続き 官僚は殆どが法学部出身で数学や物理が理解できないんだ だから黒田日銀総裁みたいなアホ官僚が付け焼刃で経済学を勉強してもイロハでストップしてしまうんだな そうなると国家経済を家計と同じに考えてしまうからトンデモ経済学を信奉してしまうんだ 2: 2017年12月9日濫用される経済論理 From青木泰樹@京都大学レジリエンス実践ユニット・特任教授 「金融政策だけでなく、財政出動との両輪で景気を刺激すべきだ。日銀が保有する国債のうち、約50兆円を無利子の永久国債に転換する。償還の必要をなくすわけだ。政府はこれを受け、防災対策などに10年間で100兆円のインフラ投資をする」。
https://www.nikkei.com/paper/article/?b=20171126&ng=DGKKZO23912410V21C17A1EA5000 この真っ当な提言は、三橋さんも取り上げていましたが、元日銀審議委員で景気循環学会の中原伸之会長が、日経新聞紙上で黒田日銀の評価を求められた際に発したものです。 https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12331985979.html 以前、「日本の財政破綻は考えられない」と堂々と主張するコラムニストが日経新聞に登場したことを紹介しましたが、遂に経済学界の重鎮の中にも正論を述べる人が出てきたことに驚きました。 リーマン・ショック前であれば信じられないことです。 「ケインズは死んだ」と考える経済学者が大勢を占める中、おそらく、そんなことを言ったら袋叩きにあったでしょう。 やはり時代は変わりつつあります。 いまだ少数にすぎませんが、経済通念の色眼鏡を外して現実を直視する人たちが各方面から現れてきたことは喜ばしい限りです。 衆院選後、2019年10月の消費税率2%引き上げを既定路線とする財務省による緊縮財政の攻勢に対し、それに立ち向かう政治勢力が存在しないという閉そく状況が続きますが、そんな中で一筋の光を見た気分です。 三橋新聞をはじめとする多くの経世済民思想の普及に努めるブログの論者たちの活動が、徐々にではありますが、世間に影響を及ぼしつつあることに疑いはありません。 僅かでも可能性が残されているのなら、決して日本の将来を諦めてはならないでしょう。 私自身も言論活動の一環として、国民・国家を無視した主流派経済学に依拠する学者の政策提言に対し批判を続けてまいりました。 2004年に発刊した『動態経済分析への道』においては独自の貨幣理論に基づき、国債問題の誤解、PB赤字を問題視する無意味さ、インフレ・ターゲット論の欠陥、構造改革論の誤謬等について論じました。 その中で財政問題に関しては、「期首における巨額と言われる国債残高およびプライマリー赤字の問題は、現行の日本経済の規模からして許容範囲内であって危機に瀕している状態ではない。危機に瀕しているものがあるとすれば、政府の債務を個人の債務と同一視させ、景気動向を顧慮することなくいたずらに危機感を煽りたてる思想それ自体であろう(前掲書p.145)」と結論づけました。 http://amzn.asia/95CFNmC それ以降の著作において、細部の論理を彫琢し、かつ新たな論点を導入してまいりましたが、大筋のヴィジョンは以前と全く変わりません。 こと経済学に関して言えば、「経済理論を現実に直接適用することはできない。もしそうした論理の濫用が行われれば国民経済は大打撃を被る」という見方です。 当たり前のことですね。現実は理論の前提を満たしていないのですから。 そこで何とか現実に適用できるように「理論の側」で工夫を施さねばなりません。 理論と現実を橋渡しする論理の構築、いわばワンクッション必要なのです。 そのため私は既存の主流派理論とは別の枠組みが必要だと考え経済社会学研究を続けて参りましたが、大半の主流派学者はその必要はないと考えているようです。 私は「理論で説明できない現実が間違っているのではなく、現実を説明できない理論が間違っている」と考えますが、彼らの考え方は正反対です。 理論が常に正しいと考えてしまうのです。その結果、彼らは必ず現実を見誤るのです。 今回は、そのような例を三つ紹介しましょう。 「日本が財政破綻しないのは人々が無知だからだ。もしも人々が経済学の教え通りに合理的に行動するならば、日本は財政破綻するはずだ。人々がそれに気付く前に増税と歳出削減で財政再建を目指せ」と唱える著名な財政学者など、その典型例でしょう(下記参照)。 http://amzn.asia/52I7reO 現実が間違っているから、人々が非合理に行動するから、今のところ財政破綻しないと言っているのです。 合理的経済人なら、政府の債務を「自分の将来の債務」と考えて行動するものだと。 「政府の財布」と「自分の財布」を同一視するのだと。 そう合理的に考えれば、巨額な政府債務を抱えている状況で、これ以上の債務増加を容認できるのか。できるわけがない。 合理的経済人なら新規国債の発行に反対するのが当然だろう、と続くわけです。 もちろん本当のところは、政府の債務は「民間の資産」であり、将来世代の負担にもならないことは以前のコラムで指摘した通りです。 https://38news.jp/economy/11393 [32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理 誰にもわかるように、政府の懐具合を自分の懐具合と同一視する人など現実社会には存在しません。 おそらく当の財政学者でさえ、政府の債務は自分の債務と同じであると考えて消費活動をしているわけではないでしょう。 にもかかわらず経済論理に偏重し、現実の経済人と合理的経済人の区別がつかなくなっているのです。 次の例は、 「消費の伸び悩みの原因は将来不安にある。年金・保険、福祉といった社会保障制度が財政難で今後維持できるかどうか懸念されている。そのため人々は将来に備えて貯蓄を増やし消費を抑えている。将来不安を取り除くためには財政再建が急がれる。増税と歳出削減をためらってはならない。財政再建に注力すれば消費は上向く」 という論説です。新聞でよく目にするでしょう。 実は、これは「非ケインズ効果」に基づいた話です。 財政出動や減税をすると所得が増えて消費も増加するというのがケインズ効果ですが、逆に歳出削減や増税によって財政再建を目指すと、民間人は「将来の負担が減る」と考え「現在の消費を増やす」という理屈が非ケインズ効果です。 前の財政学者の例と比べると、現実の経済人の想定が逆ですね。 今度は人々が将来を予測して現在の消費行動を決めている、すなわち合理的に行動しているから消費が伸びないと言っているのです。 いわゆる「フォワード・ルッキングな期待形成」をする人間を想定しています。 非ケインズ効果は財務省が増税を正当化する論理として一時期よく言及していましたが、日本での実証結果が思わしくなかったために下火になりました。 最近は社会保障不安に結び付けた形で御用学者に発言させているようです。 もちろん、日本で非ケインズ効果が存在しないことは現実的観点から明らかです。 二点指摘しておきましょう。 2016年9月の日銀による金融政策の総括的検証(日銀総括)において、日本人の大半は過去の経験と現在の状況から将来を予想する傾向があることが実証されたと以前お話ししました。 ほとんどの日本人は、いわゆる「適合的な期待形成」をしているのです。
将来予測から現在の行動を決定しているのではありません。 不確実性の存在する世界では、それが現実的かつ妥当な行動なのです。 なぜなら、完全情報を有する合理的経済人のように将来を正確に見通すことはできないからです。 現在の懐具合を見て消費額を決めるのですから、増税によって可処分所得が減れば消費も減るのが現実なのです。まさにケインズ効果が作用していると言えます。 もしも非ケインズ効果が作用しているのなら、2014年の消費税増税以降、消費が増加しGDPも増加しなければならないはずですが、消費の低迷がいまだに続いているのが現実です。 非ケインズ効果は経験的事実と明らかに矛盾しているのです。 より長い視野で捉えても同様です。 非ケインズ効果が作用しているなら、ここ20年間の財政再建を目指す緊縮財政路線によって将来不安は一掃され、日本経済は力強く成長したはずです。少なくとも消費が増えていなければならない。 ところが現実はどうであったでしょう。 言うまでもなく、現実は先進諸国の中で唯一、長期停滞に陥った国となったのです。 三つ目の例は、リカードの比較優位説(比較生産費説)に関する誤解です。 これは自由貿易の利益を明らかにした論理であり、ほとんどの学者が同意する基本的な考え方であると思われています。 しかし、比較優位説は、「限定された状況下での分業の利益を示す論理」にすぎません。 問題は、限定された状況下でしか成立しないにもかかわらず、一般的に成立すると誤解している人があまりに多いことです。特にマスコミ人や政治家に。 「国際分業の利益は比較優位説より明白であるから、TPPをはじめとする自由貿易の推進は国益にかなう」といった日経新聞の論説やコラムを見る度に辟易します。全くわかっていない。 確かに、比較優位説はミクロレベルで分業の利益を考える場合、かなり説得力を持つ理屈です。 よく使われる例として、教授と秘書が「論文を書く仕事(A)」と「タイプを打つ仕事(B)」の役割分担を考えているとしましょう。 教授はAもBも秘書より優れているのですが、一度に二つの仕事をこなせません。二兎は追えない。 このとき重視されるのが機会費用の概念です。それは「獲得利益と逸失利益を比較して利益の大きい方を選択しましょう」という考え方です。 この例ではAの仕事をするとBからの利益が失われますから、それが機会費用になります(逆は逆です)。 教授にとって「Aの利益>Bの利益」であれば、Aを選択しBを他者に任せるのが有利です。 この場合、秘書にとって「Aの利益<Bの利益」であるという制約条件が満たされれば、教授と秘書の双方に分業の利益が生じるという話です。 ただし一般に知られていないは、教授の下で秘書が研究を重ねて成長し、秘書にとっても「Aの利益>Bの利益」となったら分業は成り立たないことです。 秘書が成長せずに、何時までたっても「Aの利益<Bの利益」でなければ、比較優位説は成り立たないのです。 翻って、マクロレベルではどうでしょう。 比較優位説に基づく国際分業の利益は、2国2財モデルにおいて、各国が次の条件を満たす場合にのみ発生します。 労働だけが唯一の生産要素であること、完全競争により労働コスト(賃金)が同一であること。さらに各国は経済発展しない、技術進歩もしないことが必要となります。 現実経済がこれらの諸条件を満たさないことは明らかでしょう。 比較優位説を「経済学の大原則」と位置づけ、自由貿易の利益を吹聴する人たちがいますが、それは学問的に滑稽(こっけい)なことなのです。 三つの例から明らかなように、経済論理の教えは金科玉条のように奉るものではなく、現実分析への一里塚にすぎないのです。 「理論が成立するためには、その前提条件が満たされる必要がある」という当たり前のことが周知される時代に早くなってほしいものです。
[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理
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