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売り手市場は別世界の話。「拾ってもらった」会社を辞められない氷河期世代
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180223-00010002-binsider-bus_all
BUSINESS INSIDER JAPAN 2/23(金) 12:10配信
「今でもリクルートスーツを着た女性を見かけると、胸がきゅーんとする」
役職が同じ同期入社40人を集めた新人研修。自己紹介した瀬下かおり(仮名)に、研修担当の上司が聞き返した。
気まずい気持ちでうつむいて「はい」と返事した。ところが、かおりの次に自己紹介した新入職員も四大卒だった。上司は「君も大卒? 今年は何だかすごいねえ」と感嘆の声を上げた。
1996年4月。かおりは郵政省国家三種の公務員として、社会人のスタートを切った。上司が驚いたのは、大卒は通常、幹部候補生として採用する国家一種、二種を目指し、国家三種は高卒人材の就職先と想定されているからだった。
「私が採用された地域の国家三種の同期は40人でしたが、そのうち20人が四大卒でした。私のように国公立大学出身者も結構いたので、研修を担当した上司たちは騒いでましたね。しかも数週間の研修の間に、10人は就職浪人組だと判明しました。私だけじゃなかったんだと、本当にほっとしたというか、心強かった。だからか、私たちの期はすごく結束が固いんです」
「就職氷河期」
今では普通に使われるこの言葉は、1992年に雑誌『就職ジャーナル』の誌面で初めて登場したという。歴史的に振り返ればバブルは1991年に崩壊したが、その認識はすぐには共有されず、1993年まで日本は好景気の空気が漂っていた。就職の専門誌だからこそ、いち早く異変を察知できたのだろう。1994年になると、バブル崩壊とそれに伴う新卒の就職難は社会問題として認識されるようになり、「就職氷河期」は同年の第11回「新語・流行語大賞」で審査員特選造語賞を受賞した。
かおりはその1994年に就職活動をし、どこからも内定を得られないまま翌1995年春に卒業した就職浪人組だった。氷河期の体験は、今なお彼女のトラウマになっている。
高卒採用枠に大卒が殺到
かおりは1991年4月、地方都市の公立大学商学部に入学。実家を出て一人暮らしを始めた。地方在住だったからかバブルの恩恵を受けた記憶はないものの、先輩たちが就職活動に苦労する様子は感じなかった。
4年生になる少し前、1994年2月ごろから就職活動を始めた。リクルートなどが送ってくる企業ガイドブックをめくり、興味のある企業に付録のはがきで資料請求したり、合同会社説明会に参加した。Windows95の発売前でインターネットはおろか、個人用パソコンも普及しておらず、エントリーシートという概念もなかった。21世紀からは想像もつかないアナログな就職活動。けれど、皆それで収まるべきところに収まっていった。1学年上の先輩までは。
バブル崩壊が女子直撃、「私たちの何が悪いんだろう」
初夏に入ったころ、ようやく異変に気付いた。一次面接の連絡が来ても、次になかなか進めない。20社以上受けて、一度も最終面接に呼ばれなかった。周りも同じ状況だった。
「キャンパスで会った友達と『何で落ちるんだろう。私たちの何が悪いのかな』と途方に暮れました。その時はネットもないから日本全体で起こっていることと気づかず、自分に原因があると思いました」
リクルートワークス研究所の大卒求人倍率調査によると、バブル期の1991年3月卒の大卒求人倍率は2.86倍(求人総数84万4000人、民間企業就職希望者数29万3800人)。1993年3月卒で1.91倍と2倍を割り込むと1994年3月卒は1.55倍に低下。かおりの学年、1995年3月卒は1.20倍(求人総数40万400人、民間企業就職希望者数33万2800人)に落ち込んだ。団塊ジュニアの大学卒業期を迎え、新卒者数が増える一方で、求人総数はバブル期から半減していた。
就職氷河期はその後長く続き、リーマン・ショック後から東日本大震災後にも厳しい情勢が訪れたが、かおりの世代の特徴は、ネットがなく情報収集が困難だったことと、大学の就職課をはじめ就活支援サービスが未整備だったこと。そして、男女雇用機会均等法改正前で、採用での男女差別が「禁止」ではなく「努力義務」とされていた点だ。
朝日新聞は1992年8月の朝刊記事「92就職ノート 長引く終盤 女子学生受難、活動終わらず」で、以下のように記している。
リクルートリサーチの 調査によれば、大学男子の求人倍率が2倍台を維持したのに対し、大学と短大を合わせた女子学生は0.93倍と、「1」を割り込んだ。
特に、男性と同じ仕事を目指す総合職志向の女子学生は強い逆風にさらされた。
「男子学生は応募する企業の条件を緩めたり、卒業生のツテをたどって徐々に就職先が決まっていきました。同級生の一人は、当時はまだ無名だったユニクロに入り、1年目からいきなり副店長をさせられてましたね。次に、実家から通えるところで探した女子が決まった。内定先は税理士事務所のような個人経営のところがほとんどで、ボーナスも出なかったりするけど、実家暮らしなら生活できるから」
当時、多くの大学の就職課は求人票を掲示する以上の介入や情報提供もしていなかった。自活できるレベルの就職先を探す女子は、最後まで取り残された。
梅雨が明け、夏休みに入った。
「どこかに入らないと」
元々は流通業界を目指していたが、応募を受け付けている企業に、片っ端から応募することにした。
就職浪人、「何のために勉強したんだろう」
猛暑で朝から気温が上がる日は、当時の日々を思い出し、気が滅入る。
リクルートスーツを着て、面接に向かう。まだ朝9時前なのに、ビルの電光掲示板に表示される気温が30度を超えていた。ハンカチを取り出すためにカバンのファスナーを開けながら、涙が出てきた。
「私は社会に必要とされていない人間なんだ」「何のために勉強してきたんだろう」
強い日差しを受け、汗と一緒に自我までアスファルトに溶けてしまいそうだった。
「今も街中で、資料に目を通していたり、何かを探しているリクルートスーツ姿の女子学生を見ると、胸がきゅーっとなる。駆け寄って、『頑張って』と抱きしめたくなる」
当時を振り返るかおりの手が、自然と固くなる。
多くの企業が内定式を行う10月1日を過ぎて、かおりは就職活動に見切りをつけた。そのまま翌1995年3月、大学を卒業し、一人暮らしのままアルバイト生活に入った。
1990年代は第二新卒という市場もなく、卒業すると新卒求人への応募も制限された。だが、留年も就職浪人も、かおりには同じことに思えた。就活1年目でどうにもならなかった自分の市場価値は、さらに落ちているんだろう。
当時付き合っていた彼氏が、「公務員試験受けなよ」と勧めてきた。彼は4年生のときに国家三種の公務員に採用された。四大卒で国家公務員を目指すなら一種か二種が定石だが、不景気で公務員人気が高まり、民間以上に激戦区になりつつあった。
一方、三種試験の試験は一、二種に比べれば易しいが、応募資格に年齢制限をかけている省庁が少なくなかった。かおりは20代半ばでも応募可能だった郵政省に狙いを定め、アルバイトをしながら独学で試験勉強を始めた。試験が近づくと、実家に引っ越して勉強に集中した。
そして9月、念願の採用通知を受け取った。先の見えない日々が、ようやく終わった。
「拾ってもらったんだから」同期との電話は命綱
1996年、かおりは研修を終えて郵便局に配属された。窓口で顧客に対応する仕事は、つらいことの方が多かった。機嫌の悪い客に怒鳴られた夜、泣きながら同期に電話したら、相手も泣いている最中だった。「拾ってもらえたんだから頑張らないと」と励まし合い、「明日も頑張ろうね」と電話を切った。
就職浪人組の同期の一人はストレスからじんましんが出て、医者から「仕事を休んだ方がいい」と言われたが、洋服で隠して出社し続けた。
皆、激しい椅子取りゲームの末につかんだ自分の居場所を手放さまいと必死だった。同期との電話は、競争から放り出されないための命綱だった。
かおりは今年46歳になる。今の生活の満足度は「70点は超えている」。独身、年収500万円台。好きなことに投じるだけの時間もお金もある。
だが、現場事務職で採用されたため、キャリアの道は制限されている。郵政事業の民営化で、かおりは「国家三種の公務員」から日本郵便の地域基幹職の現場社員になった。管理職への道が完全に閉ざされたわけではないが、総合職の社員とは大きな差がある。
「郵政民営化後に総合職転換の制度もできたけど、年齢制限があって私は対象外でした。やっとの思いで就職して、必死で働いてきたけど、昇進では後輩たちに先を越される。やりきれない思いもあります」
キャリア制限されていても「非正規よりは恵まれている」
窓口の営業成績は上位をキープし表彰の常連。年賀状離れが進む中でも、知人に声を掛けまくってノルマをきっちり達成してきた。だからこそ、スタート地点の違いで、その後のキャリアが制限され続けていることに、30歳を過ぎたころから違和感を覚えるようになった。
転職を真剣に考えたことは何度かある。けど、具体的な行動は起こせないままだ。
「こんな私を拾ってくれたという恩義も感じているし、つぶれそうにない会社に入れて、同じように新卒で就職できず、非正規の仕事にしか就けなかった人たちよりは恵まれているという気持ちもあります」
アパートを借りるとき、ローンを組むとき、郵便局勤務という信用力は絶大だった。自分に自信が持てないから、大きな傘の下にいたいのかもしれない。
「平成生まれの後輩たちに、『何でこの職場を選んだの』と聞くと、『社会の役に立ちたい』とか、純粋な答えが返って来るんですよ。自分はとにかくどこかに入らなきゃと、その一心だったのに」
「仕事が面白くない、やめたい」と愚痴をこぼす20代社員には、「とりあえず3年頑張ろうよ。面白くないのも、つらいのも経験だよ」と励ます。私たちは病んでも、泣いても辞めなかった -- 。
「キムタク頑張れ」自分の SNSに何度も書き込んだ
最近、同じ1972年生まれの有名人、木村拓哉と貴乃花のことが気になって仕方がない。
フジテレビの月9ドラマ「ロングバケーション」が大ヒットし、木村拓哉が人気絶頂期にあったのは、かおりが社会人になった1996年だった。あれから20年、ジャニーズ事務所だけでなくSMAPの功労者のはずの彼が、2016年の解散騒動で「裏切者」として批判された。組織に尽くしてきたかおりは黙っていられなかった。特にファンでもなかったが、自身のSNSに「キムタク頑張れ」と何度も書き込んだ。SMAPのもう一人の同い年、中居正広も結局事務所に残った。
相撲協会という伝統的な組織を相手に、たった一人で立ち向かう貴乃花には、時代や制度に頭を押さえつけられてきた人間として、共感を覚える。
「キムタクも貴乃花も十代からスターだったわけで、自分と比べるのもおこがましいんですけど……」
それでも、彼らの姿に自分を重ねずにいられない。私たち氷河期世代は、バブルと平成のはざまで、組織から出るに出られず、理不尽を背負い続ける宿命なのかもしれない。
そして今、国内は人手不足が深刻になり、空前の「売り手市場」、就活バブル期が再び訪れようとしている。
就職浪人組は誰も辞めていない
趣味と仕事を兼ねて参加している投資の勉強会で知り合った東京の知人が、起業の準備をしている。バブル世代の彼は、お金があるときも、ないときも、高いレストランでごちそうしてくれる。そこにもまた、立っている「地平」の差を感じる。
知人はかおりに、「会社立ち上げたら、手伝ってよ。でも郵便局の仕事の方が安定しているよね」と言う。
どこまで本気か分からない。でも、私が必要だと、もっとはっきり言ってくれるなら……。
「拾ってもらった」場所で20年以上踏ん張ってきたが、「君が必要だ」とさらいに来てくれる「白馬の王子様」をどこかで待っているのも事実だ。
就職活動に行き詰まっていたころ、よく聴いていた歌がある。
ZARDの「負けないで」。そして、1994年夏に放送された「熱闘甲子園」のオープニングテーマ「傷だらけのhero」(TUBE)は、今もスマホに入れている。泥だらけの球児の姿に、「強くなれ。何度泣いても夢をあきらめるな」と力強く訴える歌詞がかぶさる。
先の見えない就活を続ける自分に、しみた。
私は何度泣いてもあきらめなかった。けれど、夢より現実のためだった。
「同期40人のうち就職浪人して入った10人は、まだ1人も辞めてないんです」
同期に、同い年の有名人に、就活中の学生に、そして自分に「頑張れ」と言い続けてきた。そうやって20年間、自分を鼓舞し、縛ってきたのかもしれない。
(文・浦上早苗)
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