのぼる前の光りのようであった。 私は明りをつけた。娘の腕を胸からはなすと、私は両方の手をその腕のつけ根と指にかけて、真直ぐにのばした。五燭の弱い光りが、娘の片腕のその円みと光りのかげとの波をやわらかくした。つけ根の円み、そこから細まって二の腕のふくらみ、また細まって肘のきれいな円み、肘の内がわのほのかなくぼみ、そして手首へ細まってゆく円いふくらみ、手の裏と表から指、私は娘の片腕を静かに廻しながら、それにゆらめく光とかげの移りをながめつづけていた。 「これはもうもらっておこう。」とつぶやいたのも気がつかなかった。 そして、うっとりとしているあいだのことで、自分の右腕を肩からはずして娘の右腕を肩につけかえたのも、私はわからなかった。 「ああっ。」という小さい叫びは、娘の腕の声だったか私の声だったか、とつぜん私の肩に痙攣が伝わって、私は右腕のつけかわっているのを知った。 娘の片腕はミミ今は私の腕なのだが、ふるえて空をつかんだ。私はその腕を曲げて口に近づけながら、 「痛いの? 苦しいの?」
「いいえ。そうじやない。そうじやないの。」 とその腕が切れ切れに早く言ったとたんに、戦慄の稲妻が私をつらぬいた。私はその腕の指を口にくわえていた。 「…………。」 よろこびを私はなんと言ったか、娘の指が舌にさわるだけで、言葉にはならなかった。 「いいわ。」 と娘の腕は答えた。ふるえは勿論とまっていた。 「そう言われて来たんですもの。でも……。」 私は不意に気がついた。私の口は娘の指を感じられるが、娘の右腕の指、つまり私の右腕の指は私の唇や歯を感じられない。私はあわてて右腕を振ってみたが、腕を振った感じはない。肩のはし、腕のつけ根に、遮断があり、拒絶がある。 「血が通わない。」と私は口走った。 「血が通うのか、通わないのか。」 恐怖が私をおそった。私はベッドに坐っていた。かたわらに私の片腕が落ちている。それが目にはいった。自分をはなれた自分の腕はみにくい腕だ。それよりもその腕の脈はとまっていないか。娘の片腕はあたたかく脈を打っていたが、私の右腕は冷えこわばってゆきそうに見えた。私は肩についた娘の右腕で自分の右腕を握った。握ることは出来たが、握った感覚はなかった。
「脈はある?」と私は娘の右腕に聞いた。 「冷たくなってない?」 「少うし……。あたしよりほんの少うしね。」 と娘の片腕は答えた。 「あたしが熱くなったからよ。」 娘の片腕が「あたし」という一人称を使った。私の肩につけられて、私の右腕となった今、はじめて自分のことを「あたし」と言ったようなひびきを、私の耳は受けた。
「脈も消えてないね?」と私はまた聞いた。 「いやあね。お信じになれないのかしら……?」 「なにを信じるの?」 「御自分の腕をあたしと、つけかえなさったじゃありませんの?」 「だけど血が通うの?」 「(女よ、誰をさがしているのか。)というの、ごぞんじ?」 「知ってるよ。(女よ、なぜ泣いているのか。誰をさがしているのか。)」 「あたしは夜なかに夢を見て目がさめると、この言葉をよくささやいているの。」 今「あたし」と言ったのは、もちろん、私の右肩についた愛らしい腕の母体のことにちがいない。聖書のこの言葉は、永遠の場で言われた、永遠の声のように、私は思えて来た。
「夢にうなされてないかしら、寝苦しくて……。」 と私は片腕の母体のことを言った。 「そとは悪魔の群れがさまようためのような、もやだ。しかし悪魔だって、からだがしっけて、咳をしそうだ。」 「悪魔の咳なんか聞えませんように……。」 と娘の右腕は私の右腕を握ったまま、私の右の耳をふさいだ。 娘の右腕は、じつは今私の右腕なのだが、それを動かしたのは、私ではなくて、娘の腕のこころのようであった。いや、そう言えるほどの分離はない。 「脈、脈の音……。」
私の耳は私自身の右腕の脈を聞いた。娘の腕は私の右腕を握ったまま耳へ来たので、私の手首が耳に押しつけられたわけだった。私の右腕には体温もあった。娘の腕が言った通りに、私の耳や娘の指よりは少うし冷たい。 「魔よけしてあげる……。」
といたずらっぽく、娘の小指の小さく長い爪が私の耳のなかをかすかに掻いた。私は首を振って避けた。左手、これはほんとうの私の手で、私の右の手首、じつは娘の右の手首をつかまえた。そして顔をのけぞらせた私に、娘の小指が目についた。 娘の手は四本の指で、私の肩からはずした右腕を握っていた。小指だけは遊ばせているとでもいうか、手の甲の方にそらせて、その爪の先きを軽く私の右腕に触れていた。しなやかな若い娘の指だけができる、固い手の男の私には信じられぬ形の、そらせようだった。小指のつけ根から、直角に手のひらの方へ曲げている。そして次ぎの指関節も直角に曲げ、その次ぎの指関節もまた直角に折り曲げている。そうして小指はおのずと四角を描いている。四角の一辺は紅差し指である。 この四角い窓を、私の目はのぞく位置にあった。窓というにはあまりに小さくて、透き見穴か眼鏡というのだろうが、なぜか私には窓と感じられた。すみれの花が外をながめるような窓だ。ほのかな光りがあるほどに白い小指の窓わく、あるいは眼鏡の小指のふち、それを私はなお目に近づけた。片方の目をつぶった。 「のぞきからくり……?」
と娘の腕は言った。 「なにかお見えになります?」 「薄暗い自分の古部屋だね、五燭の電灯の……。」 と私は言い終らぬうち、ほとんど叫ぶように、 「いや、ちがう。見える。」 「なにが見えるの。」 「もう見えない。」 「なにがお見えになったの?」 「色だね。薄むらさきの光りだね、ぼうっとした……。その薄むらさきのなかに、赤や金の粟粒のように小さい輪が、くるくるたくさん飛んでいた。」 「おつかれなのよ。」 娘の片腕は私の右腕をベッドに置くと、私の目ぶたを指の腹でやわらかくさすってくれた。
「赤や金のこまかい輪は、大きな歯車になって、廻るのもあったかしら……。その歯車のなかに、なにかが動くか、なにかが現われたり消えたりして、見えたかしら……。」
歯車も歯車のなかのものも、見えたのか見えたようだったのかわからぬ、記憶にはとどまらぬ、たまゆらの幻だった。その幻がなんであったか、私は思い出せないので、 「なにの幻を見せてくれたかったの?」
「いいえ。あたしは幻を消しに来ているのよ。」 「過ぎた日の幻をね、あこがれやかなしみの……。」 娘の指と手のひらの動きは、私の目ぶたの上で止まった。 「髪は、ほどくと、肩や腕に垂れるくらい、長くしているの?」
私は思いもかけぬ問いが口に出た。 「はい。とどきます。」 と娘の片腕は答えた。 「お風呂で髪を洗うとき、お湯をつかいますけれど、あたしの癖でしょうか、おしまいに、水でね、髪の毛が冷たくなるまで、ようくすすぐんです。その冷たい髪が肩や腕に、それからお乳の上にもさわるの、いい気持なの。」 もちろん、片腕の母体の乳房である。それを人に触れさせたことのないだろう娘は、冷たく濡れた洗い髪が乳房にさわる感じなど、よう言わないだろう。娘のからだを離れて来た片腕は、母体の娘のつつしみ、あるいははにかみからも離れているのか。
私は娘の右腕、今は私の右腕になっている、その腕のつけ根の可憐な円みを、自分の左の手のひらにそっとつつんだ。娘の胸のやはりまだ大きくない円みが、私の手のひらのなかにあるかのように思えて来た。肩の円みが胸の円みのやわらかさになって来る。 そして娘の手は私の目の上に軽くあった。その手のひらと指とは私の目ぶたにやさしく吸いついて、目ぶたの裏にしみとおった。目ぶたの裏があたたかくしめるようである。そのあたたかいしめりは目の球のなかにもしみひろがる。 「血が通っている。」と私は静かに言った。
「血が通っている。」 自分の右腕と娘の右腕とをつけかえたのに気がついた時のような、おどろきの叫びはなかった。私の肩にも娘の腕にも、痙攣や戦慄などはさらになかった。いつのまに、私の血は娘の腕に通い、娘の腕の血が私のからだに通ったのか。腕のつけ根にあった、遮断と拒絶とはいつなくなったのだろうか。清純な女の血が私のなかに流れこむのは、現に今、この通りだけれど、私のような男の汚濁の血が娘の腕にはいっては、この片腕が娘の肩にもどる時、なにかがおこらないか。もとのように娘の肩にはつかなかったら、どうずればいいだろう。
「そんな裏切りはない。」と私はつぶやいた。
「いいのよ。」と娘の腕はささやいた。 しかし、私の肩と娘の腕とには、血がかよって行ってかよって来るとか、血が流れ合っているとかいう、ことごとしい感じはなかった。右肩をつつんだ私の左の手のひらが、また私の右肩である娘の肩の円みが、自然にそれを知ったのであった。いつともなく、私も娘の腕もそれを知っていた。そうしてそれは、うっとりととろけるような眠りにひきこむものであった。 私は眠った。
たちこめたもやが淡い紫に色づいて、ゆるやかに流れる大きい波に、私はただよっていた。その広い波のなかで、私のからだが浮んだところだけには、薄みどりのさざ波がひらめいていた。私の陰湿な孤独の部屋は消えていた。私は娘の右腕の上に、自分の左手を軽くおいているようであった。娘の指は泰山木の花のしべをつまんでいるようであった。見えないけれども匂った。しべは屑籠へ捨てたはずなのに、いつ、どうして拾ったのか。一日の花の白い花びらはまだ散らないのに、なぜしべが先きに落ちたのか。朱色の服の若い女の車が、私を中心に遠い円をえがいて、なめらかにすべっていた。私と娘の片腕との眠りの安全を見まもっているようであった。 こんな風では、眠りは浅いのだろうけれども、こんなにあたたかくあまい眠りはついぞ私にはなかった。いつもは寝つきの悪さにべッドで悶々とする私が、こんなに幼い子の寝つきをめぐまれたことはなかった。 娘のきゃしゃな細長い爪が私の左の手のひらを可愛く掻いているような、そのかすかな触感のうちに、私の眠りは深くなった。私はいなくなった。 「ああっ。」私は自分の叫びで飛び起きた。ベッドからころがり落ちるようにおりて、三足四足よろめいた。 ふと目がさめると、不気味なものが横腹にさわっていたのだ。私の右腕だ。 私はよろめく足を踏みこたえて、ベッドに落ちている私の右腕を見た。呼吸がとまり、血が逆流し、全身が戦慄した。私の右腕が目についたのは瞬間だった。次ぎの瞬間には、娘の腕を肩からもぎ取り、私の右腕とつけかえていた。魔の発作の殺人のようだった。 私はベッドの前に膝をつき、ベッドに胸を落して、今つけたばかりの自分の右腕で、狂わしい心臓の上をなでさすっていた。動悸がしずまってゆくにつれて、自分のなかよりも深いところからかなしみが噴きあがって来た。 「娘の腕は……?」私は顔をあげた。
娘の片腕はベッドの裾に投げ捨てられていた。はねのけた毛布のみだれのなかに、手のひらを上向けて投げ捨てられていた。のばした指先きも動いていない。薄暗い明りにほの白い。 「ああ。」 私はあわてて娘の片腕を拾うと、胸にかたく抱きしめた。生命の冷えてゆく、いたいけな愛児を抱きしめるように、娘の片腕を抱きしめた。娘の指を唇にくわえた。のばした娘の爪の裏と指先きとのあいだから、女の露が出るなら……。 http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/novel/kawabatayasunari.html ずいぶん昔、何かの会合のあと友人数人とスナックで 飲んでいた時、そのうち一人との会話である。 「川端康成の『片腕』はシュールな傑作だね。口をきく片腕と添い寝 して愛撫するとは」と友人。 「あれはハイミナールの幻覚だと言われているがね」と傑作であるこ とは認めつつ、 「川端康成なら君など問題にならないくらい読んでいる がね」と言う代わりに、どうでもいいような不確かなゴシップ を喋る私。 「『眠れる美女』はまさしく屍姦だが、あれもハイミナールの幻覚か い?」
「いや、あれは実際にやっていたと言う話だ。死体愛好癖とロリコンは 川端康成の二大テーマだからね」 渡部直己『読者生成論』(思潮社)の中にある「少女切断」を読みつつ 上記の会話を思い出した。この「少女切断」は非常に刺激的で、一瞬、川 端康成全集を買って読み返そうかなどと思ったくらいだ。
読み返すとは言っても川端康成が少女小説を書いていたのは知らなかった。 昭和十年から戦後四、五年まで数にして二十以上の長短編少女小説を 書き、これらの少女小説は渡部直己によれば読み応えのある傑作である という。またこの少女小説の一つである「乙女の港」には、中里恒子 による原案草稿20枚が発見されているとのことだから、本物の少女小説 である。 今日すでに存在していない、ここで言う「少女小説」とは渡部直己によ れば、次のようなものである。 「 お互いの睫の長さも、黒子の数も、知りつくしてゐたような、少女の 友情……。
相手の持ちものや、身につけるものも、みんな好きになって、愛情を こめて、わはってみたかったやうな日……。(『美しい旅』) そうした日々の静かな木漏れ日を浴びて、少女たちはふと肩を寄せあい、 あるいは、人垣をへだててじっと視つめあい、二人だけの「友情と愛の しるし」に、押し花や小切れなどさかんに贈りあっては、他愛なくも甘美な 夢にひたりつづける。お互いを「お姉さま」「妹」と呼びかわし、周囲から 《エスの二人》と名ざされることの悦びに、いつまでも変わらぬ「愛」を 誓いあう二人の世界を彩って、花は咲き、鳥は唄い、風は薫りつづける」
この「少女小説」は、現在の ギャル向けポルノ雑誌と同じ機能も果たしていたのであろう。
今日存在する「少女小説」は、だいぶん様子が違ってきている。たとえば 耽美小説と呼ばれる美少年の性愛を露骨に描写した小説も「少女小説」の一種 であろう。この少年とは大塚英志が言うような、少女の理想型としての少年で ある。 実はこのジャンルはまるで苦手だ。子供の頃、少女マンガというのは 実に退屈なものだなと思った。したがって、後年その少女マンガから傑作が 生まれることなど私の想像力の範囲を超えていた。文学が痩せこけていくのに 反比例して、様々な表現分野が豊饒になり、いわゆる文学を超えた傑作が 多く生まれた。それもまた私の守備範囲を超えていたのであった。 友人の一人(男)が鞄の中に常時少女マンガ雑誌を携帯し、赤川次 郎的少女小説なども愛読している。この感性はどちらかといえば少数派に違いない。 時々「わぁーっ、素敵」などとこの男が言ったりするのは少女マンガの悪影響 だろうが、聞いている方にはかなりの違和感がある。これは異化作用とは 言えない違和感である。 渡部直己が模範的反少女小説として詳細に論じているのは『千羽鶴』で ある。 『千羽鶴』の主人公三谷菊治や『雪国』の主人公島村はその年齢に比して ひどく老成した印象を受ける。彼らはテクストから、はみ出さない。 島村は視点に過ぎないし、冥界を往還する傍観者的な過客の分際から踏み 出そうとはしない。『伊豆の踊子』の一高生にとって 伊豆がそうであったように、島村にとって『雪国』は黄泉の国であり異界で あり、彼は 異人の劇に観客的に出演する。異界は彼にとって慰藉であり、生への意志 を充填する場所なのだ。 三谷菊治は、死者が紡ぎだす美に翻弄されるだけで、 自らの欲望を生きることはなく、作品の狂言まわしですらない。彼は 死者と近親相姦的にかかわる。自殺してしまう太田未亡人も文子も、 もともとこの世の人ではなかった。 或いは三谷菊治自身が死者なのかもしれない。 渡部直己によれば、 事態をなかば抑圧し、なかばそれを使嗾する検閲者である栗本ちか子は、 読みの場の知覚をみずから模倣しつつ作品に介入する 人物の典型、作者の分身たちがひしめきあう世界に紛れこんで、むしろ 読者の分身たらんと欲する人物で、小説一般に幅広く散在する。渡部直己 は『千羽鶴』の場合、作品はあげてこの人物を唾棄しようとすると書いて いる。 だが栗本ちか子は此岸の人であり、テクストを抜け出して我々の人生に 顔を出したりする。彼女は物語の検閲者であり、その欲望は使嗾しつつ抑 圧することのように見えて、実は他者を破滅させることにある。 http://homepage3.nifty.com/nct/hondou/html/hondou73.html そのA病院なんですけど、〇〇の斡旋をしているそうで。 素敵な世界に案内してくれるのは病院の院長さん。 最初は一枚写真を撮られますが、それからは一蓮托生、きっといい仲間となってくれるはずです。まあ、もともと院長の知り合いの方しか呼ばれないようですが、そこは努力と根性でなんとかしてくだい。みなさん名士がそろってらっしゃるそうなので、サロン気分でのご利用などもいかがでしょうか。 気になるお値段の方は、「相手」によっても変わってくるようですが、5万〜10万円が相場なのだとか。そのお相手もある程度限定されていて、事故で死んだ若い女子中高生なんかが人気なようですよ。ちなみに今までの「お相手」の最高金額は一回20万。 7歳の少女の死体だったそうです。 http://unkar.org/r/occult/1201014326 ▲△▽▼ 川端康成 - アンサイクロペディア 川端康成(かわばた やすなり、1899年6月14日 - 1972年4月16日)は日本を代表する大文豪(ど変態)である。どの辺が変態かは作品の行間を読めばよくわかる。
「人間☆失格」の太宰治と不仲であったことが知られているが、実際には川端のほうがよっぽど変質者で異常者である。 むしろ完全なサイコパスであるがゆえに社会的勝利者となりえたのだと思われる (太宰は「心ならずも道を踏み外した真人間」の苦悩を描いた良心的な作家ですらあり、本質としては気弱で心優しい善良な人間である。 やさしさと繊細さゆえに社会的に破滅してしまうことはよくある話である。 それゆえに女たちに好かれたのだろう。碇シンジが上辺は馬鹿にされつつも、暗にもてたのと同じ理屈) 同性愛で知られる三島由紀夫とは「心の友」ともいえる「師弟の契り」の仲だったらしい(「類は友を呼ぶ」のだろうか。共に「渚カヲル」ではないが耽美的変質者である)が、その関係がどこまで進んでいたのかは定かではない。 自死への道程
眼光鋭い作家の肖像。絶滅危惧種。 産道を抜けるとそこは雪国であった……とはいかなかった。そうならどれほどよかったろう。 世間はざわつき、大阪人の両親は首のまだすわらぬ赤子を揺さぶり、つきっきりで、狂ったようにぺちゃくちゃ話しかけた。 ああ、うるさい、死ねばいいのに。 ある日ついに怒り心頭に発した川端少年がその目をカッと見開くと身内がまとめて転げて死んだ。 利発な子であった。習ったことは頭の中の石板に刻みつけられた。
そんな彼の灰色の青春に転機が訪れる。旅先の伊豆の景色に、人に、彼は魅了される。 朗らかさ、あたたかさの中に宿命的に存在する陰影。静謐の美。 ああ俺はこれを求めていたのかそうかいや違うそうじゃない。 明晰な頭脳の奥の病んだ心は火だるまになって転げ落ちる踊り子に魅了される。 デカダンの道を突き進む男はいたいけな少女をちぎって捨て、ちぎって捨て、しかしそのちぎり絵が耽美に見えた。 彼の眼はやがて「古都」京都をも捉える。そして言い放つ、黙ってさびれてろ、と。時よ止まれ、日本きみは美しい。 突然の入院。なるほど止まるのは君でなくて俺ということか。 よろしい、しかしそれならばせめて美しく。静かに終わるならこれがよかろう。
しかしガス管をくわえるのは見た目に美しくない。 作家はガスストーブの栓を抜いた。無駄な配慮であった。部屋の中がくさいくさい。 作品
彼の作品、読書中のBGMには「残酷な天使のテーゼ」が最適である。 『十六歳の日記』
死にいたる病床の祖父の冷徹な観察日記。まさしくサイコパスである。 『伊豆の踊り子』
混浴温泉で出会った、全裸で手を振る純真な少女をじっくりと視姦する。最後の号泣シーンは議論と憶測と諸々の疑惑を呼んでいる。 『雪国』 田舎の温泉街で、家族を放置してきた男がふらふらする。 芸者女の「あなた、私を笑ってるのね」という言葉は、川端という人間の本質を表している。 残酷な人生観を持ちながらも冷笑的。 愛する男(不治の病)の療養費のために芸者に実を落とした悲壮の女を「徒労であった」とあっさり断じる。 高みから見下ろしている「憐憫」はあっても、太宰のような真摯な「同情」がない。 ひたすら悟りの境地で観察する、まさにニーチェ的超人の視点である。 畳の上で死んでいく虫の死に様を冷静に記述する様は猟奇的ですらある (まるで「人間など虫けらと同じだ」と暗に言っているようである)。 『舞姫』 終戦直後の日本で崩壊していく家庭を描く。 無気力な夫の圧殺された怨恨感情が一家を蝕んでいく。 その有様はまるで黒い太陽が暗黒の光を放射するがごときである。 浮気相手の子供を助けるためにストリップに身売りする純情すぎる(馬鹿)女のサブエピソードつき。 あまり注目されていないが、ドストエフスキーにおける『悪霊』や『地下室』と同等の位置を占める「余計者」文学の極点である(川端はロシア文学の愛好者であった)。 ヒロインの「お父様は魔界から私たちを観察している」発言の「お父様=川端」は明白。 まさしく「仏道入りやすく、魔界入りがたし」である。 川端康成は魔界の住人であった。 『千羽鶴』
骨董趣味とエロさの混合。 茶器についてうんちくを並べる一方で、胸にあざがある女(喪女)の怨恨がよくえがかれている。 作者が描きたかったのはむろん後者だろう。 「名器」という発言に含みがあることは一目瞭然である(川端の作品には、この手の無意識に働きかけるサブミナル効果の手法がしばしば活用されている)。 『みずうみ』
物語はソープランドから始まる。 主人公の桃井は教え子と恋愛事件で学校を追われて、なお性懲りもなく密会を図る。 彼には父親を殺害された暗い過去があり、デカダンを体現する日陰者である。 タクシー運転手の背後から「不穏」な目で観察し「しかしリアルで襲い掛かれば狂人である」と思考する。まさに川端のイデアルな自伝、内面告白である。 『眠れる美女』
睡眠薬で眠らされた美女と同衾する新しい風俗の提案。 最後に薬で死亡した娘について、店の案内人が「死んだって、かわりはいくらでもいる」旨を言い放つ非情なラストが印象的。 ちなみにこの猟奇性は『散りぬるを』で「自分はいつか女を殺す」との発言にもつながっている(蓄妾に養成する予定で囲っていた女が殺害される短編)。 自殺
川端康成の死因はガス自殺とされてきた。 しかし近年の研究では戦略自衛隊による暗殺説が持ち上がってきている。 暗殺の理由としては精神的に無慈悲な神の境地に達した川端がサードインパクトを引き起こすこと「人類補姦計画」を目論んでいたためとされる(川端はエヴァの碇ゲンドウ・冬月コウゾウのモデルとも囁かれる)。 そのために川端はノーベル賞作家の美名の影で繰り返しリリスとの接触(売春を含む女犯行為)を繰り返していた。 そもそもノーベル賞受賞そのものがゼーレの陰謀という説がある。 異説としては、「死体のコレクション」の腐敗ガスが充満したことが原因という「青髭」説もある(青髭は昔話に出てくる死体収集者)。 http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E5%BA%B7%E6%88%90 ▲△▽▼ 「仏界易入 魔界難入」とは一休が云った言葉だそうだ。川端康成は好んでこの言葉を揮毫したといわれる。「仏界易入 魔界難入」とは川端にとってどんな意味があったのか。
梅原猛と五木寛之の対談によると、川端康成は魔界に住んでいた人だという。 「みづうみ」「眠れる美女」何かはまさに魔界の文学である。 さらに「雪国」はすごい官能小説だ。あの澄み切った官能の世界はうしろに魔界を秘めている。 「伊豆の踊子」でも少女が裸で出てきたりする。やっぱり本来どこか異常な精神を持っている人の作品だ。川端さんは世間の模範的な国民文学者としてのイメージと魔界にいる自分というものとの乖離の中で自ら死を選んだんじゃないかと思う。 特に、女性に関心があり、事務員は女性のみ、NHKの女性アナンサーは川端先生に太ももの上に手をのせて触られたとか、ある有名女優は無言でただ黙って手を伸ばして座っている膝にスッと触れられた。 梅原氏は川端が晩年「仏界易入 魔界難入」という言葉は一休宗純の言葉とされているが、それは本当に一休の言葉かどうか調べてくれと言われたそうだ。なぜこんなことを頼むのかわからなかったが、川端が亡くなってから「みづうみ」何かを読むと魔界を感じるという。 この対談からわかるように川端康成は自分が魔界の住民であることを知っていたのだろう。 川端は一般の人には「仏界易入 魔界難入」であるべきものが、川端本人は魔界に住んでいる住民であることがわかり、異常な人間であることを知ったことで、川端にとってはむしろ「仏界易入 魔界難入」ではなく「魔界易入 仏界難入」に思えたのではないだろうか。 http://homepage3.nifty.com/myorin/colum2014.html ----あたし、川端康成にナンパされたことあるわよ…。 ----!?(びっくりして息を飲んで) ----むかし、十代のころ…。鎌倉のね、邪宗門って有名な喫茶店で…。 ----マジ! えーっ、それ、マジっすかあ…!? その女性は若いころ結構美人さんであって---ウホン、いまでも華やかなオーラを撒き撒きする綺麗な方です! ---当時、住んでいるヨコハマからよく近郊の鎌倉まで遊びにいっていたというのです。
で、鎌倉でウロウロしてたら、背広姿でよくそのあたりに出没していた川端さんに声をかけられた。 ----ねえ、お嬢さん、これから僕と遊びにいきませんか? と川端さん、あの独自に甲高い、関西なまりのイントネーション声でもって、若い女性とみると、誰彼かまわずニコニコと声をかけまくってたそうです。 ----あの先生、エッチなのよ…。若いキレイなコがいると、すぐに声かけてくるの。ニコニコしてたけど、おっきな眼がちょっと怖かったわ…。 当時といえば、川端さんがノーベル文学賞をとったあと、いわば名声の絶頂にいたころ、だのに、なにやってんだか、この先生は? しかし、富やコネや権威を利用すればいくらでも女性なんか調達できたろう大物である川端さんが、こんなフェアなナンパに明け暮れていたなんて、ちょっと好感がもてなくもないですね。 邪宗門っていう喫茶店はいったことないんだけど、どうも調べてみると、寺山修司と天井桟敷が関係してた店のようです。 2013年に残念ながら鎌倉店は閉店しちゃったようだけど、そのつながりでいくと、たしかに晩年の川端さんが訪れてもふしぎじゃない。 なーるほど、川端センセイ、あなた、栄華の絶頂にいたにもかかわらず、淋しくて淋しくて、素人の女性とふれあいたくて仕方なかったんですねえ? でも、金と地位をひけらかさない、その素朴なナンパの姿勢は立派っス。 I さんは、邪宗門で川端さんと2度会って、2度目に彼氏といたときには、ふたりして川端さんからお昼をおごってもらったそうです---。 川端さんが自室で岡本かの子の原稿を執筆中に急に外出し、逗子アリーナで例の自死を遂げたのは、その1週後だったとか…。 http://blog.goo.ne.jp/iidatyann/e/adf7c5f5d9bc28a95f8b60f23bc6655b ▲△▽▼ 『魔界の住人 川端康成――その生涯と文学――』装幀(上下)森本穫の部屋 http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/9193c196012d2f269aab93090e2d264c この、少女がこちらを向きながら仰向けに横たわっている絵は、石本正(しょう)画伯の「裸婦」という作品です。晩年の康成が愛蔵した絵です。 康成は石本正の絵が大好きで、二人のあいだに深い交流のあったことも、本書では、詳しく描いています。 さて、晩年の川端康成がこの絵を愛蔵したのには、深いわけがあります。 この絵は、康成晩年の渇望、といおうか、憧れ、といおうか、康成の深い願望をこめた、まことに象徴的な絵画なのです。 昭和29年(1954年)に、生涯の最高作ともいうべき「みづうみ」を発表した康成は、その6年後の昭和35年(1960年)に、多くの評家と読者をあっと驚かせた奇想天外な小説「眠れる美女」を発表します。 主人公は、江口老人。友人から教えられた秘密の家に行きます。そこでは、別室に通されると、睡眠薬で深く眠らされた少女あるいは若い女性が裸身で横たわっているのです。 この家のただ一つの禁制は、眠った女性に手荒なことをしないこと、だけです。 実際、この秘密のクラブである家に通うのは、お金はあるが、すでに性的能力を失った、哀れな老人たちだけなのです。 江口老人だけは、見かけとは異なり、まだ性的能力は残っているのですが、とにかく、秘密の密室で、眠った裸身の女性と、ひと晩、一緒に眠れるということは、至高の歓びなのです。友人は、この家の一夜を「秘仏と寝るようだ」と表現しました。 まことに、老人たちは、この家に通い、一夜、裸身の少女と寝床を共にするだけで、生きている歓びを得ることができます。 もちろん、歓びだけではありません。この家は、海に面した高い崖の上に建っているようです。冬が近く、海面にみぞれが降るイメージも出てきます。 つまりそれは、遠からず老人を襲う死の恐怖です。暗黒の死の恐怖とうらはらに、一夜の、観音様のような全裸の美女と過ごすという稀(まれ)な幸運を得るのです。 江口は5夜、この家を訪れ、眠って意識のない裸身の女性の傍らで、過ぎ去っていった女性たちを思い出します。特に第1夜に思い出す、結婚前に北陸から京都まで旅を共にして処女を奪った女性の記憶は鮮烈です。 その2〜3年後の昭和38年(1963年)に、康成は「片腕」という短い作品を発表します。これも、深い濃霧の夜に、一人の少女から、片腕だけを借りてアパートに帰り、片腕と一夜を過ごす、という物語です。 晩年の康成が、若い女性、あるいは少女の裸身に、どれほど憧れを抱いたか、よくわかるでしょう。 私のお薦(すす)めは、「掌(たなごころ)の小説」と呼ばれるショート・ショートの一編、「不死」という作品です。新潮文庫に、「掌の小説」を1冊にまとめたものがあります。この、終わりの方に出てきます。 ひとりの老人と、若い娘が、手をつないで歩いています。若い娘は、昔、老人の若かったころ、恋人だったのですが、おそらくは身分の違いのため一緒になれず、娘は海に飛び込んで死にました。 その娘が今、生き返って、昔の恋人で、今は人生に敗残した老人と一緒に歩いているのです。 くわしい話は、私の本(下巻)で読んでください。 やがて二人は、ゴルフ場の端にある、大きな樹の、洞穴(ほらあな)に、すうっと入ってゆきます。そうしてもう、出てこないのです。 永遠の生命を得て、二人は永遠に、その樹の洞(ほら)の中で過ごすのです。 ここに、康成の晩年の渇望(かつぼう)がよく表れています。 私は、そのような康成の晩年の渇望を具現した作品として、この絵を下巻の口絵写真の一つに選びました。 装幀家の盛川さんは、私の意図をよく汲んで、この絵で表紙を飾ってくれました。 女性の読者は、この表紙を見て、ちょっと、どきっとされるかも知れませんが、男性読者は、この絵の美しさに惹(ひ)かれることでしょう。 康成が死の半年前(昭和46年、1971年)に発表した「隅田川」という作品があります。これは、敗戦後まもなく書き始められた「住吉」連作の、22年ぶりの続編なのですが、その中に、象徴的な言葉がでてきます。 主人公の行平(ゆきひら)老人が、海岸の町の宿に行こうとして、東京駅に行きます。すると、ラジオの街頭録音の、マイクロフォンを突きつけられます。 「秋の感想を一言きかせてください」という質問です。行平は、 「若い子と心中したいです」と答えます。 「えっ?」と驚くアナウンサー。その意味を問います。すると行平の答えは、こうです。 「咳をしても一人」 この一節は、最晩年の川端康成の心境を、如実にあらわした部分です。 咳(せき)をしても一人……これは、放浪の俳人・尾崎放哉(ほうさい)が、晩年、小豆島に渡って独居し、死に近いころ読んだ自由律の俳諧です。 咳をしても、その、しわぶきの声が、壁に反響して、空しく自分にはね返ってくるだけだ、という、孤独と寂寥(せきりょう)の極みを詠んだものです。 つまり康成は、自分の根底の願望を「若い女性と心中したいです」と語り、その背景として、恐ろしい孤独の意識を、ここで告白したのです。 ノーベル賞を受賞して、晴れがましい騒ぎの余波から、わずか3年後のことでした。 http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/9193c196012d2f269aab93090e2d264c ▲△▽▼
事故のてんまつ 『事故のてんまつ』は、臼井吉見による中編小説。 1972年(昭和47年)4月16日に自殺したノーベル文学賞受賞作家・川端康成の自殺の真相を明らかにする、と新聞広告ではあおられたが、実名はなく、家政婦として大作家に雇われた「鹿沢縫子」(仮名)という女性の語りの形式をとり、「縫子」がその作家にいたく可愛がられた様子と、1年ほどの勤めの後に致仕して郷里の信州へ帰ると言った翌日、作家が自殺するというのが前半で、後半は「縫子」の語りによる「川端康成論」になっている。
裁判沙汰
『展望』は増刷するほどに売れたが、川端家(未亡人・秀子、養女・政子、婿・香男里)は筑摩書房に苦情を申し入れた。死者の名誉権は成立しないというのが通説だったが、川端家は秀子の名誉も毀損されたと主張、数次の準備書面のやりとりがあった。 週刊誌、女性週刊誌、月刊誌などで多くの関連記事が出たが、川端家側は実在する家政婦の存在は否定せず、細かな事実の間違いを指摘した。 『事故のてんまつ』に書かれていることと、実際の事実関係や経緯には違いがあり、臼井が川端を批判したいがために、脚色や誇張がされている部分が多々あることが、「鹿沢縫子」(仮名)や、その家族、地元の周辺人物からの取材で検証されている。その中の主なものを以下に挙げる。
川端が1970年(昭和45年)5月に長野県南安曇郡穂高町(現・安曇野市)に招聘された際に、植木屋「庭繁」(実際の店名は「アルプス園」)の娘として働いていた「縫子」と出会い、盆栽などを川端家に配達して来た「縫子」が川端家の家政婦として働くことになったのは事実であるが、本作に書かれているように、川端が嫌がる「縫子」を何度も何度も勧誘したということはなく、実際には、人手の足りない川端家に、もう1人家政婦を求めていた妻の秀子が、「縫子」の養父(血縁関係は無い)に依頼し、名誉なことだと思った養父が「縫子」を説き伏せたことが、養父本人により証言されている。 本作の中では、「縫子」や川端の他、川端の過去の恋人・伊藤初代が被差別部落出身者とされ「人にきらわれる、不幸な生い立ちの娘」とされ、川端夫人についても「肉屋さんとかの娘さん」という虚偽があった。 川端の出目については、語り手「縫子」がそうではないかと思ったように記述され、北条氏の子孫であるという系図を掲げているとして臼井は否定したが、読み手に川端も被差別部落出身者だと暗示させるように書かれている。 実際には、伊藤初代の戸籍や系譜は多くの川端研究者によって特に部落出身でないことが確定されており、「縫子」の実母や実父の出身地は別の地域や県であることが、森本が弁護士を用いて調査している。 なお森本は、「縫子」本人に2012年(平成24年)時点で接触を試みているが、「縫子」は面談取材を一切断わり、本作について、「その小説の中の女性と自分とは無関係である」とし、「ただ一ついえることは、私に川端先生が執着したかどうか、わからない、ということです」と夫(当時付き合っていた恋人)を通じて伝えている。 しかし、「縫子」が川端の死の直後、通夜の時に養父に、「先生の自殺の原因はわたしにあるように思う」と打ち明けたことに関しては、関係者の証言などの総合的な観点からほぼ事実であろうと森本は検証し、家政婦の契約を更新せずに信州に帰ることを断言したことで、川端を傷つけたという意識が「縫子」の中にあったことがうかがえるとしている。
そして「縫子」本人が、「ただ一ついえることは、私に川端先生が執着したかどうか、わからない」と伝え、川端が「縫子」に強い好意を持っていたことを完全否定はしていない点を森本は鑑みながら、川端という作家がその生涯において抱き続けた「美神」の少女像(伊豆の踊子、伊藤初代、養女・黒田政子)が、晩年において「鹿沢縫子」に受け継がれていたという可能性は十分あると考察しており、「縫子」が去っていくことを知った川端が、かつて伊藤初代との別れで味わった「身を切られるような〈かなしみ〉」に襲われ、逗子マリーナへ向かったことも想像に難くないとしている。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E6%95%85%E3%81%AE%E3%81%A6%E3%82%93%E3%81%BE%E3%81%A4 川端康成 探索『事故のてんまつ』 - 魔界の住人・川端康成 森本穫の部屋
今年2012年(平成24年)は、川端康成の没後40年になる。その死の5年後、すなわち今から35年前の春に、臼井吉見が『展望』5月号に「事故のてんまつ」を発表し、さらに単行本『事故のてんまつ』出版を強行したのだった。 わたしは初め、この作品とその反響について書くかどうか、すこし迷っていた。しかし、川端康成の生涯と文学を考える上に、この事件は、きわめて重要な意味を持っている。やはり書くべきだろうと思いながら、事件の翌年に出版された武田勝彦・永澤吉晃編『証言「事故のてんまつ」』(講談社 昭53・4)巻末の「関係文献一覧」を参考に、連載をつづける傍ら、ぽつぽつ、重要そうな文献のコピーを蒐集してはいた。 このようなわたしに火をつけたのは、小谷野敦の「『事故のてんまつ』事件 1977」という論考だった。 これは『現代文学論争』(筑摩書房 平22・10)に掲載されたもので、兄事する関口安義氏が、メールで「面白いですよ」と推薦してくださったのである。 すぐジュンク堂WEBで取り寄せてみると、なるほど、刺激に満ちたものだった。このひとの名はよく承知していたが、読むのは初めてである。『事故のてんまつ』前後の騒ぎを「事件」として捉え、その推移について述べている。 が、どうもこのひとは攻撃的な人格の持ち主であるらしく、あちこちに喧嘩を売っている。 川端康成の伝記的研究も、『事故のてんまつ』問題の追究も、この騒ぎの影響で萎縮し、停頓している、と決めつけているのだ。そして、自分は近いうちに、『事故のてんまつ』を含めた川端康成の伝記を書いて、このタブーを打ち破る、と宣言している。 この喧嘩を、わたしが買った。「別にタブーがあるわけではない。ただ誰もが康成の自裁の謎と『事故のてんまつ』について、何となく、書かなかっただけだ。それなら、わたしが書こう」と決意したのである。 小谷野敦はこの論考で、大胆にも、当時の関係者を、「すでに当時の週刊誌や新聞も報じているから」といって、実名で書いている。これは、じつは部落問題やプライヴァシーの問題で、関係者たちに迷惑をかける可能性のある、危険なことなのだ。 しかも、週刊誌も遠慮して書かなかった、事件のヒロインであるお手伝いさんの実名を、小谷野敦は書いたのである。そしてそれは後述するように、全くの人違いだったのだ。 ともあれ、小谷野敦の挑発的な文章によって、わたしは康成最後の恋であるかもしれないこの事件について、本格的な取材をはじめた。 35年前の、週刊誌などに追い回された当事者たちは、いま健在なのだろうか。もし物故しているならば、その家の跡を継いでいる親族の名を知りたい。もちろん住所も、できれば電話番号も……。 最初に考えたのは、やはり、信州穂高のひとに訊ねることだった。穂高に知人のいるひとはいないだろうか。 ……大学時代の旧友を思い描いてゆくうち、いい友人を思い出した。全国に知人を持っている可能性が高い。 詳しくは連載に書いたが、S氏は、穂高に知人を持っていた! そのひとは、穂高の老舗の後継者であるという。早速、探索事項を書いた文書を作成して、S氏に送った。 そして老舗の後継者は、みごとに、わたしの期待に応えてくださったのである。穂高の町では、35年前の騒動を覚えている方が沢山いた。当事者たちの住まいや名前を、わけなく教えてくださったのである。 この過程で、小谷野敦氏の挙げた名前が全くの別人であることもわかった。小谷野氏は、新聞に実名の出た、別のお手伝いさんを「縫子」と勘違いしていたのである。 わたしは上記の参考文献のほとんどを手元に揃え、読破していった。一方で、生みの母親の名も顔も知らない「縫子」の、まぼろしの実母と実父を尋ねる探索も進めた。 穂高へ、実地踏査に行き、幾人もの関係者に会ってお話を聞き、また「縫子」の住んだ家々の跡もたずねた。 37年前の昭和45年5月中旬、川端康成が訪ねた盆栽店――「縫子」の養父の営んでいた『庭繁』――実際の店名は『アルプス園』だった――の跡地にも立ってみた。康成が訪ねたのと同じ5月である。残雪が白く残る北アルプス連峰が美しかった。 つい先日は、「キューポラのある街」として知られる埼玉県の或る町を訪ねた。「縫子」の実母の名がわかり、その晩年の世話をしたM氏に会いに伺ったのである。M氏は、「縫子」と康成が二人で写った写真を見せてくださった。背景や服装などから、養父一家がミネゾを鎌倉長谷の川端邸に運び込み、植えたとき、記念に撮影したものと推測された。 昭和23年生まれ、このとき22、23歳であった「縫子」は、色白のか細い少女で、まだ高校生のように見える。 M氏は、「縫子」の実母の、甥にあたる方であった。惜しくも、実母は、3年前に亡くなっていたが、その生涯や、「縫子」の実父と出会った日々を記録した手帳も見せてくださった。 実父と実母は、34歳の年齢差がある。生後一年前後で、「縫子」は実父の家に引き取られた。その養母と七五三のときに撮った写真もあった。「縫子」7歳の写真である。 実父は、「縫子」の満8歳のときに亡くなったが、奇しくも、わたしの故郷と同じ福井県の、丸岡町の出身であった。その実父の出自を調べるために、わたしは近く丸岡町を訪ねる予定である。 「縫子」自身は、わたしの取材の求めに応じてくれなかったが、ご主人を通じて、自身の感想をFAXで送ってくれた。 その言葉と、これまでの取材によって、わたしは康成と「縫子」の関係を了解した。康成は、かつて様々な少女に慕情を抱いたように、自分に境遇の近似した「縫子」に、慕情を寄せたのだ。 それを口にすることもなく、ただ黙って康成は死を選んだ。 (『文芸日女道』532号〈2012・9〉) http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/18418ed16c41ec3ecadd55f370a98352 ▲△▽▼
フェティシズムとは何か・・・フェティッシュとしてのエロスとタナトス https://www.google.co.jp/webhp?hl=ja#hl=ja&q=%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%82%BF%E3%83%8A%E3%83%88%E3%82%B9&spf=68 まず、フェティシズムとはいったい何なのか。この「フェティシズム」という用語、元はといえば、最初に宗教学の中で使われ始めたものである。 フェティッシュとはもともと、ラテン語の facio,facere(つくる)という動詞の完了受動分詞factus(英語のfactの語源)、そして、それから 派生した語facticius(人工の)がフランス語化されて、factice(人工の)となり、さらに、フェティッシュという語が造られた。 これが17世紀以後、「呪物」 、「物神」といった意味で用いられ るようになり、特にヨーロッパの白人たちから見た、アフリカなどの原始的な宗教において崇拝 の対象となるものを意味する用語として使われるようになった。 例えば、護符(amulette, grigri, porte-bonheur, talisman)、また、マスコット(mascotte)としての人や動物、さらには、 日本の神社においていわゆる御神体として信仰の対象とされているもの、山、岩、古木、木で彫られた男根、鏡等などはみなフェティッシュである。それらのものはみな、さまざまな由来と歴 史を経てそれぞれの文化の中で記号化されることによって、すなわち、山は単なる山ではなく、 何か超自然的な力を秘めたシンボル的存在とみなされることによって、特別な意味と価値を持つ ようになったものである。 そして、その様なものに対する呪物崇拝、物神崇拝のことを「フェテ ィシズム」と呼ぶようになったのである。さらに、経済学の領域においても「商品価値」や「貨 幣価値」等を考える上で、「フェティシズム」という語が使われるようになった。 そして更に、心理学や精神分析の領域においても「フェティシズム」という用語が使われるようになった。
それは「節片淫乱症」などと訳されることもある、性的倒錯の一種である。 性的倒 錯としての「フェティシズム」とは、性的欲望が他者としての異性あるいは同性そのものに向かうのではなく、その他者の身体の一部のみ、あるいはその他者から発せられるもの、その他者に 付随するもの、例えば、その他者の毛髪、目、足、しぐさ、性質、能力、さらには糞尿、体液、 体臭、肌着、靴下、靴、ハンカチなどに向かうことを意味するのである。これらのものもみな呪物、物神、商品、貨幣などと同様に、記号化、シンボル化されることによって始めて特別の価値 あるいは意味を持つようになり、欲望の対象とされるのである。 しかし、この「フェティシズム」という語を、記号化されることによって始めて価値あるいは 意味を持つようになったものに欲望が向けられることを意味するものとして理解するならば、既 に述べられたことからも明らかなように、「フェティシズム」とは世界と自己に対する人間の 《本源的態度》ということになるであろう。 ということは、人間が有する性の在り方の根源にも 「フェティシズム」が存在するということである。性的対象のみならず性的目標としての性行為 (フロイトの『性欲論』参照)もまたすべて、記号化されることによって始めて価値あるいは意 味を持つようになるのであり、人間にとっての性的対象および性行為のすべては「フェティッシ ュ」としてのみ存在しうるのである。即ち、あらゆる対象が人間にとって性的対象となり、あらゆる行為が性行為となりうるのである。 また、先に述べられたような、記号として人間にとりついて、人間を常に不安と恐怖の中に落 としいれるところの「死」もまた欲望の対象となることが可能なのであり、人間のみが「死」を希求 し、讃美し、また本当に自殺することもできるのである。ボードレールの詩を引き合いにだすま でもなく、人間は死をよろこぶことができるのである。 人間のみが自らの死に方を選択したり、 死を望んだりすることができるのは、そこに「フェティシズム」があるからに他ならない。他の 動物は「死ぬ」のではなく、ただ動かなくなり、冷たくなり、そして腐敗してゆくのみである。 このようにして性への衝動としてのエロスと死への衝動としてのタナトスは、人間が本源的に 有するところの、その「フェティシズム」において成立するのである。 そのような人間のエロスの在り方が有する無限の多様性がいわゆる「変態性」の起源となり、また、人間のみが死ぬこと をよろこぶことができるということが、その退廃性(デカダンス)の起源となっているのであろう。 フェティッシュに満ちた世界 文化的記号としてのフェティッシュ
私たちはこの世界の中にあるすべてのものを、「理性」によって記号に置き換え、フェティッ シュとしての意味付けを与え、それらを崇拝したり、欲望の対象にしたり、あるいはまた禁忌の 対象にしたりしている。
ところで、ひとつの社会の中で、ほぼ同じようなものが崇拝されたり、 欲望の対象とされたりするのは、そもそもフェティッシュなるものが言語的記号との分離不可能 性において成立しているからであり、同じ言語体系を共有しているひとつの社会、共同体の中で は、その成員のほとんどは同じようなものを崇拝し、同じようなものを欲望の対象としている。 そして、このことによって、その社会における共通の価値観、常識、モラルといったものが成立するのである。 それらにおいて、禁忌の対象とされるものが、いわゆる社会的タブーといわれるものである。また、社会的タブーのほとんどは「性(エロス)」と「死(タナトス)」に関連する もの、例えば、死者の扱い方、弔い方に関するタブー、近親姦タブー、同性愛タブーなどである。 ネクロフィリア、少女コレクション、人形愛
しかしながら、すべての人々がこのような社会的タブーを守り通しているわけではないし、ま た、それはありえないことであろう。そして、タブー逸脱の最たるもののひとつとして、ネクロ フィリア(死体愛好症)が上げられるであろう。 これは、まさしく死者をその性的欲望の対象とすることであり、エロスとタナトスの融合のひとつの形といえよう。 なぜ性的欲望の対象が死者 (死体)という物体(オブジェ)、あるいはフェティッシュであらなければならないのか。 なぜなら、死体には意志も欲望もなく、こちらに立ち向かってくることも、語りかけてくることもなく、 このことによって、「わたし」と死体とのあいだには、情念と情念による、お互いの交流が成立 し得ないからである。 すなわち「愛」というものの介入をここでは徹底的に排除することができるからである。 性欲は「愛」による拘束を逃れることによって、はじめて純粋性欲として自己完結することが可能となる。死の中にある他者を欲望の対象とすることによって、「わたし」は自らの性の喜びを最大限に味わうことができるのである。 さらに、これに近いものとして、ペドフィリア(小児性愛)やピュグマリオニズム(人形愛) が挙げられるであろう。 ただし、ペドフィリアというと、すぐ「犯罪」というイメージに結び付けられやすいので、ここでは、澁澤龍彦氏に倣って、「少女コレクション」と呼ぶことにしよう。 氏によれば、美しい少女ほど、コレクションの対象とするのにふさわしい存在はない。 蝶のよう に、貝殻のように、捺花のように、人形のように、可憐な少女をガラス箱の中にコレクションす るのは万人の夢である。 コレクションに対する情熱とは、いわば物体(オブジェ)に対する嗜好である。 生きている動物や鳥を集めても、それは一般にコレクションとは呼ばれない。すでに体 温のない冷たい物体、完全な剥製となっていなければ、それらはコレクションの対象とはされない。 しかし、少女までも剥製にされなければならないというわけではない。 生きたままでも、少女という存在自体が、つねに幾分かは物体(オブジェ)、すなわちフェティッシュなのである。 人形も、少女も、自らは語りだすことのない受身の存在であればこそ、男たちにとって限りな くエロティックなのである。 女の側から主体的に発せられる言葉は、つまり女の意志による精神的コミュニケーションは、澁澤氏によれば、男たちの欲望を白けさせるものでしかない。 女の主体性を女の存在そのものの中に封じ込め、女のあらゆる言葉を奪い去り、女を一個の物体近づか しめれば近づかしめるほど、ますます男の欲望(リビドー)が蒼白く活発に燃えあがるというメ カニズムは、男の性欲の本質的なフェティシスト的、オナニスト的傾向を証明するものであり、 そして、そのような男の性欲の本質的傾向に最も都合よく応えるのが、そもそも、社会的にも、性的にも、無知で、無垢な少女という、ある意味で玩具的な、存在だったのである。 まさしく、 「お人形さんのように可愛い」少女を自らの掌に納めることこそ男の憧れなのである。 しかし、当然のことながら、そのような完全なオブジェ(フェティッシュ)としての女は、厳密に言えば、男の観念の中にしか存在することができない。そもそも、男の性欲それ自体が極め て観念的なものであるのだから、その欲望の対象となるものも、極めて観念的なフェティッシュ であらざるを得ない。 問題は、そのような極めて観念的な欲望の対象を、想像力の世界で、どこ まで実在に近づけうるかである。中世の錬金術師たちが、フラスコの中にホムンクルス(人造小 人間)を創りあげようとしたこともそのような試みのひとつであったのであろう。 川端康成におけるフェティッシュとしての少女の身体 ところで、上述のような、フェティッシュとしての少女や、その身体をものの見事に描いた文 学者の一人に川端康成がいる。
彼が少女、あるいは少女の身体を愛でる、その仕方は、まさに、 茶の道を究めた茶人の茶器を愛でるが如くである。(茶道における茶器もまたフェティッシュに 他ならない。)事実、川端は少女と焼き物を愛した。
たとえば、「生命が張りつめていて、官能的 でさえある」志野の茶碗(『千羽鶴』 )。 水指の表面は川端の主人公にとっては、女の肌と区別しがたいものである。 「白い釉のなかにほのかな赤が浮き出て、冷たくて温かいように艶な肌」(同 上)。同様に女の肌は、ほとんど陶器の表面そのものであって、「白い陶器に薄紅を刷いたような 皮膚」 (『雪国』)でなければならない。 焼き物も、女も、見て美しいばかりでなく、指で触れ、 その指の先の感覚に、主人公とその「もの」との関係のすべてが要約されるような対象である。 たとえば、『雪国』の主人公は、「結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚え ている」という。 一方には、女の物化(レイフィカシオン)があり、他方には、物の官能化がる。 女は焼き物の如く、焼き物は女の如くである。いや、焼き物に限らず、冬の夜の天の河でさえも、 「なにか艶めかしい」のである(『雪国』)。 このような少女の描き方は、『伊豆の踊り子』から、晩年の『眠れる美女』や『片腕』にいたるまで一貫している。 『伊豆の踊り子』の少女の「若桐のように足のよく伸びた白い裸身」から、 『みずうみ』の「夜の明りの薄い青葉の窓に、色白の裸の娘が立っている」ときまで、女はつね に視覚に、触覚に、あるいは聴覚に訴える美しい対象であり、彫刻のような物(フェティッシュ) であって、決して主体的な人間ではなかった。 その極端な場合が、『眠れる美女』である。 海浜 の不思議な家で、老人は麻酔で眠らされた若い女を見ることができるし、愛撫することもできるが、女の側には意識がない。 『たんぽぽ』の妖精のような少女は、肉体的な愛の極致において相手の身体が見えなくなるという病(人体欠視症)をもつ。 女は純粋に見られるもので、見るものではない。 超現実主義的な『片腕』に到ると、もはや女の側には肉体的な全体性さえもなくなり、 「エロティック」な対象は、女の身体の一部分に集中するのである。(加藤周一『日本文学史序説』参照) 川端にとって、少女、あるいは少女の身体とはまさしく物神としてのフェティッシュその ものだったのである。 特に、『眠れる美女』や『片腕』は、究極的なフェティシズムに基づくところの、エロティシ ズムと、それにまとわりついて最後まで離れることのない、そして、最後にはついに現実化して しまうところの「死(タナトス)」のイメージとによって、完成度の極めて高い、デカダンス文学の逸品となっている。 また、川端の作品には、実にたびたび、命に対する讃仰があらわれる。巨母的小説家であった 岡本かの子に対する彼の傾倒は有名である。 しかし、彼にとっての生命とは、まさしく官能その ものなのである。 この一見人工的な作家の放つエロティシズムは、彼の長い人気の一因でもあっ た。このエロティシズムについて、中村真一郎が三島由紀夫に語ったことがあるという。 「この 間、川端さんの少女小説を沢山、まとめて一どきに読んだが、すごいね。 すごくエロティックな んだ。 川端さんの純文学の小説より、もっと生なエロティシズムなんだ。 ああいうものを子供に 読ませていいのかね。 世間でみんなが、安全だと思って、川端さんの少女小説をわが子に読ませているのは、何か大まちがいをしているんじゃないだろうか。」 このエロティシズムは勿論、大人が読まなければわからないものだが、それは、川端自身の官能の発露というよりは、官能の本体つまり生命に対する、永遠に論理的帰結を辿らぬ、不断の接触、あるいは接触の試みと云ったほうが近い。
それが真の意味でエロティックなのは、対象すなわち生命が、永遠に触れられないというメカニズムにあり、彼が好んで処女を描くのは、処女にとどまる限り永遠に不可触であるが、犯されたときにはすでに処女ではないという、処女独特の メカニズムに対する興味だと思われる。 また、川端が生命を官能的なものとして讃仰する仕方に は、それと反対の極の知的なものに対する身の背け方と、一対をなすものがあるように思われる。 生命は讃仰されるが、接触したが最後、破壊的に働くのである。すなわち、生命という官能を知 的に把握、分節しようとしたその瞬間にわれわれは、まさに生命そのものによって死の中へと叩 き落されるのである。 そして、川端の芸術作品は、知性と官能との、いずれにも破壊されることなしに、両者の間に張り詰められた一本の絹糸のように、両者のあいだで舞い踊る一羽の蝶のように、太陽の幸福な光を浴びつつ、美しく光る月のように、存在しているのである。(三島由紀 夫『永遠の旅人』参照) 処女である少女とはあらゆる人間の中で最も(あからさまに)性的でない存在であり、一切の官能と性的なものを一番安全な場所に封じ込めてしまっている存在であるが、なぜそうしなければならないのかというと、処女の有するエロティシズムこそがもっとも危険で、破壊的な魔力を有するものであるからにほかならない。 そのことを川端自身が一番よくわ かっていたからこそ、彼は見事に少女の美を描くこともできたのであろう。 『眠れる美女』と『片腕』 上に述べられたような「生命」を逆説的に、また官能的な仕方で見事に描いた作家に川端康成 がいる。その晩年の作品、『眠れる美女』の主人公、江口老人は、海辺の不思議な宿で、麻酔で 眠らされている、何も身に着けていない処女である娘たちと夜をともに過ごす。江口はその娘を 見て、「まるで生きているようだ。」とつぶやく。 生きていることはもとより疑いもなく、それはいかにも愛らしいという意味のつぶやきだったのだが、口に出してしまってから、その言葉が気味悪いひびきを残した。 なにもわから なく眠らせられた娘はいのちの時間を停止してはいないまでも喪失して、底のない底に沈めら れているのではないか。生きた人形などというものはないから、生きた人形になっているので はないが、もう男ではなくなった老人に恥ずかしい思いをさせないための、生きたおもちゃにつくられている。いや、おもちゃではなく、そういう老人たちにとっては、いのちそのものなのかもしれない。こんなのが安心して触れられるいのちなのかもしれない。・・・ 死にできうる限り近づくことによってのみ、人は生命そのものに近づくことができる。いのちの時間を喪失した娘たちと一夜を過ごすということ、そこには、江口老人自身に近づきつつある「死」の影を見ることができるし、また、老人は安心していのちに触れることができる。 しかし、この宿での五度目の夜、老人は二人の娘とともに眠るのだが、その片方の娘、老人をして、 「いのちそのものかな。」とつぶやかせた、野蛮のすがたをした、黒光りした肌を持つ、ふとんを はねのけ、大の字に寝ていた、そして「生の魔力をさずけろよ。」というような戦慄のつたわっ て来そうな娘が、翌朝老人が眼を覚ますと、死んでいたのである。 その前に、江口老人の知り合いである、福良老人の死や、江口の母の死の思い出も描かれているのだが、ここにきて、「死」 は老人の目前にそのすがたをあらわす。まさしく「生の魔力」そのものが「死」として現前する のである。 しかし、その現前は一瞬のみである。恐れおののく老人に、宿の女は、「娘ももう一 人おりますでしょう。」と告げ、その言い方ほど老人を刺したものはなかった。宿の女たちは急いで死んだ娘を運び出し、車に乗せてどこかへ消えてしまう。 老人は、もう一人の、白い娘のは だかのかがやく美しさを見る。 三島由紀夫によれば、この作品に見られる、執拗綿密な、ネクロフィリー的肉体描写は、およそ言語による観念的淫蕩の極致である。 しかし、性的幻想にはつねに嫌悪が織り込まれ、また、 生命の参仰にはつねに生命の否定が入りまじっているため、息苦しいほどの官能そのものの閉塞感がある。 川端において、性が自由や開放の象徴として用いられることなど皆無である。 性はつねに生命と官能の閉塞状態において成立し、その世界の絶対無救済性を示すものである。しかも この絶対無救済の世界は、一人の「眠れる美女」の突然の死によって、閉じられるのではなく、 江口老人自身の死をも暗示する、逃れようのない「死の舞踏(ダンス・マカーブル)」へと開かれている。 この作品は、これ以上はない閉塞状態をしつこく描くことによって、ついに没道徳的な虚無へ読者を連れ出す。 三島は、かつてこれほど反人間主義の作品を読んだことはない、と言う。 また、「この家には、悪はありません。」という宿の女の言葉は、この世界には、悪に対立するものとしての善も存在しないということを示しており、さらには、川端の文学作品の中には、 真の救済も破滅も存在しないことをも示している。 また、『片腕』という作品になると、対象としての娘の肉体はその全体性を失って、片腕だけとなり、主人公と一夜をともに過ごす。しかし、その片腕は生きた片腕であり、主人公と会話、 交流、感応しあうことができる。しかしそれは、対象がその全体性を失った片腕であったからこそ可能なのである。 娘の片腕はまさしく「玩具」として、川端の絶対的孤独の世界への訪問を許されるのである。 「対話をすることのできる娘の片腕」とは川端にとって、理想的な女の在り方 のひとつなのである。それは女自体の望ましい象徴的具現なのである。 『片腕』の主人公はさらに、自分の片腕と娘の片腕とを付け替えてみる。そして、その娘の片腕に自分の血が通っていることを確認し、「腕のつけ根にあった、遮断と拒絶はいつなくなった のだろうか。」とその感想を漏らす。 しかし、「遮断と拒絶」とは、実は腕の付け替え(人体改 造?)などという児戯を演じる以前からの常態であったのである。『片腕』の主人公は自らの身体そのものとの交流さえも十分に感じることのできない、即ち、自らの身体からさえも拒絶され、 阻害されるという絶対孤独の中に生きていたのである。 そのような絶対孤独の中に生きる人間であるからこそ、娘の片腕との会話と交流という、このフェティシズムの極致における欲望の充足を得ることができるのである。そのような孤独な人間は通常の人間的接触や性的接触によっては決して満足することができないのである。 しかし、この作品の最後の場面は切なくなるほどに悲しい・・・ 「娘の腕は・・・?」私は顔をあげた。 娘の片腕はベッドの裾に投げ捨てられていた。はねのけた毛布のみだれのなかに、手のひらを 上向けて投げ捨てられていた。のばした指先も動いていない。薄暗い明かりにほの白い。 「 ああ。」 私はあわてて娘の片腕を拾うと、胸にかたく抱きしめた。生命の冷えてゆく、いたいけな愛児を抱きしめるように、娘の片腕を抱きしめた。娘の指を唇にくわえた。のばした娘の爪の裏と指先とのあいだから、女の露が出るなら・・・・・。 西山老人のフェティシズム、そして魔界
川端康成の遺作となった『たんぽぽ』には、西山老人という印象的な人物が登場する。 たんぽぽの花が咲いた春のような町、生田町の生田川沿いにある「気ちがい病院」に入院している老人である。 その病院とは、官能の極致において、その恋人の身体が見えなくなるという、人体欠視症にかかった主人公、木崎稲子が入院する病院である。また、その病院は常光寺という寺の中にある。 たとえば、病院の主のような西山老人は、本堂の畳に紙をひろげて大きい字を、よく 書いている。白い日本紙や唐紙が、この老狂人の手にそうはいらないので、古新聞紙に書いていることが多い。 (仏界易入、魔界難入) 書く字はたいていこの八字である。・・・その書は力がある。俗気、 匠気がない。しかし、・・・よく見ていると、狂気あるいは魔気がひそんでいそうには思える。 西山老人は人生のある時に、魔界にはいろうとつとめて、魔界にははいりがたかった、その痛恨が、狂った老後の字にもあらわれるのかもしれない。 西山老人の「魔界」とはどのようなものであったか、とにかく、人生のある時にその「魔界」にはいろうとしたねがいは、彼を狂わ せたほどの痛ましさではあったのだろう。 西山老人は気ちがい病院を魔界だなどとは考えていない。魔界にようはいれなかった人たちの避難所、休息所というほどにも考えていないだろう。 現在の西山老人は生田病院でもっともおとなしい患者の一人である。歯は抜けたままで入れていなくて、頬は落ちくぼみ、頭のうしろに弱い白毛がぽやぽや残っているばかりである。 どのような魔界にもはいっていける力はなさそうな姿だから、書く字にだけ、いまだに魔気が残っていると言えるだろうか。 老人は字を書いている時に、癲癇のような発作をおこすことがあるが、養老院においてもさしさわりはなさそうである。 西山老人の毎日の楽しみは、夕方七時のラジオのニュウスの前の、天気予報を聞くことであ る。 「海上は今晩も明日も多少風波があるでしょう。霧のために見通しが悪いでしょう。」とい うような天気予報そのものはどうでもよくて、それを受け持つ若い女のアナウンサアの声が好きなのである。 その声はほどよいあまさをふくんで、いかにもやさしい。気ちがい病院のそとの世間から、愛らしい一人の娘が自分一人に話しかけてくれているように老人は感じる。愛情 のこもった声である。老人をいたわりなぐさめてくれる。美しい青春の木霊である。 その娘の名も知らないで、おもかげも見ないで、もしかすると、自分が死んだ後までも、その娘は美しい声で天気予報の放送をつづけているかもわからないが、廃残の自分に愛の声で毎日話しかけてくれるのは、この娘だと、西山老人は思っている。 西山老人にとって、おそらく、この女性アナウンサーの声を聴くと言うことは、まさしく、そ のことにおいて、彼がそれまでの人生の中で出会ってきた、すべての女性との官能の体験を再体験することのようである。 外界から語りかけてくる、一人の娘の声は、すべての女の愛情と官能的美を象徴するものとしてのフェティッシュである。今、老人はこの一人の娘の声によって、彼 が持つところの女性に対する欲望のすべてを満足させることが可能なのである。 しかし、西山老人が狂うほどまでに、その中に入ろうと欲した、「魔界」とはどのようなところであろう。 女性との愛欲に満ちた官能的交流の世界であろうか。 否、そのような世界とは、むしろ仏界である。様々の美しいフェティッシュによって彩られ、飾られた、神話的、抒情的世界である。そして、その向こうにあるのが、むきだしの「生」と「死」そのものが支配するところの魔界なのであろう。 老人が入ろうと必死になってもがいていたのは、女たちとの官能的交流の向こうにある、官能そのものとしての、生命そのものの世界なのである。 しかし、彼はそこに入ることもできず、また、死ぬこともできず、狂気の中で、この世に留まっているのである。 このような西山老人の姿は、まさに晩年の川端康成の姿そのものなのであろう。 しかし、そのような生命そのものによって支配された、魔界のあり様は、『禽獣』という作品 において、恐るべき仕方で、その姿を垣間見せる。 ここでは、小鳥や犬が、寓喩的〈アレゴリカル〉な仕方で、まさしく官能そのものとして描かれる。 特に印象的なのが、犬の出産の場面である。 中庭の土は、初冬の朝日に染まったところだけが、淡い新しさであった。その日のなかに、 犬は横たわり、腹から茄子のような袋が、頭を出しかかっていた。ほんの申訳に尻尾を振り、 訴えるように見上げられると、突然彼は道徳的な苛責に似たものを感じた。 この犬は今度が初潮で、体がまだ十分女にはなっていなかった。従ってその眼差は、分娩と いうものの実感が分からぬげに見えた。 『自分の体には今いったい、なにごとが起こっているのだろう。なんだか知らないが、困っ たことのようだ。どうしたらいいのだろう。』 と、少しきまり悪そうにはにかみながら、しか し大変あどけなく人まかせで、自分のしていることに、なんの責任も感じていないらしい。 ここには、生命そのものの持つエロティシズムが、不思議な仕方で、若い、というよりまだ幼さない雌犬の出産の場面をとおして描かれているように思われる。 三島由紀夫も言うように、この犬の眼差はまさしく創造主の眼差なのかもしれない。 創造主たる神は、こんなあどけない無邪 気で無責任な眼差で、自らが産み出してしまった人間を見つめていたのではあるまいか。 それは 人間存在の意味を、そして生命そのものの意味をわれわれが問いかけるとき、陥らざるを得ない 恐ろしい懐疑である。 われわれ人間は確かに存在する。生命もまた存在する。しかし、そのことの意味も、またその価値もわれわれにとって、あくまで不可知にとどまる。否、単に不可知にとどまるというのではなく、なんの意味も価値もない絶対虚無の中においてのみ生命の意味は充実 しえるのではないか。このような生命の意味のもつ逆説的構造を、われわれはまず承認しなければならないのではないか。このことの承認の故に、この『禽獣』という作品の中には、嘔吐を伴うような厭人癖、危機的とまでいえるほどの人間嫌悪が漂っているのではないか。 そして、そのような生と死とによって支配された魔界の狭間に、微かな仕方で存在しうるのが、 仏界なのかもしれない。 その世界を見事に描いたのが、『抒情歌』という作品である。 この明治 の女のきりりとした着付を思わせるような文体によって描かれた真昼の神秘の世界、それは川端 の切実な「童話」であり、また彼のもっとも純粋な告白である。 この童話的、神話的、そしてさ まざまな妖精達、神々、仏達の棲む世界はあまりにも美しい。そのような美こそが、自我によって保持されえるところのこの世界における生命の責任かもしれない。それを川端は「ありがたい抒情歌のけがれ」という言葉で表現している。 そして、それは、愛する人の傍で眠っているとき、 その人の夢を見ることのない世界である。 「あなたの傍に眠っていましたとき、あなたの夢を見たことはありませんでした。 」 しかしながら、そのような魔界に、われわれは本当に入ることができるのであろうか。もしで きるとすれば、それは、性のタブーといわれるようなものを破ることによってではないだろうか。 たとえば、三島由紀夫の『音楽』という作品においては、少女期の兄との近親相姦によって、美しい「愛」のオルガスムスを体験した女性の冷感症が描かれている。 近親相姦がなぜタブーとさ れてきたのか。それは、単に生物学的理由によるものではないと思われる。 おそらく、近親相姦によって人はあまりにも大きすぎる快感を体験してしまうからではないか。そのような仕方で、 魔界を見てしまった者は、もはや、この現実の世界の中では生きてゆくのが困難になってしまうのではないか。
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