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焼夷弾は手掴み、空襲は大丈夫…国民は「東京大空襲」をどう迎えたか フェイクニュースと国民統制の恐怖
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54545
2018.03.09 大前 治 弁護士 現代ビジネス
間もなく3月10日を迎える。73年前(1945年)のこの日、アメリカ軍が東京の下町を空爆し、約40平方キロメートルが消失した。死者は10万人以上、被災者100万人以上、焼失家屋は27万戸にのぼった。
なぜこれだけの被害が生じたのか。直前まで国民は空襲をどのように予期していたのか。
政府による指導方針の問題点は過去記事で触れたが、さらに東京大空襲の直前期に焦点を当て返ると、開き直ったフェイクニュースと国民統制の恐ろしさが見えてくる。
焼夷弾は「手掴み」で投げ出せ
東京大空襲の前年、1944年の6月以降には沖縄や九州が空爆の標的になり、同年11月には東京都心部も頻繁に空爆を受けるようになった。一度に数百名の死者が出ることもあり、各地に焼け跡が広がった。
ところが政府は、その被害実態を国民に知らせず、従来どおり「逃げずに消火活動をせよ」と指導し続けた。新聞紙面には次のような見出しが並んでいる。
左から読売報知1944年7月9日付、同年12月25日付、1945年2月27日付
「焼夷弾 手掴み」という読売報知1944年7月9日付の記事は、前日に北九州市を襲った空襲の報告である。
焼夷弾を素手で握って放り出した、地下足袋でもみ消した、と怪しい武勇伝が並ぶ。3千度の高熱を帯びた燃焼剤を噴出する焼夷弾を素手で持てるとは思えない。
「焼夷弾 一戸も焼かず消火」という記事は、1944年12月24日に空襲を受けた東京都江戸川区の消火活動を紹介。
「焼夷弾ですか、こんなのは消すのが当たり前の話で、火事にするなどとんでもない」と勇ましい住民の言葉で締め括っている。
「初期防火 隙はなかったか」という記事は、東京大空襲の11日前、1945年2月27日付に掲載された。町内会で200発の焼夷弾を全部消火したという怪しい武勇伝を称賛する一方で、怖がって初期消火が遅れた町内では火災が起きたと厳しく非難している。
この記事で、警視庁消防課長はこう言っている(当時の消防署は警視庁の管轄下だった)。
・爆弾が落ちたら待避所(防空壕)から飛び出して消火活動をせよ。 ・自分の家が燃えているのに爆弾を怖れて待避所に逃げているなど、言語道断だ。 ・家が燃えているとき、布団や荷物を持ち出すだけで消火しないのはよくない。 ・消防車を待つのではなく、自ら初期防火にあたれ。 (読売報知1945年2月27日付 より) |
すでに防空法により避難と退去は禁止され、消火活動の義務も課された。違反した者は懲役刑などの処罰を受ける(過去記事を参照)。そのもとで、消防課長が発した「逃げるな」の指示には重みがある。
「空襲は怖くない」という感じを持たせる
次に、政府の広報誌による宣伝をみてみよう。
東京大空襲の2ヵ月前、政府広報誌「週報」428号(1945年1月10日付)に、防空総本部や内務省の防空担当者による「決戦防空座談会」が掲載された。防空活動を国民にどう指導するか、次のように語られている。
「週報」第428号・1945年1月10日付
・爆弾なんていうものは、落ちても外国と違い、日本のこういう土地及び建物の状況では被害は大して多いものじゃない。〈中略〉いまお話のあったように、焼夷弾は恐ろしいもんじゃないといふ感じを皆に持たせる。そうして、どうして消したらよいかといふことを徹底させることが一番必要だと思ひます。 |
恐ろしくない「感じ」を持たせるのが大切。そこには科学も知性もない。「頑張れば火を消せる」という大和魂で空襲を乗り切るのである。
一方、東京大空襲の3日前、1945年3月7日付の政府広報誌「写真週報」は、「一億国内戦場の決意に起て」という見出しのもとで、「たとへ一億の肉体は滅ぶ日があっても、大和の荒魂は決して敵の暴挙を許さぬであろう」と国民に決起を呼びかけた。
このように、政府の指導には「怖くないから逃げるな」という気休めの安全神話と、「死を覚悟せよ」という悲壮な強制の二面性がある。
矛盾はしていない。
御国のために死ぬのは素晴らしいことであり恐ろしくない、という建前なのである。
ある軍人の告白 「空襲より恐ろしいのは…」
それにしても、なぜ避難を禁止して消火活動を義務付けたのか。
たとえ建物が焼失しても、国民の生命が守られれば、それを労働力や兵力に活用できる。だから「消火しなくてよい、逃げて身を守れ」と呼びかけることも戦争遂行には有益なはずである。
この疑問の答えに近いことを、帝国議会で正直に告白した軍人がいる。
1941年(昭和16年)11月20日、当時の陸軍省の軍務課長であった佐藤賢了(後の陸軍中将)は、衆議院の委員会で次のように述べている。防空法を改正する審議中に、質問も指名もされていないのに立ち上がって演説をしたのである。
左から朝日新聞1941年11月21日付、大阪毎日新聞 同日付
空襲をうけた場合において、実害は大したものではないが、国民が狼狽して混乱に陥ることが一番恐ろしい。また、それが一時の混乱ではなく戦争継続意志が破綻してしまうのが最も恐ろしい。 戦争は意志と意志の争いである、たとえ領土の大半を敵に奪われても、戦争継続の意志を挫折させなければ勝つことができる。 わが国の真剣勝負は「皮を斬られて肉を断つ、肉を断たれて骨を切る」という教えがある。戦争も同じである。軍・政府・民間が協力一致して防空法により訓練に尽力する。 敵の空襲を受けるに従い、ますます対敵観念を奮い起して、戦争継続意思を昂揚させていく方策をとらなければならない。 |
空襲の実害よりも「戦争継続意志の破綻」が最も恐ろしいというのは、戦争遂行者として正直な告白であろう。国民に戦争への恐怖は疑問を抱かせると、戦争遂行が不可能になる。
日本国民は、まだ一度も空襲や敗戦を経験しておらず、戦場の恐ろしさも知らない。このまま恐怖を抱かせずに、国民を戦争に協力させたい。
だから政府は、空襲の火災は簡単に消せるし、逃げなくてよいと宣伝した。そして、徹底した言論統制によってその惨状を報道させなかった。
「政府は嘘をついていた」「この戦争は間違っている」とは死ぬ瞬間まで気付かせない。国民が生命を失うことよりも、生きている国民が戦争に協力しなくなることの方が、よほど不都合だったのであろう。
もし4000人が死傷しても、恐るべきものではない
この佐藤賢了と同じ時期に、空襲被害に対する国家の考え方を露骨に語った軍人がいる。民防空を担当する防衛総司令部参謀であった難波三十四(なんば さとし)陸軍中佐である。
大日本雄弁会講談社・1941年11月刊「現時局下の防空」難波三十四箸
※画像クリック拡大
1941年11月に大日本雄弁会講談社から出版した「現時局下の防空」で、難波は次のように言っている。
東京が一回、二十機で空襲を受けると仮定すると、五キロの焼夷弾なら四千発、五十キロの爆弾なら四百発を投下できる。焼夷弾の全部が人に命中するなら四千人、また、爆弾は一発で五人ずつ死傷するなら二千人の死傷を生ずることになる。 しかし、東京市の人口は約七百万人であるから、焼夷弾の場合は千七百人のうち一人、爆弾の場合は三千五百人のうち一人しか死傷を生じないのであって、決して恐るべきものではないのである。 |
これに続けて難波は、全部の焼夷弾や爆弾が命中することはない、だから直撃して死傷するのは100人前後、これは「誠に微々たるものであり、戦争する以上当然忍ぶべき犠牲である」と言っている。
死者4000人というと大災害に聞こえるが、人口のたった「1700分の1」である。実際はもっと少なくて死者100人前後と「微々たるもの」にすぎないという。そこに、一人ひとりの犠牲者を思いやる姿勢は皆無である。
国民を安心させようとする言葉から、かえって戦争遂行者の冷酷な心情が透けて見える。
こうした指導のもとで、戦争末期には中小規模の空襲が頻発するようになり、ついに1945年3月10日の東京大空襲を迎える。
東京大空襲の大惨事をみて、政府は指導方針を変えたのか。次回は、空襲の翌日に内務省が発した新たな命令と、帝国議会での追及について触れることにする。
拙著『逃げるな、火を消せ!―― 戦時下 トンデモ 防空法』には、戦時中の写真・ポスター・図版を200点以上掲載している。空襲前夜の空気感を感じ取っていただければ幸いである。
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