http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/129.html
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南京大虐殺30万人は過大評価なのか?
南京大虐殺の証拠〜当時の記録映像と生存者の確実な証言 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=uyVeMusrS-k
日本軍の記録に残る南京大虐殺(軍命令により実施) - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=20HWTlXY-Wc
南京事件資料集
http://www.geocities.jp/kk_nanking/
南京事件(南京大虐殺)の真実
「徹底した史料の読解によって、南京事件の真実を明らかにします」
「否定派の解釈の誤りと、捏造のすべてを明るみにだします」 by タラリ
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm
▲△▽▼
鬼頭久二(1916年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊
南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、
「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」
ちゅう命令やった。
天皇陛下の命令やと言ったな。
当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。
沢田小次郎(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班
この中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が出ました。
つまり虐殺でした。残虐な攻略戦で、その残虐さは南京に入ったらすぐそうでした。
(略)
南京攻略戦はちょっとやりすぎでした。
反日の根拠地というので、南京に入るまでは家を全部焼けという命令がずっと出てました。
するとまた後続部隊が泊まる所がないからといって、家を焼くのを中止したんです。
とにかく「家は全部焼いて、人間は全部殺せ」という命令でした。
命令が出てなかったらこっちはしませんよ。北支の戦争では
「兵隊以外の者は絶対に怪我人を出したらあかん」という命令が出ていました。
だから北支は戦争しにくかったです。
でも南京攻略戦は手当たり次第やったので、戦争がしやすかった。
それももちろん命令があったからです。皆伝え聞いて分かっていました。
中支では、上陸してからずっとやりたい放題にやっとったんです。
その代わりこっちの被害も多かったですな。あそこは支那の部隊も集中してました。
http://www.geocities.jp/kk_nanking/mondai/gyakusatu.html
___
戦後、蒋介石政府は、中島の第16師団と、「阿修羅」との名をもつ谷の第6師団を、南京攻略の際に39万人の生命を奪った罪で告発した
中国軍の退却が始まった後も、前線の日本軍師団はその追撃の手を緩めなかった。東京の参謀本部は、地図上に線を引きながら、そこが進攻の止まる停止線と発表し、欧米の報道陣に一大ショーを披露していた。
その線上で、兵員は再編成され、天皇よりの秘密指令を受け取るやいなや、ふたたび行動を続けた。
だが、そうした命令の存在は、1964年に、退役した大将たちのグループが本を出版するまで、公表されることはなかった。
当時、外国人報道陣向けに、前線にいる兵士たちはもはや手に負えず、統制がとれなくなっている、との印象が意図的に作られていた。
だが真実は、兵士たちは大本営が皇居で設立され、自分たちの行動が神的な天皇自身によって監視されていることを知っていたため、それほどに周到で従順な兵は、かっていなかったことである。
最初の停止線は、揚子江デルタを横切り、11月4日に引かれた。11月24日に、すべての師団がそこに到着した時、天皇の命令(45)により、それは解除された。
参謀本部は、同じ日、80キロ西方に、第二の停止線を設定した。裕仁は、非公式には三日後に、公式には七日後にそれを解除した。
松井にあてた最初の電報(48)はこう告げていた。
南京攻撃への一致した決定を得るべく、当本部の面々は着実な議論に取り組んでいるが、最終決定にはいまだ至らず。ともあれ、決定は間近であるので、安心されたし。
松井のもとの参謀将校たちにあてた、第二の、極秘、至急電報(49)はこうなっていた。
余は、余の最高幹部の決定いまだ得ずとも、当本部の核心は南京攻撃に傾注しつつあり。しかるに、これを理解し、予断を打ち捨て、前進計られたし。
ここに言う「当本部の核心」とは、電報を打った下村少将を別にして、天皇裕仁のみであった。また、「最高幹部」とは、もちろん、苦闘する多田中将のことである
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1.htm
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南京大虐殺「史上未曽有の強姦事件」の全貌があきらかに!
「連隊長藤原保中将が、その状況を見て、この町の女も強姦で消滅すべきだと言いました」
2010年12月29日発表
宮本大尉の手紙 戦地郵便
吉川資君・・
僕は死にませんでした。十二月十二日、三方面に分かれて南京を包囲しました。南京政府と軍隊が潰走したにもかかわらず、われわれは十三日に予定通り攻撃を始めました。
今日は、僕は最初に中華門から南京城に突入した一人です。道々には、手を挙げて降参した中国兵と難民であふれていました。
午後、秋田の藤田一郎が住民宅に隠れている一人の少女を強姦しました。小隊長はビンタを食わしたが、視察で通りかかった連隊長藤原保中将が、その状況を見て、この町の女も強姦で消滅すべきだと言いました。
この話が伝わるや否や三分足らずして、僕たちは二十人の女を家の中に押し込みました。正直な話、最初は多少不安だったが、うまくやっている仲間たちを見ているのがばからしくなり、臆病者ではないかとさえ思いました。
僕が不器用そうに一人の中国人娘と争っているのを見て、小隊長は近寄ってきて、足をあげ、革靴で彼女の腹部を思い切りけっ飛ばしました。彼女は悲鳴をあげて、争うのをやめて、地面に倒れ、額に冷汗をたらしていました。
(中略)
みんなは激しい戦闘に身を投じているように、わめきながら地面に倒れた女に飛び掛かって行きました。とても刺激的なので、みんなは先を争う精神を呼び覚ましていました。
ついに僕も名の知らないこの女をやっつけました。彼女は、顔をそむけ、泣き続けていましたが、争うのをあきらめました。年齢はせいぜい十五歳でしょう。しかし、抵抗の力はなかなかのものでした。僕は体を起こして他の女を見たら、ほとんどただ泣いていて、我が軍の兵士の思うままにされていました。
北支の至る所で見かけた貞節の石碑から、中国人女は気性が激しいと思っていたが、ここでは、そのような様子は感じられませんでした。しかしその後、つまり皆が終わりかかった時、僕の下にいた娘が、急に裸のまま飛び上がり、山田の腰の刀を抜き取りました。彼女が刀を持って立ち向かってくるのを防ぐべく、僕たちも裸のまま飛び起きました。わけの分からない叫び声をあげながら、彼女は狂った雌犬のように刀を振り回しました。その間に他の女も起き上がり、背をこっちに向けて、裸のまま抱き合っていました。
その状況がすこぶる刺激的であったため、僕たちはまた興奮しだし、彼女らに向かおうとしました。
その時、刀をもったあの女が、その刀を自分の首に当てて斬り付け、倒れました。皆が、びっくりしている間に、女たちは次々と刀を手に取り、首に当てました。先を争って彼女らはその刀を奪い、刀を手にすると躊躇することなく自刃し、地面に倒れました。目は大きく開き、傷口から、血が泡のように湧き出し、ももは痙攣していました。
僕たちは、裸の女たちが地面でのたうちまわり、死んでいくのを驚いて眺めていて、十何分ほども息をつくことさえできませんでした。軍法による制裁は免れないのではないかと恐れています。
しかし、家から出て、街の光景を見て安心しました。町は、兵士に追われて走り回っている裸の女、地面には死亡した男、六人の兵士に輪姦されている少女でごった返していました。一人の将校は、反抗する妊婦の腹を切り裂いて、こぶしの大きさの胎児を取り出していました。
集合の号令が聞こえてきたので、この辺で。
宮本
昭和十二年十二月十三日
南京にて
https://www.youtube.com/watch?v=pnU80VC2IV4&list=PLD2C309DF5CB3BFE3&index=5
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被害者30万人というのは事件直後の欧米人の最も信頼できる調査の結果で、電報で世界中に発信された:
30万人殺害は長江デルタ 南京大虐殺で英記者電報
【ロンドン21日共同】1937年12月中旬に始まった旧日本軍による南京大虐殺から65年。当時、「長江(揚子江)デルタで市民30万人以上が虐殺された」と上海から打電しようとし、日本人検閲官に差し止められた英紙記者の電報記事コピーを21日までに共同通信が入手した。
犠牲者数について、中国側の公式見解は南京だけで30万人とするが、日本では数千人−20万人など諸説ある。
電報では、犠牲者「30万人以上」は、南京だけではなく、上海なども含む長江デルタ地域全体の数字として記されていることが確認された。
電報は38年1月16日付。書いたのは英マンチェスター・ガーディアン(現ガーディアン)紙の中国特派員ハロルド・ティンパリー記者(54年死去)。 電報のコピーは、英中部マンチェスター大学のジョン・ライランズ図書館書庫に保管されていた。
2002/12/21 09:31 【共同通信】
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南京大学歴史学部博士課程指導教官で、南京大虐殺研究所副所長の張生教授を取材した際、昨年、米国立公文書館で南京大虐殺に関する資料を収集していたときに、極めて価値のある最高機密文書を発見したことを話してくれた。
日本の広田弘毅首相が1938年1月17日、東京から米国の日本大使館に発信した機密電報だ。米国はそれを解読していた。 (実際には広田自身ではなく、『マンチェスター・ガーディアン』の記者ティンパリーが書いたニュース)
電文の内容は
「数日前、上海に戻り、日本軍の南京とその他の一部地方での残虐行為に関する報道について調べた。信頼できる目撃者が直接数えた、また信頼度の極めて高い一部の人の書簡にもとづけば、それは十分に証明できるであろう。
少なくとも30万の中国平民が殺戮に遭い、その多くは極めて残虐で血なまぐさい虐殺だった」
というものだ。張生教授は
「これまでに収集した資料のなかでは、最も早く南京の30万人市民の殺戮に言及しており、証拠となるものです」
と指摘。さらに「米国や欧州などでも、第三者による史料の発見が相次いでいます。個人的な判断や細部の描写はやや異なるものの、南京大虐殺が一つの歴史事実であることは広く認められているのです」と強調した。
「北京週報日本語版」より2007年12月15日
ベイツは日本大使館に南京の惨状の報告を毎日のようにしており、その報告は日本外務省に届けられていた。
この報告を読んだ、広田弘毅の直属の部下、石射猪太郎は『外交官の一生』に
「南京は暮れの一三日に陥落した。
わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。
南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である」
と書いた。広田弘毅も同様の認識であったと見るほかない。
事実、アメリカ駐日大使ジョセフ・グルーは、外務大臣広田弘毅とベイツの報告について話し合っていた。その会見の様子はグルー自身がさらに南京のアメリカ大使館に電報で知らせ、ベイツもそれらの電報を直々に読んで確認していたのである。
http://wiki.livedoor.jp/nankingfaq/d/%B3%B0%CC%B3%BE%CA%A4%AC%C3%CE%A4%C3%A4%C6%A4%A4%A4%BF%A4%C8%A4%A4%A4%A6%A4%CE%A4%CF%B1%B3
当時の外務省東亜局長・石射猪太郎は、1938年1月6日の日記に、
「上海から来信、南京に於ける我が軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。
嗚呼、之が皇軍か」
と記述している。
※元資料:石射猪太郎 『外交官の一生』 中公文庫P.332〜P333 (1998年)
http://jseagull.blog69.fc2.com/blog-entry-496.html
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「人民網日本語版」2014年1月8日
日本軍文書:南京大虐殺で南京の人口が80万人近く減少
吉林省公文書館で最近、南京大虐殺の記録を含む日本軍の中国侵略に関する文書が見つかった。同文書によると南京大虐殺前後の2カ月半で南京地区の人口は113万人から34万5000人へと78万5000人減少していた。人民日報海外版が伝えた。
同文書は1938年2月19日と同28日に日本軍華中派遣憲兵隊の大木繁司令官が関東軍司令部に報告した2件の「南京憲兵管轄区内の治安回復状況に関する報告」。報告の「事変前後の人口対比」によると、「事変前」に南京の人口(下関を含まず)は100万人で、2月28日までに33万5000人が帰還し(戻り)、下関の人口は13万人で、後に1万人が帰還した。
1937年12月13日、中国侵略日本軍は南京を占領した。その後6週間、日本軍はこの世のものとは思えないほど残虐な手段で、中国の市民と軍の捕虜30万人以上を殺害した。だが日本には南京大虐殺の数字の矮小化、さらにはこの犯罪行為の否認を企てる者が常にいる。
今回の日本関東軍の文書は吉林省公文書館に保管されており、関東軍が中国東北部を統治していた1931年から1945年までの様々な事項が記録されている。現時点で中国侵略に関する世界唯一の関東軍文書であり、非常に貴重で、日本国内にすらないものだ。
1945年8月15日に日本が降伏を宣言すると、日本軍はこれらの文書を数日間かけて焼却したが、間に合わなかったものを地中に埋めた。これらの資料は1950年に吉林省の工事現場で発見された。(編集NA)
http://j.people.com.cn/94474/8507124.html
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南京大虐殺 Q&A
Q: 南京大虐殺があったかどうかの問題は、歴史学界などで検証されるべきなのですが、なかなかそれが行なわれないのは、無かった事を証明することは難しく、あったとする方が証拠を示して証明しなければならない。南京屠殺記念館が大規模に拡張改装されましたが、証拠写真とされる展示物も検証すると南京大虐殺を証明するものは一つもないということです。
A: 検証は何十年も前から行われて結果は既に出ており、世界中の歴史学会で南京大虐殺を疑う研究者は一人も居ない。
____________
回答集は色々なHPにあるので、question-answer の形で引用しておきました:
Q1: 故毛沢東党主席は生涯にただの一度も、「南京虐殺」ということに言及されませんでした。毛先生が南京戦に触れているのは、南京戦の半年後に延安で講義され、そして『持久戦論』としてまとめられた本の中で「日本軍は、包囲は多いが殲滅が少ない」という批判のみです。30万市民虐殺などといういわば世紀のホロコーストとも言うべき事件が本当に起こったとすれば、毛先生が一言もこれに触れないというのは、極めて不自然で不可解なことと思います。閣下はこの事実について、どのようにお考えになられますか?
A1:中国共産党は知らなかったか
http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/gunshu.html
________
Q2: 南京戦直前の1937年11月に、国共合作下の国民党は中央宣伝部に国際宣伝処を設置しました。国際宣伝処の極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』によりますと、南京戦を挟む1937年12月1日から38年10月24日までの間に、国際宣伝処は漢口において300回の記者会見を行い、参加した外国人記者・外国公館職員は平均35名と記録されています。しかし、この300回の記者会見において、ただの一度として「南京で市民虐殺があった」「捕虜の不法殺害があった」と述べていないという事実について閣下はどのようにお考えになられますか。もし本当に大虐殺が行なわれたとしたら、極めて不自然で不可解なことではないでしょうか?
A2: 中国は知らなかったか?
http://www.geocities.jp/yu77799/chuugoku.html
_________
Q3:南京安全区に集中した南京市民の面倒を見た国際委員会の活動記録が『Documents of the Nanking Safety Zone』として、国民政府国際問題研究所の監修により、1939年に上海の英国系出版社から刊行されています。それによりますと、南京の人口は日本軍占領直前20万人、その後ずっと20万人、占領1ヵ月後の1月には25万人と記録されています。この記録からすると30万虐殺など、到底ありえないとしか考えられませんが、閣下はいかがお考えでしょうか?
Q3: 二十万都市で三十万虐殺?
http://www.geocities.jp/yu77799/jinkou.html
________
Q4:『Documents of the Nanking Safety Zone』には、日本軍の非行として訴えられたものが詳細に列記されておりますが、殺人はあわせて26件、しかも目撃されたものは1件のみです。その1件は合法殺害と注記されています。この記録と30万虐殺という貴国の主張とは、到底両立し得ないと考えますが、閣下はいかが思われますか?
A4: 日本軍の暴行記録―「49人」か?
http://www.geocities.jp/yu77799/49nin.html
_________
Q5: 南京虐殺の「証拠」であるとする写真が南京の屠殺記念館を始め、多くの展示館、書籍などに掲載されています。しかし、その後の科学的な研究 (『南京事件の「証拠写真」を検証する』(東中野他・草思社)など) によって、ただの1点も南京虐殺を証明する写真は存在しないことが明らかとなっております。もし、虐殺を証明する写真が存在しているのでしたら、是非ご提示いただきたいと思います。そのうえで検証させていただきたいと思います。
A 5: 南京事件143枚の写真の再検証
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/143photos/mojimokuji.htm
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/143photos/sakuin.htm
「プロパガンダ写真研究家」松尾一郎の目の節穴度
東中野氏のむなしい「証拠写真の検証」を論駁する
上海南駅爆撃の写真判定をめぐって
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm
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真面目で優しい日本兵が平気で強姦殺人や猟奇的残虐行為をしたのは覚醒剤が原因だった
あなたは知っていますか?日本の軍隊は太平洋戦争で心の高揚に『ヒロポン』を常用させていました
覚せい剤服用
日本は、1941年大日本製薬メタンフェタミン製剤「ヒロポン」(覚醒剤)武田長兵はアンフェタミン製剤「セドリン」(覚醒剤)を海軍、陸軍に大量に納入しました。
特効薬として特攻隊員に菓子袋に入れてカジュアルに支給しました。
製品は、「ヒロポン」の周りをチョコレートで包み『菊のご紋章』を付けて納入していました。
出撃前に注射やチョコレートを特攻隊員に食べさせていました。それを食べた若者は、意気揚々と戦地に出撃し散っていきました。むごい、悲しいことです。これを書くと、涙がでます。
九州の基地では、1036人の特攻隊員に「アンプル」を投与。国を守るため計6000人が玉砕していきました。悲しい事実です。
精神を高揚させ、人間性を失くす「ヒロポン」は慰安婦問題や、南京事件を起こした悲しい現実があります。
日本政府は、大日本製薬 武田長兵商店に、覚醒剤の製造中止を勧告、昭和26年(1951年)覚醒剤取締法が制定されました。
西堀貞夫の父、西堀孝一は軍医として特攻隊のヒロポン支給の恐ろしさを知り、軍上層部に進言、ニューギニアの戦地アインで戦死しました。
この想いが私たちの原点です。患者の会には、この真実を知るたくさんの遺族の方がお見えになります。
映画「永遠の0」では明かせなかった特攻隊員の死の真実。彼らはヒロポンで人間性を失くし玉砕しました。
http://www.onkyo.tokyo/guntai.php
ドーピングを誘発しやすい社会だから覚醒剤が浸透していく
1945年、日本の敗戦の後、どさくさに紛れて売られていたのが「ヒロポン」と呼ばれる薬だった。
ヒロポンというのは、文字通り「疲労がポンと取れる」という意味で付けられた安易なものだったが、その内容は今で言うところの「覚醒剤」だった。
戦時中は兵士や特攻隊の士気を鼓舞させ、労働者や女工たちに眠気防止で武器弾薬を作るために使われていて、大日本製薬の主力の薬のひとつだった。
この当時はヒロポンの成分であるメタンフェタミンが強い依存性を持つことが知られていなかったので違法ではなかった。新聞にも、堂々と「除倦覚醒剤」と銘打って売られていた。
「除倦覚醒剤」とは要するに「疲れを除き、覚醒する薬」という意味で、このメタンフェタミン系のドラッグを「覚醒剤」というのはここから来ている。
戦中は軍民共に戦争に駆り立てられていたので、「疲れた」などと言っている場合ではなかったのである。
だから、軍需企業・民間企業共に、ヒロポンを大量にストックしていたのだが、敗戦後、この薬が闇市を通して社会に大量流通するようになった。
終戦後の作家は、みんなドラッグ漬けだった
ヒロポンは社会の底辺で広がっただけではない。有名人でもみんなこの薬を使っていた。何しろそれは違法ではなかったのである。
漫才トリオの正司歌江、ミヤコ蝶々、中村八大、桂文楽、六代目笑福亭松鶴等はみんなこのヒロポン中毒になっていた。作家で言えば、『堕落論』で知られている無頼派の坂口安吾もヒロポン中毒だった。
無頼派と言えば、織田作之助も田中英光も同じジャンルに入るのだが、この2人もまた坂口安吾と同じくヒロポン中毒だったと言われている。
織田作之助などはヒロポンを注射しているところを写真を撮られて、それが出回って話題になったという。
何か物を書くというのは孤独で単調な作業だ。そして、集中しなければならないので、精神的にも激しい疲労が蓄積する。当時の作家は、それをヒロポンで乗り切っていたのである。
芥川龍之介は小説『歯車』で幻覚を描いているのだが、この幻覚はヒロポンから来ているという説と、睡眠剤から来ているという2つの説がある。
そこには、歯車が見えたとか、銀色の翼が見えたとか、黄色いタクシーが見えたとか、過去の罪の残像が繰り返し現れるとか書かれていて、その幻影に主人公が怯えている。
ストーリーもなく、ただ意識の変容を揺れ動いているだけなので、どちらかと言えば睡眠剤のような雰囲気がある。詳しくは分からないが、精神的には相当追い詰められていたことが窺い知れる。
この小説の最後は、誰か自分が眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはいないか」となっている。実はこの小説は芥川龍之介が服毒自殺した後に発表されたものだった。その「死にたい」という述懐は本心であったと思われる。
荒正人という小説家もいたのだが、この人は自分だけでなく妻にもお手伝いさんにもヒロポンを飲ませて、一家総ヒロポン依存症になっていたという。
萩原朔太郎はヒロポン中毒ではなかったが、コカイン中毒だった。しかし、ヒロポンでの幻影は小説『猫町』で触れている。
私たちが今、日本の戦後文学としてありがたく詠んでいる文学は、その多くが覚醒剤で「ドーピング」された精神状態の中で書かれていた可能性がある。
無頼派作家、坂口安吾。執筆はヒロポンと共にあった。
ヒロポンがもたらす集中力は凄まじい効果だった
ヒロポンが意識集中のために使われていたというのは、覚醒剤依存者が48時間ずっと麻雀をやっていたとか、賭け将棋をしていたという逸話からも読み取ることができる。
凄まじい集中力が得られるので、ヒロポンが合法だった時代の学生は、東大受験のためにヒロポンを使うのが当たり前だったという。
この「受験のためにヒロポンを使った」というエピソードを聞くたびに私が思い出すのは、タイで知り合ったあるレディーボーイのことだ。
英語を流暢に話す彼はいったいどうやってその英語力を磨いたのか。もちろん、そこには仕掛けがあった。アンダーグラウンドでは、記憶力でさえも金で手に入ったのである。
(記憶力でさえ金で手に入れる。危険な方法が裏で流行している)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131023T0342460900.html
別にこのレディーボーイのやっていることはおかしなことではない。欧米のエリートたちも、スマートドラッグを使って同じようなことをやっている。
アスリートはドーピングで最強の身体的パフォーマンスを手に入れるが、エリートたちもまた「スマートドラッグ」というドーピングで最強の頭脳を手に入れていたということだ。
言うまでもないが、このスマートドラッグも覚醒剤とよく似た成分(アンフェタミン系)が入っているので、言ってみればヒロポンの現代版である。
副作用はもちろんある。しかし、副作用があったとしても、現役時代に最高のパフォーマンスが発揮できれば、地位も収入も約束されるわけで、これで人生を逃げ切ることができると考える人たちもいる。
ヒロポン錠。「疲労の防止と恢復に!」と堂々と宣伝されていた。この薬は1951年に覚醒剤取締法が制定されるまでは「合法」だった。
覚醒剤には潜在的に巨大な需要があるとも言える
戦後の混乱期にヒロポンを使っていた人は、どちらかと言えば快楽が欲しいというよりも、もっと労働したい、疲労を取りたい、馬力が欲しい、という切実な発想から摂取されたので、皮肉なことに真面目な人であればあるほど依存地獄にハマっていった経緯がある。
そして、ヒロポン依存になると、虫が身体を這い回るような幻覚や、わけの分からない幻聴に悩まされるようになり、暴れ回るような異常行動を引き起こす。
そのため、1951年には覚醒剤取締法が制定され、警察が大々的な摘発を行ったので、乱用者は激減していった。
しかしヒロポンは覚醒剤として生き残り、現代でも有名な歌手や野球選手が次々と覚醒剤依存に堕ちて逮捕される姿が繰り返されている。
今後も、「大物」が逮捕されるような流れが続くだろう。
覚醒剤はいったん地下に潜ることはあっても、絶対に廃れることがなく歴史を刻むのである。欧米でも、覚醒剤は「メス」「スピード」「アイス」と言われて依存者が減るどころか増え続けている現状がある。
覚醒剤はそれ自体に快楽があるというよりも、自分がこれからやりたいことを猛烈な集中力で取り組める「ドーピング作用」が強い。それが、恐ろしい魔力なのである。
自分の潜在的な能力を、一瞬にして最強フルマックスの状況に持っていけるのが覚醒剤である。そんなものを覚えてしまったら、覚醒剤のない人生など考えられなくなる。
現代社会は、常に人々に最高のパフォーマンスを求める時代である。そうしたプレッシャーは誰にでもかかる。言ってみれば、ドーピングを誘発しやすい社会なのだ。
そのプレッシャーは坂口安吾や芥川龍之介の時代よりも、はるかに強いと言える。だから、覚醒剤は今でも潜在的に巨大な需要がある。覚醒剤の流行はこれからも起きていく。
いかにも作家という雰囲気を醸し出している芥川龍之介。晩年は睡眠薬のベロナールやらジアールを大量に飲んでおり、結局は服毒自殺に追い込まれた。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160316T0122080900.html
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2008.03.11 覚醒剤「ヒロポン」の時代
http://20century.blog2.fc2.com/blog-entry-406.html
昭和十八年 新聞広告
秋田魁新報に掲載された中枢神経刺激薬、いわゆる覚醒剤の広告である。今では考えられないことだが、当時の覚醒剤に対する認識は「効果抜群の栄養ドリンク」程度のもので、薬局に行けば簡単に購入することができた。
広告の商品は大日本製薬から発売されていた「ヒロポン」錠剤、「倦怠感、憂鬱感を除去して爽快活溌となし、又眠気の防止あるいは除去に偉効があり、医界各方面に異常なる注目を喚起しております」とのこと。
しかし「ヒロポン」の実態は、一時的に「疲労倦怠感を除き、活力が増大」したように脳に錯覚させるだけで、薬が切れたときは何倍もの疲労感に襲われる傾向があり、長期間の乱用により幻覚作用が現れ、人格の崩壊につながる、きわめて危険な薬であることは言うまでもない。
大正八年に日本の科学者が合成したメタンフェタミンを用いた覚醒剤「ヒロポン」が市販されたのは昭和十六年(1893)、それと前後して、武田薬品工業「ゼドリン」、参天製薬「ホスピタン」、富山化学工業「ネオアゴチン」など、二十社を超える製薬会社から同様な処方の薬品が発売された。
なかでも「ヒロポン」の名が覚醒剤の代名詞のように使われたのは、そのユニークかつ覚えやすいネーミングのゆえだろう。
脳力・体力の覚醒賦活剤「アゴチン錠」甘糟商店
昭和十七年 雑誌広告
昭和十八年 雑誌広告
はじめは医療従業者の疲労回復や学生の試験勉強の際に使われていた覚醒剤、それに目を付けたのは軍部であった。夜を徹して働く軍需工場の作業員の眠気防止・疲労回復に使われ、視力向上効果があることから夜間監視の戦闘員、夜間戦闘機搭乗員などに支給され、「突撃錠」「猫目錠」などと呼ばれていたという。
こうして覚醒剤は時局に沿って「国策薬」としての役割を負わされることになるが、これはなにも日本に限ったことではない。米英をはじめドイツも兵士たちに覚醒剤を支給し戦意の高揚を図った。米国では第二次世界大戦以後も、ベトナム戦争、湾岸戦争を通じて、デキストロ・アンフェタミン製剤「デキセドリン」(通称・スピード)を一部の兵士に処方し続けた。
「ヒロポン」500錠入り
覚醒剤の弊害が表面化するのは戦後の混乱期のこと。敗戦の精神的虚脱にともなう刹那的享楽主義が蔓延するなか、軍部がストックしていた「ヒロポン」が大量に流出し闇で安価に販売された結果、乱用による中毒者が全国的に広がりはじめる。流出したのは純度の高いアンプル剤。ヒロポン中毒は「ポン中」と呼ばれ、「ヒロポン」は「国策薬」から一転「亡国への魔手」と称されるようになる。
一般市民のほかに芸能人、文筆家、芸術家などアーティストの多くが「ヒロポン」におぼれた。小説家では織田作之助、坂口安吾の常用が有名で、「ヒロポン」の登場する作品を残している。
‥‥前略‥‥ヒロポンを用いて仕事をすると、三日や四日の徹夜ぐらい平気の代りに、いざ仕事が終って眠りたいという時に、眠ることができない。眠るためには酒を飲む必要があり、ヒロポンの効果を消して眠るまでには多量の酒が必要で、ウイスキーを一本半か二本飲む必要がある。原稿料がウイスキーで消えてなくなり足がでるから、バカげた話で、私は要するに、全然お金をもうけていないのである。
坂口安吾『反スタイルの記』より(昭和22年「東京新聞」)
役者も踊り子も食えない。二日ぐらいずつ御飯ぬきで、ヒロポンを打って舞台へでる。メシを食うより、ヒロポンが安いせいで、腹はいっぱいにならないが、舞台はつとまるからだという。‥‥後略‥‥
坂口安吾『安吾巷談 ストリップ罵倒』より 昭和25年「文藝春秋」
昭和二十六年、「覚醒剤取締法」が制定され、覚醒剤の輸入、製造、譲渡、所持及び使用が原則として禁止されたが、勢いは止まらず、ピークにあたる昭和二十九年の検挙者は五万五千人を超え、潜在的な乱用者は五十五万人、中毒による障害者は二百万人と推定されていた。同年の県内に於ける検挙者は八十三人、この年大館市では、ポン中の青年が母親に「ヒロポン」を買う金を執拗にせびり、暴力をふるうのを見かねた兄が、弟を絞殺するという悲惨な事件も発生した。
その後の取り締まりの強化と経済復興により、約十年にわたる国内のヒロポン禍もようやく下火になるが、昭和四十五年頃から、今度は朝鮮・韓国ルートによる覚醒剤密輸入が徐々に増加しはじめる。
http://20century.blog2.fc2.com/blog-entry-406.html
2009年12月18日
ただのビタミン剤じゃ
◎昭和20年代半ばのヒロポン流行の背景と、対応法令の乖離について
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50969121.html
第009回国会 参議院 厚生委員会 第7号 昭和25年12月9日
○藤原道子君 私は厚生大臣にお伺いいたしたいのでございますが、先日来大きな社会問題となつておりまするヒロポンの問題でございますが
(略)
或いはまた聞くところによると賠償等の問題も起るから強い処置ができないというようなお言葉も私たちは聞いているのでございます。
(略)
その中毒患者を見ますときに、17歳から23歳の者が83%もいるということでございます。(略) 若しこのままで参りましたならば、ヒロポン亡国とさえ言われる大きい危險があると思いますので、これに対して、大臣はどういうふうな方法でこれを喰止めようとしておいでになるか(略)
医者の証明書がなければ売つてはいけないということになつているのです。けれども(略)警視庁の報告を見ましても(略) 一つのグループに対して一つの薬局から石油カン一ぱいのアンプルの殻があつた。それは一つの薬局から売られている。
(略)
そこで私は厚生当局に対しまして今製造を禁止する意思があるかないかということ、(略) ヒロポンを、モルヒネのようにアンプルに番号を打つて、一つの製造会社なら製造会社を指定いたしまして(略)必要なところだけに必要なものを流すというような方法を採つたらこの被害が防げるのではないか。(略)
○国務大臣(黒川武雄君)※厚生大臣、虎屋15代目当主
製造禁止のことは現在の法律ではできないのでございますが(略) 早急に思い切つた処置を講ずる必要があることを痛感しております。(略)
○藤原道子君 痛感いたしておると言われまするがどうも頼りないんです。(略)
罰則規定がありながらこれの適用が非常に軽いと思うんでございます。この書類を見ましても富山化学ですか、その他の会社二件がこれに引つかかつているゆですが、たかが十五日の営業停止なんです。
(略)
このヒロポンはもともと戰時中に軍が労働者を酷使いたしますために、労働強化をいたしますため、眠くてはできない、そういうところからヒロポンを使つて労働強化をやつたということを私は聞いておる。
(略)
このヒロポンのこれだけに被害が殖える前にこのヒロポンの害毒というようなものを国民に周知させるためのパンフレットが作成されるとかいろいろな方法が講ぜられなければならなかつたと思いますが、今までにどういう方法をおとりになつて来たか。医師会等にはどういうふうな御協力をお願いされたか(略)
○国務大臣(黒川武雄君) 私としては真劍に考えております。断乎としてやることは藤原君に誓います。細かいことは局長からお答えいたさせます。
○政府委員(慶松一郎君)※厚生省薬務局長
(略)私どもがたとえ行政処分をいたしますにいたしましても、或いは司法上の処分をいたしますにいたしましても、これは十分なる証拠その他がはつきりしませんことにはできませんことは改めて申すまでもございません。
(略)
ときどき新聞等に私どもから申しておりますし、又医師会に対しましても協力方を求めておる次第でございます。
○藤原道子君 新聞等ということでは駄目なんです。もつと真劍にヒロポンの被害の如何に恐ろしいかということ、それからこういう社会に起つておるあらゆる悲劇等々をわかりやすく書いてパンフレツト等にしてこういうことをやられて来たか、
(略)
一昨日でしたか読売新聞ではヒロポンの問題を騒いでおることを阿諛しておる記事が出ておる。ヒロポンの害ということが書かれるよりも、ヒロポンによつて小説家がその仕事が進行するとか、或いはヒロポンを打つことによつて眠くないからやれるのである。
興味本位のことのほうが大衆の眼には映りやすいのです。ですから今新聞に報道したということは、当局のとられた態度とは受取れない。医師会にはどういう協力をお求めになつたか。
○政府委員(慶松一郎君) 医師会に対しましては、たびたび覚醒剤に対しまする指示、その他についての協力方を求めておる次第でございます。
○藤原道子君 それから私は素人でわからないのですけれども、医者の証明書というようなものはどういう病気のときにヒロポン使用の証明書が出るのでございましようか。
○政府委員(慶松一郎君) これは非常にむずかしい点がございます。その点につきましていささか御了解を得たいと存じます。
旧薬事法の第41條によりまして医師の処方箋又は指示によつて使うべき薬といたしまして指定されております、若しくはペニシリン或いは、ズルフアミン剤がございまして、それに昨年(略)ヒロポン等の覚醒剤も同様なものとして扱われるようなふうにいたしたのでございますが、
(略)
この指示という意味は、それは処方箋に準ずるものでございまして(略)
最近地方庁から医師が、この覚醒剤に対しまする指示といたしまして一ヵ月分であるとか、或いは一年分であるとかというような指示書をまま出しておるのでございます。それはすべてこの法の精神に合しておらない
(略)
従いましてこれは全く医師の良識の問題にも関する次第でございますが(略) 法的にはどうも違反であるとは言えない点、むずかしい点がございます。
(略)
この問題の解決は何らかの独立的な法規を作らない限りは非常に困難であるということになります。(略)
医者はそれはかわいそうであるということでまあやられるかやらないか、或いは脅迫されてやられるかということは一応別にいたしまして、そういう指示なり処方箋を渡すことも、これは法的に申しますれば違反ではございません。
(略)
例えば今日素人のものがこれを持つておりましても何ら罰則がございません。又密造されましたものを所持しておりましても、これを所持するだけでは罰することができませんのです。
(略)
そういうような立法的な措置が行われない限りは拔本的にはこれを取締ることに極めて難点があるということを御了解願いたいであります。
<以上引用>
◆ヒロポンは大日本製薬(現大日本住友製薬)の商標ですが、大日本以外にも
同種のおクスリを作って売っていた会社があったということですね。
(密造というのもあったようですが)
上記議事録に名前が挙がった会社の沿革
昭和20年代はスルーです。
旧大日本製薬の沿革
昭和3年から昭和24年の間はスルー。
上記議事録から分るのは、この昭和25年末の時点では、処方箋さえ出ていれば、ヒロポンの所有・売買は犯罪ではないということ。(1年分という真実味のない処方箋も当時は問題なかった) せいぜい、街中の薬局が処方箋なしに売ったものくらいが摘発の対象になる程度。
「医者は(略)或いは脅迫されてやられるかということは一応別にいたしまして」
とあることから、反社会的な人たちから処方箋の発行を強要されていた部分もあったと想像されます。
▼また、この頃は医療報酬に「技術料」的なものが含まれておらず、医者は「各種のクスリを売る/処方箋を発行する」ことで生計を立てていた部分が大きかった様子。
参考:日本医師会 - 戦後50年のあゆみ 1950年
昭和24年秋から本格化した強制医薬分業をめぐる医師会と薬剤師協会の対立は,強制医薬分業の実施を願うGHQのサムス局長(公衆衛生福祉局)のあからさまな介入もあって,日本医師会を揺るがせた。
(昭和25年)4月の定例代議員会で選出された田宮猛雄会長,武見太郎副会長は,サムス局長の不信任通告を受けて辞意表明に追い込まれ,8月には後継会長に谷口弥三郎が選出された。
田宮会長は,4月にサムス局長に面会した際,強制医薬分業の実施に反対して,「日本人には医師の無形の学識,労力に報酬を支払う観念がなく,医師の診療報酬に技術料が含まれていない」との申し入れをしたが,この点にサムス局長が理解を示し,新医療費体系の検討が始まった。
<以上引用>
▼関連リンク
ドラえもん ねむくならない薬 の検索結果
ヒロポン関連の画像
20世紀ひみつ基地 より 覚醒剤「ヒロポン」の時代
中国人民解放軍が3日間眠くならない薬を開発(2011年)
前掲議事録のほぼ1年前のもの
第006回国会 参議院予算委員会 第10号 昭和24年11月30日
○説明員(慶松一郎君) 只今お話になりました覚醒剤でございますが、これは大体戰争中に陸軍、海軍で使つておりましたのは、すべて錠剤でございまして、飛行機乗りとか、或いは軍需工場、軍の工廠等におきまして工員に飲ましておりましたもの、或いは兵隊に飲ましておりましたのはすべて錠剤でございまして、今日問題になつておりますような注射薬は殆んど当時なかつたと私は記憶いたしております。
そうしてその終戰当時ございましたそれらの薬は、外の医薬品、或いは衛生材料と同様に、占領軍当局、進駐軍当局から厚生省に渡されまして、そうして外の薬と同じような方法によりまして各都道府県に配給いたしたと存じております。
併し私、当時から全体の薬の配給等に関係いたしておりましたが、当時におきましては余りそのことが問題になつておりませんでしたので、果してどういうふうに配給されたか、ちよつと今分らないと思います。併しいすれにいたしましても、今日問題になつておりました製薬は当時殆んどなかつたということが言えると思います。
<以上引用>
※この当時流行したヒロポンは、旧軍物資が市場に流出したものではなく、
当時の製薬会社が当時せっせと作っていたものであることが想像される。
類似品 パンプロン (小野薬品工業、昭和24年)
photoplay-6
メチルプロパミンとはメタンフェタミンのこと。
要はヒロポンと同じもの。
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50969121.html
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覚醒剤については
経験者としての意見です。
http://www.asyura.com/0310/dispute13/msg/131.html
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