最低限、自分への侵害として感じるものがあったら、それは我慢などせずはっきり事を露にものを言った方がいい。面と向かって文句が言えないとするなら、それはそこにきちんと正しさというものが感じられていないからだ。 社会の取り決めとは最低限度守られるべきモラルとして設定される。わたしが少6の頃には、電車座席にはすでに車内禁煙の張り紙があった。当事、前の座席に座っていた土方風のオヤジ二人が靴を脱いで足を前座席に投げ出し、ぷかぷか吸いだしたのを面前で注意したことがあるのを思い出した。その頃は時代の節目と云う事も有り、各座席前には備え付けの「吸い殻捨て」がまだ撤去もされずにあるという状況的には矛盾した光景の最中での注意だった。これにその親父二人が「じゃあ何故ここに吸い殻があるのか」と反論してきたのだがそももっともな話とすぐに理解したが、態度そのものに更に怒りが増してわなわなと震えたのを覚えている。それでも居も直さず私が注意したのには、自分の横にまだ園児クラスの弟が座っていたことへの一般的配慮からだったと思う。しかし、タバコ捨てがあるのでは彼らの言い分にも正当性があると認めた後、確か自分たちがほかの座席へと移動したのではなかったかと記憶するが忘れてしまった。つまり長旅の始まり前にそうきたもんだから子供時分にキレたと云うだけの話かもしれない。 結局イライラの正体とは「依存症体質」なのである。よって誰かが自分を守ってくれると云う安心感を得るために何らかの行動に出るのは辞めた方がよく、それよりも逆に全体性のモラルを引き上げられるよう、自分を人々を未踏の地へと駆り立てる礎とすべきとここ十数年来思い続けてきたのであるが、皆がストレスフリーの社会を築くためにどう行動を起こすべきかに考えを絞ってきた形となる。 一方の立場を強権をもって振りかざしたり法に拘束力を与えて縛ってみても、それではいつまでたっても本質の問題解決に至らない。それではどこに向かっても敵を生み続ける事しかできない。ひとりひとりが心の弱者であることを理解し、ものの本質を掴もうとし、誰であろうともその弱さを救い出せる力をもとめていくのが正しいと思うし、そうあるべくこのドグマの段階を進み行くのが良い。そうせずして真の強者とはなりえないのである。 批判による攻撃で強者の側足ろうとして、見たくないものは隅へとただ追いやるだけで、片付いたとする道の真ん中を歩いてみても、本当には安心は出来ないはず。これでは誰も何も救えず満足などできない。 それで一時的に何か悦に浸ろうとするだけでは、これまたモラルが低いと言われる側となるはず。 中毒性のある嗜好品に対する依存症状の顕われを一口に「患者」と呼び捨てれば、それは相手への攻撃、ただの罵りと聞こえるだけとなり、パチンコ等、ギャンブル依存症と同一に語られるのは、喫煙者全体にとって好ましからざることだが、実際社会はそのように封じ込めを謀っているように思える。 だから、あらゆるすべてがそうだが、きちんと公共性を踏まえ、場所を弁え、モラルを守ることである。喫煙アイテム嗜好者に対しての社会的配慮も必要であるはずだ。 タバコはある時代においては高級嗜好品とあり、茶の一服と同じコミュニケーション時のアイテムとしてもてはやされ、一般に社会に属し、権威側につく者の象徴的アイテムとも見られがちだが、庶民にとってはささやかな楽しみでもあり、仕事の合間に心身を癒すアイテムと認知されてきた。 本質を述べれば、タバコは大麻を原点としておりその時点では清めの意味がある。何故なら大麻は用途に応じて人々のあらゆる生活面を助ける可能性を秘めた植物であり、医薬品であり、まさに「神と迎えし贈り物」だからだ。大麻が禁じられ汎用品として流通したタバコは謂わばそこから波及した模造品と言える。よって象徴的な意味としてもタバコは「権威の安価な模造」である。そのタバコもブッシュ政権以降ありとあらゆる手で迫害されてきたのである。というわけで私はタバコ自体を嫌悪する立場ではない。 大麻が原点回帰し復活すれば、中毒性のあるタバコは姿を消す。そうなれば偽物の権威は消え、正しいものが浮かび上がると理解する。カナダに続けて北海道や沖縄も本州から独立して解禁すればいい。 そもそも過度にストレスを溜め込む暮らしとは、近代戦史以後これは政策として強いられてきたことであり、不自然極まる価値観である。そこに希代の詐欺師は何万と排出されてきた。 万人がストレスフリーとなれとまでは言わないが、ストレスを不要に溜め込むことを逆に禁ずるべきであるのは、そうすればそもそも依存症そのものが解決するからである。それには奪い合いの社会性を与え合の全体性へ対する奉仕社会へ変えること。それには国の頭をすげ替えねばなら無い。
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