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「日産・ゴーン氏事件」で問われる“日本人の品格”
2018年12月17日 郷原信郎が斬る
日産の代表取締役会長だったカルロス・ゴーン氏が、東京地検特捜部に突然逮捕され、3日後に開かれた臨時取締役会で解職された「日産・ゴーン事件」、起訴事実が、「退任後に別の契約で報酬を受領する合意」を有価証券報告書に記載しなかったという、犯罪に当たるかすら疑問な「罪状」にとどまることがほぼ確実となり、ゴーン氏を解職する「クーデター」を仕掛けた西川廣人社長ら日産経営陣の方が窮地に追い込まれつつある。 一方で、大阪地検特捜部の証拠改ざん問題など、一連の不祥事で、検察改革を迫られ、「引き返す勇気を持つこと」を強調した検察だったが、今回の事件での「大暴走」で「引き返す気」など微塵もないことを露呈した。検察独自の判断でゴーン氏を逮捕・起訴した以上、今後も、なりふり構わず、いかなる手段を使ってでも、有罪判決を得ようと「驀進(ばくしん)」を続けるであろう。 この事件については、逮捕直後に出した【役員報酬の隠蔽は、ゴーン氏主導か、会社主導か】以降、その時々の情報の制約の中で、私なりの分析・検討をしてきた。起訴事実が概ね明らかになったことを受け、12月14日には、【ゴーン氏事件、日産の「大誤算」と検察の「大暴走」の“根本的原因”】と題して、西川社長ら日産経営陣の「大誤算」の原因についても分析したことで、今回の「日産・ゴーン氏事件」の内容についての論評は、概ね書き尽くした感がある。 そうした中で、避けて通ることができないのは、今回の事件を、「日本社会」として、そして、「日本人」として問い直してみることである。 90年代末、日産は、それまでの「ぬるま湯」的な企業体質の結果、経営危機に陥り、倒産寸前の状況まで追い込まれた。メインバンクも救済を拒否、経産省からも見放され、世界の主要な自動車メーカーとの提携・統合を模索するも、手を挙げる企業はなく、万策尽きた状況の中、日産に救いの手を差し伸べたのがルノーであった。ルノーが、大株主のフランス政府からの資金も含めて8000憶円を出資し、日産は倒産を免れた。そして、ルノーから日産の経営者として送り込まれたゴーン氏が、大胆な経営改革でV字回復を遂げ、それ以降、概ね順調に、日産の業績は拡大し、直近の年度では、最終利益7500億円を計上するに至っている。 こうした中で、今回の「クーデター」が起き、ゴーン氏を代表取締役会長の座から引きずり下ろした西川社長は、ゴーン氏について、逮捕直後の会見で、「初期、非常に大きな改革を行った実績は紛れもない事実だと思う。その後については功罪両方ある」などと述べたのである。 あたかも日産という会社が、ルノーから融資を受け、それと同時に、ゴーン氏を経営者として雇って経営を委ねたというのであれば、まだわかる。しかし、そうではない。ルノーは、自らリスクを負って、倒産寸前の日産に巨額の「出資」をし、43%超の株式を取得し、親会社としてゴーン氏を経営者に送り込んだのである。日産社内には「ルノーからの8000億円は、もう返した」という声があるようだが、それは「融資」の場合の話であろう。出資者に対して言うことではない。 こういう日産側の行いは、日本社会では「恩知らず」と言って軽蔑されてきたのではなかろうか。 もう一つ、今回の事件をめぐっては、ゴーン氏の「高額報酬」批判に結び付けようとする論調が目立った。高額報酬を得ていた「強欲・ゴーン」から日産の経営者の地位を奪うことは無条件に正しいことであり、そのためには、検察の権力を使うことも是認されるという考え方だ。 私は、ゴーン氏を擁護しているわけではないし、「高額報酬」を評価する立場にもない。私が論じてきたのは、ゴーン氏について犯罪が成立するのか、それが、ゴーン氏のような立場の人を突然逮捕することを正当化できる悪質・重大なものと言えるのか、ということと、それをめぐる日産現経営陣の行動の正当性の問題であり、ゴーン氏が日産から得ていた高額報酬の是非とは全く別の問題だ。 ところが、ゴーン氏を逮捕した検察やそれを画策した日産経営陣を批判している私を、「ゴーン氏の高額報酬を擁護している」かのように批判する人がいる。ゴーン氏の報酬が、一般的な日本の大企業の経営者の報酬と比較して高額であったことが今回の事件に関連づけられ、それが問題の根本であるかのように考えられている。 今回の事件を、そのようにとらえて良いのか。それは、我々「日本人の品格」にも関わる問題だ。 「経営者の報酬」をどう考えるか 【役員報酬の隠蔽は、ゴーン氏主導か、会社主導か】でも述べたように、経営トップの報酬の問題は、「会社は誰のものか」についての考え方に大きく左右される。 「会社は株主のもの」であるとすれば、その利益に貢献した経営者には、それに見合う報酬が支払われるのが当然だということになる。一方、「会社は社員のもの」ととらえるとすれば、会社の利益は社員が働いて生み出したものなのだから、社員を代表する経営者の報酬も、社員と比較して相応の金額に抑えられるべきということになる。 そのような考え方の違いは、会社における経営者の役割の違いとも関係している。前者であれば、株主の負託を受けた経営者は、強大な権限を持ち、経営上の意思決定は、基本的にトップダウンで行われる。そして、それによる成果としての企業の利益も、経営者の判断によるところが大きいということになる。一方、後者の考え方の企業では、会社の意思決定は、基本的にボトムアップで行われ、経営者は、担当部門の意見の最終調整の役割を果たすに過ぎず、経営者の決断によって新たな意思決定が生じる部分は少ない。そのような役割であれば、経営者の報酬も、社員より相対的に多い程度に留めるのが自然だ。 つまり、経営者の報酬は、「株主中心の考え方」では、株主の利益への貢献に応じて与えられるものであるが、「社員中心の考え方」では、社員全体の働きと努力の総体によって生み出された会社の利益を、社員とともに配分するということになる。 戦後の日本では、「社員中心の考え方」が中心で、「日本的経営」「日本的雇用慣行」の背景ともなってきた。しかし、バブル経済崩壊後、欧米的な「株主中心的な考え方」が強まっており、企業経営の在り方や雇用慣行も大きく変わりつつある。 私自身は、「会社は株主のもの」という考え方を徹底する、いわゆるグローバリズムの信奉者ではない。「会社は社員やその家族のためのもの」という考え方は、日本企業の経営の中で、一概に否定されるべきものではないと考えている。 しかし、現実の問題として、経営者の報酬の問題の背景には、上記のような「会社は誰のものか」についての考え方の違いが根本的な問題として存在する。当該企業の中で、実際に、経営者の役割がどのように位置づけられ、どのようにして収益が生み出されているのか、ということを踏まえた上でなければ、その企業の経営者の報酬が相当かどうかを評価することはできないのである。 「経営者の高額報酬」は「悪」か もう一つ重要なことは、経営者が高額報酬を受けること自体を、社会としてどう評価すべきかは、決して単純には言えない問題だということだ。 社員の多くが、劣悪な労働条件の下、低賃金で酷使される一方、経営者が法外な高額報酬を得ているという「19世紀的状況」が社会として是認できないのは当然だ。しかし、現在の社会においては、労働者も含め、国民全体に最低限の生活が保障されるのは、国の社会政策の問題であり、また、企業の中で、いかなる条件でいかなる労働が行われ、どのように給与が支払われるべきかは、国の労働法制を前提に、企業の雇用政策や労使関係の中で、その社員の就業条件として決定されるべきものである。そういう面での社員の労働と会社への貢献に応じた給与・報酬の支払が行われた後に、なお会社に残る利益のうち、どれだけを経営者に帰属させるか、というのが経営者の報酬の問題だ。 日産の場合、その会社に残る利益が数千億であり、その中から、経営者のゴーン氏に支払われていた報酬は、以前は毎年20億円であり、今回の問題は、退任後に支払われる予定であった各期約10億円という金額の開示の問題だ。 仮に社員が10万人だとして、10億円を平等に配分するとすれば一人年間1万円となる。それは、パチンコや飲み代ですぐになくなる金額でもある。一方、その10億円が経営者一人に支払われた場合、贅沢な暮らしのために湯水のようにカネを使う人もいるだろうが、それを社会貢献の原資にしようとする人もいるだろう。石油事業での巨万の富で設立されたロックフェラー財団や、最近では、世界中で貧困や飢餓にさらされた子供達を救う慈善活動を行う財団に巨額の資金を投じているマイクロソフト社の創業者のビルゲイツ氏などがその典型であろう。多くの国で、文化的遺産の多くが、事業で巨万の富を築いた事業家によって築かれてきたことも事実だ。 会社が事業で得た利益の中から、経営者に高額報酬を支払うことと、社員に賞与等で広く配分することのどちらを選択するかは、会社における経営者の役割と実際の貢献の評価に基づいて会社内部で適正な手続で判断されればよく、それに尽きるのであり、「どちらが正しい」という話ではない。ましてや、高額報酬自体が「悪」として非難されるべきことではない。 日本社会における「闇討ち」「奇襲攻撃」の評価 今回の事件では、高額報酬への「羨望」「不公平感」という庶民的感情を巧みに操って、「ゴーン批判」が増幅されたことで、西川氏ら日産経営陣が、検察の権限を恃んでゴーン氏を日産の代表取締役会長の座から引きずり下ろした「クーデター」が正当化され、それに呼応するように、マスコミと日本社会を挙げての「ゴーン叩き」が行われた。 そこには、日本社会の一つの「負の側面」があるように思われる。 今回ゴーン氏の逮捕・起訴の容疑とされたのは、2010年3月期に役員の高額報酬の個別開示制度が導入されて以降、実際の支払額が約10億円に低減され、約10億円を退任後に別の名目で支払うことの合意(計画)についての有価証券報告書での「開示」の問題である。 それが問題だというのであれば、退任後の支払の計画について、文書に署名までして認識していた西川氏が、「このような形で退任後に報酬を受け取るべきではない」と堂々とゴーン氏に意見を言い、取締役会で議論した上、自らの権限で開示すれば良かった。 ところが、西川氏らは、ゴーン氏についての社内調査を密かに行って、その情報を検察に持ち込み、ゴーン氏の「突然の逮捕」に至らせ、説明も反論もできない状況に追い込んだまま、直後の記者会見で「残念という言葉をはるかに超えて、強い憤り、落胆を覚える」などとゴーン氏を一方的に断罪した(この会見で、西川氏が、逮捕容疑の報酬額の虚偽記載のほかに、検察に情報を提供したと述べた「私的な目的での投資資金の支出」、「私的な目的の経費の支出」も、ゴーン氏側の弁解・説明を聞くこともなく「不正」と断定したものであり、検察が特別背任罪等で立件しないのであれば、「ゴーン氏の悪事」と決めつけることはできない)。 このようなやり方は、古くは日本社会でも、「闇討ち」「寝首を掻く」などという言葉で表現され、「卑怯な計略」とされてきた。しかし、武力で劣る側が、圧倒的に優位な敵を倒す方法として「奇襲戦法」が肯定されることもあり(織田信長の「桶狭間の戦い」など)、太平洋戦争の開戦の際に、大戦果を挙げて賞賛された「真珠湾攻撃」もまさに「奇襲攻撃」であった。 しかし、宣戦布告もしないままの「奇襲」は、卑怯なやり方として、相手方から大きな反発を受ける。実際に、真珠湾攻撃の「奇襲」が米国民の激しい怒りを買い、在米日本人に対する不当な扱いや、その後の戦争での日本への民間人をも対象とする攻撃の理由とされたことも事実だ。 「高額報酬=強欲」批判に表れた「日本社会の卑しさ」 今回、ゴーン氏に重用されて社長の地位につき、自らも直近の期では5億円近くもの高額報酬を得ていた日産社長の西川氏が、ゴーン氏に対して行ったのが、まさに「闇討ち」であった。しかし、それは「検察の正義」という“錦の御旗”に支えられて正当化され、マスコミは、「ゴーン氏高額報酬=強欲」と決めつけ、検察・日産側のリークによる「ゴーン叩き」報道に埋め尽くされた。20年前、ルノーが巨額の出資をして倒産の危機に瀕した日産を救い、ゴーン氏が大胆な経営改革で同社を再生させたことは「過去のこと」とされ、「強欲な外国人経営者が日本人社員・取引先から不当に収奪している」との見方ばかりが強調される。かつては「名経営者ゴーン」にすり寄り、取材していたはずのジャーナリストが、「ケチ」「せこい」などとこき下す。そこには、強者や富める者が一度その地位から転落すると、社会全体で、水に落ちた犬に石を投げるという、これまでも繰り返されてきた日本社会の「卑しさ」の一面が現れたように思える。 日産・ゴーン氏事件で問われる「日本人の品格」 2011年の東日本大震災における被災者たちの行動は、世界中から称賛と感動の嵐を巻き起こした。多くの国で、自然災害の後には暴動や略奪が大量発生し、社会が無秩序化するのに、日本では、そういった犯罪が全く起きなかったからだ。むしろ、日本人は平時以上に冷静に行動し、「助け合いの精神」を発揮した。 東日本大震災で全世界から賞賛され尊敬された「秩序正しく寛容な日本社会」と、今回の情緒的な「ゴーン叩き」「高額報酬=強欲」批判に見る「排外的で無慈悲な日本社会」との間には、大きな落差がある。 入管法改正による外国人労働者受け入れ拡大、2020年東京オリンピック・パラリンピック、2025年大阪万博等のイベントなどもあり、今後、我々日本人と外国人との接点が急激に増えていくことは必至だ。 今回の「日産・ゴーン氏事件」を、犯罪の成否、法的責任などとは別に、「恩知らず」、「闇討ち」、「卑しさ」という面から、「日本人の品格」が問われる問題として考えてみる必要がある。
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