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報道の自由と民主主義を守る(上)――強まる政治の圧力
五野井郁夫 高千穂大学経営学部教授(政治学・国際関係論)
2014年10月06日
われわれが確実なものとすることを追求している将来の日々に、われわれは人類の普遍的な4つの自由を土台とした世界が生まれることを期待している。
第1は、世界のあらゆる場所での言論と表現の自由である。
第2は、世界のあらゆる場所での、個人がそれぞれの方法で神を礼拝する自由である。
第3は、欠乏からの自由である。
第4は、世界のいかなる場所でも、恐怖からの自由である。
(フランクリン・D・ローズベルト大統領、1941年1月6日「一般教書演説」より)
アメリカ大統領フランクリン・ローズベルトは1941年の議会に向けた一般教書演説で、第二次大戦後の世界秩序構想を示した。全体主義国家であったナチスドイツが隣国をつぎつぎと併呑し、ヨーロッパを覆い尽くそうとしていた第二次世界大戦中のことである。
一般的には「4つの自由」演説といわれるローズベルトのこの演説は、のちの大西洋憲章などにも影響を与え、戦後、われわれがいま生きている世界の原点となった。
「4つの自由」演説で世界が目指すべき最も重要なものとして、最初に掲げられているのが「言論と表現の自由」である。それは、民主主義の政治を自認する社会で、何よりも重んじられねばならない権利だからだ。
人々が国家から咎められることに怯えたり恐れたりせず、自分の意見を公の場で表明できる自由、そして時の為政者が振りかざす政治的権威に異議を唱え、政府の政策を正々堂々と批判できる自由は、われわれの民主主義国家と、独裁国家や全体主義国家の政治との根本的な違いだ。
民主主義の政治では、政府与党にとってうるさくて政治運営の邪魔だからといって政治的な「制裁」という手で人々の口をふさぎ、その声を消音させてはならないし、ましてや一国の指導者や政権党がこれらの自由を抑圧する発言や行為は、絶対にしてはならない。
この「言論と表現の自由」のなかでも、とくに政府から独立した立場で政府への権力を監視し、権力の不正義をわれわれに伝えるのが新聞等のマスメディアがもつ「報道の自由」である。
政府にとって都合の悪い報道を制限することは全体主義への第一歩であり、権力による報道への介入によって記者やジャーナリストらを萎縮させ、報道の自律性を奪うようなことがあれば、その国の民主主義は危機的な状況にあるといえる。
近年、民主主義国であるにもかかわらず、政府の側が報道各社に介入しさまざまな圧力をかけ、「報道の自由」の幅、すなわち民主主義の幅を狭めようとする例が目立っている。
隣国の韓国では、産経新聞のウェブサイトに掲載された同紙ソウル支局長の記事が、朴槿恵(パククネ)大統領への名誉毀損にあたる疑いがあるとの市民団体の告発を受け、韓国のソウル中央地検が同紙ソウル支局長を事情聴取するという異常事態が起きている。しかも、韓国大統領府から同紙ソウル支局に抗議があったとも報じられている。
筆者は、日本の極右とネオナチの関係を踏まえて、日本の「右傾化」について朝日新聞にコメントしたさい、産経新聞の「産経抄」や月刊誌『正論』から、印象論だけで批判をされ、産経新聞販売局の社員から嫌がらせを受けたこともある。
近頃になって自民閣僚と、ホロコーストも慰安婦の存在もなかったことにしたい日本のネオナチ崇拝者や在日特権を許さない市民の会(在特会)との関係が大々的に表面化しても、まだ産経新聞社側から筆者への謝罪はない。
それでも、報道関係者への事情聴取と大統領府からの抗議という、報道機関の自律性を損なわせかねない異常事態において、謝罪の有無に関係なく筆者は産経を擁護する。
それは、今回のソウル地検による事情聴取と大統領府の圧力が、民主主義国家であれば遵守すべき「報道の自由」の原則を逸脱しているからだ。
だが報道に対する政治側の圧力はけっして対岸の火事ではない。日本でも同様のことが起きている。
9月11日に安倍晋三総理はニッポン放送の番組内で朝日新聞の報道について「個別の報道機関の報道内容の是非についてはコメントすべきではないが、例えば、慰安婦問題の誤報で多くの人が苦しみ、国際社会で日本の名誉が傷つけられたことは事実といってもいい」と述べた。
「コメントすべきではない」と前置きしつつも、個別の報道機関の報道内容の是非について「日本の名誉」に絡めて一国の政治指導者がコメントするというのは、軽はずみの発言ではなく、知っていてあえて「報道の自由」の原則を逸脱してみせているとしか思えない。
安倍総理による「報道の自由」の逸脱は、9月14日のNHKニュース内で従軍慰安婦問題における、朝日新聞の吉田清治証言にもとづく記事の取り消しに関するコメントでさらにエスカレートする。
安倍総理は「世界に向かってしっかりと取り消すことが求められている。朝日新聞自体が、もっと努力していただく必要がある」と、海外も含め周知に努めるよう求めた。
総理と与党自民党は、すべて吉田証言のせいであるかのように喧伝しているが、すでに石原信雄元官房副長官が「河野談話作成の過程で吉田証言を直接根拠にして強制性を認定したものではない」と述べており、その主張には無理がある。
安倍総理が本気で「日本の名誉」を回復するために慰安婦問題をめぐる自身の主張を世界に広めようとするならば、政府与党に批判的な国内メディアへの攻撃に使っている場合ではない。
2007年4月27日のキャンプ・デービッドでの日米首脳会談で安倍総理はブッシュ大統領に対して、慰安婦問題について「申し訳ないという気持ちでいっぱいである」と国際的なメッセージを発した(同会談の映像 https://www.youtube.com/watch?v=wR8IeWcL2ho)。
総理の発言を受けてブッシュ大統領も「従軍慰安婦の問題は、歴史における残念な一章である。私は安倍総理の謝罪を受け入れる」と応答している。
もし今回の朝日新聞の吉田証言にもとづく記事の取り消しで、「日本の名誉が傷つけられたこと」について、自由民主党の外交・経済連携本部国際情報検討委員会が主張するように「根拠も全く失われた」のであれば、今すぐにでも総理自らがアメリカ合衆国と世界に2007年の謝罪を正式に撤回すればよいだろう。外交的なダメージを度外視すれば、総理の現在の主張を世界中に広く伝える上で最も有効な手段ではあるまいか。
慰安婦問題をめぐって、過去の内閣とは異なり米大統領の前で謝罪をせねばならないほどに状況を悪化させた自身の外交責任を棚に上げて、政府与党がその責任をすべて一新聞社に押しつけ、圧力をかけるなどというのは、明らかに「報道の自由」を無視した行為である。こうした行為は、到底民主主義国家のやることではない。 (つづく)
報道の自由と民主主義を守る(下)――屈服させようとする力への戦い
五野井郁夫 高千穂大学経営学部教授(政治学・国際関係論)
2014年10月07日
そのころの朝日新聞の、社会正義の為の戦いは目覚しいものがあり、日本新聞史上に永く輝やかしい記録をとどめるだろう。最近偶然の機会にこのころの記事を読んだので、新聞週間最終日にあたり、敢てここにしるす。(吉村公三郎、「たたかった朝日」『朝日新聞』1956年10月7日)
過去の日本政府の側による「報道の自由」への介入といえば、1918年8月25日に起きた「白虹事件」という言論弾圧事件が思い浮かぶ。
日本で未曾有の民衆騒乱事件とされる米騒動は、当初富山県下の漁村の主婦たちがはじめた運動だったが、やがて困窮者救済要求へと発展していった。各紙の積極報道によって全国主要都市のみならず、農村でもデモ行動が組織されるようになった。
この米騒動にさいして、元陸軍大将で朝鮮総督だった寺内正毅内閣は、騒動の拡大防止を理由に一切の新聞報道の禁止令を出した。
この措置に対抗すべく日本各地の新聞社が大阪に大同団結して当時の大阪朝日新聞社社長だった村山隆平を座長に関西記者大会を開き、86社の代表166名が参加して「禁止令の解除及び政府の引責辞職」を要求し、その様子を大阪朝日新聞が報じた。
だが、記事内で使用されていた「白虹日を貫けり」という表現が、劉向『戦国策』や司馬遷『史記』のなかでは兵乱が起こる兆候を示す語句だとの理由で、朝憲紊乱罪(国家の存立基盤を不法に乱す罪)に当たるとして、新聞法違反のかどで検察に起訴された。
まだ漢籍が教養だった時代といえばそうだが、『平治物語』にも出てくる表現で、また昭和に入ってからも井伏鱒二が『荻窪風土記』で二・二六事件の前日に「白虹」を見たと述べているくだりがある。
「白虹事件」について、冒頭で紹介した映画監督の吉村公三郎(吉村の父は元大阪朝日新聞の政治記者でのちに広島市長)の論説では、当時「予(かね)て事有れかしとねらっていた〔政府〕当局はこれをひっかけた」と回想している。
当時の政府にとって「白虹日を貫けり」は、長谷川如是閑や大山郁夫を擁し、大正デモクラシーを牽引していた「一大敵国の観さえあった朝日新聞をたたきつぶす絶好の口実だった」(『朝日新聞』1979年1月25日朝刊)のである。
朝日新聞が狙われた遠因としては、寺内正毅総理本人が当時流行したビリケン人形に似ているとされ、またその政治姿勢が「非立憲主義」であったことから掛詞で「ビリケン内閣」とも呼ばれた寺内内閣成立以来、朝日新聞が率先して同内閣の反動性や反立憲主義的な姿勢を非難し、中国への介入やシベリア出兵等に反対していたことがあげられる。
吉村によれば、過去にも「政府はあらゆる手段を尽くして、朝日の筆鋒を殺がんとし、ときには暴力団を使嗾(しそう)して社長を襲撃せしめたりしたが、更にひるまなかった」という。暴力による圧力をかけられても、なおも屈することのなかった同紙を、発行禁止処分にもち込もうとしたのが「白虹事件」における寺内内閣の思惑であった。
文字通り新聞社の息の根を止められる「発禁処分」という最悪の事態を回避するために、同社の村山社長は社を守るために断腸の思いで政府への恭順の態度を示し、大正デモクラシーの牽引役で当時の朝日の執筆者であった長谷川如是閑や大山郁夫、花田大五郎、丸山幹冶(丸山眞男の父)らを追放した。
それでも右翼団体が村山社長の人力車を襲撃するなどの暴力事件が相次いだため村山社長は辞職し、白虹事件後の朝日はリベラルな論調を以前よりも控えざるを得なくなった。朝日新聞社の社史にも以下のようにある。
1918.8.25 「白虹事件」の発端となる記事を掲載。大朝夕刊記事にある「白虹日を貫けり」の字句が安寧秩序紊乱に当たるとして発売禁止。日本の言論弾圧史上、特筆すべき「白虹事件」に発展した。責任をとって社長村山龍平が辞任、編集幹部も退社
その後の右傾化と同社への弾圧はなおも以下のように続く。
1936. 2.26 反乱軍に倒された活字棚2・26事件。反乱軍が東朝社屋を襲撃青年将校が率いた部隊は政府要人を襲撃した後、一部が東朝社屋へ乱入、社屋2階文選工場の活字棚がひっくり返された。緒方竹虎主筆が部隊指揮者と面会。この日の夕刊発行を見合わせた
そしてついに戦時中の1941年にはヒットラーの『我が闘争』が、朝日新聞社から『要約マインカンプ』という書名で出版されるまでに至った。
なんとか会社は生き残ったが「白虹事件」後の朝日は、政府権力と対峙し「言論と表現の自由」を守る報道機関としての機能を次第に奪われ、失っていった。そして言論による右傾化の歯止めがまったく利かなくなったその頃までには、朝日のみならず日本国全体がすべてファシズムにのみ込まれていたのである。
こうした言論弾圧について、政治哲学者ハンナ・アーレントは『全体主義の起源』のなかで「全体主義的支配はその初期の段階においては、一切の政治的反対派の排除を比類のない徹底性をもっておこなう」と論じている。第二次安倍政権以降、ナチスによる全体主義支配の初期段階、あるいは戦前の日本と同様のことが、今まさに起きつつあるのではあるまいか。
というのも、政権にとって耳障りな官邸前の声を「テロ」と名指しした2013年11月29日の石破発言や(WEBRONZA「自民・石破茂幹事長の『デモ』=『テロ』発言の危うさ――民主主義は国会の外にもある」)、ヘイトスピーチ規制と国会周辺の抗議規制をどさくさに紛れて行おうとした2014年月28日の高市発言(WEBRONZA「国会周辺でデモをする自由(上)――『高市発言』が示した”徴候”」)、そして今回の朝日新聞報道をめぐる総理の「日本の名誉」発言は、韓国のソウル中央地検による産経新聞への事情聴取と同様に、いずれも民主主義国家にとって最重要の価値である「言論と表現の自由」を脅かすことで人々やメディアを萎縮させ、民主主義そのものを窒息させるものだからだ。
いつまでこの国で自由な主張を発表し続けることができるのだろうかと、筆者も不安を感じながらこの文章を書いている。ツイッター上では「赤報隊に続け」と叫ぶ者も出現し、「朝日関係者殺害用リスト」も作成されるようになった。筆者への殺害教唆を見かけることもしばしばである。
けれども、ここで太平洋戦争へ至るまでの戦前のように言論が力による脅しに屈して、報道と言論が政権の意向を忖度して押し黙り、国民が政府の圧力に恭順の姿勢を示してしまえば、また過去と同じ過ちを繰り返させるだけだ。
どの国であれ、政治権力や剥き出しの暴力によって「言論と表現の自由」を屈服させようとする者が出てくる危険な時代に差しかかっているからこそ、ペンを剣とし、法を楯として、全力で自由と民主主義を守らねばならない。
先人たちが築きあげてきた近代と戦後秩序において多くの国々で実現した「言論と表現の自由」、わけても今日再び脅かされつつある「報道の自由」に対する政権側のいかなる圧力も許してはならない。そして、これらの自由を守り次の世代に受け継ぐのは、われわれに他ならないのだ。
その意味で今後の数年間は、われわれ一人ひとりにとって、2010年代の日本を再び「開戦に至る10年」へと向かわせないための正念場なのである。
(投稿者雑感)
最後までお読みいただき有難うございます。
最後の一文は、ズシリと胸に響きますね。しかし、「われわれ一人ひとり」に一体何ができるというのでしょうか。
実は、それは拍子抜けするほど簡単なことなのかも知れません。
マスメディアは、国民一般大衆と権力側との綱引きの綱のようなものです。
戦前と同様、権力側がメディア介入、メディア統制の機会を虎視眈々と狙っていることを侮ってはいけません。
逆に、国民一般大衆の声が、マスメディアを権力側の魔手から守る強靭なバリアとなり得ることは、モリカケ問題をめぐるこれまでの報道が証明しています。国民世論とマスメディアと野党各党の呼吸がうまく噛み合えば、このように権力側を追い詰めることもできるという証左です。
投書、電話、メールなどの形で、国民一般大衆の声が大きくなればなるほど、マスメディアは国民の代弁者たり得るということです。
また、マスメディアの広告主も、彼ら自身の顧客である国民一般大衆の声は決して無視することができないのであり、綱引き効果はここにも及んでいくことになります。
「沖縄の視線」と題された東京新聞のあの写真が東京写真記者協会(新聞、通信、放送など33社加盟)の協会賞グランプリを受賞しました。メディア側のカウンターパンチ、でしょうね。
阿修羅掲示板ではマスメディアを突き放すようなコメントを散見します。それはそれで正鵠を射たコメントのように見受けられますが、それだけで終わってしまっては、綱引きを自ら放棄していることになります。テレビ局に、新聞社に、抗議や叱咤の声をどしどし届ける(もちろん実名で)手間と勇気を惜しまないようにしたいものです。
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