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安倍首相に読ませたい「日本国憲法の手本・民権数え唄」(サンデー毎日)
http://www.asyura2.com/17/senkyo236/msg/217.html
投稿者 赤かぶ 日時 2017 年 11 月 22 日 21:40:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

安倍首相に読ませたい「日本国憲法の手本・民権数え唄」
http://mainichibooks.com/sundaymainichi/column/2017/12/03/post-1835.html
サンデー毎日 2017年12月 3日号


牧太郎の青い空白い雲 646

 安倍1強独裁政治を徹底批判する「安倍首相に読ませたい」シリーズの第5弾は、「民権数え唄」。千葉県は銚子の民謡「大漁節」の「一つとせ〜」のメロディで、スタートする。

 一つとせ〜 人の上には人ぞなき 権利に変わりがないからは コノ人じゃもの
 二つとせ〜 ふたつとない我が命 捨てても自由の為(ため)ならば コノ厭(いと)やせぬ
 三つとせ〜 民権自由の世の中に まだ目のさめない人がある コノ哀れさよ
 四つとせ〜 世の開けゆくその速さ 親が子供におしえられ コノかなしさよ
 五つとせ〜 五つに分かれし 五大洲(しゅう) 中にも亜細亜は半開化 コノ悲しさよ
 六つとせ〜 昔思えば亜米利加の 独立したのもむしろ旗 コノ勇ましや

「数え唄」の作者は明治初期の民権壮士・植木枝盛(えもり)(1857〜92)。この「数え唄」が主張するのは自由平等、主権在民......極めて政治的だが「何か」に似ていないか?

 そう、これは戦後誕生した「日本国憲法」にそっくりなのだ。

    ×  ×  ×

「植木枝盛」とは、どんな人物だったのか?

 土佐藩士・植木直枝(小姓組格、4人扶持(ぶち)24石)の嫡男として安政4年、土佐(現在の高知市)に生まれた。8歳から習字を学んだ頭脳明晰(めいせき)。征韓論政変に触発されて、明治8(1875)年、19歳で上京。慶應義塾の「三田演説会」に頻繁に通い、福澤諭吉に師事した。

 筆が立つ。『東京日日新聞』(現在の『毎日新聞』)などを舞台に、「自由民権」運動を展開。国会開設を要求し、民権理論の普及に生涯を懸けたが、なぜか36歳の若さで病没してしまった。言うなれば「明治初期のリベラル派ジャーナリスト」ということか。

 彼にはもう一つ「歴史的文書」が残されている。「東洋大日本國國憲按(とうようだいにほんこくこっけんあん)」である。「大日本帝国憲法」が発布(1889年2月11日)されたより早く、彼は「憲法」を作っていた。

 調べてみると福澤諭吉の日本最初の実業家社交クラブ「交詢社(こうじゅんしゃ)」などが68の「私擬憲法案」(私的に考える憲法案)を作っているが、その中で、植木枝盛が起草した220条の「國憲按」(1881年)が最も民主、急進的。自由平等だけでなく、国民の抵抗権や革命権などを定めていた。150年近く前に、市民の側に立った憲法案が存在した。意外だった。

「天皇主権」を目指す明治政府からすれば、「人民主権」の思想は邪魔だったのだろう。1887年に発布・施行された保安条例で、私擬憲法を作成することは禁じられ、政府主導でプロイセン憲法をもとに大日本帝国憲法が誕生した。

    ×  ×  ×

 安倍さんに、歴史から消された「民権数え唄」「東洋大日本國國憲按」を読んでもらいたいのは、彼が「日本国憲法はアメリカの押し付け!」と主張するからである。本当に日本国憲法はアメリカ人が作ったものなのか?

 大日本帝国が第二次大戦で連合国に降伏。連合国軍総司令部(GHQ)は大日本帝国憲法の改正を日本に求めた。幣原喜重郎内閣は意図的に改憲作業をサボっていたが、マッカーサーは「このままではソ連の横槍(よこやり)が入る」と心配して、「天皇を権力のない象徴にする方針」を示し、極秘にGHQ案を作成した。そこまでは間違いない。

 しかし、そのベースとなったのは、この「東洋大日本國國憲按」を参考にした日本人作成の憲法草案だといわれている。

 そこにある「日本人民ハ思想ノ自由ヲ有ス」「日本人民ハ如何ナル宗教ヲ信スルモ自由ナリ」などは、そのまま、日本国憲法に採用された。そればかりか、「選挙権の男女平等」「不服従の権利」「死刑廃止」まで明記していたのだ。

    ×  ×  ×

 安倍さん、勉強してくれ!

 日本国憲法はアメリカ人だけの発想ではない。「天皇主権ではなく人民主権!」と主張したのは、「民権数え唄」「東洋大日本國國憲按」の明治人だった。

 そうそう、植木枝盛は、明治25年、第2回衆院選を前に胃潰瘍の悪化により36歳で死去しているが、いまだに毒殺説がある。

 権力者を徹底批判するには「覚悟」が必要なのだろう。



 

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コメント
 
1. 中川隆[-5810] koaQ7Jey 2017年11月22日 21:46:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

護憲アホに読ませたい日本国憲法がでっち上げられた過程


法律について何一つ知らない学生アルバイトがやっつけ仕事で でっち上げた日本国憲法 _ 護憲運動はCIA・中国・朝鮮工作員が扇動していた  
 
経済コラムマガジン 15/6/15(848号)

22才のベアテが作った日本国憲法条文


•日本の憲法学者の素性

6月4日の衆院憲法審査会で、安保法案の審議に影響を与えかねないハプニングが起った。与党の参考人の憲法学者がなんと「集団的自衛権は違憲」と表明したのである。野党側参考人二人はもちろん「集団的自衛権は違憲」としているので、三名の参考人全員が違憲を表明したことになる。野党はこの「棚からぼたもち」的発言に飛びつき、反安保法案の攻勢を強めている。

安倍政権は安保法案を今夏までに仕上げる予定であったが、この憲法学者の不規則発言がとんだ逆風になっている。直接的には関係のない衆院憲法審査会が、現在の重要法案審議の足を引張る形になった。マスコミも事態を面白がり、連日、これを取上げている。


そこで今週は、経済から離れ日本国憲法と憲法学者を取上げる。まず筆者は、昔から「日本国憲法はばかばかしく」、また「日本の憲法学者は怪しい」とずっと思ってきた。図らずしもそれを示してくれたのが、衆院憲法審査会での三名の憲法学者の意見表明というハプニングであった。

よく知られている話であるが、日本国憲法とその成立過程は本当にデタラメであった。新憲法の原案をGHQがたった8日間で作成し、これを和訳して日本政府に示した。日本政府はこのデタラメの原案を元に体裁を整え日本国憲法を策定し、47年5月3日に新憲法は施行された。この成立過程を見れば、いかに現行の日本国憲法がデタラメであるか理解できるはずである。

しかし卑怯者の日本の憲法学者は、当然、成立過程の真相を知っているのに、ほとんどこの真実に触れない。むしろ日本国憲法の正統性を声高に唱えるばかりである。そもそも成立過程が本当にデタラメなのだから、一つ一つの条文を吟味することは無意味とさえ筆者は考える。この無意味でばかばかしいことを毎日やっているのが、ほとんどの日本の憲法学者である。


このデタラメさを示す一例として、ベアテ・シロタ・ゴードンという当時22才の女性が日本国憲法作成に関与した話を取上げる。ベアテ女史は、両親がウクライナ系ユダヤ人であり、元の国籍はオーストリアであったが(ロシア革命でユダヤ人が排斥されたため両親がウクライナからオーストリアに移住した)、後に米国に変った。父親レオは有名なピアニストで、演奏会を開くため半年の滞在予定で来日した。しかし東京音楽学校(現在の東京芸大)の教授の職を父親のレオが得たため、5才のベアテは両親と共に日本に住むことになった。

彼女は大森ドイツ学園とアメリカンスクールで16才まで教育を受けた。途中でアメリカンスクールに移ったのは、ドイツでナチスが台頭し、ユダヤ人のベアテが大森ドイツ学園に居づらくなったからである。両親は教育熱心で、ベアテにフランス語と英語の家庭教師を付けた。この結果、彼女は、ドイツ語、ロシア語だけではなく、フランス語、英語、さらにラテン語にも堪能になった。また10年間も日本に住んでいたため日本語もできた。この語学の才が後に日本国憲法起草に関わるきっかけを作った。

16才で彼女はサンフランシスコのミルズ・カレッジに留学した。一時、両親も訪米したが、大平洋戦争開戦の直前に日本に戻った。戦争で両親との連絡が途絶え、仕送りがなくなったベアテは、アルバイトとして米連邦通信委員会(FCC)で日本短波放送の翻訳の仕事を得た。さらにFCCから戦争情報局(USOWI)に移り、ここでは対日プロパガンダの原稿作成のアルバイトを行った。彼女はタイム誌を経て、終戦後、両親が住む日本に戻りGHQ民政局に職を得た。GHQに採用されたのも、ベアテが日本語が堪能であったからである。とにかく当時の米国には、日本語を理解する者がほとんどいなかった(日本語が出来る白人は全米で60名程度)。


•日本国憲法は「埋草」

GHQは、日本の占領統治に法律の整備が必要と考え、まず憲法を新たに制定することにした。ところが時間に迫られ、憲法の原案を一週間で策定することになった。ここで狩り出されたのが、日本語が出来る22才のベアテ女史であった。まるで冗談のような話であるが本当の事である。

実際、彼女は日本国憲法の24条、25条、27条の制定に深く関わった。特に24条(家族生活における個人の尊厳と両性の平等)はほぼベアテ女史が原案を策定したと言って良い。GHQ上層から日本国憲法策定の指示を受けた彼女が参考にしたのは、ワイマール憲法、米国憲法、フィンランド憲法、そして何とソ連憲法であった(都内の図書館でこれらを閲覧)。ちなみにソ連憲法を参考に「土地の国有化」を日本国憲法に取入れようと条文を作ったが、さすがにこれは上司が削ったという。


このように日本国憲法の成立過程は相当デタラメであった。ところがこのデタラメさはGHQにとって決して不合理ではなかった。とにかく早急な日本統治に必要な法体系の整備に迫られていた。明治憲法を廃する以上、これに替わる新たな憲法を作る必要があった(もちろん暫定的な憲法)。つまり明治憲法の「埋草」が新しい日本国憲法である。したがって「埋草」だから体裁が整っておれば何でも良かったのである。

GHQは、連合国の占領が終わり日本が独立すれば、当然、日本国民は自分達で憲法を新たに制定するものと考えた。しかし少なくとも占領終了までは憲法は形として必要であり、したがって占領政策を邪魔するものでなかったなら何でも良かった。法律を専門に学んだわけでもない22才女史のアルバイト感覚で作った憲法の条文も可であったのである。また暫定的な憲法だからこそ、素人の22才の女史に憲法原案の策定を命じることができたのである。むしろ占領が終結して60年以上も経っているのに、このデタラメな憲法を改正しない日本の方が異常と米国は考えていると筆者は思っている(内政干渉になるから口には出さないのであろう)。


問題の戦争放棄の第9条も日本の占領政策に沿うものである。当然、敗戦国の日本が占領軍にクーデターを起こすことを警戒した条文と考えられる。しかし未来永日本が戦力を持たないということは全く想定していなかった。それどころか第9条を押付けておきながら、早くも新憲法施行の翌年の48年には米側の関係部署で「日本の限定的再軍備」という答申がなされている。

再軍備は日本側が働きかけたのではなく、新憲法で日本に戦争放棄を迫ったはずの米国から打診されたのである。むしろ再軍備を渋ったのは、吉田茂首相率いる日本政府の方であった。たしかに戦後の経済の混乱で食う物も食えない状態の日本にとって、とても再軍備の余裕はなかった。

しかし朝鮮戦争の勃発などによって、米国からの再軍備の要請はさらに強くなった。ついにこの要請を受け入れ日本は、50年に警察予備隊を設立、また52年はこれを保安隊に改組し、さらに54年には自衛隊を発足させた。これから解るように戦争放棄を唱った第9条は、米側(GHQ)の手違いみたいなものであった。実際、筆者は、新憲法の施行が1年遅かったなら、戦争放棄の第9条は憲法に盛込まれなかったとさえ思っている。


筆者は、日本国憲法のいい加減な成立過程を考え、大半の憲法学者を筆頭に日本の護憲派に対して強い嫌悪感を持つ(はっきり言って彼等は軽蔑の対象である)。護憲派は、嘘つきで詐欺師とさえ思っている。またなぜか憲法学者には、不遜で理由もないのに他人を見下すような者が多い。

衆院憲法審査会で「集団的自衛権は違憲」と表明した憲法学者の中には、よくテレビでよく見かける者がいる。彼は討論番組に出ると他の出席メンバーを「もっと勉強しろ」と罵倒する。しかし意見を聞かれると決まって「憲法を改正するのが筋」としか言わない。まるで小学生の答えである。もちろん現憲法の改正が事実上無理と解っていての発言である。筆者は、この憲法学者がテレビに登場すると直にチャンネルを変える。
http://www.adpweb.com/eco/


 英米派と大陸派の憲法観の違い

世界の中で日本だけが「憲法」を異常な捉え方をしていると筆者は思っている。年中、憲法で騒いでいるのは日本ぐらいである。このような事態になったには、先週号で取上げたように戦後の左翼勢力と左翼思想の存在が原因としてある。また日本のマスコミと憲法学者がこれを助長してきたと筆者は思っている。こんな中、今週は安倍政権に対しいくつかの提言を行いたい。


まず観念論者は、全体の法体系の中で憲法というものを位置付ける。理想的な憲法がまず出来上がり、その下に各種の法律が制定される。もし法律が憲法を逸脱していたなら違憲ということになる。

しかしどれだけ完全で理想的な憲法を作っても、時間が経ち状況が変化すれば、現実に合わなくなる。そこで憲法の改正という話になる。しかし一般の法律と異なり、どの国でも憲法改正の条件を厳しくている。例えば議院議席の3分の2以上の賛成というのが一般的である。さらに日本のように全ての条項の改正に国民投票を課す国がある。ただそのような国は少数派である(アイルランド、オーストラリア、韓国など)。


ところで案外知られていないことであるが、憲法に重きを置いている国とそうではない国がある。前者の国は成文憲法を絶対と捉え、一般の法律が憲法に逸脱することを許さない。ドイツやフランスといった大陸派の国である。したがってこのような国では頻繁に憲法の方が改正されている。戦後だけでも、ドイツ59回(先週号で58回としたのは間違い。ドイツが異常に多いのはおそらく東西ドイツの統合も影響)、フランス27回、イタリア16回という具合である。

これらの大陸系の成文主義に対して、英米のような成文憲法を軽く見る一方で、むしろ判例を重視する国がある。このような国では憲法改正にこだわらない(ただそれでも米国は戦後6回の憲法改正を行っているが)。特に英国は成文憲法さえ制定していない。

日本は、事実上憲法改正が不可能なので、これまで憲法の事実上の解釈の変更で現実に対処してきた。典型例が砂川事件裁判での最高裁判決「日本には自衛権がある」である。この判例を元に政府は自衛隊の整備を進めてきた。これは英米派に近い対応だったと言える。


ところがこれに対して日本の左翼やその取巻きの憲法学者は、ずっと大陸系の成文主義にこだわってきた。したがって自衛隊は違憲と強固に主張してきた。もっとも保守陣営にも成文主義を唱え、憲法改正を推進する者がいる(憲法を改正して自衛隊の立場を明確にすると主張・・既に必要がないのに)。

GHQがたった一週間で作った憲法原案を占領下の日本政府に示し「ほれこれで憲法を作れ」としたのも、米国が憲法というものに重きを置いていないからと筆者は思っている。新憲法施行後、たった1年で日本の再軍備を画策したり、本当に米国は憲法を軽んじる国と理解する必要がある。ちなみに筆者は、昔、改憲を支持していたが、今日、憲法不要論を唱えている。


上記で述べたように成文憲法を軽視する英米に対して、成文憲法を重視する大陸系(ドイツやフランスなど)に分けられる。しかし大陸系の国々は、成文憲法に重きを置く結果、何十回も憲法を改正するという馬鹿馬鹿しいことをやっている。あまりにも憲法に細かい事柄を盛込むからこのような事態に陥るのである。むしろ憲法は、抽象的で未来永劫変ることがないような価値観だけを条文化すれば良いのである。そしてこれを突き詰めれば憲法不要論となる。


また日本の憲法学者の「立憲主義」という言葉は、怪しくしばしば誤解を招くと筆者は思っている。筆者は、立憲主義は王権に対抗する概念と理解している。つまり欧州における歴史的な王権と民権の緊張関係から生まれた言葉なのである。国王(君主)の自分勝手な振舞い、例えば国民に住民に重税を課したり、無謀な戦争を始めるといったことを牽制するための議会と王との間の取決めが憲法の始まりと筆者は認識している。

立憲主義は、王権を制限する概念と筆者は捉えている。つまり国王の暴走から国民を守るものが立憲主義であり憲法と思っている。ところがドイツやフランスには既に国王は存在せず、政治を司るのは選挙で選ばれた政治家である。そもそも中世の欧州のように国王(君主)が絶対的な政治権力を持つような国は、今日、少なくとも先進国には見当たらない。つまりどの先進国でも、政府は選挙民の投票行動でひっくり返るのである。もはや政府を憲法で縛る必要はない時代になっている。つまり大陸派の成文憲法の重視という考えは、本当に時代錯誤で時代遅れである。


•憲法改正の可能性は全くない

今日の最大の政治的テーマは安保法制である。安倍政権はこの法案成立を目指し9月まで国会の会期を大幅に延長した。しかし一連の法案が憲法に抵触すると言って、野党は強い抵抗を示している。これに対して与党は、法案はギリギリ合憲の範囲内と突っぱねている。

また安保法案に関連し、憲法改正を先行させるのが筋という意見が多い。しかしこのもっともらしい話が曲者と筆者は見ている。今日、憲法を改正しようという動きはむしろ安保法案成立の足を引張ると考える。安倍政権が本当に安保法案の成立を目指すのなら、憲法改正の動きを中断するか、一層のこと止めるべきと思っている。もっとも憲法が不要と考える筆者にとっては、憲法改正なんて論外ではある。


そもそも日本国憲法を改正することは不可能である。まず両院で三分二の賛成を得ることが考えられない。小選挙区比例並立制になり、衆議院だけはかろうじて与党が三分二の議席を得るケースが稀に出てきた。しかし参議院で与党が三分二の議席を得ることは絶望的である。

実際、これまでの参議院選で与党が三分二の議席に近付いたことさえない。特に与党にとって難しいのは複数議席の選挙区であり、ここは事実上の中選挙区になる。中選挙区では各党が議席を分け合うことになり、与党にとって不利である。そして複数議席の選挙区の定員が増えている。したがって与党が三分二の議席を得ることがますます難しくなっている。つまり衆参の与党が同時期に三分二の議席を占めるということは奇跡であり、未来永劫ないことと筆者は思っている。


そして意外と問題なのが国民投票と筆者は見ている。各種の世論調査を見ても、憲法改正に賛成する国民は5割を超えている。しかし憲法第9条の改正に限れば、賛成が5割を大きく下回る。つまり第9条含みの憲法改正案は、国民投票で否決される可能性が大きい。与党はこのことを甘く考えている。

もし国民投票で第9条含みの憲法改正案で5割以上の賛成を得るには、よほどの状況に日本が置かれた場合しか考えられない。筆者は、5年前の中国漁船の海上保安庁の巡視船への体当たり事件みたいなものがタイミング良く起らない限り、5割以上の賛成を得るということはないと見ている。つまり仮に奇跡が起って衆参で与党が三分二の議席を占めたとしても、国民投票で否決される可能性が極めて高く、その場合には憲法改正は大失敗に終わるのである。安倍政権としては、この大きなリスクのある方向に進むべきではないと筆者は考える。


また奇跡的に憲法改正が国民投票の段階を迎えれば、護憲派という左翼勢力は実力以上の力を発揮し大いに張切るはずである。左翼というものはどの時代でも自分達の非力を自覚している。しかしその分プロパガンダに長けているのが左翼である。マスコミを取込むのもうまく、今日の安保法案審議の報道にも左翼勢力の影響が見受けられる。むしろボロボロなのが保守陣営であり、彼等は「けんか」の仕方を知らない。特に若い保守派政治家は、左翼のことを全く解っていない。

日本の左翼勢力(=護憲派)は、ソ連の崩壊や成田闘争の敗北などで(他には労働組合の弱体化など)ほぼ消滅したはずであった。ところが福島原発事故をきっかけに少しずつ盛返している。ひょっとすると今回の安保法案闘争は、保守と左翼の最終決戦になるかもしれない。この大事な時期に憲法改正という左翼にとって「絶好の餌」を投入れるなんて信じられないことである。


安倍政権は今の安保法案の成立を目指して真直ぐに進めば良い。憲法を改正しようとするから下らない憲法学者が大勢しゃしゃり出てくるのである。特に憲法を先に改正すべきという憲法学者は「隠れ護憲派」と見なして良い。少なくとも憲法改正の動きは、安保法案成立にとって邪魔なだけである。

今の安保法案は憲法の許容範囲を越え違憲という声が大きい。しかしそれは個人や団体の意見に過ぎない。法案成立までの手続きに瑕疵がなければ、当然、法律は制定されることになる。

ただ法案成立後、もちろん新しい法律が違憲と訴えられるかもしれない。しかしその場合は最終的に最高裁がどのような判断をするかである。まず最高裁が高度に政治的な問題と判断を回避することが考えられる(統治行為論)。また部分的に違憲と判断することも有りうる。その場合には成立した法律の手直しが必要になるかもしれない。しかしこれらは今の段階で考えることではない。そして今日の安倍政権にとって最も需要なことは、日本国民が被る可能性がある軍事的な脅威に対する必要な法整備である。あまり時間はない。
http://www.adpweb.com/eco/eco850.html


161 :山師さん:2015/06/28(日) 12:59:52.28 ID:Q8XtQQ6v
  
割と分かりやすい、自衛権の合憲性の根拠。
憲法の立法主旨からの見方で、アメも意図的に自衛権の禁止は外したと証言してるよ。

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私はその憲法作成の実務責任者であるチャールズ・ケーディス氏に長時間インタビューして、当時の実情や占領軍側の考えを詳しく聞いた

(『憲法が日本を亡ぼす』ではその記録を全文収録した)。

占領軍がいかに大ざっぱに、一方的に、日本の戦後の憲法を書き上げたかを、ケーディス氏は米国人らしい率直さで認めるのだった。

同氏の明かした日本憲法の真実を簡単にまとめると、以下のようになる。

(1)新憲法は日本を永久に非武装のままにしておくことを最大の目的とした。

(2)日本の自国防衛の権利までを否定する方針で、その旨の明記が最初の草案にあったが、ケーディス氏自身の考えでその否定の部分を削除した。 ← これ

(3)「交戦権」という言葉はケーディス氏にも意味不明であり、「国の交戦権を認めない」という部分はもし日本側から要請があれば、すぐに削除した。

(4)第9条の発案者が誰だったのかはケーディス氏には分からない。

(5)米国側は日本が新憲法を拒むという選択はないと見ていた。
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これ以外で、枝野や長谷川の集団的自衛権合憲論も有るけど・・・。


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憲法9条を作ったのは、GHQのケーディス大佐であることは知ってますか?

ケーディス大佐とは、チャールズ・ルイス・ケーディス(Charles Louis Kades、1906年3月12日 - 1996年6月18日)はアメリカの軍人・弁護士であり、GHQ民政局課長・次長を歴任し、日本国憲法制定に当たっては、GHQ草案作成の中心的役割を担い、戦後日本の方向性に負の大きな影響を与えた人です。


GHQは、連合国軍最高司令官総司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ、聯合国軍最高司令官総司令部、連合国最高司令官総司令部)の略で、太平洋戦争(大東亜戦争)の終結に際してポツダム宣言の執行のために日本において占領政策を実施した連合国軍の機関です。


憲法9条は上に挙げた、GHQのケーディス大佐によって書かれました。

その時、39歳です。

書いたケーディス大佐が、後に、

「まだ、あの憲法9条を改正してないのは、驚きだ。」

と述べています。

また、彼は、弁護士であるけれども、日本語及び日本の法律に疎く、

「9条に
『国の交戦権はこれを認めない』
と書いてあるけれども、私は交戦権の意味がよく分かっていなかった。」
と後に述べているのです。

さらに、あほのケーディスは、

「交戦権を放棄すると、戦争ができなくなるが、それがどういうことを意味するのか、よく分かっていなかった。」
と述懐しています。


ケーディスの人間性を表すものとして、ケーディスは不倫をしています。

鳥尾敬光子爵夫人と不倫関係になり、ケーディスにも妻がいましたが、マッカーサーはケーディスのようなケースが増えないように高官に限って妻子を呼び寄せたほどです。

ケーディスの妻キャサリンは来日すると、キャサリン宛に一本の匿名電話がかかってきました。

「あなたの夫に日本人の恋人がいるのをご存知か」と。

すったもんだして結局二人は離婚しました。


そして、共産主義者として有名で、

ケーディスは帰国すると国務省のジョージ・ケナンを訪ね、こういわれます。

「あなた方は、日本を共産主義国家にしてソ連に進呈しようとしていたのだという噂もありますよね」

ケーディスは企みがあばかれ、民政局を辞任しました。

その辞任の日は、わざわざ昭和24年5月3日のGHQ憲法記念日にあわせたのです。


吉田総理はマッカーサーに

「日本を赤化させるつもりですか」
とストレートに言ったといいます。

ケーディスに対しても昭和24年1月の総選挙の勝利の後、

「Did you enjoy staying in Japan?」
と言っています。

直訳すると
日本での滞在をご堪能されましたか?

という意味ですが、
「まだ日本にいるつもりか?」
という皮肉の意味で使いました。

ケーディスが民生局を辞任した際、他にもこうも言われています。

「彼は日本人に自ら手本を示した。

空虚な理想主義者は奢りと腐敗に溺れ、自滅する、と。」

日本進駐の経験のあるロバート・アイケルバーガー(当時、陸軍中将)がコメントしました。
http://ameblo.jp/adgjmptwadgjmpuwadgjmptw/entry-11494227701.html


憲法9条 総司令部案の真相 西修先生
http://blog.livedoor.jp/aryasarasvati/tag/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E5%A4%A7%E4%BD%90


憲法9条がどのような経緯でできたか、理解することが大切

 憲法9条を正しく解釈するには、同条がどのような経緯で成立したか、その真相を理解することが肝要です。以下でポイントを書きとどめることにしましょう。

 9条の原点は、昭和21(1946)年2月3日、マッカーサー元帥によって示された『マッカーサー・ノート』の第二原則にあります。次のようです。

 「国の主権的権利としての戦争は、廃止する。日本は、紛争解決の手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてさえも、戦争を放棄する。日本は、その防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な意思に委ねる。いかなる日本の陸海空軍も決して認められず、いかなる交戦者の権利も日本軍隊に決して与えられない」
 
総司令部案の変更点
 ここでとくに注意を要するのは、戦争には「紛争解決の手段としての戦争」と「自己の安全を保持するための手段としての戦争」の2種類があり、その両方とも放棄するよう『日本国憲法』に明記しなければならないと考えられていたことです。

 前者の文言は、すでに1928年の『戦争放棄に関する条約』(不戦条約)に存在していました。そしてこの規定は、自衛戦争を排除するものでないことが国際的合意となっていました。そのことを承知のうえで、「自己の安全を保持するための手段としての戦争」、すなわち自衛戦争の放棄をも憲法に加えるように求めたのです。

 ところが、連合国軍総司令部内で検討された結果、2月13日に日本側に示された『総司令部案』は、次のようになっていました。

 「国権の発動たる戦争は、廃止する。武力による威嚇または武力の行使は、他国間との紛争を解決する手段としては、永久に放棄する。陸軍、海軍、空軍その他の戦力は、決して認められることはなく、また交戦権も、国家に対して与えられることはない」

ケーディス氏の証言
 どこが違うでしょう。一番大きな違いは、「自己の安全を保持するための手段としての戦争」の部分がすっぽり削られ、新しく「武力による威嚇または武力の行使」が加えられていることです。このように変えたのは、総司令部民政局次長で『総司令部案』をとりまとめたチャールズ・ケーディス大佐です。

 私がマサチューセッツ州郊外のケーディス氏宅を訪れたのは、昭和59(1984)年11月のことです。ケーディス氏は、私に語ってくれました。「マッカーサー・ノートにあった『自己の安全を保持するための手段としての戦争』の文言を削除したのは、それが非現実的だと考えたからです。また当時、国連憲章で『武力による威嚇または武力の行使』(2条4項)の限定的な放棄が規定されていたので、加えたのです」

 こうして、この段階で「非現実的」な内容(自衛戦争も不可能)から、「現実的」な内容(自衛のための武力行使は可能)に変更されたのです。


____


当時の吉田茂政権は明らかにGHQの傀儡(かいらい)で、これは否定しようがない。
例えば、アメリカから「定員法」のように何十万人もの人員を整理する法律を作って日本経済を効率化し、アメリカ資本を投下できる下地を作れと言われれば、「はいはい、その通りにします」と、吉田政権は首切り法案を作って大量解雇をやるわけです。

でも、これって今と同じじゃないですか? アメリカが日本に戦争を手伝わせたいから法律を作る。アメリカが基地を欲しいから沖縄の民意を平気で踏みにじる。TPP問題なんかも同じです。

こうして、アメリカがもたらす「利権」が政治と深くつながり、日本の政治がアメリカの言いなりになってゆく。その転換点となったのが「あの夏」であり、「下山事件」なのだと思います。

―もうひとつ興味深いのは、同じGHQの中でも、現行の日本国憲法を事実上、起草したといわれる「GS」(民政局)と、戦後の対共産主義対策や下山事件にも深く関わったと思われる「G2」(参謀第二部)のせめぎ合いです。

柴田 新憲法制定をはじめ、GHQにおいて日本の民主化政策の中心を担い、労働組合の組織化も進めるなど左派リベラル的な性格を持っていたGSのトップが、汚職問題(昭和電工事件)で失脚させられます。それも白洲次郎や当時の警察、吉田茂らが裏で手を引く形で。

すると、GSによって「公職追放」されたり、巣鴨プリズンに入ったりしていた政治家や右翼などが「共産主義対策」の名の下、ライバルのG2によって次々と復活する。その中には児玉誉士夫(よしお)や笹川良一のような右翼などもいて、今の総理の祖父、岸信介もそのひとりです。

その後、G2が実権を握っていく中で、アメリカの利権を介して、こうした政治家や経済界、右翼などが水面下で強く結びつきながら日本の「戦後」が作られた。そうなると今度は事実上、「GSが作った」日本国憲法が邪魔になってきた。しかし憲法は簡単には変えられない。彼らにとってはそれがずっと「取れない重し」になっていたのです。

―別の言い方をすれば、今、しきりに議論されている憲法の問題も、その根っこはGHQの内部にあった「GS対G2」の構図の中にあるとも言える、と?

柴田 そう、結局すべては「下山事件」が起きた時代と地続きなんです。そして僕はその時、日本が踏み込む道を間違えたのではなかったのかと思う。

例えば、原発の問題もそうです。下山事件の時に国鉄の総電力化で政治家が利権をむさぼっていたのと同じようなことが、福島で原発を造った時にも起きていた。それもアメリカの言いなりになって、もう使わなくなった古い型の原子炉かなんか買わされてね。

今も集団的自衛権を含む法整備をやっていますよね。あれも日本のために必要な法整備ではないし、当然、憲法改正もせず、その解釈を無理やり変えてでもやろうという話でもない。実は集団的自衛権で焦っているのはアメリカのほうなんですよ。アメリカはたぶん、中国と南シナ海の問題で一戦あってもおかしくないと踏んでいる。その時にアメリカだけが泥をかぶりたくないから日本の自衛隊も使いたい。

そうやって、日本は永遠にアメリカの言いなりになり続ける。本当に今の日本はアメリカの植民地ですよね。僕は昔から言っているんだけど、最近、本当にそうなってきた気がします。
http://www.asyura2.com/15/senkyo191/msg/261.html

2015年08月23日
「憲法学者」とは何者? GHQが指示し東大が育てた狂気の学問

「憲法学」は日本にしか無い学問で、GHQの憲法を合法化するために創作された


今年の夏は「憲法学者」が活躍し、正義のヒーローとして悪を退治した(とマスコミが言っている)

だが「憲法学」は学問ではなく、GHQから「違法な新憲法を合法にしろ」と命令されて作ったのです。


でっち上げ憲法

現在の日本国憲法は合法と思われているが、1940年台や50年代には違法だと思われていた。

知られているように日本国憲法は日本人が草案したものではなく、アメリカ軍が考案しアメリカ軍が強要した。

アメリカ軍は日本を軍事占領していたので拒否権はなく、日本の国会で強制的に可決させました。


この時、国民投票や日本国民の民意を取る手続きは一度も行われなかった。

1946年(昭和21年)5月16日の帝国議会で可決し、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。

日本軍の停戦が昭和20年8月15日で、米軍が上陸したのは9月以降なので、実質半年しかありませんでした。


1945年(昭和20年)10月4日、マッカーサー(米軍人)は日本政府に憲法改正を命令し、同時に多くの指示を出した。

政治犯の釈放や天皇批判の合法化、警察解体などを法的根拠無く勝手に行いました。

当時はアメリカ軍人が銃を構えて東京を占領していたので、違法であっても皆が従いました。


東久邇宮内閣はマッカーサーの命令が違法なので「従わない」と回答し総辞職しました。

一介の軍人に過ぎない人間が日本の支配者になり、憲法改正を命令した、これが現在の憲法の最大の問題点です。

日本側は憲法調査会を組織して、時間を掛けて改正する姿勢を示した。


マッカーサーは違法に憲法を改正して「合法化しろ」と指示した


「違法な憲法を合法にしろ!」

1945年11月ごろに委員会が中心になって憲法改正の協議をし、46年1月にGHQに提出した

天皇を中心とし、米軍の希望を取り入れて帝国憲法を発展させる内容だったが、マッカーサーは突っぱねた。

米軍が望む憲法は天皇と日本人を「犯罪者」として権力から追放し、アメリカに従わせるものだった。


マッカーサーは日本側の改正案を無視して、勝手に憲法草案を作成していた。

憲法改正ではなく「新憲法」の制定であり、過去の日本を否定する内容になっていた。

新憲法は2月4日から10日の7日間で作成されたが、法の専門家は参加せず、GHQの臨時職員などが作成した。


この英語の文章を適当な日本語で翻訳したものが「日本国憲法」で、3月7日の新聞で国民に発表された。

ここまで日本人は憲法作成に一人も関わっておらず、英文を翻訳しただけである。

後は先に書いた経緯で、5月の帝国議会で可決したが審議は実質的に何もしませんでした。


「アメリカと戦争をするか新憲法を可決するか」どちらかの選択肢しかなかったからです。

新憲法には当然ながら「違法である」という批判があり、法学者には「無効な憲法である」という人が多く居た。

ここで誕生したのが「憲法学」であり、GHQから「新憲法を合法化しろ」という命令が出されたのである。


学問ですらない「憲法学」

日本側の改正案を「無資格の軍人」に過ぎないマッカーサーが否定し、銃を突きつけて可決させたのが現行憲法です。

誰がどう考えたって違法で無効ですが、米軍はここで「東京大学」を利用する事にしました。

日本の国法学を支配していたのは東大で、現在も最高学府として法学を支配しています。


東京大学で最も権威ある教授が「合法」と言いさえすれば、国法学者全員が従うシステムだったのです。

当時帝国大学(東大)法学部の最高権威は宮澤俊義教授で、最初は「新憲法は違法である」という立場をとっていた。

しかし改正後にGHQから圧力が掛かると態度を一変させ「実は合法でした」と言い出した。


くそみたいな説だが「8月15日に日本が降伏したのではなく、国民が革命を起こして天皇を倒した」のだそうである。

どう見てもフランス革命やロシア革命の猿真似、パクリでGHQからの指示でそう言っていた。

当時はいわゆる「戦犯裁判」が行われていて、GHQから目を付けられると戦争協力者として刑務所に入れられたのである。


東大教授ならどんな理由でも戦犯に仕立て上げられる訳で、宮澤俊義教授も自分の命が掛かっていたから従ったのでしょう。

こうして宮澤俊義を開祖として、新憲法は合法であるという「憲法学」が誕生し、GHQの命令で憲法学者が活動を始めた。

「憲法学」とは最初から新憲法は合法という立場に立つものなので、そもそも学問ですらも無かったのです。


一介の軍人が無資格で銃を突きつけて「日本国憲法」を強要し、合法化しろと迫ったので、東京大学が発明したのが「憲法学」です。

現行憲法を改正するとかしないとか、現行憲法に照らして合法か違法かを議論しているが、その前に議論する事がある。

現在の「日本国憲法」そのものが、違法であり無効だという事です。
http://thutmose.blog.jp/archives/40859147.html#more

―憲法研究会の「憲法草案要綱」をめぐって― - 一人ひとりが声をあげて平和を創る メールマガジン「オルタ」
http://alter-magazine.jp/index.php?%E2%80%95%E6%86%B2%E6%B3%95%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%80%8C%E6%86%B2%E6%B3%95%E8%8D%89%E6%A1%88%E8%A6%81%E7%B6%B1%E3%80%8D%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%81%A3%E3%81%A6%E2%80%95
日本国自主憲法試案 憲法研究会編:憲法9条改正
http://jpconstitution.blog129.fc2.com/blog-entry-11.html

日本国憲法は、 「日本国民が主権を保有していない時期」 すなわち、1945年8月15日から、サンフランシスコ条約が発効になった1952年4月28日の「間」に作られた


幣原首相が憲法九条を提案したとして、一体、何の権利を持って提案したのか、という問題が生じます。幣原首相は、日本国民の主権を代表する立場だったのですか?


 何しろ、当時の日本国民には主権がなかったわけで、「存在しない主権を代表する」ことはできません。幣原首相が憲法九条の提案者だったとしても、「主権がない時期に制定された憲法」であることには変わりませんし、むしろ幣原首相は一体全体「何の権利」に基づき、憲法九条を提案したのか、という別の問題が出てきてしまいます。


 憲法九条の提案者については、諸説あるようですが、問題はそこではなく、主権という「根本的な話」なのです。


日本国憲法を作ったのは軍隊のアルバイト


マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、軍による独裁には従わないとして東久邇宮内閣は総辞職しました。

マッカーサーは連合軍という軍隊の司令官にすぎず、日本政府や議会に命令する立場に無いのに、勝手に軍事政権を作った事になる。


日本側はマッカーサーの命令を拒否し、憲法調査会を組織して、時間を掛けて改正すると回答しました。

1945年11月に憲法改正のための委員会が発足し、1946年1月にGHQに提出しました。

日本側の案は現行憲法(帝国憲法)に米国の要望を取り入れて改正する案だったが、マッカーサーは拒絶しました。


アルバイトに適当な憲法を書かせて「拒否するなら何発でも原爆を落す」と議員らを脅迫した。


軍事政権が作った憲法

マッカーサーは民政局長のコートニー・ホイットニーに憲法作成を命令し、ホイットニーはアルバイト職員らに草案を書かせた。

こうして約7日間で書き上げたのが「日本国憲法」の原文の英語版でした。

当時日本の新聞はGHQの支配下にあったので、マッカーサーは日本政府に伝える前に、勝手に新聞で発表してしまいました。


先に日本政府に伝えるとまたゴネだして、内容を変更したり無効になると考えたからでした。

日本の国会議員らは新聞を読んで初めて憲法の内容を知り、激怒して絶対反対の態度を取りました。

するとマッカーサーは「新憲法を承認しなければもう一度戦争だ、原爆をまた落す」と言って脅迫しました。


東京大学などの法学者は新憲法を違法だと言い、反対の態度を取ったが、これも「認めなければ戦犯にしてやる」と脅迫して認めさせました。

当時マッカーサーはA級戦犯、B級戦犯などランク付けし、連合軍に反抗的な公務員や学者らを逮捕しては処刑していました。

GHQを恐れた東京大学は「憲法学」という学問を作り、日本国憲法は日本国民が作ったと言い出しました。


これが今日に残っている「憲法学」で、マッカーサーが「戦犯になるか憲法を認めるか」と脅迫して作らせた学問です。

GHQ支配下の新聞、NHKはこぞって「国民が新憲法を作った」という嘘の報道を繰り返し、やがて嘘の方が事実として広まりました。

帝国議会は「もういちど原爆を落とされたいか」と脅迫され、ほとんど審議せず新憲法を承認しました。


新憲法は「国民が作った」という宣伝の後で、1947年(昭和22年)5月3日に施行され、今日に至っている。

これを誰が作ったと考えるかはその人の考え次第だが、少なくとも日本の総理大臣や国会議員はまったく関与していない
http://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html


2016年08月19日
日本国憲法を作ったのは軍隊のアルバイト
http://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html


マッカーサーはやらせ写真を作るのが大好きで、こういう写真を撮らせてはマスコミに掲載させた。

http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/c/8/c8d8b55f.jpg


日米両国の高官が「日本国憲法を作ったのは我が国だ」と主張している。


日本国憲法の珍論争

日本国憲法を作ったのは誰かという珍論争が日米の政府当局者で勃発し、互いに牽制している。

8月15日に大統領候補ヒラリークリントンの応援演説をした、副大統領のバイデンが次のように発言した。

「日本が核兵器を持てないように、我々が日本の憲法を書いたのを、トランプ候補は知らないのではないか」


この前に対立候補のトランプは様々なヒラリー批判や民主党批判をしていて、その中に次のような演説があった。

「日本には米軍駐留陽を負担してもらう。あるいは米軍に頼らず核武装して自分で守ってもらう」という趣旨の発言だった。

バイデンはトランプへの反論として、日本が核武装出来ないことを指摘し、そうなるように我々が憲法を作ったと話した。


実際はどうかというと、日本国憲法に核武装を禁止した条文はないし、軍隊の保有も軍事行動も禁止するとは書かれていない。

「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」


「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と憲法に書いてあるのに陸海空軍が存在するのは周知の事実で、これは次の理由による。

『国権の発動たる戦争』は先制攻撃『武力による威嚇又は武力の行使』は侵略戦争という意味で書かれていた英語の日本語訳だとされている。

国の主権者による戦争の禁止、恫喝行為と武力行使禁止、それらを行うための軍事力禁止と書かれています。


終戦後に軍事政権樹立した日本

ひっくり返すと侵略戦争や先制攻撃以外の戦争は認められているし、軍事力による反撃も、核保有も禁止していません。

集団的自衛権もミサイル防衛も、安保法制も、もちろんどこにも禁止とは書いてありません。

バイデン副大統領の発言の半分は誤解ですが、もう半分の「我々が憲法を作った」の部分はどうでしょうか。


英語の原文があり、それを日本語に訳したから「変な日本語」になっているのですが、そもそも英語の原文が存在するのが奇妙です。

時間を追って経緯を見るために1945年(昭和20年)8月15日に戻ってみます。

8月30日に帝国海軍厚木飛行場にマッカーサーが降り立って、パイプを咥えた有名な写真を撮ったが、このポーズはやらせだった。


マッカーサーという男はこういう記念写真が大好きで、硫黄島に旗を立てる写真などを作っては見せびらかしていた。

それはともかく10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、軍による独裁には従わないとして東久邇宮内閣は総辞職しました。

マッカーサーは連合軍という軍隊の司令官にすぎず、日本政府や議会に命令する立場に無いのに、勝手に軍事政権を作った事になる。


日本側はマッカーサーの命令を拒否し、憲法調査会を組織して、時間を掛けて改正すると回答しました。

1945年11月に憲法改正のための委員会が発足し、1946年1月にGHQに提出しました。

日本側の案は現行憲法(帝国憲法)に米国の要望を取り入れて改正する案だったが、マッカーサーは拒絶しました。


アルバイトに適当な憲法を書かせて「拒否するなら何発でも原爆を落す」と議員らを脅迫した。


軍事政権が作った憲法

マッカーサーは民政局長のコートニー・ホイットニーに憲法作成を命令し、ホイットニーはアルバイト職員らに草案を書かせた。

こうして約7日間で書き上げたのが「日本国憲法」の原文の英語版でした。

当時日本の新聞はGHQの支配下にあったので、マッカーサーは日本政府に伝える前に、勝手に新聞で発表してしまいました。


先に日本政府に伝えるとまたゴネだして、内容を変更したり無効になると考えたからでした。

日本の国会議員らは新聞を読んで初めて憲法の内容を知り、激怒して絶対反対の態度を取りました。

するとマッカーサーは「新憲法を承認しなければもう一度戦争だ、原爆をまた落す」と言って脅迫しました。


東京大学などの法学者は新憲法を違法だと言い、反対の態度を取ったが、これも「認めなければ戦犯にしてやる」と脅迫して認めさせました。

当時マッカーサーはA級戦犯、B級戦犯などランク付けし、連合軍に反抗的な公務員や学者らを逮捕しては処刑していました。

GHQを恐れた東京大学は「憲法学」という学問を作り、日本国憲法は日本国民が作ったと言い出しました。


これが今日に残っている「憲法学」で、マッカーサーが「戦犯になるか憲法を認めるか」と脅迫して作らせた学問です。

GHQ支配下の新聞、NHKはこぞって「国民が新憲法を作った」という嘘の報道を繰り返し、やがて嘘の方が事実として広まりました。

帝国議会は「もういちど原爆を落とされたいか」と脅迫され、ほとんど審議せず新憲法を承認しました。


新憲法は「国民が作った」という宣伝の後で、1947年(昭和22年)5月3日に施行され、今日に至っている。

これを誰が作ったと考えるかはその人の考え次第だが、少なくとも日本の総理大臣や国会議員はまったく関与していない
http://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html

2017年05月04日
安倍首相、2020年まで憲法改正表明 日本国憲法の暗黒面


マッカーサーは尿漏れしながらタラップを降り、独裁者になった
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引用:http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fa-95/naojyi/folder/1134515/20/15427020/img_0


憲法改正の日程

安倍首相は憲法記念日の5月3日、憲法改正推進のフォーラムにビデオメッセージを寄せて改憲を訴えました。

首相はメッセージで、新憲法が2020年に施行されるようにしたいと具体的な年限を示した。

また憲法9条について、自衛隊の存在が明記されるように追加し、位置づけを明確にしたいと語った。


自民党総裁の任期は3年で2回まで続けて就任できるので2018年までだったが、3回に延長されたので2021年9月まで可能になった。

日本国総理大臣には期限がないので、理論上は自民党の総裁でなくなっても、総理を続けることは出来る。

改正には衆議院参議院が別々に3分の2以上の賛成を得た上で、国民投票で過半数の賛成を得る必要がある。


国民投票の過半数は憲法の日本語で定義されておらず、護憲派は有権者の過半数だと主張していたが、これだと絶対に憲法改正はできない。

日本国憲法は英語で書いた文章を日本語に翻訳したので英語の原文が存在し、一応「日本語から翻訳した」事にしている。

GHQの原文では「投票者の過半数」と書かれているので、日本人の半分しか投票に行かなくても改正可能だという解釈になった。


2020年に改正憲法施行とすると1年前には国民投票が必要で、その1年前には衆参両院の法案審議を始める必要がある。

その前に改正憲法の条文を明確に決定して国民に示す必要があり、2017年か遅くとも2018年には示されなくてはならない。

2012年に自民党から示された憲法改正案は、はっきり言えば稚拙の印象があり、架空戦記小説に似ている。


日本国憲法の根本的矛盾

2012年自民党案は改正内容が多岐に渡っていて、個別の議論だけで数年を要し、その間に政権が交代したら白紙になってしまう。

緊急に必要なのは「戦争の権利」あるいはもっと穏やかに「自衛権の明記」、それと憲法改正手続きの簡素化の2点だけです。

衆参両院でそれぞれ3分の2が必要なのは、当時のアメリカ軍が日本を敵国と見なしていたため、憲法を改正できないようにしたのです。


世界のどの国でも多数決の原則に基づいて議会の過半数で改正できるのが当たり前で、両院それぞれの3分の2としているのは全世界で日本だけです。

この制度では衆議院で100%の議員が改正賛成でも、参議院の3分の1の議員が反対したら憲法改正はできません。

少数意見が通り多数意見が排除される仕組みで、こういう制度を「独裁政治」と言います。


なぜ独裁を奨励するのかといえば、日本国憲法が成立した1946年の日本は、1人の軍人が全ての権限を握る「独裁国家」だったからです。

この軍人とは東条英機ではなく米軍人のダグラス・マッカーサーで、公式な資格がないのに勝手に憲法を作って議会に承認させました。

誰もこれを指摘しないので自分で書くが、マッカーサーは連合軍総司令官で、トルーマン大統領から日本占領を命じられた。


だが一体何故、「ただのアメリカ軍人」が日本を占領して議会や政府に命令し、憲法を勝手に作り変える権限を。アメリカ大統領が与えるのだろうか?

連合国(=国連)が任命したというが、日本は国連加盟国ではないので、そいつらに指図される筋合いがない。

1945年8月に日本が受け入れたのはポツダム宣言だけであって、米軍の日本占領に合意しても居ない。

トルーマン大統領は「天皇の処遇」「憲法を自由に作る」「戦争裁判を開く」などの権限を与えたが、なぜアメリカ大統領にこうした権利があると考えるのかも謎です。


独裁者になった尿漏れ男

1945年8月28日、帝国海軍厚木飛行場に米軍第一陣が到着し、8月30日にマッカーサーがパイプを咥えて降り立った。

マッカーサーは写真にはこだわりがあり、硫黄島の有名な写真や、厚木に降り立った写真など、すべて演出させた「やらせ写真」でした。

厚木の輸送機から降りるマッカーサーは、日本軍人から襲撃される恐怖から、尿を漏らしながらタラップを降りました。


マッカーサーは開戦時にフィリピンにいたが、部下を置き去りに逃げ出し、沖縄や本土では民間人への空襲を命令した、そんな人間でした。

マッカーサーは軍事法廷や天皇の処罰などをチラつかせながら憲法(帝国憲法)改正を命じ、帝国議会は現行憲法(帝国憲法)の改正案を示した。

1945年(昭和20年)10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、日本側はマッカーサーの命令を拒否し、時間を掛けて改正すると回答しました。


1946年1月、日本政府はGHQに憲法改正案を提出したが、GHQは却下し独自の憲法を作成する事にした。

特にマッカーサーを激怒させたのが天皇の身分を存続させる点で、彼は天皇を「犯罪者」として定義させたがった。

イラクやアルカイダの首謀者をアメリカは犯罪者と定義したが、あれと同じ事を日本でもやりたかったようです。


脅迫で可決した日本国憲法

マッカーサーはGHQのアルバイト職員に、7日間でで英語の憲法草案を書かせ、日本語に翻訳して新聞社に直接掲載させた。

GHQによる憲法発表が先であって、国会議員や総理大臣は新聞を読んで初めて「GHQ憲法」の存在を知らされた。

ここで駆け引きに使われたのが「昭和天皇処遇と戦争再開」で、GHQ側は公然と、「議会が承認しないならもう一度空襲してやる」と言ったそうです。


ここで日本の国会議員らは、もう一度アメリカと玉砕戦争をするか、それともGHQ憲法を承認するかの二者択一を迫られました、

GHQ憲法は3月7日に発表され、1946年8月24日に衆議院可決、10月6日に貴族院(後の参議院)でも圧倒的多数で可決成立した。

若干の審議と修正がおこなわれたものの、1946年の時点では昭和天皇を初めとして大半の政治家や有力者が、戦犯として裁判に掛けられる恐れがあった。

東京裁判はアメリカ軍側の証拠や証人だけが採用され、被告側の証人や証拠は一切認めないので、最初から有罪が確定していたイカサマ裁判でした。


例えば東京大学(当時唯一の最高学府で最高権威)はGHQ憲法は違法だと主張していたが、GHQは教授らを連行して戦争裁判に掛けると脅迫した。

東大は新憲法容認に立場を変えて「憲法学」という珍妙な学問を考案し、以来日本国憲法を擁護している。

日本国憲法はその成立過程において、民主的な手続きを一切経ておらず、憲法自体が無効だと考えられるが、安倍首相はあくまで正式な改正手続きを踏みたいようです。

リサイクルも良いが、ゴミはゴミ箱に捨てるべきでは無いだろうか。
http://www.thutmosev.com/archives/70762817.html


[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理

2. 2017年11月23日 19:02:58 : K5k2YPoJjw : 1WY87R4JP9w[284]
今の世に ぴたりと嵌まる 数え唄

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