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(回答先: コレクティブ・インパクト実践論 企業と社会の利益は一致する 企業は消費者のスローダウン欲求をどう満たすか 投稿者 うまき 日時 2019 年 1 月 11 日 01:40:57)
加害者に「親密」な人たち 小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明
2019年1月11日(金)
小田嶋 隆
扶桑社が発行する「週刊SPA!」編集部が、同誌に掲載した記事について、このほど、謝罪のコメントを発表した。
以下、経緯を説明する。
「週刊SPA!」は、昨年12月18日発売分(12月25日号)の同誌誌面上で、《ヤレる「ギャラ飲み」》というタイトルの特集記事を掲載した。「ギャラ飲み」とは、同誌によれば、「パパ活」に続いて頻繁にその名を聞くようになっている昨今流行のコミュニケーション作法のひとつらしい。もともとは、「タク飲み」という一緒に飲んだ女性にタクシー代として5000円から1万円を支払う飲み方から発展した習慣で、男性が女性に一定額の「ギャラ」を支払う飲み方なのだそうだ。
その「ギャラ飲み」について、特集記事では、カネを払って女の子と飲みたい男たちと、他人の支払いで酒を飲みたい女性を結びつけるスマホ用のマッチングアプリ4例を紹介しつつ、「ギャラ飲み」の実際をレポートしているわけなのだが、問題となったのは、同誌が、インターネットマッチングサービス運営者の見解として、「ヤレる女子大学生ランキング」として実在する首都圏の5つの大学名を掲載した点だ。
当然、批判が殺到した。
朝日新聞の記事によれば、《ネット上の署名サイトでは4日に「女性を軽視した出版を取り下げて謝って下さい」と呼びかけがあり、7日までに2万5千人超の賛同が集まっていた。》のだそうだ。
そんなこんなで、冒頭でお伝えした通り、「週刊SPA!」編集部が、この7日に謝罪のコメントを発表したというのが、これまでの流れだ。コメントは以下の通り。
《本特集は「ギャラ飲み」という社会現象について特集したものです。ギャラ飲みの現場で何がおき、どういったやりとりが行われているのかを一般大衆誌の視点で報じております。その取材の過程で、ギャラ飲みの参加者に女子大生が多いということから、ギャラ飲みのマッチングアプリを手掛けている方にも取材を行い、その結果をランキングという形で掲載したものです。そのなかで「より親密になれる」「親密になりやすい」と表記すべき点を読者に訴求したいがために扇情的な表現を行ってしまったこと、運営者の体感に基づくデータを実名でランキング化したこと、購読してくださった読者の皆様の気分を害する可能性のある特集になってしまったことはお詫(わ)びしたいと思います。また、セックスや性にまつわる議論については、多種多様なご意見を頂戴しながら、雑誌として我々にできることを行ってまいりたいと思っています。》
「週刊SPA!」は、私自身、現在に至るまでなんだかんだで10年以上寄稿している週刊誌でもある。基本的なかかわりかたは、2週か3週に一度のタイミングで、短い書評のコーナーを担当しているだけなのだが、時々コメント取材に応じたり、インタビュー記事に付き合ったりすることもあって、編集部とはそこそこの付き合いがある。なので、今回の出来事については、まったくの他人事というふうには受け止めていない。責任を感じているというほどのことはないにしても、応分に心を痛めている。
騒動の火元になった記事は、初出の段階では読んでいなかった。
自宅に送られてきているバックナンバーを読だのは、ツイッター上での炎上がひとまわりして、編集部がお詫びのコメントを出した後のタイミングだった。
率直な感想としては、「失望」という言葉が一番よく当てはまると思う。
事実、読み終わってしばらく不機嫌になった。
告白すれば、私は、自分が寄稿しているにもかかわらず、この雑誌をもう何年も開いていない。理由は、失望したくなかったからだと思う。読めば確実に失望することが内心わかっていたからこそ、私は毎号送られてくる最新号を、ビニール外装の封印を解くことなく、単に玄関先に積み上げていた。で、半年ほど積み上げて熟成させた後、ヒモで縛って廃棄する手続きを粛々と繰り返してきた次第だ。
今回、あらためて読んでみて、やはり失望した。
ネット上を漂っている自称業界人の「こんなことでいちいち謝っていたのでは雑誌なんか作れやしないぞ」
という感じのコメントにも、別の意味でうんざりしている。
雑誌は、もしかしたら業界ごと腐っているのかもしれない。
そう思うと少しさびしい。
ネット上で殺伐とした言葉をやりとりしている業界周辺の人々の言い分を要約すると
「フェミやらクレーマーやら人権屋やらの正義派ぶったツッコミにいちいち真正直に対応していたら、男性向け娯楽雑誌はじきに聖歌隊の歌集みたいなものになるぞ」
「お上品な雑誌が読みたいんなら自分でノートの裏にでも記事書いてろよ」
てなお話になる。
つまり「リアル」で「ぶっちゃけ」な「男の本音」を率直に反映した誌面を作るのであれば、無遠慮な下ネタを避けて通ることは不可能なのであって、むしろ問題なのは、本来男が読むべき雑誌を、想定読者ではないある種の女性たちがわざわざ眉をひそめるために読んでいるその異様な読書習慣のほうだ、と、彼らは言いたいようだ。
もちろん、私とて、最新号の雑誌を陳列する書店の書棚が、上品で奥ゆかしい5月の花園みたいな場所であることを期待しているわけではないし、すべての雑誌が清らかなピューリタンの魂を体現すべきだと考えているのでもない。
とはいえ、「週刊SPA!」の当該の特集に対して投げかけられた非難の声が不当に大きすぎるというふうには、まったく思っていない。また、今後あの種の企画が萎縮することでわが国の雑誌出版文化が危機に瀕するだろうとも考えない。当然だ。あれは、なんの取り柄もない、どうにもならない正真正銘のクズ記事だった。
下品だからダメだと言っているのではない。
不謹慎だからこの世界に生き残るべきではないと主張しているのでもない。
個人的な見解を述べるなら、私は、書き方に多少下品な部分があっても、内容が面白いのであれば、その記事は掲載されるべきだと思っている。また、本文中に不謹慎な断言をいくらか含んでいるのだとしても、全体として洒脱なテキストであるのなら、その文章は必ずや印刷されて読者のもとに届けられなければならないと考えてもいる。
雑誌は、多様であるべきものだ。
その意味で、雑誌の記事は、不謹慎であっても面白ければOKだし、不真面目に書かれていても参考になればオールライトだ。ダサくても真面目なら十分に許容範囲だ。つまり、どこかに欠点があっても、ほかの部分になにがしかの魅力が宿っているのであれば、雑誌記事は、生き残る資格を持っているものなのだ。
12月25日号に掲載された「ギャラ飲み」特集の特集記事は、そういう長短を併せ持ったテキストではなかった。
バカがカッコつけたあげくにスベってみせただけの、ダサくて下品で、おまけに差別的で、だからこそ批判されている、どこをどう拾い上げてみても擁護できるポイントがひとつも見当たらないゲロ企画だった。
ということは、あんなものはツブされて当然なのである。
毎週毎月大量に発行され、印刷される雑誌の記事の中に、価値のないパラグラフや、焼き直しの凡庸なフレーズが含まれているケースは、実のところ珍しくない。というよりも、雑誌の主要な部分は無価値なフレーズと焼き直しのアイディアで出来上がっている。それはそれでたいした問題ではない。
ただ、今回のあの記事は、単に無価値であるのみならず、確実に暴力的で差別的な言葉を随所に散りばめることで、明らかな被害者を生み出していた。その点が大きな問題だった。
関係者にぜひ正しく認識してもらいたいのは、「週刊SPA!」のあの記事が「面白いんだけど言い過ぎてしまったテキスト」や、「トンガッている分だけ毒が強すぎた企画」ではなくて、「調子ぶっこいたバカがあからさまな性差別を振り回してみせただけの救いようのないゴミ記事」だったということだ。
ところが、どうしたものなのか、21世紀のネット社会では、この種の不祥事→お詫び案件が発生すると、ほとんど反射的に「詫びさせた側」「クレームをつけた人々」を叩きにまわる人々が、どこからともなく湧いて出て一定の役割を果たすことになっている。
今回の場合だと
「シャレのわからない赤縁メガネの学級委員長タイプがコメカミに青筋立ててキャホキャホ言い募ったおかげで、なんだか世にも凶悪な性差別記事だったみたいな話になっちゃってるけど、実際に読んでみれば、なんのことはないよくあるナンパ指南のテキストですよ」
みたいな語り口で事態を説明したがる逆張りの人々が、加害記事の制作者を応援している。
振り返れば、財務省を舞台としたセクハラ事件でも伊藤詩織さんが告発したレイプ疑惑でも、最後まで加害者の側に立って、被害者の態度に非を鳴らす人々がSNSに盤踞していた。
彼らは、炎上の原因を、記事そのものの凶悪さにではなく、クレーマーの狂気やフェミの人権意識の病的亢進に求めるテの論陣を張りにかかる。
でなくても、そういう人々は、今回の記事の欠点を
「『ヤレるギャラ飲み』というタイトルの付け方が行き過ぎだった」
「『お持ち帰りできる女子大生ランキング』にしとけばセーフだった」
という程度にしか受け止めない。
冒頭近くで引用した「週刊SPA!」編集部のコメントも、もっぱらに「言葉の使い方の不適切さ」を詫びることに終始していた。
《 ?略? そのなかで「より親密になれる」「親密になりやすい」と表記すべき点を読者に訴求したいがために扇情的な表現を行ってしまった ?略? 》
と彼らは言っている。
要するに、編集部は、今回の騒動の主たる原因を、「ヤレる」という書き方が下品で扇情的だった点にしか認めていない。逆にいえば、彼らはその部分を「親密になれる」と言い換えていればOKだったと考えている。ということは、企画意図自体の凶悪さを認めていないわけだ。
9日になって5大学が抗議文を発表したことを受け、扶桑社は同日夜に公式サイトで「女性の尊厳に対する配慮を欠いた稚拙な記事を掲載し、多くの女性を傷つけてしまったことを深くお詫びいたします」などとする謝罪文を掲載した。
しかしネット上のコメントの中には、編集部を擁護する声が多数ではないが蔓延している。
代表的なのは、
「ホイチョイの『東京いい店やれる店』がヒットしたのは、1994年だったわけだけど、あれから四半世紀で、日本の空気はすっかり変わってしまったわけだな」
「思えば遠くへ来たものだな」
「もう、『ヤレる』なんていう言葉を含んだ企画は二度と編集会議を通らないんだろうな」
的な述懐だ。
彼らは、記事の劣悪さそのものよりも、むしろ凶悪な記事が許されなくなった世間の風潮の変化を嘆いている。
「窮屈でかなわないぜ」
というわけだ。
念のために解説しておくと、彼らの分析は根本的に的を外している。
今回の経緯をどうしても「お上品ぶった腐れリベラルだとか、何かにつけて噛み付いてくる狂犬フェミみたいな人たちのおかげで世界が窮屈になっている」というストーリーに落とし込みたい向きは、「1990年代には、『東京いい店やれる店』が大ヒットしていたのに、2019年には、同種の雑誌企画がいきなり謝罪に追い込まれている」という感じの話に逃げ込みたがる。
でも、それは違う。
第一に、「東京いい店やれる店」がピックアップし、紹介し、ランキング化していたのは、「店」であり「デートコース」だった。
ということは、あのヒット企画は、タイトルに「ヤレる店」という下品な表現をフックとして用いてはいたものの、その内容はあくまでも「おすすめのデートコースと評判のレストラン」をガイドする、東京のレストランガイドだった。その意味で、今回の「週刊SPA!」の企画記事を同一線上に並べられるものではない。
今回の「週刊SPA!」の記事がランキング化しているのは、ズバリ「女子大学生」という生身の人間だ。
しかも、その都内の女子大学生たちは「ヤレるかヤレないか」という一点に沿って序列化され、評価され、名指しでまな板に上げられている。
「ヤレる店」をランキング化する企画にしたところで、そりゃたしかに上品な話ではないだろう。
でも、「ヤレる女子大生」を実在の大学名そのまんまでBEST5まで表にして掲出してしまう感覚とは比較にならない。いくらなんでも、「ヤレる店」の企画は、そこまで凶悪ではない。
最後に「女衒」についても一言触れておきたい。
「週刊SPA!」の当該のこの企画は、三部構成で、第一部が「アプリ」紹介、第二が「飲みコンサル」、第三部が「女衒」となっている。内容は、それぞれ、「ギャラ飲みアプリの紹介」「ギャラ飲みマッチングサービスを主宰する人々によるギャラ飲みイベントの紹介」「女衒飲みの紹介」だ。問題は第三部の「女衒飲み」なのだが、私は、当初、「女衒」からの被害をブロックするためのお話だろうと思って読んでいた。当然だ。
なぜというに「女衒」というのは、女性が性的商品として人身売買されていた時代の職種で、現代にあっては反社会的組織の人間が担っていると考えられる犯罪的な役割であり、明らかな蔑称だからだ。女衒と呼ばれて喜ぶ人間はいないはずだし、女衒に近づきたいと考える人間も普通はいない。
ところが、最後まで読んでみるとどうやら様子が違う。というのも、この記事の文脈の中では、「女衒」は、蔑称ではないからだ。蔑称ではないどころか、一定のリスペクトを持って「女衒の人との接触に成功」(週刊SPA!12月25日号p56)というふうに書かれていたりする。
見出しでも
「実はコスパ○(マル)。女衒ギャラ飲みはかわいくて安い」(同p56)
となっているし、本文でも
「アプリでは時間ごとにどんどん料金が加算されていくが、女衒に紹介してもらった場合は、明確な時間制限はないのがありがたい」
「女衒飲みの条件として、女衒が指定した店で飲む必要があるが、細かいルールは少なく、あくまで”大人のやり取り”になる」
などと、記事中では「女衒」を肯定的な存在として持ち上げている。
私は、「女衒」という言葉をこれほどまでにポジティブに運用している現代の文章をほかに知らない。
彼らはいったいどうしてまた、女衒なんかを持ち上げているのだろうか。
ともかく、これを読んで、ちょっと謎が解けた気がしている。
この記事は、単なるナンパ指南であるようでいて、もう少し不吉な何かを示唆している。
書き手は、同誌の想定読者に対して
「おまえら、しょせんヤリたいわけだろ?」
という感じの思い切り上から侮った問いを投げかけている。
さらに、「ギャラ飲み」に集う女性たちに向けては
「君らはアレだよな? どうせオンナを武器に世渡りするほかにどうしようもないわけだろ?」
的なこれまた著しく侮った決めつけを適用している。
その一方で、女衒にはあからさまな憧れの感情を表出している。
「運営側」に対する無条件の憧憬。
他人をコントロールすることへの強烈な欲望。
まるっきりな権力志向じゃないか。
これはいったい何だろう?
いわゆる中二病だろうか?
単に悪ぶってみせているということなのか?
とりあえず、ここで結論を出すことはせずにおく。
ただ、「週刊SPA!」の周辺に
「真面目なヤツらはカタにはまっててどうしようもない」
という気分を共有している人たちが集まっている気配はずっと前から感じていた。
あるいは、私はその空気がイヤであの雑誌を開かなかったのかもしれない。
結論を述べる。
カタにハマっているのは、実は不真面目な人たちだ。
真面目な人たちは、自分の人生に真面目な態度で臨んだことの結果として、良い意味でも悪い意味でも厄介な個性を手に入れることになる。
不真面目な人たちはその境地に到達することができない。だから、半端な見栄を張ったり他人をランク付けしたりする。なんと哀れな人間たちではないか。
いっそスパっと(以下略)
(文・イラスト/小田嶋 隆)
日経ビジネスオンラインでのオダジマさん連載は本日がラストです。
なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
なぜ人は、何かに依存するのか?
『上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白』
<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて
日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!
(本の紹介はこちらから)
このコラムについて
小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明
「ピース・オブ・ケイク(a piece of cake)」は、英語のイディオムで、「ケーキの一片」、転じて「たやすいこと」「取るに足らない出来事」「チョロい仕事」ぐらいを意味している(らしい)。当欄は、世間に転がっている言葉を拾い上げて、かぶりつく試みだ。ケーキを食べるみたいに無思慮に、だ。で、咀嚼嚥下消化排泄のうえ栄養になれば上出来、食中毒で倒れるのも、まあ人生の勉強、と、基本的には前のめりの姿勢で臨む所存です。よろしくお願いします。
https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/011000175
「たったひとり」をあなどるなかれ
遙なるコンシェルジュ「男の悩み 女の嘆き」
私が吼え続けた20年
2019年1月11日(金)
遙 洋子
今回は20年の回顧録を書こうと思う。
2000年を挟んでその前後に“改革者”として脚光を浴びた人たちがいる。
カルロス・ゴーン氏は日産自動車を改革し、星野仙一氏は阪神タイガース悲願の優勝を果たし、丹羽宇一郎氏は伊藤忠商事を黒字回復させNHKでドキュメンタリーも放送された。
20年前、そんな彼らと共に「日経ビジネス」誌でリレー連載という企画に若輩の私も加えられた。当時は今よりも女性活躍への待望感が強く、改革、のキーワードと共に「女性視点への期待」が、連載内の私の役割としてあった。名だたる時代の寵児たちと共に、約20年前から私は執筆を始めることになった。連載は約4年続いた。
やがて、ウェブサイトの立ち上げにも加わることになり、それから今日に至る。
女性視点はそのまま。女性読者も増え、著名な改革者とは別に、私だけは低空飛行で芸能界で働きながらの20年だった。寵児たちはどうなったか。
かつての寵児たちのいま
カルロス・ゴーン氏は、日産から指弾され容疑者となった。星野仙一氏は「あー、しんどかった」と優勝の言葉を残し、後に逝去された。丹羽宇一郎氏は伊藤忠の会長を経た後に日本大使として中国に赴いたが、国の方針と違う、と、その立場を去られた。
「日経ビジネス」誌上の同期生として、彼らが最も華やかなりし頃に共に仕事をし、社会にそれぞれのメッセージを届けてきた目線で見ると、なんと“寵児”でいられる歳月は短いのだろう、と思わされる。
何が言いたいかというと、私のような凡人にはまばゆいばかりの経歴の持ち主でも、その栄光は永遠ではない、ということだ。
成功と脚光が、慢心や強欲を生むこともあるだろう。グローバルな視野を持つ人物でも嫌韓、嫌中の感情が渦巻くこの国では理解されにくいこともあるだろう。あるいは、弱い球団を再生、優勝させるために命を削ることも。
彼らの姿を見ていると、成功というものには、失敗とは別の、それ自体のリスクがつきまとうということが身に染みる。
結局、働く、ということはそういうことなのだ。
それぞれのリスクの責任を取った、あるいは取らされようとしているリーダーたちの姿を見て思う。
彼らの20年の変遷を知ると、1億円のお年玉をばらまく社長を始め、今、時代の寵児とされるリーダーたちも、それが決して長続きしない類のものだ、と、俯瞰で見ることができる。
ひとりの社員も「うっかり」で会社を潰せる
著名なリーダーではなく、普通の社員の凡ミスがとんでもない損害をもたらしたニュースも記憶から消えない。最近で言うと、大阪のホームセンターで、従業員が使用済みボタン電池をまとめて保管したため過充電が発生、火事になり、3000平方メートルの建屋が焼失した。
あるいは、札幌の不動産店で社員がスプレー缶を爆発させ、建物を1つ吹き飛ばし、近隣にも被害を与えた。彼らは危険を知ってやったのではなく、「うっかり」しただけだ。
損害の大きさを思うと、社長たちの嘆きが聞こえてきそうだが、1人のうっかりは、企業を潰すことだってできる。これをどうすれば回避できただろう、と、「もし私が社長だったら」と頭をひねってみたが、解決策は出てこない。
“うっかり”など、日常にいくらでも転がり、想定して前もって注意喚起を促すことなどできない。うっかり鉛筆をデスクから落とした、というレベルで、うっかり電池をまとめて置いておいたら翌日職場ごと燃えてなくなるなど、誰が想像できようか。
スプレー缶しかり。鍵を失うとか、財布を落としたとかいう深刻さではなく、そのもっと手前の、些細なうっかりで企業を揺るがす大事件になる。
リーダーは、リーダーたるゆえんで将来的リスクを背負い、平凡な社員1人が組織を揺るがすリスクにもなる。是となるも非となるも、それを生みだすのは“たったひとり”なのだ。
自ら働くということだけでなく、社員を雇うということも、それぞれにリスクがあることを思い知る。
同時に、それを踏まえた上で、“ひとり”の持つ力の絶大さをも思う。会社を立て直す改革者だったり爆発で失う社員だったり。いずれにせよ、たった“ひとり”のなせるワザだ。
“ひとり”が会社を救い、“ひとり”のせいで会社はつぶれる。1人であることは無力ではない。1人の威力たるや、あなどれない。
かくいう私も、ずっと1人で仕事をしてきた。執筆業は1人の作業であることはもちろんだが、芸能界での仕事もまた、究極、よい仕事を突き詰めたら、“ひとり”になった。よくタレントが大勢の事務所スタッフを引き連れて局を闊歩する姿を見ることがあるが、私はそういうスタイルをストレスに感じ、いかにいい本番を迎えるか、のみに集中したら、やがて全スタッフを外し、1人で局入り、1人でメイク直し、1人で衣装を着替える、というスタイルになった。
低空飛行な人生でも悔いはない
これを私はとても気に入っている。なぜなら、私以外のだれか1人の“うっかり”ミスからくる“爆発”レベルの被害に巻き込まれるリスクが小さいからだ。たったひとりの連絡ミスが自分の信用を無くし、たったひとりの口のきき方が私の大事な仕事相手を怒らせる。その火事の鎮火作業に追われ本番が始まる頃には電池切れ、という苦境から脱出できたのは、「自分ひとり」の力を信じてこれたこともある。
1人だから、出世もなければ、組織的営業活動もない。結果、低空飛行のまんまの20年だったが、そこに後悔はなく、労働環境のリスクやストレス排除という意味では、1人であることくらい自由でのびやかな労働スタイルはないと自負している。
私に最も似合う働き方は、つまりは限りなくフリーターに近い働き方だ。そして、出会い、だ。
企業という枠にとらわれず、「この人、優秀だ」と思える人物たちとのみ繋がっていく。
企業人でもできる繋がり方だと思うが、とにかく、うっかり爆発や火事にならないためには、鉛筆を落とすレベルのうっかりで会社を吹き飛ばす人間からは距離を取り、一方、慎重で注意深い人、つまりは優秀な人物と出会ったらとにかく離さない。
人は他人に対して「うっかりをしないためにはね」などと教育できるものではない。その社員教育に費やすエネルギーは不毛だと私は断言できる。優秀な人物など1個の企業にそう数がいるものではない。だから、私は自分の組織ではなく、他所様の会社やフリーの人々のネットワークに助けてもらい、人の力を借りて、働いてきた。私は1人だが、常に誰かに助けてもらって働いてきた。
執筆を始めた頃は、私は自分の原稿をどの編集者にも触らせなかった。自分1人を過信して、自らの感性のみに頼って発信してきた。が、紆余曲折あり、今や、書いた原稿は編集者に「あとはおまかせ」とばかりに好きに編集作業をしてもらっている。
若輩のコラムニストがしゃかりきになって「一文字も触らないで」という働き方は、今振り返ると「若いな……」と思う。20年後の私は、「好きに触ってください」という“大人”になった。もちろん誰に対してでも、ではなく、まかせる担当者の優秀さを信頼してのことだ。
年上と接することにストレスがあった若手時代から、今では自分が管理職世代となった。そうしたら、他人を頼ってみるのもいいことだ、ということに気づかされた。20年で私もまた変わったのだ。
世の中はどんどん「変わりにくく」なっている
社会も変わった。政界が一強体制になり、すると忖度が普通になり、権力がその姿を隠す配慮も必要なくなって、むき出しになった。
スポーツ界ではパワハラ事件が勃発し、長年の権力一強体制があったことが露呈した。もともとはその世界の功労者であったはずの人物が、長年その権力を握ると、慢心に傲慢、忖度、が定食セットのようにお盆に乗り、それをひっくり返す告発者にとっては命がけの時代になった。
それらを放送のネタにしている芸能界はといえば、内部告発するタレントなどほとんどおらず、一強の事務所やら、タレントやらが、権力と化して放置されたまんまだ。芸能界は他の世界を批判告発できても、自らの世界はいっさい批判しない。できない。最も不健全な労働環境とも言える。覚せい剤事件でも起こさない限り、権力の権化となったタレントが排除されることはない。
ならば、と、そこに媚びるタレントが権力構図を忖度で擁護する側に回る。私みたいに吼えれば、降ろされる。
だからわたしは、ひとりで吼える
犯罪者になれば一般人よりも叩かれるが、権力の横暴、パワハラ、などが告発される世界ではない。
だから昭和に権力を掴んだタレントは、平成を超え、新時代でも権力を握り続ける。
今、一番不健康な職場こそ、芸能界だ。テレビ離れというが、それこそ“健全”だ。
いびつな、不自然なキャスティングや露出の頻度の高さのウソ臭さを、視聴者が気づかないとでも思っているのか。視聴者は出演者たちが絶対語らない、背後の権力構図をとっくに嗅ぎ取っている。内部変革できなくても、視聴者から捨てられる、という形で、遠からず変化を余儀なくされるだろう。
吼えては降ろされ、を繰り返した20年間。唯一、吼え続けることを許されたのはこの日経ビジネスオンラインの執筆だった。読者の皆様と歴代編集者、そして、このチャンスをくださった日経BP社さん、そして、読んでくださった皆様に、20年分の感謝でこのコラムを終えたいと思う。
「たったひとり」で吼え続けさせていただいて、
そしてそれを聞き続けてくださって、心から、有難うございました。
遙洋子さん新刊のご案内
『私はこうしてストーカーに殺されずにすんだ』
『私はこうしてストーカーに殺されずにすんだ』
ストーカー殺人事件が後を絶たない。
法律ができたのに、なぜ助けられなかったのか?
自身の赤裸々な体験をもとに、どうすれば殺されずにすむかを徹底的に伝授する。
このコラムについて
遙なるコンシェルジュ「男の悩み 女の嘆き」
働く女性の台頭で悩む男性管理職は少なくない。どう対応すればいいか――。働く男女の読者の皆様を対象に、職場での悩みやトラブルに答えていきたいと思う。
上司であれ客であれ、そこにいるのが人間である以上、なんらかの普遍性のある解決法があるはずだ。それを共に探ることで、新たな“仕事がスムーズにいくルール”を発展させていきたい。たくさんの皆さんの悩みをこちらでお待ちしています。
前シリーズは「男の勘違い、女のすれ違い」
https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/213874/011000096/
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- 週刊SPA!炎上は出版業界に突きつけられた「お前らつまんねえよ」である 西武・そごうCM炎上「女に生まれたら罰ゲーム」を うまき 2019/1/11 14:10:22
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