the one and only PIER PAOLO PASOLINI !! パゾリーニ映画鑑賞の試み〜王女メディア http://www005.upp.so-net.ne.jp/guillo/pppstudy/ppp/esmedia.htm −支えのないこの大地は沈むであろう! お前たちは、祈っていない!
イントロ・・・ さて「王女メディア」について見てみましょう。 そもそもメディアの物語はギリシャ数々の伝説のなかでも悲劇性の際だつもので、エウリピデス、セネカの劇作をはじめ、ドラクロアの絵画、ケルビーニのオペラなど幾多の芸術家たちにインスピレーションを与えてきました。映画としてはカールドライエルが計画したことがありますが実現せず、パゾリーニが初めて本格的に取り組んだことになります。 例によってパゾリーニ自身のこの作品に関する言葉からご紹介しましょう。 「王女メディアは、私が<アポロンの地獄>の時にもやろうとしていたことをギリギリにまで押し進めた作品である。<奇跡の丘>の時と同じように、ここでも砂漠が主役だ。だが<奇跡の丘>のとき、砂漠は地理的・肉体的なものとして扱われていたが、ここではむしろ人間にとっての内的な砂漠という意味で出ている点が違う」 「この映画は宗教(信仰)の生誕についての物語だ。エウリピデスのギリシャ悲劇とはほとんど関係ない。ふたつの並行的な宗教教育がある。裏返しの意味でのメディアのそれとケンタウロスによるイアソンへのそれだ」 この作品は<アポロンの地獄>同様に、ギリシャ悲劇を題材としたものですが、<アポロンの地獄>がかなりパゾリーニの個人史的・自伝的な思考に枠取られていたのに対して、こちらは相当直裁に、彼の文明史観を創造しあげたという点で、ギリシャ悲劇であることをすっかり忘れてしまうほどに独特の世界を構築しています。 物語・・田舎女の復讐、おそるべし!
ではその物語についてかいつまんでご紹介しますと・・。 ギリシャの英雄イアソンという人物がおりまして、彼は、元来自分のものとなるはずだった王国を返還してもらう条件として、全能を約束する「金毛羊皮」を求め、人類最初の船といわれるアルゴー船に乗って東方世界へ旅することになる。仲間にはあのヘラクレスやオルフェウスがおりまして、因みに映画では馬に飛び乗ろうとするのがヘラクレス、竪琴をつま弾くのがオルフェウスであります。途中いろいろと冒険などしながら(映画では割愛)やっと彼はコルキス国でその宝物を手に入れる。 そもそも「金毛羊皮」というのは中部ギリシャを治めていたプリクソスが継母に殺されそうになったところを助けたという人間の言葉を話し空を飛ぶ羊でありますが、それはともかくこれをイアソンが手に入れることが出来たのはコルキスの国の王女メディアが彼に入れ込んでしまったからで、彼女メディアは弟を殺し父に背き、イアソンの帰還の旅路に同行した。 ところがイアソンは王国返還の約束を破られギリシャ国内を放浪することとなり、コリント国で手厚く庇護を受けて王女グラウケの婿となります。自分は全てを捨て去ってイアソンについて来たのに彼に裏切られたメディアは、逆上して、グラウケとコリント国王を呪い殺し、またイアソンとの間にもうけた子供たちを殺す・・・。 復讐を遂げたメディアは魔法の竜の車に乗ってアテネへ逃亡する。概略これが「伝説・伝承」のなかのメディアの物語といえましょう。 これをベースに紀元前5世紀にはエウリピデスが「悲劇」を書き、以後、定番となったのであります。なんというか、テーマとして非常にモダンというか、現代にも通用する筋書きですね。田舎の旧家の娘が、都会からやってきた男に出会い、一切を捨てて駆け落ちした。ところがこの男は別の女と浮気して離婚話を口にする。頭にきた女は復讐のため浮気相手とその父親を殺し、自分たちの子供を殺して焼身自殺する、とまあ、今夜の夕刊にでも載りそうなメロドラマでもあります。 コルキスの人々 さてパゾリーニは当然に、こんなメロドラマを映画化したわけではありません。 これは実はこの作品を観賞するうえで重要なことです。つまり、メディアという物語は今述べたような現代のメロドラマにもなりうるという意味で、非常にドラマツルギーが緻密かつ普遍的な悲劇です。
一説によれば、古代ギリシャには小麦が採れないので、イアソンの東方遠征は小麦輸入ルートの開拓であった、というような歴史学的解釈も成り立ち得るこの物語は、同時に、夫の浮気に逆上した田舎女の復讐恐るべしという解釈をも許す、幅広く厚みのある世界を内包しています。つまり私たちはこの物語世界をどのようにも解釈出来るし、どのように観賞してもそれに耐え得る作品だ、と言えましょう。 ところがパゾリーニはこの物語世界を映画化するにあたり、まず、そういう豊かなドラマツルギーの一切を排除しております。彼の映画は寓意的なものが多く、ある一定の物語を語ってそれ以上でもそれ以下でもないというようないわゆるストーリー映画を作ることはしませんでしたが、この作品は特にそれが顕著であります。 徐々に物語に入り込むようなことを最初から拒絶ないしは黙殺して、いきなり古代世界の再創造を行ってみせる。それがこの映画の第一部すなわち古代かつ未開の国コルキスにおける五穀豊穣の呪術的祭りのシーン、延々と見せるサイレントシーンです。そして次に、先に述べた物語の筋書きを追って第二部が展開するのですが、第一部を充分に理解した後でないと第二部の中にはなかなか入り込むことが出来ない。入り込むというか、物語の展開に流されてしまいかねない。 従って、この作品はそもそもメディア悲劇をタイトルに借りただけ、とさえ言い得る印象を持っています。例えば白井佳夫氏もこのように書いています。 「彼はおそらく、この(第一部の祭りの)シーン一つに賭けて、無機質の大地の上に生きる人間の営為の意味を探るチャレンジを、どこかで一点突破させることが出来ればそれでいい、作品総重量の約五分の一のロケットの本体を未分明の新しい次元に打ち込むことが出来れば、残る五分の四の部分の犠牲としての切り離しも、またやむを得ない、というところまでやって来たのである」 誇大妄想的、古代?? 確かにこの作品に見るべきは、まず古代世界の独特の造型であります。 わたしたちが空想する古代ギリシャとは明らかに異なる、剥き出しの荒々しい砂漠世界が<アポロンの地獄>の時のように登場します。 それは、この地上に、おそらくかつてあった試しのない世界であり、まったくパゾリーニの主観により再構成された世界です。というのも、ロケ地はトルコ、シリア、北イタリア、におよび、それらが実に齟齬無く繋がれている。またそこから聞こえて来る音楽は、日本の三味線から地唄、チベットの密教音楽、アラブ音楽に至るまで、幅広い趣向を備えており、世界の隅々、辺境の情景を呼び起こす力に満ちています。さらに特筆すべきは衣装や装飾でありまして、アフリカやジャワ、南米あたりの未開部族の装飾品といった感じのものをごちゃまぜにして<奇跡の丘>で見たようなざらついた毛織りの装束をまとった身に付けている。こうした人々が鮮やかなカラー映像で、荒々しい風景の中に定着されています。パゾリーニ自身はこれを次のように語っています。 「<アポロンの地獄>と同じく、この映画の時代も先史時代に設定したが、私には古典的な歴史映画を撮ろうという意思など全くなかった。だから時代考証などに神経を使わず、アフリカやアジア、ヨーロッパの衣装などをミックスしたものを使い、日本の音楽などを流したのだった」 例えばロケ地にしても、未開で呪術が支配しているメディアの故郷コルキスはトルコのカッパドキア地方であり、父親が娘の苦悩を心配するほどに理性的な国コリントはピサの、さすがに斜塔は登場しませんがその斜塔の近くのカンポサントでロケされている、といった具合です。 かつてあった試しはないが、こうであるべき世界を再創造すること。これは芸術家に与えられた使命とも言えるでしょうが、パゾリーニはこの作品においてまさにこの困難な仕事をやり遂げていると言えるのではないでしょうか。その時、「こうであるべき」とは、芸術家の主観、もっと言えば彼の世界観、思想を開示することであり、この独特の古代の造型にこそ、まずパゾリーニの思想を読み取ることが重要なのであります。 で、文明論之概略・・ その思想について検討する前に、もう少し、文化人類学的なアプローチ、アニミズムに「関する」知識(savoir)の豊富な彼がいかに古代世界を創造したか、細部を見てみましょう。 例えば神殿に祈りを捧げに行くメディアが炎の禊をするあたりには、日本にも同様の習俗が見出せます。わたしなどは、すこし合理的に描き過ぎているような気もしましたが、いかがでしょうか。 あるいは白井氏が、パゾリーニはこのシーン一つに賭けた、と言う第一部のコルキス国の五穀豊穣祈願の様子は、どうでしょう。生け贄の男が殺されてその血を作物のまだ若く青く輝いている葉に塗り付けるといったシーンですが、これもまた例えば中南米あたりの実際の古代の習俗を踏襲したものではあります。 蛇足になりますが、この祈願の最中に、おそらく農民たちと思われる多くの人々が、支配者たちに向かって唾を吐きかけるという面白い場面がありましたが、このブリューゲル的に「逆立ち」した年に一度の無礼講的な行為は、どこかに引用元があるのでしょうか、わたしは知りません。 とはいえ……しかし、だからといってオリジナリティが問われる筋合いのものではありません。これらの各部分がどことなく世界各地の呪術的習慣の寄せ集めのように思われるとしても、それらはいわばわたしたちにおけるユング的な集合的無意識を喚起させるものであり、それ以上に重きをなしているのは、それらを寄せ集めたところの総合的造型であります。重要と思われるのはこれらのシーンがあたかも完全にドキュメンタリーの形式で私たち観客の前に提示されているということなのです。 生け贄の男 今、それらを寄せ集めたところの総合的造型、と言いましたが、まさに彼の造型力は、これらのシーンの現実感について、あたかもリアリズム映画であるかのようにまでその迫真性を高めています。ふと我に返ると、これは詩人のイマジネーションの産物なのだと思い出すわけですが、私たちはまるでそのイマジネーション世界に実際に立ち会っているかのような印象を受けます。それがガタガタした手持ちカメラによる映像でわたしたちの前に提示されると、わたしたちは彼らコルキスの人々と同じ風に吹かれているような錯覚すらおぼえます。極端な比較ですが、例えばヤコペッテイ監督のモンド映画における覗き趣味、観客であるわたしたちには絶対に及ばない保証付きの似非ドキュメンタリーと比較すると、この王女メディアのリアリティには風の匂いさえ感じられます。
全体になんといいますか……、久米明のもったりしたナレーションで紹介されたとしても違和感のないほどに、これらのシーンは「素晴らしき世界旅行」の趣きを湛えています。それはつまり、人間の営みというものを、極めて冷静に私たちに伝えようとする手法・意図であり、あの文化この文明、といった差異は差異として、総じて人間の営みの根源にあるものをそのままに提示しようとしています。 そこで、ではその営みとは、なにか? 祈り・・沈黙と、はかりあえるほどに・・
それは、冒頭に掲げた言葉に読み取れましょう。 −支えのないこの大地は沈むであろう! お前たちは、祈っていない! これは、故国コルキスからギリシャの地に上陸したメディアが発する叫びです。 コルキスのシーン、特に「全体重量の五分の一」を占めるほどに克明かつ直裁に描かれ、私たち観客をそこに立ち会わせた五穀豊穣のシーンの中心にあったものは、すなわち「祈り」でありました。祈りは、同時に「恐れ」であり、沈黙ですらあります。長い長い台詞なしのコルキス。ショウミョウのように歌うか、あるいは泣き叫ぶかするだけのコルキスは、この祈りの国であり、祈りを支えとして大地に生け贄の血を吸い込ませ、またその遺灰を風に巻く赤裸々の土地でありました。コルキスにおいて、パゾリーニは、人間の営み、例えば生命を育むことのその根源に「祈り」があることを私たちに「見せて」います。それは教義や体系といった雄弁を生む以前の、きわめて素朴な沈黙における信心であり、同時に生命、豊穣、生存への希求と畏怖に貫かれた荒々しい信仰でもあります。 わたしは先にパゾリーニの次なる言葉を引用しました 「<奇跡の丘>のとき、砂漠は地理的・肉体的なものとして扱われていたが、ここではむしろ人間にとっての内的な砂漠という意味で出ている点が違う・・」と。 彼の言葉は相変わらず直感的ですけれど、例えば<奇跡の丘>と比較して、この映画における砂漠は、人間存在を極限にまで磨き上げ、まるで風土としての紙ヤスリと言いたいほどにもざらざらした質感をもっています。キリスト教義を主軸に展開されていった<奇跡の丘>においては、砂漠は、教義の納得性を高めるうえでの効果的な「背景」でありました。けれどもこのメディアにおいては、このような大地に生きる人間にとっての祈りの持つ意味を際だたせるための「主役」であり、それはつまり彼らの精神生活における風土なのであります。 これは<テオレマ>に登場する火山灰大地とも、おそらく質的に異なるでしょう。<テオレマ>における砂漠が、ブルジョワ家庭の、衣食住満たされてもなお潤いを欠いた、例えばアントニオーニ監督流の「砂漠」すなわち荒廃した内面生活の象徴であるのに対し、この王女メディアにおける砂漠は、文字通り彼らの厳しい生存状態を裏書きする生活環境であると同時に彼らの荒々しく力強い祈りと恐れを育む精神基盤としての風土でもあるのです。それが彼の言う「内的な砂漠」ということであります。 コルキスからの逃走と追跡 さて、祈り、とは論理にはなりにくいものです。論理になりえたら、それは祈りではないでしょう。祈りとは、非論理であり、それは合理主義的な理性の前ではもしかしたら野蛮な営みとさえ言いうるかもしれません。
洗練された都会人であるコリントの人々は、祈りとともに生きるメディアを恐れています。コリント国王は、娘グラウケがイアソンと結婚するに際しメディアのことを恐れている、とメディアに伝えに来ます。この国王の、娘を思う気持ちは、きわめて人間的であり理性的です。 けれども既にメディアの心中には復讐のための呪いが宿っています。呪いもまた、祈りと同じであります。第二部は、メディアの幻想のなかのシーンと、実際に起きたシーンと、二回もほとんど同じ映像が登場しますが、これは一体なぜなのか? 悲劇メディアの物語を字面通り描くだけでは上映時間に満たないからか? そうではないでしょう。呪い通りの運命を着実に辿っていくことの悲劇性を強調したいからか。それはあまりにギリシャ悲劇に即した見方ではありますが、納得性はあります。 しかしわたしは、この第二部は、白井氏の書くように第一部を際だたせるための「犠牲としての切り離し」を強いられたものというふうには考えません。 第二部には、パゾリーニが時として見せる、人間性への信頼、慈愛とも言うべき、ややアンビバレンツな情感が込められているように思えてならないのです。これが第一部の荒々しさ、悲愴なまでの厳格な風土との対比において滋味に似た味わいを、作品に与えていると言えるのではないでしょうか。 例えば上述のとおりコリント国王の娘に対する愛情。その国王であり父親でもある深刻な悩みは、例えば第一部に登場したイオルコス国王のような尊大な態度とは異なり、マッシモジロッティの荘重な好演もあって心情的に実に奥深く揺り動かされるものがあります。 それに、イアソンと結婚するにあたりメディアのことを悩むグラウケという存在は、マルガレーテクレメンティのオリエンタルな容貌ともあいまって、きわめてリリカルに描かれています。 また、最後に子供たちを風呂に入れる場面での、メディアの母親としての慈愛の深さはどうでしょうか。これを心中を前にした最後の慈愛ないし偽りの愛情と解釈するとしても、このような愛情深い感情表現はメディアの故国コルキスではおそらくありえようがないでしょう。 また、イアソンの、ソフィスティケートされたコリント生活における享楽ぶりや、古い連れ合いメディアを重荷と思う気持ち、またメディアがグラウケとの結婚を許した瞬間に見せる照れくさそうな微笑などは、人情味というものをとてもよく描いていると思えます。 こどもたち
つまるところこれら第二部の各シーンには、第一部における根源的な祈りと比較して、より人間的、ヒューマンなものへのパゾリーニ自身の愛着、後に続く<生の三部作>を予見させるような人間性の情緒的なものへの肯定的な眼差しが見受けられる、と言ったら、それは後知恵に過ぎるでしょうか? けれど生の三部作を捨象したとしても虚心坦懐にこのメディアを見ると、この第二部には、人間が人間を想うこと、が比較的情感豊かに描かれており、それは第一部の厳粛な沈黙の祈りと対置されてこそ、その豊かさが伝わるような作りとなっていると思います。
ただし、実際のところ第二部はもはやドキュメンタリーではありませんでした。そこがこの映画の難解な点でもあります。第二部は悲劇メディアの「復讐劇」という筋書きに忠実なドラマとなり、沈黙のかわりにセリフは増し、明らかに「見せる」第一部でなく「語る」第二部となっています。 本来的には、第二部は、第一部と同様に生態学的な眼差しをもって鑑賞すると、細部が理解されやすいのかも知れません。 けれども第一部に入り込み、そこに抜き差しならぬ驚異の世界を発見し、それだけで有頂天になってしまうと、この第二部は付け足しにしか思えなくなるかもしれません。或いはこの作品が悲劇メディアを映画化したものだという先入観から逃れられない人は、第一部の意味合いが理解できず、従って第二部の「悲劇物語」においてもその一般的な意味でのドラマツルギーすなわち葛藤の深まりのなさ、に失望するかも知れません。 この映画が唐突に終わるのは、すでにパゾリーニとしては語り終えてしまっているからでしょう。<豚小屋>と同様に、突然にエンドマークの出るこの作品は、その断ち切りによって、いわゆる「物語」を捨象する効果を高めていると思われます。女の復讐劇、という物語は、少しもこの映画に寄与していないと言えるのではないでしょうか。 寄与しているとすれば、未開未明ではあったが祈りの王国であった故郷を捨て去り、遠い異国にて今、漂泊する魂に揺さぶられている巫女の、依然として神々しく気高く、その存在自体が悲劇である様子をあますところなく演じきったマリアカラス一世一代の名演によるものが大きいでしょう。 例によっての蛇足を、しばし・・ さて、あまりに長くなりすぎましたので、その他あれこれの雑感について、足早に思い巡らしてみましょう。 ケンタウロスがしきりに現代、現代、と語る時、わたしたちはどきりとします。わたしたち観客に対して直接に語りかけてくるこの語り口は、例えば<アポロンの地獄>や<豚小屋>の時のような「古代編・現代編」のシンメトリックないしパラレルな構造よりも余程にさりげなく、かつショッキングでもあります。 パゾリーニは「私が描いたのは現代の反映である」と語って憚りませんが、穿った見方をして、例えば現代劇<テオレマ>を、この王女メディア風の発想で捕らえた場合、どうでしょうか。女中だけがブルジョワ一家の面々とは異なる結末を迎えること。それはすなわち彼女に、恐れがあり、祈りがあることではなかったでしょうか。「けれども我々は何を祈ったらいいのでしょうか?」<テオレマ>に登場するジャーナリストたちは、このような、答えのない問いを発していたのではないでしょうか。 パゾリーニの発言を見ますと、この映画は、いわゆる第三世界が「西洋化」(すでに「ノスタルジック」な言葉にも思われますね)に直面して、その聖なる世界が瓦解し、もはや元には戻れない、という悲劇的な状況を描いたものである、とのことです。その意図は果たして、今もなおこの映画から伝わるでしょうか? おそらく「解説」として聞かされなくては、もはや気がつかないのではないでしょうか。メディアが、聖性を失う第三世界のアナロジーであり、イアソンはその聖性を発見していくプラグマチックな西洋文明のアナロジーであるという、そうした理屈ばった解釈ないし企画意図の考察については、「聖なるものと政治なるもの」のふたつの土手の間を奔流となって流れた彼の思想の検討概説の方に譲りたいと思います。 谷川俊太郎氏は、パゾリーニは猿が人間になろうとしている、その瞬間に生じているような根元的な事柄をそのままに定着しようとしているのではないか、といった所感を述べておられますが、まさに同感です。 例えば<2001年宇宙の旅>で、猿が道具となった骨を投げると空中で宇宙船に切り替わるという有名なシーンがあります。キューブリックとクラークは、このシーンで数万年にもわたる歴史を飛び越えようとしたのでしょうが、それはいささか物質文明と科学技術中心の一面的な発想と言わざるを得ません。 わたしはこの王女メディアを見るたびに、先の谷川俊太郎氏の所感もあいまって、キューブリックとクラークが単純に飛び越えようとした部分にこそパゾリーニが切り込んでいこうとしたのではないか、と思います。特に、<2001年宇宙の旅>における類人猿たちの生活環境とほとんど違わぬ荒野に生きるコルキスの人々と、その空気を共に吸い、共に風に吹かれると、ついそのように考えてしまいます・・ http://www005.upp.so-net.ne.jp/guillo/pppstudy/ppp/esmedia.htm
|