>1 世界についてはあなたの疑問が呈す通りのことと理解します。人々が満足できるものを手にする為にすべき努力とは、たったひとつだけ。自分の思う所にただ嘘をつかない努力だけではないかと思います。誰もがこの柱だけをご自分の動力源として物事を追求し続けられたら良いだろうなと思っています。 何か知り、そこで考える事は大事ですが、何か結論を得たとしてもそれは理屈として捉える事にしかならないだろうと思います。ですから事実かどうか定かではない認識を持って混乱するならば、いっそそれらは一端意識の外に置いて、まずは普段からいついかなるときでも正常に自分の心がコントロールできるよう、ご自分の中心線的な内部に関心を移して意識を集中することが望ましいと思います。 俯瞰と云う言葉が示す状態は如何にして出来上がるか。 自分が混乱した状況に居る場合、そこに没入だけしてしまうならますます混乱に拍車がかかり、解決の糸口が見えなくなるように感じます。これは単にマイナス面と捉えるよりは、あなたが何かを投じた事により生まれた反応、つまりインプットしたことによりアウトプットされた反応だと捉えると精神的に楽になります。プラスにエネルギーを傾けるにも、そこに必然的に同等のマイナスのエネルギーも発生することになると理解して下さい。ですから大事なのは自分が意識をそのどちら側に向けるのか?という話であるだけです。 怖れとは、自身の認識の裁量如何によって変化するものだと考えます。例えば人を信じて、人のする事はその人にただ任せよう、とあなたが決めた場合、あなたの心理的負担は確実に減ります。それが出来ないという場合は、あなたは常に他人が起こすことに、気が気で無い状態になり、その心理負担による心理的苦痛、或いは肉体的偏重に頭を悩ます事になります。一度そうなると何か起きる度にあなたはますます他人の能力を懐疑的に見続ける羽目となり、その都度混乱し、酷く苛立つ事になります。これがだんだん外部からの反応を嫌い他人を無視すると云う話に変わってきたりします。これとは逆に、本来的にその人のすることに干渉する事無く一任しようと決めるということは、他人を無視すると云う話とは全く違います。 敢えて率先して、自ら何かを追求しようとそのリスクを省みないならば、そこには必ず挑戦が付きまといますが、疲れはするものの、苦労の為の苦労とならないはず、心理的には常に明るく物事は繋がって行きます。それは解決の糸口を積極的に模索しつつ、前向きのエネルギーで転がって行く事になるはずです。このやる気が政治というものの本質のエネルギーです。ですから政治とは本来全員で行なう"まつりごと"なのです。 ですから個人は先ず自分をコントロールする事が出来なくてはならないはずです。その為の環境というものを社会整備として整えるということを考える必要によりその機会がこれからでてくるだろうと理解します。 そもそも我々を包む現環境に対しての認識を替えないまま、なおかつ自己を少しもコントロールできないとするうちは、保護施設で管理のよく行き届いた中での体験のみを求めるほかはないものという気がします。そこはある種俯瞰されて、管理、または監視された中に我々がいるということができます。勿論、今ある人間の手によって一方的かつ理不尽な考えの元に一元化を目指した支配社会とは、私利私欲による独裁的な手法によるものと位置づけるのが適当ですから、それは理性を失って理屈に蠢くものたちが行き着いた、神ごとの模倣だと言い捨てる事は妥当です。 真実というものがあり、そのすべてを一字一句人々にコピーした所で、逆に人々は自由を束縛される事にしかならないはずでもあります。それでは何かを学ぶという意味は無きものとされてしまうでしょう。 一時的に意識が肉体から避難した記憶をお持ちなら、それが死というものと何ら代わりの無いものだと云う事は解るはずです。 自殺は人間だけがするものと、そこにあなたの現時点での認識が述べられてますが、肉体は伽藍であり、地球もまた伽藍ということができるとき、死とはただその場所から離れると云うだけの行為として見る以外に無いと理解します。肉体は生命自然から発生しており、それは生命自然に役立てられるものとして脱ぎ捨てられるだけのものです。自然から発生したものは自然に帰するため、肉体は自然に寄与されます。死に至る一連の生のプロセスの中で積極的に何かを追う姿勢に徹するならば、そこでは全体に愛されるべきものの本質をつかむことができるはずです。そうした積極性を介した中に何らかの証、または何らかの気付きを受けとる事が可能となるような気がします。 ここにも同じ事が言えます。インプットアウトプット。俯瞰したければ、安らぎを得ると云う事です。信じて疑う余地のないままあれば、そこから受けとるものは安らぎと恩恵でしかないというものです。だからそのように努力するのです。ぶつかる力を自分の中から消す、という武の真髄を伝える言葉がありますが、全ては変化し一定ではないのですから、一時的な状態を切り取ってそこに浸るのではなく、常に良い変化を迎え入れようとするということです。それが祈りであると理解します。 誰かの評価の為に何か喜ばれる事をするというのでは、誤った事ばかりをする政治官僚のような過ちを迎えることになり、社会全体を嘘で蔓延させるということに繋がって行きます。そうではなく、積極的に正直に生きれば、人に正しくそれが伝わるということです。 自然とは、つきつめて正直であるということだと思います。よって人には人の自然が有り、ただ嘘をつかないと云う生き方を徹底すればよいだけで、そこには当然よいアイデアも生まれ、よりよい社会に必要な価値観もまた新たに作られることになるはずです。人が嘘や理屈に合わせてだけいれば、もちろんそこには自然の美しさも真理も無くなり、また人の本分もまた消失して何が真実か判らないと云う状態となる訳です。正しいものに耳障り良く聞こえようとも、理屈に合わせてだけ動けば、社会全体は不自然なものに染まって、やがて永続不能なものに姿を変えていくだけとなると思います。 ですからそれぞれは、ただただ自分に対しては正直に、そして他人に対してもそれぞれの対応の違いこそあれど、そこで自分を嘘で隠す事無く、自分の思う所はきちんと述べて、無理をしたり、周囲に合わせるだけという事はせず、出来ればそれぞれのスタイルで済み分けが可能な社会をつくり、難しいなら改善を前提に妥協できる部分をみつけて、とりあえず悩んでばかり居ずに全体が満足できるものができるまで試して行こうとするのがいいのだと思っています。
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