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米国の支配層が平和を望んでいるとは思わない方が安全
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2018.05.31 櫻井ジャーナル
リチャード・ニクソンは1972年2月にアメリカ大統領として中国を訪問した。ニクソン政権で外交や安全保障といった分野を任されていたヘンリー・キッシンジャーは1969年から中国側の首脳と接触しようと試みていた。そうした中、1970年12月にエドガー・スノーが毛沢東中国共産党主席と会うが、そこで中国側はアメリカ大統領の中国訪問を歓迎すると述べている。それを受け、1971年2月にニクソン大統領は外交教書で「中華人民共和国」という正式名称を使い、北京との対話を確立したいと述べた。そしてニクソンの訪中につながったわけだ。
大統領になった最初の年からニクソンは中国との関係改善を模索、デタント(緊張緩和)を打ち出している。これだけ聞くと平和的な人物のようだが、そう単純ではない。大統領選挙では民主党にとって優位になるベトナム戦争の終結交渉を妨害し、チリでは民主的に選ばれたサルバドール・アジェンデ大統領を倒すために軍事クーデターを実行している。その黒幕もキッシンジャーだった。
軍事クーデターは1973年9月11日、オーグルト・ピノチェトによって実行される。その際にアジェンデは死亡した。クーデターの目的はアメリカを拠点とする巨大企業の利権を守り、チリを食い物にし続けることにあった。そうした政策にとって邪魔な人々を殺害したり拘束したりしたうえで、シカゴ大学のミルトン・フリードマン教授が展開していた「経済理論」が実践される。新自由主義の導入だ。
その政策によって富豪や巨大企業の経営者たちは「自由の尊厳」が認められて大儲けできたが、庶民は貧困化する。この政策を指揮したのはシカゴ・ボーイズと呼ばれるフリードマンの弟子たち。ピノチェト体制は輸入を促進するため、ペソを過大に評価させて輸入品の価格を下げている。
その結果、贅沢な舶来品の消費ブームが起こるのだが、その一方で国産製品は売れなくなり、チリ国内の経済活動は破綻していく。1980年代の後半になると、チリでは人口の45%が貧困ラインの下に転落していたとされている。
こうしたチリでの実験を肯定的にとらえた学者がフリードリッヒ・フォン・ハイエクで、親しくしていたマーガレット・サッチャー英首相にフリードマン理論を売り込む。このハイエクがフリードマンの「師」だった。サッチャーは1982年のフォークランド戦争で高揚した雰囲気を利用してイギリスに新自由主義を導入、イギリスの庶民も無残なことになる。
新自由主義とは巨大資本に国を上回る権力を与えるもので、その延長線上にISDS条項を軸とするTPP(環太平洋連携協定)、TTIP(環大西洋貿易投資協定)、TiSA(新サービス貿易協定)はある。世界のファシズム化がその目的だとも言える。
エリートの利益になるこの政策は中国やソ連にも広がっていく。中国では1976年10月に江青など「四人組」が粛清され、77年に復活したケ小平がそうした流れを促進していく。1980年にはフリードマンが中国を訪問、レッセフェール流の資本主義路線へと導いていった。フリードマン1988年に妻のローザとともに再び中国を訪れ、趙紫陽や江沢民と会談している。
アメリカでは1989年にジョージ・H・W・ブッシュが大統領に就任しているが、この人物は本ブログで再三書いているようにCIAの非公然オフィサーである可能性が高く、74年から75年にかけて中国駐在特命全権公使を務めている。
そのブッシュとエール大学時代から親しいと言われているCIAオフィサーのジェームズ・リリーが1989年に中国駐在大使に就任、中国乗取りの総仕上げを目論んだ。その手先と考えられていたのがジョージ・ソロスから資金が流れていたとされている趙紫陽だ。そのほか、NEDなどを通じてCIAの資金が「活動家」へ渡っていた。この目論見はケ小平が同調しなかったことなどから成功していない。
ソ連でも似たことが行われ、こちらは成功してボリス・エリツィン時代の惨劇につながる。アメリカが示す「和平」に気を許すと最後には裏切られる。ジョン・F・ケネディ大統領は本当に平和な世界を目指したようだが、1963年11月22日に暗殺された。
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