http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/153.html
Tweet |
第25代日本銀行総裁(1984-1989年) 澄田智がやった事
その昔、日本は国民総ででバブルに踊った時代がありますたね。
バブルを起こして潰す。奴らの詐欺手口の最たるものですた。
バブルがはじけて今では失われた10年と言われていますが、今だに日本経済はその後遺症を引きずっています。自殺者はバブル崩壊から毎年3万人。今だにその数は変わっていません。
その手口を見れば分かるのですがいつもワンパターンです。
最初は甘い話でカモを釣る。こうやれば儲かりますよ。おいしい話でカモを誘います。
そしてころ合いを見計らって真っ逆さまに突き落とす。詐欺師の典型的なパターンです。
最初に奴らはバカスカ札束を刷って、バブルを引き起こす。銀行は貸して貸して貸しまくる。株に投資すれば儲かるよ。土地を買えば儲かるよ。そしてカモが罠にかかったころ合いで急に蛇口を閉める。貸し渋りをやるわけです。
これをやられたら投資家はいきなり資金難に陥ります。そして、資金難に陥ったカモ達から担保として株、土地、あらゆる資産を奪い取るのです。昔からやっていることは同じです。
いい加減気付いたらどうかと思うのですが、今だに引っ掛かっている人がいます。
その当時の日銀総裁であった澄田智(すみださとし)と言う方をご存じでしょうか。日銀退官後は日本ユニセフ協会の会長などをやっていた方です。
澄田さんがバブル潰しの張本人と言われています。
プラザ合意以降、5%だった金利を2.5%に下げ、銀行は貸して貸して貸しまくった。その当時は、黙ってても銀行が頭を下げて貸しに来たという話は誰でも覚えているはずです。そういうジャブジャブ溢れた資金が株や不動産に流れ込んだ。借金しても金利は安いし土地や株を買えば値上がりするしで猛烈なバブルが起きたのですた。
そしてバブルが膨らみきったころ合いを図って、澄田さんはいきなり公定歩合を8%、長期金利は 10%まで引き揚げた。蛇口を閉めたのですた。借金すると金利が高い。値下がりリスクのある株や不動産よりも安全な銀行預金の方が良いということで投資家は一斉に株と不動産から資金を引き上げた。土地や株は一気に値下がり=バブル崩壊と言われています。
バカスカ金を貸し出して狂乱状態を作ってからブルを破裂させる。
その後には膨大な焼け野原、不良債権の山だけが残る。
それを二束三文で奴らが買い叩く。
昔からの手口。ばればれの三文シナリオだったのですた。
さて、それにしても、そのバブル潰しの張本人澄田さんはどのような経歴の持ち主だったのでしょうか。
澄田さんと言えばフランスに留学した留学組で、その後ベルギー大使館、フランス大使館の一等書記官からキャリアをスタートしたエリート官僚ですた。
そしてその後は、順調に大蔵省で出世して日銀総裁になっています。
澄田さんとフランス財界のつながりはお父様の代から囁かれていますた。
澄田智さんは、日銀総裁を辞めた後、ロス茶イルドフランスの旗艦、投資銀行ラザール・不レールに最高顧問として天下りしています。
ちっとはカモフラージュでもして隠せと思うのですが、親子二代に渡って奴らの充実な部下だったという、そのまんまの経歴の持ち主ですた。
http://goldentamatama.blog84.fc2.com/
▲△▽▼
誰が法律を作ろうが関係ない 2009/10/12
さて、奴らは言います。
「我に通貨発行権を与えよ。そうすれば誰が法律を作ろうが関係ない」
日銀が奴らの出先機関だと書いたら反論がありますた。
日本銀行の株の55%は財務省が保有しているから日銀は日本政府の持ち物であって、奴らの手先とは言えないでしょうというご指摘ですた。
確かにまぁ法律上の話はそういう話になります。
しかし、いろいろと歴史を見れば、そんなものは単なるカモフラージュの理屈付けなのが分かると言うものです。
その昔、日本は国民総ででバブルに踊った時代がありますたね。
バブルを起こして潰す。奴らの詐欺手口の最たるものですた。
バブルがはじけて今では失われた10年と言われていますが、今だに日本経済はその後遺症を引きずっています。自殺者はバブル崩壊から毎年3万人。今だにその数は変わっていません。
その手口を見れば分かるのですがいつもワンパターンです。
最初は甘い話でカモを釣る。こうやれば儲かりますよ。おいしい話でカモを誘います。
そしてころ合いを見計らって真っ逆さまに突き落とす。詐欺師の典型的なパターンです。
最初に奴らはバカスカ札束を刷って、バブルを引き起こす。銀行は貸して貸して貸しまくる。株に投資すれば儲かるよ。土地を買えば儲かるよ。そしてカモが罠にかかったころ合いで急に蛇口を閉める。貸し渋りをやるわけです。
これをやられたら投資家はいきなり資金難に陥ります。そして、資金難に陥ったカモ達から担保として株、土地、あらゆる資産を奪い取るのです。昔からやっていることは同じです。
いい加減気付いたらどうかと思うのですが、今だに引っ掛かっている人がいます。
その当時の日銀総裁であった澄田智(すみださとし)と言う方をご存じでしょうか。日銀退官後は日本ユニセフ協会の会長などをやっていた方です。
澄田さんがバブル潰しの張本人と言われています。
プラザ合意以降、5%だった金利を2.5%に下げ、銀行は貸して貸して貸しまくった。その当時は、黙ってても銀行が頭を下げて貸しに来たという話は誰でも覚えているはずです。そういうジャブジャブ溢れた資金が株や不動産に流れ込んだ。借金しても金利は安いし土地や株を買えば値上がりするしで猛烈なバブルが起きたのですた。
そしてバブルが膨らみきったころ合いを図って、澄田さんはいきなり公定歩合を8%、長期金利は 10%まで引き揚げた。蛇口を閉めたのですた。借金すると金利が高い。値下がりリスクのある株や不動産よりも安全な銀行預金の方が良いということで投資家は一斉に株と不動産から資金を引き上げた。土地や株は一気に値下がり=バブル崩壊と言われています。
バカスカ金を貸し出して狂乱状態を作ってからブルを破裂させる。
その後には膨大な焼け野原、不良債権の山だけが残る。
それを二束三文で奴らが買い叩く。
昔からの手口。ばればれの三文シナリオだったのですた。
さて、それにしても、そのバブル潰しの張本人澄田さんはどのような経歴の持ち主だったのでしょうか。
澄田さんと言えばフランスに留学した留学組で、その後ベルギー大使館、フランス大使館の一等書記官からキャリアをスタートしたエリート官僚ですた。
そしてその後は、順調に大蔵省で出世して日銀総裁になっています。
澄田さんとフランス財界のつながりはお父様の代から囁かれていますた。
澄田さんのお父さんは何をやっていた人でしょうか。
澄田ライ四郎という方です。
第二次世界大戦中、満州の軍司令官ですた。
実はお父さん、ライ四郎さんの代から澄田さんはフランスとべったりな関係ですた。ライ四郎さんも元はフランス陸軍大学で学びんだフランス駐在武官だったのですた。その後、日本陸軍で出世して満州での軍司令官になったのですた。
『蟻の兵隊』という映画をご存じでしょうか。
『蟻の兵隊』
監督:池谷 薫 主演:奥村和一
2005年|日本|カラー|35mm|1時間41分|ヴィスタ|製作・配給 蓮ユニバース
第2次世界大戦後も中国に残留し、中国内戦を戦った2600人もの日本軍部隊があった。
世界で初めて"日本軍山西省残留問題"に正面から切り込んだドキュメンタリー。
https://www.youtube.com/watch?v=wH92AduwJcU
この映画は、満州で戦っていた大勢の日本兵が置き去りにされた悲劇を描いたものですた。日本兵を大勢、満州に置き去りにして一人ライ四郎は日本に逃げ帰った。残された日本兵の多くが死んだ。北斗の拳のケンシロウさんも真っ青の大量虐殺拳の使い手、それがライ四郎さんですた。
実はライ四郎さんは、戦争前からすでにフランスロス茶イルドキチガイ男爵さんの手下だったのですた。戦後は戦争犯罪人として裁かれると思いきやGHQは無罪放免。
満州の軍司令だった人間です。普通は絞首刑でしょう。
誰でも知っていることですが、日本はその当時、中国で麻薬を売っていますた。
その麻薬、アヘンの生産地は東南アジア地方のフランス領の国ベトナム、ラオス、カンボジア。
もちろんフランス領ですた。
フランス領、東南アジアでアヘンを栽培し、中国で売っていた。
麻薬の生産、管理していたのはフランスの軍産企業ドレフェ須、今は穀物商社としての方が有名でしょうか。ADM(アーチャド駄ニエルミッドランド)=ドレフェ須です。
もちろんカーギルとならぶロス茶イルドキチガイ男爵の巨大穀物商社です。
ドレフェ須から仕入れて、中国で売りさばく。
その利益たるや膨大なものですた。
何度も書いているのですが、戦争というのは兵器産業と、麻薬産業のヤラセ金儲け祭りです。
澄田ライ四郎は、ロス茶イルドキチガイ男爵の手下。
ドレフェ須社の社員。
日本兵なんて置き去りにしようがなんだろうが、会社に忠誠を誓っていたのですから、そんなものは関係なかったのですた。
そして、ライ四郎さんの息子も立派にロス茶イルドさんの命令を実行しバブルを弾けさせた。
焼け野原に残された大量の日本人は死んでいった。ロス茶イルドキチガイ男爵の忠実な部下なのだから、日本人が凍死家になって死んでいこうがなんだろうが関係ないのですた。
満州に日本兵を置き去りにして大量に凍死させたお父上と奇しくもやっていることは同じだったのですた。
息子の澄田智さんは、日銀総裁を辞めた後、ロス茶イルドフランスの旗艦、投資銀行ラザール・不レールに最高顧問として天下りしています。
ちっとはカモフラージュでもして隠せと思うのですが、親子二代に渡って奴らの充実な部下だったという、そのまんまの経歴の持ち主ですた。
誰でも調べれば分かることです。
この地球は、キチガイが支配している。
法律などあってないようなものなのです。
法律など誰が作ろうが関係ない。
まぁ、まぁワタスのようなふんどし姿のキチガイが言っていることです。
こんな話を聞いても半信半疑なことでしょう。
皆様どうぞご自分でお調べになって下さい。
http://www.golden-kintama.com/?date=20091012&page=0
▲△▽▼
▲△▽▼
澄田智
澄田 智(すみた さとし、1916年9月4日 - 2008年9月7日)は、群馬県出身の第25代日本銀行総裁、元大蔵事務次官。
群馬県高山村に陸軍軍人・澄田睞四郎の長男として生まれる。父方の先祖は伊予国宇和島藩士の家系。
1934年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。同級生に中村彰(日本初の学士俳優)がいた。旧制第一高等学校を経て、1940年に東京帝国大学法学部を卒業後、大蔵省に入省。しかし、戦争の為、すぐに大蔵省を離れ、海軍経理学校に入校・卒業し、その後、従軍先のセレベス島にて終戦を迎える。
戦後、大蔵省に復帰。銀行局長時代に金融効率化行政を手掛け、太陽銀行誕生に力を発揮、1969年8月から1971年6月にかけて大蔵事務次官を務めた。「大物事務次官」の要件とされる2年間の任期を全うする。同省退官後は、輸銀に総裁として天下り、輸銀退任後には日本銀行に進む等、いわゆる「ロイヤル・ロード」を歩み続けた。大蔵省局長級以上の人事に関しても、澄田 - 竹内道雄の大物次官経験者ラインが、大きな影響力を及ぼしていたとされた。
1979年、前川春雄日銀総裁の下で副総裁職に就いたのだが、前川が輸銀時代には澄田の部下であったため(澄田輸銀総裁時代に副総裁職に居たのが前川であった)、この人事は「逆転人事」として話題を呼んだ。5年間の雌伏の時を経て、1984年に念願の第25代日本銀行総裁に就任。戦後、大蔵省の「ロイヤル・ロード」を極めたのは、山際正道・森永貞一郎に続いて3人目のことであった。
日銀総裁の座に就いた澄田の前には、日米貿易摩擦と円高圧力の難局が待ち受けていた。折からのアメリカの対日貿易赤字の拡大に際して、アメリカ側は日本側への政治的圧力を強めてきていた。1985年のプラザ合意でドル高是正が行われ、円レート決定は完全な自由相場制に移行し急激な円高となった。
澄田は金融当局の最高責任者の1人としてこの問題への対応を迫られ、プラザ合意直後は公定歩合を据え置くとともに無担保コールレートを上昇させるという短期市場金利の「高目放置」路線をとったものの[1][2]、大蔵省の要請や円高不況への懸念により、遅ればせながら翌1986年に入り金融政策の大幅な緩和へと舵を切った。1987年10月のブラック・マンデー後にはドル暴落懸念もあって、日本経済がバブル景気のただなかにあっても金融引締めへのかじ取りができず、日本経済は日経平均株価が1989年の大納会(12月29日)に最高値38,915円87銭のピークをつけるまでの過熱に到ってしまった。このことに関して、澄田が日銀副総裁の頃、ある立食パーティで倒れかかったことがあって、後輩の竹内道雄らが緘口令を敷いた。総裁後半期の超低金利政策のミスは、あるいは何らかの持病の影響があったとも指摘されている[3] 。
澄田は日銀総裁を退任した後、仏投資銀行ラザール・フレール顧問に就任。その後任には日銀プロパーの三重野康が就いた。
日本銀行総裁退任後、1993年2月9日の元外務大臣の大来佐武郎会長の死亡をうけて、同年9月から長年にわたり日本ユニセフ協会会長を務めたが、高齢により2008年2月29日をもって会長職を退任した[4]。
1990年勲一等旭日大綬章受章。2008年9月7日午後3時10分、肺炎のため、東京都港区の虎の門病院にて死去[5]。92歳没。従六位から従三位に昇叙された。
学歴
1929年 - 小石川区駕籠町小学校卒業
1934年 - 東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業
1937年 - 第一高等学校卒業
1940年 - 東京帝国大学法学部卒業
経歴
1940年4月 大蔵省入省
1940年5月 海軍経理学校に入校
1940年9月 卒業
1945年 セレベス島で終戦を迎える
1946年6月 - 大蔵省に復帰、理財局経済課課長補佐
1949年 - 内閣法制局参事官
1949年 - 理財局外債課長
1952年 - 在ベルギー大使館
1955年 - 在フランス大使館
1956年 - 理財局資金課長
1957年 - 理財局総務課長
1960年 - 福岡国税局長
1961年 - 大臣官房財務調査官
1963年 - 主計局次長
1965年 - 経済企画庁官房長
1966年 - 銀行局長
1969年 - 事務次官(〜1971年)
1972年 - 日本輸出入銀行総裁(〜1978年)
1979年 - 日本銀行副総裁
1984年 - 第25代日本銀行総裁
1989年 - 日本銀行総裁退任
1991年 - 金融制度調査会会長
1993年 - 日本ユニセフ協会 会長(〜2008年2月)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%84%E7%94%B0%E6%99%BA
▲△▽▼
澄田らい四郎
澄田𧶛四郎(すみた らいしろう、1890年(明治23年)10月21日 - (昭和54年)1979年11月2日)は、日本の陸軍軍人。陸士24期・陸大33期首席。最終階級は陸軍中将。
経歴
本籍愛媛県。澄田忠興(陸軍中佐)の四男として名古屋で生れる。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1912年(明治45年)5月28日、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月砲兵少尉に任官し重砲兵第4連隊付となる。陸軍砲工学校高等科を卒業し、澎湖島重砲兵大隊付、陸軍重砲兵射撃学校教官などを経て、1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(第33期)を卒業(首席[1])。
由良重砲兵連隊中隊長、陸軍省軍務局付勤務(砲兵課)、軍務局課員、フランス駐在などを経て、1925年(大正14年)から3年間、フランス陸軍大学校で学んだ。フランス滞在中には、フランスに留学していた甘粕正彦とも親交があった。
帰国後、陸大教官、参謀本部部員、兼軍令部参謀、フランス大使館付武官、陸大教官、参謀本部課長、野砲兵第3連隊長、砲兵監部部員、独立重砲兵第15連隊長などを歴任し、1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級した。
野戦重砲兵第6旅団長、陸軍重砲兵学校長、大本営参謀(仏印派遣団長)などを経て、1940年(昭和15年)の北部仏印進駐にあたってハノイに出発する際、東條英機陸相から「悪くなっている仏印側の対日感情を和らげること。フランス側には平和進駐であることを徹底せしめよ」と訓辞を受けている[2]。1941年(昭和16年)7月、南部仏印進駐に際しても現地で折衝にあたる。翌8月、陸軍中将に進級。同年9月、第39師団長に親補され、宜昌の警備に当たる。1944年(昭和19年)11月、第1軍司令官に転じ、太原で敗戦を迎え、1949年(昭和24年)2月に復員した。
なお、第1軍の将兵のうち2,600名は大陸に残留し、中国国民党系の閻錫山の軍隊に参加して、3年半以上にわたって中国内戦を戦うことになったが、この残留が澄田と閻錫山との密約に基づくものであり、澄田は部下将兵を「売って」帰国したのである、という説がある[3]。支那派遣軍参謀として敗戦を迎えた宮崎舜市中佐(陸士40期・陸大51期恩賜)は[1]、澄田による「残留命令書」を見たと証言している[4]。
栄典
PRT Military Order of Aviz - Commander BAR.png アヴィス勲章コマンダー:1930年(昭和15年)7月24日[5]
親族
長男 澄田智(日本銀行総裁)
兄 澄田建三(陸士18期、陸軍中佐)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%84%E7%94%B0%E3%82%89%E3%81%84%E5%9B%9B%E9%83%8E
▲△▽▼
澄田らい四郎がやった事
終戦後 満州・朝鮮での「接待」とは
満州からの帰国者は被害者なのに加害者扱いされた
日本人を捨てて逃げた皇軍
最近第二次大戦終了後の満州などで行われた「接待」が問題視されています。
この問題が特異なのは事件が1945年8月15日つまり終戦後に発生し、被害者の日本人は「加害者」に仕立て上げられた点です。
順に説明すると1945年8月、敗戦を確信した関東軍(日本陸軍の満州駐留軍)は大本営の指示を受け密かに全軍を南朝鮮に移動させた。
8月9日にソ連軍は満州に侵攻したが、本格戦闘には至らず「日本軍が下がった分だけソ連軍が前進」する戦略を取った。
極東のソ連軍は弱く、満州の日本軍が本気を出せばまだまだ強敵なので、日本軍が下がるのを待ったのでした。
8月9日に関東軍は満州脱出を開始したが、「我々はソ連軍と最後の決戦に向かう」と日本人をだまして夜逃げしました。
満州国の首都新京では数十万人の日本人居留民が日の丸の旗を振って送り出したが、実は朝鮮半島まで我先に脱走したのでした。
騙された日本人居留民100万人は押し寄せる中国人やソ連兵におそわれ、30万人から50万人が現地でなくなりました。
この時残された日本人居留民は中国人やソ連兵に命乞いするために、自分の娘を差し出して「接待」をさせました。
ソ連兵に日本人の女を差し出した
ソ連兵の規律は悪く、居留民の全てを奪ったので、カメラを没収され終戦後の満州の写真も残されていません。
それでも大勢が集まっていた新京では居留民が協力して大きな被害はなかったが、農村や朝鮮半島北部は深刻でした。
関東軍は黙って逃げ去ったので日本人はどうしたら良いか分からず、38度線まで逃げれば良いのに途中でとどまった人が多かった。
38度線の南側はまだ日本軍が駐留し規律が守られていたが、北側は無政府状態になった。
やはりソ連兵に命乞いをするため、避難民の中の年頃の娘を差し出しました。
また朝鮮人もソ連兵の気に入られようと、日本人をおそって金品を奪って差し出したり、娘をさらってソ連兵に差し出したりした。
そうしてソ連のお気に入りになった人間が後に北朝鮮で要職を占めることになった。
命からがら日本まで逃げ帰った人々は、戦後GHQの方針で「侵略者」と定義され加害者扱いされることになった。
このように接待をやらされた人や日本人居留民たちは、被害者であるにもかかわらず加害者のレッテルを貼られることになった
http://www.thutmosev.com/archives/78224941.html
____
【日本人慰安婦の話〜橋下“維新の会”は聞け 美輪明宏】(2013年6月のライブドアニュースより)
今日はですね、橋下さんが発言しちゃって問題になっております、従軍慰安婦問題。
あれは若い方はトンチンカンで、何の話だか全然お分かりにならないんじゃないかと思いますね。10代後半20代30代の方なども。
従軍慰安婦というのは半世紀以上前の第2次大戦の戦争中のお話でしょう。メディアは終戦記念日に近くなると、爆撃でやられた話とか、そういった人たちを取材した話ができますでしょう。
でも従軍慰安婦の人たちは直に話を聞けないんですよね。
韓国と中国の従軍慰安婦の人ばかりが取り上げられますけれども、日本人の従軍慰安婦の人たちもいたんですよ。いっぱいいたんです。
でも日本人慰安婦たちは何故取り上げないのかといったら、その人たちが、もう酷い目に遭ったんですね。
まず、私が何故そんなことを知っているかと言いますと、終戦後にその人たちが満州、つまり今の中国から引き揚げてきたんですね。
引き揚げてきて私、長崎でございましょう。長崎には丸山遊郭という有名な、女郎さん遊女たちがいて売春する、そういう街があったんですね。
坂本龍馬なども遊んでいたような有名な所ですね、日本の3大遊郭という。
これが、戦争中にカフェやバーも遊郭もみんな閉店させられて全部が商売営業停止になったんですよ。そしてその人たちは行き場が無くなったんですね。
どういう人たちが遊女になっているかというと、人身売買が当たり前の時代でしたから、貧しい農家の娘さんたちが、自分が売られていけばお父さんもお母さんも弟たちも飢え死にしないで済むからといって、女衒(ぜげん)と言われる人買いに連れられて遊郭に身を売られていったんですね。
一家の犠牲になっている貧しいお嬢さんたちが多かったんです。
閉鎖されて行き場が無くなった時に、軍の出先機関で大政翼賛会という組織があったんです。
そこの人に「満州に良い仕事があるぞ」と声をかけられ、カフェとか遊郭があるから、そっちへ行って稼げばいいということで、そして喜んでそちらへ行ってみたらなんと、話が違って従軍慰安婦だったというんですね。
従軍慰安婦の人たちは、軍に従うと書いてあって第一線を付いて周るんですね。
そして筵(むしろ)みたいなものを敷いて、コーリャンという麦よりももっと不味(まず)い穀物で作った真っ黒いおにぎりですけれど、私も長崎で食べたことがありますけれど、食べられた物じゃないです。
それを枕元に置いて食べながら、表には兵隊たちが木札をもってズラリと並んで、それを一人ひとり(セックスの)相手をして。
そして敵が来たら身を守るためといって銃の練習をさせられて、敵が押し寄せてきますでしょう、馬賊とか匪賊(ひぞく)とか。そうすると兵隊と一緒に戦うんですって。
戦って流れ弾に当たって死んだら、今度は日本婦人がそういうことをしていたというと恥になるからといって、モンペやなにかを脱がして支那服に着替えさせられて、そして放り出されるんですって。
そして埋めてももらえない。焼いてももらえない。野ざらし、雨ざらし。山犬の食い荒らすままになっていて。
終戦後に引き揚げてくるときに、まず軍人の将校たちと家族がトラックに乗って逃げて、自分たちは置いてきぼりになったんですって。
他の移民団、開拓団の人たちと一緒になって、命からがら引き揚げてきて村に帰ったら、村の恥さらしとか面汚しとか言われて。
そして家へ帰ったら、自分はお父さんお母さん、一家のために売られて行ったのに、「お前のやっていたことが世間様に知られたら、家の恥になる、出て行ってくれ。」と。
だから、みんな自分が従軍慰安婦だったというのを隠しているんですよ。
だから日本人の従軍慰安婦は一人も出てきませんでしょう。そういう事情があるんですね。
- 第68・69代総理大臣(1978年-1980年) 大平正芳がやった事 中川隆 2019/3/11 10:47:07
(0)
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。