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2018年12月9日 森永康平 :株式会社マネネ代表取締役社長CEO
「女性の社会進出」「共稼ぎ急増」の哀しい実態をデータで読み解く
失われた「30年」。日本経済のバブル崩壊後の停滞。1990年から計算すると2018年で28年となり、バブル崩壊のタイミングで生まれた世代が、まもなく30歳に差し掛かる。30歳を超えてくると、周りの友人や知人から結婚や子どもの誕生の知らせを聞く機会が増えてくる。飲みの席での話題も「家庭」や「働き方」をメインに人生設計についてなど、少しシリアスなテーマが増える。筆者は仕事柄、自分よりも30歳ほど年上の方々(60代半ば)と話をさせていただくことも多いのだが、やはり昔と今で大きく違うと感じるのは「家庭」と「働き方」の部分だ。今回は統計情報を基に、激変した家庭のカタチを確認すると同時に、改善された働き方や道半ばの改革における問題点についても見ていく。
(株式会社マネネ 代表取締役社長CEO 森永康平)
実態にそぐわない制度が少子化を加速させる
30代も半ばになると、生活の中で「仕事」という要素に加え「家庭」や「育児」という要素が入り込む人も増えてくるため、悩みの質が変わってくる。生活拠点が東京都内にある筆者は、金融を専門に事業を展開し、子育て世代でもある。そのなかで頻繁に相談を受ける内容の1つに待機児童問題がある。第一子を保育園に入れる際はこの問題に直面し、違和感を覚えた記憶がある。
筆者の住んでいる東京都練馬区の場合、確実に子どもを保育園に入れようとすると、最低限の前提条件として、「両親ともに居宅外で月20日以上、1日8時間以上の就労が常態化している」ことが挙げられる。しかし、まだ保育園に子どもを預けていない状態で、両親ともに居宅外でフルタイムで働くというのは現実的ではなく、どうしても親族の協力が必要になってしまうケースが出てくるが、親族の協力は必ずしも全ての人が得られるわけではない。
少子化対策が必要だという声を聞く一方で、実態にそぐわないこのような制度が残っているようでは、仕事にある程度優先順位を置く夫婦にとっては、子どもを産むことはリスクになってしまうだろう。これだけが原因とは思わないが、厚生労働省の『人口動態統計』によれば、日本の出生数は減少傾向が続いている。30年前は毎年130万人前後の出生数であったが、直近では遂に年間出生数は100万人を下回ってしまった。リスクやリターンだけで考えることではないが、子どもを持つことによって現在抱えている職に悪影響が出る可能性がある以上、それを控える世帯が増えていくのは至極真っ当なことである。
出生数の推移
(出所):厚生労働省『平成28年 人口動態統計(確定数)』を基に株式会社マネネ作成 拡大画像表示
生きていく為の共働きという選択
この30年間で大きく変わったことの1つに、共働き世帯の増加も挙げられるだろう。筆者の母は専業主婦であったが、自身の感覚としても物心がついて以降も周りの友人の家庭は父親だけが働いている家庭がほとんどだった記憶がある。
しかし、直近では共働き世帯の数は専業主婦世帯の数の2倍弱まで膨れ上がっており、いまどきの子どもからすると、両親が共に働いている家庭の方が普通という印象を持っているのではないだろうか。筆者も子どもが3人いるが共働き世帯のうちの1つである。
専業主婦世帯と共働き世帯の推移
(出所):労働政策研究・研修機構の公表データを基に株式会社マネネ作成 拡大画像表示
このように、共働き世帯が増えていく中で、女性の社会進出が一般的になった結果だと前向きに捉える意見はよく目にする。雇用形態別に見ても、もともと非正規での女性雇用者数は増加傾向を続けていたが、2014年からは女性の正規雇用数はこれまでにない加速度で増加している。
女性の雇用形態別の雇用者数の推移
(出所):総務省統計局『労働力調査』を基に株式会社マネネ作成 拡大画像表示
しかし、総務省統計局が発表している『家計調査』を基に、物価上昇の影響を除いた実質ベースでの世帯給与月収を見ていくと、必ずしも前向きな理由だけで共働き世帯が増えている訳ではないということが分かるだろう。
1997年以降、共働き世帯が専業主婦世帯の数を上回り続けているが、実質世帯給与月収は1997年をピークに頭打ちし、2005年以降は50万円を下回り続けている。つまり、女性の社会進出が一般的になったという前向きな理由は表面的な美辞麗句に過ぎず、実態は共働きでないと生活が厳しい、片働きという選択肢が取りにくいということが言えるだろう。
実質世帯給与月収
(出所):総務省統計局『家計調査』、総務省統計局『2015年基準消費者物価指数』を基に株式会社 拡大画像表示
そもそも結婚しないという選択
総務省統計局が発表している『国勢調査』で世帯類型別の世帯数の推移を1980年から5年おきに見てみると、筆者の生まれた1985年時点では「夫婦と子ども」の世帯が最多であったが、データのある最新年の2015年時点では「単独」世帯が最多となっている。
世帯類型別の世帯数の推移
(出所):総務省統計局『国勢調査』を基に株式会社マネネ作成 拡大画像表示
下図は厚生労働省が発表している『人口動態統計』のデータを基に作成したグラフだが、いずれは結婚するとしても、平均初婚年齢は毎年上昇しており、俗に言う晩婚化が進んでいる。あわせて、50歳時点での未婚率も男女ともに上昇している。
平均初婚年齢
(出所)厚生労働省『平成28年人口動態統計』、総務省統計局『国勢調査』を基に株式会社マネネ作成 拡大画像表示
近年では、子どもを持たない、または家庭を持つタイミングを遅らせるという選択をするひとが増えているが、さらにはそもそも結婚をしないという人も増えてきているのが各種統計から明確に分かる。
時代の流れの変化として、少子化や共働き世帯の増加を挙げたが、それに加えて晩婚化や生涯未婚を選択する人が増加していることも「家庭」「働き方」の多様化を如実に現している。
改善した企業風土と道半ばの改革
30年前には一般的とされていた「男性は名門大学を卒業して、大企業に入り定年まで勤めあげ、女性は早々に家庭に入り育児と家事に専念する」というステレオタイプは崩壊した。そして、これまで見てきたように、家庭のカタチは変化し多様化してきた。
それにあわせて、昨今では「働き方改革」や「副業(複業)」という言葉も一般化。9時17時で全員がオフィスに出社し、深夜まで何時間も残業するような状態は改善され、リモートワークやフレックスタイム制度もかなり浸透してきた。大企業の一部では残業時間や有給休暇の取得の管理を徹底したため、皮肉にも、もっと働きたいという若手社員の悩みまで出るほどだ。
しかし、まだまだ制度改革は道半ばであると感じている。この10年間は依然として待機児童は毎年2万人近く存在し、多くの女性が正社員の職を失っている。女性が第一子出産時に正社員の職を失うことによる生涯賃金損失は2億円との推計もあり、これは各家庭の問題というわけではなく、国家レベルの問題である。男性の育児参加も叫ばれるが、厚生労働省の『雇用均等基本調査』によれば、男性の育児休業取得率は2017年度で5.14%と依然として低いままである。
日本株式市場の将来性に疑念
最近は日本国内における労働力不足を背景として、外国人労働者の受け入れ拡大が議論の的になっているが、筆者はただ外国から労働力を呼び込んで解決しようとするのではなく、AIやロボットをもっと活用して生産性を高めていくべきと考える。そのうえで、さらなる制度改革で、そもそも日本の出生数を増加させていくべきではないか。
筆者は金融教育の普及の為に起業しているのだが、それまで証券会社や運用会社で勤務していたため、今でも海外の投資家と話す機会は多い。彼らに最近の活動を話すと、日本人の金融のリテラシーを高めるのは重要だが「リテラシーが向上した後に資産運用として日本の株式市場に投資させるのはどうだろうかと思う」と言われる。その理由としては、少子高齢化が進み、人口が減り続けていくと予測されている日本の株式市場が今後もずっと上昇していくとは考えられないからだという。
この30年間は会社や家庭という「集まり」を重視する社会から「個」を重視するパラダイムシフトと共に、実際に家庭のカタチや働き方が変化してきた。これからは日本という国がどうなるべきか、どうなってほしいかという部分を明確にしながら、テクノロジーの活用や制度改革を進めていくべきだろう。
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https://diamond.jp/articles/-/187725
2018年12月8日 佐々木常夫 :株式会社佐々木常夫マネージメント・リサーチ代表取締役
ビジネスマンが充実した定年後を過ごすために知っておくべきたった1つのこと
最近「定年後」に関する記事や書籍が数多く出されているが、元・東レ経営研究所社長で、定年後の現在も著書の執筆や講演講師など、幅広く活躍する佐々木常夫氏は、「ビジネスマン時代の習慣や行動が定年後を決める」と断言する。
『人生の教養』(ポプラ社)も上梓した佐々木氏が提唱する、「ビジネスマンが身につけたい人生における教養」とは果たして何か。(佐々木常夫)
「得る」よりも「手放す」ことに基軸を置く
坐禅の呼吸は「吐く」ことから始めるといいます。呼吸のリズムも、「吐くを長く、吸うを短く」が原則だそうです。
呼吸とは空気の体内への出し入れのことですから、これは「入れる」以上に「出す」ことを優先する思想、いいかえれば、「得る」よりも「捨てる」ことを重視する禅の思想のあらわれといえます。
このように、禅の考えには「捨てる思想」が脈打っていて、禅語にもそうした言葉がたくさんあります。「放下著」はそのひとつで、「放下」は放り出すこと、「著」は命令や強調をあらわします。
ある修行僧が師匠に、「私はもうすべてを捨てました。さらにどんな修行をすればいいでしょう」とたずねたとき、師匠はすかさず「放下著!」と答えた。
すなわち、なるほどお前はみんな手放して、何ひとつもっていないかもしれない。しかし、「すべてを捨てた、何もない」という意識のあるうちはまだ執着が残っている証しである。その「捨てた」という心さえ捨てなさい―そういういましめの言葉です。
いっさいを捨て去るとすべてが生き返る、手放すと豊かになる、だから「何もない」ところから始めなさい。禅はそんな所有や執着を離れて裸の自分に返ること、無一物の存在になることの大切さをくり返し説いています。
もっとも、私たちが修行僧のようにすべてを捨て去ることは現実的には無理でしょう。しかし、捨て去ることは無理でも、「省く」ことなら可能ではないでしょうか。
生きているうちにいろいろな荷物をいつのまにか背負い込んでいるのが人間です。年をとるほど、その荷物は増えていき、背中は重くなっていく。
でも、その中には不要なもの、余分なもの、ムダなものもたくさん含まれているはずです。それらを「放下」して、裸に近い身軽な自分に戻ってみる。「素」の自分を見つめ直してみる。それなら煩悩まみれの私たちにも何とかできそうです。会社を辞めて地位や肩書きが外れる定年などは、その格好の機会かもしれません。
この世で手にしたものをあの世へもっていくことはできません。死が平等なのはその点で、どんなお金持ちも、どんな偉い人も、この世で所有したものはすべてこの世に残して、体ひとつで三途の川を渡っていかなくてはならない。
生きているあいだに物欲、所有欲にかられて、あれやこれや手に入れたこだわりの品もぜいたく品も、何ひとつあの世へもち込むことはできないのです。
そうであるなら、求めるよりも手放すことに軸を置いて、本来不要なさまざまなものを整理し、省略し、身軽になっていくのが賢明な生き方であるといえます。
整理が必要なのは何もモノやお金だけにかぎったことではありません。人間関係だって同じです。たとえば私が五十代のころから心がけてきたことに、夜遊びはしない、二次会にはつきあわないという原則があります。
仕事がらみの飲み会で、二次会のカラオケに繰り出すときも、いの一番に歌ってしまって、つきあいの義理を果たし、あとは適当な時間を見はからって席を抜け出す―そんなやり方をしていました。つまり、ムダなつきあいの断捨離です。
人間関係も私的な部分まで入り込んで深くつきあうようなことはできるだけ避けてきました。冷たい関係というのではありません。「君子の交わりは淡きこと水の如し」で、水のように澄んでこだわりのない、「さらり」とした関係が結局長続きするからです。
だから、親しい間柄の人ほど、互いの私的な領域までは踏み込まない。仲よくつきあいながらもプライベートな問題には立ち入らない。適度な距離を保ったうえで、よい関係を継続させる。こんなルールを自分に課してきたのです。
余計なものを整理すれば、手元に残るものはおのずと少なくなります。しかし、その少ないもので満足する。私たちに必要なのは、その「知足(足るを知る)」の考え方ではないでしょうか。
知足もまた禅思想のひとつです。人間の心は木のようなもので、枝葉を自由に伸ばし放題に育った木が丈夫かといえば、そんなことはない。枝葉を適当に整理する、つまり剪定することが木を強くしなやかに育てて、大きな実をつけることにもつながるのです。
人間の心も欲をときおり(しばしば)剪定して、知足の精神に返ることが必要です。求めるよりも少しだけ多く、手放すことを考える。足るを知って、あまりがっつかない。こんな控えめな生活態度も教養をつくる重要な条件のひとつとはいえないでしょうか。
「無位の真人」を自覚せよ
定年は会社というタテ社会から、地域や家庭というヨコ社会への移行の時期でもありますが、その時期を迎えるにあたって、組織人は大きく二つのタイプに分かれるようです。
ひとつは、会社という「牢獄」から解放されて、やっと自分の好きなことができる。これからが本当の人生だ。そんな希望と再生の感覚とともに定年後の人生への再スタートを切る「定年バンザイ型」。
もうひとつは、定年を会社という働く場、生きがいの場を失う「社会的な死」のように悲観的にとらえるタイプ。これでおれの人生も終わりかという無力感、喪失感のうちに定年を迎える「定年葬儀型」。
前者には「おめでとう」の言葉しかありませんが、問題は後者のタイプです。こういう人はタテ社会からヨコ社会への切り替えがうまくいかず、家庭や地域にも居場所を見つけられず、第二の人生という新しい風景の中で生きがいを見出せないでいます。
定年とともに、かつての肩書きや地位、会社員というアイデンティティを返上して、「何者でもない自分」に返った。その事実にうまくなじめないことが多いのです。
この何者でもない人のことを、禅では「無位の真人」といいます。地位や肩書きなど、すべての属性を取り払って、何ものにもとらわれない裸の姿が真実の人間性であるという意味です。
つまり、「真人」は人間の本来あるべき姿であり、定年はそこへ返るチャンスでもあるのに、その何者でもない状態がなかなか受け入れられず、返す刀で現役時代の職業や肩書きや地位にこだわる人がけっこう多いのです。
マンションの自治会で現役時代の肩書きを振り回して、周囲の人から敬遠されている例を前述しましたが、私の知っているケースで、定年後も最終キャリアを名刺に刷り込んでいる人がいます。
名前の横に「元○○会社取締役社長」とうやうやしく印刷されている。「元」の肩書きがついている名刺を私ははじめて見ました。
名刺に刷り込まないまでも、かつて一流企業に勤めていた事実をプライベートの場で吹聴したり、何かというと匂わせたりする人なら、世間にはおそらく山のようにいることでしょう。定年後のちょっとした趣味の集まりでも、こういう人がすぐに始めるのは、
「お仕事は何をされていたのですか?」
「どちらにお勤めで?」
「ほお、あの会社で部長まで―」
などという過去の値踏みです。そこから始まって、相手のキャリアが自分より上なら劣等感を覚え、下なら優越感をくすぐられるのに加えて、その過去のキャリアの差がその後の関係の下敷きにもなっていく―。
要するに、無位の真人をなかなか受け入れられない、あるいは、それを自分の中になかなか見出せないでいる人たちです。無位の、素っ裸の自分が心細くて「昔の名前」で心理的武装をするわけです。
一人の人間の中にはいろいろな自分がいます。周囲との関係性によって、私たちはいろいろな顔をもっている。子どもにとっては親であり、親から見れば子であり、妻にとっては夫であり、友人から見れば友であり、部下にとっては上司であり……その総合体が自分です。
そのすべてが自分だし、どれも本当の自分ではないともいえます。また、それらはすべて属性や立場であって、自分の本質ではないともいえる。したがって、その属性や立場をみんな取り払ったところに「無位の自分」があらわれます。そして、そこが自分という人間の終点であり始点でもあるのです。
もともとは何もない、その「何もない」のが本来の自分なのだということを私たちはよく自覚すべきです。地位や肩書き、属性や立場などは遅かれ早かれ、いずれはみんな消えてゆく蜃気楼のようなものだからです。
佐々木常夫(ささき・つねお)
株式会社佐々木常夫マネージメント・リサーチ代表取締役
1944年、秋田市生まれ。69年、東京大学経済学部卒業後、東レ株式会社に入社。01年、同期トップ(事務系)で東レの取締役に就任。03年に東レ経営研究所社長になる。内閣府の男女共同参画会議議員、大阪大学客員教授などの公職も歴任。「ワーク・ライフ・バランス」のシンボル的存在である。
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