アメリカの犬の天皇を放置しておいたら独立できる訳ないだろ 売国奴の天皇一族は戦前はJPモルガンの手先、戦後はロックフェラーの手先になったんだな:
戦前の日本はウォール街、つまりアメリカの巨大資本に支配されていた。 その切っ掛けは1923年の関東大震災。その復興資金を調達するため、日本政府はアメリカの巨大金融資本、JPモルガンに頼ったのだが、それ以降、日本はウォール街の影響下に入り、最近の用語を使うならば、新自由主義を導入する。 その当時、日本で最もJPモルガンと親しくしていたのは井上準之助だと言われている。「適者生存」、つまり弱者切り捨てを主張していた井上がJPモルガンとの関係を深めるのは1920年の対中国借款交渉以降。浜口雄幸内閣と第2次若槻礼次郎内閣で大蔵大臣を務めている。 1932年までの日米関係は基本的に今と同じで、日本政府の新自由主義的政策は不況を深刻化させた。そのころ、東北地方では娘の身売りが増え、欠食児童、争議などが問題になっている。支配層は裕福になり、庶民は貧困化、つまり貧富の差が拡大している。 こうした政策を推進した浜口雄幸首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡し、32年2月には大蔵大臣だった井上準之助が本郷追分の駒本小学校で射殺された。その翌月には三井財閥の大番頭だった団琢磨も殺され、5月には五・一五事件が引き起こされている。そして1936年2月には二・二六事件だ。 ウォール街の戦略に従うならば、攻撃する相手はソ連。1939年に日本軍は中国東北部とモンゴルの国境地域でソ連軍と衝突している。ノモンハン事件だ。参謀本部と陸軍省の意向に反して関東軍が戦闘を拡大したが、ソ連軍の機械化部隊が攻撃で日本軍は壊滅してしまった。このソ連軍との衝突は日清戦争、日露戦争、韓国併合、シベリア派兵、満州事変という流れの中で引き起こされている。 グルー/JPモルガンという座標軸で流れを見るならば、松岡も岸も井上も浜口もウォール街の傀儡にすぎない。 http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201609040000/ 広島に原爆投下させたのも昭和天皇の直接の指示だった
アメリカのロックフェラー、モルガンという巨大な財閥が戦前の世界金融を支配していた。 ロックフェラーとメロン両財閥は共同作戦をとり、ウラン爆弾の開発に乗り出した。すると少し遅れて、モルガン財閥もデュポンという巨大な化学トラストと組んで、プルトニウム爆弾の製造に着手した。ここに、新しくてしかも巨大な軍需産業が出現したのである。 http://www.asyura2.com/17/senkyo232/msg/294.html#c3 売国奴の天皇一族は戦前はJPモルガンの手先、戦後はロックフェラーの手先になったんだな: 戦前の日本はウォール街、つまりアメリカの巨大資本に支配されていた。 その切っ掛けは1923年の関東大震災。その復興資金を調達するため、日本政府はアメリカの巨大金融資本、JPモルガンに頼ったのだが、それ以降、日本はウォール街の影響下に入り、最近の用語を使うならば、新自由主義を導入する。 その当時、日本で最もJPモルガンと親しくしていたのは井上準之助だと言われている。「適者生存」、つまり弱者切り捨てを主張していた井上がJPモルガンとの関係を深めるのは1920年の対中国借款交渉以降。浜口雄幸内閣と第2次若槻礼次郎内閣で大蔵大臣を務めている。 1932年までの日米関係は基本的に今と同じで、日本政府の新自由主義的政策は不況を深刻化させた。そのころ、東北地方では娘の身売りが増え、欠食児童、争議などが問題になっている。支配層は裕福になり、庶民は貧困化、つまり貧富の差が拡大している。 こうした政策を推進した浜口雄幸首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡し、32年2月には大蔵大臣だった井上準之助が本郷追分の駒本小学校で射殺された。その翌月には三井財閥の大番頭だった団琢磨も殺され、5月には五・一五事件が引き起こされている。そして1936年2月には二・二六事件だ。 ウォール街の戦略に従うならば、攻撃する相手はソ連。1939年に日本軍は中国東北部とモンゴルの国境地域でソ連軍と衝突している。ノモンハン事件だ。参謀本部と陸軍省の意向に反して関東軍が戦闘を拡大したが、ソ連軍の機械化部隊が攻撃で日本軍は壊滅してしまった。このソ連軍との衝突は日清戦争、日露戦争、韓国併合、シベリア派兵、満州事変という流れの中で引き起こされている。 グルー/JPモルガンという座標軸で流れを見るならば、松岡も岸も井上も浜口もウォール街の傀儡にすぎない。 http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201609040000/ 広島に原爆投下させたのも昭和天皇の直接の指示だった
アメリカのロックフェラー、モルガンという巨大な財閥が戦前の世界金融を支配していた。 ロックフェラーとメロン両財閥は共同作戦をとり、ウラン爆弾の開発に乗り出した。すると少し遅れて、モルガン財閥もデュポンという巨大な化学トラストと組んで、プルトニウム爆弾の製造に着手した。ここに、新しくてしかも巨大な軍需産業が出現したのである。 ウラン爆弾は、ウラン238からウラン235を抽出し、このウラン235を使い原爆を製造する。プルトニウム爆弾は、ウラン238から原子炉を用いてプルトニウム(引用注:に変換後)を抽出し、これを使って原爆を製造する。 ウラン爆弾の製造は一九四五年の春には完成していた。しかし、プルトニウム爆弾の製造は遅れた。しかも、核実験しなければ実用の可能性があやぶまれた。一九四五年七月十六日、プルトニウム爆弾の実験がようやく成功する。時あたかも、トルーマン大統領とチャーチル首相(英国)、スターリン首相(ソ連)がポツダム会談をしていたときであった。 この実験が遅れたために、プルトニウム爆弾の完成が遅れたために、日本の降伏も遅れたと私は書いた。それは、核兵器カルテルのために日本の敗戦が遅れたことを意味するのだと私は結論した。 この原爆製造と投下の総指揮をとったのは、陸軍長官ヘンリー・ステイムソンである。彼はモルガン財閥の一員でもある。 アメリカのみのためではなく、モルガンのために、国際金融寡頭勢力のために、要するに核兵器カルテルのために、スティムソン陸軍長官は原爆投下の総指揮をとったのである。 そのために、スティムソンは日本の「あるルート)」を通して昭和天皇との秘密交渉を続けた。原爆を完成し、これを広島と長崎に落とすまで、天皇に敗北宣言をさせなかったのである。 無条件降伏とは、原爆を落とすために考え出されたアメリカの謀略であった。何も知らない日本人は完全にスティムソンと天皇に騙されたのである: 「あるルート」 = ヘンリー・ステイムソン → ジョセフ・グルー → ヨハンセングループ( 吉田茂, 牧野伸顕, 樺山愛輔, 白洲次郎,岡田啓介, 米内光政) → 貞明皇太后 → 昭和天皇 第二次大戦末期、米国そしてロスアラモス研究所は、日本が米国に降伏の準備を行っているのを知りながら広島・長崎に原爆を投下した。
ロスアラモスの目的は、原爆兵器の効果を広島・長崎で「人体実験」する事にあった。 米国は日本に対し戦争で勝つ事は十分に知った上で、人体実験のために広島・長崎に原爆を投下した。 何故ならロスアラモスもFEMAも、新型兵器の効果とそれが「どの位抵抗心を失わせ支配を容易にするか」の実験、研究を元々専門にした機関、つまり「心理戦争局」だったからだ。 http://satehate.exblog.jp/9318506/ アメリカ合衆国ご訪問(平成6年) 天皇皇后両陛下のアメリカ合衆国御訪問について 平成6年3月18日
かねてより,アメリカ合衆国大統領閣下夫妻から,天皇皇后両陛下に対し同国を御訪問になるよう招請があった。 ついては,我が国と同国との友好親善関係にかんがみ,本年夏,両陛下に同国を公式に御訪問願うことといたしたい。 御日程については,今後アメリカ合衆国政府と協議の上決めることとなるが,6月10日東京御出発で,2週間余となる予定である。 天皇皇后両陛下のアメリカ合衆国御訪問の御日程について
主要行事 平成6年6月16日(木) ロックフェラー家との晩餐会(ロックフェラー邸) http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/gaikoku/h06america/eev-h06-america.html カトリック教徒になろうとした昭和天皇 http://www.asyura2.com/17/senkyo232/msg/294.html#c1
天皇は憲法のお蔭で地位が保証されているから護憲なんだろ
もともと現行憲法は天皇の地位を保証する為にGHQが急いで作らせたものだしね: 東京を囲むように米軍基地がある。 横須賀に海軍もある。 東京に敵は攻めて来るか? なら、東京周辺は、何のために? 天皇家を守るために、又ク-デタ-を心配して駐屯しているのだそうだ。 天皇一族は軍人によるクーデターや革命を極度の恐れているので、日本軍を持たないで米軍に皇居の近くに駐留して天皇一族を守ってもらいたいのですね:
革命に恐れおののいていた天皇家の人々
梨本宮伊都子妃の日記
梨本宮伊都子妃の日記が死後発表された。梨本宮伊都子妃は昭和51年まで生き、死後、この日記は発表された。よく発表したもんだと思う。プライベートに書き綴ったものを遺族が発表したのだ。ここまで書いていたら普通なら発表しない。あるいは、この部分は省略するか、あるいは発表する前に破り捨ててしまうか。それをしなかったのは大変な勇気だと思う。 伊都子妃が、「日本ももうだめだ」と考えたのが昭和33年11月27日だ。その4ヶ月前、その皇太子さまも、絶望的な気持ちになっていた。「おことば」はこうだ。
『昭和33年7月14日。 きみ、きっと、これが僕の運命だね。 明仁皇太子』 どんな運命かというと、「暗殺される運命」だ。島田の「解説」には、こうある。 『この日、イラク国王ファイサル二世は、軍部のクーデターと民衆の蜂起により暗殺された。ご学友の橋本明氏がたまたま御所に招かれていて、一緒にお茶を飲んでいると、侍従から報告があったという。 「皇太子はその瞬間、蒼白になり、手にしていた紅茶が入った茶碗を膝の上に落として、数秒だったが、口をおききになれなかった」が、自分を取り戻してこう発言されたそうだ。まだ美智子妃の実家、正田家が婚約を固辞していた頃だ。二十二才で暗殺された国王の不幸を他人事とは思えなかったのだろう』 (3)「浩宮の代で最後になるのだろうか」と悲しいおことばを
昭和33年というのは、1958年だ。60年安保闘争の直前だ。左翼の力が強かった時だ。「天皇制打倒!」を叫ぶ人々も多くいた。そうした日本の風潮も知っていたのだ。そこにイラク国王の暗殺の報だ。 しかし、ご学友が遊びに来てる時にわざわざ、こんな事を報告するなんて、侍従もおかしい。島田はさらにこう続けている。 『のちに、戦後初の国賓として来日し、鴨猟で接待したエチオピア皇帝ハイレ・セラシェも亡くなり、イランのホメイニ革命によりパーレビ王朝も打倒され、アジアからは続々、王制が消えてゆく。 長男浩宮が生まれると、明仁皇太子は学友たちに「浩宮の代で最後になるのだろうか」といったという』 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/2005/shuchou0822.html 脅迫で可決した日本国憲法
マッカーサーはGHQのアルバイト職員に、7日間でで英語の憲法草案を書かせ、日本語に翻訳して新聞社に直接掲載させた。 GHQによる憲法発表が先であって、国会議員や総理大臣は新聞を読んで初めて「GHQ憲法」の存在を知らされた。 ここで駆け引きに使われたのが「昭和天皇処遇と戦争再開」で、GHQ側は公然と、「議会が承認しないならもう一度空襲してやる」と言ったそうです。 ここで日本の国会議員らは、もう一度アメリカと玉砕戦争をするか、それともGHQ憲法を承認するかの二者択一を迫られました、
GHQ憲法は3月7日に発表され、1946年8月24日に衆議院可決、10月6日に貴族院(後の参議院)でも圧倒的多数で可決成立した。 若干の審議と修正がおこなわれたものの、1946年の時点では昭和天皇を初めとして大半の政治家や有力者が、戦犯として裁判に掛けられる恐れがあった。 東京裁判はアメリカ軍側の証拠や証人だけが採用され、被告側の証人や証拠は一切認めないので、最初から有罪が確定していたイカサマ裁判でした。 例えば東京大学(当時唯一の最高学府で最高権威)はGHQ憲法は違法だと主張していたが、GHQは教授らを連行して戦争裁判に掛けると脅迫した。
東大は新憲法容認に立場を変えて「憲法学」という珍妙な学問を考案し、以来日本国憲法を擁護している。 日本国憲法はその成立過程において、民主的な手続きを一切経ておらず、憲法自体が無効だと考えられるが、安倍首相はあくまで正式な改正手続きを踏みたいようです。 リサイクルも良いが、ゴミはゴミ箱に捨てるべきでは無いだろうか。 http://www.thutmosev.com/archives/70762817.html 新憲法が作られるのは早く、1947年5月3日に施行されているが、その理由も東京裁判と同じだ。 当時、日本の支配層は認められるはずのない「大日本国憲法」に執着、時間を浪費していた。
そのため、アメリカ主導で天皇制の継続が謳われた新憲法が作成されたわけである。 「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と第1条にある。 1937年12月に日本軍は南京を攻略している。
中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官だった松井石根大将が指揮したことになっているが、事実上のトップは昭和天皇の叔父にあたる上海派遣軍の司令官だった朝香宮鳩彦だった。 そこで何が行われたかをイギリスも知っていたはずだが、その直後、イギリスの支配層でソ連を第1の敵と考える勢力が「日本・アングロ・ファシスト同盟」を結成しようと考えていたという。(Anthony Cave Brown, “"C": The Secret Life of Sir Stewart Graham Menzies”, Macmillan, 1988) 日本の場合、最大の問題になる人物は昭和天皇。日本が降伏した直後、堀田善衛は上海で中国の学生から「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」と「噛みつくような工合に質問」されたという(堀田善衛著『上海にて』)が、同じことを考える人が日本軍と戦った国々、例えばイギリスやオーストラリアには少なくない。ソ連も天皇に厳しい姿勢を示していた。
つまり、そうした人びとの影響力が強まる前にアメリカの支配層は天皇制官僚国家を維持するために手を打とうとする。1946年1月に設立された極東国際軍事裁判(東京裁判)の目的はそこにある。その裁判では厳罰に処せられた人がいる反面、本来なら起訴されるべき人が起訴されていない。 新憲法が作られるのは早く、1947年5月3日に施行されているが、その理由も東京裁判と同じだ。当時、日本の支配層は認められるはずのない「大日本国憲法」に執着、時間を浪費していた。そのため、アメリカ主導で天皇制の継続が謳われた新憲法が作成されたわけである。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と第1条にある。 占領時代、アメリカ軍が中心のGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の内部でも、多くの将校は天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張していたという。焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年) ビッターはニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟で、この枢機卿はジョバンニ・モンティニ(ローマ教皇パウロ6世)と同様、CIAと教皇庁を結びつける重要人物だった。 月刊誌「真相」の1954年4月号によると、1953年秋に来日したリチャード・ニクソンはバンク・オブ・アメリカ東京支店の副支店長を大使館官邸に呼びつけ、「厳重な帳簿検査と細かい工作指示を与えた」というのだが、この会談では闇資金の運用について話し合われたとされている。 http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201608070001/
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