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(回答先: そして誰もいなくなった、マティス長官辞任の衝撃「大人の枢軸」の最後の一人、トランプ政権の分水嶺に トランプ暴走の懸念 投稿者 うまき 日時 2018 年 12 月 27 日 13:11:31)
銃で日本を脅した米国より紳士的だったロシア
詳説:北方領土問題と日本・ロシアの近代史
2018.12.27(木) 杉浦 敏広
高齢化した元島民が語る「北方領土」、戻れないかもしれない故郷【再掲】
北海道の羅臼国後展望塔から見える国後島(2018年10月10日撮影)。(c)Kazuhiro NOGI / AFP〔AFPBB News〕
プロローグ
日露関係の精神分析
日本人の対露観は日露戦争を境に大きく変化しました。一言で申せば、日露戦争前までは「恐露」、日露戦争後は「蔑露」、戦後は「反露」と大別できます。
家庭の常備薬「正露丸」は、日露戦争当時は「征露丸」。「勝鬨橋」は日露戦争に勝利して名づけられました。
現在の日本人の一般的性向が「反露」であることは間違いありません。今でも「ロシア憎し」と思っている日本人は多く、その根源は1945年8月9日の日ソ中立条約破棄に集約されるでしょう。
日ソ中立条約を破棄し、ソ満国境を越境・侵攻したのが8月8日深夜から9日未明。サハリンでは1945年8月11日未明、ソ連軍は北緯50度線を南下・侵攻開始しました。
筆者はこの事実を正当化するつもりは毛頭ありませんが、独ソ不可侵条約を破り、ドイツがソ連に侵攻した史上最大の陸戦「バルバロッサ作戦」を日本軍は知らなかったのでしょうか。
ヤルタ会談の密約(ドイツ降伏3か月後に赤軍対日侵攻開始)は日本側も情報を掴んでいましたが、大本営は無視。
赤軍がソ満国境を侵攻する前に日本の関東軍は既に転進しており(一部の関東軍は対ソ戦で徹底抗戦しました)、残されたのは満州開拓の居留民。この事実は何を意味するのでしょうか。
付言すれば、関東軍はドイツ軍のモスクワ攻略戦に合わせ、シベリア侵攻作戦を準備しました。
関東軍はソ満国境で対峙するソ連軍がモスクワ防衛戦に転用・投入される前提で作戦を立案しましたが、関東軍に対峙するソ満国境に展開する赤軍が(表面上)西に移動しなかったので、シベリア侵攻作戦は発動されませんでした。
この時期、冬季戦用訓練を受けた赤軍はソ満国境に張りついていた軍隊のみで、この精鋭部隊はモスクワ防衛戦用に西方に輸送され、代りに徴兵された新兵がソ満国境に配置されました。
しかし関東軍はこの事実を把握できず、緒戦の情報戦に負けたと言えましょう。
本稿では、なぜ日本には反露・嫌露感情が蔓延しているのか、日露関係を精神分析したうえで、現在進行中の北方領土交渉の行方を占ってみたいと思います。
なおこのリポートを書くにあたり、多くの文献を参考にさせていただきました。
日露関係に関する主要参考書は『ロシア』(新潮社/原卓也監修/1994年刊)ですが、領土問題に関しては尊敬する多くの諸先輩の書物も参考にしております。
碩学の文献に接すれば、日露領土問題とは日露関係と言うよりも、実はむしろ日米・露米関係の性格を帯びていることが分かります。
僭越ながら文末にそのうちの何冊かの本をご紹介させていただきますが、北方領土問題に関する見解は、あくまでも筆者個人の見解であることをここに明記しておきます。
江戸時代の日露・日米関係
まず、江戸時代の日露・日米関係を概観します。
フォン・ベニョフスキー(出所:Wikipedia)
日本人の「対露恐露観」の根源は、「法螺吹き男爵」ハンガリー出身のポーランド人フォン・ベニョフスキー(日本名“はんぺん・ごろう”)と言われています。
彼は1771年、収容されていたカムチャトカから露の軍艦を奪取して日本に来て、「今にもロシアが日本に攻めてくる」とデマと飛ばしました。
驚いた当時の江戸幕府は、急遽北方警備を強化。工藤平助は『赤蝦夷風説考』(1783年)を、林子平は『三国通覧図説』(1785年)を書き、北国ロシアの脅威を説きました。
しかし客観的に分析・評価すれば、日露の歴史は地道な交渉の歴史です。
米の砲艦外交に対し、露は交渉外交でした。意外に思われるかもしれませんが、これは歴史的事実であり、米国の砲艦外交は現在に至るまで脈々と息づいていると言えましょう。
帝政ロシアのロマノフ王朝エカテリーナ女帝の勅書を携え、アダム・ラクスマンが根室に入港したのが1792年。
この時ラクスマンに同行したのが、かの有名な大黒屋光太夫です。本件は井上靖氏の名著(『おろしや国酔夢譚』)に詳述されています。
その後ニコライ・レザノフが1804年、長崎に入港して幕府に開港を要求。その長崎にて交渉役となったのが、かの有名な“遠山の金さん”の父上、遠山金四朗影晋でした。
当時米国は世界最大の捕鯨国であり、米M.ペリー提督は1853年、大西洋を越え、喜望峰・インド洋経由、琉球に到着。その後浦賀に来航して日本に開国を迫った理由は、米捕鯨船に対する水・食料の補給路確保と漂流した自国民保護のためでした。
この時、ペリーが江戸幕府に献上したものは何か?
白旗です。
江戸幕府はこの意味が分かりませんでした。源氏の旗は白旗であり、日本人にとり紅白は目出度い色。なぜ、ペリーは白旗を幕府に献上したのか?
この時まで、日本では白旗に降伏の意味はありませんでした。ペリーは、最初から日本に降伏を突きつけたのです。
一方、日本に開国を求める帝政ロシアからはE.プチャーチン提督が1853年末、長崎に来港。
しかし鎖国政策を続ける江戸幕府は会おうともせず、仕方なく長崎から下田に回航しましたが、回航途上で大地震の津波に遭い、旗艦ディアナ号は伊豆の戸田村沖で沈没してしまいます。
この時の江戸幕府の対応が偉かった。
当時の優秀な船大工を集め、軍艦を建造、ロシア側に贈呈。この船は「ヘダ号」と命名されました。
その間に米国は砲艦外交を以て、1854年に神奈川条約(日米和親条約)を調印します。
帝政ロシア側は焦りますが、プチャーチン提督は粘り強く、真摯な態度で江戸幕府代表の川路聖謨と伊豆下田にて交渉を続け、彼の努力は安政条約(下田条約)として結実。
時に1855年2月7日(新暦)。長崎入港以来、実に約1年半の歳月が経っていました。
明治以降における日本の対露感情
江戸幕府の末期、咸臨丸に乗り、勝海舟や福沢諭吉が訪米。大変な衝撃(今風に言えばカルチャー・ショック)を受けて、日本に帰国しました。
その後、文明開化を求める維新政府は1871年、欧米に岩倉使節団を派遣。この岩倉使節団は帰国後『米欧回覧実記』を著し、「ロシアは西欧文明社会では異質の後進国」と述べています。
これが後世の日本人の対露観に大きな影響を与えたと言えましょう。
東京外国語学校の露語学科は1885年に廃止され、東京商業学校(現一橋大学)に吸収されました。
当時露語学科の学生であった二葉亭四迷(本名:長谷川辰之助)は、抗議のため東京外国語学校を中退。「文学は男子一生の仕事にあらず」と豪語、その後10年間絶筆しました。
換言すれば、当時「文学は男子一生の仕事」と見なされており、このアンチ・テーゼとして、四迷は断筆宣言したことになります。
当時の帝政ロシアは、日本にとり軍事大国でした。ゆえに、陸軍参謀本部は仮想敵国露を真剣に研究。優秀な士官は露語を学び、参謀本部『ロシア課』には俊英が集められた。
「杉野は何処!」で有名な軍神広瀬中佐も露語の達人でした。のちの太平洋戦争前夜、大本営が仮想敵国米を真剣に研究しなかったのは致命的な誤謬と言わざるを得ないでしょう。
日露戦争以降、旧軍の戦略思想に進歩はなかったとも言えます。
日露戦争までのロシアは、日本人にとり「魯」の国でした。
『安政条約』の正式名称は『日本国魯西亜国通好条約』です。では「魯」の国とは何か。そう、孔子の故郷です。
日本人はロシアを「魯」の国と見なしていました。その対魯観が決定的に変わるのが、のちの日露戦争です。
日露戦争に勝利するや否や、日本人の対露観が変わり、「魯」の国が「露」の国になりました。なぜか?
日が昇るとつゆは消える。そう、日が昇ると露は消える。これが日本人の対露観となり、日本人の蔑露感情の始まりとなったと言われています。
ポツダム宣言(1945年7月26日)
ポツダム会談は、英W.チャーチルが提案、ソ連邦のヨシフ・スターリンが場所を決め、米H.トルーマンが日程を決定。米トルーマンは、自国の原爆実験日に会談日程を合わせました。
会議初日の1945年7月17日、原爆実験成功に気をよくしたトルーマンは終始会議をリード。
1945年5月のドイツ降伏からソ連軍対日参戦までの3か月間は、米・ソ双方にとり、死活的に重要な3か月でした。米・ソとも、日本の早期降伏を望んでいませんでした。
日本に降伏されては困る。ゆえに、必死に時間稼ぎをしていた。なぜか?
米は原爆完成間近。ソ連はベルリン攻略軍を極東に輸送しなければならなかった。
何も知らない日本は、対米停戦交渉の仲介役をソ連に依頼。そこで、対ソ交渉の特使として白羽の矢がたったのが近衛文麿元首相。
日本政府は7月13日にモスクワの佐藤尚武大使に特使派遣の極秘電が送信されたのですが、米軍は直ちに解読。その時、米・英・ソはポツダム会談の最中であり、米・ソは日本の電報を無視しました。
ソ連は日本側を焦らせる。その間にベルリン攻略戦に参加したシベリア部隊を満州国境に片道輸送、対日参戦準備に没頭。
当初Xデーは8月15日に設定されていましたが、その前に日本に降伏されては戦後の領土交渉に影響する。日本を降伏させてはならぬ。
結局、7月18日にソ連は日本側に特使受け入れ拒否を通告しました。
ドイツが降伏した後、原爆を投下できる機会は日本しかない。今、原爆投下しなければ、永久に原爆の実戦使用の機会は現れないかもしれない。
米国は戦後の敵がソ連であることを正しく理解していたので、原爆を実戦使用すること、ソ連の勢力拡張を牽制することが喫緊の課題でした。
米F.ルーズベルト大統領は、ヤルタ会談ではスターリン首相に対日参戦を要請。秘密協定で、独降伏3か月後にソ連の対日参戦が決定。
しかし原爆が完成したポツダム会談の時点では、トルーマンは日本降伏前に原爆投下とソ連牽制を決めていました。
一方、スターリンはソ連軍の対日開戦を8月15日に設定していたが、8月6日の広島原爆投下を見て、急遽対日開戦日を早めた。
スターリンは軍隊による占領がない限り、戦後の領土交渉に支障が出ることを正しく理解していました。
大戦中からスターリンも戦後の米ソ冷戦時代の到来を認識していたので、戦後米トルーマンに、北海道の釧路・留萌線以北をソ連に割譲することを要求しました。
目的は唯一つ、オホーツク海の内海化。これがスターリンの地政学になります。
戦後の北方領土交渉
ソ連軍は日ソ中立条約を破り、1945年8月8日から9日未明、満州に侵攻。これが戦後日本の反露感情の根源になります。
択捉島と国後島はオホーツク海の内海化に必要不可欠な鎖(クリル諸島)の一環を成す。ゆえに、戦後の米ソ冷戦時代には、北方領土が返還される可能性は零でした。
今後、もし択捉・国後返還の可能性が出てくるとしたら、それはオホーツク海の地政学的意義が失われる状況が出現した時になりましょう。
露では2018年12月20日、プーチン大統領が恒例の年末大規模記者会見を行いました。今年で第14回目になり、参加した内外の記者は計1702人で過去最大規模。
答えた質問数は53に上り、3時間43分にわたる長丁場をプーチン大統領は1人ですべて対応しました。
質問は多岐にわたりましたが、日露関係の焦点はやはり領土問題でした。
日露間の領土問題は「日ソ共同宣言」を基礎として、来年2019年から交渉を促進する予定です。
日本側主張は「2島+α」ですが、これは歯舞・色丹の2島(正確に言えば、歯舞は群島)を指し、残り2島(択捉・国後)の“引渡し”(日本側用語“返還”)交渉は放棄することを意味します。
一方、プーチン大統領の主張は「2島−α」です。「−α」とは何かと申せば、「島は引き渡すが主権は渡さない」「米軍が2島に駐留しないことの確約」などです。
プーチン大統領は12月20日の記者会見で沖縄に米軍が駐留している事実に言及、露側の懸念を表明しました。
しかし「日ソ共同宣言」には、「平和条約締結後、2島(歯舞・色丹)を日本側に引き渡す」と明記されています。すなわち「2島を引き渡して終わり」。それ以上でもそれ以下でもありません。
プーチン大統領発言はあくまで駆け引き材料と理解すべきです。
2島(歯舞・色丹)が日本の領土になれば、その周辺に12海里の領海と200海里の経済専管水域が設定され、北海道の漁民が安心して漁業に従事できます。これこそ日本の国益に貢献する外交成果になりましょう。
クリル諸島は北の占守(シュムシュ)島から国後島まで弧を描いており、この2島(択捉・国後)は露にとりオホーツク海の内海化という軍事戦略上、必要不可欠な島です。
オホーツク海にはロシアのミサイル原潜が遊弋しており、クリル諸島は米の攻撃型原潜の侵入を防いでいます。択捉と国後が他国の領土になれば、空いた海峡から他国の原潜が侵入するでしょう。
歯舞・色丹はその外側に位置するので、露の軍事的観点からは不要な島になります。ゆえに米軍駐留問題を含む条件交渉次第で、露は日本側に引き渡す用意があると筆者は考えます。
エピローグ
“五里霧中”の北方領土交渉
筆者は日露間の北方領土を巡る問題が平和裏に解決して、日露関係が進展・発展することを心より願っています。
露語を学び、ソ連・ロシアに駐在し、ロシアの歴史・文化に多少なりとも関心を持ち、ロシア人とある時は肝胆相照らし語り合い、ある時は侃々諤々の議論をしてきた者にとり、北方領土を管掌する大臣が北方領土の島の名前も満足に読めない事実に、思わず戦慄を覚えます。
日本側は日ソ中立条約破棄を北方4島返還論の根拠としますが、関東軍は対シベリア侵攻を立案。これは日ソ中立条約締結後の話であり、日本の真珠湾攻撃3か月前の話です。
日ソ双方が当初よりこの中立条約を信用せず、双方が隙あらば侵攻作戦開始を虎視眈々と狙っていたことが分ります。
ゆえに「中立条約破棄」「戦後の千島侵攻作戦」に対する日本側の対ソ・対露非難は、逆に日本(軍)側の失態・失政を隠蔽するサブリミナル効果を持つとも言えましょう。
「五里霧中」という人口に膾炙した四字熟語があります。さて、どう読むのでしょうか?
「ゴリ・ムチュウ」と読む人が多いと思われますが、「五里霧・中」です。
後漢の張楷は道術の名人であり、その名声は後漢全土に鳴り響いていた。
帝が使者を派遣して三顧の礼を以って朝廷に迎え入れようとしたが、「五里霧」という道術を用いてその中に隠れてしまい、どう捜しても見つからない。
ここから「五里霧中」という熟語が生まれました。
北方領土問題を巡る日露交渉は複雑怪奇となりました。
シンガポールで開催された2018年11月14日の日露首脳会談で、安倍首相は「2島+α」を提案しました。これは明らかに従来の「4島一括返還」政策からの方針変更です。
「4島一括返還」路線から「2島+α」路線に大きく政策変更したのですから、安倍内閣は路線変更を国民に対して丁寧に説明すべきです。
「4島一括返還論」と「2島先行返還論」、「2島+α論」は皆似て非なるものですが、「2島+α」と「2島−α」の交渉ともなれば、双方の妥協点・着地点は自ずと見えてきます。
ところが、「従来の路線から変更はない」と説明するので、話の整合性がなくなります。
『月刊正論』(2019年1月号)で、産経新聞の論説顧問は「北方領土問題は領土紛争ではない。独裁者スターリンによる国家犯罪である」と述べていますが、本当でしょうか?
いいえ、北方領土問題は領土紛争そのものです。戦勝国(連合軍)がクリル諸島全島はソ連の主権と認めたのです。
北方領土問題を「スターリンによる国家犯罪」と言うのは、「北方領土は日本固有の領土であり、他国の領土になったことは一度もない」と主張するのと同次元の話になりましょう。
日露間に横たわる北方領土問題の“本質”も、どうやら依然として「五里霧中」と言わざるを得ないようです。
北方領土問題に関する参考文献:
●石郷岡健・黒岩幸子氏の『北方領土の基礎知識』(垣内社/2016年刊)は入門書として最適。
●『証言 北方領土交渉』(中央公論新社/本田良一氏/2016年刊)は道新の本田記者が丹念に取材された集大成。
●学術書としては、『クリル諸島の文献学的研究』(村山七郎著/三一書房/1987年刊)が最適。領土問題を条約原文(蘭語・仏語・英語等)に立脚し、客観的に分析した名著。
●ヤルタ会談の内容は『ヤルタからヒロシマへ』(白水社/2013年刊)に詳述されているが、ヤルタからベルリン攻略戦までが詳しく、ヒロシマの記述はおまけ程度。
●第2次大戦と領土問題に関しては、米第31代フーバー大統領の『裏切られた自由(上・下)』(草思社/2017年刊)が良書。
●『ロシア近代史と国際関係』(ミネルヴァ書房/小田健氏/2017年刊)はロシア国家の起源から現代までの通史。
●『ロシアの対日政策(下):新生ロシアからプーチンまで』(慶應義塾大学出版会/斎藤元秀教授/2018年刊)は今日の日露関係を俯瞰する力作。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55058
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