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(回答先: 飛鳥地方に見られる日本の原風景 投稿者 中川隆 日時 2020 年 1 月 03 日 11:23:53)
2021年2月13日
【竹村公太郎】天下制覇の上町台地の物語―信長が戦い、秀吉が利用した地形―
https://38news.jp/column/17610
NHK大河ドラマ「麒麟が来る」は面白かった。歴史は勝者の独占物である。
歴史の敗者とは、戦いで負けた者ではない。戦いで負けても英雄になった者は多い。歴史の敗者とは、勝者から人格を貶められ続けた者である。明智光秀は主君を討ったことで長く貶められ続けてきた。
やっと日本社会は、歴史を多面的に見れる時代になった。
大坂城と本願寺
50代の時に、大阪に転勤となった。初めての関西勤務であった。勤務地は上町台地の先端にあり、大阪城が目の前にあった。
天気の良い昼休みには、大阪城公園に散歩に出かけた。ある日の散歩の途中で「本願寺跡」という案内板と出会った。これには驚いた。本願寺は京都の東本願寺と西本願寺と思い込んでいたからだ。(写真―1)(写真−2)
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調べてみると、確かに戦国時代、本願寺は上町台地の先端にあった。大阪育ちの人たちに聞いてみると、本願寺さんが上町台地にあったと大抵は知っていた。しかし、関西以外の人で、本願寺が大坂城の場所にあったと知っているだろうか。
11年間、信長は上町台地の本願寺を攻め続けた。日本最強だった信長軍団は11年間も、僧侶や信徒たちにてこずっていた。結局、信長は上町台地の本願寺を落せず、朝廷の斡旋で和睦することとなった。
信長の和睦の条件はただ一つ「本願寺は上町台地から出ていくこと」であった。和睦した本願寺は、上町台地から撤退し京都に移った。本願寺戦争は終結した。東で育った私などは、本願寺の信仰心が信長に負けなかった、と教育された記憶がある。
本願寺の本拠地が大坂の上町台地にあったこと。この驚きが、歴史を地形から見るきっかけとなった。
上町台地と湿地帯
上町台地は大阪市の中心部に位置している。21世紀の今、高層ビル群がびっしりと連なっているため、上町台地の地形は人々の目には映らない。
ある時、1枚の図面と出会った。(図ー1)では上町台地が見事に大阪平野の中に突き出ている。(図−1)で海面を5m上昇させれば、6,000年前の縄文海進の図となる。大阪平野は海の下となり、上町台地だけがポツンと海の上に浮かぶ姿となる。
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この地形が、信長と本願寺の戦いの本質を表していた。中世から近世にかけ、日本の沖積平野はどこも不毛の湿地帯であった。大阪平野も同じだった。雨が少しでも降れば、北からは淀川が、南からは大和川が流れ込んできた。水は行き場を失い溢れ、一帯は水はけの悪い湿地帯となっていた。(図―2)は弥生時代の大阪の地形である。
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信長は若いときから一貫して、湿地に囲まれた城を拠点にした。愛知県の津島で育ち、清州で社会に出ていった。いずれも濃尾平野の下流部の湿地帯に位置していた。湿地に育った信長は、湿地の防御性と小舟で素早く動ける機動性を熟知していた。実は、壮大な安土城も、琵琶湖の湿地帯に囲まれた観音寺という小さな山に建てられていた。
湿地が大好きな信長の集大成が、大坂の上町台地であった。湿地は防御性が高い。大船は近づけない。小舟で近寄ってくる兵隊も、上陸する際には沼地に足をとられて身動きできない。そうなれば、台地の上から矢を射ぬかれ放題となってしまう。
上町台地に攻め入るには南の天王寺口しかない。防御する側は、上町台地の尾根の南口をしっかり固めさえすればよかった。戦闘の専門家の信長軍が、戦争の素人の本願寺に11年間もてこずった。それは、この上町台地の地形にてこずったのであった。
天下統一の大坂城
本願寺との和睦が成り、上町台地を自分のものにした直後、信長は本能寺で急逝してしまった。そのため、信長の上町台地の狙いと執着を、直接証明することは出来ない。しかし、信長の上町台地への狙いは、豊臣秀吉の行動を見れば分かる。
秀吉は、天王山で明智光秀を破った直後に、大坂城の建設に着手している。信長の腹心だった秀吉は、信長が狙った上町台地を自分のものにした。
上町台地は天下統一の地形であると信長は知っていた。台地の北を流れる淀川を遡れば、簡単に朝廷の京都を抑えられる。台地の西には瀬戸内海が続き、中国、四国そして九州までの西日本の戦国大名を睨みつけた。
上町台地は戦術的に難攻不落の地形だっただけではなく、戦略的に天下統一の地理に位置していた。
しかし、難攻不落の城はある弱みを持っている。それは「水」である。飲み水だけではない。排泄汚水も問題となる。
上町台地の地下水
難攻不落の城は、必ず何百、何千という将兵たちが長期間立てこもる。立てこもりで問題となるのは飲み水である。米は何年間も保管できる。しかし、水は何年間分も保管はできない。飲み水がなくなれば1週間で城は落ちる。
大坂城は上町台地の先端にある。山から流れる川や沢はない。台地の周辺には水が見えるが、その水は大坂湾から逆流してくる塩水だ。飲める水ではない。
石山本願寺は11年間も上町台地で立てこもった。飲み水はどうしたのか?2016年の春、関西の水道技術者会に呼ばれた。水に関する講演を依頼された。
会場は上町台地にある水道協会関西支部の会館であった。講演で上町台地の地形と難攻不落の大阪城の理由を話した。講演の後、質疑の時間で、会員から会館建設時のエピソードが語られた。
関西支部会館の建設時、地下を掘削してビルの基礎工事をしていた。土台掘削工事の翌日の朝、現場に行ったら地下が水でいっぱいになっていたので驚いたという。あとから送ってもらったのが(写真―3)である。上町台地は地下水が豊富なのだ。
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上町台地の南の天王寺方面から、北の先端に向かって地下水流が流れている。地下水さえあれば苦労しない。城内に井戸を掘れば飲み水は確保される。
本願寺の宗徒は、11年間も上町台地に立てこもって信長と戦った。本願寺宗徒を支えたのが、上町台地の地下水であった。。
上町台地の太閤下水
長期の籠城戦で飲料水以外にもう一つ困る水がある。排泄汚水である。人間は必ず排泄する。多くの人間が生活するには、排泄物をスムーズに処理しなければならない。
ポンプのない時代、排泄物の最も原始的な処理は流すことであった。上町台地では、この排泄の汚水がスムーズに行われた。何しろ南北に長く伸びる狭い台地である。排水路を東西に向ければ自然と排泄物は台地の下へ流下していった。
豊臣秀吉は1583年から大坂城建設を開始した。それと同時に大坂の都市づくりにも着手した。
秀吉の大坂の街つくりの特長は、下水道システムであった。秀吉は自然の地形を利用して、排泄物をスムーズに流下させる下水道網を建設した。「太閤下水」と呼ばれる日本最初の本格的な下水道システムであった。
太閤下水は上町台地の地形の理にかなっていた。そのため、400年たった21世紀の現在も、大阪市下水道局はこの太閤下水を現役として使用している。(写真―4)が大阪市下水道局のパンフレットである。
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(図―3)は、大坂の街の配置図である。平面図では分かりにくいが、排水路は全て西の海と東の河内湾に向かっていた。排水路の汚水のバクテリアは湾内でプランクトンを繁殖させた。プランクトンは小魚を育んだ。小魚は大きな魚を呼び込んだ。
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地形を利用した太閤下水によって、上町台地の周囲一帯で広大な食物連鎖が形成された。大坂湾や河内湾は、海の幸を豊富に提供することとなった。
幕府が江戸に移ってからも、豊かな海産物に恵まれた大坂は、食道楽の大坂として独特の文化を生みだし繁栄した。
信長は、湿地に囲まれた難攻不落の上町台地を獲得した。秀吉は、上町台地の地形を利用して大坂街を整備した。
1616年、家康は苦戦のすえに上町台地の大坂城を陥落させた。信長と秀吉の遺産の上町台地を我が物とした家康は、晴れて無敵の天下人となった。
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上町台地は、信長と秀吉と家康の3人が、天下覇権をかけて戦った戦国150年を象徴する地形であった。
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