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ベトナム戦争で米軍はソンミ村の住民を虐殺、それから50年になるが、同じことを繰り返している
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201803190000/
2018.03.19 櫻井ジャーナル
ベトナム戦争の最中、1968年3月16日に南ベトナムのカンガイ省ソンミ村のミライ集落とミケ集落において住民がアメリカ軍の部隊によって虐殺されるという出来事があった。アメリカ軍によると、犠牲になった村民の数はミライだけで347人、ベトナム側の主張ではミライとミケを合わせて504人だされている。それから50年が経つが、同じことをアメリカは今でも繰り返している。
ソンミ村での虐殺を実行したのは、アメリカ陸軍第23歩兵師団の第11軽歩兵旅団バーカー機動部隊第20歩兵連隊第1大隊チャーリー中隊の第1小隊。その小隊を率いていた人物がウィリアム・カリー中尉だ。
このケースが発覚した一因は、作戦に無関係なアメリカ兵に目撃されたことにある。虐殺の最中、現場近くを通りかかった偵察ヘリコプターのパイロット、ヒュー・トンプソン准尉が村民の殺害を止めたのである。トンプソンは同僚に対し、カリーの部隊が住民を傷つけるようなことがあったら、銃撃するように命令していたと言われている。第11軽歩兵旅団のロナルド・ライデンアワーのように告発した兵士もいたが、議員の反応は鈍い。虐殺を目にしたはずの従軍記者、従軍カメラマンは報道していない。
しかし、兵士による告発もあって虐殺の話はアメリカ本国で流れ、1969年3月には記事になるが、これは話題にならなかった。人々が注目したのはその年の11月にシーモア・ハーシュの記事をAPが配信してからだ。
ソンミ村での虐殺はCIAが特殊部隊と組んで展開していた秘密作戦、フェニックス・プログラムの一環だった。このプログラムはリンドン・ジョンソン大統領の特別補佐官だったロバート・コマーが1967年に発案したCIAとMACV(ベトナム軍事支援司令部)の統合プログラムICEXとして始まる。すぐ名称はフェニックスへ変更された。
この作戦を現場で指揮した経験のあるウィリアム・コルビーはCIA長官時代に議会でこれについて証言、自身が指揮していた「1968年8月から1971年5月までの間にフェニックス・プログラムで2万0587名のベトナム人が殺され、そのほかに2万8978名が投獄された」と明らかにしている。それに対し、解放戦線の支持者と見なされて殺された住民は約6万人だとする推測もある。
ソンミ村での虐殺から10日後、ウィリアム・ウエストモーランド陸軍参謀総長は事件の調査をウィリアム・ピアーズ将軍に命令した。ピアーズに白羽の矢が立ったのは彼が陸軍士官学校出身ではなかったからだとする話が流されているが、真の理由は彼がCIAと緊密な関係にあったからだと推測する人も少なくない。
ピアーズは第2次世界大戦中、CIAの前身であるOSSに所属、1950年代の初頭にはCIAの台湾支局長を務めていた。要するにピアーズは軍事というよりCIAの人間。彼の調査で事件とCIAとの関係が浮上するはずはなかった。
それでも報告書には事件の容疑者として30人の名前があがっていたのだが、告発されたのは16人、裁判を受けたのは4人、そして有罪判決を受けたのはカリー大尉だけだった。そのカリーもすぐに減刑されている。
ジョージ・W・ブッシュ政権の国務大臣、コリン・パウエルは1968年に第23歩兵師団の将校として南ベトナムへ入っている。2004年5月4日にCNNのラリー・キング・ライブに出演した際、自分が所属した第23歩兵師団がソンミ村での虐殺、その後で現場へ自分も入ったことを明らかにし、戦争でそうしたことは珍しくないと弁明している。確かに、フェニックス・プログラムでは珍しくないだろうが、虐殺を止めたり告発した兵士はそう考えなかった。ジャーナリストのロバート・パリーらによると、パウエルはこうした兵士の告発を握りつぶし、上官が聞きくない話は削除する仕事をしていたという。その仕事ぶりが評価され、「異例の出世」をしたのだろう。
フェニックス・プログラムに参加していた人々は1980年代にイラン・コントラ事件で名前が浮上する。そのひとりがリチャード・アーミテージ。パウエルの友人だという。
ところで、第2次世界大戦中、アメリカ政府はホー・チミンが率いるベトミン(ベトナム独立同盟会)と手を組んでいた。当時のアメリカ大統領、フランクリン・ルーズベルトが植民地に反対するという政策を抱えていたからだ。
アメリカから支援を受けていたベトミンは日本降伏後に独立を宣言するが、イギリス軍は日本軍を再編成してサイゴン(現在のホー・チミン市)を制圧する。ルーズベルトは1945年4月に急死していた。
その後、インドシナを再植民地化する目的でフランスは戦争をはじめるものの、1954年5月にフランス軍はディエンビエンフーの戦いで敗北、7月に休戦が成立してフランスは撤退する。
フランス軍がディエンビエンフーで包囲されて2カ月後の1954年1月にアメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官はNSC(国家安全保障会議)でベトナムにおけるゲリラ戦の準備を提案、それを受けてCIAはSMM(サイゴン軍事派遣団)を編成した。
1950年6月から朝鮮半島でアメリカは戦争していたが、半島全域を制圧できないまま53年7月に休戦している。その間、1951年4月にCIAは約2000名の国民党軍を率いて中国領内に侵入、一時は片馬を占領したが、人民解放軍に追い出された。翌年の8月にもCIAと国民党軍は中国へ軍事侵攻したが、この時も失敗に終わる。アメリカにとっても中国にとっても朝鮮戦争は自分たちの戦い。朝鮮半島を舞台にした米中戦争にほかならない。朝鮮半島の後、アメリカ支配層の選んだ戦場はベトナムだった。1953年2月からCIA長官はジョン・フォスターの弟、アレン・ダレスが務めている。
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