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遥かなる縄文の記憶〜科学の目で見た縄文〜
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/223.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 2 月 08 日 08:47:01: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

遥かなる縄文の記憶〜科学の目で見た縄文〜 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%81%A5%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%82%8B%E7%B8%84%E6%96%87%E3%81%AE%E8%A8%98%E6%86%B6%EF%BD%9E%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%9B%AE%E3%81%A7%E8%A6%8B%E3%81%9F%E7%B8%84%E6%96%87%EF%BD%9E

再生時間:29分

制作年度:2010年


技術も文明も何も持たない原始的な社会と考えられていた縄文時代。しかし青森県の三内丸山遺跡の発見からその常識は覆されます。驚くほどの高度な建築技術、クリなどの植物栽培、環境に適応した生活。なぜこうした事柄が解明されたのでしょう?

考古学というと発掘現場のイメージを持ちますが、実はその後の科学技術が未解明の事柄を解き明かします。この番組では今まであまり知られていない科学の目で見た縄文の世界を紹介します。

出演者名・所属機関名および協力機関名

岡田康博(青森県教育庁 文化財保護課)
石川隆二(弘前大学 農学生命科学部)
小林利道(大林組 プロジェクト設計部)
馬場悠男(国立科学博物館 人類学研究部)
米田穣(東京大学大学院 新領域創成科学研究科)
金原正明(奈良教育大学 古代文化財科学専修)
辻誠一郎(東京大学大学院 新領域創成科学研究科)
青森県教育庁 文化財保護課
 



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不死とされた蛇、女の子宮、精子としての水…日本人が誇るべき“本当の縄文人の世界観”
大島直行インタビュー2017.01.27.
http://tocana.jp/2017/01/post_12128_entry.html

 近年、縄文ブームが大いに盛り上がっている。だが、そんな中にあって、従来の縄文のイメージをひっくりかえす独自の縄文解釈を展開して注目されているのが、北海道考古学会会長の大島直行氏である。


 2014年刊の著書『月と蛇と縄文人』(寿郎社)
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%88%E3%81%A8%E8%9B%87%E3%81%A8%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA-%E5%A4%A7%E5%B3%B6-%E7%9B%B4%E8%A1%8C/dp/4902269678


では、廣戸絵美による裸婦の写実絵画《妊婦》と国宝土偶の《縄文のヴィーナス》を並べた挑発的な表紙で、月や蛇といった再生のシンボルを使って縄文人の神話的世界観を読み解くという野心的な試みを大胆にアピールした。「縄文土器は鍋ではない」「竪穴住居(建物跡)は住居ではない」「貝塚はゴミ捨て場ではない」と次々に縄文文化の一般的なイメージを覆し、人気プレゼン番組TED札幌にも出演して人気を博した。


 それに続く

2016年刊『縄文人の世界観』(国書刊行会)
https://www.amazon.co.jp/%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A6%B3-%E5%A4%A7%E5%B3%B6-%E7%9B%B4%E8%A1%8C/dp/4336060002


では、さらに具体的に縄文の土器、土偶、遺跡などを読み解き、膨大な考古学資料の背後に埋もれてきた縄文人の世界観を生き生きと描き出してみせたのである。

 そして、来たる1月29日(日)昼12:00から、東京・高田馬場の白夜書房地下BSホールにて大島直行氏の特別講義が予定されている。気鋭の考古学者が21世紀を生き抜くための縄文人の世界観を語り尽くすのだ。

「大島氏独自の縄文解釈とはどういうものなのか?」

「従来の日本の考古学者が縄文人の世界観を正しく理解できなかったのはなぜなのか?」

 今回は、そんなストレートな質問をぶつけてみた。


——最初に大島先生に注目したのは、北海道考古学会会長としての積極的な発言でした。09年に「北海道・北東北を中心とする縄文遺跡群」が世界文化遺産の国内候補として暫定リスト入りを果たしているのに、毎年のように落選を続けていることについて、手厳しいコメントをなさっていましたが?

大島「縄文文化とは何か? 日本の考古学者はそのことを世界に納得してもらえるような形でちゃんと説明できていないんですよ。日本最大規模の三内丸山遺跡を頂点にして18遺跡をまとめて出せば、世界遺産に通るだろうというわけですけど、大きな勘違い。日本の考古学者は縄文土器の型式や年代を分類する編年研究に没頭して『縄文人はどんな人たちなのか?』『どういう世界観を持っていたのか?』そういうことを全然説明してこなかったということが問題なんです。

私は縄文文化が世界的にも他に類をみない独自の世界観を持っていたと確信しています。つまり、縄文人は新石器時代になっても、農耕社会に移行することなく、狩猟採集の生活を約1万3千年に渡って守り続けたのです。そして、土器、土偶、その他の出土品に見られるような非常に豊かな文化を育んできました。縄文人はシンボリズムとレトリック、つまり、象徴とその読み替えのメカニズムを基礎とする狩猟採集の世界観でひとつの文化を作り上げた貴重な存在なのです」


白い貝を敷き詰めて復元された北黄金貝塚
http://tocana.jp/2017/01/post_12128_entry_2.html


——先生独自の縄文解釈で、たとえば、青森県の三内丸山遺跡を読み解くならばどうなりますでしょうか?

大島「三内丸山はなぜ価値があるのか。大きい、広い、出土品が多いなんて説明じゃダメなんです。たとえば、植物学者の辻誠一郎さんが花粉分析したら、遺跡のどこを掘っても栗の花粉が出てきたといいます。人為的に栗の木が植えられていたわけです。春の季節には、栗の雄しべで広い遺跡一帯が、真っ白になっていたことでしょう。

葉は緑で花は白、緑も白も再生のシンボルですから、そう考えると、三内丸山は単なる巨大集落ではなく、再生を願う縄文人が全国から集まってくる聖地のような場所(トポフィリア)だったと考えられます。ここでいうトポフィリアとはアメリカの地理学者イフー・トゥアンが提唱したもので、ラテン語で『愛すべき土地』を意味します。私は脳レベルでトポフィリアという概念があったと考えています」


貝塚から発見された人骨(北黄金貝塚情報センター)
http://tocana.jp/2017/01/post_12128_entry_2.html


——先生が考える縄文人の神話的世界観とはどんなものなのでしょうか?

大島「私のシンボリズムというアイディアは、ドイツの日本学者ネリー・ナウマンによる縄文研究を発展させたもの。彼女が参照したユング、カッシーラー、エリアーデなどに立ち返り、心理学、哲学、宗教学にまで関心を広げていくと、人間を人間たらしめているのがシンボルであると確信できました。

そして、ナウマンの解釈に沿うならば、シンボリズムとは、アニミズム、シャーマニズム、トーテニズムといった「原始宗教」よりも以前のもので、霊や先祖を信じることもなく、愛や家族という概念もなく、ただひたすらに再生のシンボルとなるものを探し求め、作り続けていたのではないかと思うんですよ。それは私が思考の因子といっているものですけど、最終的には脳科学も参照しないといけないでしょう」


縄文土器(北黄金貝塚情報センター)
http://tocana.jp/2017/01/post_12128_entry_3.html


——もっと具体的に縄文人はどんな人たちだったのでしょうか? どのような生活をしていたとお考えですか?

大島「ひとつ重要なことは人間の数ですよ。縄文時代の人口について、ある考古学者は26万人という数を出しています。もっと多いかもしれませんが、北海道には3万人です。現在、北海道には540万人いるんですけど、3万人なら、いないに等しい、熊や鹿の方がたくさんいたと思われます。人間同士の軋轢もなく、家や祖先、愛という概念も生まれにくい、そういうなかでは男と女は自由に交わって子供を作る。そういうものだと考えられますよね。そういった世界観が様々な遺構や遺跡、遺物を生み出したわけで、だからこそ世界遺産としての普遍的な価値があると私は考えます。シンボリズムとレトリックが縄文の本質であるなら、その証拠はいくらでもみつけられますし、遺跡や遺物についても容易に説明がつくということなんです」

——では、縄文の文様は何を表しているのでしょうか?

大島「縄文の文様は蛇でしょう。縄文土器が凄いのは最初に縄目の文様で蛇を表現したこと。蛇は世界中の神話にあります。脱皮を繰り返す蛇は再生のシンボリズムなんです。そして、蛇を象徴する文様がひとつの文化として定着すると、多くの人が“効き目”がある文様を模倣し、もっと“効き目”がある文様を求めて、さまざまな実験を繰り返す。そんな時代が1万年以上も続いたのが縄文時代だったんです」


クジラの骨でできた刀(北黄金貝塚情報センター)
http://tocana.jp/2017/01/post_12128_entry_3.html


——ここでいう“効き目”とはどのようなものでしょうか?

大島「日常生活の中で“死にたくない、蘇りたい”と思い、効き目のあるシンボルをどうやって編み出すかに命を賭けていた、すべてがそこに集約できます。歴史的な経緯もなく、発展や進歩を選択せず、1万年間ずっと変化しないといえばよくわかるでしょう。土器の形がいろいろとかわるのは効き目を試しているからですよ。別の例でいえば、翡翠(ひすい)は縄文時代の1万年間を通して、北海道から沖縄まで分布しています。でも翡翠はジュエリーでも宝石でもない、ただ地球上で再生のシンボルである白と緑が同居している石はそれしかなかったんです。効き目が抜群だったんでしょう、それが信仰ですから。翡翠を手に入れて持つことが大切だったんです。科学的に効果があるということではなく、縄文人を精神的に満足させるもの。頭の中に再生の因子があって、それになぞらえるものは、何でもやったってことですよね」


水場の祭祀場(北黄金貝塚)
http://tocana.jp/2017/01/post_12128_entry_3.html


——縄文人が現代人に教えてくれることは何でしょうか? その世界観を理解することで私たちには何がわかるのでしょうか?

大島「縄文人が作ったものは9割以上が再生のシンボリズムでしょう。生理の周期とリンクして満ち欠けする月、女性の子宮、羊水としての水、それらは皆、再生のシンボリズムです。何か再生するものをシンボライズして、レトリカルに描いているだけ。それを読み違えて、現代な美術的感覚とか、経済的価値観とか、合理性とか、そんな解釈をしても全く意味がないわけです。シンボリズムとレトリックで読み解くと、縄文は本当に面白いんですよ。考古学者には理論はないから彼らに任せていいたら読み解きは全然進まない。最近、積極的に講演をするようになったのは考古学者ではない一般の人たちにも一緒に考えて欲しいからですよ。そして、私の講演を聞いた人は再生のシンボリズムという根拠を持って縄文文化を捉えてほしい。つまり、現代の感覚で縄文人を想像するのではなく、自分自身が縄文人になって、現代における縄文的なものを発見していって欲しいですね」


——現在、タトゥーアーティストの大島托とのコラボレーションで縄文タトゥーの復興プロジェクト『縄文族 JOMON TRIBE』を推進しています。僕らは現代人の身体に実際にタトゥーを施してみることで「縄文時代にタトゥーはあったのか?」という問いに具体的な返答を試みようとしています。縄文人のタトゥーについて、先生のご意見を伺えればと思います。

大島「当然、タトゥーはあったでしょう。それを立証することはなかなか難しいかもしれませんが、その理由はやっぱり再生のシンボリズムです。縄文土器そのものが女性のカラダを象徴しているわけですから、縄文時代にタトゥーを彫る技術があったなら、それこそ“効き目”抜群の文様を究極のシンボリズムとして身体に刻んだことでしょう」

 大島氏がユニークなのは、日本の考古学において圧倒的な主流である土器の型式や年代を分類する編年研究に対し、それを乗り越えるべくシンボリズムとレトリックをキーワードに大胆に縄文人の世界観を読み解いてみせたことにある。そこでは、脱皮を繰り返して不死とされた蛇、女性の子宮、羊水あるいは精子としての水、生理の周期とリンクして満ち欠けする月、それらが再生のシンボリズムとされる。さらにそのようなシンボリズムは農耕以前の人類に共通する生得的なものであると断言し、精神分析学のカール・ユングが神話や曼荼羅の研究から探求した全人類に共通する心の構造としての普遍的無意識を縄文の文様や遺跡の読み解きに応用しているのである。大島氏が読み解く縄文人の世界観は、1万年という時を超え、「人間とは何か?」という最も根源的な疑問に新たな気づきを与えてくれるものなのである。


●大島直行(おおしまなおゆき)
1950年北海道生まれ。札幌医科大学客員教授、北海道考古学会会長、日本考古学協会理事、日本人類学会評議員。医学博士。著書に『月と蛇と縄文人』(寿郎社)、『縄文人の世界観』(国書刊行会)などがある。第三弾『墓と子宮の考古学ー縄文人はなぜ死者を穴に埋めるのか』を今年出版予定。




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縄文人 栽培、加工で自然利用
02/06 05:00
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20190205-OYT8T50209/

 縄文時代の大規模環状集落跡・デーノタメ遺跡(埼玉県北本市)で、大量に出土した植物類の分析が進み、縄文人が里山のように自然に手を入れながら利用した姿がよみがえりつつある。(文化部 清岡央)

 

埼玉・デーノタメ遺跡を分析…クルミの人工林、ベリーで酒?

北本市教委提供の写真を加工北本市教委提供の写真を加工


 生い茂るコナラやクリの木の間から、冬の陽光が柔らかく差し込む。遺跡は今、雑木林に覆われている。落ち葉の上に黒い羽根が散乱していた。オオタカがカラスを捕食した痕だ。豊かな自然に、人々が森の恵みと暮らした縄文時代を思う。

 北本市教育委員会が2000年度から断続的に行った発掘調査で、縄文中〜後期(約5000〜3800年前)に集落が営まれたことがわかった。特に中期の集落は、長径約210メートル、短径約160メートルに及ぶ長円形の、関東でも最大級の環状集落だった。

 遺跡名は、近くにあった湧水によるため池が地元で「デーノタメ」と呼ばれたことにちなむ。由来通り、北側の低地部は地下水が豊富で、通常は地中で残りにくい植物などの有機物が守られ、植物遺体や木材が大量に出土。水辺の生活空間が集落とセットで発見された貴重な例となった。

 

■野生種より大粒

 遺跡内の土中から採取された花粉の種類を、時期ごとに分析したところ、興味深いことがわかった。

 集落が営まれる前の地層に残っていた花粉は、低地部ではハンノキが中心だったが、人が住んだのを境にクルミが中心を占めるようになった。台地部にもクリや、後には、実が食料とされたトチノキが現れた。縄文人が食用に役立つ樹木の林に仕立てた様子がうかがえる。

 裏付けるように、発掘ではクルミ類が約1万2000点も出土した。クルミの殻などをまとめて土坑などに捨てた「クルミ塚」も6か所発見された。特にオニグルミは、現在の野生種より大粒で、鑑定にあたった分析会社パレオ・ラボの佐々木由香さんは、「ただ増やすのではなく、大型の実がなるよう光の当たり方など環境をコントロールしたのでは」と推察する。

 周辺では、土でクルミの殻を模した「クルミ形土製品」や、ヒスイの装飾品、耳飾りなども出土し、豊かな実りを祈る儀礼が行われた可能性もある。さらに、ウルシの花粉と、木材も確認された。赤漆と黒漆を鮮やかに塗り分けた土器が大量に出土しており、この地でウルシの木の栽培・管理を行って、漆製品作りまで行われたようだ。

 

■豊富な豆類

 豆類も豊富だった。炭化したアズキのほか、土器の表面や内部にわざとダイズやアズキを埋め込んだ痕跡が残るものが複数出土した。

 縄文時代のダイズは、長さ0・5センチほどだった野生の原種が、中期以降に1センチを超えて大型化したものが現れることが知られ、栽培が行われたためとも言われる。同遺跡の土器にも長さ約1・2センチのダイズを埋め込んだ痕が見つかっている。

 昆虫の死骸が大量に出土しているのも注目される。縄文中期の層からは338点が見つかり、中でもコガネムシ科のヒメコガネが多くを占めていた。ヒメコガネは英語名が「soybean beetle(ダイズのカブトムシ)」と言うほどダイズを好む。栽培されたダイズが豊富だった様子を思わせる。

 

■果実を搾った?

 遺跡の土の中には、様々な植物の種や実が残る。縄文後期の土300ccをザルで水洗いしたところ、ニワトコの核が約1000粒、コウゾの種が約600粒も含まれていた。いずれもベリー類だ。佐々木さんは、「ベリー類は生食すると種子も食べて残らないはずなので、搾りかすを捨てたのだろう。果汁を搾って、酒やシロップなどに加工したのではないか」と推察する。

 調査で見えてきたのは、縄文人が集落近くの自然を、大きく改変しながら、たくましく生活した姿だ。阿部芳郎・明治大教授(考古学)は、「クリなど主食だけでなく、豆類やベリー類など様々な植物を、人が自然に大きく手を入れる形で利用したことがわかる。当時の生活環境が鮮明に解明できる国内でもまれな遺跡だ」と評価している。
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20190205-OYT8T50209/

 

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コメント
1. 中川隆[-12330] koaQ7Jey 2019年2月08日 18:45:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

日本人のガラパゴス的民族性の起源
0-0. 日本人の源流考 rev.1.3 2018/7/29
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm


  国立遺伝学研究所教授で著名研究者の斎藤成也氏が、2017年10月に核-DNA解析でたどるによる「日本人の源流」本を出版しました。


核DNA解析でたどる 日本人の源流 – 2017/10/21 斎藤 成也 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%A0%B8DNA%E8%A7%A3%E6%9E%90%E3%81%A7%E3%81%9F%E3%81%A9%E3%82%8B-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%BA%90%E6%B5%81-%E6%96%8E%E8%97%A4-%E6%88%90%E4%B9%9F/dp/4309253725


その中でやっと海の民にも焦点が当たり、当ガラパゴス史観の「縄文人の一部は海のハンター」史観が間違ってはいないかもしれない雰囲気になって来ました。

  そろそろ時機到来の様相になって来ましたのでガラパゴス史観を総括し、日本人の源流考をまとめてみました。 これはY-DNA及びmtDNAの論文104編を読み込みメタアナリシスした結果得た、アブダクション(推論)です。追加の着想がまとまる都度書き足します。 枝葉末節は切り捨て太幹のみに特化して組み立てていますので、異論・興味のある方は、 当史観が集めた論文をじっくり読んで是非御自分で源流考を組み立ててみてください。


はじめに

  当ガラパゴス史観が、Y-DNAとmtDNAツリー調査を進めて行った時、ホモサピエンスの歴史自身をもう少し深堀したい疑問が生じてきました。

 ・何故、ホモサピエンス始祖亜型のY-DNA「A」やY-DNA「B」はその後現代にいたるまで狩猟採集の原始生活から前進せず、 ホモエレクトスの生活レベルのままだったのか?

 ・シ−ラカンス古代亜型のY-DNA「D」、Y-DNA「E」やY-DNA「C」などの、オーストラリア、ニューギニアやアンダマン諸島、アフリカなどの僻地に残った 集団も、現代に至るまで何故「A」,「B」同様、狩猟採集から抜け出せなかったのか?

 ・彼らは本当にホモサピエンスになっていたのだろうか?我々現生人類はアフリカ大陸でホモサピエンスに進化してから 出アフリカしたと思い込んでいるが、もしかすると出アフリカ後に、ネアンデルタール人との遭遇で現代型に進化したのではないか?


1.ネアンデルタール人の出アフリカから始まったようだ。

  ホモサピエンスの亜種とされているネアンデルタール人(ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス:Homo sapiens neanderthalensis)は、 ホモエレクトスから先に進化し、60万年ぐらい前には出アフリカし、先輩人類としてユーラシア大陸に拡がったらしい。 そして3万年前ぐらいには絶滅した、という見解になっている。

  しかし現生人類の遺伝子の3−4%はネアンデルタール人から受け継いでいることも研究の結果解明されている。 その後、現生人類の先祖が、スタンフォード大学の研究では2000人程度の規模で、出アフリカしユーラシアに拡がるまで ネアンデルタール人の歴史は既に数十万年を経過しており、その間にネアンデルタール人はユーラシア各地で亜種に近いぐらい分化していたらしい。 アジアで発掘されたデニソワ人はどうもネアンデルタール人のアジア型の1例のようだ、 しかも研究ではデニソワ人の遺伝子が現代人に6−8%も受け継がれている、という報告まである。

  これはつまり現生人類は既にある程度の高度な文化を築き上げていたネアンデルタール人との亜種間交雑の結果、 一気に爆発的に進化し現ホモサピエンスとして完成したのではないかと考えるのが妥当なのではないかと思われる。


2.原ホモサピエンスから現ホモサピエンスへ脱皮したのではないか!

  我々現代人(Homo sapiens sapiens)の祖先は、ネアンデルタール人が先に進化し出アフリカした後も進化できずに出遅れ、 アフリカ大陸に残存していたホモエレクトスの中で、先ずmtDNA「Eve」がやっと進化し、Y-DNA「Adam」はかなり遅れて進化したと考えられていた様だが、 最近の研究ではY-DNA「Adam」も20万年近く前には既に現れていたらしい。

  しかも最近の発掘調査では、10万年前ごろにはすでにレバント地域に移動していたらしく、8万年前頃には中国南部に到達していたのではないか、と報告されてきている。 これまでの5−6万年前頃に出アフリカしたのではないかという旧説が、どんどん遡ってきているのは今後まだまだ新しい研究報告がある予兆と思われる。

  いずれにせよ、ネアンデルタール人が先に進化し、出アフリカした後に、落ちこぼれ 取り残されていた最後のホモエレクトスが遅れて進化したのが、我々の直接の先祖の原ホモサピエンスだったと考えられる。

  つまり、このころまでアフリカ大陸ではホモエレクトスが存続していた可能性があり、原ホモサピエンスはホモエレクトスの最終形だったはずである。
 Y-DNA「Adam」がY-DNA「A」となり、

 Y-DNA「A1b」からY-DNA「BT」が分離し、

 Y-DNA「BT」がY-DMA「B」とY-DNA「CT」に分離したが、

    この「A」と「B」はホモエレクトスのY-DNA亜型だった可能性も十分ありえる。

 Y-DNA「CT」が初めて出アフリカし、更にY-DNA「DE」とY-DNA「CF」に分離した。

    これは恐らく中近東あたりで先住ネアンデルタール人との交雑の結果と推測可能である。

    この「C」以降が現生人類のY-DNA亜型と考えられるが、もしかするとネアンデルタール人の亜型の可能性だってありえる。

 つまりY-DNA「A」と「B」はホモ・サピエンス・サピエンスではあるが完成形ではないプロト(原)ホモ・サピエンス・サピエンスと言っても良いかもしれない。

 西欧列強が世界中を植民地化するべく搾取活動を続けているときにわかったことは、アフリカ大陸やニューギニア・オーストラリアやアンダマン島の先住民は、 何万年もの間、古代のままの非常に素朴な狩猟採集民の文化レベルにとどまっていた、ということだった。

  研究調査からかなり高度な文化・技術レベルに達していたと判ってきているネアンデルタール人と比べると、 分類学的・解剖学的な現生人類/ホモサピエンスに進化したというだけではホモ・エレクトスと何ら変わらない文化レベルだったという証明だろう。 つまり脳容積がホモエレクトスより大きくなったり、会話が出きるようになった程度では、同時代のネアンデルタール人より原始的な、 しかし可能性は秘めている新型人類に過ぎなかったようだ(しかし体毛は薄くなり、前頭葉が発達し、見た目は多少現生人類的だが)。

  では一体、なぜ現生人類は現代につながるような文明を興すほど進化できたのだろうか?大きな疑問である。 一部の王国を築いた集団を除いた、古ネイティブ・アフリカンは大航海時代になっても、狩猟採集民でしかなかった。 その後西欧列強と出会わなければ、今でも狩猟採集のままのはずである。

  このことは、文明と言うものを構築するレベルに達するには解剖学的なホモサピエンスではなく、 何か決定的なブレークスルーのファクターがあったはずである。

  ネアンデルタール人と原ホモサピエンスの亜種間交配の結果、進化の爆発が起こったと推測するのが今のところ最も妥当だろう。

  出アフリカした先輩人類のネアンデルタール人と亜種間交雑し、ネアンデルタール人がすでに獲得していた先進文化を一気に取り込むことに成功し、 恐らく人口増加率(繁殖性)が高い原ホモサピエンスの中にネアンデルタール人が自然吸収される形で統合化されたのが 完成形の現ホモサピエンスと考えるのが最も妥当性が高い。 (この繁殖力の高さが現生人類の勝ち残った理由なのではないか、想像を逞しくすると、交配の結果得た後天的な獲得形質かもしれない。)

  もし出アフリカせずネアンデルタール人とも出会わずアフリカの中に留まっていたら、 人類は相変わらず19世紀ごろのサン族やピグミー族のように素朴な狩猟採集段階に留まっているだろうと容易に推測できるが、 北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 現生人類が出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。 つまりホモサピエンスが出アフリカし狩猟採集文化から脱し、現代文明にまで至ったのは必然だったということかもしれない。


3.日本列島への最初の到来者は、古代遺伝子系集団:Y-DNA「D」とY-DNA「C」
  Y-DNA「D1b」を主力とするY-DNA「C1a1」との混成部隊である。

  移行亜型Y-DNA「DE」はさらに古代遺伝子Y-DNA「D」とY-DNA「E」に分化したが、Y-DNA「D」がインド洋沿岸に沿って東進したのに対し、 Y-DNA「E」は逆に西進し地中海南北沿岸に定着し、故地である地中海南岸(アフリカ北岸)に移動した集団はさらにアフリカ全土に展開し、 先住親遺伝子のY-DNA「A」の古サン集団等やY-DNA「B」の古ピグミー集団等の支配階級としてネイティヴ・アフリカンの主力となり現代に至っている。

  これは重要なことで、Y-DNA「A」と「B」はネアンデルタール人の遺伝子が混じっていない原ホモサピエンスだが、 ネアンデルタール人遺伝子を獲得したはずの現サピエンスのY-DNA「E」がアフリカ全土にもれなく拡大したため、Y-DNA「A」が主体のサン族も、 Y-DNA「B」が主体のピグミー族も支配階級はY-DNA「E」に代わっているようだ。 (余談だがアフリカ大陸にはその後Y-DNA「R1a」と分化したY-DNA「R1b」がアナトリア、中近東から南下してきて 更に新しい支配階級として現在のカメルーンあたりを中心にネイティブアフリカンの一部になっている。)

  しかし出戻りアフリカしたY-DNA「E」は進化の爆発が進む前にアフリカ大陸に入ってしまったため、また周囲の始祖亜型の部族も同じレベルで、 基本的に狩猟採集のまま刺激しあうことがないまま、ユーラシア大陸で起きた農耕革命など進化の爆発に会わないまま現代に至っているのだろう。

  ところが地中海北岸に定着したY-DNA「E」は、その後ヨーロッパに移動してきたY-DNA「I 」などの現代亜型と刺激しあいながら 集団エネルギーを高め、ローマ帝国やカルタゴなどの文明を築くまでに至った。要するに自分たちより古い始祖亜型との遭遇では埋もれてしまい、 文明を興すような爆発的進化は起こらなかったが、より新しい現代亜型との遭遇が集団エネルギーを高めるには必要だったのだろう。

  一方、Y-DNA「D」は、現代より120m〜140mも海面が低かったために陸地だったインド亜大陸沿岸の大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、 そこから北上し現在の中国大陸に到達した。その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、 その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し現代までJarawa族やOnge族として絶滅危惧部族として古代亜型Y-DNA「D」を伝えてきている。 Y-DNA「D」は基本的に原始性の強い狩猟採集民と考えてよいだろう。日本人の持つ古代的なホスピタリティの源泉であることは間違いない。

  Y-DNA「CT」から分離したもう一方の移行亜型Y-DNA「CF」は恐らくインド亜大陸到達までに古代亜型Y-DNA「C」とY-DNA「F」に分離し、 Y-DNA「F」はインド亜大陸に留まりそこで先住ネアンデルタール人(アジアにいたのは恐らくデニソワ人か?)と交雑した結果、 Y-DNA「G」以降の全ての現代Y-DNA亜型の親遺伝子となったと推測できる。 こうしてインド亜大陸は現代Y-DNA亜型全ての発祥の地となったと考えられる。

  もう一方の分離した古代亜型Y-DNA「C」は、欧米の研究者の説明ではY-DNA「D」と行動を共にしたらしく東進しスンダランドに入り、 一部はY-DNA「D」と共に中国大陸に到達し、一部はそのまま更に東進しサフール大陸に到達した。 サフール大陸に入った集団はサフール大陸に拡大し、海面上昇後分離したニューギニアとオーストラリア大陸に それぞれTehit族やLani族などニューギニア高地人集団やオーストラリア・アボリジニ集団、つまり共にオーストラロイドとして現代まで残っている。

  スンダランドから北上し現在の中国大陸に入ったY-DNA「D」とY-DNA「C」の混成集団は中国大陸の先住集団として拡大した。 この時に混成集団の一部の集団は中国大陸には入らずにさらに北上し、当時海面低下で大きな川程度だった琉球列島を渡ったと思われる。 集団はそのまま北上し現在の九州に入った可能性が大。また一部は日本海の沿岸を北上し当時陸続きだったサハリンから南下し 北海道に入り、当時同様に川程度だった津軽海峡を渡り本州に入った可能性も大である。 つまりもしかすると日本本土への入り方が2回路あった可能性が大なのだ。

  現在沖縄・港川で発掘される遺骨から復元再現される顔は完璧にオーストラロイド゙の顔である。 と言うことは、スンダランドから北上の途中沖縄に定住した混成集団がその後の琉球列島人の母体になり、 サハリンから南下した集団がのちのアイヌ人の集団になった可能性が極めて大と推測できる。

  さて中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となった。 欧米の研究者はチベット人の持つ高高地適応性はデニソワ人との交配の結果獲得した後天的な獲得形質と考えているようだ。 そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「D」が残した文明と考えられる。 このため同じY-DNA「D」遺伝子を40%以上も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのだろう。

  しかし一緒に移動したと考えられるYDNA「C」の痕跡は現在の遺伝子調査ではチベット周辺では検出されていない。どうやら途絶えてしまった可能性が高い。 いやもしかすると火炎土器のような呪術性の強い土器を製作したと考えられるY-DNA「C」なので、 四川文明の独特な遺物類はY-DNA「C」が製作した可能性が極めて高い。そしてY-DNA「D」のようにチベット高原のような高高地に適応できず 途絶えてしまったのかもしれないですね。

  一方スンダランドから琉球列島を北上した集団(Y-DMA「D1b」とY-DNA「C1a」は、一部は琉球列島に留まり、琉球人の母体となった。 しかし、そのまま更に北上し九州に到達したかどうかはまだ推測できていない。 しかし日本各地に残る捕鯨基地や水軍など日本に残る海の文化は海洋性ハンターと考えられるY-DNA「C1a」がそのまま北上し本土に入った結果と考えられる。

  オーストラリアの海洋調査で、数万年前にY-DNA「C」の時代にすでに漁労が行われ、 回遊魚のマグロ漁が行われていたと考えられる結果のマグロの魚骨の発掘が行われ、 当時Y-DNA」「C」はスンダランドからサフール大陸に渡海する手段を持ち更に漁をするレベルの船を操る海の民であったことが証明されている。 このことはスンダランドから大きな川程度だった琉球列島に入ることはさほど困難ではなかったと考えられ、 Y-DNA「C」と交雑し行動を共にしていたと考えられるY-DNA「D」も一緒にさらに北上し本土に入ったことは十分に考えられる。 すべての決め手はY-DNA「C」の海洋性技術力のたまものだろう。

  一方日本海をさらに北上した集団があったことも十分に考えられる。 この集団はサハリンから南下し北海道に入り、更に大きな川程度だった津軽海峡を南下し、本土に入ったと考えられる。 サハリンや北海道に留まった集団はアイヌ人の母体となっただろう。 Y-DNA「C1a」は北海道に留まらず恐らく本州北部の漁民の母体となり、Y-DNA「D1b」は蝦夷の母体となっただろう。

  このY-DNA「D1b」とY-DNA「C1a」が縄文人の母体と言って差し支えないだろう。 つまり縄文人は主力の素朴な狩猟採集集団のY-DNA「D1b」と技術力を持つ海洋性ハンターのY-DNA「C1a」の混成集団であると推測できる。 この海洋性ハンター遺伝子が一部日本人の持つ海洋性気質の源流だろう。日本人は単純な農耕民族ではないのだ。

  ところがサハリンから南下せずにシベリヤ大陸に留まり陸のハンターに転身したのが大陸性ハンターY-DNA「C2」(旧「C3」)である。 この集団はクジラの代わりにマンモスやナウマンゾウを狩猟する大型獣狩猟集団であったと思われる。 ところが不幸にもシベリア大陸の寒冷化によりマンモスもナウマン象も他の大型獣も少なくなり移住を決意する。 一部はナウマン象を追って南下し対馬海峡を渡り本土に入りY-DNA「C2a」(旧C3a」)となり山の民の母体となっただろう。 また一部はサハリンからナウマンゾウの南下を追って北海道、更に本土へ渡った集団もあっただろう。北の山の民の母体となったと推測できる。

  この山の民になった大陸性ハンターY-DNA「C2a」が縄文人の3つ目の母体だろう。 つまり縄文人とは、核になる狩猟採集民のY-DNA「D1b」と海の民のY-DNA「C1a」及び山の民のY-DNA「C2a」の3種混成集団と考えられる。

  このY-DNA「C2a」が一部日本人の持つ大陸性気質の源流と考えられる。 Y-DNA「C1a」は貝文土器など沿岸性縄文土器の製作者、Y-DNA「C2a」は火炎土器など呪術性土器の製作者ではないかと推測され、 いずれにせよ縄文土器は技術を持つY-DNA「C」集団の製作と推測され、Y-DNA「D」は素朴な狩猟採集民だったと推測できる。

  この山の民のY-DNA「C2a」が南下するときに、南下せずY-DNA「Q」と共に出シベリアしたのがY-DNA「C2b」(旧「C3b」)の一部であろう。 このY-DNA「Q」はヨーロッパでは後代のフン族として確定されている。このY-DNA「Q」はシベリア大陸を横断するような移動性の強い集団だったようだ。 シベリア大陸を西進せずに東進し海面低下で陸続きになっていたアリューシャン列島を横断し北アメリカ大陸に到達し Y-DNA「Q」が更に南北アメリカ大陸に拡散したのに対し、

  Y-DNA「C2b」は北アメリカ大陸に留まりネイティヴ・アメリカンの一部として現代に遺伝子を残している。最も頻度が高いのはTanana族である。 北アメリカや中米で発掘される縄文土器似の土器の製作者はこのY-DNA「C2a」ではないかと推測できる。

  またそのままシベリア大陸/東北アジアに留まったY-DNA「C2」はY-DNA「C2b1a2」に分化し、大部分はモンゴル族やツングース族の母体となった。 また一部だった古代ニヴフ族は北海道に侵攻しY-DNA「D1b」のアイヌ人を征服しオホーツク文化を立ち上げた。 本来素朴な狩猟採集民だった原アイヌ人は支配者の古代ニヴフの持つ熊祭りなどの北方文化に変化し、 顔つきも丸っこいジャガイモ顔からやや彫の深い細長い顔に変化したようだ。 現代アイヌ人の持つ風習から北方性の風俗・習慣を除くと原アイヌ人=縄文人の文化が構築できるかもしれない。


4.長江文明系稲作農耕文化民の到来

  さて、日本人は農耕民族と言われるが、果たしてそうなのか?縄文人は明らかに農耕民族ではない。 狩猟採集民とハンターの集団だったと考えられる。ではいつ農耕民に変貌したのだろうか?

  古代遺伝子Y-DNA「F」から分化した現代遺伝子亜型群はY-DNA「G」さらに「H」、「I」、「J」、「K」と分化し、Y-DNA「K」からY-DNA「LT」とY-DNA「K2」が分化した。 このY-DNA「LT」から更にY-DNA「L」が分離しインダス文明を興し、ドラヴィダ民族の母体となったと考えられている。 Y-DNA「T」からは後のジェファーソン大統領が出自している。

  Y-DNA「K2」はさらにY-DNA「NO」とY-DNA「K2b」に分化し、Y-DNA「NO」が更にY-DNA「N」とY-DNA「O」に分化した。 このY-DNA「N」は中国の遼河文明を興したと考えられているらしい。このY-DNA「N」は現在古住シベリア集団(ヤクート人等)に濃く残されており、 テュルク族(トルコ民族)の母体と考えられている。

  しかし現代トルコ人は今のアナトリアに到達する過程で多種のY-DNAと混血し主力の遺伝子はY-DNA「R1a」,「R1b」,「J2」などに変貌している為、 東アジア起源の面影は全くない。唯一タタール人に若干の面影が残っているが今のタタール人もY-DNA「R1a」が主力に変貌してしまっている。 Y-DNA「N」はシベリア大陸の東西に高頻度で残りバルト3国の主力Y-DNAとして現代も残っている。やはり移動性の強い遺伝子のようだ。

  さていよいよ日本農耕の起源に触れなければならない。Y-DNA「NO」から分化したもう一方のY-DNA「O」は、 中国の古代遺跡の発掘で、古代中国人は現在のフラットな顔つきと異なりコーカソイドの面影が強いと報告されている事は研究者の周知である。 つまり本来の人類は彫が深かったといってよく、現代東北アジア人のフラット/一重まぶた顔は 寒冷地適応に黄砂適応が加わった二重適応の特異的な後天的獲得形質と言って差し支えない(当史観は環境適応は進化ではないと考えるが、 ラマルクの後天的獲得形質論も進化論といわれるので、進化の一部なのでしょう。と言うことは余談だが、 人類(動物)は体毛が減少する方向に進んでいるので、実は禿頭/ハゲも「進化形態」である事は間違いない。)

  この東北アジア起源のY-DNA「O」は雑穀栽培をしていたようだ。東アジア全体に拡散をしていった。 日本列島では極低頻度だがY-DNA「O」が検出されている。陸稲を持ち込んだ集団と考えられる。 東北アジアの住居は地べた直接だっと考えられる。主力集団は黄河流域に居住していたため、 長年の黄砂の負荷で現代東アジア人に極めてきついフラット顔をもたらしたのだろう。

  一方南下し温暖な長江流域に居住した集団から長江文明の稲作農耕/高床住居を興したY-DNA「O1a」と「O1b」が分化し、 更にY-DNA「O1b1」(旧「O2a」)と「O1b2」(旧「O2b」)が分化し稲作農耕は発展したようだ。このY-DNA「O1a」は楚民、Y-DNA「O1b1」は越民、「O1b2」は呉民の母体と推測できる。

  長江文明は黄河文明に敗れ南北にチリジリになり、Y-DNA「O1b1」の越民は南下し江南から更にベトナムへ南下し、 更に西進しインド亜大陸に入り込み農耕民として現在まで生き残っている。 ほぼ純系のY-DNA「O1b1」が残っているのはニコバル諸島(Y-DNA「D*」が残るアンダマン諸島の南に続く島嶼でスマトラ島の北に位置する)のShompen族である。

また南インドのドラヴィダ民族中には検出頻度がほとんどY-DNA「O1b1」のみの部族もあり、越民がいかに遠くまで農耕適地を求めて移動していったか良く分かる。

カースト制度でモンゴロイドは下位のカーストのため、他の遺伝子と交雑できず純系の遺伝子が守られてきたようだ。 この稲作農耕文化集団である越民の子孫のドラヴィダ民族内移住が、ドラヴィダ民族(特にタミール人)に長江文明起源の稲作農耕の「語彙」を極めて強く残す結果となり、 その結果、学習院大学の大野教授が日本語タミール語起源説を唱える大間違いを犯す要因となったが、こんな遠くまで稲作農耕民が逃げてきたことを間接証明した功績は大きい。

  一方、呉民の母体と考えられるY-DNA「O1b2」は満州あたりまで逃れ定住したが、更に稲作農耕適地を求め南下し朝鮮半島に入り定住し、 更に日本列島にボートピープルとして到達し、先住縄文人と共存交雑しY-DNA「O1b2a1a1」に分化したと考えられる。 この稲作農耕遺伝子Y-DNA「O1b2」は満州で14%、中国の朝鮮族自治区で35%、韓国で30%、日本列島でも30%を占める。 この満州の14%は、満州族の中に残る朝鮮族起源の姓氏が相当あることからやはり朝鮮族起源と考えられ、 呉系稲作農耕文化を現在に残しているのは朝鮮民族と日本民族のみと断定して差し支えないだろう。 この共通起源の呉系稲作農耕文化の遺伝子が日本人と朝鮮人の極めて近い(恐らく起源は同一集団)要因となっている。 北朝鮮はツングース系遺伝子の分布が濃いのではないかと考えられるが、呉系の遺伝子も当然30%近くはあるはずである。

過去の箕子朝鮮や衛氏朝鮮が朝鮮族の起源かどうかは全く分かっていないが、呉系稲作農耕民が起源の一つであることは間違いないだろう。


  長江流域の呉越の時代の少し前に江南には楚があったが楚民はその後の呉越に吸収されたと思われる、 しかしY-DNA「O1b1」が検出される河南やベトナム、インド亜大陸でY-DNA「O1a」はほとんど検出されていない。 Y-DNA「O1a」がまとまって検出されるのは台湾のほとんどの先住民、フィリピンの先住民となんと日本の岡山県である。

  岡山県にどうやってY-DNA「O1a」が渡来したのかは全く定かではない。呉系Y-DNA「O1b1」集団の一員として混在して来たのか単独で来たのか? 岡山県に特に濃く検出されるため古代日本で独特の存在と考えられている吉備王国は楚系文化の名残と推測可能で、因幡の白兎も楚系の民話かもしれない。 台湾やフィリピンの先住民の民話を重点的に学術調査するとわかるような気がしますが。


5.黄河文明系武装侵攻集団の到来

  狩猟採集と海陸両ハンターの3系統の縄文人と、長江系稲作農耕文化の弥生人が共存していたところに、 武装侵攻者として朝鮮半島での中国王朝出先機関内のから生き残りに敗れ逃れてきたのが、Y-DNA「O2」(旧「O3」)を主力とする黄河文明系集団だろう。 朝鮮半島は中華王朝の征服出先機関となっており、長江文明系とツングース系が居住していた朝鮮半島を黄河系が占拠して出先機関の「群」を設置し、 韓国の歴史学者が朝鮮半島は歴史上だけでも1000回にも及び中華王朝に侵略された、と言っている結果、 現代韓国は43%以上のY-DNA「O2」遺伝子頻度を持つ黄河文明系遺伝子地域に変貌してしまった。

  朝鮮半島での生き残りの戦いに敗れ追い出される形で日本列島に逃れてきた集団は、当然武装集団だった。 おとなしい縄文系や和を尊ぶ弥生系を蹴散らし征服していった。長江系稲作農耕集団は、 中国本土で黄河系に中原から追い出され逃げた先の日本列島でも、また黄河系に征服されるという二重の苦難に遭遇したのだろう。

  この黄河系集団は日本書紀や古事記に言う天孫族として君臨し、その中で権力争いに勝利した集団が大王系として確立されていったようだ。 この黄河系武装集団の中に朝鮮半島で中華王朝出先機関に組み込まれていた戦闘要員としてのツングース系の集団があり、 ともに日本列島に移動してきた可能性が高いY-DNA「P」やY-DNA「N」であろう。 好戦的な武士団族も当然黄河系Y-DNA「O2」であろう。出自は様々で高句麗系、新羅系、百済系など朝鮮半島の滅亡国家から逃げてきた騎馬を好む好戦的な集団と推測できる。

  この黄河文明系Y-DNA「O2」系は日本列島で20%程度検出される重要なY-DNAである。韓国では43%にもなり、 いかに黄河文明=中国王朝の朝鮮半島の侵略がひどかったが容易に推測できる。 日本列島の長江文明系Y-DNA「O1b2」系と黄河系Y-DNA「O2」系は合計50%近くになる。韓国では73%近くになる。 つまり日本人の約50%は韓国人と同じ長江文明系+黄河文明系遺伝子を持つのである。これが日本人と韓国人が極めて似ている理由である。

  一方、韓国には日本人の約50%を占める縄文系Y-DNA「D1b」,Y-DNA「C1a」とY-DNA「C2a」が欠如している。 これらY-DNA「D1b」,「C1a」とY-DNA「C2a」は日本人の持つ素朴なホスピタリティと従順性と調和性の源流であり、 このことが日本人と韓国人の全く異なる民族性の理由であり、日本人と韓国人の近くて遠い最大の原因になっている。

  一方、日本人の持つ一面である残虐性/競争性/自己中性等は20%も占める黄河系Y-DNA「O2」系からもたらされる 特有の征服癖特質が遠因と言って差し支えないような気がする。


6.簡易まとめ

  日本人の持つ黙々と働き温和なホスピタリティや和をもって貴しとする一面と、一方過去の武士団や維新前後の武士や軍人の示した残虐性を持つ2面性は、 日本人を構成するもともとの遺伝子が受けてきた歴史的な影響の結果と言えそうだ。

  日本人の3つの源流は、

  ・日本列島の中で約1万年以上純粋培養されてきた大多数の素朴な狩猟採集民と少数のハンターの縄文系、

  ・中国大陸から僻地の日本列島にたどり着き、集団の和で結束する水田稲作農耕民の弥生系、

  ・朝鮮半島を追い出された、征服欲出世欲旺盛な大王系/武士団系の武装侵攻集団系、

  個人の性格の問題では解説しきれない、遺伝子が持つ特質が日本人の行動・考えに強く影響していると思える。 世界の技術の最先端の一翼を担っている先進国で、50%もの古代遺伝子(縄文系)が国民を構成しているのは日本だけで極めて異例です。 もしこの縄文系遺伝子がなければ、日本と朝鮮及び中国はほとんど同一の文化圏と言って差し支えないでしょう。 それだけ縄文系遺伝子がもたらした日本列島の基層精神文化は、日本人にとって世界に冠たる独特の国民性を支える守るべき大切な資産なのです。


7.後記

  これまで独立した亜型として扱われてきたY-DNA「L」,「M」,「N」,「O」,「P」,「Q」,「R」,「S」,「T」は、 現在、再び統合されてY-DNA「K」の子亜型Y-DNA「K1」とY-DNA「K2」の更に子亜型として再分類される模様です。 つまり独立名をつける亜型群として扱うほど「違いが無い」ということなのです。

  ところがこのY-DNA「K」は、我々極東の代表Y-DNA「O」や西欧の代表Y-DNA「R」や南北ネイティヴアメリカンのY-DNA「Q」等が含まれているのです。 とても遺伝子が近いとは思えないのです。では何故これほど外観も行動様式も異なるのだろうか?

これらの亜型群は何十万年の歴史でユーラシア大陸の各地で亜種に近いほど分化していたと考えられている ネアンデルタール人やデニソワ人のY-DNA亜型を受け継いだだけの可能性も十分にあるのです。

西欧と極東であまりにも異なる外観や行動様式などの違いの原因を亜種間の接触に求めるのは荒唐無稽とは言えないでしょう。 何しろネアンデルタール人もデニソワ人もホモサピエンスも元をただせばホモエレクトス出身で当然Y-DNAもmtDNAも遺伝子が繋がっているのだから。 恐らくY-DNAもmtDNAもほとんど同じ亜型程度の違いしかない可能性は高いのです 今後の研究の発展を楽しみに待ちましょう。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm

2. 中川隆[-12329] koaQ7Jey 2019年2月08日 18:45:44 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

日本人のガラパゴス的民族性の起源
15-28. 古代に移動したDNA − 縄文人の先祖の移動も見えてくる!?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-28.htm

 2016年10月13日のNatureに、掲載された3論文と1レターを併せたカバー・ストーリーが表紙を飾りました。

カバー・タイトルは「The DNA of Ancient migrations」「古代に移動したDNA」です。


  内容の概要は、パプア・ニューギニア人、オーストラリア・アボリジニとアンダマン諸島のOnge族はホモサピエンスの出アフリカ後、 我々出アフリカ組ホモサピエンスと同じ先祖から分かれた、というY-DNA分析ではすでに明らかになっていることが、 常染色体の分析でも同じ結果になった、というものです。

しかもパプア・ニューギニア人とオーストラリア・アボリジニには、 5%ものデニソワ人の遺伝子が受け継がれているという内容で(しかしアンダマン諸島のOnge族には含まれていない。)、 ホモサピエンスの初期移動の50000年前ごろには既にサフール大陸に到達したことが分かっているパプア・ニューギニア人、オーストラリア・アボリジニ のみが移動の途中でデニソワ人と異種間もしくは亜種間交配を行い、その後の海面上昇でサフール大陸が分離した後にスンダ列島に移動してきた 新しい遺伝子集団からはデニソワ遺伝子が見つかっていない、ということだそうです。


  この論文情報が何故重要かというのは極めて明快で、我々日本人の精神風土を形成する縄文文化を築き上げたY-DNA「D2」とY-DNA「C1a」/「C3a」の 移動がわかり、なぜ日本人は周辺アジア諸国と精神風土が全く異なるのか、日本語は何故孤立言語なのかなど様々な日本独特の特異性に関する 疑問を呈してきた当ガラパゴス史観が常染色体研究でも裏付けられるからです。

では、以下にカバー・ストーリーと3論文のAbstractを転記します。

グローバルな調査研究のため著者名と組織名はあまりにも多いので省略します。
また今回は特に文章が難しくぎこちない翻訳ですが、ぜひご自分で訳してみてください。あとは原著をお読みください。

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Volume 538 Number 7624 Cover Story

  "Three international collaborations reporting in this issue of Nature describe 787 high-quality genomes from individuals from geographically diverse populations. David Reich and colleagues analysed whole-genome sequences of 300 individuals from 142 populations. Their findings include an accelerated estimated rate of accumulation of mutations in non-Africans compared to Africans since divergence, and that indigenous Australians, New Guineans and Andamanese do not derive substantial ancestry from an early dispersal of modern humans but from the same source as that of other non-Africans. Eske Willerlsev and colleagues obtained whole-genome data for 83 Aboriginal Australians and 25 Papuans from the New Guinea Highlands. They estimate that Aboriginal Australians and Papuans diverged from Eurasian populations 51,000?72,000 years ago, following a single out-of-Africa dispersal. Luca Pagani et al. report on a dataset of 483 high-coverage human genomes from 148 populations worldwide, including 379 new genomes from 125 populations. Their analyses support the model by which all non-African populations derive most of their genetic ancestry from a single recent migration out of Africa, although a Papuan contribution suggests a trace of an earlier human expansion."

  今週号では3つの国際共同研究チームが、地理的に異なる多様な集団に属する個人から得られた計787例の高品質ゲノムについて報告している。D Reichたちは、142集団に由来する 300人の全ゲノム塩基配列の解析を行い、非アフリカ人はアフリカ人との分岐後に、アフリカ人に比べて変異蓄積速度が加速したと推定されること、またオーストラリア先住民、 ニューギニア人、アンダマン諸島人の実質的な祖先は、現生人類の初期の分散に由来せず、他の非アフリカ人と同じ起源を持つと考えられることを明らかにしている。 E Willerslevたちは、オーストラリアの先住民であるアボリジニー83人およびニューギニア島の先住民であるパプア高地人25人の全ゲノム塩基配列データを得て、 オーストラリア・アボリジニとパプア人は、単一の出アフリカ分散事象の後、7万2000〜5万1000年前にユーラシア人集団から分岐したと推定している。 一方、L Paganiたちは、世界各地の125の集団に属する483人から得た高カバー率のヒトゲノムデータセットを報告しており、その中には125の集団に由来する379例の 新規ゲノムが含まれている。Paganiたちの分析結果は、全ての非アフリカ人集団は、その遺伝的祖先の大部分が最近起こった単一の出アフリカ分散事象に由来するという モデルを裏付けているが、パプア人にはそれ以前の人類の広がりの痕跡が見られることを示している。
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Nature Volume:538, Pages:207-214 Date published:(13 October 2016) DOI:doi:10.1038/nature18299
「A genomic history of Aboriginal Australia」

Abstract
  "The population history of Aboriginal Australians remains largely uncharacterized. Here we generate high-coverage genomes for 83 Aboriginal Australians (speakers of Pama?Nyungan languages) and 25 Papuans from the New Guinea Highlands. We find that Papuan and Aboriginal Australian ancestors diversified 25?40 thousand years ago (kya), suggesting pre-Holocene population structure in the ancient continent of Sahul (Australia, New Guinea and Tasmania). However, all of the studied Aboriginal Australians descend from a single founding population that differentiated ~10?32 kya. We infer a population expansion in northeast Australia during the Holocene epoch (past 10,000 years) associated with limited gene flow from this region to the rest of Australia, consistent with the spread of the Pama?Nyungan languages. We estimate that Aboriginal Australians and Papuans diverged from Eurasians 51?72 kya, following a single out-of-Africa dispersal, and subsequently admixed with archaic populations. Finally, we report evidence of selection in Aboriginal Australians potentially associated with living in the desert. "

  "オーストラリアのアボリジニの住民の歴史は、ほとんど不明のままです。 " "ここでは、我々はPama?Nyungan言語を話す83人のオーストラリア・アボリジニとニューギニア高地の25人のパプア人族の良質なゲノムを調整しました。 " "パプア人とオーストラリア・アボリジニの祖先が2万5000年〜4万年前ごろに分化したことが分かりました。そして、古代のSahul大陸 (オーストラリア、ニューギニアとタスマニアが分離する前の大陸)の前完新世の人口構造を提案します。 " しかし、研究されたオーストラリア・アボリジニは全員、10000〜32000年前頃の単独の集団の出身でした。 我々は限られた遺伝子拡散と関連した完新世の時代(過去10000年)の間に、北東のオーストラリア地域から残りのオーストラリア全域に至る人口拡散を推論します。 そして、それはPama-Nyungan言語の広がりと一致しています。 オーストラリア・アボリジニとパプア人が、出アフリカ後に続く先輩人類(ネアンデルタール人)との交配の結果、ユーラシア人から5万1000〜7万2000年前ごろに分化したと 我々は試算しました。最後に我々は、砂漠に生きてきたことと恐らく関連しているオーストラリア・アボリジニの中で働いた選択の証拠を報告します。

  この論文で重要なことは上図で、

・アボリジニ(及びニューギニア人)が出アフリカ組から分化したのが57000〜58000年前頃だろう。


・ホモサピエンスは60000年前頃と51000年前頃の、過去に2回ほどネアンデルタール人と大きな交配を経験している。

  ・・60000年前頃の恐らく中近東での交配で出アフリカ組Y-DNA「CT」は、YAP系Y-DNA「DE」と非YAP系「CF」に分離したようだ。

  ・・51000年前ごろの恐らくインド亜大陸での交配で非YAP系Y-DNA「CF」が古代遺伝子Y-DNA「C」と「F」に分化し、
    YAP系Y-DNA「DE」は古代遺伝子Y-DNA「D」と「E」に分化しただろう。

  ・・その後「D」はチベット人と縄文人になり、「E」は地中海(ラテン)系とアフリカ系になり、

  ・・一方「F」はインド亜大陸で大いに分化し、世界の全ての新興遺伝子の親遺伝子になった。


・Y-DNA「C」は44000年前頃にデニソワ人と交配し、Y-DNA「C1a」と旧「C2」と「C4」及び旧「C3」に分化したようだ。

  ・・その後「C1a」は日本列島に到達し港川人など海洋系ハンター縄文人になり、「C2」はニューギニア人、「C4」はアボリジニになり、
、     「C3」は内陸系ハンター縄文人やネイティヴ・アメリカンや中央アジア最大の遺伝子ジンギスカン系になった。


・極東組(Y-DNA「O」)が分化したのは42000年前ごろのようだ。


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Nature Volume:538, Pages:238-242 Date published:(13 October 2016) DOI:doi:10.1038/nature19792
「Genomic analyses inform on migration events during the peopling of Eurasia」

Abstract
  High-coverage whole-genome sequence studies have so far focused on a limited number1 of geographically restricted populations or been targeted at specific diseases, such as cancer. Nevertheless, the availability of high-resolution genomic data has led to the development of new methodologies for inferring population history and refuelled the debate on the mutation rate in humans. Here we present the Estonian Biocentre Human Genome Diversity Panel (EGDP), a dataset of 483 high-coverage human genomes from 148 populations worldwide, including 379 new genomes from 125 populations, which we group into diversity and selection sets. We analyse this dataset to refine estimates of continent-wide patterns of heterozygosity, long- and short-distance gene flow, archaic admixture, and changes in effective population size through time as well as for signals of positive or balancing selection. We find a genetic signature in present-day Papuans that suggests that at least 2% of their genome originates from an early and largely extinct expansion of anatomically modern humans (AMHs) out of Africa. Together with evidence from the western Asian fossil record11, and admixture between AMHs and Neanderthals predating the main Eurasian expansion12, our results contribute to the mounting evidence for the presence of AMHs out of Africa earlier than 75,000 years ago.


  全部ゲノム配列の研究は、ここまで地理的に制限された集団の限られた人数に集中したか、特異的疾患(例えばガン)に目標が定められていました。 "それでも、高分解能のゲノム・データが手に入ったことは、住民の歴史を推論するための新しい方法論の開発に至って、人類の突然変異速度についての議論を加速させました。 " "ここでは、我々はエストニアのBiocentre Human Genome Diversity Panel(EGDP)を示します。そして世界中の148人からの483の良質なヒトゲノムのデータセットがあります。 それは、125人から379の新しいゲノムを含んでいます。そして、それを我々は多様性と選択セットに分類しました。 " 我々はこのデータセットを、異種の接合性や長距離と近距離の遺伝子拡散、古い交配物と、時間と同様に前向きかバランスをとるための選択のサインを通した人口サイズの 変化サインなどを、大陸単位のパターンで推定することの精度を上げるために分析します。 現代パプア人のゲノムの少なくとも2%が、解剖学的現代人(AMHs)(現生人類:ホモサピエンス)より早く出アフリカし拡大した途絶えた系統に起源をもつことを示す遺伝子のサインを 発見しました。西アジアの化石の記録からの証拠と、主要なユーラシア拡大に先行しているAMHsとネアンデルタール人の交配物と共に、 西のアジアの化石の記録からの証拠と、主要なユーラシア拡大に先行しているAMHsとネアンデルタール人の交配物と共に、我々の結果は、 75000年前より以前にAMHsが出アフリカした証拠に貢献します。

  この図では、ネアンデルタール人とデニソワ人がホモサピエンスに遺伝子を残しているが、ネアンデルタール人は全ての出アフリカ組に遺伝子を残したのに対し デニソワ人はアボリジニとニューギニア人の旧サフール大陸組など限られた範囲に遺伝子を残したようだ。

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Nature Volume:538, Pages:201-2062 Date published:(13 October 2016) DOI:doi:10.1038/nature18964
「The Simons Genome Diversity Project: 300 genomes from 142 diverse populations」

Abstract
  Here we report the Simons Genome Diversity Project data set: high quality genomes from 300 individuals from 142 diverse populations. These genomes include at least 5.8 million base pairs that are not present in the human reference genome. Our analysis reveals key features of the landscape of human genome variation, including that the rate of accumulation of mutations has accelerated by about 5% in non-Africans compared to Africans since divergence. We show that the ancestors of some pairs of present-day human populations were substantially separated by 100,000 years ago, well before the archaeologically attested onset of behavioural modernity. We also demonstrate that indigenous Australians, New Guineans and Andamanese do not derive substantial ancestry from an early dispersal of modern humans; instead, their modern human ancestry is consistent with coming from the same source as that of other non-Africans.

  ここでは、我々はサイモンのGenome Diversity Projectデータセットを報告します:それは142の多様な集団から得た300人の個体の高品質ゲノムです。 これらのゲノムは、ヒト参照ゲノムに存在しない少なくとも580万の塩基対を含みます。 我々の分析はヒトゲノム変化の見通しの鍵となる特徴を明らかにし、それをは突然変異の蓄積の速度が分化(出アフリカ)以来アフリカ人と比較して 非アフリカ人ではおよそ5%加速されたことを含みます。 我々は、現生人類の何組かのペアの先祖が100000年前頃、行動に関する現代性の兆候が考古学的に十分に証明された年代よりも前に、事実上分離したことを示します。 "我々はさらに、オーストラリア・アボリジニ、ニューギニア人とアンダマン島民は、現生人類のより初期の拡散に実施的な祖先を得ていないことも証明します; そうではなく、彼らの現生人類としての祖先は他の非アフリカ人と同じ人類集団に由来することで一致しています。"

  図cは、ネアンデルタール人遺伝子の含有率を表しているが、アフリカ以外の全ての現生人類にネアンデルタール人遺伝子が含まれ、 出アフリカ組の地中海系Y-DNA「E」とセム系Y-DNA「J」が出戻った北アフリカ(サハラ以北)も若干のネアンデルタール人遺伝子がみられるが、サハラ以南では見られない。 このことからホモサピエンスとネアンデルタール人の交配は出アフリカ後であることを裏付けているようだ。

  図dは、デニソワ人遺伝子の含有率を表しているが、インド亜大陸と東南アジアに若干の遺伝子が残っているが、 旧サフール大陸の住人になるニューギニア人とアボリジニに5%程度の遺伝子が含まれることが分かった。 シベリアで発掘されたデニソワ人が、どこでどうやって現生人類と交配し何故一部がサフール大陸まで移動したのか? 縄文人を形成したY-DNA「C1a」と「C3a」にはデニソワ人の遺伝子は受け継がれていないのか?等々、 まだわかっていることは少なくこれからの研究・調査が待たれる。

  下図は、出アフリカ組には4%のネアンデルタール人遺伝子が受け継がれ、ニューギニア人とアボリジニには更に3%のデニソワ人遺伝子が受け継がれていることを示している。 しかし上記3論文では、日本人の縄文遺伝子の1つである海洋系ハンターY-DNA「C1a」と内陸系ハンターY-DNA「C3a」にデニソワ人遺伝子が受け継がれているかはわからない。 受け継がれている可能性は充分にある。Y-DNA「C1a」/「C3a」日本人の常染色体調査が行われると興味深いのだが。

  またネアンデルタール人のシベリア型と思っていたデニソワ人は、当論文の調査ではホモエレクトスの進化形と考えているようだ。つまり、 ネアンデルタール人やホモサピエンスとは兄弟人類関係になるようだ。
ちなみに下図中の「Altai」はネアンデルタール人のアルタイ地域型、「Kostenki」はロシアのKostenki地域で発掘された石器時代の人類。
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まとめ

  出アフリカ組のホモサピエンスにネアンデルタール人の遺伝子が3%程度継承されていることは間違いないようですが、 デニソワ人の遺伝子がニューギニア人とオーストラリア・アボリジニに5%も受け継がれているとは驚きです。
ニューギニア人やオーストラリア・アボリジニと兄弟遺伝子を持つY-DNA「C」系縄文人や中央アジアのジンギスカン系遺伝子民族にも継承されているのか? 非常に興味のあるところです。遠い昔の出来事が、子孫である現代人にかすかな影響を与えている可能性があるのは、面白い話です。

  ネアンデルタール人の記事でも触れましたが、当ガラパゴス史観はネアンデルタールの特徴形質を結構持っているので他人事ではないですね。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-28.htm

3. 中川隆[-12328] koaQ7Jey 2019年2月08日 18:47:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

アイヌと縄文: もうひとつの日本の歴史 (ちくま新書) – 2016/2/8
瀬川 拓郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%81%A8%E7%B8%84%E6%96%87-%E3%82%82%E3%81%86%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%A4%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%80%AC%E5%B7%9D-%E6%8B%93%E9%83%8E/dp/4480068732

日本人がなぜ本源的なのか⇒3万5千年に渡る古代人の歴史が土台になっている
 


日本人や日本文化が世界で最近、注目されている。
理由や現象は敢えて並べないが、一言で表せば思考方法や行動、言語等が人類の本源的、源流的であるという点。裏返せば独自的、孤立的、世界中に広がった他の地域、人類との類似が少ないという点ではないだろうか。

最近の研究で言語学的にも遺伝子的にもそれは証明されてきており、人種の孤島として縄文人、アイヌ人の事を書いた著書の一説を紹介したい。

「アイヌと縄文」〜瀬川拓郎著
>「人種の孤島」としての縄文とアイヌ

本土人、琉球人、アイヌの遺伝的多様性の分布を見ると、それらは他の東アジア人や、ヨーロッパ人と混血した中央アジアの人々(ウイグル人、ヤクート人)のまとまりとは反対の方向に分布しています。

 現代の本土人、琉球人、アイヌは直線状にならび、この順でアジアの人々から離れていきます。直線の延長上にはかれらの共通祖先である縄文人が想定できます。つまり本土人、琉球人、アイヌのDNAを特異な方向に「引っ張って」いるのは縄文人であり、そのことは縄文人が現代のどの人類集団とも大きく異なる特徴を持っていたことを物語っているのです。

縄文人は、上下の歯が爪切りの刃のように嚙み合い、彫が深く、鼻が高いといった形質的な特徴をもっていました。これはアイヌにも共通します。そのアイヌは形質人類学では長くコーカソイド(ヨーロッパ人)に分類されてきましたが、1960年代に総合調査が行われ、歯冠の形などから本土と同じモンゴロイド(アジア人)であると結論付けらました。

ただし、先のアイヌの特徴は一般的なモンゴロイドとは異なるものです。一般的なモンゴロイドとは異なるものです。そのため、形質人類学者はこれに頭を悩ませ、現代モンゴロイド成立以前のモンゴロイド、すなわち原モンゴロイドという仮想的な集団を設定し、アイヌをこれに帰属させたのです。

つまり、私たちが常識のようにみなしているアイヌ=モンゴロイド説は学界で完全に受け入れられているわけではありません。形質人類学者の百々幸雄はアイヌがどの人類集団とも異なる、現生人類という大海に浮かぶ「人類の孤島」であるとし、アイヌと縄文人は「出アフリカ」をはたした現世人類が、ヨーロッパ人とアジア人に分化する以前の状態を保っているのではないかと述べています。(百々2007年)
このこととかかわって興味深いのは、同学者の山口敏が旧人のネアンデルタール人のあとに出現した、化石現生人類のクロマニョン人と縄文人の類似性を指摘し、縄文人の形態的特徴は、現生人類のなかの古層に属すると見なされている事です。

 日本列島の縄文人は北海道から沖縄まで形質的な共通性をみせています。かれらは地域性がはっきり認められず、均質な形態をもつ人々でした。つまり縄文時代の日本列島には、アイヌにうかがわれるような「モンゴロイド離れ」した人々が暮らしていたのです。

1万年以上続いた縄文時代には、日本列島をとりまく朝鮮半島、中国、台湾、サハリンとの交流はほとんどありませんでした。そのため縄文人のヒトとしての特異性はかなり純粋に保たれてきました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ーーーー

同様に言語学でも日本語、アイヌ語は世界中の言語から孤立している。

>日本列島を含むユーラシア大陸では2500以上の言語が話されています。ただし、同系関係を辿っていくと、これらのほとんどはアルタイ系言語、シナ・チベット系言語、インド・ヨーロッパ系言語のようなわずか10あまりの大きな「語族」にまとめられます。

その中で同系関係がたどれず系統的に孤立していた言語はわずかに9つにすぎません。さらにその約半数が日本列島の周辺に集中している。日本語、アイヌ語、朝鮮語、サハリン先住民のニブフ語です。

これ以外はピレネー山中のバスク語、西シベリアのケット語、インド中部のニハーリー語、東ヒマラヤのクスンダ語でいずれも人里から離れた辺境地帯の言語である点が共通しています。

言語学者の松本克己はこのうち日本列島周辺に集中する日本語、アイヌ語、朝鮮語はかなり旧い時代につながっていたと述べています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ーーーー

これら、ホモサピエンスの最初の系統の人類が日本列島で3万8千年前の旧石器時代からその後の縄文時代1万6千年に渡って純粋培養されていた事を示している。渡来人文化を受け入れ縄文人から日本人に変化したその後の歴史はわずか2500年間であり、その10倍以上の時間が日本人の歴史に刻み込まれている。

言語はその民族の思考方法を限定する。日本語の独自性、孤立性が未だ保たれている事を根拠に、私たち日本人の中に古代人から直結する本源性が世界中の人種の中で最も色濃く残っているのではないかと仮説しておきたい。

それが注目されている最も大きな潜在的理由の一つではないだろうか。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=312916

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縄文体質は日本語を通じて我々の心に息づいている
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3361.html

縄文体質はさまざまな方法で、分野で人々の暮らしに、文化に、心に残存していきました。しかしその影響力の中で最も大きなものはなんでしょうか?私は間違いなく日本語だと思います。

日本語は縄文時代に作られた言語であり、もっと言えばその以前、旧石器時代、さらにホモサピエンスが登場した時代に人類が言語を作り出した最も旧い古語を母体にしています。日本列島には縄文時代、それ以降も様々な大陸人が渡来し、定着していきましたが、彼らはいずれも母国語を持ちながらも日本に定着する為に日本語を使えるようになり、2世代、3世代を経て日本人になっていきます。それは現代でも同じで、アメリカ人であっても生まれて直ぐに日本で生活し、日本語で育った子どもは顔は西洋人でも心はまったくの日本人です。(テニスプレーヤーの大坂なおみや野球のダルビッシュ有などを見てもわかるでしょう)日本人は日本語で考えるから日本人になれるのです。

縄文―弥生―平安から江戸時代、明治、昭和、そして現在まで、日本語はほとんどその骨格を変化させず、時々の外来の文化を取り込んできました。るいネットでは日本語で検索するだけで100以上の投稿が掲載されています。

その中で縄文体質がどのように日本語を通じて我々の血肉に、心になっていったか、それを推し量る投稿をいくつかダイジェストで紹介します。


これらを読んで改めて思うのは日本語教育の大切さ、今学校教育で最も必要なの英語教育ではなく母国語を使った思考力育成教育ではないでしょうか?


日本人がなぜ本源的なのか⇒3万5千年に渡る古代人の歴史が土台になっている
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=312916


これら、ホモサピエンスの最初の系統の人類が日本列島で3万8千年前の旧石器時代からその後の縄文時代1万6千年に渡って純粋培養されていた事を示している。渡来人文化を受け入れ縄文人から日本人に変化したその後の歴史はわずか2500年間であり、その10倍以上の時間が日本人の歴史に刻み込まれている。

言語はその民族の思考方法を限定する。日本語の独自性、孤立性が未だ保たれている事を根拠に、私たち日本人の中に古代人から直結する本源性が世界中の人種の中で最も色濃く残っているのではないかと仮説しておきたい。

それが注目されている最も大きな潜在的理由の一つではないだろうか。


縄文語は抹殺されなかった
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=307372&h_d=1433&m_d=rpc


人類学でほぼ定説になっているのは、日本列島には縄文時代の一万年にわたってアイヌ人を含む南方モンゴロイド系の縄文人が生活しており、紀元前二・三百年ごろ北方モンゴロイド系の渡来人が移入してきたことである。

しかし、大量の渡来人が一挙に押し寄せてきて、日本列島を席巻してしまったわけではなかった。縄文人が抹殺されたり、奴隷にされたりして、日本列島から縄文文化が消滅したわけでもなかった。大陸からある程度の集団的な渡来があったとしても、この時代の渡航技術からして先住民を一気に駆逐したり虐殺したりできるほどの大規模な移動はできなかった。

渡来人の移入以前、縄文人は、前期からすでに日本列島にはひろく住んでおり、土器の生産に従事し、相互に交流していた(ヒスイが糸魚川で産出し加工され、日本列島に広く流通していた例など)。縄文人はかなり均質化した文化をもっており、とすれば、地域差はあったにしろ、異言語の乱立するような状況は考えにくい。縄文前期からすでに縄文語という原日本語が形成され始めたのではないかと著者はいう。

(中略)

とすれば、言語もまた制圧と断絶という形で入れ替わったとは考えにくい。しかも日本語は、様々な学説はあるものの、現在までのところ琉球語以外にその同族関係が証明されていないという。「周辺言語との同型性を証明する比較方法の手がかりがつかめないとするならば、日本語は、日本列島が孤立して以来一万年の間に、この島国の中で形成されたと考えなければならない」と、著者は主張する。確かに、二千数百年前に渡来した弥生人が縄文語を消滅させてしまったなら、大陸のどこかに弥生語ときわめて親近性の高い言語が残っているはずなのに、それが見つからないのだ。日本語は、縄文文化とともに始まり、断続なく現代に連なる長い歴史ももっているというべきだろう。


原始日本人の感覚は、「ひらがな」によって継承されている
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=321391

文字を持たない時代の言語とその感覚を、現代まで引継いでいるのは、世界の中でも「ひらがな」のみという。どんな文字も、「てにをは」のひらがなにし組み立てることで、話し言葉しかなかった原始日本人の感覚を伴った理解ができる。「ひらがな」が、日本人の縄文体質を継承する基盤になっているということ。

日本語の感覚はひらがなの言葉やひらがなの使い方の中に脈々と継承され続けているのです。ひらがな以外の文字は他国の先進文明や新しい技術・考え方などを日本語として取り込んできたものなのです。


日本語の凄さ〜お互いが分かり合うこと(日常会話)に特化した言語〜
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=333010


日本語を含め計4ヶ国語を勉強した方が、日本語の秘密=日本語の凄さを書いてくれている。この日本語の凄さを読めば読むほど、日本語ほど相手と意思疎通を図るのに適した言語は無いのではないかと思えてくる。


○主語がなくても通じる

日本語は、主語がなくても通じます。良い例が、「愛してる」。
誰が、誰を、愛していると言わなくても、「愛してる」と言うだけで意味が伝わりますね。誰も日本語で「私はあなたを愛しているよ」なんて長ったらしいフレーズは使いません。

しかし、英語では「I love you」、中国語では「我愛(あなた)」を普通に使います。


○言葉を入れ替えても通じる

日本語は、英語や中国語に比べて言葉の並びをあまり気にしない(法則性が少ない)と感じます。例えば、英語で「Where are you now?」

日本語では、「今どこにいるの?」・「どこにいるの今?」・「どこに今いるの?」どれも不自然でなく使うことができます。

しかし、英語では「Now where are you?」とは言いません。なぜか説明できないけれど、しっくりきません・・・。もちろん「Where are now you?」とも言いませんよ。


思考するための最高の言語:日本語
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=332003


・・・日本語が思考言語としてはこれぼど適したものはないということになります。

特にアイデアや発想の広がりは、他の言語の比較にならないものだということができます。

問題は、その特徴を使いこなしているかどうかということになります。
枠にはまった思考や、限られた知識に縛られた思考では、せっかくの日本語のチカラを生かしていないことになります。


日本語が作る脳〜日本人の“縄文体質”や“本源性”は日本語を母語とする限りは失われない!?A
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=291491&h_d=1433&m_d=rpc


角田教授の発見で興味深いのは、自然音を言語脳で受けめるという日本型の特徴が、日本人や日系人という「血筋」の問題ではなく、日本語を母語として最初に覚えたかどうか、という点で決まるということである。

その端的な例として、南米での日系人10人を調査したデータがある。これらの日系人は1名を除いて、ポルトガル語やスペイン語を母語として育った人々で、その脳はすべて西洋型であった。唯一日本型を示した例外は、お父さんが徹底的な日本語教育を施して、10歳になるまでポルトガル語をまったく知らずに過ごした女性であった。その後、ブラジルの小学校に入り、大学まで出たのだが、この女性だけはいまだに自然音を言語脳でとらえるという完全な日本型だった。


日本語とポリネシア語の共通性〜ともに母音を中心として認識する言語
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=285350


日本で日本語を母語として育った在日の人々は、完全な日本型になっている。こう考えると、西洋型か日本型かは人種の違いではなく、育った母語の違いである可能性が高い。「日本人の脳」というより、「日本語の脳」と言うべきだろう。角田教授の今までの調査では、日本語と同じパターンは世界でもポリネシア語でしか見つかっていない。

世界の言語のほとんどは子音を中心に認識するものです。

ヨーロッパ語もアラビア語も中国語も、口から空気を出す時に障害を作って変化をつける子音によって音声の認識をしています。

子音は感覚的には、相手との距離を保ち威嚇する発音体系ということができるのだそうです。子音語族(こんな言い方があるのかどうかわかりませんが)においては、会話をすることによって、相手との対立や違いを明確にしていくことができるようです。

母音は息で制動を付けなくても、声帯の振動をそのまま伝えることで発することができる自然な音です。痛いときには「うー」と奥の方から自然に発せられます、感動した時には「おー」と自然な音が発せられます。母音は自然に発せられる音からできています。

母音を中心とした言語である日本語やポリネシア語の話者は、母音を言語脳がある左脳で聞いています。


『生きる力を育てる教育』〜日本語の力(番外編)こんこんと流れる日本人の心の地下水脈
http://web.kansya.jp.net/blog/2012/05/001281.html


子どもの頃に暗誦した言葉で意味の分からなかった所も、人生の経験を積み重ねていくうちに、ふと分かる瞬間が訪れる。嬉しい事や悲しいことがあった時に、子どもの頃に暗誦した言葉がふと思い浮かんで、その言葉の持つ深い意味に気づく。そういう経験を積み重ねると、その言葉を口ずさむだけで、自分の人生の様々な場面が思い起こされるようになる。子どもの頃に暗誦した言葉は長い人生において、自分を導き、支え、励ましてくれる道連れとなる。老人方の「喜び」とは、そういう道連れに恵まれた幸福であろう。

自分が共に生きた言葉を、また子や孫の世代が習い覚えてくれるなら、それはまた大きな喜びである。自分はこの世から去っても、自分がともに人生を歩んだ言葉は後の世代が大切に受け継いでくれる。自分はいなくなっても、自分が大切にした根っこは、後の世代が大切に引き継いでくれるのだ。

国語はこのようにして世代を貫いて民族の心の地下水脈をなす。暗誦文化が衰退したといっても、たかだかこの1,2世代のことである。現在の世代が忘れていても、国語の地下水脈はこんこんと流れ続けている。


日本語が美しい理由

言葉はその音が単なる記号ではない。
その音が持つイメージから言葉は作られる。太古、精霊を見て、観念を発明したとき、彼らの感覚にしっくりくる発音が与えられたはずだ。
日本は幸い、太古から民族、文化、言語がずっとつながっている。
日本語が持つ語感は、日本の風土の中で作られた言葉が変化しながらもずっとつながりを持っている。

だから日本語には擬態語が多い。

カラカラ、クルクル、コロコロ
サラサラ、ソロソロ、スルスル
タラタラ、ツルツル、トロトロ

Kは回転する固体、Sは乾いた空気の摩擦、Tは粘性のある液体のイメージだ。

日本人ならみんな共有できる音のイメージ。新しく擬態語を創ってもすぐ通用する。ところが、外国人にはこれが理解できない。

無数の音節単位を認識する他国の言語では、各音に対する性格付けがほとんど不可能。

音の語感だけで雰囲気の解る日本語発音体系、それを太古から途切れずに発達させることが出来た。

日本語は美しい。

黒川伊保子 「日本語はなぜ美しいか」 より

サクラサク、この語感の美しさ。みんなが共有できることの幸せ。
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3361.html

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今でも息づく縄文気質を継承した職人技術の世界
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/10/3359.html


縄文時代の気質、体質を受け継いで伝承してきたものづくりの技術について考察します。

大工や石工といった職人技術はもとより、ものづくり大国を支えてきた日本人の特異な感覚、縄文人気質を色濃く残した『自然観』と、組織を強化していく『人材育成力』を持つことで、必然的に「老舗企業」として生き抜いていく日本企業など、縄文体質は着実にその根をおろしているのです。


以下、縄文体質を継承する現代の技術について、るいネットから引用します。


【職人の世界:職人文化〜思いやりとやさしさ】
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=338595


昔から職人文化という言い方をしますが、これは職人=文化ということです。人の育成に於いてまで文化の高みに到達していたのが私たちの先祖であり日本であるように思います。

小川三夫さんの「棟梁」(文春文庫)の中で徒弟制度のことが書かれていましたがいくつか抜粋します。

「大きな建物は一人ではできん。大勢の力ではじめて建て上がるんや。一緒に仕事をしていくには、やさしさと思いやりがないと無理や。一緒に飯を食い、一緒に暮らし、同じ空気を吸っていれば、自然にやさしくなる。思いやりがなければ、長いこと一緒には暮らせん。隠し事も十年は隠せない。いい振りをしていても地が出る。素顔で暮らすのが一番楽や。そうしているとやさしくないと暮らしていけないことに気がつくんや。」

一緒に働くことにおいて何よりも大切なものが何かを知る人だからこそ、「同じ釜の飯を食う」ことの大事さを説きます。共視共食もそうですがなぜそうする必要があるか、それは心を通じ合わせて心を入れる志事だからです。頭だけでやれることなどはたいした仕事ではなく、本物の志事は其処に心が入っています。何より理念を重んじる組織に於いてはその心がどうであるかを何よりも優先であるとするのです。

如何に日本は職人文化の中でお互いに心を通じ育ち合ってきたか、師弟一体にあるがままに学びを与えあう環境構成と活人技継承の仕組みには感服することばかりです。そしてこう続きます。

「しかし、言っておくけどな、共同生活で、思いやりも、やさしさも身に着けていくが、本当のやさしさというのは、ただ人の面倒を見るのとは違うで。本当のやさしさは、自分自身に厳しく生きてないと身につかんもんや。厳しさのないやさしさは、甘えにつながる。そんなものはうちにはいらんし、人も育っていかん。技も身につかん」

今の時代は、やさしいばかりで叱れない人も増えてきています。叱咤ができないのはその人が自分に甘いからです、叱咤激励とはその人に期待しているということです。期待しているというのは、己に克てと応援するのです。逃げようとするその人の心に厳しい「喝」を入れられるのはその人が優しいだけではなく「自分との勝負を続けている自分から逃げない厳しい実践者」だからです。私のメンターもまた厳しい人です、まるで不動明王のように自分の中で打ち克っている人だからこそその人に憧れ私淑しています。

人が他人を尊敬することが大切なのは自分が成長できるからであり自分が素直になれるからです。足るを知らず傲慢になり自分の実力を見誤れば多くの人たちに大きな迷惑をかけてしまいます。だからこそ真摯に真独して一心不乱に一つごとに打ち込んでいくことが弟子の志業のようにも思います。そのことではこう言います。

「まず修行中は大工ということに浸りきることや。寝ても覚めても仕事のことしか考えんでいい。それでは仕事バカになると思うかもしれなんが、そうやない。一つのことに打ち込んでおれば、人間は磨かれる。中途半端よりずっといいで。自分の自由になる時間なんて全くないんだが、こういう暮らしをしていると、自分の癖や自分のことがなんとなくわかる気がしたな。アパートから通わせてくれという弟子もおったが、そういうのはお断りや。体から体に技や考えや感覚を移すのが職人の修業だ」

まさに頭で学ぶのではなく、体で学べ、体得せよ、つまり全身全霊でやれと言い切ります。そして最後に、本物であることの重要性を説きます。後世が判断するのはどの仕事でも同じです、自分で責任を以て成し遂げた仕事だからこそその仕事の後を見た人はその人がどのようにその前に仕事をしたかが自明します。隠せません。だからこそ全身全霊で人事を盡して精一杯だったかを重んじるのです。

技もまた生き方なのです。職人文化とは、勘違いしていますがそれは古臭いのではなく「本物の香り」なのです。


【現代に奇跡の技をつなぐ、伝説の石工「穴太衆」〜頭で考えるな、石の声を聴け】
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=337431


かつて日本に、城の石垣づくりを専門とする技術集団がいたのをご存じだろうか。戦国時代、各大名がこぞって召し上げた伝説の集団、その名も「穴太衆(あのうしゅう)」。戦国時代の城はその石垣の高さや強度さが戦いの士気を左右し、戦いを制するには「穴太」の力が求められたという。

なぜならば、穴太衆が得意とした「野面積(のづらづみ)」と呼ばれる自然の石を組み上げる石工術は、現代技術を凌ぐほどの強度を誇ったからだ。その技術力があってこそ、地震大国日本において、高さ数十メートルに及ぶ自然石を積み上げただけの石垣を今に残す。

そんな古代技術を奇蹟的に現代へとつないでいるのが、滋賀県大津市坂本を中心に活躍する「粟田建設」だ。現会長の粟田純司氏は「第14代目石匠」の名跡を継ぎ、平成12年には当時の労働省(現厚生労働省)から「現代の名工」に認定、平成13年には「大津市文化奨励賞」を、そして平成17年には「黄綬褒章受章」を授与されている。

■頭で考えるな「石の声を聴け」

現代の技術をもってしても超えられない「穴太」の技術だけに、「一人前になるのは最低でも10年」。しかも純司氏が先代に言われたのは「石の声を聴け」という徹底した現場経験の積み上げだった。

「最初はね、“石の声を聴け”なんて言われてもなんだか分からない。こっちはメジャーを持って石を測っては石垣に押し込んだりしてたんですわ。でも親父の場合は、集積場で石をじっと眺めては“はい、これそっちに持ってって”とはめるとストンと収まる。『親父なんで分かるの』と聞くと『わしは石と話している』というんですよ。なんのこっちゃと思ってましたが、自分が11年目の時に、安土城の修復を任されました。いつもだったらメジャーで測るのですが、その時は集積場で石をみていると、何度も目につく石がある。それであの石持ってこいって現場に運んだらストンと合いました。なんだかね、石が“ワシを使え”と手を挙げているように感じたんですよ。ああ、これが親父の言ってた石の声を聴くということなんか、と思いました」(粟田氏)

“石の声”を聴いた方が圧倒的に現場はスムーズに動くという。まさに職人の技、経験だけが到達できる究極の世界がそれなのだ。

かつて、城の石垣という守りの要に関わる技術を要した穴太衆には、技術を伝える文書や家系図は残っていない。今でいう軍事機密が敵方に渡らないため、一切の技術伝承は口伝であり、一族は表に出てはいけないものだった。粟田家が古代より脈々と技を受け継いでいるにも関わらず、15代と代数が少ない所以はそのあたりにある。一般的に過去帳や戸籍が作られるようになった江戸後期からの記録しか文書としては残っていないからだ。

しかし、技術は確実につながれている。古代からの秘技が現代につながれている奇蹟。いち日本人としても、粟田建設の方々に感謝をしたい気持ちになった。

【日本の技術力が世界的にすごい本当の理由】
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=340079


今回の日本出張の際に、とあるアパレル系ブランドの海外進出プロジェクトの一環として、彼らのものづくりに関しての現場を見るためにいくつかの工場と品質管理センターを見学させていただいた。そして、その経験は今までの人生の中でも1,2を争うほどに度肝を抜かれる結果となった。

繊維系の製作現場という特性もあるだろう、決してテクノロジーがすごいわけでも、難易度の高い複雑な作業を行なっているわけではない。しかし、そこで働く方々のものづくりに対する姿勢や、その工程における繊細さなど、”さすがにこれは日本でしかできないな”という内容である。

何がすごいかというと、ものすごく細かく単純な作業をただひたすら続ける忍耐力、機械でも読み取れないようなナノ単位でのズレを感覚で認知する感覚、そしてやろうと思えば簡単にできるごまかしを行わない仕事に対する誠実さがそこにはあった。

これは本当にすごい。日本国内の感覚だと”当たり前”と思われるかもしれないが、実は海外から見ると、こんな事ができる人種は他にいないのではないだろうか?例えばこれが怠け者のアメリカ人だったとしたら、”こんな退屈な仕事バカらしくてやってられない”と言ってすぐに辞めてしまうかもしれない。そして米国企業は最小の労力で利益が出るための効率化を最優先する。

実際に工場長に聞いてみたところ、東南アジアから来た労働者を採用してみた事もあるが、うまくいかなかったという。その理由は、文字や数字では説明のつかない最後のニュアンスが理解できないからという。日本人が得意な”あうんの呼吸”や”微妙なニュアンス”というものは、日本特有のものであり、海外にはほぼ存在しないらしい。

一言で言うと、こんな素晴らしい国無い。

そんな中で日本国内のものづくりの現場では、職人さんやパートのお姉さんたちが、ロジックでは説明のできないセンス、感覚、忍耐、正確さ、継続性を通じ、品質の高い製品を毎日作り出している。これは実は本当にすごい事で、シリコンバレー的な技術革新をメインにしたイノベーションよりも、単純作業を安定した水準でただひたすら続けることの方が何十倍も難易度が高いだろう。

誰にもできないような難しい事ができるよりも、単純でつまらない事を正確にやり続ける方が難しい。毎日パソコンやスマホを活用して楽で効率的な仕事のプロセスばかりに気を取られていた自分にとっては、後頭部を殴られるほどの衝撃を受けた。

技術革新による効率化も素晴らしいが、アナログな作業をひたすら続けられる事と、その仕事のクオリティに対するスタッフのコミットは簡単には真似ができない。なぜならそこには信じられないレベルの忍耐力が必要とされるから。この一つの事をひたむきに続けられる忍耐力こそが日本が世界に誇るべき技術力の根源であり、イノベーションにもつながるきっかけにもなるだろう。


【日本企業の特徴 〜技術の継承が人材育成力をもたらし老舗企業になっていく〜】http://bbs.kyoudoutai.net/blog/2018/04/5822.html

以前、日本の老舗企業を紹介しました。

老舗企業大国日本

@ 貴金属の声を聴く田中貴金属工業 老舗企業大国日本

A 米の持つ力を引き出す勇心酒造 老舗企業大国日本

B 木ロウ技術をコピー機に取り入れたセラリカNODA

そこには老舗企業になるべくしてなっていった、いくつかの共通点があります。それは老舗企業のみならず日本の企業の特徴ではないか、と考えています。「世界が賞賛する日本の経営」(育鵬社:伊勢雅臣著)を参考にしながら、その特筆すべき3つの特徴を押さえていきます。

まず特徴の第一として、老舗企業の多くは箔粉技術や醸造・発酵技術など、伝統技術を現代社会で必要な製品に転用している、という点。時代が進むに連れて、人々の生活様式も変わっていくのに、旧来の商品にしがみついていたら、企業は時代の波を乗り越えられなかったでしょう。「伝統は革新の連続」という言葉がありますが、その革新を続けてきた企業が、老舗として今も続いているのです。

第二に、革新といっても本業の技術から大きく離れていない点。本業の通じて、独自の技術を軸に営々と蓄積してきたことが老舗の強み。そこを離れては新参企業と同じになってしまいます。

第三に、「貴金属の声が聞こえる」「自然に生かされている」「生かす思想」などの言葉に見られるように、大自然の「生きとし生けるもの」の中で、その不思議な力を引き出し、それを革新的な製品開発につなげている点。これは日本の伝統的な自然観に基づいた発想であると共に、「人間中心主義」でご都合主義に陥っている西洋科学とは違う、合理的・総合的なアプローチといえます。

したがって大学で西洋的科学技術しか学んでこなかった研究者・技術者が、欧米企業と同様な研究開発アプローチをしても、同じ土俵で戦うだけ。老舗企業には日本の伝統的自然観が残っており、それが西洋科学では見えてこない、独自の技術革新をもたらしています。

アジアの億万長者ベスト100のうち、半分強が華僑を含む中国系企業であるらしい。その中で百年以上続いている企業はない。創業者一代か二代で築いた「成り上がり企業」ばかりである。 これに比べると、企業規模では比較にならないほど小さいが、百年以上の老舗企業が10万社以上あるといわれる日本とは実に対照的である。

ノンフィクション作家野村進氏は「商人のアジア」と「職人のアジア」という興味深い概念を提唱している。「商人」だからこそ、創業者の才覚一つで億万長者になれるような急成長ができるのだろう。しかしそこには事業を支える独自技術がないので、創業者が代替わりしてしまえば、あっという間に没落もする。

それに対して「職人」は技術を磨くのに何代もかかる。冨を蓄積より、技術を蓄積することに重きを置き、その技術を継承することで「技術者≒人」を育てることに繋がり、何代も看板を継ぐことで老舗企業になっていくのです。 日本企業は、縄文人気質を色濃く残した『自然観』と、組織を強化していく『人材育成力』を持つことで、必然的に「老舗企業」として生き抜いていくのです。
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/10/3359.html

4. 中川隆[-12327] koaQ7Jey 2019年2月09日 05:44:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

2011年02月01日
縄文探求シリーズ【縄文時代のまつり】 その充足パワーで超集団=社会を統合
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大湯環状列石
 
・「祭り」ということばには、踊ったり騒いだりすることのほかに、神・精霊を祀る、マツリゴトをする、さらには男女が交わるという意味もあります。縄文時代の祭りとは、それらを包摂したまつりの起源ともいうべきものです。縄文人は何のために、どんなまつりをしていたのでしょうか?
 
・単一集団で暮らしていた当初段階と、人口が増加し集団が拡大・分化していく中期以降では、まつりの意味も様相も大きく変わっていきます。その様子を追っていきます。
 


 
●単一集団内の日常的なまつり


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図:祭祀に使われたと思われる道具の数々(日本第四起学会偏「図解・日本の人類遺跡」より)

  
・人類は、縄文時代の前期あたりまでは30人程度の集団で生活し、それが世界のすべてでした。

・そこでのまつりは、歩行訓練の延長上に生まれた踊り→トランス状態、そして性(男女の和合)。その過程で強化した精霊への祈りでした。そのような解脱充足と可能性収束先があったからこそ、人類は飢えの圧力に晒されながらも生き延びることができたのです。
  
 
●豊かになり、死を対象化しはじめた土偶祭祀


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図:縄文時代を通じて祭祀に使われた土偶たち(日本第四起学会偏「図解・日本の人類遺跡」より)
 
・精霊信仰→観念進化によって、生存力を強化し、日本列島において定住・狩猟採集をはじめたのが初期の縄文人です。飢えの圧力が緩和されると、次なる不全として死(の悲しみ)が登場します。その不全を克服すべく、精霊への祈りを強化するために土偶を使った祭祀が行われました。
 
  
●単位集団を超えて男・女が交わるまつりへ
 

図:大湯環状列石(秋田県) BBっといー東北についてより
 
・縄文の中期ごろになると温暖化とともに人口増加→集団規模を拡大させ→分化していきます。
 
・縄張り確保や生産の協働、出産可能な女性を維持するための移籍など、部族の維持存続のため、単位集団間の結束力(求心力)を高めることが必要でした。

 
・そこで用いたのが、集団間の婚姻制(交叉婚)です。
定期的に男たちが他集団を訪れて、女たちと交わり合います。
性という根底的な充足と婚姻規範によって集団の結束力を維持しようとしたのです。

 
・これは集団の存亡が懸かった重要な行為であり、厳格に運用する必要があります。その資格や相手を明らかにするしるしとして登場したのが抜歯だと思われます。そこには肉体的苦痛を伴う強力な共認形成を図る意味もあったでしょう。


図:抜歯の風習 街角散歩さんより
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・一方で、その解脱充足性をより高めるためにさまざまな儀式や行動様式、場のしつらえなどが工夫されていきました。
 
・その痕跡を今に伝えるのが環状集落や環状列石です。
 
・まずは集落の中心に広場や墓域がつくられます。さらに集団が拡大・分化すると、集落から離れた領域に集いのための領域=環状列石がつくられます。そこでは、精霊や祖霊に祈りをささげる儀式や踊り、クライマックスは男たち・女たちの交わりあいが行われたと考えられます。
 
・環状列石や送りの場と言われる場に付随して置かれるのが掘立柱建物です。これは居住に用いたものではありません。そこでの儀式に必要だったのです。そこで行われたのが、男女の和合だったのではないでしょうか。和合に没頭できる安全域を形成したのです。

 
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図:三内丸山の掘立柱建物(復元) zhangshiさんのフォトライフさんより

 
・そのような非日常的なまつり場の代表的なものが下の3つの遺跡。
左から大湯遺跡(秋田)、大野遺跡(長野)、西田遺跡(岩手)
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縄文時代における墓の変遷と祭り・親族・地域より
 
・まつり場と性の関係を指摘する研究者は多い。その代表が梅原猛氏。
 


あの細長い石を横に放射状に並べ、その真ん中に直立する細長い石を置いた形は明らかに男女の性器の結合の姿を示している。


ストーンサークルは、そういう縄文人の生と死の哲学を見事に造形的に示したものであるといえる。
 
大集落は中期の末に姿を消し、その後は小規模な集落が増えて行きます。これは大集落が分散して、小集落化したことを示すと考えられ、その原因は気候の寒冷化による食料の減少、ムラが大きくなり過ぎたことによる環境衛生・社会面での破錠、であると推定される。この頃から環状列石等の大規模な記念物が出現するのです。
 
分散した集団は祭りのときに一堂に集まり、一族の絆を確かめ合っていたようです。環状列石の祭りの舞台であり、大規模な土木工事を行なってまで築かれた、彼等の絆・心の形として示した記念物なのです。
 
人が死んだ後、魂が死骸から抜け出てあの世へ行くが、ストーンサークルはセックスの行為を示したのではないかと思う。縄文時代の遺跡にはセックスを象徴しているものが沢山あるが、ストーンサークルは、まさに男性器と女性器が結合している状態を表している。即ち生産を表しているのではないかと思う。
 
死という行為で、一旦あの世へ行った魂が再びセックスによって、子供を作って、この世に生まれ代わってくるようにいう、死と生の象徴、死という事実の中で、やはり再生を願う縄文人たちの心が、ストーンサークルになったのだと思う。
 
そして、ストーンサークルの周辺の土は、非常に固くなっており、何度も何度も踏み固められたとしか思えないという説を聞いた事があるが、恐らく、縄文人は魂を迎えたり、送ったりする時に、ストーンサークルの広場で、カガリ火を焚き、踊りを踊ったに違いない。それが恐らく、縄文の宗教だったのであろう。

東北の遺跡ストーンサークルさんより
  
・ストーンサークルには踊りを踊ったと思われる痕跡も見出せるのです。
 
 
●充足を基盤に大集団を統合した縄文人
  
・縄文のまつりは、日常的な性や踊り、精霊への祈りといった行為を基盤として、単一集団の日常的な営みにから、単位集団を超えた非日常的な営みへと発展していきました。集団の拡大は共認充足の低下を伴います。これは現代社会にも通じる肥大社会の宿命でもあります。
 
・縄文人は、ともすれば薄れていく集団関係を性・踊りや精霊・祖霊にまつわる充足感・仲間意識を紐帯として、拡大していく“社会”を結束させていきます。
  
・遠方からの遺跡(婚姻)の形跡などからもその結束力は日常行動圏を超えた相当広範囲に至っていたことがうかがえます。
   
   
●現代社会も充足を基盤にした社会統合が求められている
   
・翻って、現代。私権と個人主義が集団性を悉く解体され、バラバラで孤独な個人ばかりが存在している。現代社会は、ひとびとの充足力→結束力が衰弱し、新たな紐帯としてのまつり場が求められています。
  
・そのためには、家族や企業という単位集団を超えた“社会”の次元での充足の場が必要。そのような場がいまネットに形成されようとしています。
  
・ただ、それだけでは成立しません。基盤となる単位集団(の再生)→日常的(対面上・肉体的)な充足基盤も同時に必要です。
  
・その維持・発展という目的意識が「社会」への参加を促進するのではないでしょうか。つまり、身近な単位集団の再生と社会のまつり場の再生は相乗的に再生されていくのです。
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2007年04月10日 日本の婚姻通史
http://www.jinruisi.net/blog/2007/04/000156.html
出自規則の転換要因のマードック説
http://www.jinruisi.net/blog/2007/04/000153.html

は大変面白かったです。このあたりを検証する意味でも、日本の婚姻史は参考になります。というのも世界の中でも日本は、群婚から母系氏族、そして父系制にダイナミックに転換した歴史が精緻に追跡できる、非常に希で興味深い民族だからです。どのようにして転換していったのか、シリーズでレポートしたいと思います。

今日は婚姻通史を示します。
参照:高群逸枝著『日本婚姻史』


原始(無土器・縄文)・族内婚―――――――┬―【群婚】群
原始(縄文・弥生)・・・族外婚―――――――┘       母系氏族
 ↓
大和〔古墳〕・・・・・・妻問婚 ――――┬―【対偶婚】父系母所
飛鳥奈良平安(初)・前婿取婚 ――┬婿取婚┘   
平安(中)・・・・・・・純婿取婚―――┤   
平安(末)・・・・・・・経営所婿取婚―┤
鎌倉南北・・・・・・・擬制婿取婚 ――┘
 ↓
室町安土桃山江戸・・嫁取婚―――――――【一夫一婦(蓄妾)婚】父系
 ↓
明治大正昭和・・・・・・寄合婚―――――――【純一夫一婦婚】双系

日本の婚姻史は、群婚、婿取式(母系型)、嫁取式(父系型)、寄合式(個人型)の4段階に大別される。

群婚は、族内婚(いわゆる兄妹婚)と族外婚(交叉婚)の二期に分かれる。

婿取式婚姻は、対偶婚――1対1の結合であるが、この結合は弱く、離合不定である。群婚の延長または遺習ともみなすべき多夫多妻的現象の並存を見ることが多い――に比定され、群婚とともに原始婚の範疇に入る。

婿取婚は、古典での代表的婚姻語である「ツマドイ」(奈良ごろまでに支配的に見られる)と、「ムコトリ」(平安から鎌倉ごろまでに支配的に見られる)の二語によって表される妻問婚と婿取婚の二期に分かれる。


妻問婚=通いで夫婦別居のたてまえ。その背後にはヤカラと称する族的共同体が想定される。

婿取婚=狭義の婿取婚で妻方同居のたてまえ。その背後には両親世帯が成立する。
狭義の婿取婚は、以下の4つに細分される。

前婿取婚:大化後平安初までの過渡期における母による婿取り

純婿取:摂関政治の盛行時代、婿取儀式が中央でも地方でも見られる段階で、妻方の父が婚主

経営所婿取:院政期。自家以外のところに経営所と称する婚礼の場所を設けて妻方の手で婿取婚が行われる。その後新夫婦は新居に移って単婚世帯をいとなむ

擬制婿取:鎌倉から南北朝ごろまで。夫方の親が別宅へ避居したあとを、妻方の、または妻自身の家として擬制して婿取をするたてまえの婚姻形態。この期間の各世帯は、前の経営所婚からひきつづいて単婚世帯が多い

嫁取式婚姻は、室町ごろに表面化して確立する。「ヨメトリ」という婚姻語がこの期にあらわれる。この期で妻は完全に夫方同居となる。だから前代の単婚世帯をすてて、夫方の家父長の族中に同居する俗となる。嫁取式は夫方の家父長の手によって行われ、夫方が貰い手、妻方が呉れ手という取り引き観念のもとに、嫁は死装束を身につけ、一個の物件と化して略奪される形となる。

寄合婚は、明治維新に萌芽し、昭和憲法後に表面化してくる、近代社会の男女同権的単婚制。

本来ならば大化前の氏族制末期に表面化されなければならない嫁取婚(家父長婚)が、日本では約10世紀もおくれて室町期に表面化した。その約10世紀間、太平洋諸島や東南アジア、台湾等に見られるような原始婚を保持し、しかもそれを徐々に終局へと規則正しく経過させた。(筆者注:妻問いから前婿取→…→擬制婿取へと、妻方居住から夫方居住へ大転換していく様は、連続していて実に見事です。)

この間、女性の地位は原始的な高さ(財産、祭祀、恋愛等の諸権利において)をもち、また女性を取り巻く社会環境も、原始的な諸関係を示していた。例えば、氏族制は崩壊していたが、原理は残っており、それが嫁取婚や家父長制の顕現をおさえており、だから夫婦は別産で別墓だった。同氏でさえあれば離別した夫婦でも同じ墓地に葬られ、同じ氏寺のある隠居地に余生を送り得たが、形影相伴う相愛の夫婦でも異氏のばあいは、隠居地を異にし、墓地を異にした。

最も不思議なのは、系は父系であるのに、婚姻や家族は母系型である点で、なにかの故障で成員の分家がちょっと妨げられると、たちどころに母系型の大家族が顕現した。これに反して父系型大家族は一例もない。父系系譜と母系型家族の複合は、「父系母所型」といわれ、母系型族制の上に父系系譜がたどられている。
http://www.jinruisi.net/blog/2007/04/000156.html

日本婚姻史2 族内婚
http://www.jinruisi.net/blog/2007/05/000163.html


日本の婚姻通史の続きで、一つづつ婚姻様式を紹介してゆきます。最初は群婚(族内婚と族外婚)のうち族内婚から。族内婚を明らかにするのは記録がなく難しいが、遺跡や遺物、遺語、招婿婚(婿入婚)から類推できる。(高群逸枝著『日本婚姻史』より)

共食共婚

原始の家は後代の固定的なそれと違って、移動的な群単位の血縁集団の段階だったと考えてよかろう。縄文早期の遺跡は数個の竪穴からなり、その一つは面積約25u、5〜6人程度の収容能力で、まだ炉の跡もなく、移動性が濃厚に見られる。

群は必然的に孤立的で、洞窟や竪穴式・平地式住居に住み、共食共婚であったろう。つまり同じ火を囲み、同じ性を分け合っていた。共食共婚こそ同族の特権であり、連帯性の基礎であるとされたのであろう。古語のヘグイは共食、イモセは兄弟姉妹間の夫婦関係を意味するが、これらは群時代の共食共婚の俗をうかがわせる。

神前婚

原始的集団は、協業や防衛等の必要から、必然的に成員の団結を求めて祭治集団化していく。自然物の豊穣を祈り、人口の増加を願い、成員の血縁性への自覚による親和を念じて、その象徴としての「生む」母神像を創作して祭り、その神前で共食共婚の例祭を執行することを不可欠の行事とした。(右写真は「縄文のビーナス」)

族内共婚の遺習は、後代では村内共婚として見られる。

例えば、美濃国郡上郡東村大字祖師野の氏神の秋祭りでは、村じゅうの老若男女が夕刻から神殿に集まり、太鼓に合わせて輪を作って乱舞した。

それがすむと、人妻と処女の別なく、入り乱れて共婚神事をいとなんだ。

万葉集にも「人妻に吾もまじらむ、吾妻にひとも言問へ」といって神前共婚が演じられたとある。

トツギ祭というのがある。その多くは大漁とか、豊年とかを祈って行う共婚神事であって、これにはザコネ式や闇まつり式などがあり、個別的な好き嫌いを許さない共婚性を示しているが、帰着するところは、食と性に対する共産共有の意識を象徴した原始的共同体的な祭りの一種であろう。

大和国磯城郡まき向(ムク)というところでは、毎年旧正月10日に、網掛神事というのが行われていた。田一反分のわらで男根の形をつくり(これをスサノヲ神という)、同じ分量で女根をつくり(これを稲田姫神という)、神官氏子が立ち合って、トツギ神事を執行したというが、もとは氏子同士がいとなんだものを、男女の性神に委託して象徴化したものであろう。


女性発情の告知方式

月経をめぐって女性の生理は躍動し、それを身振りにあらわして男性を挑発したであろう。これが舞踏(尻振り踊り)のはじまりであったろう。

踊りは「雄取り」(ヲスの鳥などをとらえるときメスの鳥をいわゆるオトリに使うのに同じ意)から来た語であろうという説があるが、女性発情の告知方式が上のような尻振り踊りなら、この踊りが雄取りに通ずることはうなずける。(後の族外婚ではもっと誇張された雄取方式になる。)

女性自身による告知方式は第一義的に尊重されたろうが、群が発達して共同体運営の関係から祭治制が発明され、食も性も神前における規律下にいとなまれるようになると、群は女性の発情期をトして(うらなって、判断して)、一定の祭礼を行うようになったらしい。それはたぶん戸外で、共食共婚をともなう舞踏会(女性の尻振り踊りに男性も同化して)として催されたであろう。


族内婚図
http://www.jinruisi.net/blog/2007/05/000163.html

原始時代の族制は、いわゆる類別組織で、性別と年齢階級が基本となっている。(「我」を中心として直系親から傍系親へ、近親から遠親へ叙述していく等親的な個別組織の後代の属性とは対照的である。)


(一)原初型

     年齢階級
性 セ(チ)――┬コ(幼児)
別 イモ(ハ)―┘


性別のイモとセには、長幼の意味はない。単に族内婚の意味、つまり後の言葉でいえば兄弟姉妹で同時に夫婦であるという意味だけである。幼児のコから成年男子をチ、同女子をハと呼んだろう。どちらも族の長老の意味にもなった。ハには母の意味が生理的にも濃厚だったろう。イモをオモと転じても母となり、接頭語のイをのぞいてモといっても母のことになった。


(二)その進んだ型

年齢階級や性別の呼称が分化して複雑となり、群内の族制が秩序だってくる。神前婚が起こったのもこの段階であろう。

                 年齢階級
          <オヤ>           <コ>
性 セ  オチ(大父)/ヲチ(小父)―― ヲノコ(ヲヒ)―┬マコ
別 イモ オハ(大母)/ヲハ(小母)―― メノコ(メヒ)―┘
オチ・オハ=後代転化して母系および父系の祖父母をいう
ヲチ・ヲハ=後代転化して母系および父系の伯叔父母をいう
ヲヒ・メヒ=実母子族の発展後転化して甥・姪の義となると想定


(三)内部の実母子族

イロハ(実母)―┬―イロセ(実兄弟)
           └―イロモ(実姉妹)
内部に実母子族(母子小家族)が認識されて、はじめて禁婚観念が族内にめばえてくる。世界的には、親世代と子世代の禁婚が第一に行われ、次に実母子族の禁婚が行われるというが、日本では親世代と子世代(つまり異世代間―おぢとめい、おばとおいなど)の禁婚は行われず、実母子族の禁婚のみが著明に見られる。これは南北朝頃まで維持された。

日本は原理的には、実母子族禁婚を除いて他に禁婚がない。この点で日本の婚姻制は族内婚型といえる。後に父系が貫徹してから、父系中心の近親婚が禁じられてくるが、それでも従兄弟姉妹は禁婚されてない。非常に強く原始の族内婚型が影響しているのである。
http://www.jinruisi.net/blog/2007/05/000163.html

日本婚姻史3 族外婚
http://www.jinruisi.net/blog/2007/05/000164.html

日本婚姻史2 族内婚 に続いて、もう一つの群婚である族外婚です。(高群逸枝著『日本婚姻史』より)


群の定着と族外婚

縄文前期ごろから群は定着し、生産力の増大、人口の増大から、かつては別れ去った分枝群もいまは隣り合って集落を作るようになる。この段階で群は族内婚から、隣群との族外婚に進む。

(筆者注:氏族単位で集団分割した上で集団統合力強化のため、氏族間で交じり合う婚姻制に転換する。交叉婚ともいう。)

族外婚の典型はオーストラリアに見られ、A群の全男子はB群の全女子と夫婦、B群の全男子はA群の全女子と夫婦というもの。有名なカミラロイのように四群からなるもの、八群からなるものなどいろいろあるが、基本的には二群式が原則。

ところが日本では、二群単位とは限らず、二群でも三群でもが集落をなし、その中央に祭祀施設のあるヒロバをもち、そこをクナド(神前の公開婚所)とし、集落の全男女が相あつまって共婚行事をもつことによって、族外婚段階を経過したと考えられる。(筆者注:拡大族内婚とでもいうべき世界史的にも非常に希な形態です。

「日本の交叉婚の特殊性」参照。)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=22267&pgh=3

通婚関係にある男女は、各自別群に所属している。だから子は当然母の群に生まれ育ち母の族員になることにより、母系氏族制がはじまる。群は氏族になり、氏族は母系によって継承されることになる。そして族員たちは互いにハラカラ(同母族)と呼び合うようになった。


クナド方式

クナグという古語は性交を意味する。

(『トツグ、マク、クナグ』参照)
http://www.jinruisi.net/blog/2006/12/000068.html

「允恭紀」にマクナギ、「霊異記」に婚合をクナガヒ、「今昔」にクナグ、「続古事談」に「妻をば人にクナガレて」などとみえる。だからクナドとはクナギドコロ、すなわち婚所の意味。

クナドの神なるものは、数ヵ村共有のヒロバや入会山や交通の要路(いわゆるヤチマタや物々交換の市場)や村の入口に祭ってある石神であるが、その性格は一面が交通の神、他面が性の神という複雑さをもっている。

クナドは文字通り神前共婚の場所であるが、そのことによって他群と交通し結びつくことになる場所でもある。原始段階では性交は同族化を意味する。排他的な異族の間では性の交歓だけが(ときには性器の見せ合いだけでも)和平への道であり、理解への道であり、村つくり、国つくりの道でもあった。大国主神の国つくり神話が、同時に妻問い神話になっているのもこの理由に他ならない(後日詳解の予定)。

・猿田彦神話では、国堺のヤチマタに異国人の猿田彦が立ちはだかっていると、ウズメという女神が乳房と陰部を露出してこれに立ち向かい、両者唱和して交通がひらけたとある。だから猿田彦は交通の神でもあり性の神でもあり、ウズメは雄取式舞踏(カグラ踊り)の祖神となった。

・女が性器を出して先駆すれば必ず敵軍を軟化させ得るという俗言から、沖縄の軍陣ではサキパリ(先張り?)というウズメ式巫女が用いられたという。

交通の要所に立つチマタの神や、道祖神や、村境にあって外からの害悪を防ぐサヘの神、これらが複合して同時にクナドの神とされ、いまも性の神とされているのは、その場所で神前集団婚が行われたからで、市場における定期的な集団婚カガヒ(歌垣)のことは、「万葉」にも謡われている。

CAO4KP4V.jpgカガヒは掛け合いの義。歌を掛け合うという意味で歌垣ともよばれる。カガヒは筑波(右の写真)や杵島などの入会山でも行われた。歌垣山という名の山も各地にみられる。歌を掛け合い踊りを踊ってそれを婚交の前奏曲としたことは、つぎの招婿婚(婿入婚)段階にもひきつがれて、ヨバヒの場合の唱和や相聞歌となり、平安期には文使いの儀式となったりした(文の方式は、村には明治ごろまで遺存して、若者たちの通い婚の序曲となっていた)。和歌など文学の起源はここにある。

(筆者注:歌垣は、東南アジアや中国南部の雲南地方など、照葉樹林文化圏に広くみられる。)

クナドでの族外婚では、それが集落婚姻圏を超えて広域的なものとなればなるほど、男性略奪(雄取り)と同じ観念、つまり子ダネをとるという観念が第一義となったろうが、それだけでなく外族との和平や政治的、経済的ブロックの拡大への動機がからんでいた。原始部落の女性たちは、胸乳をあらわしホトを露出したウズメ式の身振りの尻振り踊りによって他部族の男性を誘惑した。

・この段階が過ぎて個別婚の時代になると、この雄取式形態は、神社の巫女によって相続者をうる手段とされ、または娼婦によって歪曲化されて受け継がれた。

・平安時代には遊女(アソビメ)という娼婦がいたが、外来者とみれば取り囲んで歌舞し男客を誘惑した。

・沖縄の娼婦ズリの起源も外来者との婚交にあり、まれ人(客人)に仕える神の妻(め)にあるようだ。

・人妻と処女の別なく、外客を迎えて枕席にはべった鎌倉期の俗、とくに長者制の俗(長者の家での外客への饗応にはじまった娼婦制)も同じ原始の雄取婚からの遺制にちがいない。
http://www.jinruisi.net/blog/2007/05/000164.html

『トツグ、マク、クナグ』から見えてくるもの

「日本婚姻史」(中山太郎)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=132490

という本を読み始めました。(詳しくはこちらをどうぞ)
第一章「共同婚」の中の、第一節「共同婚を偲ばせる二三の古語」の中から、“とつぐ、まく、くなぐという古語の内容”がなかなか興味深かったので、ご紹介します。

著者の中山太郎氏は、


共同婚(乱婚とも雑婚とも称し、部落中の男女が共同的に婚姻するものをいう)時代が在ったか否か。換言すれば我国に女子共有の時代が在ったか否か。

という問題意識から古語を調べ、その存在を証明しています。ただし、この本が書かれた昭和初期にも、学者たちの抵抗があったらしく、


土俗を軽視した従来の学者は悉く否定説を採っている。就中、かかる事象の存在を国家の威厳でも傷けるものと誤解していた所謂国学者流の人々や、又は支那の儒教かぶれした学者達は、恰も臭いものに蓋をするが如き態度で、殆ど故意とも思われるまでに此の事象を或は否定し或は黙殺したのである。

と記しています。

さて、共同婚(⇒兄妹婚や総遇婚を指すようです)の存在の証拠の一部として、次のような内容が記されています。

★琉球石垣島の皿濱地方では、女にはプトモツ(夫を持つ)という結婚を表す言葉があるが、男には全く無く、露骨に「交合」という言葉を使っている。それと同じ用語例があり、それが「トツグ、マク、クナグ」の三語である。

★現在では、それぞれ「嫁ぐ、覔く、婚ぐ」という字を当てるが、古くはどれも「交合」の意味に用いられた。

その具体的事例を、少し長くなりますが引用しますね


トツグの語義は橘守部によれば『とつぐは陰接なり』と断定され。

宇都保物語(蔵開上)に

 そのむすめ、とつぎ時になり給しかば、みかどをさして、人かよはざでありしに、天皇、みこ、みや、とのばらのみ、よばひのつかひはあけたてはならめぐりてあれど、こともえつけでぞ侍りし云々。

これ等の例証から見るも、トツグの原義は交合であって、これが嫁娶の意に用いられるようになったのは、後世の第二義的の分化であることが知られるのである。

マクの語義に就いては『倭訓栞』に『日本紀に覔をよめり、古事記に求をよみ眞來と書けり、もとむる義なり云々。女を犯す事をまくといふも妻をまくより出たるなり云々。伊豫にてはまぐといふ、伊勢にてはまけなといふも同語なるべし』とあるが、これは谷川士清にも似合わぬことで、前に述べたマクの国語に覔または求の感じを当てたために誤られた解釈であって、古くは単なる交合の意であったことは、伊豫や伊勢の用語が示している如くで、現に琉球の宮古島や大隈の徳ノ島では交合の意にマクの語を使用している。

クナグの語義にあっては、諸冊二尊に合交(まぐわい)の事を教えた鶺鴒の和名を、古く『にはくなぶり』とも『とつぎをしへとり』とも言うた一事から見るも。この語が交合の意味を有していたことは明白である

然して以上列挙したトツグ、マク、クナグ等の言語を使用した古代人の思想は、交合することが直ちに婚姻であること、猶お琉球の皿濱地方におけると同じであった。反言すれば、婚姻とは即ち交合の意に外ならぬのであった。交合を『見る』とも『逢ふ』とも言い、婚姻を『よばふ』と言うようになったのは、この次の時代であって、多少とも婚姻に式礼を加えるようになってからの発明である。

霊の結合に重きを置かなかった古代にあっては、肉の結合が直ちに婚姻の総てであった。然もそれを最も露骨に最も勇敢に実行したのが私共の遠い祖先だちである。

一対婚が実は日本では数十年の歴史しかないことを、社会人になってから初めて知った のですが、そういう事実は、日本の古典からも読み取れるんですね。

古文の授業で、「逢う=結婚」と習って、 って感じだったのですが、もともと「交合」であったと考えればスッキリします。

著者は、古代は「霊の結合に重きを置かなかった」と書いていますが、そうではなくて、その時代は「霊の結合」と「肉の結合」は一体で、区別する必要なんて無かったんだと思います
http://www.jinruisi.net/blog/2006/12/000068.html

日本の交叉婚の特殊性  

>族外婚(交叉婚)の段階になると、実母氏族間(つまり兄妹間)の禁婚が厳密に守られたという事実がないと、後の母系氏族制の確立…、ひいては、それを基盤とした婿取婚が南北朝時代まで続いたことに整合性ある説明がつかないのではないでしょうか。 (小寺さん、21980)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=21980

 まず禁婚については、世代間と兄弟姉妹に分けて考える必要があります。細田さんが

21655
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=21655

で、中国貴州省の山地に住む少数民族、苗族(ミャオ族)の例から、

>最初の段階の制約は、世代の異なる人同士は結婚できないという年齢の制約である。次に現れた制約は兄弟姉妹や母方平行イトコ間では結婚できないことだ。三つ目の制約は、同一宗族内の者が通婚できないことで、このような制約も地域によって、どの制約がなされているかは異なるようだ。

とまとめられていますが、この点でも日本は特殊で、実母子間の禁婚のみが顕著で、父系(父・娘)や兄妹の禁婚は元来なかったとされています。交叉婚は厳密には兄妹婚のタブー(勿論父・娘もタブー)をもって成立しますが(世界史的にはそう)、日本は複数群のヒロバでの共婚ですから、兄妹婚黙認の交叉婚と考えているわけです。それまでの氏族内兄妹婚からすると、他氏族と交わるわけですから一見兄妹婚タブーと映りますが、厳密に貫徹するためには、兄妹同士が当たる可能性のある共婚にはならないのでは、というのが根拠です。他氏族との交わりが優先されたのは確かでしょうが、何ともルーズな婚姻制だと思います。

 子は母親の群で育てられるのは原始以来そうですから、ずっと母系氏族制であったと考えていいのではないでしょうか。集団分割も血縁を基準に分割するしかなく、必然的に母系氏族集団になったと思います。交叉婚の男女も各自生まれた群に属しています。

 妻問婚→婿取婚は、弥生人or大和人が持ち込んだ婚姻制で、当初支配層のみで行われていたものです。男が忍んで好みの女のもとを訪れる妻問婚も、男を母系集団に迎え入れる婿取婚も、母系氏族制を基礎にしていますが、同時に崩壊をも意味しています。群同士の婚姻制が崩れ、さらに生まれた群を離れるという形で変質していきます。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=22267&pgh=3


採取時代の婚姻様式    

   
   観念機能(事実認識=洞窟・貯蔵・火・調理具・戦闘具・舟・栽培・飼育)の進化によって生存力を強化した人類は、約1万年前、弓矢によって外敵と互角以上に闘えるようになった頃から洞窟を出て地上に進出する。そして地上に進出した人類は、忽ち外敵を駆逐して、繁殖していった。その結果、繁殖による集団の拡大→分化を繰り返した人類に、ようやく同類闘争の潜在的な緊張圧力が働き始める。とは言え採集部族や狩猟部族は、互いに贈物etc.を通じて友好関係の構築に努め、闘争を回避していた。  

   
   しかし、外圧が低下すると集団統合力が低下し、規範収束力も低下してゆく。同時に、外圧の低下につれて解脱収束(中心は性充足の欠乏)が強まってゆく。更に、集団規模が拡大したこともあいまって、原モグラ以来1億年に亙って踏襲してきた首雄集中婚を維持することが困難になっていった。こうして約1万年前、人類の雌雄(婚姻)関係は劇的に変化してゆくことになったが、豊かな山野や海辺に進出して木の実などの採集や漁労に転じた採集生産の部族と、従来通り獲物の豊かな森林で狩猟を続けた狩猟生産の部族では、全く異なる婚姻規範を形成する。  

   
   東アジアの黄色人(モンゴロイド)をはじめとして、世界人口の過半を占めていた採集・漁労部族は、仲間の解脱収束→性欠乏の上昇に対して、皆が心を開いた期待・応望の充足を更に高める方向を目指し、

部族内を血縁分割した単位集団(氏族)ごとの男(兄たち)と女(妹たち)が分け隔てなく交わり合う、総偶婚規範を形成した

(但し、氏族を統合している部族レベルでは首雄集中婚が踏襲されている事例が多いので、正確には上部集中婚・下部総偶婚と呼ぶべきだろう)。

なお、その後同類闘争の緊張圧力が高まると、再び集団統合力を強化する必要から、氏族ごとの閉鎖性を強め分散力を強める兄妹総偶婚は廃止され、部族内で定められた他の氏族の異性たちと交わり合う交叉総偶婚に移行してゆく。

何れにしても、期待・応望充足を最大の活力源とする採集部族は、総偶婚によって期待・応望(=共認)充足を破壊する性闘争を完璧に解消して終うと共に、総偶婚によって一段と期待・応望充足を強めたことによって、その充足を妨げる自我回路もほぼ完全に封印していった。  


   
   ここでの採集・漁労部族における女の役割は、注目に値する。

採集部族では、弓矢を持った男たちが防衛する(狩猟もするが、獲物は少ない)安全域で、女たちが主要な食糧を採集する。もちろん、闘争過程の主役はあくまでも男たちの防衛であって、女たちの採集は従役である。

それにしても、食糧の過半を女が採ってくるというのは、外圧の強い極限時代には考えられなかったことであるが、皆=集団の期待(食糧の採集という役割)に応えて、採集部族の女たちはよく働いた。

しかし、それでもなお男たちの期待の中心は性であり、従って女たち自身にとっても、自分たちの中心的な役割は性役(男たちに性的充足を与えること=自らの性的充足を得ること)であった。

役割欠損ゆえに性的存在となった女にとって、集団=全ての男たちの期待(=性役という女の役割規範)に応えることほど、自らの存在理由を充足させるものはない。

従って、タヒチをはじめ採集部族の女たちは、極めて積極的に集団の期待=性役規範に応え、更に性機能を磨いていった。

(近世になって西欧人が侵略の目的でやって来た時でさえ、タヒチやカリブの女たちは、彼らを性的に歓待した。

これは、採集部族の人たちがいかに心を開いていたか=いかに警戒心が無かったか=いかに完全に自我を封印していたかの証明であり、また女たちが、集団の性役規範にいかに積極的に応えていたかの証明である。)  

 
   それに対して、ヨーロッパの森林地帯に留まった白色人(コーカソイド)をはじめとする狩猟部族は、その狩猟という生産様式から、まだまだ強い闘争圧力を受けて強い集団統合力を維持し続けており、その結果、首雄集中婚の規範が長く残り続ける。

しかし、外圧の低下によって次第に解脱収束が強まり、集団規模も拡大してゆく。そこで狩猟部族は、首雄集中婚を踏襲しつつ、首雄=族長という資格を一段下に拡張した勇士集中婚を形成していった

(これは、女長老が采配する母系氏族の姉妹たち全員が勇士を迎え入れる、勇士婿入り婚とも言える)。

だが、ここに大きな落とし穴があった。首雄は、原モグラ(哺乳類)以来の自然な存在であり、かつ唯一人である。それに、皆が評価し共認した族長に対して不満などあろう筈がない。仮にもし不満があったとしたら、直ちに皆が認める新たな族長に替わるだけである。しかし、勇士は一人ではなく何人もいる。しかも、勇士の資格は人工的に作られた資格である。従って、男たちの相対性と各々の正当化から自我を発生させて終う余地が大きい。

何より問題なのは、首雄集中婚や総偶婚では集団規範によって性(婚姻)の相手は決まっており、従って娘たちは12歳前後で、思春期を迎えるや否や直ちに性関係に入ってゆく事ができる(=女の最大欠乏たる性的役割欠乏が充足される)のに対して、人工的な勇士婚では相手は決まっておらず、勇士が決まり婚姻が決まるまで、娘たちの性欠乏=存在理由欠乏は宙に浮いてしまうことである。  


 
   もともと首雄集中婚の下でも、外圧が低下して解脱収束を強めた男たちの性欠乏は宙に浮いていた。

しかし、モグラ以来、首雄以外の男の性は封鎖されてきたし、性の主役は女なので、女の性の相手を定めた婚姻規範が有る限り、問題は起きなかった。

ところが、勇士婚規範によって、その女の性が宙に浮いてしまった。
こうなると、規範破りの性関係が発生してくるのは避けられない。

とは言え、狩猟生産の段階ではまだまだ闘争圧力⇒集団統合力が強く、規範破りの不倫は殆ど発生しなかっただろうし、万一発生したとしても、部族を捨てて逃げるほど反集団的には成れず、従って(恐らく男が)処刑されて一件は落着しただろう。

しかし、牧畜生産に移行すると一気に闘争圧力が緩み、集団統合力も低下する(牧畜は、一般には採集部族と同様に女の仕事であり、従って牧畜部族に働く外圧は、採集部族に働く外圧レベルにまで低下したと考えられる)。

そこでは勇士の資格が更に下に拡張され、規範破りの不倫も、時折は発生したに違いない。しかし、やはり氏族(親や兄弟や仲間)を捨てて逃げるほど、反集団的な意識には成り得なかった

(集団を捨てて逃げる為には強固な反集団の自我収束が必要だが、そこまで強く自我収束し得る場が、狩猟部族や牧畜部族には見当たらない)。

だが、彼らが遊牧へと移行していった時、彼らは遂に開けてはならないパンドラの箱を開け、集団を破壊する性闘争を顕現させてしまうのである。  
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=100&c=1&t=8 

日本婚姻史シリーズ1〜その3:縄文時代の婚姻制を探る
http://bbs.jinruisi.net/blog/2010/02/000757.html


先ずは、新石器時代(=採集・漁労生産時代)、東アジア諸部族の婚姻様式を俯瞰してみます。


『実現論(採取時代の婚姻様式)』
東アジアの黄色人(モンゴロイド)をはじめとして、世界人口の過半を占めていた採集・漁労部族は、仲間の解脱収束→性欠乏の上昇に対して、皆が心を開いた期待・応望の充足を更に高める方向を目指し、部族内を血縁分割した単位集団(氏族)ごとの男(兄たち)と女(妹たち)が分け隔てなく交わり合う、総偶婚規範を形成した

(但し、氏族を統合している部族レベルでは首雄集中婚が踏襲されている事例が多いので、正確には上部集中婚・下部総偶婚と呼ぶべきだろう)。

なお、その後同類闘争の緊張圧力が高まると、再び集団統合力を強化する必要から、氏族ごとの閉鎖性を強め分散力を強める兄妹総偶婚は廃止され、部族内で定められた他の氏族の異性たちと交わり合う交叉総偶婚に移行してゆく。
『実現論勉強会(採取時代の婚姻様式・図解)』


交叉総遇婚とは、同じ集団内(母方の親族)の婚姻関係をタブーにし、決められた集団に男が通う形態となります。

集団が閉鎖性を帯びないように、A集団の男たちはB集団の女たちと、B集団の男たちはC集団の女たちと、というように相手を決めていくのが普遍的。父親は別集団で生活しているので、母方の兄弟が養育することになります。

では、縄文期の日本列島も、上記の交叉総遇婚であったといえるのか? このことについて、縄文集落の埋葬形態から婚姻様式を探る記事を紹介したいと思います。


るいネット『集落内墓地の埋葬形態から婚姻様式を考える』

 田中良之氏の研究によると、縄文〜5世紀後半までは男女問わず、同じ集落内でも近い血縁関係にある死者を近くに埋葬する傾向が強いようです。縄文期は(母系・父系の特定はできない)兄・弟・姉・妹・従兄弟・従姉妹が同じ場所に埋葬されていることが多く、近親関係が無い(薄い)配偶者と思われる女性の人骨が、父系の墓地の近くに埋葬されるようになるのは古墳時代以降だということです。

 こうして双系の兄妹を近くに葬る縄文の埋葬形態は、未開時代のタヒチなどポリネシア原住民に近いようにも思われます。以上から、日本古代の婚姻について以下の2つの仮説が考えられます。


・1つ目は、「兄妹婚」「従兄妹婚」などのように単位集団(氏族)内に婚姻関係が内包されており、婚後も男女双方が集団内に留まっていた。

・2つ目は、婚姻関係は単位集団(氏族)を超えて結ばれたが、男女どちらかが相手の集団に移動して一緒に住まうような固定形態ではなく、その都度移動して交流していた。   

以上、縄文時代の交叉総遇婚について探ってみました。但し、東アジアをはじめ、採集・漁労部族に見られる交叉婚と日本の交叉婚は、婚姻規範の中身が異なったようです。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2010/02/000757.html


日本婚姻史1〜その4:日本の交叉婚の特殊性
http://bbs.jinruisi.net/blog/2010/03/756.html

前々回と前回にわたって、縄文時代の婚姻制【兄妹総偶婚⇒交叉総偶婚】の流れを、気候風土や集団内墓地の埋葬形態などから解明してきました。


【総偶婚】

集団ごとの男達と女達が分け隔てなく交わりあう婚姻様式。

約1万年前、採集・漁労部族はこの総偶婚によって(期待・応合充足を破壊する)性闘争を完璧に解消し、自我回路をほぼ完全に封印していた。日本においては村内婚(夜這い婚)の形で、昭和30年代頃まで農村部で存続していた。


前回、世界の交叉総偶婚を婚姻形態を図解でも紹介しましたが、日本の交叉総偶婚の婚姻形態は世界の交叉総偶婚の中でも少し変わっているようです。

今回は、日本の縄文時代の交叉総偶婚とはどういったものだったのか?その特殊性について紹介したいと思います。


★日本の交叉総偶婚【クナド婚】とは?

■クナドとは?

クナグという古語は性交を意味します。

(『トツグ、マク、クナグ』参照)
http://www.jinruisi.net/blog/2006/12/000068.html


「允恭紀」にマクナギ、「霊異記」に婚合をクナガヒ、「今昔」にクナグ、「続古事談」に「妻をば人にクナガレて」などという表現があります。つまりクナドとはクナギドコロ、すなわち婚所を意味します。


■クナド婚とは?

クナドの神なるものは、数ヵ村共有のヒロバや入会山や交通の要路(いわゆるヤチマタや物々交換の市場)や村の入口に祭ってある石神であるが、その性格は一面が交通の神、他面が性の神という複雑さをもっています。

クナドは文字通り神前共婚の場所ですが、そのことによって他群と交通し結びつくことになる場所でもあります。原始段階では性交は同族化を意味します。排他的な異族の間では性の交歓だけが(ときには性器の見せ合いだけでも)和平への道であり、理解への道であり、村つくり、国つくりの道でもあったようです。


詳しくは、

『日本婚姻史3 族外婚』
http://www.jinruisi.net/blog/2007/05/000164.html

を参照


祭事の折など、数ヵ村共有のヒロバ(広場)に集まり、男達と女達が分け隔てなく交わりあう交叉総偶婚という婚姻形態を取っていたようです。


★海外の交叉総偶婚とは厳格に規範化された婚姻制度

交叉総偶婚(族外婚)の典型はオーストラリアのアボリジニ先住民族に見られます。、A群の全男子はB群の全女子と夫婦、B群の全男子はA群の全女子と夫婦というものです。有名なカミラロイのように四群からなるもの、八群からなるものなどいろいろあるが、基本的には二群式が原則です。


http://bbs.jinruisi.net/blog/2010/03/756.html

上図のように、海外の交叉総偶婚とは厳格に規範化された婚姻制度となっています。


★なぜ交叉総偶婚という厳格な規範化がなされたのか?

ここは仮説ですが、日本と違い他民族や他人種との同類闘争の中で、集団統合の観点から軋轢を避け厳格が規範化がなされたのかも知れません。

日本の場合、弥生時代に入るまで、他民族との接触がなかったため、日本独自の交叉総偶婚が成立したのかもしれません。


★日本の独自の交叉総偶婚【クナド婚】は、おおらかな婚姻制度

日本では、二群単位とは限らず、二群でも三群でもが集落をなし、その中央に祭祀施設のあるヒロバをもち、そこをクナド(神前の公開婚所)とし、集落の全男女が相あつまって共婚行事をもつことによって、族外婚段階を経過したと考えられます。

日本は特殊で、実母子間の禁婚のみが顕著で、父系(父・娘)や兄妹の禁婚は元来なかったとされています。交叉婚は厳密には兄妹婚のタブー(勿論父・娘もタブー)をもって成立しますが(世界史的にはそう)、日本は複数群のヒロバでの共婚ですから、兄妹婚黙認の交叉婚と考えているわけです。

それまでの氏族内兄妹婚からすると、他氏族と交わるわけですから一見兄妹婚タブーと映りますが、厳密に貫徹するためには、兄妹同士が当たる可能性のある共婚にはならないのでは、というのが根拠です。他氏族との交わりが優先されたのは確かでしょうが、何ともルーズな婚姻制だと思います。
(るいネット「日本の交叉婚の特殊性」より引用)

日本の交叉総偶婚は兄妹婚黙認の【拡大総偶婚】とでもいうべき世界史的にも非常に希な形態です。

集団の人数が増えても、充足・集団統合から婚姻形態が決められ、縄文人の共同性や期待応望によるみんなの充足に重きが置かれていた事がわかります。
******************************

以上が、縄文時代の婚姻制度でした。

しかし、渡来人が入ってきた弥生時代は、【拡大総偶婚⇒対偶婚(一対一の関係)】へ劇的に変わって行きます。この変化には、私有意識や私権観念が流入してきた事を意味すると思われます。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2010/03/756.html

5. 中川隆[-12326] koaQ7Jey 2019年2月09日 05:46:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

縄文人、意外と長生き 65歳以上が3割 聖マリアンナ医科大 2010年11月13日

写真:年をとった人の腸骨耳状面は表面がざらざらしている(長岡朋人さん提供)
拡大年をとった人の腸骨耳状面は表面がざらざらしている(長岡朋人さん提供)


写真:一方、若年の腸骨耳状面は表面がすべすべしている(長岡朋人さん提供)
拡大一方、若年の腸骨耳状面は表面がすべすべしている(長岡朋人さん提供)


 平均寿命が30歳前後とされ、「過酷な生活環境のため、早死にする人が多かった」と考えられてきた縄文時代の人たち。しかし、出土人骨の年齢推定に関する最新の研究で、実は65歳以上とみられる個体が全体の3割以上を占める――という結論がこのほど提示された。なぜ、これほど違う結果が出たのだろうか。

 この研究を行ったのは聖マリアンナ医科大講師の長岡朋人さん(人類学・古人口学)。文部科学省の科学研究費の成果として、このほど「月刊考古学ジャーナル」の臨時増刊号で発表した。

 年齢にまつわるデータがまったくない人骨について、人類学者たちは、歯の生え具合や、すり減り具合、手足の軟骨の癒合(ゆごう)の程度(くっつき具合)などを基準に年齢推定をしている。中でも、成人以上の判定でよく使われるのが「恥骨結合面」と呼ばれる部分だ。腰骨の一部で、年齢が若いと表面の凹凸が激しく、年をとるにつれ滑らかになる特徴がある。

 「ただし、恥骨は残りにくい。このため今回は、比較的残りやすく細かな年齢推定が可能な、同じ腰骨の腸骨耳状面という部分を検討対象にしました」。この部分は若い時は滑らかだが、年をとると、骨棘(こつきょく)ができたり穴があいたりすることが指摘されている。

 「ベイズ推定」と呼ばれる、新たな統計的手法も採用した。これまでは、たとえば20代の可能性が高い人骨の年齢を表す場合、他の年齢の可能性が残っていてもそれらを切り捨て、単に「20代」と表現してきた。

 「でも、20代の可能性が7割だったとしても、あとの3割は30代や40代の可能性が残されている。それらの誤差が蓄積され続けると、集団全体で考えた際、事実と異なる結果が出る可能性が高い」

 長岡さんがこう考えたのは、古人骨に基づく研究では、いずれの人類集団も30〜40代で構成員の大半が死んでしまうことが指摘されているのに、古文書などの記録に残っている範囲では、このような傾向を示す集団はほとんど存在しないからだ。

 「縄文人と近い暮らしをしていたと考えられるアフリカの狩猟採集民でも、乳幼児死亡率が高かった江戸時代の人々でも、50代以上でなくなった人が3割を超す。とすれば、今までの縄文人の年齢構成には疑問符がつく」

 長岡さんが新しい方法で再調査した岩手・蝦島貝塚や千葉・祇園原貝塚など9遺跡から出土した計86体の人骨は、65歳以上が32.5%を占めたという。「縄文人=早死に」のイメージのもとになった人類学者小林和正さんの1967年の論文では、65歳以上はゼロだったから大きく異なる。「今までの年齢推定法は老年の人を実際より若く推定してきたのではないか」

 琉球大教授の石田肇さん(形質人類学)は「長岡君の精密な調査で、どんな集団でも長命な個体が存在することが分かってきた。確率的にみても、縄文時代における65歳以上の個体が3割という割合は間違いない」と評価する。

 考古学者も肯定的だ。「縄文時代は伝統的、かつ複雑な社会構造を持った社会だったことが明らかになりつつある。30代で大半の人が亡くなるのでは、技術継承などの面で支障があったはず。寿命が長かったなら、そうした問題はなくなる」と、明治大教授の阿部芳郎さん(考古学)。

 国学院大名誉教授(考古学)の小林達雄さんも「若い人には創造性があるが、それらを体系づけ、安定した状態を維持していくためには、30代以下だけでは無理。50代以上の構成員も多かったのなら納得できる」と話す。

 一方で、やや慎重な意見も。国立長寿医療センター研究所所長の鈴木隆雄さん(老年学・古病理学)は「興味深い説だが、完全に結論が出たわけではない。今回の腸骨耳状面を使うやり方が、従来、年齢推定の判断基準となってきた恥骨結合面などの変化と整合性があるかどうか。今後、年齢推定のやり方を総合的に検証する必要があるのではないか」と話している。(宮代栄一)


6. 中川隆[-12325] koaQ7Jey 2019年2月09日 05:48:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

最先端技術を用いた古人骨全ゲノム解析から東南アジアと日本列島における人類集団の起源の詳細を解明
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf

金沢大学の覺張隆史特任助教(人間社会研究域附属国際文化資源学研究センター),佐藤丈寛助教および田嶋敦教授(医薬保健研究域医学系・革新ゲノム情報学分野)は,コペンハーゲン大学が中心となって進めている古代ゲノム研究の国際研究チームと共に,日本列島の縄文時代遺跡や東南アジアから出土した古人骨26 個体のゲノム解析(※1)を実施し,今日の東南アジアで生活する人々の起源と過去の拡散過程を解明しました。

今回,ゲノム解読がなされた縄文人骨は,愛知県田原市の伊川津(いかわづ)貝塚遺跡(※2)から出土した約2千500 年前の縄文晩期の女性人骨(※3)で,縄文人の全ゲノム配列(※4)を解読した例としては世界で初めての公表となります。

この縄文人骨1 個体の全ゲノム配列をもとに,現代の東アジア人,東南アジア人,8
〜2 千年前の東南アジア人など80 を超える人類集団や世界各地の人類集団のゲノムの比較解析を実施した結果,現在のラオスに約8 千年前にいた狩猟採集民の古人骨と日本列島にいた約2 千500 年前の一人の女性のゲノムがよく似ていることが分かりました。

このように,本研究は,縄文時代から現代まで日本列島人は大陸南部地域の人々と遺伝的に深いつながりがあることが,独立した複数の国際研究機関のクロスチェック分析(※5)によって科学的に実証された初めての研究として位置付けられます。

特に,縄文人骨のゲノム解析は,覺張隆史特任助教,北里大学医学部の太田博樹准教授,国立歴史民俗博物館の山田康弘教授を中心とした『縄文人ゲノム解読プロジェクト(※6)』の成果の一つとなります。

現在,覺張隆史特任助教らはこの縄文女性を主役としたより詳細な解析結果について,別の論文を発表準備中です。

これらの知見は,日本列島に居住していた各時代の人々の起源の解明に将来活用されるだけでなく,広く東アジア・東南アジアにおける人類集団の起源と拡散に関する研究に大きな寄与をもたらすことが期待されます。

本研究成果は,2018 年7 月6 日に国際学術誌「Science」に掲載されました。また,7月8 日〜12 日に,横浜市パシフィコ横浜で開催されている国際分子生物進化学会において,覺張隆史特任助教らが縄文人の全ゲノム配列を中心とした発表を行います。


【研究の背景】

過去にあった人類の拡散過程を復元することは,今に生きる人々の起源や成立過程,
各地域に居住する人々が持つ遺伝的な特徴の獲得や疾病・病原菌耐性の仕組みを追求す
る上で重要な位置付けにあります。従来の遺伝学的研究では,今に生きる現代人の遺伝
情報から人類の拡散ルートの復元を試みてきました。しかし,現代人集団間の遺伝的な
類似性から,実際に過去の人類の移動ルートが分かるわけではありません。なぜなら,
各時代・各地域の人類集団は常に移動する可能性が伴うため,いつ・どこに・どのよう
な遺伝情報があったかを復元しない限り,過去の人類の拡散過程を正確に復元すること
はできないからです。このため,現代人の遺伝情報から移動ルートを復元するには,多
くの仮定の上で推理するしかありませんでした。
近年のDNA 解析技術の革新によって,超微量DNA から全遺伝情報(全ゲノム)を解読
することが可能になり,遺跡から出土する人骨から直接的に過去の人々の全ゲノム配列
を決定できる時代が到来しました。とはいえ,遺跡出土人骨の全ゲノム解析には,まだ
技術的課題が複数あります。その中で,特に克服しなければならない課題が2 つありま
した(図1)。一つ目は,温暖湿潤地域における遺跡出土人骨の分析が成功していなかっ
たことです。二つ目は,微量DNA からの分析の問題点となる現代人由来のDNA 混入(コ
ンタミネーション)の問題です。このコンタミネーションの可能性を客観的に評価する
ためには,複数の独立した研究機関が相互チェックを行いゲノム解読を達成する,すな
わち,科学的信頼性(Scientific Authenticity)を高める共同研究体制の確立が必須
となります。
これらの課題を克服するために,本国際共同研究グループはDNA 保存状態が極めて劣
悪な環境下にある遺跡出土人骨から効率的に古代人由来のDNA を抽出する技術開発と評
価システムを確立し,現代人由来のコンタミネーションの影響を客観的に評価するため
の国際共同研究体制の構築を進めました。その結果,今までの技術や研究体制では科学
的な復元が不可能であった温暖湿潤気候の東南アジアにおける人類の拡散と遺伝的交
流の復元を世界に先駆けて達成しました(図2)。
さらに,先行研究では縄文人の非常に限られた範囲の部分ゲノム配列(Partial Genome
Sequence)のみが公開されていましたが,本研究では全ゲノム配列(Whole Genome
Sequence)の解読に成功しました。このように,日本列島のような保存状態が劣悪な環
境においても全ゲノム配列の取得が可能であることを示した最初の成功例となり,今後
の古代ゲノム研究の大きな躍進につながるといえます。


図1.研究背景の概念図
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf

図2.古人骨ゲノム分析の実験風景(北里大学医学部の古代DNA 分析専用クリーンルーム内にて)
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf


(左上:現代人由来のDNA が少ない環境下にあるクリーンベンチ内でのDNA 抽出。

右上:
古人骨を分析するクリーンルームでは1 回使い捨ての防塵服と専用のゴム手袋を使用。

下:縄文人骨の側頭骨からの試料採取。)


【研究成果の概要】

本論文で国際共同研究チームは,DNA の保存環境として最も悪い東南アジアの遺跡出
土人骨25 個体と日本の縄文人骨1 個体の計26 個体の古人骨からDNA 抽出を実施し,ゲ
ノム配列決定に成功しました。得られた古人骨ゲノムデータと世界各地の現代人集団の
ゲノムデータを比較した結果,東南アジアに居住していた先史時代の人々は,6 つのグ
ループに分類できることが分かりました(図3)。
グループ1 は現代のアンダマン諸島のオンゲ族やジャラワ族,マレー半島のジャハイ
族と遺伝的に近い集団で,ラオスのPha Faen 遺跡(約8 千年前)から出土したホアビ
ン文化という狩猟採集民の文化を持つ古人骨と,マレーシアのGua Cha 遺跡(約4 千年
前)の古人骨がそのグループに分類されました。また,このグループ1 に分類された古
人骨のゲノム配列の一部は,驚くことに日本の愛知県田原市にある伊川津貝塚から出土
した縄文人(成人女性)のゲノム配列に類似していたことが分かりました。さらに,伊
川津縄文人ゲノムは,現代日本人ゲノムに一部受け継がれていることも判明しました。
一方,他のグループ2〜6 は農耕文化が始まる新石器時代から約500 年前までの古人
骨で,ホアビン文化の古人骨とは遺伝的に大きく異なっており,それぞれ異なる拡散と
遺伝的交流(すなわち混血)の歴史を持っていることが分かってきました。グループ2
はムラブリ族などの現代オーストロアジア語族と遺伝的に近く,現代東アジア集団とは
遺伝的な構成要素をあまり共有していないことが分かりました。さらにグループ1 と東
アジア集団が分かれた後に,グループ1 からグループ2 への混血の痕跡が見つかりまし
た。また,グループ3 は現代東南アジア集団のタイ・カダイ語族やオーストロネシア語
族と遺伝的に近く,グループ4 は現代の中国南部地域の人々と遺伝的に近いことも分か
りました。さらに,グループ5 は,現代のインドネシア西部の人々と遺伝的に近く,グ
ループ6 は,いわゆる旧人に分類される古代型人類であるデニソワ人からの部分的な混
血の痕跡なども見られました。
このように,部分的には中国南部の少数民族からの遺伝的な影響があったり,台湾な
どの地域へも遺伝的なつながりがあったりと,新石器時代の東南アジアの人々は単純に
元々住んでいた狩猟採集民がそのまま農耕を取り入れたという静的な状態ではなく,大
陸内と島嶼部で複数の大きな移住の過程で徐々に農耕を取り入れて行ったことが分か
ってきました。従来の考古学的な視点からは,これらの時期には稲作・雑穀などの農耕
文化を持つ人類集団が東南アジアに多数入植して原住民と置き換わったというシンプ
ルな「2 層構造仮説」が提唱されてきました。本研究成果では,すでに稲作文化を持っ
ていた中国南部からの遺伝的な影響は部分的で,人々が完全に置き換わったということ
ではないことが判明しました。その大きな移住の波が少なくとも4 回以上はあったこと
が解析の結果分かってきたことから,このような東南アジアの人々の移動を「複合モデ
ル」という新しい枠組みで捉え直すことになりました。
本研究は,考古遺物でしか人類の拡散の議論ができないと従来考えられてきた東南ア
ジア地域において,古人骨のゲノム分析により人類の拡散を解明した初の成功例になり
ました。今後,同様の分析を様々な地域に応用することで,各地域の詳細な人類の移動
史を科学的に評価することが可能になったことが,本研究の最も大きな成果といえます。


図3.古人骨ゲノムデータから復元された人の拡散ルート
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf


【今後の展開】

本研究で得られた東南アジア古人骨および縄文人骨のゲノムデータは,広く東アジア
の人々の起源研究の基礎情報として活用されると期待されます。また,縄文時代におけ
る古人骨の全ゲノムデータは,現代の韓国,中国,ロシアなどといった日本列島周辺に
同時期に居住していた東アジア集団との遺伝的な類似性を直接比較することを可能に
しました。現在,より広い地域の人類集団との比較研究を進めています。また,本研究
の縄文人の全ゲノム配列決定は,ヒトゲノム計画など現代人のゲノム解析におけるドラ
フト配列(Draft Genome Sequence)決定に相当します。今後は,より精度の高い配列
決定(Complete Genome Sequence)を目指します。
本研究は人類学と考古学が綿密な協力のもと得られたもので,縄文人の起源と多様性
に関する研究の一つのスタート地点に立ったと言えます。今後,より多くの地域から複
数の縄文人骨のゲノム解析をすることで,縄文人の遺伝的な多様性を列島規模で評価で
きるようになります。そうすることで,地域間の人々との交流の実態や,土器や石器な
どの考古遺物といったモノの流れと,ヒトの流れの関係性の評価につながると期待され
ます。このように本研究の成果を礎に全く新しい人類学・考古学の発展が期待されます。


【用語解説】

※1 ゲノム解析
生物が持つ遺伝情報の広範囲な解析のこと。


※2 伊川津(いかわづ)貝塚遺跡
愛知県田原市に位置する縄文時代後晩期の貝塚遺跡。明治期から現代までに200 体以
上の人骨が検出されている日本で最も代表的な縄文時代遺跡。小金井良精や鈴木尚など
著名な人類学者が人骨の形態学的な研究を進めてきた。同市は,他にも,吉胡貝塚,保
美貝塚などの縄文時代を代表する貝塚が古くから調査されており,各遺跡から非常に多
くの人骨が検出されている。


※3 約2 千500 年前の縄文晩期の女性人骨
2010 年度に伊川津貝塚から出土した縄文人骨。近年の研究では,日本列島における弥
生時代の開始は3000 年前とされているが,弥生文化の到来時期は地域ごとに異なる。
今回の伊川津貝塚出土の成人女性人骨は共伴した土器などから,五貫森式土器の時期の
ものと判明しており,渥美半島においてこの時期はまだ縄文時代の文化を残している。
また,分析対象となった女性人骨は形態学的に典型的な縄文人の特徴を有していた。


※4 全ゲノム配列
生物が持つDNA 配列の中でも,タンパク質の発現に関連する遺伝子領域のDNA 配列だ
けでなく,遺伝子以外の領域全てを含めた広い範囲のDNA 配列のこと。


※5 クロスチェック分析
異なる分析機関,異なる分析手法,異なる解析手法で,独立して同じ結果が得られる
かを評価する分析手法のこと。古代DNA 研究で重要な科学的指標の一つに当たる。


※6 縄文人ゲノム解読プロジェクト
日本の考古学者と人類学者,遺伝人類学者,ゲノム研究者などから構成される研究プ
ロジェクト。
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf



▲△▽▼

縄文人、ラオス・マレーシアにルーツ? 金沢大の研究グループがゲノム配列解読
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1531327113/

想定される日本人の祖先の移動ルート
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20180711004656_comm.jpg

 約2500年前の縄文人の人骨に含まれる全ゲノム(遺伝情報)を解析した結果、約8千年前の東南アジアの遺跡で出土した古人骨から得られたゲノム配列と似ていることが、金沢大学の覚張(がくはり)隆史特任助教(生命科学)らの研究グループの調査でわかった。縄文人の全ゲノム配列の解読に成功したのは世界で初めて。日本人の祖先が、どこから来たのかを考えるうえで注目されている。

 研究成果は11日、横浜市で開催中の国際分子生物進化学会で報告されたほか、6日付の米科学誌サイエンス電子版に発表された。

 覚張さんらの研究グループは、コペンハーゲン大学を中心とした国際研究チームと共同で調査。愛知県田原市の伊川津(いかわづ)貝塚で出土した縄文時代晩期の成人女性の人骨1体について全ゲノム解析を行った。日本のような温暖湿潤気候の地域では、人骨のDNAは劣化しやすく調査は難しいとされてきたが、最新の研究手法で縄文人の全ゲノム配列を初めて解読した。

 この結果を東南アジア各国の遺跡で出土した人骨25体や現代人のデータと比較すると、東南アジアの先史時代の人々は六つのグループに分類できることが判明。そのうちの約8千年前のラオスと、約4千年前のマレーシアの遺跡でみつかった人骨のグループのゲノム配列の一部が、伊川津貝塚の人骨と類似していた。

 日本人の祖先は、約4万年前以…

朝日新聞デジタル 2018年7月11日19時37分
https://www.asahi.com/articles/ASL7B5V8QL7BPTFC018.html


金沢大学プレスリリース:
最先端技術を用いた古人骨全ゲノム解析から東南アジアと日本列島における人類集団の起源の詳細を解明
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf


オンゲ族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%82%B2%E6%97%8F

ジャラワ族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%83%AF%E6%97%8F

ジャハイ族
https://en.wikipedia.org/wiki/Jahai_people


https://i.imgur.com/DMUIpO0.jpg
http://www.mohr-mcpherson.com/blog/wp-content/uploads/2015/07/9896889874_a000749cc7_b-1024x781.jpg


●数部族に分かれていますが、まぎれもない絶滅危惧部族です。

●Y-DNAの「D*」遺伝子を持つアンダマン諸島先住民は、50000年〜60000年前頃には
当時まだ陸続きの陸橋だったアンダマン諸島弧部分に住み着いたと考えているよ
うです。アボリジニの先祖Y-DNA 「C4」がオーストラリア亜大陸に到達した頃と同
じ古さです。もしかすると一緒に移動していた可能性もあります。

●彼らの、外来者をすべてを殺す習慣はオリジナルの「D」遺伝子や言語を見事に維
持し続けた、と考えられています。 アンダマン諸島先住民は縄文人の先祖の血を  守ってきてくれているのです....感謝!
出アフリカしたホモサピエンスの生きた化石なのです。日本人は彼らを大切に保  護しなくてはなりません。

●アンダマン諸島において、耕作は未知でした、そして、彼らは特有のブタを狩っ  たり、釣り、などで食生活し、集合して生活をしていました。

●唯一の兵器が、弓と、手斧と木製のもりでした。

●絶滅したタスマニアの先住民とアンダマン諸島先住民のみが19世紀に入っても火
を作る方法を全く知らなかった人々だったそうです、 木への落雷によって引き起  こされた炎から燃え残りを慎重に保存したそうです。

●ところがイギリス人の上陸で1867年のアンダマン諸島では、たくさんのOnge部族  民がイギリス人の海軍に殺されました。

●1940年代に、Jarawa部族は彼らの敵意のための日本軍によって爆撃されました。
日本軍は世界でチベット人と並ぶ唯2の縄文人の親戚民族であるアンダマン諸島  先住民を爆撃するという愚挙を行ったのです。大反省....です。

イギリスの最初の上陸時にはおよそ5,000人の先住民がいたそうですが、虐殺、 文明国が持ち込んだ病気、アルコール中毒、 インド亜大陸やビルマ(カレン族)か らの移住者などの影響で、1901年までには600人に減り、
1927年には100人の生存者 だけになったそうです。 1961年には19人に減りましたが、現在約50人に回復してい るそうです。

その間絶滅した部族はかなりあるそうです。アンダマン諸島の古代先 住民 Y-DNA「D*]が絶滅する前に、
同じ「D」の遺伝子を持つ日本人が彼らの調査を行 えるといいですね!

https://web.archive.org/web/20160223020324/http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-6.htm

http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-6.htm
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/21467/21109/show_image/sanjuro.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2011/01/07/andamanese.jpg


『アンダマン島土人は地球上最小の人種なるべし。

二、三の人類学者は南アのブッシュ人、アメリカの掘食(デイガ)インディアン、フィジ島のテラ土人等をもって最小なりとなせども、

本島の土人は平均身長四フィート以下にして、成人者中にもはるかにこれに満たざるもの少なからず。

一度信をおくときは、きわめて厚き友情を示すことあるも、一般には残忍獰猛にして気むずかしく、馴致しがたき人種なり』

(延原謙訳)

http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/21467/21109/66999919


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理


28. 中川隆[-13443] koaQ7Jey 2018年7月17日 05:46:17: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16603]

▲△▽▼

東南アジア民族の形成:日本の縄文人も含む(7月6日号Science掲載論文)2018年7月9日
古代人のゲノム解析が進み、アフリカから、ヨーロッパ、さらにはオセアニア、アメリカでの各民族の形成過程が、ゲノムから明らかにされつつあるが、少なくとも一般紙に発表される論文レベルでは、東南アジアから我が国にかけての民族形成過程について調べた論文をなかなか目にすることはない。
ところがようやく、7月6日号のScienceに東南アジアから我が国の縄文人までカバーした古代人ゲノムの研究が発表され、これまでのフラストレーションが少し解消した。タイトルは、「The prehistoric peopling of Southeast Asia(先史時代の東南アジアの民族形成)」だ。研究の主体はケンブリッジ大学だが、我が国の研究者もさまざまな形で参加しており、そのおかげで縄文人についての記述が多く、初めて日本民族形成のイメージをつかむことができた。

この研究ではマレーシア、タイ、ベトナム、ラオス、インドネシア、フィリピン、そして愛知県伊川津貝塚から、2ー8千年前の人骨を集め、そのDNAを解析している。東南アジアや我が国で、古代人ゲノム研究が進まない理由は、研究レベルの問題もあるが、もう一つは高温多湿地帯のためDNAの変性が激しいことがある。この研究では、この問題をMYbaitsと呼ばれる液体中で人間のDNAを精製する方法を用いて、低い精度ではあるがなんとか全ゲノムを解読し比較に用いている。

この結果、東南アジア出土の古代人ゲノムはgroup1ー6までの6グループに分けることができる。例えばgroup1にはマレーシアHoabinhiansで発見された東南アジア最古の人骨の末裔、マレー半島のÖngeやJehaiが分類され、Group2にはベトナムの新石器時代から青銅器時代の人骨が分類される。他のGroupの構成の詳細は省くが、このように分類した先史時代のゲノムと現代の各民族を比べることで、西から移動してきた現生人類が東南アジアに定住する過程を描くことが可能になる。

論文は50近くの図や表を擁する膨大な研究で、ここでは詳細を省いて以下の2点だけを紹介する。

1) この研究が行われた動機の一つは、各民族の定住を促した農業がどのように東南アジアに広まったかを明らかにすることだ。これまで、Hoabinhiansの狩猟採取民族が外部の影響なしに農業を発展させ、東南アジアに広めたとする説と、東アジアで農業を始めた民族が、徐々に東南アジアの狩猟採取民を征服して置き換わっていったという説が唱えられていた。今回、古代人ゲノムが解析され、それぞれの関係を調べることで、東南アジアの民族が、文化的に優位な民族が他の民族を置き換えるのではなく、混血を繰り返しながら文化を共有していったことが明らかになった。これは例えばヨーロッパの先住民が、Yamnaya民族に置き換わってしまって、インドヨーロッパ語文化圏が形成されたのとは全く違う。すなわち、異なる民族間でのある種の平和的融合を通して混血と定住が進み、各地域の民族が形成されたのが、東南アジアの特徴と言える。事実それぞれのグループにはインドやパプアニューギニア民族からの遺伝子流入も見られることから、この融合範囲はかなり広い。

2) 次は我々日本人にとって最も関わりのある問題、すなわち縄文人や現代日本民族の形成過程だ。驚くことに、縄文人はなんとマレーシアを中心に分布するGroup1に最も近い。ただ、Group1に分類していいかと言われるとかなり違っており、東アジア民族からの遺伝子流入の影響を大きく受けている。すなわち、マレーシアに誕生したGroup1の末裔が東南アジアを経て日本に到達するまでに、その途上の民族とおそらく平和的に混血を繰り返して日本に到達したのが縄文人になる。また、伊川津縄文人を2.5-3千年前とすると、その後の3000年のうちに更に東アジア人と混血して新しい日本人を形成したことだ。おそらく、弥生人の解析が進めばこの点は確認できるのではないだろうか。もちろん、伊川津貝塚からの一体だけで縄文人の由来についての結論を急ぐのは危険だが、人類起源の地アフリカからもっとも離れた島国に定住した日本民族が、様々な民族とゲノムでつながっていても何の不思議もない。

東南アジアの定住と民族形成が征服ではなく融合が基本だったことは、歴史時代多くの争いがあったとはいえ、アジアの精神性の基盤になったのかもしれない。タイの国立博物館を訪れた時、タイ民族が7種類の民族のゲノムが混じり合ってできていることを誇りにしているビデオ展示を見て、純血を重要視しない王国があると感心した。しかも、その民族の中には日本民族も含まれている。この論文を読んで、民族の純血を叫ぶのではなく、逆に他民族との深い関係を誇りにする日本人にでありたいと思うとともに、私たちが深く東南アジアとも繋がっていることを実感した。
http://aasj.jp/news/watch/8656


▲△▽▼

最先端技術を用いた古人骨全ゲノム解析から東南アジアと日本列島における人類集団の起源の詳細を解明 2018年7月25日
https://www.kanazawa-u.ac.jp/rd/58540

金沢大学人間社会研究域附属国際文化資源学研究センターの覺張隆史特任助教,医薬保健研究域医学系・革新ゲノム情報学分野の佐藤丈寛助教および田嶋敦教授は,コペンハーゲン大学が中心となって進めている古代ゲノム研究の国際研究チームと共に,日本列島の縄文時代遺跡や東南アジアから出土した古人骨26個体のゲノム解析(※1)を実施し,今日の東南アジアで生活する人々の起源と過去の拡散過程を解明しました。

今回,ゲノム解読がなされた縄文人骨は,愛知県田原市の伊川津(いかわづ)貝塚遺跡(※2)から出土した約2千500年前の縄文晩期の女性人骨(※3)で,縄文人の全ゲノム配列(※4)を解読した例としては世界で初めての公表となります。

この縄文人骨1個体の全ゲノム配列をもとに,現代の東アジア人,東南アジア人,8〜2千年前の東南アジア人など80を超える人類集団や世界各地の人類集団のゲノムの比較解析を実施した結果,現在のラオスに約8千年前にいた狩猟採集民の古人骨と日本列島にいた約2千500年前の一人の女性のゲノムがよく似ていることが分かりました。

このように,本研究は,縄文時代から現代まで日本列島人は大陸南部地域の人々と遺伝的に深いつながりがあることが,独立した複数の国際研究機関のクロスチェック分析(※5)によって科学的に実証された初めての研究として位置付けられます。

特に,縄文人骨のゲノム解析は,覺張隆史特任助教,北里大学医学部の太田博樹准教授,国立歴史民俗博物館の山田康弘教授を中心とした『縄文人ゲノム解読プロジェクト(※6)』の成果の一つとなります。

これらの知見は,日本列島に居住していた各時代の人々の起源の解明に将来活用されるだけでなく,広く東アジア・東南アジアにおける人類集団の起源と拡散に関する研究に大きな寄与をもたらすことが期待されます。

本研究成果は,2018年7月6日に国際学術誌「Science」に掲載されました。


https://www.kanazawa-u.ac.jp/rd/58540
図 古人骨ゲノムデータから復元された人の拡散ルート

【用語解説】

※1 ゲノム解析
生物が持つ遺伝情報の広範囲な解析のこと。

※2 伊川津(いかわづ)貝塚遺跡
愛知県田原市に位置する縄文時代後晩期の貝塚遺跡。明治期から現代までに200体以上の人骨が検出されている日本で最も代表的な縄文時代遺跡。小金井良精や鈴木尚など著名な人類学者が人骨の形態学的な研究を進めてきた。同市は,他にも,吉胡貝塚,保美貝塚などの縄文時代を代表する貝塚が古くから調査されており,各遺跡から非常に多くの人骨が検出されている。

※3 約2千500年前の縄文晩期の女性人骨
2010年度に伊川津貝塚から出土した縄文人骨。近年の研究では,日本列島における弥生時代の開始は3000年前とされているが,弥生文化の到来時期は地域ごとに異なる。今回の伊川津貝塚出土の成人女性人骨は共伴した土器などから,五貫森式土器の時期のものと判明しており,渥美半島においてこの時期はまだ縄文時代の文化を残している。また,分析対象となった女性人骨は形態学的に典型的な縄文人の特徴を有していた。

※4 全ゲノム配列
生物が持つDNA配列の中でも,タンパク質の発現に関連する遺伝子領域のDNA配列だけでなく,遺伝子以外の領域全てを含めた広い範囲のDNA配列のこと。

※5 クロスチェック分析
異なる分析機関,異なる分析手法,異なる解析手法で,独立して同じ結果が得られるかを評価する分析手法のこと。古代DNA研究で重要な科学的指標の一つに当たる。

※6 縄文人ゲノム解読プロジェクト
日本の考古学者と人類学者,遺伝人類学者,ゲノム研究者などから構成される研究プロジェクト。
https://www.kanazawa-u.ac.jp/rd/58540


以下、詳しい説明(PDF)より抜粋
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【研究成果の概要】

本論文で国際共同研究チームは,DNA の保存環境として最も悪い東南アジアの遺跡出土人骨25 個体と日本の縄文人骨1 個体の計26 個体の古人骨からDNA 抽出を実施し,ゲノム配列決定に成功しました。得られた古人骨ゲノムデータと世界各地の現代人集団のゲノムデータを比較した結果,東南アジアに居住していた先史時代の人々は,6 つのグループに分類できることが分かりました(図3)。

グループ1 は現代のアンダマン諸島のオンゲ族やジャラワ族,マレー半島のジャハイ族と遺伝的に近い集団で,ラオスのPha Faen 遺跡(約8 千年前)から出土したホアビン文化という狩猟採集民の文化を持つ古人骨と,マレーシアのGua Cha 遺跡(約4 千年前)の古人骨がそのグループに分類されました。

また,このグループ1 に分類された古人骨のゲノム配列の一部は,驚くことに日本の愛知県田原市にある伊川津貝塚から出土した縄文人(成人女性)のゲノム配列に類似していたことが分かりました。

さらに,伊川津縄文人ゲノムは,現代日本人ゲノムに一部受け継がれていることも判明しました。

一方,他のグループ2〜6 は農耕文化が始まる新石器時代から約500 年前までの古人骨で,ホアビン文化の古人骨とは遺伝的に大きく異なっており,それぞれ異なる拡散と遺伝的交流(すなわち混血)の歴史を持っていることが分かってきました。

グループ2はムラブリ族などの現代オーストロアジア語族と遺伝的に近く,現代東アジア集団とは遺伝的な構成要素をあまり共有していないことが分かりました。

さらにグループ1 と東アジア集団が分かれた後に,グループ1 からグループ2 への混血の痕跡が見つかりました。

また,グループ3 は現代東南アジア集団のタイ・カダイ語族やオーストロネシア語族と遺伝的に近く,グループ4 は現代の中国南部地域の人々と遺伝的に近いことも分かりました。

さらに,グループ5 は,現代のインドネシア西部の人々と遺伝的に近く,グループ6 は,いわゆる旧人に分類される古代型人類であるデニソワ人からの部分的な混血の痕跡なども見られました。

このように,部分的には中国南部の少数民族からの遺伝的な影響があったり,台湾などの地域へも遺伝的なつながりがあったりと,新石器時代の東南アジアの人々は単純に元々住んでいた狩猟採集民がそのまま農耕を取り入れたという静的な状態ではなく,大陸内と島嶼部で複数の大きな移住の過程で徐々に農耕を取り入れて行ったことが分かってきました。

従来の考古学的な視点からは,これらの時期には稲作・雑穀などの農耕文化を持つ人類集団が東南アジアに多数入植して原住民と置き換わったというシンプルな「2 層構造仮説」が提唱されてきました。

本研究成果では,すでに稲作文化を持っていた中国南部からの遺伝的な影響は部分的で,人々が完全に置き換わったということではないことが判明しました。その大きな移住の波が少なくとも4 回以上はあったことが解析の結果分かってきたことから,このような東南アジアの人々の移動を「複合モデル」という新しい枠組みで捉え直すことになりました。

本研究は,考古遺物でしか人類の拡散の議論ができないと従来考えられてきた東南アジア地域において,古人骨のゲノム分析により人類の拡散を解明した初の成功例になりました。今後,同様の分析を様々な地域に応用することで,各地域の詳細な人類の移動史を科学的に評価することが可能になったことが,本研究の最も大きな成果といえます。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=337608

7. 中川隆[-12324] koaQ7Jey 2019年2月09日 05:50:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

歴史REAL日本人の起源 (洋泉社MOOK 歴史REAL) ムック – 2018/6/5
https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2REAL%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90-%E6%B4%8B%E6%B3%89%E7%A4%BEMOOK-%E6%AD%B4%E5%8F%B2REAL/dp/4800314739


『洋泉社ムック歴史REAL 日本人の起源』 2018/07/24
https://sicambre.at.webry.info/201807/article_37.html


 洋泉社より2018年6月に刊行されました。本書はおもに、弥生時代までの古代DNA研究・縄文時代研究・弥生時代研究の解説で構成されています。それぞれの執筆者は篠田謙一・山田康弘・藤尾慎一郎の各氏で、期待できそうなので購入しましたが、期待通りに最近の研究成果を知ることができました。とくに、弥生時代までの古代DNA研究の解説では、私が不勉強なため、多くの知見を新たに得ることができ、たいへん有益でした。以下、本書で注目した見解について、備忘録的に取り上げていきます。

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析から、縄文人にはハプログループM7aとN9bが広範囲で見つかっており、現代ではほぼ日本人にしか見られません。ただ、どちらも出現(分岐)年代が3万〜2万年前頃なので、38000年前頃に日本列島に進出してきた人類と縄文人とは直接的な祖先-子孫関係にはなかった可能性が指摘されています。もっとも、あくまでもmtDNA解析に基づく推測ですから、38000年前頃の日本列島の人類集団と縄文人とが、もちろんその後の流入による遺伝的影響はあるとしても、直接的な祖先-子孫関係にある可能性も考えられます。

 縄文人のmtDNA解析数も蓄積されて、地域差が見えてくるようになりました。琉球列島を含む関西以西ではM7aが卓越するのにたいして、北海道・東北ではN9bが多数を占めています。また、サブグループまで分類すると、関西以西と東北・北海道では、M7aでもそれぞれ異なるグループが分布しています。そのため本書では、地域間の人的交流が広範囲に及ぶものではなかったかもしれない、と指摘されています。もっとも、後述するように、遺伝的交流は盛んではなくとも、交易などによる文化的交流はある程度以上活発だった可能性もじゅうぶんあるとは思います。

 また、現代日本人では、N9bが2%程度で、7%程度存在するM7aも、縄文時代の関西以西のサブグループで大半を占めることから、現代日本人に継承されている縄文人のDNAは、おもに西日本の縄文人に由来するのかもしれません。そうだとすると、弥生時代最初期にユーラシア大陸から九州北部に渡来した集団が在地の縄文人と混合し、東進していったために、現代日本人に占める縄文人の遺伝的影響は、西日本系の方が東日本系より高くなったのかもしれない、と本書は推測しています。

 縄文人のゲノム解析も進められており、最近になって、北海道礼文島の船泊遺跡から出土した3800〜3500年前頃の女性のゲノムは、現代人とほぼ同じ精度で解析されたそうです。平均網羅率は明示されていませんでしたが、30倍以上ということでしょうか。この女性の血液型はA型で、耳垢は湿式、切歯はシャベル状ではなく、巻き毛だったことが明らかになっています。これらの表現型はおおむね予想通りでしたが、目の虹彩は茶色で、人骨からの推測通り、身長が低くなる傾向を有する遺伝子が確認されました。

 この女性の両親は近い血縁関係にあり、両親の近縁関係の程度はアマゾンの先住民と同じくらいと推測されています。船泊遺跡からは、新潟県の糸魚川沿いの翡翠や、シベリアで発見されたものと類似した貝製装飾品が発見されていますが、婚姻圏は狭かったのではないか、と本書は推測しています。ただ、こうした狭い婚姻関係が一般的だったのか否かは、もっと縄文人のゲノム解析数が蓄積されないと、判断が難しいように思います。

 船泊遺跡の女性のゲノム解析の結果、福島県相馬郡新地町の三貫地貝塚の縄文人と同様に

(関連記事)
https://sicambre.at.webry.info/201609/article_3.html


船泊縄文人も現代の東アジア集団とは大きく離れている、と明らかになりました。現代人の集団で船泊縄文人とある程度遺伝的に近縁性を示すのは、アイヌ・琉球・「本土」日本・台湾や沿海州などユーラシア東部圏沿岸地域の先住民でした。本書は、東南アジアからの初期拡散により北上した集団のなかでユーラシア東部圏沿岸地域に居住した人々が融合し、縄文人が形成されたのではないか、と推測していますが、確証するにはユーラシア大陸の古代DNA解析が必要だ、と指摘しています。

 船泊遺跡では縄文時代の男性遺骸も発見されており、ゲノムが部分的に解析されているそうです。この男性もゲノムが解析された女性も、海獣など脂肪分に富む食資源に依存している場合に有利となる、脂肪代謝に関連する多様体を有しており、北極圏の先住民集団も同様です。船泊遺跡ではじっさいに漁撈具や海獣の骨が多数発見されているので、海獣への依存度が高い食生活を送っていたようです。船泊遺跡の男性のY染色体ハプログループは、現代日本人では30%以上存在するものの、中国や韓国ではほとんど見られないD1bでした。しかし、船泊遺跡の男性のY染色体ハプログループは、D1bの中でも現代日本人で多数を占めるサブグループD1b1ではなく、Y染色体でも、北海道の縄文人が現代日本人にはさほど遺伝的影響を及ぼしていない、という可能性が想定されます。

 弥生時代の人類のゲノム解析も進められていますが、縄文系と渡来系という以前からの形態学的分類がそのまま当てはまるものではなく、複雑な様相を呈していることが明らかになってきました。福岡県那珂川町安徳台遺跡で発見された弥生時代中期の女性は、典型的な渡来系弥生人と考えられており、遺伝的には韓国や中国の集団と類似する、と予想されていましたが、ゲノム解析の結果、現代日本人の範疇に収まり、むしろやや縄文人に近い、と明らかになりました。本書は、安徳台遺跡の弥生時代中期の集団が東進し、在来の縄文系と混合していったとすると、現代日本人における縄文人の遺伝的影響はもっと高くなっていると予想されることから、弥生時代中期〜古墳時代におけるユーラシア大陸からの渡来を想定する必要がある、と指摘しています。

 縄文系とされる弥生人のゲノムも解析されています。長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡で発見された弥生時代後期の合葬された男女2人は、縄文人と共通する形態学的特徴を有している、と評価されています。mtDNAのハプログループでは、女性が縄文系と考えられるM7a、男性が渡来系と考えられるD4aと明らかになりました。しかし、核ゲノム解析では、縄文人と現代日本人の中間に位置する、との結果が得られました。上述した安徳台遺跡の事例からも、弥生時代には在来系と渡来系との融合が進んでおり、弥生人は均一な集団ではなく、独自の遺伝的構成を有していた、と言えるでしょう。本書は、弥生時代の渡来系は当初より在来系の縄文人と融合し始め、当時の朝鮮半島には渡来系弥生人と同じ遺伝的構成を有する集団はいなかっただろう、と推測しています。

 また本書は、弥生時代になっても日本列島の大半に縄文系の人々がいたと考えられることから、弥生時代以降もユーラシア大陸から日本列島への流入があり、現代日本人につながる集団の完成は古墳時代だろう、との見通しを提示しています。まだ予備的な研究の段階ですが、古墳時代になると、関東の集団の遺伝的な構成が大きく変わるそうで、古墳時代の日本列島の住民のDNA解析の進展が期待されます。また、飛鳥時代以降の古代DNAの解析も、日本史研究に大きく寄与するでしょうから、今後の研究の進展が楽しみです。


 これまで、先史時代の研究は考古学と形態学が主流でした。近年では古代DNA研究の進展が目覚ましいものの、考古学と形態学でも研究は着実に進展しています。日本列島最初期の土器は北海道では発見されておらず、朝鮮半島最古の土器は1万年前頃であることから、縄文土器は日本列島で開発された可能性が高そうです。また南島地域においては、縄文文化との共通性も相違点も見られ、時期により縄文文化と連動したり離れたりしていたそうです。本書は、他地域との交流はあるにしても、対馬海峡において文化的な境界線を引けることからも

(関連記事)
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_45.html

縄文文化の空間的範囲は、現代の日本国の領域と厳密に一致しているわけではないものの、ほぼその範囲に収まる、との見解を提示しています。

 これは形態学的にも言えることで、縄文人の形質は、空間的には北海道から九州まで、時代的には早期から晩期前半までほぼ同一で、世界中で類似した古人骨は発見されていないそうです。そのため、縄文時代には、形質を大きく変化させるような他地域からの人的流入はなかった、と考えられています。それでも、やはり地域差はあり、北海道では地位内の差異が比較的大きい一方で、九州では小さいことが明らかになっており、縄文人の形成過程と関わっているかもしれません。

 縄文時代には定住が進みましたが、その度合いは地域により異なっており、その要因は依存していた食資源の違いだろう、と推測されています。縄文時代の農耕は近年よく主張されるようになりましたが、畑はまだ見つかっておらず、ダイズやアズキなどの作物が確定しただけだ、と本書は慎重な姿勢を示しています。縄文時代には、後期において、墓の分析から、北海道や東北でかなりの階層化が生じていた、と推測されています。しかし本書は、晩期にはこれらの地域で均質化が見られることから、おそらくは人口の少なさが要因で、階層社会は持続しなかっただろう、と指摘しています。

 弥生時代については、本書では紀元前10世紀にさかのぼるとする早期説が大前提となっていますが、まだ議論が決着したとは言えないようです

(関連記事)
https://sicambre.at.webry.info/201406/article_1.html


茨城県と栃木県以北では、水田稲作が行なわれても環濠集落が見られませんが、本書はその理由を、地域の核となる存在がなかったからではないか、と推測しています。水田稲作は、災害にあってもすぐに再開する傾向が強いのですが、東北の北部では、水田稲作が途絶えて数百年再開されませんでした。本書はその理由として、寒冷な気候が要因ではなく、東北の北部には水田稲作が始まっても土偶があることから、何らかの信仰形態・世界観の違いを挙げています。本書では古墳時代についても少し言及されており、九州や近畿では墳丘墓が早くから見られるものの、紀元後には衰退して古墳時代には直結しておらず、古墳時代の直接の起源は、紀元後2世紀半ば〜後半にかけての吉備や出雲にあるのではないか、との見解が提示されています。
https://sicambre.at.webry.info/201807/article_37.html


8. 中川隆[-12323] koaQ7Jey 2019年2月09日 05:51:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

最もネアンデルタールに近いのは日本人? 免疫システムに残る人類の歴史 2016/02/22
http://sciencenews.co.jp/2016/02/22/post-1042/

多くの人を悩ます花粉症。その原因は免疫システムの暴走だが、免疫システムの一部がネアンデルタールからの「プレゼント」だと判明した。


免疫に重要な役割をもつTLRの遺伝子


花粉症対策にかかる費用もバカにならないが……


 とうとう今年も花粉症の「季節」がはじまった。2月にはいると首都圏でもスギ花粉が観測されはじめ、ドラッグストアでは対策商品の陳列に余念がない。

 花粉症を含めたアレルギーは、もともと体に侵入した細菌やウィルスなどから体を守る免疫システムが過剰に反応しておこる。

 花粉症も大変だが、生物が生きていくには欠かせないシステムである。この免疫に関わるいくつかの遺伝子はネアンデルタール人とデニソワ人からの「プレゼント」だったと今年の1月に明らかになった。

 遺伝学の科学誌「The American Journal of Human Genetics」で独の研究チームが発表した。日本人の遺伝子の中にネアンデルタール人が「潜んで」いる。

ヒトはネアンデルタール人を滅ばして今の繁栄を築いた。独・マックスプランク研究所のJanet Kelsoのチームは現代人の遺伝子の中に、ネンデルタール人やデニソワ人との交配によって残り続けている「彼ら」の遺伝子をさがしていた。

 人類の進化でエポックメイキングな最近の発見といえば、ヒトが絶滅させたと考えられているネアンデルタール人と人間が交配していたことと第3の人類デニソワ人の発見だ。

 この3種は50万年前に共通祖先から分かれたと考えられ、ネアンデルタール人はヒトより数十万年前にアフリカを出て主にヨーロッパに広がった。

 研究チームが目をつけたのがTLRの遺伝子。これまでの研究データもとにピックアップした。TLR(Toll Like Receptor)は細胞の表面にニョキニョキと生えているタンパク質。免疫で非常に重要な役割を果たす。

 体を外敵から守るには、まず外敵の侵入を関知しなくてはならない。この防犯センサーの役割を担うのがTLRというタンパク質なのだ。

 体内に侵入した細菌や菌類、寄生虫の一部がこのTLRにくっつくとセンサーが作動し、外敵をやっつける細胞が集まったりと、さまざまな免疫システムが動く仕組みだ。

ネアンデルタール人の遺伝子を最も多く持つ日本人


ネアンデルタール人
我々日本人のご先祖さまである


 複数あるTLRのうちTLR1とTLR6、TLR10は染色体上に隣接している。ネンデルタール人やデニソワ人の3つのTLRを含む領域を現代人と比較する。

 ヨーロッパ人と東アジア人、アフリカ人など現代人の14集団のこの領域を調べると7つのタイプに分類された。このうち2つがネンデルタール人由来、ひとつがデニソワ人由来だと判明する。

 理論的にはヒトより数十万年先にアフリカを出て、中東を経由してヨーロッパに広がったネアンデルタール人の遺伝子は、アフリカに残った祖先由来のアフリカ人には存在しない。

 調べると、確かにアフリカ人にはネンデルタール人由来のTLRを含む領域がほとんどみられなかった。

 このように、現代人のTLRを含む領域のゲノム配列を詳細に調べ比較してネンデルタール人とデニソワ人由来だと突き止めた。

 そして、機能が非常に重要性なので、数万年という自然選択を受けてもほとんど変わらずに高頻度で残っていたと考えた。

 実はこのネアンデルタール人由来のTLR1とTLR6、TLR10遺伝子を最も多く持つのが日本人。どの集団よりも高く、約51%が持っていた。

 花粉症の最大の要因にTLR1とTLR6、TLR10が直接関与するわけではないが、免疫システムを通して人類の壮大な進化を想像し、内なるネアンデルタール人を思うことで少しは症状が軽くなるかもしれない(そんなことはありません)。

取材・文 山下 祐司


▲△▽▼


2017-01-04 ネアンデルタール人 日本人について
http://www.m-a-p-s.biz/entry/neanderutarujinnihonjin


ネアンデルタール人と 日本人について書いてみました。私たちが生きていくためには欠かせないシステムである免疫のいくつかの遺伝子はネアンデルタール人とデニソワ人からの「プレゼント」だったことが明らかになりました。


最もネアンデルタールに近いのは日本人?免疫システムに残る人類の歴史


日本人の遺伝子の中にはネアンデルタール人が「潜んで」いる。

今年もしばらくすると2月に入り、暖かい地域ではスギの花粉が観測されはじめ、薬局やコンビニでも花粉対策商品の陳列に大忙しになる事と思います。


しかし、この花粉症を含めたアレルギー反応というのは、体内に侵入した細菌やウィルスなどから体を守るための免疫システムが過剰に反応して起きているといわれています。


この私たちが生きていくためには絶対に欠かすことのできない大切なシステムである免疫。この免疫に関わるいくつかの遺伝子はネアンデルタール人とデニソワ人からの「プレゼント」だったことが明らかになりました。


遺伝学の科学雑誌「The American Journal of Human Genetics」でドイツの研究チームが『日本人の遺伝子の中にネアンデルタール人が「潜んで」いる』と発表し話題になっています。

ヒトはネアンデルタール人を滅ぼして今の繁栄を築いた


ドイツ・マックスプランク研究所のJanet Kelsoのチームは研究で、現代人の遺伝子の中に

、ネンデルタール人やデニソワ人との交配によって残り続けている「彼ら」の遺伝子をさがしていました。


人類の進化において少しショッキングな近頃の発見といえば、ヒトが絶滅させたと考えられているネアンデルタール人と人間が実は交配をしていたとされる事実と第3の人類デニソワ人の発見でした。


この3種は50万年前に共通祖先から分かれたと考えられ、ネアンデルタール人はヒトより数十万年前にアフリカを出て主にヨーロッパに広がったとしています。


研究チームが目をつけたのがTLRの遺伝子で、これまでの研究データをもとにピックアップすると、TLR(Toll Like Receptor)遺伝子は細胞の表面にニョキニョキと生えているタンパク質のことで人間の免疫システムの中で非常に重要な役割を果たしています。


体を外敵から守る為には、まず外敵の侵入を関知しなくてはなりません。この時この防犯センサーの役割を担うのがTLR遺伝子というタンパク質なのだそうです。


体内に侵入した細菌や菌類、寄生虫の一部がこのTLR遺伝子にくっつくと体内のセンサーが発動し、外敵に攻撃をしかける細胞が集まったりと、さまざまな免疫のシステムが動く仕組みになっています。


複数あるTLR遺伝子のうちTLR1とTLR6、TLR10は染色体上に隣接しており、ネアンデルタール人やデニソワ人の3つのTLR遺伝子を含む領域を現代人と比較してみたそうです。


ヨーロッパ人と東アジア人、アフリカ人など現代人の14の集団のこの領域を調べてみると7つのタイプに分類され、このうち2つがネアンデルタール人由来、ひとつがデニソワ人由来だと判明します。


理論的にはヒトより数十万年先にアフリカを出て、中東を経由してヨーロッパに広がったネアンデルタール人の遺伝子は、アフリカに残った祖先由来のアフリカ人には存在しいていませんでした。


これを調べたら、確かにアフリカ人にはネアンデルタール人由来のTLR遺伝子を含む領域はほとんどみられませんでした。このように、現代人のTLR遺伝子を含む領域のゲノム配列を詳細に調べ比較してネアンデルタール人とデニソワ人由来だと突き止めたのです。


そして、機能が非常に重要なので、数万年という自然選択を受けてもほとんど変わらずに高頻度で残っていたと考えたようです。


実はこのネアンデルタール人由来のTLR1遺伝子とTLR6遺伝子、TLR10遺伝子の3つの遺伝子を最も多く持つのが私たち日本人で、どの集団よりも高く、約51%が持っていたそうです。

花粉症の最大の要因にTLR1とTLR6、TLR10が直接関与するわけではありませんが、免疫システムを通して人類の壮大な進化を想像し、私たちの祖先である、内なるネアンデルタール人のことを意識してみるのも、たまにはいいのかもしれません。
http://www.m-a-p-s.biz/entry/neanderutarujinnihonjin


▲△▽▼


日本人はネアンデルタール系種族の生き残り? - ねずさんのひとりごと? 2017年08月31日
https://ameblo.jp/aoiwasi-k135/entry-12306382775.html
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3498.html?sp


なんだか大上段に振りかぶったようなタイトルになってしまいましたが、要するに言いたいのは、「7万年前からが現生人類」というのは「白人種視点での人類史」だということです。

有色人種視点で考えると、特に日本人などは25万年前に生まれた新人類種(ネアンデルタール系)の生き残りからの進化と考えなければ、遺跡の辻褄が合わなくなるのです。


年表

猿人が出現したのがおよそ600万年前、ネアンデルタール系等の新人類種が出現したのが、およそ25万年前といわれています。

この時代の人類は、火や石器を使うネアンデルタール種を筆頭に、猿人から現在の人類に近いものまで、かなり多様な種族があったようです。

ところがおよそ7万年〜7万5千年前に、インドネシアのスマトラ島にある「トバ火山」が大噴火を起こします。
この噴火は地球史上に残る大噴火で、噴煙は世界に広がって、地球気温は年平均で5℃も低下しました。

年平均気温というのは、1℃違うだけで、鹿児島と仙台の気象が入れ替わります。
それが5℃違うということは、日本がアラスカのような気候になり、赤道直下の気候が北海道から樺太にかけての気候になるということです。
これはものすごい変化です。

当然影響はすさまじくて、このとき地球上の人口は、およそ1,000〜10,000人程度にまで減少したといわれています。

地球はひとつの生命体に例えられますが、その地球が怒ると本当に怖いです。
そしてこの大災害を生き残ったごくわずかな人類が進化して、現代人になったとされています。

これを「ボトルネック効果」といいます。
多様な進化を遂げていた種が、急激な個体数の減少によって遺伝的な多様性を失ない、わずかに生き残った種が、その後繁栄して現代の種になっているわけです。

このことは比較的近いこの千年ほどの時代の中にあって、民族的特徴が極めて似通って細目、エラ、耳などの身体的特徴が極めて似通った民族があることでも理解いただけると思います。

こちらは一国の中における社会体制が原因ですが、トパの噴火のときには、これが地球的な規模で起きたわけです。

おもしろいことに、このときのトパ噴火後、ヒトに寄生するシラミもまた、この時期に変種が生まれています。

毛髪に寄宿する毛ジラミと、衣服に寄宿する衣ジラミで、近年の遺伝子の研究によって、この2種が分化したのも、およそ7万年前とわかりました。

このことは、トバの噴火後、急速に寒冷化した地球を生き残るために、人類が衣服を着用するようになったことを示しています。

トバの大噴火によって起こされた地球の寒冷化は、その後約5万年続きました。
その5万年が、地球上の最終氷河期と呼ばれる期間です。
その終わり頃のおよそ1万8千年前、地球気温は最低のレベルにまで冷え込みました。

その理由が姶良カルデラ(あいらカルデラ)の破局噴火です。
これは日本で起こっています。

鹿児島湾には、入り口付近に桜島があり、その内側は、およそ直径20kmの窪地を構成しているのですが、これが姶良カルデラです。
つまり桜島が活火山なのではなくて、鹿児島湾自体が巨大な噴火口だったわけです。

このときの噴火による火山灰は、南九州では30メートル、高知県宿毛で20メートル、鳥取県大山付近で8メートル、京都にも4メートルも降り積もっています。
そして偏西風に乗って世界各地に甚大な被害をもたらしています。
そしてこれによって、地球気温は急激に寒冷化するわけです。

ちなみに火山の噴火というのは、単に火山灰が太陽を隠して寒冷化をもたらすというだけにとどまりません。

火山灰に含まれるガラス成分が肺に入って突き刺さり、アスベストと同じ肺気腫や心不全などの健康被害をもたらして人を死に至らしめます。

実は近年、南九州で、この火山灰層の下から、縄文時代の大集落跡が次々と発見されています。

そこでは世界最古の船造りのための工具や、燻製施設、金属を加工するための炉、縄文ではなく貝殼紋の土器などの遺物遺構が続々と発掘されています。
この人たちは、遺物の状況からみて、造船のみならず、金属加工まで行っていたわけで、極めて高い文化を持った人々であったことがわかります。
しかも彼らは海洋族です。

海洋族であったということは、海を移動する人々でもあったということです。

さて日本列島には、この姶良カルデラ(あいらカルデラ)の破局噴火よりも1万2千年古い、およそ3万年前の世界最古の磨製石器が関東で発掘されています。
場所は栃木県の岩宿遺跡です。

さらに島根県の出雲にある砂原遺跡からは、およそ12万年前の石器が発掘されています。

これはトパの噴火よりも古い時代の遺物ですが、現生人類の誕生が7万年前とすると、砂原遺跡の石器は、現生人類ではない旧人類(新人)の遺物ということになります。

一方、その人々がそのまま日本列島に生き残ったのであろうことは、近年の研究成果で日本人のDNAに、ネアンデルタール系のゲノムが世界で最も多く残されていることで証明されています。

これは昨年、西ドイツの研究チームが発表したことです。

つまり日本人はネアンデルタール系の旧人類が、現生人類と7万年の歳月をかけてゆるやかに結合していくことで現代日本人につながっている種といえるわけです。

日本列島で石器を遺した人々は、7万年前のトパの噴火で多くの命が失われ、また3万年前の姶良の噴火でも、やはり多くの人命を失ったことでしょう。
ところが姶良カルデラの噴火後、およそ千年の間に、地球気温はいまよりもずっと上昇します。

そしていまから1万6500年前には、青森で最古の土器が発掘されています。
なぜ青森なのかといえば、その頃の地球気温がいまよりもずっと高かったからです。

そして姶良カルデラの噴火以降の遺跡は、九州地区から山陰、畿内、関東、東北へと広がりを持ちます。

この時期の日本列島は、寒冷化と温暖化が数百年単位で変化しています。
このことは、たとえば森の木々にしても、森が針葉樹林になったり、広葉樹林に変化したりしているわけです。

このことは、人々の生活環境を劇的に変えていくことを意味します。
そうした環境変化を生き延びようとすれば、当然、着衣や道具類を進化させていかなければならなくなります。

また、人は移動できる動物です。
寒冷化が進めば南へと移動し、温暖化が進めば北へと移動します。

ここでヒントになるのが、海洋族であったという切り口です。
海の魚には様々な種類がありますが、魚たちはわずかな海温の変化で、その生息地を変化させます。

最近でも、ほんの30年前には御前崎あたりで捕れていたイシモチが、いまは東京湾くらいまで北上しています。

食用には様々な魚が供されたでしょうけれど、比較的漁がしやすく、食用に量も確保しやすい魚が移動すれば、いまのような土地の所有権などなかった時代のことですから、人々は、魚とともに北上したり、南下したりを繰り返したことと思われます。

また、よりたくさんの魚を得るためには、船造りや釣り針などに常に工夫が必要です。
ここにも知恵が必要になります。

海洋族というのは、海を利用して頻繁な往来を行います。
姶良の噴火のような自然災害がいつ起こるかわからないという中にあっては、子孫たちは、地域的に離れて住むことが行われたことでしょう。

このことは古事記の中にあっても、国産み神話の中で、人々(子孫)が全国各地に広がっていった様子として描かれています。

なぜならそうしなければ、変化する環境を生き残れないからです。
ずっと寒冷のまま、ずっと温暖のままであれば、そのような知恵は必要ないかもしれません。

けれど生活環境が劇的に変化する環境のなかにあっては、子孫の生活拠点をどこに置くかは、とても重要なことです。

さて、3年前の2014年のことですが、現生人類とネアンデルタール人は、6万年前くらいから混血してきたのではないかという説が発表されました。
翌年には、米国の研究チームがDNAの研究によって、鬱病や気分障害や依存症などの精神疾患は、ネアンデルタール人由来のものであるという発表を行っています。
そして上にも書きましたが、昨年には西ドイツの研究チームが、世界でもっともネアンデルタール系のDNAを保持しているのが日本人だという研究成果を発表しています。

これらを総合して考えるとき、日本人は大陸から朝鮮半島を経由して日本列島に住み着いたという説は賛成しかねるものとなります。
なぜなら、いまでもそうですが、いわゆる文明というものは、河川と海の交わる平野部で興っているからです。

人類が内陸部でも生活するようになるのは、ずっと後の時代の、農耕が営まれるようになったおよそ1万年前からのことです。

それ以前は、狩猟採集生活なのですが、いまでも都市の多くが海に面していることが示すように、狩猟だけでなく、海洋や河川からの漁労が人々の生活に欠かせないものであったことは、論ずるまでもないことであると思います。
モスクワは地図上では内陸部ですが、そこはいわゆる水郷地帯です。
北京や南京は内陸部ですが、やはり河川に囲まれた平野部にあります。

人は食べなければ生きていけません。
そして人が生活したのは、その食べ物を得やすいところであったであろうということは、容易に想像できることです。

そしてその食べ物は、野山と海や川にあります。

ということは、森があり、海にも川にも近くて、その川がいわゆる暴れ川ではないところが、人々の生活の場所になったであろうことは論をまたないことです。
実際、縄文時代の遺跡である貝塚は、いずれも海に近い所にあります。

そうであるとするならば、人は海の近くに住み着いて進化したはずであって、山や砂漠地帯での生活を何万年もの長い間送ったとは考えられないし、そのような生活であったと証明する遺跡もありません。

そもそもサルとヒトとを分ける最も大きな特徴は、尻尾と体毛の有無にあります。
尻尾は四足歩行をする際に、頭部の重さとのバランスをとるためのものですから、二足歩行するようになると尻尾は必要がなくなります。

また体毛は、哺乳類が森で生活するのにあたって、肌を守るために絶対に必要な条件です。

ところがヒトの体毛は、サルよりもはるかに薄い。
そして海に住む哺乳類では、繁殖を陸上で行うアザラシ、トド、アシカ類には密生した体毛がありますが、それ以外のジュゴン、クジラ、イルカ等には体毛はありません。

つまり、海に近い所で生活するようになったサルが、体毛を退化させてヒトに進化したと考えられるのです。

このことから導き出されることは、ヒトは、海岸付近で生活し、その後、文明を発達させて、草木や虫などから身を守る衣類を用いるようになってから内陸部へと、その生息圏を広げていったということです。

そしてシラミの研究から、ヒトがおよそ7万年前から衣類を用いるようになったということは、人が内陸部に生活拠点を求めるようになったのは、早くても3万年以降のことだし、農耕の始まりが1万年前からだということは、それ以前の人々は主として海洋や大型河川から食を得ていたということができます。

そしてそのことは各地の旧石器、新石器の遺跡の所在地がこれを証明しています。

さらに最終氷河期のピークにあたる1万8千年前といえば、海面がいまよりも140メートルも低かった時代です。
これは、いま大陸棚となっているところは、ほとんど海上に顔を出した陸地であったことを意味します。

黄海から東シナ海、南シナ海、タイランド湾からジャワ海に至る一帯は、実は陸上であったわけです。

そして日本列島は、それら張り出した大陸棚の最東端の海に面した地域でした。

要するにこの時代の人々は、海に面した(つまりいまでいう大陸棚の端)あたりに住んでいたわけで、これがその後の温暖化による海面上昇によって、住んでいた地域が水没し、分断されて行ったと考えられるわけです。
日本列島や琉球諸島から、旧石器が出土するのはこのためで、その時代から海に面していて、水没をまぬがれた地域であるからといえるわけです。

つまり日本列島に住む人々は、大陸や朝鮮半島から「やってきた」のではなくて、日本列島に住んでいた人々はそのままに、海面の上昇に従って住む土地を奪われた人々が、およそ1万年の歳月をかけて次第に支那大陸や朝鮮半島などに「追われていった」のです。

こうした人類史というのは、まだまだわからないことだらけの世界です。
ただひとついえることは、古い人種であるネアンデルタール系の人々は、サル同然の姿形や生活をしていたわけではなく、死者を埋葬するに際して、棺に花をいっぱい入れたり(このことは遺跡によって証明されています)、石器や船つくりや、金属加工まで行う一定の文化水準を持った、まさに知恵のある人(ホモ・サピエンス)であったということです。

そしてトパの大噴火後、現生人類が誕生し、ネアンデルタール系はおよそ2万年前には滅んだとされていますが、どっこいそうではなくて、トパの噴火後も、実はユーラシア大陸の東のはずれにも、大噴火を生き残ったネアンデルタール系の人々がいたわけです。

そして海洋族として人口を増やしていくのですが、地球の温暖化によって島と大陸に分断されていき、大陸側の人々は、好戦的な現生人類種によって次々に殺され、あるいは強姦されて血が混じり、ネアンデルタール系の痕跡がわずかしか残っていないという状況になっていき、一方、海に隔てられた日本や琉球諸島、あるいは南太平洋の島々の人々は、その後7万年の歳月をかけて、現生人類とゆるやかに交配を重ねていって、現在に至っているのではないかと思われるわけです。

実はこのことは、古事記を読むと、どうやらそれらしいことが書かれていることに驚かされます。

国産み神話や神生み神話に述べられている神々のお名前に使われている漢字を紐解いていくと、どうやらそれらしいことが書かれているとしか思えないのです。

たとえば伊耶那岐、伊耶那美の生んだ最初の子である水蛭子(ひるこ)は、海に流したと書かれていますが、これはもしかしたら何万年もの昔に水没して失われた、かつて住んでいた陸地のことであるようにも読めるのです。

火之迦具土神の神語は、その後にあった大きな火山の噴火を意味しているようにも読めてしまいます。

しかし、最近の様々な地球史、人類史は、次第に古事記に書かれた神語の真の意味を解き明かしつつあるような気がしてならないのです。
https://ameblo.jp/aoiwasi-k135/entry-12306382775.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理


36. 中川隆[-13648] koaQ7Jey 2018年9月09日 18:51:42: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18400] 報告
▲△▽▼

NHKスペシャル 人類誕生 第1集「こうしてヒトが生まれた」2018.04.09 - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6hiqkk
NHK スペシャル 人類誕生 第2集「最強ライバルとの出会い そして別れ」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=NHK%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%80%8C%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E8%AA%95%E7%94%9F%E3%80%8D%EF%BC%92

NHK スペシャル 人類誕生 第3集「ホモ・サピエンス ついに日本へ!」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=NHK%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%80%8C%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E8%AA%95%E7%94%9F%E3%80%8D3



諸説あり・縄文人はどこから来たのか=北方説・南方説 - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6gnb0k

9. 中川隆[-12322] koaQ7Jey 2019年2月09日 05:53:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

なぜ世界最古の土器が日本列島から出土するのか? 2018/09/02
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201809/article_1.html


 1万年以上も自然と共生し、平和が続いた縄文時代は「文明先進国がどこも体験することのできなかった貴重な時間」だった。


■1.日本列島から出土した世界最古の土器の一つ

 東京・上野の国立博物館での縄文展を見た。大変な人気である。特に中国やメソポタミアなどの土器との比較もできるようになっていて、縄文時代の火炎土器は年代もはるかに古いのに、立体的な造形美は比較にならないほど美しかった。また、細かい縄紋、すなわち縄目の模様の精巧さにも驚かされた。

 現在、世界最古と考えられている土器の一つが、青森県大平山元(おおだいらやまもと)遺跡から出土したもので約1万6500年前。これは模様のない無文土器だが、約1万4500年前ごろには、粘土ひもをはりつけた「隆線文土器」が生まれ、全国に広がっている。

 世界の他の地域では、南アジア、西アジア、アフリカでの最古は約9千年前、ヨーロッパが約8500年前で、これらに比べると、飛び抜けて古い。岡村道雄・元文化庁主任文化財調査官は、日本列島の土器は「質量ともに世界の他の時代や地域のものとくらべても際立っている」と述べている。[1, p53]

 従来の歴史では、メソポタミア、エジプト、インダス、中国が世界の「4大文明」であり、日本は文明を中国から教わった後進地域だった、と教わった。近年の考古学はその歴史観を覆しつつある。しかし、なぜユーラシア大陸の東端にある日本列島で、世界最古の土器が出てくるのだろうか?

■2.縄文人たちの「持続可能な開発」

 従来の文明観では、石器時代の人類は狩猟・採集による移動生活を送っていたが、約1万2千年前くらいから、世界の各地で農耕と牧畜を始めてようやく定住生活ができるようになり、そこから文明が始まったというものだった。

 この文明観から完全にはみ出しているのが、1万5千年前くらいから始まった日本の縄文時代だった。そこで我々の先人たちは狩猟や採集のまま定住生活を始めたのである。

 日本列島を巡る海では寒流と暖流がぶつかり合って世界有数の漁場をなし、豊かな森林からは木の実やキノコなどがとれた。さらにイノシシやシカ、ウサギなどの動物も豊富だった。こうした自然の恵みで、縄文人は農耕や牧畜をしなくとも、四季折々の豊かな食物に恵まれていたのである。

 一般に、農耕・牧畜は狩猟・採集よりは進んだ文明段階であると考えられているが、メソポタミア、エジプト、インダス、中国の黄河流域がみな砂漠化している事を考えれば、農耕・牧畜が自然破壊を伴っていることがよく分かる。

 森を切り開いて畑にすれば、樹木がなくなってやがて表面の土壌が失われてしまう(水田は別だが)。牧畜でも家畜が草の芽まで食べてしまうので、植生が失われ、土壌が劣化する。それに比べれば、縄文人たちは1万年以上もこの日本列島で暮らし、しかも豊かな自然を残してくれたのである。

 近年、国連が「持続可能な開発」(Sustainable Development) という概念を打ち出したが、縄文人たちの生活はまさにそのお手本なのである。


■3.数百種類の食材を、旬を考えながら採っていた

 縄文人たちは自然の恵みをただ受けとっていたのではない。それぞれの品目ごとに「旬」を知って採っていたようだ。

 シジミやハマグリは貝の断面の成長線を調べると、全体の70%は4月から6月にかけて食べていたことが分かった。現代の潮干狩りと同様で、この時期がもっとも脂がのっているからである。同じくイワシ、ニシンも春に盛りを迎える。夏はアジ、サバ、クロダイ、秋はサケ、ブリ等々。同時にクリ、クルミ、シイ、トチなどの木の実のシーズンとなる。

 冬になると、脂肪を蓄えたキジ、ヤマドリ、カモ、イノシシ、シカ狩り。年を越すとワラビ、クズ、セリ、ゼンマイなどの若葉、若芽が採れる。縄文遺跡の食料の残滓から獣60種類以上、魚70種類以上、貝350種類以上が遺されている。これに木の実や野菜、果物、キノコなどが加わる。[2, 963]

 今日の日本料理が多種多様な食材を、それも「旬」を考えて出すのは世界の料理の中でもユニークな特色だが、それは縄文時代から続いている伝統だろう。

 この数百種類の食材に対して、どれが食べられるのか、どこで採れるのか、いつが旬なのか、どう料理するのかを縄文人たちは考えながら、食べていた。一口に狩猟・採集とは言っても、麦だけを植え、牛だけを育てる農耕・牧畜よりは、複雑な知識を使っていたのである。


■4.定住と知識・技術の進化

 縄文人の食の多様性をさらに大きく広げたのが土器だった。土器による煮炊きによって、木の実のアクを抜き、植物の根や茎を柔らかくして食べやすくし、魚や獣の肉の腐敗を防げるようになった。土器は保存容器としても、通気性や通水性によって表面の水分が気化して低温を保つので、食物の長期間保存を可能とした。

 縄文人たちは定住することで、大きな重い土器を作り、使う事ができるようになった。一定の場所から粘土を見つけ、それを形にし、火で焼くという作業は定住していなければできない。

 また、定住生活では身体の弱ったお年寄りも脱落することなく、その経験や知識を次の世代に伝える事ができる。それによって様々な食材を食べられるかどうか判別し、いつどこで採ったら良いかを考える、という知識と経験の積み重ねが容易になった。土器の発達も、定住生活ができるようになったから加速しただろう。

 定住が土器を発達させ、食材に関する知識を蓄積できるようにした。逆に土器と食材に関する知識が定住を可能とさせた。この定住と技術・知識の蓄積は、車の両輪として暮らしの進歩をもたらしたようだ。


■5.縄文人の円の思想

 こうして自然の中に抱かれて暮らしていた縄文人の世界観は、また独特のものがあった。それを明治学院大学・武光誠教授は「円の思想」と表現している。「自然界ではすべてのものが互いに深くつながって存在している」という世界観である。

__________
 夏が終われば秋の山野の恵みが、冬が終われば春の食物が現れる。縄文人は、人間とは、このような終わりのない自然界の恵みによって生かされている存在なのだと考えた。[3, p26]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 獣も魚も貝も木も草も、生きとし生けるものはすべて精霊が宿っている。人間もその一部である。その精霊の命を少しだけ戴いて自分たちは生かされている。その無限の命の循環の中に自分たちは暮らしている。とすれば、魚を取り尽くしたり、獣を小さいうちに食べてしまうなどということは、縄文人にとっては許されない行為であった。

 森を切り払って畑にしたり、牛のための牧草地にしてしまう農耕・牧畜の民よりも、はるかにエコロジカルな世界観である。1万年以上もの間、自然と共生してきた生活の基盤には、こういう生命観があった。

 自然に抱かれた縄文人たちは「自然との共感共鳴」をしていて、それが日本語の中にも残っていると小林達雄・國學院大學名誉教授は指摘する。日本語は擬音語、擬声語が豊かなのが特徴だ。川が「さらさら」流れる、風が「そよそよ」吹く、などである。小林教授はこう語る。

__________
 風が「そよそよ」吹くというのがありますが、あれは風が吹いて、音を立てているのではない。ささやいているのです。
 どういうことかと言うと、音を、聞き耳を立ててキャッチしているのではなく、自然が発する声を聞いているのです。音ではなくて「声」です。・・・[4, 1271]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 縄文人は、人間同士で互いに語り合うように、自然の「声」にも聞き入っていたのである。


■6.すべての人が平等だった環状集落

 人間が自然の円の中で生かされているとすれば、人間同士もその円の中で、生まれ、育ち、年老い、そして子孫を残して死んでいくものであった。そこには階級分化もありえず、すべての人間は平等だった。

 縄文人は集落の中心に円形の広場を作り、そこで自然を司る精霊を祀った。そして、その周りに竪穴住居を円の形に配置した。どの家も神聖な広場からは等距離である。このような「環状集落」は5千年前頃から、東北地方から中部地方まで広い範囲で作られた。

 後に神社ができると、その祭りで、歌や踊りに興じたり、神輿(みこし)とともに練り歩いたりするようになったが、縄文時代から同様の祭りがあっただろう。特に盆踊りは「円」を作って、一緒に回る。こうして、みんなで一緒に楽しむと共に、精霊たちを喜ばせた。

 人間が明るく楽しく過ごすことが、精霊に活力を与えて元気にする最も大切なこととされた。特に縁ある男女が結ばれて、明るい気持ちで仲良く過ごし、多くの子供をつくる事を縁産霊(えんむすび)と呼び、人々は夫婦になった二人を祝福して、賑やかな婚礼を開いた。「円」は「縁」でもある。


■7.「旅」と「まれ人」

 縄文時代には各地の集落間で広域の交易が行われていた。新潟県糸魚川市の山中で上質なヒスイが採れるところがあるが、このヒスイを用いた勾玉(まがたま)の祭器が日本全国から出土している。

 また、秋田、山形、新潟の油田地帯では、石油が地上に染み出してできたアスファルトが採れる。このアスファルトは、石の矢尻(やじり)を矢柄の先端にくっつけたり、壊れた土器を修理する接着剤として使われるが、これらアスファルトを使った出土品が北海道南端から、東北地方全域、北陸地方に及ぶ広い範囲で見つかっている。

 こうした交易がどのようになされたのか。たとえば青森の三内丸山の集落で祭りにヒスイが必要となると、集落の中から選ばれた勇者たちがヒスイの採れる新潟の糸魚川近辺まで出かけていく。そういう旅人が来くと、糸魚川の住民は快く場所を教えてやる。すべての自然物は精霊の恵みなので、彼らが独占すべきものではないからだ。

 武光教授は、これが「旅」の始まりだと指摘する。「旅」とは「賜(た)べ」、すなわち「何かを下さい」という言葉から出た。自分が欲しい物がある所に行って、そこの集落に「何々を賜(た)べ(ください)」とお願いする行為が旅だった。

 旅人たちは、糸魚川の住民に自分たちの集落の話をする。そこから、自分の集落から何か、お返しに持ってこられる物を知る。そして、次回、ヒスイを求めてまた旅人がやって来る時には、それを贈り物として持参するのである。

 こうして旅人は、貴重な情報や贈り物をもってきてくれる「まれにしか来ることのない大切な客人」と歓迎された。これが「まれ人」の語源である。

 縄文時代には、このように全国の村落が交易、交流、友好のネットワークで結ばれていた。これも「円の思想」の表れであろう。


■8.日本人のユニークな経験

 縄文時代の代表的な遺跡、三内丸山遺跡に関して、自由社版の中学歴史教科書は次のように述べている。

__________
 1万年以上にわたる縄文時代の大きな特徴は、遺跡から戦争の武器が出土しないことです。三内丸山のような巨大遺跡からでさえ、動物を狩るための弓矢や槍はありましたが、武器は見つかりませんでした。おたがいが助け合う和の社会が維持され、精神的な豊かさを持ち合わせた社会であったと考えられます。
私たちの祖先である縄文の人々は、「和の文明」とも呼べるこのようなおだやかな社会を築いていたのです。[5, p33]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 土地もヒスイも魚も、すべて自然の恵みと考えれば、そこには私有財産という概念は生じ得なかったろう。そして、その自然の恵みを人々が感謝しつつ、使いすぎないように注意深く使っている社会では、争いは生まれない。

 一方、農耕社会では、自分が汗水垂らして耕して作った畑は自分のものだ、という意識が生ずる。その土地を増やそうとすると、土地を巡って隣人と争いが生ずる。

 北米のインディアンは縄文人と同様の精神を持っていたようだ。イギリスからの移住者たちが辿り着いた時、彼らは「まれ人」として温かく迎えた。しかし、その移住者たちは土地を自分たちの財産と主張して、インディアンを駆逐し始める。インディアンたちは、自然の精霊が与えてくれた大地を、なぜ特定の人間が自分の所有物だと主張するのか、理解できなかった。

 農業・牧畜を始めた人間は、自然環境を破壊し、土地を巡って争うようになった。そこから継承された環境破壊と戦争が、現代社会にも大きな危機をもたらしている。その一方で「円の思想」を継承した日本文化は和を大切にし、環境との共存共栄を実現している。小林教授は次のように結論づけている。

__________
 日本列島で農耕が始まるまでの1万年以上も続いた自然との共生の体験の中で縄文世界観が醸成され、日本人的心の基盤が形成されていったと言えます。それは、文明先進国がどこも体験することのできなかった貴重な時間だったとも言えます。[4, 1317]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 そのような世界でもユニークな1万年以上もの時間を経験した我々は、そこで学んだ事を世界に示していく責務がある。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. 「いのちの結び−現代科学と日本文明」、伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/

__________
『世界が称賛する 日本人の知らない日本』によせられたカスタマー・レビュー 計111件、5つ星のうち4.9

■★★★★★ 若い人々に薦めます(boyさん)

グローバリズムの風潮が席巻する昨今、カネ、モノ、ヒトが国境を越えて動いている。

必然的に他国の文化と出会う機会も多くなるが、自国の文化に対して我々はどれだけ他国の人々に語ることができるだろうか。

他国の文化に対してあこがれはあっても、自国の文化を語ることができなければ自分のよって立つ場所はないだろう。

また根拠のない自国への貶めなど、なかなか日本人として自信を持つ根拠を知る機会は多くない。

そうした状況の中でこの本を読むと先人がどれだけ努力をしてきたのか、また昔の国際環境の中で先進的な働きをしたのかがわかる。

多くの人、特に若い人に読んでもらいたい本である。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)


1.『日本の歴史01 縄文の生活誌』★★、講談社学術文庫、H20
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/406291901X/japanontheg01-22/

2. 上田篤『縄文人に学ぶ』★★★、新潮新書、H25
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B00GQQU048/japanontheg01-22/

3. 武光誠『日本人なら知っておきたい日本』★★★、育鵬社、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594080510/japanontheg01-22/

4.小林達雄『縄文文化が日本人の未来を拓く【電子特別版】』★★★、徳間書店、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/07FDTD9TV/japanontheg01-22/

5. 『中学社会新しい歴史教科書 新版 [平成28年度採用] 』★★★、自由社、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237826/japanontheg01-22/


東京・上野の国立博物館 縄文展 縄文時代の火炎土器
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/001/519/71/N000/000/003/153584032760948840177.jpg

10. 中川隆[-12321] koaQ7Jey 2019年2月09日 05:54:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

縄文時代における九州と朝鮮半島との交流 2018/05/27

 以前、当ブログで


つくられた縄文時代: 日本文化の原像を探る (新潮選書) – 2015/11/27
山田 康弘 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%83%8F%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%82%8B-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B1%B1%E7%94%B0-%E5%BA%B7%E5%BC%98/dp/4106037785


を取り上げ、縄文時代における九州と朝鮮半島との交流についても少し言及しましたが

(関連記事)
https://sicambre.at.webry.info/201512/article_30.html


もう少し詳しく同書の見解を取り上げることにします(同書P129〜133)。

じゅうらい、縄文時代の日本列島は他地域との交流がほとんどなかった、と考えられてきました。それは、「縄文人」のような形態の人類集団が他地域で確認されず、細かな地域差・時代差があるとはいえ、地理的範囲は北海道から九州まで、時間的範囲は早期から晩期前半まで、「縄文人」の形態はほぼ同一とされてきたからでした。

 しかし、考古学的資料により、縄文時代における九州、さらには西日本と朝鮮半島との交流が明らかになってきました。たとえば、西日本各地に分布する縄文時代前期の轟式土器や曽畑式土器は、朝鮮半島に分布する隆起線文土器や櫛目文土器との類似性が指摘されています。また、轟式土器と曽畑式土器の間に位置づけられる西唐津式土器と朝鮮半島の土器との関係も指摘されるようになっており、相互の土器形式に影響を及ぼす水準で交流があったことは確実とされています。

 朝鮮半島の煙臺島遺跡からは、縄文時代の石器として一般的な石匙が出土しています。縄文時代後期に西北九州で多くみられる石鋸も、朝鮮半島の松島遺跡など南岸部から出土しています。佐賀県の腰岳から産出する黒曜石は、朝鮮半島南岸部からも出土しています。また、朝鮮半島の土偶の中には、縄文時代早期のものとの類似性が指摘されるものもあります。その他にも、縄文時代には珍しくない貝輪・獣歯牙製装身具・土製耳飾りなどが、朝鮮半島南部で出土しています。こうした遺物だけではなく、人類遺骸でも、朝鮮半島と縄文時代の日本列島との交流の可能性が指摘されています。煙臺島遺跡から出土した人類遺骸には、縄文人の形態がよく認められるそうです。

 しかし、近年の研究の進展により、九州を中心とする縄文時代の西日本と朝鮮半島との交流については、一時期の過大評価が訂正される傾向にあるようです。まず、朝鮮半島における縄文(系)土器の出土点数は、在地の有文土器と比較すると0.1%にも満たない、とのことです。また、土器の製作技法・文様の割り付け方法・結合式釣針の製作技法などの比較の結果、縄文時代の日本列島と朝鮮半島との類似性は、同一の文様構成原理や技法で製作されたという水準ではなく、あくまでも視覚的な部分に留まっている、とも指摘されています。見た目は類似しているものの、人間が恒常的に往来して製作技法そのものが伝えられているような状況ではなかっただろう、というわけです。

対馬の越高・尾崎遺跡や夫婦岩遺跡などでは、朝鮮半島系の土器が主体的に出土することもありますが、これは特定の時期だけの減少で、他の時期では基本的に縄文土器が出土するそうです。朝鮮半島には縄文(系)土器が主体的に出土する遺跡は存在せず、あくまでも単発的・客体的に出土するにすぎません。

 これまで、縄文時代の日本列島と朝鮮半島の考古学的資料の類似性は、交流の証明としてひじょうに高く評価されてきましたが、再考が必要ではないか、と本書は指摘します。縄文時代の北部九州と朝鮮半島南部との交流はさほど多くなく、南島地域との比較でも少なかったので、北部九州と朝鮮半島南部の間には言語の壁があったのではないか、との見解も提示されています。

また本書は、朝鮮半島では土偶はほとんど出土せず、大型のものはないことと、縄文文化でよく見られる呪術具は朝鮮半島では出土頻度が低いことなどからも、縄文時代の北部九州と朝鮮半島南部は文化を共有するという状況ではなく、対馬海峡で線を引くことが可能ではないか、と指摘します。縄文文化がユーラシア大陸からの影響を受けたことは間違いないとしても、縄文文化はおおむね日本列島内に収まっているとの見解にも一理ある、と本書は指摘しています。
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_45.html

11. 中川隆[-12320] koaQ7Jey 2019年2月09日 05:55:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

2018年11月23日
縄文体質の史的足跡〜第7回 婚姻様式は本来、安定した集団を支える社会基盤。
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3382.html


第7回(最終回)は夜這い・婚姻を扱います。

シリーズ「縄文体質とは何か?」第4回縄文の”性”を知る にあるように

>縄文時代の婚姻様式は総遇婚、近接集団との交差婚であり、集団婚であった。その後弥生時代以降も男が女集団に入る妻問い婚という形態にはなったが、ついぞ江戸時代までは女は母集団の中に残り、集団の共認充足に包まれた中で集団と女達は一生暮らすことができた。諸外国を見渡しても婚姻形態がこれほど近代まで残った国も稀有だし、一対婚がこれほど根付かなかった国もない。その意味で縄文が最も色濃く残ったのが婚姻であり、男と女であり、性充足である。それほど、日本人は性におおらかで性を心から楽しんでいた。

日本人の”性”への意識はつい50年ほど前まで集団・社会を安定させる基盤であり、性充足により安心で安定した集団を核として日本人は西洋とは違う民族性=縄文体質を維持してきました。

このように、本来、婚姻様式は社会の根幹を成す規範・制度であり、個人主義に傾斜した現代の一対婚制度により、現代は日本でも集団性が破壊され、縄文体質も薄れつつある危機的な状況にあります。

今回は縄文から今日に至る婚姻の変遷をおさらいし、今の日本で失われつつある精神を探っていきたいと思います。

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以下るいネットから要約します。

【縄文から弥生への婚姻様式の変化〜共認風土に取り込まれていく渡来人〜】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=270746

縄文社会に変化が起きたのは2,450年前の渡来人である呉人以降だろう。 稲作水田は大規模化し、環濠集落が生まれ階層化した村社会の構造が現れてくる。この時代の呉人は大陸での略奪闘争の負け組みだが、私権闘争を経験し支配社会のパラダイムを始めて日本社会に取り込んだのがこの第2波の呉人と思われる。

日本では、二群単位とはかぎらず、二群でも三郡でもが集落をなし、その中央に祭祀施設のあるヒロバをもち、そこをクナドとし、集落の全男女が相集まって共婚行事をもつことによって、族外婚段階を経過したと考えられる。

縄文前期までは単一集団内での族内婚のみであったが、集団規模が大きくなっていく縄文中期から後期は、村と村の要路がヒロバとなり、全男女を対象とした族外婚(クナド婚)が形成されていった。このクナド婚は、それまでの族内婚であった全員婚を、そっくりそのまま族外にも適用した婚姻様式であり、共認充足を第一とする縄文社会を端的に現したものであるといってよい。

そして、第2波の渡来人によって、このクナドも変化を見せる。

しかし、そうした日本も、縄文中期以降は、ようやく集落を定着させて、農耕段階へと進みつつあったと思う。それにつれて婚姻形態も、一方では族外群婚を発達させたが、また他方では北アメリカで20世紀初頭までみられたような母系制的対偶婚への道をひらこうとしていた。紀元前2、3世紀のころに移入されたといわれる水田農耕の普及は、社会関係を複雑にし、孤立した氏族集落対から部族連合体への道が開け始めた。   なおクナド婚は市場や入会山で威力を発揮し、部族連合の一つの動力となって活動したが、その方式に特記すべき変革が起こった。それは神前集団婚から神前婚約が始まり、それによって男が女の部落へ通う妻問形態の個別婚を生み出したことであった。

ここでいう対偶婚は渡来人によってもたらされた婚姻様式。大規模水田とともに新たなパラダイムで縄文を取り込み、そのことによって全員共婚のクナド婚から、対偶婚、さらに時代が進み妻問婚への個別婚へと表向きの婚姻制度が変化していったことが伺える。

クナド婚の場所で、こうした神前婚約が成立すると、男が女に通う妻問形態の個別婚が新しい時代に照応する正式の婚姻制として表面化してくる。しかし、そうなっても、群婚原理はまだ容易にたちきれず、婚約した相手だけでなく、相手の姉妹や兄弟にも波及する。

このように、この全員共婚であるクナド婚は、その後日本の村落共同体では様相を少しずつ変えながら根強く残り続けることになる。(夜這婚はその系譜にあるだろう) むしろ興味深いのは、妻問婚を持ち込んだ渡来人でさえ、共認充足に導かれて実態はクナド婚へ傾斜しているように見える点だ。支配者側であった渡来人は、表向き血筋を明らかにするために個別婚である必要があったが、縄文の共認風土に導かれて平和裏に共存していく様子が婚姻様式にも現れているように思える。

【母系社会の伝統が決定的に影響した日本の婚姻様式2】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=320152

万葉集には、両親を歌った歌が100首ばかりあるが、それらの殆どは母親を歌っており、父親だけを歌ったものは1首しかない。子の母親に対する情愛は現代にも通じるものがあるが、万葉集の世界においては、子は父と同居することがなくても、母親とは常に強い絆で結ばれていた。上の数字はそのことを反映しているのだともいえよう。

では、古代の男女はどのように結ばれたのか。

上層階級は別にして、庶民の間では遠方の地域との婚姻はそう盛んではなかったのではないか。部族集団の中か、せいぜい近隣地域との出会いが中心だったと考えられる。

結婚生活は基本的には、男が女のもとに通う通い婚であった。そのほか男が女の家族と同居する場合や、夫婦が独立して住居を構えることも行われた。だが女が男の家族のもとに同居する例は殆どなかったようである。したがって、近年の社会問題たる嫁舅の関係は、古代には存在しなかったと考えてよい。

通い婚の場合、新婚早々には男は足しげく女のもとに通ったであろう。しかし女が妊娠したり、あるいは男に他の思い人ができたりして、その足が遠のきがちになることもあった。古代の女性の歌には、男の到来を待ちわびる女の歌がそれこそ数多くあるが、そんな文化を日本以外に求めることはできないだろう。

こうした場合、結婚は自然と解消され、女は他の男と再婚することもできたようだ。古代には、男の女に対する責任がきつく問われなかったかわりに、女のほうにも相応の自由が保障されていたのである。

女が比較的簡単に離婚を決意しえたのは、後の時代と異なって、女が経済的に男に従属していなかったからだと思われる。先史時代以来の共同体のあり方に守られて、女は男がいなくとも、何とか生きていくことができたのだと考えられる。

こうした女中心の婚姻や家族の形態が大きく変容するのは平安時代中期である。それには家の成立が深くかかわっている。古代的な共同体が解体され、その中から社会の基本単位として家というものが成立した。家は社会的・経済的な単位として国家機構の中に組み込まれ、課税の単位ともなった。

この新しい家にとっては、家を代表するものとしての戸主というものが登場し、家族の成員はその戸主の名の下に把握された。そこで新しく戸主となったものは男たちだったのである。

家の成立は上流層では10世紀ごろ、庶民層では12世紀ごろだとされている。家が社会の公的な構成単位となったからといって、すぐさま女が男に従属したわけではない。中世初期まで家の中での女の力はまだ根強く残っており、女にも独自の財産を持つことが許されていた。女房が亭主を相手に貸付をしたという記録も残っているほどである。

だが一旦成立した家は次第に機能の増殖をはじめ、ついには家の中の長たる男の権威が妻のそれを圧倒するようになる。女は経済的にも男に従属するようになり、婚姻の形態も自然と、女を男の家に迎える「嫁取り婚」へと変化していくのである。

【中世の社会と婚姻制度・相続制度】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=338907

鎌倉時代は貴族は婿取婚(母系氏族が婿を迎える)という制度であったが、武士は次第に嫁取婚へと移行していく。それは、戦闘軍団ゆえに男の武力が制覇力となったことによるが、とりわけ地方武士は土着性が強いが故に、土地を離れるわけに行かなかったという事情が実際上は大きい。父系制の成り立ちの時期は、それぞれの社会階層によって異なり、武家上層においては、院政期から鎌倉時代において、そして一般武家は鎌倉時代から南北朝時代、さらに庶民層においては、南北朝時代から戦国時代である。 但し、庶民は江戸時代に至るまでも夜這い婚を併用している 因みに、公家層が嫁取りに移行するのは、武士の力が強まり、公武の結婚が行われるようになって以降である。 また鎌倉時代は「分割相続」を原則としており、新しく建てられた分家は本家の惣領(家督)のもとで血縁集団を形成した。惣領は戦時には一門を率いて闘い、軍役と恩賞を一門の各家に割り当てた。この惣領制を土台に幕府は御家人たちを束ねていたのである。 しかし父系制とはいえ、当時は夫と妻とは別々の姓(氏の名)を名乗り、それぞれが父母から相続した氏の財産を継承するという、夫婦別財産制度をとっており、妻も自前の財産を有していた。(女子が惣領となるケースもあった)

この惣領制が揺らぐのは、元寇(鎌倉中期)以降である。それまでは、承久の乱や元寇を通じて、荘園領や非御家人領に支配が及び、分家の所領も確保できていたが、安定期に入ると所領の増加がなくなり、所領は相続の度減少し、御家人たちの収入は激減する。 その結果、戦闘集団として一体化していた本家と分家の結びつきは弱まり、次第に一門同士の血縁的統合から、生産基盤を共にする地縁的結合が高まっていく。このことが地域の独立性を高め惣村の自立性を強める大きな要因となっていく。

【夜這い婚の情景@】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=89190

■若衆宿 その頃は、一人前と認められ、若者宿への参加が認められることが、子供の楽しみであった。十三、四、五歳から参加が認められ、結婚するまでの間、毎年農閑期の何ヶ月間か、そこで共同生活をしたものだ。中には、一年通して、つまり数年間、若者宿で過ごす者も、少なくなかった。彼らは、農繁期の強力な助っ人として、重要な存在であった。

共同生活を通じて、親からの躾とは違う、共同体の一員としての ケジメ を先達から教えられる場であった。また、年に何ヶ月かの共同生活を、数年繰り返すことで、自然と仲間内の序列、派閥なども形成されていった。つまり、仕事のときの采配はだれだれ、遊びはだれだれ、交渉ごとのうまい奴、物資調達のうまい奴、情報通のものなど、互いに相手を知り合う機会でもあった。

■夜這い規範 夜這いといっても、誰もが好き勝手に、女の家へ忍び込んだわけではない。通常、相手の娘が、承知してくれた場合のみ、あるいはその娘が、自分の誘いに応じてくれたときのみ、夜這いに行けたものである。相手の望まない夜這いは、無理に忍び込み、ことに及ぼうとするとき、娘に騒がれて、親に捕まった時など、村のさらし者にされる恐れがあった。

また、忍び込んだ娘の家で、あまり無茶をしないよう、夜這いの礼儀作法というものも教えられた。先達たちが、四方山話の一環として、面白おかしく話すこともあったが、実際は、ベテラン女性に、手取り足取り教えてもらったものである。

■性の指導 若者宿ではまず、新入りには忍び込みのテクニックを教える。そして筆下ろしのため、先輩が事前に了解を得て、ベテランの女性に、童貞の子への筆下ろしを頼んだものである。上農の場合には、元服の際、両親が相談し、親類縁者のなかから、これという女性を選びだして依頼し、文字通り手取り足取り、女性の体の 造り を教え、扱い方 の指導を任せたものである。

娘の場合も、赤飯を炊いて祝った夜、一族の年配者や、主家筋の、しかるべき長老の誰かに、水揚げというか、道を通してもらうのが慣わしであった。そうしておかないと、夜這いされたとき、戸惑うことになる。そして、母親や叔母さん、先に一人前になっていた近所の姉様たちが、具体的に心構えや、手練手管を伝授するなど、共同体の一員としての教育がなされてきたのである。

■性の喜び:活力源 当時は、男女とも、性の悦びを味わうことは、タブーではなかった。もちろん、公然たる不倫は咎められ、相手かまわず交合する者も嫌われた。しかし、農民においては、性とは、心行くまで自由に楽しむべきものであり、過酷な労働に耐える農民の、活力源でもあった。男は十数歳で元服し、女も初潮を迎えれば、ともに一人前として、大人の扱いを受けることになった。

大人の扱いを受けるということは、一人前の労働力として期待されることでもあったが、同時に、自由意志で性を楽しむことを、認められることを意味した。自由とは、規律を守ることにより、自由を保障される。その規律を教えるのが、若者宿であり、赤飯の祝いの夜の儀式であった。当時は男も女も、互いに相手が複数の異性と、交渉を持っていたことを当然として、結婚したものである。

結婚後も、一定の規範の元に、自由であった。不自由なのは、支配者階級である。なまじ、守り、引き継ぐべき、金や富を持っているため、子の血筋を重視するがために、女を家に閉じ込め、他の男との接触を不義として、禁じてきた。下これに倣うで、家臣も、町家の者も、女性の人権、自由度を制限し、現在に到っている。のではなかろうか。

【ムラの「公事」であった「夜這い」】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=156930

>明治以降、国家権力の弾圧によって旧来の日本の夜這い文化は衰退の一途を辿ります。

以下「村落共同体と性的規範の6.弾圧と亡失」より引用)

ところが「筆おろし」の年齢を一挙に引き上げる事件が起こった。すなわち徴兵検査の励行で、富国強兵の政府といたしましては、国家の干城たる青年に花柳病が蔓延するのを座視することはできない。これは古い若衆組の罪で、質実剛健を主旨とする青年会に改組する。「夜這い」などもってのほか、青年、処女は純潔でなければいけぬことになって、教育も。これに応じて大合唱したから、若衆組も、夜這いも決定的な打撃を受けた。

男も男なら、女も女ということになるが、若衆組や夜ばいの盛んであった時代には、こんなことは想像もできなかっただろう。四十六の仲人あっぱが、若衆も娘も実地教育してみせたので、昔の若衆の初夜教育が、いかに適切、かつ科学的教育方法として作動したか、を実証している。まさにあっぱはムラの性教育の伝統を継ぐ、最後の一人であったのだろう。

では、近代教育の「純潔」とか、「貞操」とかはなんであったのか。肉体的な抑制を強要するだけで、健康な発散を考えなかった結果として、いま私たちは、その当然の代償を支払わせられている。娘を商品として高価に売り込むための処女性尊重と「貞操」の強要、息子を売春風俗産業の購買力に仕立てる手段としての「純潔」教育、そこには資本主義社会の露骨な商品化政策があるだけだ。

私たちは若衆組の行事や夜這いを、かつて淫風陋習として退けたのである。しかしムラがムラであったとき、成熟した女性にとって若衆へ心身ともに健全な教育をすることは、次代への継承を維持するために負った義務であり、また権利であっただろう。

ムラが一つの共同体として作動しているとき、夜這いも結婚関係も、若衆組その他と同じく、それぞれムラの「公事」であったから、かれらに「純潔」や「貞操」の観念はなく、どうして生活を維持するかが根本の約束であったものと思われる。

つまり個人として私匿しなければならない密室の作業ではなく、いつでも公開されているルールに乗った行為であった。長い間、私たちは「夜這い」を誤解してきたが、それはムラの古い共同結婚方式を継承したものとして、まさに「公事」として維持されてきたのである。近代日本は結婚を「私事」に変質させることで、「夜這い」の伝統と継承とを否定したが、そのためにかえって社会的性生活を荒廃させた。

【日本における現行の婚姻制度〜日本国憲法@】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=225216

戦後日本の家族のあり方に最大の影響をもたらしているもの。それは、日本国憲法である。日本国憲法は、戦後、GHQによって押しつけられた憲法である。その基本理念は欧米の価値観に基づいている。その理念の一つが、個人主義である。これは家族や国家より個人を重んじる考え方である。日本の社会に個人主義を植えつけること、それが日本を「民主化」することであり、同時に日本を弱体化することだった。

西洋近代の思想の一つである啓蒙主義は、17世紀イギリスのホッブス、ロックらによって展開された。彼らは、デカルトの要素還元主義の影響を受けていた。そのため、まるで幾何学的空間におかれた原子(アトム)のようなものとして、人間をイメージした。「個人主義」とは、原子(アトム)的な個人を、集団より先在する要素とし、個人を原理として、社会の構成を考える考え方である。

日本国憲法は、こうした西洋近代啓蒙思想が根底に置かれている。そして、この思想をさらに極端に推し進めた学説が普及した。すなわち、「個人の尊厳」を持って「個人主義の原理」とし、アトム化した個人を持って「人間社会における価値の根源」などと説明する宮沢俊義らの学説である。

こうした極端な学説が出てくる原因は、日本国憲法にある。具体的に挙げれば、第24条である。この条項には婚姻に関する規定がある。すなわち第1項に「婚姻は、両性の合意のみによって成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」とある。また第2項に「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」と記されている。

このように憲法に婚姻に関する規定が設けられているのは、世界的に見ても異例である。男女が恋愛をし、性的に結びつくことには、法律はいらない。その限りでは、私的な事柄であり、国家が介入すべきことではない。しかし、結婚した男女は、単なる同棲者ではなく、親や家族や親族・友人などの認知を得た関係となる。私的な男女関係が、ここで公認による公の関係となるのである。それは、結婚は夫婦の性的関係を維持する手段ではなく、家族を形成することが目的だからである。つまり、結婚とは、社会の基本単位である家族を形成するという公共性のある行為なのである。そこに、結婚を法律に定める必要があるわけである。そして家族の安定のために、婚姻の安定性を求める法律も定められる。それゆえ、憲法に規定する必要があるのは、婚姻よりも家族に関する規定である。

しかし、第24条は、個人の尊厳と両性の権利の平等を強調する一方、家族の大切さを規定していない。そこに大きな欠陥がある。条文には、夫婦と並んで家族を構成するもう一本の柱である、親子への言及がない。これは、生命と文化が、世代から世代へと継承されていくことを軽視している。憲法の全体に、世代間の縦のつながり、民族の歴史が断ち切られている。

【婚姻が社会と切り離されて50年も経ってない】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=87512

日本の婚姻史を調べてみると、集団や社会から切り離された婚姻や性関係は、ほんのこの50年くらいしかなかったようだ。

まず、庶民の生活の中で、縄文時代から昭和10年から30年頃まで受け継がれてきた、夜這い婚などの集団婚。それらは、村単位で性充足を高めるシステムで、男女老若既未婚をとわず、性の役割が与えられた。

子育ても、誰の子であろうと、娘の親が育てるというように、村の規範の中で育てられた。決して個人課題ではない。また、性や子育て規範を共有する単位(村)と、生産にかかわる規範を共有する単位(村)は一致していた。

このように、性や婚姻は社会とつながっていて、性自体が集団維持の課題のひとつであった。それゆえ、性をみんなの期待として、肯定的に捉えていた。

次に、貴族や上位層の武士は、父系制の一夫多妻・一夫一婦制をとるが、基本的には政略結婚である。結婚は個人の課題という現代の感覚からすると、無理やり嫁がされてかわいそう、ということになるが、おおきな間違いだと思う。

私権社会での集団維持という歪んだ側面をもつことは否めないが、明らかに集団維持のための婚姻である。 それは、採取時代の人類は、男女の婚姻関係・性関係が、“集団統合上の重要課題である”ことを、ごく当たり前のように認識していたと思われることです。

そして、貴族の娘も、いい家柄に嫁げるように、家庭教師を招いて、教養を身につけるのが、役割であった。娘自身も教養あるおしとやかな女になることを、目指していたのである。ちなみに清少納言や紫式部は、上記の家庭教師だった。

そして、昭和の30年から45年くらいまでの婚姻制度も、基本的には家という基盤を背後に持ちながら、恋愛結婚という形をとった。この源流は、武士や貴族の婚姻制度にある。かなり社会との関係は薄れるが、まだつながりを保っていた時代だと思う。

このように、この50年を除けば、性は社会とつながっており、衰弱することはなかった。そして現在、まったく社会とつながりを失い、当人同士以外だれの期待も受けない性が始めて登場した。そのときから、性は衰弱し続けている。

再生のためには、社会の中でみんなに期待される『性』が役割として再認識される必要がある。そのためには、性も生産も包摂した新しい本源集団の再生が不可欠になる。

http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3382.html

12. 中川隆[-12319] koaQ7Jey 2019年2月09日 05:59:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

実はとてつもなく古かった日本語 2018 05.01
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3756.html#more

日本語は、もしかすると世界最古の言語であり、しかも世界で最も美しい言語かもしれません。

かつて谷村新司がロンドン交響楽団をバックにレコーディングをしたことがあります。
そのとき日本語の素晴らしさを再認識し、日本語を大切に歌っていくことを信念にしたそうです。

ディズニー・アニメの『アナと雪の女王』は、世界的ヒットとなったアニメ映画ですが、そのなかの挿入歌の『レット・イット・ゴー、ありのままで』は、世界25ヶ国語に翻訳され、それぞれの国の歌手が歌ったものが youtube で公開されました。

このとき、世界中の人たちが驚き、そして圧倒的な人気をはくしたのが日本語バージョンです。

Let It Go - Behind The Mic Multi-Language Version (from Frozen) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=BS0T8Cd4UhA

松たか子ver(日本語吹替版)「Let It Go」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=4DErKwi9HqM


それは、歌った松たか子さんの声の素晴らしさももちろんあるでしょうが、日本語による発声が、メロディに+αの効果をもたらしたのかもしれません。

どこの国でも、それぞれにお国自慢があります。
ここで日本語が世界一だと述べるつもりは毛頭ありません。
ただ、ひとついえることは、どうやら日本語には、他の言語にはない、不思議なところがあるということです。

ひとつは言霊(ことだま)です。
言葉に魂が宿る。

ではどうして言葉に魂が宿るのかというと、日本語が実はもともとそのように構造された言葉だからなのだそうです。

構造とは、日本語の文法や発音や語彙のことです。

つまり、自然との共生を大切に育くむこと、自然を征服したり、人と自然とどちらが上かのような上下構造をもとうとするものではない文化の下で、人と自然とが対等な関係を育んで来たのです。

2つ目はオノマトペ(仏:onomatopee)です。
オノマトペというのは擬声語を意味するフランス語です。

擬声語は、たとえば

わんわん、メーメー、ブーブー、ニャーオ、ホウホウといった動物の鳴き声を真似たものや、

ドキドキ、パチパチ、バキューン、チリーン、ドカン、カリカリ、バタン、ガタピシ、ガタンゴトン、パチバチ、ビリビリ、ジュージュー、グワァ〜ン、パタパタ、ボキポキなどなど、音を真似たもの、

あるいは、

おずおず、おどおど、めろめろ、ふらふら、きゅんきゅん、きらきら、ぴかぴか、ぐずぐず、ツルツル、サラサラのように、本来音を発しない感情などを言葉で表現するものなどのことです。

おもしろいことに、擬声語(オノマトペ)は、言語ごとに、表現がまったく異なります。

冒頭にあるのは、その違いを示した絵本の抜粋で、クリックしていただくと当該ページに飛びますが、たとえば食事をするときは、日本では「PAKU PAKU」ですが、英語では「CHOMP」、フランス語では「MIAM」、イタリア語では「GNAMグナム」、Korea語では「NYAM」です。

キスは日本語では「CHU」ですが、英語では「MWAH」、China語では「BOH」です。
つまり言語によって擬声語(オノマトペ)は、まったく異なります。
ということは、それぞれの言語圏においては、音がそのように聞こえているということです。

そして日本語の擬声語(オノマトペ)は、China語やKorea語ともまったく異なるものです。

ということは、日本語はChinaやKorea半島からの輸入語では絶対に「ない」ということです。


それだけではありません。

日本語は、この擬声語(オノマトペ)が、他の国の言語と比べて著(いちじる)しく多いのです。
その数、なんと5千語です。

日本語の単語数は、たとえば『日本国語大辞典』の収録単語数が50万語です。
このことは、日本語の1%、およそ100語にひとつが擬声語(オノマトペ)であるということです。

そして単語の中には、日常生活でよく使われるものと、そうでない(たとえば学術用語)ものがあります。

オノマトペは日常的によく使われる語です。
早い話、今朝起きたとき、ご家族に「ぐっすり寝れた?」と聞く。
その「ぐっすり」というのがオノマトペです。

しかし睡眠は「ぐっすり」などという音は立てません。
ではなぜ「ぐっすり」というのかというと、「ぐうぐう、すやすや」寝ているからです。
その「ぐうぐう+すやすや」が短縮されて「ぐっすり」です。

「ぐうぐう」も「すやすや」も、なんとなく、そのような音を立てているといわれれば、なんとなくそうかもしれないと思われるかもしれません。
では、

 風が「そよそよ」と吹く
 太陽が「かんかん」に照る
 白い雲が「ぽっかり」浮かぶ
 星が「きらきら」光る

などはどうでしょうか。

風は「そよそよ」などという音をたてないし、太陽は「かんかん」なんてしゃべったりしません。

ではなぜこのようなオノマトペが使われているのでしょうか。

実は、自然がそのような音を立てているのではなくて、受け止める側が自然が発する音をそのように聞いているのです。

このことについて考古学者の小林達雄先生は、「人々が、人と人との間で行うコミュニケーションのための言語活動と同じか、あるいはそれに近いレベルで自然と向き合い、自然との間で活発な言語活動を行ってきた結果」(『縄文文化が日本人の未来を拓く』p.134)と述べておいでです。

つまり、日本語は「自然と対話しながら発達してきた言語」なのです。

だから欧米人にはただの雑音にしか聞こえないカエルの鳴き声や虫の声も、日本人には美しい秋の音色となって聞こえる。なぜ美しいのかといえば、それは人がカエルや虫たちとコミュニケーションしているからです。

では日本語は、いつ頃の時代から形成されはじめたのでしょうか。
言語の発達には、ムラの形成が欠かせません。
なぜならムラを営むには、言語が必要だからです。
そしてそれは磨製石器の登場と時期を同じにするというのが世界の考古学会の定説です。

世界の磨製石器は、おおむね7千年前以降のものです。
中には2〜3万年前のものもあります。

 シベリアの2万年前のもの
 ロシア南西部の紀元前1万6000年前のもの。
 オーストリア中部の2万9000年〜2万1500年前のもの。

など、ほんの数例です。

ところがこれらは、異常に早過ぎる磨製石器であって、作成経緯等はすべて不明です。
そして、その後に起こるおよそ7千年前の磨製石器の時代(新石器時代)と接続していないのです。

ところが日本の磨製石器は、3万年前の磨製石器だけが単独であるのではなくて、昭和48年に東京・練馬区石神井川流域の栗原遺跡で2万7000年前の地層から磨製石斧が発掘され、また同じときに千葉県三里塚からも磨製石斧が出土、以後、秋田から奄美群島まで、全国135箇所から400点余の磨製石器が発掘されています。

そして1万7千年前には縄文時代が始まるのですが、なんとものの見事に、その縄文時代の文化へと、磨製石器の時代が接続しているのです。

ちなみに長野県日向林遺跡から出土した60点、長野県の貫ノ木(かんのき)遺跡から出土の55点の磨製石器に用いられている石は、伊豆の神津島から運ばれてきた石です。

つまり当時の日本人は航海術に長け海洋さえも自在に往来していたことも伺わせています。

こうしたことから、英国のJ・ラボックという考古学者は、

「日本列島の住民は世界に先駆けること二万数千〜三万年前に新石器時代を迎えていた。」

と述べています。

言い方を変えると、これはつまり、日本は世界最古の文明を持っていたことが証明されている国である、ということです。

そして磨製石器の登場と言語の登場、そしてムラを営むための神話の登場が重なるものであるならば、日本語は、およそ3万年前には生まれ、そこから現代に至るまで、ずっと続いている世界的にも稀有な言語である、ということになります。
そしてそれが可能になったのは、日本人が殺し合いや、自然への征服を好まず、人と人、人と自然が常に調和することを好む民族であったからです。

というより、調和を好むという日本人の性質は、最低でも3万年という途方もない長期間のなかで、最終的に生き残ってきた性質である、ということができます。

おもしろいもので身勝手な文化、自分さえ良ければという文化は、一時的な成功を手に入れることができても、必ず最後に崩壊し、再起不能になります。
ところが調和を大切にする文化は、一時的にどん底に落とされても、必ずまた再生し復活します。

植物には一年草と多年草があります。

最近は品種の改良によって、どちらも美しい花を咲かせますが、もともとは一年草の多くは、だいたい派手な花を咲かせるのに対し、多年草の花は、わりと地味な花が多いです。
地味だけれど、ずっと咲き続けます。
まるで日本人そのもののようです。

日本人は、はっきりとわかっているだけでもおよそ3万年、ずっと自然と調和し共生する道を選んできました。

だから日本語には擬声語(オノマトペ)が圧倒的に多いのです。


コメント


新宿の縄文人は、どんな言葉を話していたか?

東京の新宿のど真ん中、皇居の御堀端から2q程の地点から、縄文時代中期や後期(5千年前〜4千年前)の人骨が多数出土した事がありました。

江戸時代の遺跡を調査すると、その下から縄文時代や弥生時代の古い遺跡が続いて出土する事がありますが、その場合、江戸時代以降の大開発等によって、無残に破壊されていてる場合が多いそうです。

僅かな貝殻の堆積が確認されたとはいえ、分厚い貝層が存在しない内陸の地域から、多数の人骨がまとまって出土すること自体が非常に珍しく、当時現場は大変な興奮に包まれたそうです。

当時、保存状態の良かった、40代ぐらいの男性の顔が復元されました。

やや長めの顔に、上下に潰れた長方形の眼窩、彫りの深い目元の頭蓋骨は、ヨーロッパ人の様な風貌、あるいは、若い頃の宇梶剛士さんに似たイケメン風に仕上がりました。

彼のミトコンドリアDNAのハプロタイプは北方系と言われるA、一方彼の近くに葬られていた別の人骨は、南方系と目されるM7aだったそうです。

様々な地域をルーツに持つ縄文人たちが、新宿の地で仲良く暮らしていたのですから興味深いです。

日本語が「どのように成立したか分からない」と言われる所以は、様々なルーツを持つ人々の言葉が、極めて長い時間をかけて、ゴチャゴチャに混じり合った結果ではないかと思います。
2018/05/14(月) 11:38 | URL | 疑問 #iydQorAY[ 編集]


外国人に日本語で話しかける時にこの擬声語は使わない方が良いそうです。

擬声語に相当する外国語がないので、彼らにはさっぱり分からないようです。

また、行けなくも無いなどの二重否定もダメ。

日本人なら、何とかすれば行けると理解できますが、外国人は
理解できないようです。

外国人にとって日本語は本当に難解のようですが、
この言語を意識せず使いこなしている
我々は本当、凄いのかもしれませんね。
2018/05/14(月) 13:40 | URL | 名無し #mQop/nM.


新宿に生きた縄文人〜市谷加賀町二丁目遺跡の発掘

新宿に生きた縄文人〜市谷加賀町二丁目遺跡の発掘
http://www.city.shinjuku.lg.jp/video/video_jm01.html
https://www.youtube.com/watch?time_continue=607&v=P7VUMR0Mvzo

これですね。
2018/05/14(月) 14:31 | URL | KI


加賀町二丁目遺跡の関連本が出版されています。>KIさん

KIさんへ

動画等のご紹介ありがとうございます。

加賀町二丁目遺跡に関しては、講談社から関連書籍も出版されています。

『おどろきの東京縄文人』(瀧井宏臣著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%8A%E3%81%A9%E3%82%8D%E3%81%8D%E3%81%AE%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA-%E4%B8%96%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%89%89-%E7%80%A7%E4%BA%95-%E5%AE%8F%E8%87%A3/dp/4062870029

という本です。

この本は、考古学少年から考古学おじさん・おばさんまで、幅広い層の人々が興味深く読める内容になっていると思います。

映像で見るのと、写真で見るのとでは、復元された縄文人の顔の印象は少々異なりますね。

映像の方はバックが暗めで、陰影が強調されていますが、写真の方は細部まで鮮明に写っていますので、少し印象が違ったのかも知れません。
写真で見ると、かなり欧米風味の顔に見えます。

個人的に注目されたのは、12号人骨(復元された縄文人)が腰にぶら下げていた、イルカの下顎の骨のアクセサリーです。

縄文人は、イルカやクジラやサメやエイ等も捕獲していたことが分かっていますが、丸木舟しかない時代ですから、漁の腕前は、現代人と比較しても大したものだったと思います。
2018/05/15(火) 09:54 | URL | 疑問 #iydQorAY
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3756.html#more

13. 中川隆[-12194] koaQ7Jey 2019年2月13日 16:13:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22237] 報告

2018年10月04日
現代日本人が受継の縄文人のDNAの多くは西日本由来


 洋泉社出版の「歴史REAL 日本人の起源 縄文・弥生の世界」(本の写真は出版社から未だ了承を得られていないので、得られ次第掲載)で、国立科学博物館の篠田謙一副館長が、最新の日本列島の古代人骨のDNA解析に基づく知見を書いておられる。

 それによると、縄文人は、全国的に均一な形質を持つ集団として成立していたのではなく、地域によって異なる遺伝的集団であった可能性が出てきていることが、最新のデータに基づいて説明されている。

 又、渡来系弥生人のイメージも、従来のイメージと異なり、時期・地域によって異なり、弥生中期以降から古墳時代にかけて、大陸から多くの人々が渡来し、在来の渡来系弥生人との混血が進んでいったのではないかと指摘されている。

 そして、現代日本人が受け継いでいる縄文人のDNAの多くは西日本由来とのことであり、まさに、今回のぷろ古代西日本の中心の一つであった出雲人骨プロジェクトによって、古代史の謎が解き明かされることが期待される。

 さらに、日本列島に初めてきた旧石器人と縄文時代人とは別の集団であった可能性も指摘されている(アイヌ集団・琉球集団のDNA分析の結果)。
https://readyfor.jp/projects/izumo17990/announcements/86610

14. 中川隆[-12193] koaQ7Jey 2019年2月13日 16:19:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22237] 報告

島根県の出雲人は、縄文人と近いことが判明。


ー神々の国と呼ばれた出雲の人々ー

出雲は、神話の国でしたが、実際に、弥生時代の銅剣・銅鐸が多数発見され、四隅突出型墳丘墓も発見されるなど古代出雲王国の文化が栄えたことが明らかとなり、出雲大社を擁し、出雲弁の方言を話す特徴を有しています。

会員の中から、出雲出身者のDNAを調べてみれば、出雲人のルーツの解明ができるのではないかとの話が持ち上がり、2010年頃、国立遺伝学研究所の斎藤成也教授にDNA鑑定を依頼しました。当時、中国地方のDNAデータがなかったこともあり、斉藤教授による出雲人DNA解析の研究が開始されました。


ー出雲出身者のDNAを調査ー

東京在住の出雲出身者21名が、東京大学医学部に赴き、血液を採取され、結果を待ちました。ほとんどの会員の予想として、地理的な要因もあり、関東ヤマト人よりも朝鮮半島の人々とDNA的に近い結果がでるだろうと予測していました。ところが、斉藤教授から伝えられた結果は、衝撃的な内容でした。

現代の出雲人のDNAは、関東ヤマト人よりも、朝鮮半島の人たちよりも位置的に遠く、かつ縄文人のDNAを関東ヤマト人よりも多く承継している東北地方集団の位置と似ているという結果でした。
https://readyfor.jp/projects/izumo17990

15. 中川隆[-11838] koaQ7Jey 2019年2月25日 12:34:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[141] 報告

アイヌ民族と沖縄民はDNAが近い・「縄文系の血を残す」・・説は本当か? 2013-11-01
https://blog.goo.ne.jp/blue77341/d/20131101


一年前の新聞にあった記事です。

           ・・・・・

2012年11月1日読売新聞

「アイヌ民族DNA、沖縄に近い・・関東と比較」


北海道のアイヌ民族は地理的に近い関東よりも、沖縄の人たちと遺伝的に近いことがDNA解析から証明されたとする研究成果を、東京大学や国立遺伝学研究所などでつくる「日本列島人類集団遺伝学コンソーシアム」がまとめた。

北海道と沖縄では、日本列島に古くから住んでいた縄文人と渡来の弥生人の混血が一部にとどまり、縄文系の人々が残ったとする「二重構造説」を裏付ける成果という。

研究チームはアイヌ民族36人と、3世代以上続く沖縄出身者35人の遺伝情報を詳細に調べた。

DNAのわずか一文字の違いを約60万か所にわたって分析。すでにデータとしてそろっている関東に住む243人と比較し、アイヌ民族は沖縄出身者により近いことを確認した。

こうした傾向はこれまでも示されていたが、データが少なく、結論は出ていなかった。

日本の南北に離れた二つの集団が近い血統だという説は、ドイツ人研究者が顔の特徴などから1911年に発表した。

研究チームの斎藤成也・国立遺伝学研究所教授は「101年を経て、遺伝情報のレベルで最終的に証明できた」と話した。


                     ・・・・・


上にご紹介した新聞記事を読み、「稲作渡来民・「日本人」成立の謎に迫る」という池橋宏氏の本を読んでみました。

                     *****


                   (引用ここから)


稲作渡来民の前に、日本ではどのような言語が話されていたのだろうか。

小泉保は、日本語の古い形を考えるには、日本語と琉球語が、近隣のどの言語より近い関係にあるということが基礎であると考えた。

それに比べると、朝鮮語と日本語では共通の語彙と考えられるものは案外少ない。

アイヌ語と日本語の同系性の証明もむずかしいようである。

さて、東北方言の北側にアイヌ語があり、列島の南には南九州の方言を挟んで琉球語が分布している。

中部、近畿と北九州地域はいろいろの点で共通性があって、北の東北言語と南の方言との間に広がっている。

大局的にみると、中央部に一つの言語が分布し、その両側に古くからの言語が分布している。

この見方から見ると、東北言語がおそらく縄文後期の発音の形を良く保持していると判断される。

また鳥取県西部で話されている「雲伯(うんぱく)方言」は、東北言語と音韻上非常に良く似ている。

小泉氏によると、これらの方言は同系であり、裏日本縄文語とでも呼ばれる言語からきているものと結論している。

それは東北から山陰地方まで連続していたと考えられる。


稲作渡来民たちは、もともと中国の春秋時代から戦国時代に、呉とか越とよばれていた地域の住民であり、不完全な渡航手段によって、小さい集団として朝鮮半島にまで移動して、一部は定着し、さらにその一部は日本列島の北九州あるいは山陰にまで渡ったと考えられる。

渡来民の波が強くおしよせた地域では、縄文人の体質的な特徴はほとんど失われてしまった。

彼らのもたらした農耕は、圧倒的に高い人口増加率を支えたのである。

「倭(わ)」と称された集団が朝鮮半島の南部から九州におよぶ稲作渡来民であっただろうと考察したが、今日その痕跡は言語にはない。

一方、7世紀前後の古代の日本語には、朝鮮語の語彙が多少は入っているとしても、対応のたどれるような言語は少ない。

結局、今日でも日本語は基本的に「縄文語」であるとみてよい。

すなわち言語の基本的な点では、稲作渡来民は日本語に大きな影響を与えなかったのである。
渡来民は縄文語に同化されたのである。


縄文人が近隣のアジアの古代人とは似ていないのと同様に、日本語の系統をアジアの近隣の言語の中に求めることは、今となっては非常にむずかしい。

また、稲作渡来民が日本語の形成に与えた影響については、けっきょくのところ、日本列島で使われている言語は縄文時代から根本的には変化していない。

ただ母音が現在の東北方言に似たものから変わり、無アクセントから、関西方言のようにアクセントに敏感な方言などが分化した。

この後の変化には渡来人の「声調」が影響したとみられる。

さらに日本語は漢語に日本語の読み方(訓)をあてて、その豊富な語彙や概念を導入し、文明を支える言語に発展した。

訓読と並行してカナ文字が生まれた。

それには、4世紀ごろから渡来した人々が、故地で朝鮮語と漢語の対比から経験したことが役立っている。

                 (引用ここまで)

                   *****

新聞記事を読むと、アイヌと沖縄の遺伝的な関係が明らかにされたということです。

縄文文化を築いた人々の子孫は、彼ら2者であるということになります。

一方、上記の本によると、日本語と琉球語はもっともよく似ているが、日本語とアイヌ語に近親性はないということです。

筆者によれば、日本語の北限は東北で、渡来系の影響の強い関西の周辺に、縄文系の影響の強い東北・南九州が残っている、という形になります。

アイヌ文化、沖縄文化、日本文化の理解は、本当に難しいと思いました。
https://blog.goo.ne.jp/blue77341/d/20131101

16. 中川隆[-11837] koaQ7Jey 2019年2月25日 12:36:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[142] 報告


東北と関東の縄文人は系統が別・・DNAを読む 2014-04-30
https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/941b806ea44637d99bde4969c991b1c8

朝日新聞「日曜版」・「日本人の起源」2011・05・01の記事です。

前にご紹介したマレーシアのニア洞窟探訪の記事の続きです。

             ・・・・・

「骨をよむ手がかりはDNA」


マレーシアから東京に戻った私は、国立科学博物館を訪ねた。

篠田謙一の研究室に向かう。

積み重ねられている大きなプラスチックのケースの中味は、江戸時代の人骨だという。


篠田のもとには、全国からさまざまな人骨が集まってくる。

沖縄・石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)の旧石器人。

富山市の小竹貝塚の縄文人。

東京・谷中の徳川家の墓地に埋葬されていた将軍の側室や子どもたち。


「私はよく“骨を読む”と言います。

骨からは、実にたくさんのことがわかる。

形態からは当時の人たちの姿形や生活習慣を、DNAからは彼らのルーツを読み取ることができますから」。

篠田はこのうち、古い人骨のDNAを調べる国内では数少ない研究者だ。

わずかでもDNAが残っていれば、それを手がかりに日本人の起源を探ることができる。

ここ20年ほどで急速に進んだ分野ゆえに、学会に大きな一石を投じることもある。


たとえば、縄文土器などの文化をもつ縄文人について、かつては「南方からやって来たほぼ均質な集団」というのが定説だった。

全国で出土した骨を元に、縄文人の顔つきを探ると、上下に短く幅が広いとか、彫りが深いといった共通の特徴があったからだ。


ところが、縄文人のDNAには別のストーリーが秘められていた。

2006年、篠田や山梨大教授らは北海道の縄文遺跡から出土した54体の骨のミトコンドリアDNAを分析。

その特徴をもとにグループ分けし、関東の縄文人のデータと比べてみた。


北海道の縄文人の6割を占める最大のグループは、関東では見られないものだった。

このグループはサハリンなど、現在の極東ロシアの先住民に目立つ。

2番目と3案目に多いグループも、カムチャッカ半島などの先住民に多い。

東北の縄文人も北海道と似たグループ構成だった。


対照的に関東の縄文人のミトコンドリアDNAを見ると、東南アジアの島々、中央アジア、朝鮮半島に住む現代人の特徴があった。


「北海道・東北と関東では違いが大きく、同じ縄文人とくくるのがためらわれるほどだ」と篠田は言う。

縄文人は「均質な集団」ではなく、日本列島の北と南でルーツが違っていた。

浮かびあがるのは、そんなストーリ―だ。


縄文時代、様々な人々がいろいろなルートで日本列島に入ってきたらしい。

アフリカから東南アジア、そして日本列島へ。

日本人の「祖先」のはるかな旅路の詳細は、骨の形や遺物を調べるだけではなかなか見えてこない。

いま、DNAを手がかりに、「祖先」の足跡が次第に明らかになりつつある。

篠田は言う。「私たちは、どこから来た何者なのか。それを知ることで、自分達がどこへ向かおうとしているかを確かめたい」


                       ・・・・・

{}「トヤマ・ジャストナウ・2014・02・05 小竹貝塚」

富山県文化振興財団 埋蔵文化財調査事務所は、日本海側最大級の貝塚である小竹貝塚(富山市呉羽町北・呉羽昭和町地内)の調査結果を発表した。

出土した人骨は91体。縄文時代前期の人骨が見つかった国内の遺跡の中では最多。

DNA鑑定で、南方系と北方系の異なる起源を持つ人たちが一緒に暮らしていたことがわかった。

多くの遺物によって、縄文人のルーツや生活ぶりを探る、大きな手がかりに!


小竹貝塚(おだけかいづか)は富山県のほぼ中央部、呉羽丘陵と射水平野との接点に位置する。

北陸新幹線建設に先立ち、平成21・22年度に発掘調査が行われ、大規模な貝塚とともに、埋葬人骨や竪穴住居などが出土している。

貝殻のカルシウム成分によって、土壌がアルカリ性を保ち、通常の遺跡では酸性土壌で腐ったり、溶けてなくなったりしてしまうような骨、木器などが残る。

古の人たちの暮らしぶりを伝えるタイムカプセルといってもいいようだ。


小竹貝塚は、約6,750〜5,530年前の縄文時代前期の貝塚で、約1,220年間にわたって形成された。

遺跡範囲は東西約150m、南北約200m。

埋葬人骨(墓域)、貝層(廃棄域)、板敷遺構(生産・加工域)、竪穴住居(居住域)の区域分けがされていた。

貝層では、ヤマトシジミを主とする貝が最大で約2m堆積していた。


墓地として使用されていた貝塚で見つかった人骨は91体と、他に例を見ない数だ。

そのうち、男性は35体、女性は18体で、残りは性別不明だった。

死亡時の年齢をみると、10代後半から20代の若い男性、生まれたばかりの子どもが多く、厳しい生活環境だったことをうかがわせる。

身長を推定できる人骨は男性22体、女性7体あり、男性では165cm以上の、当時としては高身長の人もいれば、154cm前後の低身長の人もいた。

女性の平均身長は、縄文時代後・晩期の平均推定身長と同じ148cmだった。

 国立科学博物館人類研究部が人骨の細胞の中にあるミトコンドリアDNA(遺伝子情報)を分析したところ、小竹縄文人はロシアのバイカル湖周辺や北海道縄文人に多い北方系と、東南アジアから中国南部に見られる南方系の2系統が混在することがわかった。

縄文時代中期以降の系統と遺伝的なつながりを確認することもできた。

一方、渡来系の弥生人や現代の日本人に多い型は見られなかった。

人骨のさらなる研究により、縄文人がどこから来たのか、ルーツ解明が期待される。

小竹貝塚からは、埋葬されたとみられるイヌが21体見つかり、縄文人の墓のそばに丁寧に葬られていた。

狩猟犬、愛玩犬として縄文人と一緒に生活し、丁寧に扱われていたことを示している。

現代のようにペットとしてイヌを可愛がっていたとは驚き。愛犬と仲良く暮らす縄文人の様子が目に浮かんできそうだ。


縄文土器・土製品は約13トン分が出土。

関東地方や近畿地方、東北地方で作られたとみられる土器があり、他地域との交流を物語っている。

石器は約10,000点出土しており、糸魚川周辺で採取されたとみられるヒスイを使った作りかけのペンダントが発見されている。

縄文時代前期のヒスイ製品としては国内で最古級だ。

骨角貝製品(こっかくかいせいひん)では、釣針、刺突具(しとつぐ)、針、装身具など約2,300点が出土。

装身具の中には、九州や伊豆諸島以南でしか採取できないオオツタノハという貝で作られた貝輪1点が見つかった。

太平洋沿岸の縄文遺跡では見つかっているが、日本海側では初めて。

ブレスレットとして、現代人が身に付けてもいいほど、素敵なデザインだ。

縄文時代にすでに釣針や針、ブレスレットやイヤリングが作られていたとは驚き。形も現代のものと大差ない。

タイの歯が象嵌(ぞうがん)された漆製品もあり、縄文人の工芸の技を垣間見ることができる。

当時の女性たちもお洒落をしていたと思うと、親近感も湧いてくる。


富山県文化振興財団 埋蔵文化財調査事務所では、

「小竹貝塚では、南方系と北方系にルーツを持つ人たちが一緒に暮らしていたことがDNA分析から明らかになった。日本海側の真ん中に位置するからだろうか。縄文人を語るうえで欠くことのできない重要な遺跡だ。
また、広範囲の地域との交流を物語る品々が出土した。日本海側の他の地域の遺物と比較し、小竹貝塚の特徴をより調べていきたい」

と話している。


wikipedia「白保竿根田原洞穴遺跡」より

白保竿根田原洞穴遺跡(しらほさおねたばるどうけついせき)は、沖縄県石垣市(八重山列島石垣島)にある旧石器時代から断続的に続く複合遺跡である。

新石垣空港建設前まで、同地はゴルフ場内にあたり盛土されていたため、地下にこのような洞穴があることは、把握されていなかった。

長大な洞穴の洞口が最初に見つかった、白保側(現在の遺跡の場所よりも北側)の小字名がそのまま遺跡名として利用されている現状がある。

白保竿根田原洞穴遺跡は2007年に新石垣空港予定地で見つかった遺跡で、NPO法人沖縄鍾乳洞協会によって、洞穴内から人間の頭、脚、腕などの骨9点が発見された。

このうち、状態のよい6点について同協会、沖縄県立埋蔵文化財センター、 琉球大学、東京大学等の専門家チームが放射性炭素年代測定を行ったところ、

そのうちの1点の20代-30代の男性の頭骨片(左頭頂骨)が約2万年前、他に2点も約1万8千年前及び約1万5千年前のものと確認された。

さらに国立科学博物館が、これらの人骨10点の母系の祖先を知る手掛かりとなるミトコンドリアDNA分析した結果、国内最古の人骨(約2万-1万年前)とされた4点のうち、2点はハプログループM7aと呼ばれる南方系由来のDNAタイプであることが明らかとなった。

これまで、直接測定による日本国内最古の人骨は、静岡県浜北区の根堅洞窟で発見された浜北人の約1万4千年前であった。

なお、人骨そのものではなく、周辺の炭化物などから測定した日本国内最古の人骨は沖縄県那覇市山下町第一洞穴で1968年に発見された山下町洞穴人の約3万2千年前のものである。

https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/941b806ea44637d99bde4969c991b1c8

17. 中川隆[-11270] koaQ7Jey 2019年3月23日 12:17:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[739] 報告

かつて教科書から消えた縄文時代。その理由とは?
2019年03月15日 関裕二(歴史作家)
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/6143?p=1

国指定特別史跡 三内丸山遺跡(青森県青森市)

※本稿は、

関裕二著『「縄文」の新常識を知れば日本の謎が解ける』(PHP新書)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4569842429/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=php6245-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=4569842429&linkId=841bd403c715a8e5fb76f972565e5d5e


より、一部を抜粋編集したものです。


一度、教科書から消えた縄文時代

ゆとり教育のせいだろうか。平成10年(1998)の小学校学習指導要領改訂によって、一度旧石器時代と縄文時代(新石器時代)は教科書から消えてしまった。平成20年(2008)に、ようやく復活したが、それでも教科書の記述はわずかで、一般社団法人日本考古学協会は平成26年(2014)5月に「小学校学習指導要領の改訂に対する声明」を発表して、改善を求めている。

なぜ、縄文時代は教科書からはねられてしまったのだろう。その理由の一つに、「日本人の歴史は大陸や半島から稲作が伝えられて、ようやく発展の糸口を摑んだ」という、漠然とした常識が支配していたからではなかろうか。野蛮で未開な縄文時代を学んでも、何も意味を持たないと、信じられていたからにちがいない。

しかし、縄文時代がわからなければ、日本史や日本人の正体は、わからないままだ。大袈裟に言っているのではない。縄文人が1万年の歳月をかけて作り上げてきた文化と習俗と文明が、「民族の三つ子の魂」となって現代まで継承されている。日本人がなぜ「世界でも稀な文化を形成したのか」といえば、日本列島が東海の孤島で、縄文人が他の世界にはない独自の文化を編み出したからにほかならない。

その後、大陸と半島の混乱によって、多くの人びとがボートピープルとなって海を渡ってきて、渡来系の血が混じり、水田稲作をはじめて人口爆発を起こしていったが、それでも、1万年の縄文の文化と習俗を消し去ることはできなかったのだ。

たとえば日本料理は、「煮る作業」が基本だが、これは縄文文化の名残だ。縄文人は、世界最古級の縄文土器(1万6000年前か?)を利用して、ひたすら食品を煮て食していたのである。

神道は稲作民族の信仰と思われがちだが、縄文時代はおろか、旧石器時代までつながる、長い伝統に根ざしている。

さらに、「日本語」はいったいどこからもたらされたのか、はっきりとわかっていない。

似ている言語が、周辺になく、孤立しているからだ。言語の血縁関係の判定法「規則的音声対応」を用いても、琉球語だけが、日本語とつながるだけだった。

かつて、「現代人が使っている日本語は、弥生時代に渡来人が縄文語を駆逐して、弥生時代に完成した」と考えられていた。縄文時代と弥生時代に、大きな文化の断絶が起きていたという発想だ。「縄文人は大量に海を渡ってきた渡来人に圧倒された」と信じられてきたのである。

しかし、すでに縄文時代に日本語は完成していたのではあるまいか。一度に大量の渡来人がやってこなければ、言語の入れ替わりは起こりえない。少数の渡来が長い年月続き、その都度、渡来人は「日本語を習得していった」と考えざるをえない。

奈良県南部の十津川村とその周辺は、近畿地方に属しながら、なぜか、関東の言語によく似ている(乙種アクセント)。それはなぜかといえば、小泉保は『縄文語の発見』(青土社)の中で、柳田國男が提唱した「方言周圏論」(『蝸牛考』)が有力な武器になると考えた。「カタツムリ」を、近畿では「デデムシ」と呼び、外側の関東や北九州では「マイマイ」、東北や四国西部では「カタツムリ」と呼ぶ。柳田國男は、デデムシ⇒マイマイ⇒カタツムリという順に近畿地方から言葉が広がっていった結果、遠くに行くほど古い言葉が残っていると推理したのだ。つまり、弥生化していく近畿地方の中で、十津川周辺は取り残され、古い言葉が残ったと考えた。また、日本語はすでに縄文時代に完成していて、琉球縄文語は、縄文中期に本土縄文語と分離したと指摘したのである。

ちなみに、出雲の方言が東北地方とよく似ているのも、「方言周圏論」で説明がつくとする説もあるが、岡山県の人びとの口調も、関西弁とはかけ離れ、むしろ関東弁に近い。

次のような指摘もある。

縄文の海人たちは、難所として名高い津軽海峡を普通に往き来して文化圏を形成していた。また、縄文の海人は沖縄から南西諸島を経由して、日本列島との間を行き来していたが、対馬から朝鮮半島へは、交流の頻度が落ちる。それはなぜかというと、航海術が未熟だったからではなく、その当時は、言葉が通じなかったのではないかといい、すでに縄文時代、日本列島では日本語の原型が誕生していたのではないかと推理している(小林達雄『縄文の思考』ちくま新書)。

この発想はおもしろい。その通りかもしれない。その後、次第に朝鮮半島南部と北部九州は、交流を重ねていくのだが、縄文時代の往き来は、比較的少なかった。


戦後史学界を席巻していた唯物史観の弊害

農耕をする以前の狩猟採集の時代が縄文時代とする定義は、すでに戦前になされていた(1930年代)。縄文人は先住民のアイヌ族と考えられてもいた。

すでに大正時代の1910年代ごろから、科学的な研究が進み、土器の編年作業が始まっていたが、縄文は未開社会というイメージは、つきまとった。

この考えから先に進んだのが、山内清男だった。大陸との交渉がほとんどなく、農業を行った痕跡がない時代と、大陸と交渉を持ち農業が一般化した時代に区切り、紀元前2500年に始まる縄文土器の時代(当時はそう考えられていた)とそのあとに続く弥生時代の概念を明確にしたのだ。

ちなみに、新石器時代に入っても農耕を行わなかった縄文人を「高級狩猟民」と、山内は位置づけたのだった。

戦後になると、今度は唯物史観が、史学界を席巻してしまった。物質や経済、生産力という視点で歴史を捉え、「人間社会は段階的に発展し、最後は共産主義に行き着く」という考えで、農耕を行っていなかった縄文時代に対し、負の歴史的評価を下している。生産力は低く、無階級で、無私財であり、停滞の時代とみなした。採集生活には限界があり、呪術と因習も、弥生時代に大陸から新技術が導入されることによって、払拭されたと考える。歴史的発展は余剰と階級の差が生まれる農耕社会によってもたらされると、考えられていたのだ。

もし仮に、縄文時代を通じて、徐々に社会が発展し、成熟していったとしても、自然の再生産まかせで、これを越えることができないのだから、縄文社会には限界があり、後期から晩期にかけて呪術や祭祀が盛んになるのは、限界と矛盾の現れと、みなされた。入れ墨や抜歯の風習も、縄文社会停滞のシンボルと判断されてしまったのだ。そして、稲作技術が伝わり、ようやく、発展のチャンスを得たというわけである。

たしかに、縄文人は都市に暮らしていたわけではないし、国を形成していたわけでもない。のちの時代のような、階級社会が生まれていたわけでもない。文字もなかった。

そして、狩猟採集をして、獲物を獲得する生活では、歴史発展が進まなかったと信じられていたし、本格的に農業をはじめる「生産経済」になって、ようやく歴史は動き始めたと信じられていたのだ。教科書から縄文時代が消えてしまった理由も、ここにある。


「縄文」の新常識を知れば日本の謎が解ける


縄文時代に対する見方が変わってきた

つい二十数年前のこと。縄文時代を礼讃し、縄文文化は日本固有だと称えれば、「夜郎自大なヤツ」とけなされ、へたすれば、「縄文右翼」と揶揄されたものだ(事実、そう言われたことがある)。

「何もかもが渡来人の仕業」と考えることが最先端、という風潮があったのだ。渡来系の人びとから、先進の文物をもらい受け、海外の文化を猿まねすることで、日本は成り立っていたという。

縄文時代の野蛮で未開な日本列島に、朝鮮半島から新たな文物がもたらされたことで、発展のチャンスがやってきた……。これが、常識のようになっていた。

しかし、ようやく人類は直線的、段階的に進歩していくという唯物史観の呪縛から解き放たれようとしている。

たとえば谷口康浩は、次のように述べている。

狩猟採集社会と農耕社会という段階区分が絶対的な指標になりすぎているために、時代区分や通史が膠着し、過去との自由な対話が閉ざされてしまったような閉塞感がある(『縄文時代の考古学1 縄文文化の輪郭』小杉康・谷口康浩・西田泰民・水ノ江和同・矢野健一編 同成社)

縄文時代を見直すという作業は、歴史の連続性を再確認することでもあると思う。狩猟社会が農耕社会に移行し発展していったというこれまでの常識を、疑ってかかる必要があるということだ。

物質と経済に重きを置いた唯物史観は、縄文人を「原始的な社会」と指摘し、これが大きな影響力を持ってしまったのだ。

しかし、イデオロギーや理屈に歴史を当てはめていくという発想そのものが間違っていたのだ。幸い、考古学の物証の積み重ねによって、新たな発想や仮説が次々と飛び出すようになった。そしていよいよ、事実が思想(思い込み)を凌駕するに至ったのである。

1980年ごろからあと、縄文時代に対する見方が変わってきた。縄文人の「高度な資源利用技術や管理技術(特に、植物の利用法)」が判明してきて、彼らがただの狩猟民族ではなかったことが次第に明らかになってきたのだ。

たとえばクリなどの植物の栽培やイノシシの飼育を行っていたことがわかってきた。建築材に使われる木材は耐久性に優れたクリの木が多く、しかもその使用量が「自然に生えている木を切ってきた」レベルではなく、またクリの成長が、自然木よりも速かった。

縄文時代前期後葉に縄文人は集落を構成するようになったが、花粉分析によって、ちょうどこのころから、ナラ類やブナなどの落葉広葉樹が減り、クリが急速に増えていったこともわかっている。クリの自生する北限の北海道でも、縄文前期後葉にクリが増えていく。人が手を加えて、クリを増やしていったと推理されていた。この仮説はのちに、三内丸山遺跡(青森県青森市)が発見されて、証明されていくのだが……。

ちなみに、鉄道の防風林にクリが多く用いられたが、クリの木は固く丈夫なので、鉄道の枕木に使われ、一石二鳥の働きをしていた(それはともかく)。

縄文時代後期から晩期にかけて、すでにイネ(陸稲)や雑穀が栽培されていたことがわかってきた。イネや雑穀の原生種は存在しない(イヌビエは例外)から、朝鮮半島や大陸から、タネがもたらされたのだろう(当然だ)。


近代日本人が縄文人を野蛮視した

あらかじめお断りしておくが、日本列島にかつて、「縄文人」という単独の民族が存在したわけではない。すでに述べたように、旧石器時代に多くの人びとが色々な場所から日本列島に流れ込み、縄文時代にも、さまざまな人びとが日本列島にやってきた。そしてその後1万年以上の間、日本列島の中で融合し、地域ごとに異なる面も合わせ持ちながらも、ほぼ共通する文化を熟成させていった。われわれはその日本列島内で、おそらく共通の言語を語り(方言もあっただろう)、よく似た土器を使っていた。この1万年の歴史を積み重ねていた人たちを、暫定的に「縄文人」と呼んでいるに過ぎない。

ただし、強調しておきたいのは、日本列島が東海の孤島だったこと、大挙してこの島国を席巻するような勢力が到来することはなかっただろうこと、縄文人(列島人)が1万年という年月をかけて、他の世界にはなかった独自の文化と信仰を育んでいったことなのだ。そして、だからこそ、縄文時代の生活や習慣が継承され、縄文の精神が日本人の三つ子の魂になったのであって、1万年という時間こそ、日本人の揺籃期になったと思うのである。

そこでいよいよ、縄文人を、掘り下げていこう。

縄文時代が始まった時期に関して、長い間紀元前4〜5000年と考えられてきたが、炭素14年代法(放射性炭素C14の半減期が約5700年という性格を利用して遺物の実年代を測る方法)の出現で、一気に1万3000年前にさかのぼるようになった。さらに、炭素14年代法も、放射性炭素が、一定に減っていくわけではなく、微妙に誤差を修正する必要がある。そこで、修正してみると、縄文時代の始まりの「較正年代」は、1万6000年前ではないかと、考えられるようになった(青森県の大平山元T遺跡から出土した無文土器片から割り出された)。氷河時代が終わって、温暖な気候がめぐってきて、縄文文化も花開いたのだ。そして、縄文土器も、世界的にみて、最古級の土器と考えられるようになった。世界最古の可能性もある。ただし、やはり最古級の土器がみつかるシベリアや沿海州の発掘が遅れているために、さらに古い土器が出土する可能性がある。

また、縄文時代の終焉(弥生時代のはじまり)の時期に関しても、大きく見方が変わってきた。紀元前300年と考えられていた時代もあったが、次第に古くなり、やはり炭素14年代法によって、今では、紀元前10世紀後半の可能性が高くなってきた。この結果、「北部九州に渡来人が稲作をもたらし、一気に日本列島を稲作文化が席巻した」というかつての常識は、通用しなくなった。北部九州から、徐々に東に稲作文化は伝えられていったと修正されているのだ。

縄文の年代観だけでなく、縄文文化に関しても、見方は変わってきている。かつて縄文人といえば、狩猟採集に明け暮れ、移動生活をしていた野蛮人とみなされていた。縄文時代は、原始時代と同意語だったのだから、隔世の感がある。

平成6年(1994)に青森県青森市で三内丸山遺跡が発見されたころから、縄文見直し論が徐々に高まってきたが、それ以前、地方の「実際に遺跡を発掘している考古学者」たちは、縄文の実力を、すでに高く評価していた。資料館などでお話を伺うと、「すべて渡来人の仕業と考えることはできない」と、しきりに訴えられ、また、「縄文の習俗は消えたわけではない」と、口々におっしゃっていた。特に、渡来系の影響を強く受けたと思われる日本海側の北部九州や山陰地方の考古学者たちは、古い史学者や歴史愛好家が、「なんでもかんでも渡来人の影響」と信じる傾向にあったことを嘆かれていた。その苦々しい表情を、よく覚えている。

18. 中川隆[-11269] koaQ7Jey 2019年3月23日 12:18:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[740] 報告

縄文時代、人は何を考え、何を築いてきたか

「縄文時代、人は何を考え、何を築いてきたか」第5回〜クリが縄文人を作った、縄文人がクリを作った
http://web.joumon.jp.net/blog/2019/03/3438.html

クリと縄文社会は密接に繋がっている。

縄文中期の巨大集落、三内丸山ではくりの栽培が盛んに行われていた事は有名な話だ。今回はこのクリをテーマにどのようにクリと縄文人が繋がり相互に繁栄したかを追いかけていきたい。

今回も「縄文探検隊の記録」からの紹介ですが、少し方法を変えて、本文はこちらで書き、それを示す記事を間に入れていきます。>は著書からの抜粋です。

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クリの歴史】
クリは日本列島に1億年くらい前からずっとある植物。白亜紀の地層からクリの化石が出てきている。1億年は恐竜が闊歩していた時期で非常に長い歴史を持つ植物である。最終氷河期の終わりごろから温暖化と時期を重ねて爆発的に増えていく。
クリの利用は1万3800年頃が一番古く、1万2千年前には建物の基礎として杭の代わりに使われた。
材で利用されたのが早いかと言うとそうでもない。食用利用も1万2700年前には福井県鳥浜で確認されており、食と材、ほぼ同時期に利用が始まった事が推察される。

>クリはひょっとして、縄文人の暮らしの中でかなり重要な位置を占めていた植物ではないかと考えられるようになったのは、考古学植物学の有効性がわかりだしてからですね。

栽培に向い始めたのはいつからだろうか?】
一番古いクリの木が出る1万2000年前頃から花粉が増え、9000年前頃にどっと増える。それをどう解釈するか。気候の急激な変化に伴ってクリが一気に増えたのか、それとも定住を始めた人間が意図的に増やしたのかが焦点になる。

>植生というのはきっかけがあると変わっていくものです。最初はシイやブナのような大きな木を中心とする生態系ができて安定した状態にはなりますが、シイやブナはずっと主役ではいられない。何かアクシデントがあれば、たとえば山火事や土砂崩れのようなことが起きると、森という劇場の配役はリセットされてしまうのです。そうしたところにいち早く生える先駆主がアカマツやクリなのです。しかし、シイのような巨木になる木がまた生え始め,陰を作るようになると退場を余儀なくされます。つまり、クリは植生の遷移の中で一時的に登場する木であって、自然の森の中では永遠の主役ではないのです。
>私達の説では地球が急激に温暖化したことでクリの木も勢いづいた。それが鳥浜の縄文人の暮らしを形成した。
>狩猟採採集生活といっても、縄文時代はそこら辺が大きく違います。数世帯が必要なものを周りからかき集め、永続的に活動できるセンターを作っていた。そういう定住生活、センターを縄文の「むら」と呼んでいるのです。
>クリは人間との出会いによって繁栄のチャンスを得たといってもようように思う。
>本来クリは植生の遷移の中で消えていく木なのです。人間が森を壊したら、日当たりを好み、おいしい実のなるクリが偶々増え始めた。管理の第2段階は栽培。もっと実がたくさんほしい、もっとたくさんの木材が欲しい、その為にはクリの生長を妨げる他の木を排除する。或いは実を土に埋めて発芽させ、苗にして植える。問題は栽培はいつの時点から始まったと言えるか。私は縄文草創期から既に始まっていたと考えています。

>徐々にクリの有用性を知っていったのではなく、出合った最初から秘めている価値に気づき、すぐに栽培を試みたと考えます。彼らは定住を選択する前から自然環境の仕組みというものを熟知していた、生まれながらの観察者です。どういうふうにすれば自然は都合よく利用できるかということをわかっていたと思うのです。森を切り拓いてむらを作り始めた段階で、既にクリの有用性に気づいたと考えます。
>クリの栽培は定住の為の開発と同時期に始まった。
>大雑把な例えですが、人類の歴史を400万年とすれば、そのうちの399万年は遊動生活です。最後の1万年前から始まった定住生活は、人類の生き方の枠組そのものを完全に変えた。まさに大革命だったのです。

クリの有用性】

建材、木材としてのクリのメリット)
・成長が早い事(同じ太さを得る為にクリはスギやヒノキの約倍のスピードで生育する)
・加工のしやすさ。特に生木の時はとても細工がしやすい。石斧でも伐採しやすい、割り加工もしやすい。割裂性が非常によくてまっすぐ切れるのもクリ。
・湿気に強い事。防腐効果のあるタンニンをたくさん含んでおり、シロアリや腐朽菌におかされにくい。三内丸山の6本柱がクリでできている為、土中にあれだけの年月残ることができた。
上記に加えておいしい実もたくさんつける。縄文人にとってのクリはまさにスーパーツリーであった。

クリの木がどれほど使われていたか】

>文化財センターの研究によると、南関東の縄文遺跡では建材の8割がクリで、炉の燃え残りの炭も4割がクリだった。
>三内丸山で得られたデーターを見るとそれこそ「そこら中にクリが生えていた」

クリと縄文人の関係】
縄文人はクリをどのように扱い、この木に対する思いはどうだったのか?
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>三内丸山の巨大な柱(直径1m)から見て、統合のシンボルだったのだと思います。ひょっとするとそれぞれの集落の巨大なクリの木をここに集めたのかもしれない。
>自分達を見守ってくれる存在、クリの木が生きているうちからトーテムと位置付けていた可能性もあります。かなりの共通認識がないとあれだけの巨大なものは作れない。
>クリの木は縄文時代に津軽海峡を渡り、北海道に持ち込まれている。当時の人たちが舟で運んで移植した可能性がある。
>最終氷河期には南日本の海岸部にわずかしかなかったクリが温暖化が始まると爆発的に分布が広がった。縄文人がその分布の拡大を後押しした可能性がある。
>人とクリは出会うべくして出合った。人間活動の広がりに伴いクリの分布も広がった。
>つまり里山の起源ですね
>縄文人との共生的な関係を結んだ事によって、クリが拡散に成功したことは間違いありません。
>クリが神のような位置付けにあった可能性もあります。
>縄文人は家を解体するときに抜いた柱の穴の中に焼いたクリの実を入れています。つまり儀式です。トチの実の場合もありますが、クリが一番多い。今も神せん(供物)にクリは、はいっています。
>正月の栗きんとんもその名残か、日本人とクリの関係は今も神聖な繋がりがあるのです。
http://web.joumon.jp.net/blog/2019/03/3438.html

19. 中川隆[-10901] koaQ7Jey 2019年4月05日 20:53:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1127] 報告

縄文人の多様性と特殊性−篠田謙一氏講演「日本人の起源」レポート 2017-12-21
https://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2017nendo/20171215/


12月8日(金)、本学第14講義室で、DNA分析による日本人起源論の第一人者、篠田謙一氏(国立科学博物館・分子人類学)の講演会「ここまでわかった! 日本人の起源」がおこなわれました。講演の前座として、主催側の浅川滋男教授(本学環境学部・建築考古学)も「古墳時代前期の大型倉庫群−松原田中遺跡の布掘掘形と地中梁から」と題するミニ講演をされました。広報期間が2週間弱と短いなか、学内外から約50名の聴衆が集まり、最新の人類学・考古学の成果に耳を傾けられました。

ここまでわかった! 日本人の起源

日本人の起源論については、埴原和郎氏による「二重構造説」がよく知られています。縄文時代の日本列島にひろく拡散していた古モンゴロイドと、主として弥生時代以降に朝鮮半島から渡来した新モンゴロイドの混血として現代日本人を理解する考え方です。こうした二重構造説は人骨を対象とする形質人類学の研究によって導かれましたが、篠田氏はミトコンドリアDNAの系統解析をもとに新たな成果と視点を続々と呈示されています。講演の構成は以下のとおりです。

1.はじめに  2.日本人の起源  3.ミトコンドリアDNAの系統
4.ミトコンドリアDNAから見た日本人  5.縄文人のミトコンドリアDNA
6.縄文人と弥生人のゲノム解析

【講演要旨】 日本人の有するミトコンドリアDNAのハプログループは、朝鮮半島や中国東北部の集団と共通している。これらは弥生人にも共有されていることから、現代日本人のもつ多くのハプログループは、弥生開始期以降に稲作農耕とともに列島にもたらされたと推測できる。ミトコンドリアDNAの分析結果は埴原氏の「二重構造説」を概ね支持する結果となったが、北海道の先住集団であるアイヌは沿海州の先住民と共通のDNAをもっていることも判明しており、沖縄や北海道を本土日本の周辺地域としてみるのではなく、それぞれを独自の成立史をもつ地域として捉える複眼的な視座が求められている。一方、縄文人の系統には地域差があることがわかってきている。とくにミトコンドリアDNAのM7a系統では地域差が顕著であり、均一な縄文人像は見直す必要がある。2010年以降、古人骨に含まれる核のDNAの分析も可能になっており、そのゲノム解析から、縄文人は現代の東アジア人と大きく異なっていることが明らかとなったが、その特殊性については未だ定説がない。この問題を解決するためには、縄文相当期の東アジアの古人骨を調べるとともに、一万年以上続いた縄文時代の各地の人骨から得られたゲノムを丹念に解析していく必要がある。

オホーツク文化とアイヌ、ニブヒの関係

以上の講演に対して、青谷上寺地遺跡出土人骨から採取したサンプルの位置づけの予想やDNAサンプル採取方法について質問がありました。最後に浅川教授から「北海道アイヌの文化は擦文文化(蝦夷 えみし?)とオホーツク文化(粛慎 みしはせ?)の融合として成立したと考えられるが、その一方で、オホーツク文化の担い手をニブヒ(別名ギリヤーク:アムール下流域・樺太に分布する古アジア系民族)の祖先として理解する説があるけれども、人類学的にはどう理解されているか」という質問がありました。篠田氏はニブヒ、コリヤーク、チュクチなど極北の古アジア系民族は遊牧エヴェンキ(新モンゴロイド系)に攪乱され、さらにロシア化も進んでいるため、残念ながら、現状では固有のDNAを抽出しにくいと答えられました。
https://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2017nendo/20171215/

20. 中川隆[-10517] koaQ7Jey 2019年5月13日 20:14:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1770] 報告

縄文人の遺伝子は肉食向き ゲノム解析で狩猟生活裏付け 2019.5.13
https://www.sankei.com/life/news/190513/lif1905130030-n1.html


ゲノム解析に基づき復元された縄文女性の顔の像



 縄文人は現代の日本人と比べ肉や魚を消化しやすい遺伝子を持ち、遺伝的な多様性は低いことがゲノム(全遺伝情報)の解析で分かった。国立科学博物館などの研究チームが13日、発表した。縄文人が狩猟や漁労を中心に小集団で生活していたことが遺伝情報からも裏付けられた。

 チームは北海道・礼文島の船泊遺跡で出土した3500〜3800年前の縄文女性の歯から採取したDNAを分析。その結果、肉など高脂肪食の消化を効率的に助けるタンパク質を作るよう遺伝子が変異していることが分かった。アザラシなど肉食が中心の北極圏のエスキモーに多くみられる現象で、現代の日本人にはみられないという。

 また、ゲノムの多様性が低い状態が旧石器時代から約5万年にわたり続いていたことも判明。小集団で生活していたことを示すもので、獲物を求め移動を繰り返す縄文人の生活を反映しているらしい。

 このほか日本人全体ではゲノムの10%、アイヌ民族ではゲノムの70%が縄文人に由来することが分かった。また、縄文人は1万8000年〜3万8000年前に大陸民族から遺伝的に分かれたことも判明した。

 国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長は「縄文人の特性がかなり分かってきた。今後は日本人の成り立ちとの関わりも解き明かしたい」と話している。

 この縄文女性は40〜50歳代で身長140センチ台、瞳は茶色で毛髪が細く縮れアルコールに強かったことなどが既に判明している。チームは昨年、顔の像を復元し、さらに詳しく調べていた。
https://www.sankei.com/life/news/190513/lif1905130030-n1.html

21. 中川隆[-10516] koaQ7Jey 2019年5月13日 20:15:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1771] 報告

縄文人ゲノムを高精度解析=「酒に強い」特徴も−国立科博など 2019年05月13日
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019051300887

遺伝情報から復元された縄文時代後期の女性の顔(国立科学博物館提供)


 国立科学博物館などの研究チームは13日、北海道・礼文島の船泊遺跡から発掘された約3500〜3800年前の縄文時代後期の女性人骨から全遺伝子情報(ゲノム)を高精度に解析したと発表した。論文は近く、日本人類学会の英文誌に掲載される。

 国立科博の神沢秀明研究員、国立遺伝学研究所の斎藤成也教授らのチームは船泊遺跡で見つかった女性人骨の大臼歯からDNAを採取。保存状態がよく、現代人とほぼ同じ精度でゲノムを解析することができた。


北海道・礼文島の船泊遺跡から発掘された縄文時代後期(約3500〜3800年前)の女性人骨(国立科学博物館提供)

 解析の結果、縄文人の祖先は約1万8000〜3万8000年前に、中国大陸に住む現在の漢民族との共通祖先と分岐したと推定。ロシア極東部から朝鮮半島、台湾の先住民など東アジアの沿岸部の集団と遺伝的に近く、比較的少ない人口集団で狩猟採集生活を続けていたことも分かった。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019051300887

22. 中川隆[-10515] koaQ7Jey 2019年5月13日 20:22:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1772] 報告

縄文人の起源、2〜4万年前か 国立科学博物館がゲノム解析 2019/5/13
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44722870T10C19A5CR8000/

国立科学博物館の神沢秀明研究員らは13日、縄文人の全ゲノム(遺伝情報)を解析し、縄文人が大陸の集団からわかれた時期が今から約2万〜4万年前とみられることがわかったと発表した。日本人の祖先がどこから来たのかといった謎に迫る貴重なデータとなる。詳細を5月末にも学術誌で発表する。

国立遺伝学研究所や東京大学などと共同で、礼文島(北海道)の船泊遺跡で発掘された縄文人女性の人骨の歯からDNAを取り出して解析した。最先端の解析装置を使い、現代人のゲノム解析と同じ精度でDNA上の配列を特定した。

特定した配列を東アジアで現在暮らす人々の配列と比べた結果、縄文人の祖先となる集団が東アジアの大陸に残った集団からわかれた時期が約3万8000年前から1万8000年前であることがわかった。

縄文人は日本列島に約1万6000年前から3000年前まで暮らしていたと考えられている。3000年前以降は大陸から新たに弥生人が渡来し、日本列島に住む人々の多くで縄文人と弥生人以降のゲノムが交わったことがこれまで知られていた。

今回の解析では、国内の地域ごとに縄文人から現代人に受け継がれたゲノムの割合が大きく異なることもわかった。

東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。

ゲノム情報からは船泊遺跡で発掘された女性がアルコールに強い体質であったことや、脂肪を代謝しにくくなる遺伝子の変異を持っていたことなどもわかった。現代人の様々な疾患について、今回の縄文人のゲノムから説明できる可能性があるという。

古代の人類のゲノムを解析する試みは欧米を中心にネアンデルタール人などで進んできた。縄文人の全ゲノムが読まれたことで、アフリカで生まれた人類集団がどのように東アジアの各地に広がったか研究の進展が期待される。

今後、研究チームはさらにデータの解析を進める。配列を公開して海外の研究機関との共同研究も検討していく。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44722870T10C19A5CR8000/

23. 中川隆[-10514] koaQ7Jey 2019年5月13日 20:41:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1773] 報告

古代人研究も「パーソナルゲノム」の時代に
縄文人だって弥生人だって個人の遺伝情報が求められている
米山正寛 朝日新聞記者(科学医療部)2019年03月06日
https://webronza.asahi.com/science/articles/2019030100003.html


 ヒトのゲノム(全遺伝情報)を詳しく調べようと、情報のもととなる細胞内のDNAの配列を明らかにしてきたヒトゲノム解読。かつてのように代表的な一例を把握して応用を広げる時代から、一人ひとりのDNA配列を明らかにして役立てるとともに、集積したデータを活用しようという「パーソナルゲノム」の時代を迎えている。ヒト1人が持つゲノム(約30億塩基対)の解読を目指して1990年に始まったヒトゲノム解読プロジェクトでは、約30億ドル(約3300億円)もの巨額が投じられた。それが今では、1人の解読コストは1000ドル(約11万円)にまで下がり、いずれは100ドルにも近づく勢いだ。こうした加速度的な技術革新と価格破壊によって、パーソナルゲノムを解読する流れは、体質のチェックから病気の治療へと医学的に役立てられ始めたのはもちろんのこと、古い遺跡から出土した古人骨の調査研究にも波及している。

現代人に伝わっていたネアンデルタール人のDNA

 古人骨のDNA配列を読む取り組みは1980年代の終わりごろから、細胞内小器官であるミトコンドリアに含まれるDNAを対象に始まった。だが、大量の遺伝情報を蓄積する核のDNAを抽出しての解読は、その情報量の多さなどが災いして、なかなか進まなかった。それでも2010年になって、ドイツのグループがネアンデルタール人での解読成功を発表し、その遺伝情報の一部が交雑を通してアフリカ大陸以外の現代人に伝わっていることを報告して話題になるなど、徐々に成果は積み上げられてきた。

 

拡大遺伝子が関与する特徴を考慮した縄文人女性の復顔像(左)。右は、もととなるDNA解析をした北海道礼文島の船泊遺跡から出土した23号人骨の頭骨=国立科学博物館で2018年に開かれた特別展「人体」における展示
国内の古人骨を対象とした研究では2016年に、国立遺伝学研究所(遺伝研)や国立科学博物館(科博)、東京大学などのチームが、福島県新地町の三貫地遺跡の縄文人で初めて核DNAの一部を解読したと報告。その後、すでに10体を超す縄文人で解読が進み、DNAの保存状態が良かった例では現代人と同等レベルまで解読が進んだ。そのデータをもとに髪や肌など遺伝子が関与する外観的な特徴をつきとめ、古人骨の復顔に生かす試みもなされている。解読の対象は弥生人にも広がり、その手始めとして選ばれたのは、福岡県那珂川市にある弥生時代中期の安徳台遺跡から出土した5号人骨。顔が面長でのっぺりしているといった特徴から渡来系弥生人と考えられたこの人骨では、DNAが持つ情報の約40%まで解読できたそうだ。

アジアの中の特異な存在だった縄文人

 日本人のルーツを探る上で、これまでも注目されてきた縄文人と弥生人。縄文人は彫りが深い顔つきで背は低め、弥生人はのっぺりした顔つきで背は高めといった身体的な特徴を持つと言われる。そして、稲作や金属器が大陸から伝えられた弥生時代には、それをもたらした弥生人が渡来し、日本列島の先住民だった縄文人との混血によって、その後の日本人が形成されていったという「二重構造説」が、長く有力視されてきた。

 科博の篠田謙一副館長(人類研究部長)たちはヒトのDNAに含まれる1塩基の違いに関する情報をもとに、主成分分析という統計手法でアジアにおける人類集団の類似性を図式化している。図の中の位置が近ければ、それらの集団は互いによく似ていることを意味する。欧米の研究でも使われており、人類集団を比べる上では、標準的に用いられるようになってきた手法だそうだ。

拡大主成分分析の結果を示した図。東南アジアから東アジアの現代人集団に、縄文人や弥生人などのゲノムデータを投影したもの=篠田謙一さん提供
https://webronza.asahi.com/photo/photo.html?photo=/S2010/upload/2019030100003_6.jpg

 科博で現在開催中(3月24日まで)の企画展「砂丘に眠る弥生人 山口県土井ヶ浜遺跡の半世紀」の会場でもこうした図が紹介されており、それを見ると、中国やベトナムなど大陸のアジア人集団から少し離れたところに現代の日本人が位置している。そして複数の古人骨からデータが集められてきた縄文人は、さらに離れた位置にある。縄文人は現代のアジア人と比較すると、遺伝的にかなり特異な存在だったことが分かる。

拡大渡来系弥生人としてDNA解析の対象となった安徳台遺跡5号人骨=国立科学博物館の企画展「砂丘に眠る弥生人」の展示

 次に、安徳台遺跡の人骨(渡来系弥生)に、目を向けてみよう。縄文人と弥生人の混血によって現代日本人が形成されたという考えに従って、当初は韓国人や中国人など大陸系の人々と日本人との間に来るものと予想された。しかし結果は

https://webronza.asahi.com/science/articles/2019030100003.html

24. 中川隆[-10513] koaQ7Jey 2019年5月13日 20:44:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1774] 報告
人類史「ゲノムでわかる時代に」
縄文人の姿遺伝子で再現 2018/12/14
https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/feature/CO036740/20181221-OYTAT50007/

 年間企画「平成時代〜DNAの30年」最終部となる第4部は、遺伝子研究で活躍する各分野の専門家にその最前線や将来像などを聞く。初回は、古代人の骨に残されたDNAから人類史を解き明かす神澤秀明・国立科学博物館人類研究部研究員(33)だ。

「船泊のDNA解析がうまくいったのは、根気と『骨運』が良かったおかげ」と話す神澤さん(茨城県つくば市で)「船泊のDNA解析がうまくいったのは、根気と『骨運』が良かったおかげ」と話す神澤さん(茨城県つくば市で)


 東京・上野の国立科学博物館で、今年3月に公開された約3800年前の縄文人女性の顔(粘土像)は、少し風変わりだった。

 茶色い目。シミの目立つ、濃い色の肌。細く縮れた髪の毛。まるで見てきたようなこれらの特徴はすべて、昨年解読された縄文人女性の遺伝子データを基にした、国内初の復顔だった。

 「血液型はA型で、耳あかは湿り気があり、もしお酒があるなら強い女性だった。ここまで突き止められたことには自分も驚いた」

 女性は1998年、日本列島の北端にある礼文れぶん島(北海道礼文町)の船泊ふなどまり遺跡で骨が発掘された。骨の形などから高齢の女性とまでは推定され、その後は札幌医科大で長く保管されていた。


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 2000年代後半、遺伝子を高速で読み取る装置「次世代シーケンサー」が普及し、ごく微量のDNAも解析可能になった。ただDNAは歳月を経ると分解するため、古代人の骨から採れる保証はない。

 「特に日本のような高温多湿な環境では分解しやすい。船泊は日本列島にある遺跡の中で最も寒く、DNAが残りやすいと目を付けた」。3年前に研究に着手。下あごの骨から抜いた臼歯の中を丁寧に削った試料を使って、試行錯誤を重ねながら解析した。

 その結果、現代人とほぼ同じ高い精度で、全遺伝情報(ゲノム)の99%を解読することに成功した。世界でもトップクラスの成果だ。

 この女性に特有の遺伝子の変異を調べると、脂肪をあまり代謝しない体質とわかった。現代では脂肪からエネルギーを採れないと低血糖などの病気になりかねない体質だが、脂肪が多いアシカなどを狩猟していた船泊の縄文人は、極端な高脂肪食でも健康を保てるように適応した可能性が高いという。

 「これまで想像するしかなかった祖先の本来の姿に加えて、どのような能力を持ち、どのような生活を送っていたのかまで、ゲノムでわかる時代になった」


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 生物の高校教師を目指して大学に進んだ。4年生だった08年、古代人のDNA解析を紹介する1冊の入門書に出会う。

 「日本人の起源を自分で解明できたら面白い。人類の歴史にDNAから切り込める可能性に、魅力を感じた」。大学院に進み、古代のDNA解析が先行する海外の論文を読んで手法を学びながら技量を磨いた。

 DNA解析の進歩で、何人ぐらいの集団で暮らしていたのか、どこの地域から渡ってきたのかもわかるようになったという。だが大陸から離れた列島に暮らす日本人のルーツにたどり着くには、日本に残っているDNAだけでは不十分だ。

 「東アジアに広げて解析すれば、稲作などの文化がどのように伝わってきたのかも見えるだろう」。古代史の扉を開く夢は、まだ始まったばかりだ。


 ◇古代人解析から新種発見


 古代人のDNA解析は、2010年に目覚ましい成果が相次いだ。ドイツなどの研究チームは絶滅した旧人・ネアンデルタール人のDNA情報を公開し、現生人類と混血していることを示した。アフリカから6万年前には移動を始めたとされる我々の祖先との間に、子どもを作っていたことになる。

 南シベリアのデニソワ洞穴で見つかった3万〜5万年前の指などの骨は、新種の旧人と判明。全身骨格はなく、DNA解析で“発見”された初の人類で「デニソワ人」と命名された。現在のパプアニューギニアなどに住む人にDNAの一部が残っており、東アジア全体で暮らしていたらしい。

 日本でも三貫地さんがんじ貝塚(福島県)、伊川津いかわづ貝塚(愛知県)などから出た縄文人の骨の解析が進んでいる。


 ◇言語に関わる発見楽しみ


 アフリカで誕生したとされる人類は猿人、原人、旧人を経て現生人類(新人)になったと、学校で習った記憶がある。現生人類以外の人類は絶滅したが、DNA解析で判明した旧人と現生人類との混血は、現生人類の進化が複雑だったことを示している。絶滅した古代人類の能力を、私たちはDNAを通じて手に入れた可能性もある。

 言語の習得に必要とされる遺伝子のルーツが解明されれば、人類がいつどこで言語を獲得したのか、わかるかもしれないという。どんな新発見が広がるか、楽しみだ。(冬木晶)
https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/feature/CO036740/20181221-OYTAT50007/

25. 中川隆[-10512] koaQ7Jey 2019年5月13日 20:47:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1775] 報告
2018年10月20日
縄文人はどんな言葉を話していたか? 〜縄文語と出雲方言〜
https://readyfor.jp/projects/izumo17990/announcements/87610


 日本語のルーツに関しては、アルタイ語(蒙古語・満州語・朝鮮語・トルコ語などが属するらしい)と似ていると言われているが、どうも、未だ答えがでてなくて、日本語は、世界の言語の中でも特異の存在(日本語が属する言語が世界にない)で、日本列島で長い間に形成された独特の特色を有しているようだ。

 1998年5月に出版された言語学者故小泉保氏が「縄文語の発見」(青土社)が、縄文語について詳細な研究をまとめられている。

 日本語は弥生時代を起源とするとの主流の学説に対し、「はたして、縄文時代の言語は弥生時代の言語に駆逐され、消滅させられてしまったのであろうか。六百年足らずの弥生期に弥生語は縄文語に完全に入れ替わったのであろうか。こうした弥生期における言語交替の証拠はどこにもない。」として、「出雲方言に東北方言と音韻の類似する面がある」ことに言及し、この裏日本的な音韻は、縄文語(裏日本縄文語)を受け継ぐものであるとされる。

 つまり、出雲方言は、恥ずかしいズーズー弁ではなく、縄文語を正当に受け継いでいる縄文語本流の言語であるということである。

 このことは、今回、関東在住の出雲出身者及び出雲在住の出雲人のDNA解析の結果、出雲人のDNAと東北人のDNAとが非常に近い位置にあるという驚くべき結果からも裏付けられる。

 そもそも、出雲と東北とは日本海の海のルートにより、縄文時代から交流があったことは考古学上明らかになっている。縄文時代に交流があったということは、共通の縄文語(方言の違いはあるにしろ)が話されていたことは誰が考えても否定できないことである。

 しかも、縄文後期から弥生時代。古墳時代にかけて、日本列島への渡来人の到来があったが、彼らは征服者としてやってきたのではなく、大陸から様々な理由で新たな新天地を求めてきた人々であり、最新のDNA研究の結果、ある時点を境に縄文人と弥生人が突然日本列島で入れ替わったのではなく、長い時と時間をかけて先住の縄文人と新天地を求めてきた大陸からの渡来人との混血・縄文系弥生人と渡来人との混血を繰り返しながら(その過程は、単純なものではなく複雑なものであることが最新のDNA研究から想定される。)、現在生きるヤマト人が形作られてきたことが、分かってきている。

 他方、渡来人は渡来する前の大陸の本籍(初期の渡来民は大陸沿岸の海洋民族系か?)では中国語系統の言語を話していたと推測されるが、日本に渡来した後、中国語系統の言語を保持した状況証拠も見当たらない。

 そうすると、大陸からの渡来人は、在来の縄文人が話していた言葉を学び、縄文人と渡来人の混血した弥生人は縄文語を承継しながら弥生語を形成し、現在の日本語に繋がっていったと考えるのが素直である。

 そうである以上、今、我々日本人が使っている日本語に縄文語の流れをくむものがあって、当然であり、自ずと出雲方言が脚光を浴びざるをえない。

 今回のプロジェクトは、日本語の成り立ちの解明のロマンにも繋がっている。
https://readyfor.jp/projects/izumo17990/announcements/87610

26. 中川隆[-10513] koaQ7Jey 2019年5月13日 23:12:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1774] 報告

弥生人のDNAで迫る日本人成立の謎 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%BC%A5%E7%94%9F%E4%BA%BA%E3%81%AEDNA%E3%81%A7%E8%BF%AB%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E6%88%90%E7%AB%8B%E3%81%AE%E8%AC%8E

2018年12月23日

27. 中川隆[-10507] koaQ7Jey 2019年5月14日 07:00:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1780] 報告
韓国人のルーツは? 北方界でない混血南方系
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版] 2017年02月02日
https://s.japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=225352

韓民族のルーツはどこだろうか。人類・考古学界の一部は、韓民族がアルタイ山脈から出発しモンゴルと満州原野を通って韓半島(朝鮮半島)に入ってきた北方民族だと推定している。これらの地域の人々の言語・風習・顔つきなどと共通点が多いというのがその根拠だった。

だが、科学界の判断は違う。2日、蔚山(ウルサン)科学技術院(UNIST)ゲノム研究所によると、韓民族は3万〜4万年前に東南アジア〜中国東部海岸を経て極東地方に流入して北方人になった南方系狩猟採取人と、新石器時代が始まった1万年前に同じルートで入ってきた南方系農耕民族の血が混ざって形成された。2009年、UNISTは韓民族が東南アジアから北東に移動した南方系の巨大な流れに属しているとサイエンス誌に発表したことがあったが、今回これをより具体化した。

その始まりはロシア・ウラジオストクからやや北の『悪魔の門(Devil’s Gate)』という名称の洞窟から見つかった7700年前の20代と40代女性の頭蓋骨だった。

この地域は韓国の歴史において、旧高句麗・東夫餘・沃沮だった場所だ。ゲノム研究所はスーパーコンピュータを利用してこの頭蓋骨の遺伝子を解読・分析した。

DNA分析の結果、「悪魔の門」の洞窟人は3万〜4万年前に現地に定着した南方系人で、韓国人のように褐色の瞳と凹型の前歯(shovel−shaped incisor)をつくる遺伝子を持っていたと発表された。また、彼らは現代の東アジア人の典型的な遺伝特性を有していた。牛乳が消化できない、高血圧に弱く体臭があまりない、乾いた耳あかが出るなどの遺伝子が代表的だ。この洞窟人は現在近くに住むウルチ(Ulchi)族の先祖と考えられている。周辺の原住民を除けば、現代人のうちでは韓国人が彼らに近い遺伝子を持っていることが判明した。彼らのミトコンドリアDNAの種類も、韓国人が主に持っているものと同じだった。

同研究所のパク・ジョンファ所長は「ミトコンドリアDNAの種類が同じだということは母系が同じであることを意味する」とし「2つの人類間の時間的な開きを考慮しても、遺伝子が非常に似通っていると言え、悪魔の門の洞窟人は韓国人の先祖とほぼ同じだと言える」と述べた。

だが、悪魔の門の洞窟人の遺伝子が韓民族のそれとすべて一致したわけではない。研究陣は正確な韓国人の民族ルーツと構成を計算するために、悪魔の門の洞窟人と現存する東アジア地域50カ所余りの人種に対する遺伝子比較を行った。その結果、悪魔の門の洞窟に住んでいた古代人と、現代ベトナムおよび台湾で孤立している原住民の遺伝子を融合したところ、韓国人の遺伝子を最もよく表していた。時代と生存方式が異なる二つの南方系列の融合だったことを発見した瞬間だった。

だが、現代韓民族の遺伝的構成は1万年前の農耕時代の南方系アジア人にはるかに近い。狩猟採集や遊牧をしていた極東地方の狩猟採取人に比べて、稲作をしていた南方系民族が多くの子供を産みスピーディーに拡散したためだというのがその理由だ。実際、狩猟採集を中心に生活していた過去の極東地方部族たちの現在の人口は多くても数十万人以上にはならない。

パク所長は「巨大な東アジア人の流れの中で、技術発達によって、小さな幹の民族が生じて混ざり合いながら韓民族が形成されたものと推定できる」と説明した。UNISTの研究は国際学術誌「Science Advances(サイエンス・アドバンシズ)」1日付(米国現地時間)に発表された。
https://s.japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=225352


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韓国人のルーツは「悪魔の洞窟で暮らした新石器人」=研究発表にネットから疑問噴出=「標本2つで出した結論」「おしりの蒙古斑はなに?」
Record china:2017年2月5日
https://www.recordchina.co.jp/b162581-s0-c30-d0127.html


2日、UNISTゲノム研究所は、朝鮮民族は3〜4万年前に東南アジアから極東地方に流れ込み北方人となった南方系狩猟採集民と、1万年前に同経路で入ってきた南方系農耕民族の血が混ざって形成されたと発表した。写真はロシア・ウラジオストク
https://www.recordchina.co.jp/b162581-s0-c30-d0127.html


2017年2月2日、韓国・中央日報によると、蔚山(ウルサン)科学技術院(UNIST)ゲノム研究所は国際学術誌「Science Advances」で、韓民族(=朝鮮民族)は、3〜4万年前に東南アジアから中国東部の海岸を経て極東地方に流れ込み、北方人となった南方系の狩猟採集民と、新石器時代が始まった1万年前に同じ経路で入ってきた南方系の農耕民族の血が混ざって形成されたと発表した。

これまで人類・考古学界の一部では、言語・風習・容姿などの共通点が多いことから、朝鮮民族がアルタイ山脈に始まり、モンゴルと満州の原野を越えて朝鮮半島に入ってきた北方民族であると推定されてきた。

しかし科学界の判断は違っており、2009年、UNISTは国際学術誌「Science」に「朝鮮民族が東南アジアから北東へ移動した南方系の巨大な流れに属している」と発表、今回の発表はこれをさらに具体化したことになる。

その手がかりは、ロシア・ウラジオストクの上方にある沿海地方の「悪魔の門(Devil’s Gate)」という名の洞窟で発見された7700年前の20代と40代の女性の頭蓋骨にあった。ここは韓国の歴史上、かつての高句麗・東夫余(ふよ)・沃沮(よくそ)の地と言われている。ゲノム研究所がスーパーコンピュータを利用してこの頭がい骨のゲノムを解読・分析したところ、悪魔の門の洞窟人は3〜4万年前に現地に定着した南方系人で、韓国人のように茶色い目とシャベル型切歯(shovel-shaped incisor)の遺伝子を持っていたことが明らかになった。また彼らは、牛乳を消化できない遺伝変異や、高血圧に弱い遺伝子、体臭が少ない遺伝子、耳たぶの薄い遺伝子など、現代の東アジア人の典型的な遺伝特性も持っていたという。悪魔の門の洞窟人は近くに住む「ウルチ(Ulchi)」族の先祖とされており、近くの原住民を除く現代人の中では韓国人がこれと近いことが判明した。

UNISTゲノム研究所のパク・ジョンファ所長は「ミトコンドリアDNAの種類が同じであるということは、母系が同じであるということを意味する。長い時間差を考慮しても2つの人類の遺伝子は非常に近く、悪魔の洞窟人は韓国人の祖先とほぼ同じだと言える」と話している。

これを受け韓国ネットユーザーからは、研究方法に関連して「偶然洞窟にたどり着いたのかもしれないし、サンプル2つは少なすぎ」「標本2つの結論か。もっと多い標本が必要な研究じゃない?」というコメントや、「でも、言語は北方系のモンゴル語じゃん。これはなんで?」「おしりにある蒙古斑はなに?」というコメント、「つまり、ウィー・アー・ザ・ワールドってことね。ということは、今後科学がもっと発達したら数十万年前まで研究できるから、また北方系になる可能性もあるわけだ」「朝鮮民族は単一民族ってよく言うけど、これはギャグ」など、異論や疑問を唱えるコメントが多く寄せられている。(翻訳・編集/松村)
https://www.recordchina.co.jp/b162581-s0-c30-d0127.html


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悪魔の門
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E9%96%80


悪魔の門(あくまのもん、Devil’s Gate)は、ロシアウラジオストクの上方にあるアムール川流域の沿海地方(プリモルスキー地方)で確認されている洞窟である[1]。

この洞窟で、朝鮮民族の祖先にあたるウルチ族(Ulchi)といわれる少数民族の人骨が見つかっている[1]。別称、チェルーヴィーヴォロタ洞窟(Chertovy Vorota Cave、血まみれの門の洞窟)。

1.^ また彼らは、牛乳を消化できない遺伝変異や、高血圧に弱い遺伝子、体臭が少ない遺伝子、耳たぶの薄い遺伝子など、現代の東アジア人の典型的な遺伝特性も持っていた


パク・ジョンファ蔚山科学技術院(UNIST)ゲノム研究所長(生命科学部教授)が率いるイギリス・ロシア・ドイツの国際共同研究チームは1日、「中朝国境・豆満江の北にあるロシア・アムール川流域の悪魔の門で発見された7700年前の人類のゲノムを解読した」と明らかにした[1]。

2017年2月2日の韓国中央日報によると、蔚山科学技術院(UNIST)ゲノム研究所の国際学術誌「Science Advances」で、韓民族(朝鮮民族)は、3〜4万年前に東南アジアから中国東部の海岸を経て極東地方に流れ込み、「北方人となった南方系の狩猟採集民」と、新石器時代が始まった1万年前に同じ経路で入ってきた「南方系の農耕民族」の血が混ざって形成されたと発表した[1]。

今まで人類・考古学界の一部では、民族的な風貌などの共通点から、韓国人はアルタイ山脈に始まり、モンゴルと満州の原野を超えて朝鮮半島に移住した北方民族であると推定されてきたが、現在の進歩した科学界の判断は違っており、2009年、UNISTは国際学術誌「Science」に「朝鮮民族が東南アジアから北東へ移動した南方系の巨大な流れに属している」と発表、今回の発表はこれをさらに具体化したことになる[1]。


悪魔の門の洞窟人

韓国人のルーツといえるDNAが、ロシア・ウラジオストクのアムール川流域にある「悪魔の門の洞窟」で7700年前の20代と40代の女性の頭蓋骨から発見された[2]。ここは韓国の歴史上、かつての高句麗・東夫余(ふよ)・沃沮(よくそ)の地と言われている[2]。

ゲノム研究所がスーパーコンピュータで、この頭蓋骨の遺伝子を解読・分析したところ、悪魔の門の洞窟人は3〜4万年前に現地に定着した南方系人で、韓国人に特徴な茶色い目とシャベル型切歯(shovel-shaped incisor)の遺伝子を持っていることが証明された[注 1][2]。悪魔の門の洞窟人は近くに住む「ウルチ族」の先祖とされており、近くの原住民を除く現代人の中では韓国人がこれと近いことが判明した[2]。

UNISTゲノム研究所のパク・ジョンファ所長は「ミトコンドリアDNAの種類が同じであるということは、母系が同じであるということを意味する[2]。長い時間差を考慮しても2つの人類の遺伝子は非常に近く、悪魔の洞窟人は韓国人の祖先とほぼ同じだと言える」と話している[2]。。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E9%96%80

28. 中川隆[-10475] koaQ7Jey 2019年5月14日 12:01:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1814] 報告

韓国人とベトナム・台湾人の遺伝的祖先はほぼ同じ 2017-02-03
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/26416.html

UNISTなどロシア極東地方の7700年前の古代人の骨、ゲノム分析
 
南方系アジア人、北方系の代替の代わりに融合し遺伝性を持続 
「征服などで古代人遺伝の痕跡が消えた西ユーラシアとは異なる」

ロシア極東の「悪魔の門洞窟」で発見された7700年前の古代人遺骨=蔚山科学技術院提供//ハンギョレ新聞社

 現代韓国人は、ベトナム・台湾など南方とロシア極東地方に住んでいた北方の古代人の遺伝の特性をいずれも受け継いでいることが明らかになった。

 蔚山(ウルサン)科学技術院(UNIST)ゲノム研究所は1日、「イギリス、ロシア、ドイツなどの研究チームと共同で、豆満江(トゥマンガン)上部のロシア極東地方の『悪魔の門洞窟』(Devil's Gate Cave)で発見された7700年前の人間の骨のゲノムを分析した結果、韓国人を含む現代東アジア人は先祖の遺伝的痕跡を持ち続けてきたことが分かった」と明らかにした。

 研究チームの論文はオンライン科学ジャーナル「サイエンス・アドバンシス」2日付(現地時間)に掲載された。悪魔の門洞窟は1973年、高句麗・東扶余・沃沮が位置した場所で発掘され、そこで新石器時代の人間と判明された何躯かの骨が発掘された。研究チームが悪魔の門洞窟人と現存するアジアの数十の民族(ethnic groups)のゲノムの変異を比較してみたところ、洞窟人とベトナムおよび台湾で孤立していた原住民のゲノムを融合した時、現代韓国人の遺伝変異が最もよく表現された。つまり韓国人の遺伝的祖先はベトナム・台湾など南方の古代人と北方の古代人にいずれも接しているということだ。

 ゲノム研究所のパク・ジョンファ所長(生命科学部教授)は「現代西ユーラシア人は、ここ数千年間の多くの人口移動、征服、戦争などで古代狩猟採取人の遺伝的痕跡はほとんど消えた。一方、東アジア現代人は祖先の遺伝的遺産を受け継いだことが明らかになった」と話した。悪魔の門洞窟人は韓国人のように褐色の瞳とシャベル状の前歯を持ち、牛乳をよく消化できず、高血圧に弱く、体臭が少ない遺伝子であるなど、現代東アジア人の典型的な遺伝特性を持っている。東アジア人は遺伝的に「単一民族」であるということだ。

 パク教授は「数万年前に東アジアの狩猟採取人はロシア北方まで進出し、アジア全域に広がって北方系を形成した。そして1万年余り前、南中国系の人々が本格的な農耕社会を構成し、急速に膨張した。しかし、西ユーラシアとは異なり南方系が北方系を代替せず、二つの系列が混合を遂げた。南方系の拡散が北方系より遥かに大きく、現代人の遺伝特性には南方系の影響が大きく現れる」と説明した。

 悪魔の門洞窟人は、近くに住む現代のウルチ族と遺伝的に最も近く、彼らの先祖であると推定されるが、これらの原住民を除外すれば現代人の中で韓国人がこの洞窟人と一番近いゲノムを有するものと分析された。研究を主導したチョン・ソンウォン研究員は「悪魔の門洞窟人のミトコンドリアゲノムの種類が韓国人とほぼ同じであり、洞窟人は韓国人の先祖とほぼ同じだといえる」と話した。ミトコンドリア遺伝子は母親から子に母系血統を通じてのみ伝達され、祖先を追跡するのに役立つ。

イ・グンヨン、オ・チョルウ先任記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/26416.html

29. 中川隆[-10459] koaQ7Jey 2019年5月14日 17:57:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1832] 報告

平成31年5月13日 独立行政法人 国立科学博物館
高精度縄文人ゲノム の概要
http://www.kahaku.go.jp/procedure/press/pdf/150678.pdf
30. 中川隆[-9632] koaQ7Jey 2019年6月13日 06:08:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2831] 報告


古代の土器作りは女性の仕事? 指紋から意外な事実
1000年前の土器985片に残る指紋を調査、北米の古代プエブロ文化 2019.06.07
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/060600334/


米ニューメキシコ州プエブロ・ボニートで発掘された650室に仕切られた遺跡。ここは、西暦800〜1200年に栄えたチャコ・キャニオン社会の中心地だった。(PHOTOGRAPH BY PHIL SCHERMEISTER, NAT GEO IMAGE COLLECTION)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/060600334/?SS=imgview&FD=-787263934

 アメリカ古代文化の中心地で発掘された土器を改めて分析したところ、「土器製作は女性の仕事」とされてきたこれまでの常識を覆す結果が得られた。6月3日付けで学術誌「米国科学アカデミー紀要(PNAS)」に発表された。

 米ニューメキシコ州北西部に位置するチャコ・キャニオンは、西暦800〜1200年頃、重要な文化と宗教の中心地だった。ここに住んでいた古代プエブロ人は、粘土を太い縄のようにして、らせん状にぐるぐると巻いて器の形にする「波状文様土器」を作っていた。

 1000年前、こうした土器は女性が作っていたと一般的に考えられていた。というのも、もっと現代に近いチャコ・キャニオンでも、土器製作は主に女性の役割だったためだ。

「現代のプエブロ女性たちは土器を作り、その作り方を娘たちに伝えてきました。ですから、はるか昔の祖先もそうだったのだろうと思い込んでいました」。論文を執筆した米ノースフロリダ大学のジョン・カントナー氏は、そう語る。「けれど、実際には誰が作っていたかを直接見ることはできませんから、考古学者たちも腑に落ちずにいたのです」(参考記事:「古代プエブロに母系支配者、「世襲」の起源に光」)

 波状文様の土器は、親指と人差し指で粘土と粘土を挟んで貼り合わせていたので、粘土には製作者の指紋が残されている。これらの指紋を分析すれば、製作者の性別がわからないだろうか。


https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/060600334/?SS=imgview&FD=1420927604
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/060600334/?SS=imgview&FD=1421851125
研究者らは、土器に残っていた指紋の隆線の幅を計測した。男性の隆線は、一般的に女性のものよりも幅が広い。(PHOTOGRAPH BY JOHN KANTNER)

 論文共著者で、カントナー氏の教え子だったデビッド・マッキニー氏は、そう質問した。マッキニー氏は当時、警察署で働いていた。そこでカントナー氏は、男女の指紋の違いを調べるため、法科学捜査に乗り出した。指紋の隆線が男性の場合は女性よりも9%太いという過去の研究結果を用いて、チャコ・キャニオンのブルーJという発掘現場で出土した985個の土器の欠片を分析した。(参考記事:「真犯人を追う 科学捜査」)

 その結果、47%の欠片に残されていた指紋の隆線の幅が、平均して0.53ミリで男性のものと分類され、40%が平均して0.41ミリで女性または子どものものと分類された。残りの12%はその中間で、「性別不明」とされた。


土器の欠片をさらに年代別に分けてみると、古い時代の土器に残されていた指紋は66%が男性のものだったが、新しい土器には男性と女性の指紋がほぼ半分ずつ残されていた。以上のことから、かつて男性も土器作りに関わっていただけでなく、男性と女性の割合は時代とともに変化したことがわかる。

 この研究は、チャコ・キャニオンでの土器製作者を男女別に示した初の直接的な証拠となった。

「男性または女性だけの仕事だったというわけではないでしょう。土器製作に限らず、当時のプエブロ社会におけるほかの活動にも同様の見方ができるかもしれません。そして、ひとつの社会が労働をどのように分担していたかを考えるとき、まず最初に頭に浮かぶのが、男女別の役割分担という思い込みを見直させてくれる研究です」と、カントナー氏は述べている。


(参考記事:「「男脳」「女脳」のウソはなぜ、どのように拡散するのか」)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/17/020800002/021400005/


チャコ・キャニオンで発掘された古代の住居から土器が見つかった。(PHOTOGRAPH BY JOHN KANTNER)

 なぜ男性が土器製作に関わるようになったのか、その理由はこの研究だけではわからないが、カントナー氏は、チャコ・キャニオンが文化の中心地として急速に発展し、周辺地域への需要が高まったためではないかと考えている。

「考古学的記録をみると、非常に多くのものがチャコに流入していたことがわかります。周囲の村々や巡礼者からの贈り物だったのかはわかりませんが、チャコへ運ばれる土器の製作に多くの人が関わりたくなる状況があったのかもしれません」

 ネブラスカ・リンカーン大学の人類学者でチャコ・キャニオンを専門とするキャリー・ハイトマン氏も、興味深い研究結果だとしたうえで、これを裏付けるにはチャコ・キャニオンの別の場所で出土した土器との比較研究も必要だと話す。

(参考記事:「古代アンデスの土器、顔料に爬虫類のおしっこ」)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/b/121400252/

「チャコ・キャニオンで見つかったほかの土器との比較分析があれば、もっと正確なことがわかるでしょう。当時起こっていた変化の一部を切り取っただけかもしれませんが、性別に注目した今回のような分析は、当時の男女の役割を理解する助けになります。そして、過去の歴史を知るうえでより豊かで性のバランスがとれた視点を与えてくれるでしょう」

(参考記事:「グランドキャニオンへの旅、絶景&穴場9選」)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/022600128/


参考ギャラリー:100年前のナショジオ「チャコ・キャニオン遠征」 写真7点(クリックでギャラリーへ)

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/060600334/

31. 中川隆[-9384] koaQ7Jey 2019年6月22日 10:51:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3101] 報告

【我那覇真子「おおきなわ」#74】
長浜浩明〜韓国人とは遠縁だった!遺伝子から探る日本人のルーツ[桜R1-6-21] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7CPxmCGtjR0
32. 中川隆[-9355] koaQ7Jey 2019年6月22日 19:35:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3131] 報告

「最新の縄文分析で今明かされる、沖縄のルーツと日本の建国」古代史研究家・長浜浩明氏 2018.02.11 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8q-ZXmoPa-Y


2018/02/11 に公開

沖縄の大本は、縄文時代から九州の人々と同じ先祖を持ち、それは遺伝子、言語から明らかです。また、皇室の大本は沖縄方面からやってきたのであり、神武東征は史実なのです。(長浜浩明氏)

皇紀2678年(平成30年)2月11日(日・祝)
『日本の建国を記念する沖縄県民の集い』記念講演


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因みに、日本人の核DNAの 90% は渡来系で、縄文系は僅か10% です

33. 中川隆[-9242] koaQ7Jey 2019年7月06日 14:41:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3442] 報告

縄文時代の終盤に人口急減 寒冷化か、DNA解析で
6/17(月) 18:55配信
https://mainichi.jp/articles/20190705/k00/00m/040/038000c

 縄文時代の終わりに人口が急激に減少していたことが現代の日本人男性のDNA解析で分かったと、東京大の大橋順准教授(集団ゲノム学)らのチームが17日、英科学誌に発表した。狩猟採集生活の中、寒冷化し食べ物が減ったことが原因で、弥生時代になって稲作が朝鮮半島を経由して伝わり、食料供給が安定すると、人口は急回復したとみている。

 チームは、男性だけが持つY染色体を解析。弥生人の母体となった集団の子孫に当たる現代の韓国人や中国人にない、縄文人特有と思われる型を持った122人について、変異が起きる速度を基に、過去にさかのぼって人口の推移を推定した。

34. 中川隆[-12913] koaQ7Jey 2019年11月09日 10:39:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-15] 報告

2019年11月09日
北條芳隆編『考古学講義』第2刷
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_20.html

 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2019年6月に刊行されました。第1刷の刊行は2019年5月です。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。なお、以下の西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。


https://www.amazon.co.jp/%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6%E8%AC%9B%E7%BE%A9-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%8C%97%E6%A2%9D-%E8%8A%B3%E9%9A%86/dp/4480072276

I 旧石器・縄文時代


第1講●杉原敏之「列島旧石器文化からみた現生人類の交流」P15〜35
 現生人類(Homo sapiens)の日本列島への拡散が解説されています。日本列島への現生人類の拡散経路としては、サハリンから北海道と津軽海峡を経由する北回り、朝鮮半島を経由する西回り、台湾と南西諸島を経由する南回りが想定されています。本論考は、比較的情報量の多い九州を中心とする西回りと南回りを取り上げています。日本列島では4万年前頃よりもさかのぼる人類の確実な痕跡はきわめて限定的で、後期旧石器時代以降に人類が定着したと考えられます。関東では38000年前頃に、九州でも38000〜36000年前頃には後期旧石器時代が始まります。朝鮮半島と日本列島の旧石器の類似性も指摘されていますが、その担い手となる人類集団の関係については不明なところがあります。ユーラシア東部における現生人類出現の考古学的指標とされる石刃技法については、九州において段階的変遷が想定されていますが、まだ充分には解明されていないようです。南回りに関しては、九州南部と琉球列島との直接的関連はまだ確認されていないようですが、本論考は、石器技術に限らない接触も想定しています。最終氷期極大期(LGM)には、九州で朝鮮半島南部との接触を窺わせる剥片尖頭器が発見されており、海面が低下したことにより交流が活発化していったのかもしれません。本論考は、九州の在来集団が朝鮮半島南部との接触により新たな技術を導入した、という可能性を想定しています。


第2講●中山誠二「縄文時代に農耕はあったのか」P37〜58
 縄文農耕論には長い歴史がありますが、近年では、レプリカ法を用いた土器の圧痕分析など、新たな手法による進展が見られます。本論考は、縄文時代においてクリが人為的選択を受け、ダイズやアズキが栽培化へと向かっていた可能性を指摘します。ダイズの栽培起源地候補はアジア各地に複数あり、日本列島もその起源地の一つだった可能性がある、というわけです。本論考は、こうした植物管理・栽培を、農耕の初源的な一形態である園耕・園芸と評価しています。このように、縄文時代において植物栽培と言えそうな事例が確認されつつあるものの、それが直ちに農耕社会を出現させたのではなく、狩猟・採集・漁撈との柔軟な組み合わせによる生業が確立していたところに縄文時代の独自性がある、と本論考は指摘しています。


第3講●瀬口眞司「土偶とは何か」P59〜84
 土偶については、女神説・地母神説・故意破損説などさまざまな仮説が提示されてきましたが、近年では議論は行き詰っているそうです。本論考は、これまであまり注目されていなかった土偶装飾付土器の分析から、土偶の社会的意味を検証しています。本論考は、土偶とは本来何らかの形で「うつろ」を身体に伴うもので、幾重にも取りつき、取りつかれることで一体の完成した像へと近づくものだ、と指摘します。それを踏まえて本論考は、土偶が時代により変容していった、と指摘します。初期には不完全な胴部だけが可視化され、不完全な東部は観念上存在しても基本的には可視化されない霊的存在でしたが、定住生活への移行に伴いそれが可視化されていき、それには人口拡大も背景にあるかもしれない、と本論考は推測しています。


第4講●瀬川拓郎「アイヌ文化と縄文文化に関係はあるか」P85〜102
 北海道は、旧石器時代→縄文時代→続縄文時代→擦文時代→アイヌ文化期と変遷していき、続縄文時代後期〜擦文時代にかけて、オホーツク文化が併存します。アイヌ文化は考古学的にそれ以前の文化とは大きく異なるのですが、研究の進展に伴い、連続的な変化が確認されつつあります。なお本論考は、考古学的文化に民族名を冠することは問題だとして、アイヌ文化ではなくニブタニ文化と呼ぶよう、提唱しています。本論考は、アイヌ文化に見られる縄文文化の要素として、イレズミ・モガリ・動物祭儀などを挙げています。北海道の動物祭儀に関しては、すでに縄文時代において、自然には生息しないイノシシを本州から連れてきて屠殺し、共食していた可能性が指摘されています。これは、縄文時代の本州にも見られる祭儀でした。本論考は、日本列島において縄文文化が色濃く残るのは、本州・四国・九州を中心とする「本土」ではなく、アイヌ側だと指摘しています。

II 弥生時代


第5講●宮地聡一郎「弥生文化はいつ始まったのか」P105〜122
 弥生時代を食糧生産もしくは稲作に基づく生活が始まってから前方後円墳が出現する前までと定義すると、弥生時代の始まりは刻目突文帯土器の時代に始まる、と本論考は指摘します。なお本論考は、縄文時代における稲作の確実な証拠は今では否定されている、と指摘します。ただ、稲作が始まったのは刻目突文帯土器の時代でもある段階以降とのことです。刻目突文帯土器は系譜的には縄文土器の深鉢そのもので、土器では縄文時代と弥生時代の境界が曖昧となります。しかし、土器の器種構成では大きな変化が見られ、稲作開始の頃より、朝鮮半島の無文土器に由来する壺などが出現するそうです。この時期には墓制も変化し、石剣や玉類や壺などの副葬品が見られます。弥生時代は、朝鮮半島の無文土器文化の影響を強く受けて始まったようです。弥生時代の開始年代をめぐっては議論が続いていますが(関連記事)、以前の定説である紀元前5世紀よりは古いものの、21世紀になって提示された紀元前10世紀までさかのぼる可能性は低い、と本論考は指摘します。また本論考は、弥生時代が日本列島で一斉に始まったわけではない、と注意を喚起しています。さらに、弥生時代とはいっても、西日本と東日本では様相が異なり、東日本の弥生時代には縄文文化の要素が強いことも指摘されています。弥生文化を均一なものとして把握することには問題があるようで、おそらく集団の遺伝的構成もかなり多様だった、と推測されます(関連記事)。


第6講●設楽博己「弥生時代の世界観」P123〜145
 弥生時代の世界観が、生物界・現世の空間世界・観念世界に区分されています。縄文時代の土偶には女性が多いのに対して、弥生時代には男女の偶像であることに関しては、性別分業の狩猟採集社会から男女協業を基本とする農耕社会への転換が背景にある、と指摘されています。また、弥生時代には埋葬からい男性優位の傾向も窺えるようになります。これは、弥生時代にはイレズミが男性だけになったことと関連しており、男性が主体となる戦争の活発化が背景にある、と推測されています。一方で、卑弥呼や壱与の事例から、男性だけが権力を掌握したわけではない、とも指摘されています。土製品や絵画などにおける主要な対象動物は、弥生時代には縄文時代のイノシシからシカへと変わり、これは、シカの角の生え替わりとイネの成長が同一視されたからではないか、と推測されています。また弥生時代には、鳥が重要な動物になったようです。銅鐸については、朝鮮半島の銅鈴に起源があるものの、銅鈴には文様がほとんどなく、銅鐸の文様は縄文土器が手本にされている、と指摘されています。銅鐸には辟邪としての機能も推測されています。空間観念に関しては、地的宗儀から高天原信仰の導入に伴う天的宗儀への転換が指摘されています。弥生時代の墓制から祖先祭祀の存在が推測されており、弥生時代の再葬墓については、縄文時代晩期の延長線上にある、と指摘されています。弥生時代に九州北部で始まる大型建物での祖先祭祀については、「中国」の影響が推測されています。


第7講●北島大輔「青銅器の祭りとはなにか」P147〜164
 弥生時代の青銅器の原材料である鉛の入手に関しては、時期による変遷が指摘されています。一方、北部九州と本州とでこの変遷に関して大きな時期差はなかったようです。鉛の同位体分析による原材料地は、弥生時代の6期区分では、3期までが朝鮮半島産、4期が前漢の華北産、5期は華北産でもさらに限定された領域、6期後半が後漢の華南産と共通しています。この推定に関しては疑問も呈されていますが、まだ解決していないようです。こうした弥生時代の青銅器の原材料入手のさいの対価としては、奴隷(生口)や翡翠・碧玉が推測されています。弥生時代の青銅器に見られる世界観として、銅鐸には身近な自然が多く、九州北部を中心に流入の始まった中国鏡では想像上のものが見られる、と指摘されています。


第8講●谷澤亜里「玉から弥生・古墳時代を考える」P165〜192
 弥生時代には新たな管玉が出現し、その起源地は現在の朝鮮北部〜中国東北部と推測されています。これは、農耕文化とともに導入された、と考えられています。こうした管玉は日本列島において受け入れられ、生産されるようになり、地域社会を横断した原石素材の流通ネットワークが形成されます。弥生時代にはガラス製玉類も出現しますが、日本列島でのガラスの生産は紀元後7世紀後半以降で、弥生時代と古墳時代には日本列島外で製造されたガラスが素材として用いられていました。なお、ガラス製品を伴う埋葬には多くの場合漢系遺物も見られることから、漢王朝からの下賜品と考えられてきましたが、中原地域や楽浪郡ではガラス製玉類が少ないことから、長江中流域との直接的な交渉によりもたらされた、との見解も提示されているそうです。ただ本論考は、ガラス製品以外には長江中流域との交渉を示すような遺物がないことから、楽浪郡経由での入手の可能性が高い、と指摘しています。

 こうした副葬品の状況から、「王」を頂点とする序列が想定されています。漢系遺物の流入は弥生時代後期初頭には一旦途絶えるようですが、その要因として新王朝を樹立した王莽の華夷思想に偏った対外政策が推測されています。またこの時期、日本列島規模で、既存集落の廃絶や特定集落への集住など大きな変化が見られるそうです。墓制でも、この時期に多くの地域で集団墓地の解体傾向が見られるそうです。これ以降、出自集団を単位とした墓地が顕著に見られるようになります。古墳時代前期になると、弥生時代後期には多様だった舶載ガラス製玉類が、銅着色のインド・パシフィックビーズにほぼ限定されるとともに、ガラス製玉類の出土数が減少するなか、近畿中部だけは出土数が増加します。ただ、古墳時代中期になると、種類は朝鮮半島南部と同じく多様になっていきます。弥生時代後期の段階では舶載品の流通を近畿中部が掌握していたとは言えませんが、古墳時代にはその流通経路が近畿に集約されていった、と窺えます。こうした動向に関しては、強大な近畿が他地域を支配したというよりは、他地域が近畿を介して安定的に威信材を入手しようとしたことが背景にあったのではないか、と推測されています。


第9講●村上恭通「鉄から弥生・古墳時代を考える」P193〜218
 日本列島における鉄器の使用は、弥生時代前期末〜中期初頭の九州北部において始まります。骨角器研究により、近畿以東では弥生時代中期後葉までには鉄器を用いての骨角器製作が確認されているものの、当時近畿以東では鉄が希少だったためか、石器と併用され、鉄の利用は限定的だった、と推測されています。これは斧に関しても同様で、石器と希少な鉄器が併用されていました。しかし、木器の研究からは、河内湾沿岸地域における斧の鉄器化は弥生時代中期後葉に完了した、とも指摘されています。日本列島における鉄器の生産はまず九州北部で始まり、日本海側では丹後地方まで、瀬戸内海では徳島県域まで直ちに拡大したそうです。さらに、弥生時代後期後葉から終末にかけては、日本海側では能登半島、太平洋側では三河地方まで拡大しています。また、鍛冶技術は九州北部のものがそのまま拡散したのではなく、多様化していき、そうした中で技術格差も見られるようになりました。

III 古墳時代


第10講●辻田淳一郎「鏡から古墳時代社会を考える」P221〜245
 弥生時代〜古墳時代にかけての日本列島の鏡の特徴は、鉄鏡がわずかで青銅鏡がほとんどであることです。この青銅鏡は、中国(舶載)鏡・三角縁神獣鏡・倭製(仿製)鏡に分類されます。中国鏡は漢代〜魏晋南北朝期にかけて「中国」で製作され、古墳時代の遺跡から出土するのは、おもに後漢鏡・三国(おもに魏と呉)鏡・西晋鏡です。後漢鏡の出土は弥生時代後期以降ですが、九州北部に偏っています。鏡の流通・副葬は3世紀〜4世紀前半にピークがあり、5世紀前半には生産・流通が一旦低調となりますが、5世紀後半に再度活発化するそうです。

 本論考は、銅鏡流通の核となった政治権力を「近畿中央政権」と呼んでいます。古墳時代には、近畿中央政権が独占的に中国鏡の輸入・流通を管理していたようです。古くから議論になっている三角縁神獣鏡の製作地については、全て日本産・全て中国産・日本産と中国産の混在という3説が提示されています。こうした鏡は政治的序列を可視化していた、と考えられています。本論考は、古墳時代前期を通じて、大型の中国鏡と倭製鏡が上位、三角縁神獣鏡や小型の倭製鏡が下位とされていた、と推測しています。また、近畿中央政権から各地に鏡が多数配布された理由として、当時は双系社会で上位層の世代間継承が不安定だったので、代替わりに伴い新たな鏡の入手が必要になった、と推測されて近畿中央政権と各地の権力との政治的相互作用の結果、古墳により可視化されるような広域的な政治秩序が形成・維持・再生産されたのではないか、というわけです。こうした社会状況において、鏡は威信材として機能した、と本論考は指摘します。

 こうした銅鏡の役割は、古墳時代中期に鉄製の武器に取って代わられたようです。しかし、5世紀のいわゆる倭の五王の遣使により、南朝から「同型鏡」が導入され、5世紀中頃以降に再び倭製鏡生産が活発化します。本論考は、同型鏡が南朝で製作され倭国に贈与された「特鋳鏡」と推測しています。この同型鏡群は、古墳時代前期の銅鏡とは異なり、大型前方後円墳だけではなく、中小規模の古墳からも出土しており、近畿中央政権が各地の中間層を取り込もうとした、と本論考は推測しています。古墳時代の倭製鏡は、6世紀前半よりも後には生産が終了したか、大幅に縮小したと考えられます。本論考は、古墳時代の鏡は本格的な国家形成の前段階に属する器物で、前方後円墳の出現とともに始まり、その終焉とともに意義が失われた、と指摘しています。


第11講●石村智「海をめぐる世界/船と港」P247〜269
 本論考はまず、日本人は海洋民だと指摘します。日本列島に現生人類が到来した後期更新世において、対馬海峡も津軽海峡も完全に陸続きにはならなかったため、渡海してきたはずだ、というわけです。日本列島の船は、まず1本の木で造られる丸木舟から始まります。これは縄文時代のものが発見されていますが、木の大きさに制約されるため、大型化できないという欠陥があります。弥生時代には、複数の材を継ぎ合わせて大型化した準構造船が出現し、丸木舟の要素が継承されています。日本の伝統的な和船は、この準構造船から発展して中世に成立します。遣唐使船は朝鮮半島の技術を用いて造られた、と推測されていますが、当時の朝鮮半島には船釘が用いられておらず(日本でも船釘の確実な使用は鎌倉時代以降のようです)、構造的に脆かったようです。

 日本列島において古代に港として利用されたのは、ラグーン(内海)を形成する潟湖地形でした。潟湖地形の周囲には前方後円墳が多く、目印として機能した可能性が指摘されています。飛鳥時代以降、遣唐使船のような喫水の深い大型の構造船が導入されると、入江地形の「深い港」が必要とされます。しかし、当時すべての船がそうした遣唐使船のような構造ではなかったため、潟湖地形のような「浅い港」も引き続き用いられただろう、と推測されています。

 前近代の日本において、日本海は冬場こそ荒れるものの、夏場には穏やかなため、日本列島のハイウェイとして機能してきた、と本論考は指摘します。日本海は、アジア東部大陸部との交通の場ともなりました。一方瀬戸内海は、潮流が速く複雑なため、航海の難しい海域だった、と指摘されています。しかし、瀬戸内海沿岸に目印としての前方後円墳が築かれてきたように、日本海と同じく古代からハイウェイとして機能してきました。太平洋は黒潮のため航海は困難ですが、弥生時代から古墳時代には、紀伊半島沿いの海路が存在した可能性は高い、と指摘されています。本論考は、海洋民が古代において海外の文物に触れられる先進的な集団だった、指摘しています。古代の海洋民として、宗像氏や安曇氏や高橋氏が挙げられています。


第12講●池淵俊一「出雲と日本海交流」P271〜290
 日本海を通じての交流は、すでに縄文時代から存在しました。出雲が日本海交流において特殊な地位を占めるようになるのは、紀元前1世紀となる弥生時代中期後半からしでした。この時代、朝鮮半島に漢の楽浪郡が設置され、九州北部では多数の漢鏡を副葬品とする王墓が出現します。この時期以降、出雲でも朝鮮半島系の土器が出土するようになります。これらの土器の大半は交易用の容器で、移住目的ではなかった、と考えられます。鉄器の出土状況からは、紀元後1〜3世紀には、日本列島における物流の主動脈は日本海だった、と推測されます。本論考は、出雲の九州系土器の出土状況から、出雲は直接的にではなく、伊都国や奴国といった九州北部集団を介して朝鮮半島と交易した、と推測しています。また、弥生時代後期には、吉備が出雲との関係を深めていったことも窺えます。一方、同じ日本海沿岸でも鳥取市青谷上寺遺跡は、九州北部系土器の出土がないことから、直接的に朝鮮半島と交易したのだろう、と推測されています。古墳時代前期前半になると、九州北部の交易拠点が伊都国から博多湾へと移動し、出雲を主体とする山陰系土器が多いことから、古墳時代初期の朝鮮半島交易では出雲が重要な役割を担っていた、と考えられます。この交易において主要な輸入品は鉄素材で、その対価として奴隷(生口)などが輸出されていた、と想定されています。古墳時代の出雲では四隅突出墓というひじょうに特徴的な墓が築かれ、瀬戸内海西部や九州北部の海人集団もしくはそれに連なる人々を配下として、朝鮮半島と交易していた、と推測されています。4世紀前半になると、博多湾で交易の中心だった西新町遺跡が突如として廃絶し、山陰の代表的な津も一斉に衰退します。本論考はこれを、倭王権が九州北部の交易機構を介さずに直接的に朝鮮半島南部との交易路を確立し、出雲のそれまでの対朝鮮半島交易の役割が終了したことを反映している、と解釈しています。


第13講●諫早直人「騎馬民族論のゆくえ」P291〜314
 騎馬民族日本列島征服王朝説(騎馬民族説)は、一般層にも広く知られている仮説で、現在でも支持者は一定以上いるようです。しかし本論考は、騎馬民族説は当初から一貫して、研究者の多くの反応は拒否あるいは冷淡だった、と指摘します。これは一般層、とくに騎馬民族説支持者にはあまり知られていないことでしょうから、新書など一般向け書籍で何度も繰り返し指摘する必要があると思います。ただ本論考は、日本列島において古墳時代中期に、それまで見られなかったウマや騎馬の風習が出現して短期間に定着していった、という事実が騎馬民族説の提唱とそれに対する学界の反応で生まれたことは、騎馬民族説の功績と言えるのではないか、と指摘します。この問題に関しては、韓国における経済発展に伴う発掘調査の進展と中国東北部における新資料の公開により研究が大きく進展した、と本論考は指摘します。これにより、馬具を副葬しない中原地域と、盛んに副葬するアジア東北部(中国東北部・朝鮮半島・日本列島)の対比が明らかになりました。

 日本列島におけるウマは、馬具とともに古墳時代中期にもたらされた、との見解が今では有力です。ただ、それ以前にわずかながらウマと馬具が導入された痕跡も確認されていますが、本論考は、日本列島におけるウマの導入は、どんなに早くても準構造船の出現した弥生時代以降で、古墳時代中期よりも前のウマや馬具の導入は散発的で、それ以降とは規模も質も大きく異なっていただろう、と指摘します。日本列島における初期の馬匹生産地としては、大阪府にある生駒山山麓の蔀屋北遺跡周辺が候補とされています。古墳時代中期の馬具生産については、渡来人の指導下に在来倭人が協業していたのではないか、と推測されています。古墳時代中期に始まった馬匹生産は、100年ほどで東北北部・北海道・南西諸島以外の琉球弧を除く広範な地域に拡大し、定着します。これは、単に交通手段としての利便性だけではなく、ウマの安定的供給源を求めた倭王権と、馬匹生産という新産業に活路を見出した地域首長という双方の思惑を考慮すると理解しやすい、と本論考は指摘します。

 古墳時代の騎馬文化の範囲は、おおむね前方後円墳の範囲と重なります。本論考は、日本列島における初期の馬具の直接的系譜は朝鮮半島南部の各地にあり、特定の地域に収斂しないことから、日本列島の騎馬文化が征服活動によりもたらされたという説明は成立せず、あくまでも日本列島の社会における需要の高まりを前提として、倭がさまざまな地域と主体的に交渉した結果だろう、と指摘します。倭がこの時期にウマを必要とした背景として、高句麗との軍事的衝突が想定されています。


第14講●北條芳隆「前方後円墳はなぜ巨大化したのか」P315〜346
 本論考は前方後円墳の巨大性について、国家形成過程の一環として考えると矛盾する、と指摘します。まず、墳丘規模の拡大は先代墓とに競合を招来し、祖先の神格化を阻みます。次に、支配力から見ると過剰な労働力が投下されていることです。治水などの公共事業に傾注すべきところを、一代限りの墳墓に富を浪費しては、社会の不満が高まっただろうし、国家形成過程の一環として、古代「中国」諸王朝は墳墓よりも祭礼空間としての宮都の造営を優先した、と本論考は指摘します。さらに、前方後円墳おいて規模の格差は明確であるものの、基本構造や副葬品の組成には共通点が多く、中央集権化を志向する王権とは異質な政体の集合体もしくは同盟で、部族同盟だっただろう、と本論考は指摘します。本論考が最も重視するのは、浪費は権力者側に蓄積されるはずの富の放出なので、次世代の親族に資産を残せず、成層化や身分序列の固定化とは正反対の平準化や均等化に向かう、ということです。

 本論考が重視するのは高句麗です。高句麗は漢から冊封され、朝鮮半島を南下し、百済と新羅の形成を促しました。その高句麗が最も敵視したのが倭で、倭も高句麗への対応に負われたことが、前方後円墳巨大化の鍵になる、と本論考は指摘します。さらに本論考が重視しているのは、当時の高句麗と倭がともに首長制社会だった、ということです。高句麗も厚葬で、こうした首長制社会では階層化があまり進展しません。倭も、上層の「大人」、一般層の「下戸」、奴隷の「奴婢」や「生口」といった程度の階層分化でした。こうした社会では、王位が特定の一族に世襲されないことがあり、首長は民衆に対して常に再分配を強いられた、と本論考は指摘します。倭ではそれが古墳の造営であり、おそらくは貨幣としての機能も有していた稲束と稲籾が対価として支払われたのだろう、と本論考は推測します。

 本論考は、当時の推定人口と生産力から、最大級の前方後円墳でも十数年程度で造営可能と推算しています。前方後円墳の巨大化の背景として、首長間の競合と人口および生産力の増加が指摘されています。また、寒冷化と高句麗の南下による朝鮮半島の不安定化による朝鮮半島から日本列島への渡来人の増加が、古墳時代における文化要素の朝鮮半島化を促したことも指摘されています。また本論考は、寒冷化のなか、日本列島の穀物生産量が前代までより相対的に高句麗に対して優位になり、鉄などをめぐる交易で競合関係が強くなったことこそ、倭と高句麗の対立激化の背景にあるのではないか、と指摘しています。本論考の見解は壮大たいへん興味深く、今後も調べていきたいものです。
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_20.html

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