「地方大卒MBAなし」が外資系の最年少社長に 慶応ビジネス・スクール EXECUTIVE 第97回 日色保ジョンソン・エンド・ジョンソン代表取締役社長(2)2018年8月27日(月) 慶応ビジネス・スクール 日色保(ひいろ・たもつ) 1988年静岡大学人文学部法学科卒業後、ジョンソン・エンド・ジョンソンに入社。医療機器の営業、マーケティング、トレーニングを担当。外科用機材部門と糖尿病関連事業部門の事業部長を経て2005年にグループ会社オーソ・クリニカル・ダイアグノスティックス社長に就任。2008年同社アジアパシフィック事業も統括。2010年ジョンソン・エンド・ジョンソンメディカルカンパニー成長戦略担当副社長シニアバイスプレジデントに就任。2012年から現職。(写真は北山宏一、以下同) 慶応義塾大学大学院経営管理研究科(慶応ビジネス・スクール)は次世代の経営の担い手を育成すべく、エグゼクティブ向けに特化した学位プログラム「Executive MBA(EMBA)」を開設している。「EMBA」プログラムの目玉の1つが、企業経営者らの講演と討論を通して自身のリーダーシップや経営哲学を確立する力を養う「経営者討論科目」。日経ビジネスオンラインではその一部の授業を掲載していく。
6月の経営者討論科目ではジョンソン・エンド・ジョンソンの日色保代表取締役社長が「ジョンソン・エンド・ジョンソンにおける人材育成とリーダーシップ」をテーマに講義した。新しい場所で様々な経験を積ませてキャリアを構築していくのがジョンソン・エンド・ジョンソン流の人材育成。典型的なキャリアパスをたどった一人が、史上最年少の46歳で現地法人トップに就いた日色社長だという。日色社長は自身の経歴を振り返りながら、それぞれの場でどんな経験を積み、どんな学びを得て社長への階段を上っていったかを説明した。 (取材・構成:小林佳代) ここからはジョンソン・エンド・ジョンソンの人材育成や私が考えるリーダーシップについて話していきます。 能力開発のあるべき形というのは様々な考え方があると思います。私自身が考えるポートフォリオは、トレーニングコースや資料からの学習が10%、他者からの学習が20%、新たな経験からの学習が70%というものです。 つまり、人を育てる上で最もインパクトが大きいのは、実際の新たな経験からの学習だと考えています。もちろん、座学も重要だし、人から教えを受けることも必要ですが、「今までやったことがないことをやらせてみる」ことが、人を大きく成長させるきっかけになると信じています。 私の場合、新卒でジョンソン・エンド・ジョンソンに入社してから24年目、46歳で社長になりました。現地法人の社長としては最年少です。数えてみると、それが14件目の仕事でした。 私は地方の国立大学の出身。社長になるための勉強をしたわけではないし、MBA(経営学修士)も取得していません。正直、社長になる素養があったわけではありません。けれど、色々な仕事をして、その度に新しい経験を積んでいくうちに、気づいたら、世界最大級のグローバル企業の日本法人社長を務められるぐらい、身体のいろいろな部分に筋肉がついていました。そのプロセスに大変感謝をしていますし、「ジョンソン・エンド・ジョンソンという会社に育ててもらった」と心から思います。 ジョンソン・エンド・ジョンソンでの私の経歴をご紹介しながら、それぞれの仕事でどんな学びがあったのかを紹介していきましょう。 私が入社したのは1988年。バブル真っただ中で、世の中がすごく浮かれていた時代でした。地方の大学生だった私は、正直なところ、あまり深い考えもなく、熱心に企業を研究したわけでもなく、いろいろな経緯があって、ジョンソン・エンド・ジョンソンに入社しました。 入社後は営業部員として医療機器や医療材料を売る仕事に就きました。私が担当したのは、外科手術用の製品です。当時はちょうど腹腔鏡などを使う低侵襲型の手術が出始めたころでした。営業で病院に行き、外科の先生方にそういう機器や手術方法を紹介していました。時には、40代、50代の教授が執刀する手術に立ち会い、「先生、もっとレバーをひっぱってください」「こうやって動かしてください」と指示もしました。大学を出たばかり、若干22〜23歳だった自分には大変なカルチャーショックでした。 偏見を捨てて、受け入れてみる 目の前のベッドには、治療を必要とする患者さんが麻酔をかけられて寝ています。そんな緊張感あふれる場で、一生懸命に手術をしている医者に対して、自分が「こうしてください」などと指示をするのです…。ついこの間までちゃらんぽらんな学生だった私ですが、この経験で、一気に新入社員気分が吹き飛びました。
しっかり勉強して、正しい情報を伝えなければ、今、目の前で寝ている患者さんに悪い影響が及んでしまいます。「これは真面目に仕事に取り組まなくてはならない」と意識を改めました。そして、自分自身が本腰を入れて取り組むことで、「仕事は面白い」と感じるようになったのです。 ジョンソン・エンド・ジョンソンという会社は、「これから伸びる」と思った事業には思い切った投資をします。低侵襲の手術部門も一挙に人員を3倍に拡大しました。大量に人を採用したため、マネジャーが足りなくなり、最後の1席は「もういいや、お前で」と、私が就くことになりました。 会社に入ってわずか3年半、26歳で営業部員8人を抱えるマネジャーになりました。マネジャーというのは何をしなくてはならないのか。それすらわかっていなかったので試行錯誤でした。今振り返ると、自分のコピーを一生懸命つくろうとするばかりで、決していいマネジャーではなかったと思います。管理の方法もリードの仕方もわからないから、とりあえず、自分の経験に従って「オレのようにやれ」という指導になっていました。 そんな時期に、日本に赴任していた米国人マネジャーが体系的な人材開発やトレーニングの必要性を主張していました。それまでのジョンソン・エンド・ジョンソンは知識やスキルの伝え方も極めて属人的でしたが、それを改め、誰もが同じ水準で知識やスキルを習得できる仕組みが必要だと説いてきたのです。しかし、日本のマネジャーたちの受け止め方は冷ややかでした。「日本のことを何も知らないヤツがいきなり来て何を言ってるんだ」という感じです。私もそう思っていました。 ある時、たまたまその米国人マネジャーと帰りが一緒になり、2人で歩いていた時に、彼がポツリと「日色さん、This is pain」とつぶやきました。彼は、日本のマネジャーたちが自分たちで壁をつくり、協力してくれない構図に苦しんでいたのです。その姿を見て、単純に「かわいそうだな」と感じました。そこで、私はバイアスをなくして、改めて彼の話を受け止めてみようとしました。すると、彼が言おうとしていることがはっきりと理解でき、その重要性に気づいたのです。 偏見を捨てて受け入れてみることで、全く違うことが見えてくる――。多様な人々と関わり合いながら、一人ひとりの考えや価値観を尊重し、聞き入れるインクルージョン(包含)の重要性を学ぶ貴重な経験になりました。 管理職の管理には距離感が大事 その米国人マネジャーの指示で、日本に体系的な人材開発の仕組みを導入するため、私は米国に勉強に行きました。帰国後、学んだことを活かし、体系的なトレーニングシステムやコーチング、カウンセリングのあり方、キャリアパスの構築などにかかわりました。
それまでは営業などで自分自身が成果を出す仕事が多かったのですが、こうした仕組みづくりにかかわると、自分の仕事が会社に対して大きなインパクトを与えていることを実感できます。この時に、私は本当に「仕事って面白い」と心から感じたように思います。 マイクロマネージは自分には便利だったが ジョンソン・エンド・ジョンソンは仕事で成果を出すと、よりチャレンジングな目標が与えられる会社です。私の場合は、再び米国に1年派遣され、医療制度の研究や国際マーケティングなどに携わることになりました。死にものぐるいで働いて成果を出すと、今度は帰国して営業部に戻り、地方のマネジャーたちを管理するポジションに就くことになりました。ファーストラインのマネジャーでなく、セカンドラインのマネジャーを経験することになったのです。 初めて管理職を管理するマネジャーになった当初は、彼らとの距離感がつかめず、スタッフと同じように管理しようとしてしまいました。管理する側の立場からすると、最も効率がいいのは同じことを同じフォーマットで同じように全員にやらせることです。そしてマイクロマネージすること。私自身、マイクロマネージする上司は一番嫌いなのですが、管理する側としては便利だから、ついそういう管理をしてしまっていました。 ところが、どうもうまくいきません。部下である地方のマネジャーたちの顔が暗く、面白くなさそうなのです。その時に気づいたのは、やはり管理職にはある程度の裁量とか、自分で考えて決定を下せるような余地を残さないといけないということです。管理職の管理には距離感とエンパワーメントが不可欠なのです。 手術のビデオを見せて仕事の意義を伝えた 33歳でマーケティングを担当することになりました。この時に一番印象に残っているのは、品質改善への取り組みです。
私たちが扱う医療機器や医療材料は患者さんに直接的に影響するもの。品質には極めて厳重な対応が必要です。中でも日本の要求水準は非常に高い。欧米の品質基準と日本の品質基準のギャップには相当な差があります。日本の品質基準を満たすべく、時に我々はテキサスにある工場まで出向いて品質改善に取り組んでいました。 テキサスの工場はとてつもない田舎にあり、地元のおばちゃんたちがたくさん働いています。彼女たちは一生懸命に仕事をしていますが、「自分たちの仕事が誰のために、何のために役に立っているのか」はピンときていません。9時から5時まで工場にいて、「目の前にあるこれとこれをくっつける」といった作業に終始していますから、仕事へのこだわりもあまりありません。 あれこれ手を尽くしたものの、品質改善はなかなかうまくいきませんでした。最終的に、私は日本から心臓血管外科医を連れて行きました。彼が行った心臓手術をおばちゃんたちにビデオで見せたのです。その先生は小児専門なので、ビデオに映っていたのは先天性の疾患で手術を受ける子供の写真でした。麻酔を受けて、たくさんのチューブがつながれた状態で手術が始まります。拍動している心臓に血管をつなぐ作業をしている時、ビデオをパッと止めます。心臓外科医が「ここで皆さんがつくっている製品を使います。この製品はとても大事なもので…」ととうとうと語り出します。 この仕掛けはとても効きました。おばちゃんたちはみんな涙、涙…。「この子は助かったの?」と聞いてきて、「助かって、今はとても元気です」と言うと、パチパチパチパチと拍手がわき起こりました。この出来事の後、おばちゃんたちの仕事への取り組み姿勢は変わり、ぐんと品質も上がりました。 「自分たちの品質基準に合わない」と文句を言っても始まりません。相手の立場、相手の心にきちんと刺さる材料を提供する。そうすれば話は伝わるし、物事は通じます。そんな勉強ができた経験になりました。 「自分に心地いい人かどうか」で判断してはいけない その後、営業とマーケティングの統括を経て、私は36歳で部員180人、売上高160億円ほどの事業部の事業部長になりました。この時には、ナレッジマネジメントに挑戦しました。この仕組みによって、他の営業所で成功している戦略が誰の手を経ずとも見られるようになります。そのほかにも、社内のノウハウや知識、知恵がものすごく流通するようになりました。
ナレッジマネジメントを構築したことで、情報をコントロールすることによってのみ、付加価値や存在意義を維持していたマネジャーは淘汰されていきました。機敏なマネジャーは、情報がシェアされることを前提に、自身も情報に対するアンテナをいっぱい立てて勉強し、営業員に対する支援を強化して成果を上げていきます。マネジャーやリーダーの役割は情報を管理することではなく、下を支援することだと改めて強く感じました。 その後、別の事業部の事業部長に就任します。ここは売上高が1億円ほど。部員も20人ぐらいしかいません。1年半前に華々しく立ち上げたものの、わずか9カ月で事業部長が飛ばされ、その後任も9カ月後にいなくなるという悲惨な状況に陥っていました。 以前の事業部は「1を言えば10を理解する」ような人材がそろっていましたが、今度はそうはいきません。こういう環境の中で、今いる人材を活用しながらいかに立て直すか。私がやったのは「社員たちに勝つことへのこだわりを持たせること」でした。自信をつけさせるために社員たちを徹底的にトレーニングし、やったことがない仕事にもどんどん挑戦させました。その結果、1年弱ほどで事業部を立て直すことができました。新しい経験を積ませることが、いかに人を育てるかを改めて認識する出来事となりました。 その後、グループ内の臨床検査会社の社長に就任しました。39歳の時です。売上高は200億円ほどでしたが、臨床検査の業界ではトップ10に入る会社です。 この会社に入って驚いたのは、社員の中に私の目をまともに見ようとしない人とか、何を言ってもボソボソとしか返事をしない人がいたこと。コミュニケーション力は乏しく、「もし、私が採用の面接官だったら5分で落とすだろう」と思いました。 ところが、こういう人たちが臨床検査の世界ではただ者ではないのです。輸血検査のプロトコルに関して業界随一の存在だったり、ネットワークシステムにものすごく強くて、自分でソフトウエアまで開発していたり…。 私は、自分が営業出身ということもあり、元気で、ハキハキしていて、言いたいことがきちんと言える人材を評価したくなりがちでした。しかし、臨床検査の会社には緻密さが求められます。人材は多種多様です。自分のバイアスで、自分にとって心地いい人をつい優遇してはいけないということを痛感しました。 信頼に足る現地のリーダーに任せる その後、アジア地区を統括することになり、初めて日本以外の国の管理を経験しました。インド、オーストラリア、中国など様々な場所に行きました。最初のうち、勢いあまって、何でも自分でマネージしようとしていました。KPI(重要業績評価指標)をレビューする際も、すごく細かいところにまで口出ししていました。けれど、すべての国を自分で管理できるはずはありません。自ら何度足を運ぼうと、そこに住んでビジネスをやっている人ほどはわからないものです。
グローバルのトップから、「自分が信頼するヤツを見つけて、そいつに任せろ」と言われました。自分ではわからないことを何度もレポートを出させ、レビューをしても、現地の人間の仕事の邪魔になるばかり。信頼に足る現地のリーダーを見つけ、任せてやらせてみるというのが一番だというのは本当にその通りだと思いました。 「任せるしかない」とわかると、腹をくくるものです。本来、マネジメントというのはこういうものだとこの時に思い知りました。その後、成長・イノベーション戦略を立案・実行する部門の責任者に就き、それまで経験のなかった管理部門の経験を積みます。そして46歳で社長に就任し、今に至ります。このように様々な部署、役職で様々な経験をしながら、リーダーに必要なことを学ばせてもらうことができました。 一般に、キャリアの進展、拡張については「キャリア・ラダー(ハシゴ型)」をイメージする人が多いことと思います。同一領域で一本道を昇進していくパターンです。ジョンソン・エンド・ジョンソンの場合はこれとは違って、「キャリア・ラティス(格子型)」です。複数領域で昇進したり、平行移動したりと様々な経験を積みながらキャリアを構築していきます。頻繁に人を動かしますが、全員に対してやみくもに機械的にローテーションをするわけではありません。本人の希望、適性、ポテンシャルなどを見ながら、オーダーメードでやっています。私はキャリア・ラティスで経験を積んだ典型的な社員だったといえます。 このコラムについて 慶応ビジネス・スクール EXECUTIVE この連載では、慶応ビジネス・スクールで展開されているエグゼクティブ向けMBA課程のエッセンスを紹介。日々のビジネスに奮闘する読者の問題解決のヒントを提供します。
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