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定年後、幸せになれない「過去の栄光にしがみ付く人」の思考パターン
https://diamond.jp/articles/-/188557
2018.12.17 野田 稔:明治大学専門職大学院グローバル・ビジネス研究科教授 ダイヤモンド・オンライン
企業内での役職経験は年を経るに従って、価値あるものになっていき、大企業なら「大物の俺様」気分になりがち。定年後も過去の栄光をしがみついているようでは、幸せにはなれない(写真はイメージです) Photo:PIXTA
年を取るほど、
隣の芝生は青く見えるもの
人を行動に駆り立てる動機付けには、外発的動機付けと内発的動機付けがあります。前者は報酬や称賛など、動機の源泉が自分の外にある場合をいい、後者は使命感や興味・関心、成長実感など、源泉が自分の内にある場合をいいます。
このうち外発的動機付けは、少々厄介な特徴を持っています。他者と比べることで、その満足度が変わってしまうという性質です。
例えば、ある人が頑張って仕事をして成果を挙げた結果、100万円のボーナスをもらったとします。もちろん、大喜びです。ところが、同じぐらいの年齢、職歴、能力のライバルがいて、実はその人も同じ100万円のボーナスをもらったらしいという噂を聞いたら、どうでしょうか。その喜びも色あせてしまうことでしょう。
自分はとても頑張って大成果を挙げたので、100万円ももらって鼻高々だったのに、「なんだ、あいつもか……」となってしまうわけです。
そして次に思うことはたぶん、「自分はあんなに頑張って、こんなに大きな成果を挙げたのに、それに比べてあいつの努力や成果なんてたいしたことないじゃないか!」という苛立ちとか嫉妬心が沸き起こってくるのではないでしょうか。
さらに、外発的動機付けが金額のように明確ではなく、上司や周りの人間の評判とか主観的な評価であった場合、ライバルの評判や評価はその人の努力や成果に比べて大きすぎると感じ、自分のそれは小さすぎると感じるものです。
ここで重要なのは、自分のインプット(努力や成果)に見合うアウトプット(報酬や評価)を求めるという心理です。これを社会的交換理論と呼びます。
インプットは自分が社会(組織)に提供するものであり、アウトプットは社会(組織)が自分に提供してくれる、いわばご褒美・広義の報酬です。
インプットで一番重要な要素は業績です。その他に学歴、努力、年齢などが含まれます。そしてアウトプットには給与といった報酬のほかに、地位、名誉、認知、称賛などが含まれます。
そうしたインプットを分母に置き、アウトプットを分子に置いて他人と比べます。その値が他人より大きければもちろん、あるいはイコールであれば人は安心しますが、もし小さいと、不公平に感じるものです。
「自分はこれだけ頑張って、これぐらいしかもらっていないのに、あいつはあれだけの業績であんなにもらっている。私は損をしている」と思う人が大多数です。
決してこの逆は思わない。なぜならば、人間というものは、自分のインプットは過大に評価し、アウトプットは過小に評価しがちな生き物だからです。それと同時に、他人のインプットは小さく見え、アウトプットは大きく見えるものです。
この傾向は年を取るにつれてひどくなっていきます。最後には、同じものを食べているにもかかわらず、「自分のステーキのほうが小さい」などと思うようになることもあるほどです。
日産自動車の前会長カルロス・ゴーン氏が、他の自動車会社の会長と自分を比べ、「20億円がもらいすぎだとはちっとも思わない」と言ったそうですが、本音では「日産を立て直した自分はもっともらって当然だ」と思っていたのではないでしょうか。
自分にとっての
「本当の勲章」は何か?
かつて、社内に「叙勲局」という部署があった会社があります。歴代の経営者に相応の勲章を賜るように、政府と調整するのが仕事でした。「勲何等」という勲章は、それまでに積み上げてきたその人の社会への功績に対して授与されます。ですから、できるだけ長くその功績を積み上げて、少しでも高い位の勲章が授与されるようにするのが、叙勲局の担当者の仕事なわけです。早すぎてはいけないわけですが、かといって、遅きに失しても意味が減じてしまいます。
そうして授与される勲章は、アウトプットの中でも非常に重みのある要素であることはいうまでもありません。だからこそ、前の経営者の業績は小さく、勲章は大きく見えてしまうのに対し、自分の勲章は小さく見えてしまうものです。そうした経営者の気持ちを忖度して動くのが叙勲局の担当者であるわけです。
これもまた、老害の顕著な一例でしょう。我欲の醜さが表れやすい状況です。いわば承認欲求の肥大化ですが、そのことに本人だけは気がつかないものなのです。
叙勲などは、一般の人には遠い話かもしれませんが、その人なりに承認欲求の的となってしまう勲章はあるものです。
かく言う私にも、それはありました。
私にとっての重要なアウトプットの1つはテレビへの出演でした。かつて私はNHKのニュース番組のメインキャスターを務めていた時期がありました。仕事ですからインプットでもあるわけですが、私にとっては大切なアウトプット、社会からのご褒美でもあったのです。
それがいつしかなくなりました。正直に白状すれば、そのことで自分が非常に惨めに思えた時期もありました。
内容は違えども、多くの人にそうした経験は訪れるものだと思います。定年退職で肩書きがなくなった時も、それと似ているのかもしれません。
大企業の役職経験者ほど
承認欲求の虜になりやすい
特に大企業で部長や取締役になっていた人は要注意です。過去のものであればあるほど、自分のインプットは大きく見えます。自分が得たもの、例えば企業内での役職は年を経るに従って、ものすごく大きくて価値のあるものになっていきます。「大企業の部長までも経験したような大物の俺様」ができ上がるわけです。
そのことに対して、定年後に彼が社会に要求するアウトプット(ご褒美)は、周囲からの尊敬と称賛でしょう。「重く大切に扱われてしかるべきである」と感じ始めます。言ってみれば、「認められたい、称賛されたい、大切にされたい」という、承認欲求の虜になってしまうわけです。ボランティアなどの現場でも、そうした証左がよく見受けられます。
そんな時に、その状況にいつまでも未練たらしく食い下がって、その栄光を吹聴して回るのか、それとも歩むべき方向をすっぱりと切り替えるのか、そこが重要です。
私の話に戻せば、それはちょうど55歳くらいの時に、切り替えようと努力をしました。そのために自分を見つめ直しました。まず、自分がどう認知され、称賛されているのかどうかを冷静に判断しようと努めました。すると、テレビの仕事はなくなったとしても、その他の仕事は充実している。自分を必要としてくれている人たちも決して少なくないと素直に認知できるようになってきました。
それまで見過ごしてきたことも見えてきました。わかりやすく言えば、有頂天の人間は、とても視野が狭いものなのです。輝くものを見据えてしまうと、昼間の星と同じように、その光に隠れて大切な星が見えなくなってしまうものです。
ところが目を転じると、星々がそこに確かに存在していると気がつく。それは家族であったり、仲間であったり。私の場合は学生であったり、読者であったりしました。もちろん、私を頼ってくれている仕事のクライアント、関係者もたくさんいました。自分のことを本当に大切にしてくれるのは誰なのか。その誰かを発見することで、人生の見え方は大きく変わっていきます。
それこそ叙勲だけが称賛ではありません。むしろ本当に自分を大切にしてくれる人からしっかりと認知され、称賛されているかどうかのほうが大事なのです。もし、そうでないとすれば、その状況の改善から努力すべきでしょう。昔からそこにいた人たちでも、新たに出会った人でもいいのですが、そういう人たちにインプットし、その人たちからアウトプットを得ることが本当に重要なのです。
幸せの基準を
引き下げてみよう
過去を自慢することに生きがいを見つけて生きる人は過去にだけ生きていて、今を生きていない。ましてや未来に向かっても生きていない人です。過去のアウトプットでしか自分を認知できずに、これから新たな称賛も得られないと思っているのでしょう。
そういう人は、現実を直視するのが怖いのだと思います。誰からも必要とされていない自分がちっぽけに見えてしまいそうなのだと思います。会社以外で生きてこなかった人はそうなりがちです。
現実を直視しなければその後の人生は始まりません。
必要ならば、幸せの基準を下げるべきでしょう。野球にたとえるなら、先発完投型のエースが年を取って、リリーバー(中継ぎや抑え)としての役目を見出すのと同じです。そうした新たな居場所を見つけて、その場所で新たに認知と称賛を得られるように努力すべきです。
「幸せの基準を下げる」と言いましたが、これは言葉の綾です。下げるのではなく、本当は変えるのです。先発完投型のエースは確かに畏怖尊敬の対象ですが、今の野球を見れば、中継ぎから抑えまでを確立させた勝利の方程式といわれる面々は、決して先発完投型のエースよりも基準が下だとは見られないと言ったらいいでしょうか。
年齢に合った、その時々の状況に応じた見方をするだけで、本当の満足は得られるはずです。ビールでいうなら、1Lのジョッキを満タンにするためには1Lのビールが必要です。しかし500mLのジョッキであれば、500mLのビールで足ります。それでも同じく満タンです。
それでは自分をだましているにすぎないと思う人もいるかもしれません。最初はだましてもいいじゃないですか。それが自分にジャストフットするようになれば、前にもまして満足な人生になるはずです。「嘘も方便」と言いますが、自分をだますのも方便なのです。
誰も過去の栄光になどすがる必要はありません。前向きな未来志向になって、培ってきた技を別の仕事に活かせばいいのです。
(明治大学専門職大学院グローバル・ビジネス研究科教授 野田 稔)
自分のアウトプットに過大評価する傾向は加齢とともに高くなるって、中年なりたての自分もすでにそうなりかけてる気がして怖い。
— 朱野帰子 (@kaerukoakeno) 2018年12月17日
定年後、幸せになれない「過去の栄光にしがみ付く人」の思考パターン https://t.co/UgA3rNuEo4
本当にそれな!https://t.co/W8VAvFUL2S
— もりまさ (@piece0403st) 2018年12月16日
なるほどね。 https://t.co/coMwyvxbUe
— openthesesame (@openthesesame1) 2018年12月17日
ドラッカーは第2の人生について、踏み出す前に相当な助走期間が必要と述べたが、助走がないまま突入したり、会社人生も延長と考えている人が多いということだな。
— 【解談】1分ビジネス講談のメモ帳 (@bizkodan) 2018年12月16日
定年後、幸せになれない「過去の栄光にしがみ付く人」の思考パターン (via @Pocket) #longreads https://t.co/wBjyrxncbx
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