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沖縄でアメリカ軍がろ獲した日本軍の自爆兵器「桜花」 photo by gettyimages
特攻兵器「桜花」は、日本軍の「忖度」が生んだ哀しい失敗作だった また同じことをくり返すのか…
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52362
2017.07.22 藤田 元信防衛装備庁 技術戦略部 技術計画官付 計画室 戦略計画班長 現代ビジネス
「忖度(そんたく)」という言葉を聞かない日はない。「以心伝心」や「空気を読む」という言いまわしもあるように、日本人の日常に「察する」行為は深く根づいている。 しかし、新著『技術は戦略をくつがえす』(クロスメディア・パブリッシング)を発表した防衛装備庁技術戦略部の藤田元信氏は、「忖度」や「以心伝心」を優先して、徹底した議論を避けることは「思わぬ悲劇を生む可能性がある」と警鐘を鳴らす。 |
ドイツは、1930年代から、ヴェルサイユ条約の制限を受けない弾道ミサイルの研究開発に注力し、他国の戦略を破壊することを目指しました(詳しくは、拙著『技術は戦略をくつがえす』を参照ください)。
あまり知られていないことですが、実は、日本でも同時期にミサイル(誘導弾)の研究開発が行われていたのです。
しかし、実戦に間に合わなかったためか、1946年にアメリカ陸軍省がまとめた「ドイツと日本のミサイルハンドブック(Handbook on Guided Missiles of Germany and Japan)」には、誘導弾については何も書かれていません。
その代わり、日本が実用化した唯一のミサイルとして、特攻兵器「桜花」が取り上げられています。
桜花をミサイルに分類するかどうかは判断が別れるところですが、今回は、あいまいな意思決定によって開発が決まり、結果として多くの悲劇を産んだこの特攻兵器「桜花」を取り上げ、現代への教訓を考えてみたいと思います。
■「一発逆転策の追求」は衰退の第四段階
ジェームズ・C・コリンズの名著『ビジョナリーカンパニーB 衰退の五段階』は、優れた企業が繁栄を極め、その後没落した事例をいくつも分析し、そのプロセスを五段階に分けて整理しています。
それは「成功から生まれる傲慢」に始まり、「規律なき拡大路線」「リスクと問題の否認」「一発逆転策の追求」を経て、「屈服と凡庸な企業への転落か消滅」に至るというものです。コリンズは加えて、どのような優れた組織でも衰退する可能性がある、と述べています。
足かけ4年の大東亜戦争で、真珠湾攻撃やマレー沖海戦における華々しい勝利から、南太平洋やビルマ方面での苦闘を経て、無条件降伏へと向かった日本軍にも、コリンズの分析を適用して考えることができるでしょう。
日本側から見た大東亜戦争の流れを「衰退の五段階」に当てはめると、おおむね次のようになるのではないでしょうか。
[第一段階]真珠湾攻撃およびマレー沖海戦での大勝利と、その後の傲慢(=予想を越えた大勝利に起因するおごり)
[第二段階]その後の各戦線での快進撃(=どこまで戦線を拡大するか最終的なビジョンが共有されないまま、各戦線を拡張)
[第三段階]敗北を重ねつつ、戦略転換に失敗(=ミッドウェー海戦やソロモン方面の敗北にもかかわらず、戦線の縮小を含む戦略の根本的な見直しを行わず)
[第四段階]特別攻撃隊の編成と特別攻撃の実施(=一撃必沈の体当たり攻撃の計画と実施)
[第五段階]敗戦
神風特別攻撃隊に始まる一連の特攻は、まさにコリンズが指摘した「一発逆転策の追求」そのものと言っていいでしょう。この段階では、人類史上類を見ない、兵士の生還を前提としない特攻兵器の開発が行われ、一部が実際に使用されました。特攻兵器「桜花」もその一つでした。
■生還しなくても「任務成功」
「桜花」をはじめとする、兵士の生還を前提としない特攻兵器と、他のあらゆる有人兵器の最大の違いは、設計の前提となる「任務成功の定義」にあります。
特攻兵器以外のあらゆる有人兵器の設計の前提は、無事に攻撃目標に接近し、かつ、攻撃目標を破壊し、なおかつ、無事に攻撃目標から離れることができて、はじめて任務成功と言える、というものです。小学校などで「家に帰るまでが遠足です」と教わるのと同じです。
ところが、特攻兵器の設計の前提は、攻撃目標を破壊した時点で任務成功、というものでした。特別攻撃のためだけに生み出された兵器は、くり返し使用することを前提としていなかったので、着陸に必要な車輪など、生還するために必要な機能は開発段階から省略されました。
特攻兵器が、その他の有人兵器と比べ、どれも簡素な作りに見えるのは、こうした設計の前提の違いが根底にあるためです。
もちろん、設計の前提がどう違っても、兵器のように装置やプログラムなどが複雑に組み合わされたシステムは、一朝一夕にできるものではありません。
システムの実現には、複数の専門分野にまたがるアプローチと手段が必要になります。専門的には「システムズエンジニアリング」と呼ばれますが、ここでは、顧客が「ほしいもの」を実現するための方法、と理解していただければ十分です。
■「以心伝心」では後で困る
システムズエンジニアリングの最初に行われるのは、顧客の「ほしいもの」を技術者が理解できる言葉に「翻訳」する作業です。
人は「ほしいもの」がどのようなものか、具体的に言及するとは限りません。初めてのデートや、夫婦間の日常を想像していただければ、おわかりいただけるのではないでしょうか。それと同じで、顧客にも自身でうまく言語化できない、重要なニーズが隠れていることがあります。
そこで、技術者は顧客と対話し、システムが備えるべき要件を、できるだけ具体的に記述していきます。ここで間違えると、後のプロセスにかなり大きな影響が出てくるため、特に重要です。
ところが、「以心伝心」が組織に浸透している日本企業は、この作業を苦手としています。近年では、外国企業への発注において、契約上のトラブルにつながるケースも出てきています。
このニーズを把握して翻訳するプロセスを終えれば、あとは段階的に詳細な設計を行い、でき上がったものを組み上げていくことになります。細部に入るほど、日本企業が得意としてきた丁寧なものづくりが生きる作業になっていくと言えるかもしれません。
また、システムズエンジニアリングでは、「正しく行った」ことを確かめる「妥当性確認」(Verification)が段階的に行われ、最後に「正しいことを行った」ことを確かめる「検証」(Validation)が行われます。
多少専門的でわかりにくい話になって申し訳ないのですが、単なる言葉遊びではなく、「正しく行う」ことと、「正しいことを行う」ことはまったく別モノなのです。
「正しく行った」かどうかは、設計と試験の過程で一つひとつ確かめることができます。一方、「正しいことを行った」かどうかは、顧客の(言語化されていないものを含めた)「ほしいもの」と「できたもの」を比べてみないとわかりません。
だからこそ、設計に入る前に顧客の求めているものを引き出し、技術者にわかる言葉に「翻訳」しておく作業が、重要な意味を持つのです。
■海軍航空技術者たちの「忖度」
さて、桜花の開発に戻りましょう。
「桜花」開発の起源は、1944(昭和19)年夏、海軍航空技術廠に、ある少尉が、母機から空中発射する体当たり攻撃用グライダーを提案したことだと言われています。
いまでは、そのコンセプトは組織的に練られたものではなく、提案者である少尉の単なる妄想の類だったのではないか、という説が有力です。
ところが、海軍航空技術廠の技術者たちは、そのコンセプトは現場部隊の熱意を代弁するものであり、さらには、海軍の上位組織から非公式に行われた要請かもしれない、と考えたようです。
その後の意思決定プロセスはあいまいで、提案者の素性や背景について十分な見きわめもなされないまま、海軍航空技術廠が主導する形で、桜花の開発が決定されました。神風特別攻撃隊が編成され、組織的な特攻が始まるよりも前の話です。
提案者の熱意に圧倒され、技術者たちが「忖度(そんたく)」したとも言えるかもしれません。いずれにしても、自爆兵器の提案に対し、「そもそも、任務成功とは何か」といった前提に関する根本的な議論は尽くされないまま、開発のスタートが切られました。
桜花の開発では、何よりもスピードが優先されました。技術的なリスクを最小限にするため、桜花には“枯れた”技術が活用され、成熟していない新技術は、改良型から使うこととされました。
桜花11型の機体
主翼は高速偵察機「彩雲(さいうん)」の設計を流用、弾頭部は魚雷の弾頭を改良し、推進装置には低いものの安定した推力を発揮できる火薬ロケットを3本束ねて使うなど、「すぐに使える技術」を結集して作られました。
そうして、戦時中とはいえ、新兵器としては異例の、約2か月という短期間で設計と試験が完了しました。量産機を100機製造するまでの期間を含めても約3か月という、驚異的な早さで実用化されたのです。
同時期に開発された戦闘機や戦車の開発が、新型エンジンの技術的トラブルなどで難航したのに比べると、桜花の設計開始から実用化に至るまでの過程は、きわめて順調だったと言えるでしょう。
■「この槍、使い難し」と指揮官
始まりは一少尉の思いつきだったかもしれませんが、桜花の開発はやがて大きな流れとなっていきます。昭和19年秋には、桜花を主装備とした空中特攻専門部隊「第721海軍航空隊(通称「神雷[じんらい]部隊」)」の編成が始まり、訓練も行われました。
ちなみに、桜花の母機は、一式陸上攻撃機という爆撃機。桜花を抱えた鈍重な母機を、敵艦隊の近くまで護衛すること、さらには桜花を発射したのち、無事に帰還することに大きな困難が伴うことが、当初から予想されていました。初代飛行隊長の野中少佐も、「この槍、使い難し」と評したとのことです。
「桜花」の開発と生産にメドが立ったことから、桜花を装備した空中特攻専門部隊が編成された。写真は「神雷部隊」の一式陸攻と桜花11型。 出典:U.S. Navy National Museum of Naval Aviation photo No. 1996.488.161.017
桜花の初陣は昭和20年3月21日、沖縄方面の敵機動艦隊に対する攻撃でした。戦果はなく、出撃した18機全機が敵艦隊に接近する前に撃墜されるという悲惨なものでした。続く第二陣も戦果を挙げられず、はじめて戦果を挙げたのは、4月12日の第三陣。その戦果は、駆逐艦1隻を撃沈、1隻に命中し貫通、というものでした。
従来の魚雷や爆弾投下による攻撃と比べれば、はるかに高い命中率を達成したものの、桜花攻撃が難しいことがあらためて明らかになりました。
そんなわけで、母機を含めて航空搭乗員を激しく消耗する桜花攻撃は、長く続きませんでした。
母機は桜花を発射したあと、帰還して再出撃することになっていましたが、実際には、母機と桜花が一緒に撃墜される例も多く、損害が大きすぎたため、桜花特攻のコンセプト自体が破綻してしまったのです。
桜花による戦果報告の一例。「戦艦1隻命中」や「戦艦1隻轟沈」といった記述もあるが、実際には駆逐艦であったとされる。激戦の最中、目標艦の種類を正確に判定することは困難だっただろう 出典:国立公文書館アジア歴史資料センター
桜花を装備した第721海軍航空隊の未帰還機は、410機727名。これは海軍の全特攻部隊の未帰還機の4割を占める数です。にもかかわらず、最終的な戦果は駆逐艦1隻撃沈、5隻撃破と、とても犠牲に見合うものではありませんでした。
■ニックネームは「BAKA(馬鹿)」
アメリカ軍が初めて桜花を発見したのは、終戦直前の昭和20年4月1日でした。沖縄戦の最中、飛行場に遺棄された桜花をろ獲(=敵の装備や物資を奪うこと)し、その正体が、人間が操縦するロケット爆弾であることに気づいたのです。想像を越えた兵器の登場に驚き、困惑したと言います。
アメリカ軍が桜花につけたニックネームは、なんと「BAKA(馬鹿)」でした。
それでも、アメリカ軍は桜花をやっかいな存在と認識しました。
連合軍は、生還を前提としない特攻兵器の存在に驚き、困惑した。コードネームを「BAKA(馬鹿)」としたことからも、その困惑ぶりが伺える。 出典:U.S. Navy All Hands magazine August 1945, p.52
現在活躍しているイージス艦の心臓部、イージス・システムの設計に関わり、「イージスの父」と尊称されるマイヤー提督は、「第二次世界大戦において、米国がいかんともなし得なかったのは、ドイツの潜水艦よりむしろ日本のカミカゼであった」と述べています。
桜花を含む特別攻撃による看過できない被害が、アメリカ海軍の防空システムの研究開発の動機となり、いくつかの成功と失敗を経て、現在のイージス・システムへとつながっています。大胆な言い方をすれば、日本の安全保障の一翼を担うイージス艦も、桜花がなければ存在しなかったかもしれません。
一方、桜花の設計と改良において中心的な役割を果たした技術者の一人である三木忠直氏は、戦後、鉄道技術者としてまったく新たな道を歩みました。
海軍航空技術廠において、陸上攻撃機「銀河」、そして特攻兵器「桜花」を生み出した三木氏の手腕が生かされたのは、日本が世界に先駆けて実現した高速列車である「0系新幹線」でした。
1964年の営業開始から今日に至るまで、新幹線では営業運転中の大きな事故が起きたことがないそうです。特攻兵器を生み出した三木氏には、安全に対する、誰よりも強い思いがあったのかもしれません。
■「空気を読む」はリスク要因
ここまで、さまざまな資料をもとに、特攻兵器「桜花」が生み出された背景と、そのシステムズエンジニアリングについて考えてみました。あらためて整理すると、以下のとおりです。
(1)組織が衰退する過程で、一発逆転策として特攻兵器が必要とされた
(2)任務成功とは何か、という根本的な議論が不十分なまま、桜花の開発が決定された
(3)設計と生産は、“枯れた”技術を結集するという常識的かつ現実的な方法で行われた
現在の感覚では、特攻兵器はただ常軌を逸したものとしか映らないかもしれません。しかし、冷静にふり返るなら、兵器のシステムを実現する全プロセスのうち、あいまいにしか表現できない要求を、技術者がわかる言葉に「翻訳」する作業が間違っていたのではないかと考えられます。
『桜花―極限の特攻機』(中公文庫)を記した内藤初穂氏によれば、特攻兵器の開発について正面切って反対した軍事技術者は、一人もいなかったそうです。厳しい見方かもしれませんが、技術者たちが、ためらいつつも、前提条件に関する十分な議論を避けたために、桜花が生み出されてしまったと言うこともできるでしょう。
一般に、プロジェクトの進行において、前提条件に関する議論を避け、「空気」を読むことは、悪い結果につながるリスク要因です。桜花の開発はまさに、十分な議論なしに生み出された、日本人による悪いプロジェクトの典型と言えるかもしれません。
桜花の開発と実戦から、いまを生きる私たちが学ぶべきことがあるとすれば、「どのような状況にあっても、前提条件を丁寧に議論することを避けてはいけない」ということでしょう。
はたして、桜花の開発は「成功」だったのでしょうか。設計と生産の過程だけに着目すれば、大きなトラブルもなく、うまくいったように思えるかもしれません。
しかし、成功だったという見方に、皆さんは賛同できるでしょうか? どこか腑に落ちないのではないでしょうか。それはおそらく、前提条件に関する議論を避けた結果なのです。
前提条件に関する議論は、「そもそも論」などと呼ばれ、こねくり回した挙句に前に進むことを拒むような、価値の低いものとみなされがちです。
しかし、その議論により結果が大きく変わってしまうことを本当に理解しているなら、相応の時間をかけ、真のニーズが何であるかを把握するよう最善を尽くす以外の選択肢はないはず。過去の事例に学び、前提条件についての議論から逃げない勇気を持ちたいものです。
戦争の歴史を通じて技術と戦略の関係を考察し、いまを生きる私たちに有益な教訓を得る、現代人必読の一冊(amazonはこちらから)
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