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2017/10/20 06:14
<消費税、北朝鮮問題、憲法改正……有権者にとっては唐突感の否めない今回の衆議院議員選挙、それ以上に有権者を悩ませているのは「争点」が見えにくいとうことだろう。
そもそも何か解散すべき大きな課題があったけではなく、急に解散が決まり、しかも解散から選挙の公示まで時間的余裕がない中で、各党はそれぞれの都合で、それぞれの考えで政策を急揃えの突貫工事で立案し、有権者に提示したのであるから、無理もない。
もっとも、普段から明確な哲学や思想を持って体系的に政策を立案・整理し、国民・有権者に示し、理解や賛同を得るための活動を地道に行ってきていれば、難なく「本来争点にすべきことは何か」、「どのような政策が望ましいのか」といったことは、提示できるはずだと思われる。
さて、今回の選挙においてはそうした政策的な争点とともに有権者と候補者をともに振り回しているのが、「保守」「リベラル」「しがらみ」といった言葉である。
特に、民進党の希望の党への合流を巡る一連の騒動を契機として、「寛容な保守政党」だの「リベラルの排除」だのといったように勝手気ままに使われるに至り、今回の選挙は「保守vsリベラル」の闘いといった話まで出てくる始末になった。
一部の新聞報道によれば、保守、リベラルを「イデオロギー論争」と勘違いする風潮さえみられる。
どうも「保守」といえばなんとなく右、「リベラル」といえばなんとなく左という、根拠なきイメージが背景にあるようであるが、根拠がない分、それぞれの都合で解釈され、濫用され、それが混乱に拍車をかけている。
そこで、本稿では「保守」や「リベラル」の本来の意味について、中島岳志氏の『リベラル保守宣言』(新潮社)等の著作に依拠して簡単に整理するとともに、「しがらみ」といった今回の選挙のみならずここ数年政治の世界で頻繁に使用されるようになった言葉についても元来意味するところを考え、それに基づき、今回の選挙において五月雨のように掲げられている憲法改正、経済政策、消費税、原発政策、国防・安全保障政策といった個別政策について分析し、投票行動を考える上でのヒントを提示することとしたい。
「保守とは何か」と考える時、わが国では、日米安保の重視であるとか、構造改革推進派であるとか、憲法改正に積極的であるとかいったことがメルクマールとして考えられることが多いようであり、今回の選挙ではそれらを判断基準にして保守か否かを区別し、投票先を考える傾向があるようである。
しかし、本来保守とは、そうした個別具体的な事項を軸にして考えられるものなのだろうか?
中島岳志氏によれば、保守思想は、「人間の理性によって理想社会を作ることなど不可能である」と考え、「人間の不完全性や能力の限界から目をそらすことなく、これを直視」し、「不完全な人間が構成する社会は、不完全なまま推移せざるをえないという諦念を共有」するという。そして「特定の人間によって構成された政治イデオロギーよりも、歴史の風雪に耐えた制度や良識に依拠し、理性を超えた宗教的価値を重視」するとし、「エリートの設計主義による理想社会の実現という構想に対して、疑いの目を向け」、「急進的な改革や革命を厳しく批判」するとする。一方で、「社会の変化そのものを否定するわけでは」なく、「漸進的改革を進めようと」するという。
要するに、保守とは「人間や社会の不完全性を前提としつつ、長い歴史や伝統、それらの蓄積を守り生かしながら、時代時代の変化を受け入れて漸進的に改革を進めていく思想であり立場である」ということである。
中島氏は、「宗教戦争を繰り返していたヨーロッパ中世末期に宗教的寛容を認める思想として成立」したものであり、「リベラルには本来的に、異なる他者を容認するための社会的ルールや規範、常識の体系が埋め込まれている」としている。
また、「リベラルであることは、他者を尊重し、会話の作法を重視する姿勢に基づきます。」ともしている。
つまり、リベラルとは「独断や独善を嫌う寛容な姿勢であり、いわゆるサヨクと結びつけられるものではない」ということである。
そうなると、寛容な保守改革政党を標榜しつつも、リベラル排除を明言した希望の党は、少なくとも寛容な政党ではないということになろうし、政策も物事の進め方もまたしかりであろう。
そして、この「リベラル」と「保守」は対立する思想でも概念でもない。
「保守」は人間の不完全性を前提として、急進的な改革ではなく漸進的な改革を進めるという立場である。したがって、独断や独善を嫌い、異なる意見に対しては寛容であることが必要であり、「リベラル」であることが求められる。
つまり、「保守」と「リベラル」は共存できるどころか一体であると考えることが妥当なのである(この辺りは西部邁氏の『リベラルマインド』(学研)に詳しい)>(以上「DIAMOND on line」より引用)
今回の選挙に関して、日本の論壇の一角を形成する雑誌の一つで斯くも低調な評論を読むとは驚きだ。政治家自身が口から発する言葉やマスメディアが名付けた分類をそのまま評論しても仕方ないだろう。
今回は保守対リベラルの争いでもなければ、上記評論の中でも書いてあるように、そもそも保守とリベラルは対立するものではない。表裏一体のもので、それは個々人の中にもみられることだ。
すべてに渡って保守的な人物などという人はあり得ない。同じくすべてに渡ってリベラルな人もあり得ない。何処かが保守でどこかがリベラル、というのが普通の人のあり方だ。
政治で保守対リベラルの分け方は東西冷戦時代の残滓の考え方だ。「民主主義対共産主義」といった対立軸が明確な東西冷戦時代は政治論理も明快だった。しかし今は東西冷戦の時代ではない。
現代政治の対立軸は何か、と問われればそれはグローバル化対反・グローバル化だ。グローバル化とは世界各国の民族や伝統や文化に関係なく、国境線のみならず各国独自の制度や慣習を世界均一化して「ヒト、モノ、カネ」の自由な往来を保障する世界観だ。そうすれば投資資金は瞬時にして世界を移動して最も効率的に運用できる。
それのみならず、大資本企業は利益の最大化を目指して世界戦略を短期間に進展させることが出来る。自由で差別のない世界観のようだが、実は弱肉強食で貪欲な利益一人占めの世界を出現させるだけだ。一握りの者だけが巨万の富を手にして、残りの99%の人たちが富める者たちの奴隷と化す世界だ。
私はそれを経済帝国主義と呼び、経済植民地主義と呼ぶ。
本来、世界各国と世界諸民族がそれぞれ異なる文化や慣習の下に等しく自由に生きる権利を持っている。各国は民族自決により形成され、それを他国が武力により侵略することのない世界で、モザイクの調和を図るのが世界平和だと考える。
日本は長年にわたって形成されてきた伝統的な慣習や制度を守って高度経済成長を果たしてきた。しかし高度経済成長の終わり以後に、従来の労使一体「家族的」経営方針から短期利益の最大化を目指す企業経営者たちの出現により国内企業が「国際分業」という名の下に海外移転した。それが第一段階のグローバル化だった。
その動きを後押しするかのように「構造改革」論者たちが政権に浸透し、「改革」の美名のもとに日本を構造的に破壊し始めた。郵政「民営化」と称して解体個別売却を計り、農協も単協を一掃して地域社会を破壊し、同時に全農の機能を政府が強制的に解体した。
そうした動きの先にあるのが米国の1%による実質的な日本支配だ。今、日本は危険な曲がり角に差し掛かっている。日本はまさしく軍事力でも米国のカモにされようとしている。自衛隊を世界の何処へでも派兵して戦争できる軍隊に「戦争法」が変貌させた。
安倍自公亡国政権は米国抜きのTPPに執着している裏で、日米FTA交渉を開始している。日本を丸ごと売り渡す契約書を前にして交渉している安倍自公政権の存続をこれ以上許してはならない。そうした危機感が中央論壇に皆無なのはなぜだろうか。
北朝鮮の脅威もさることながら、北朝鮮のミサイルを煽りつつ国民を安倍自公政権に縛り付ける戦法の日本のマスメディアの謀略にマンマと嵌った日本国民は言論人たちの劣化でグローバル化の魔の手が日本を丸ごと米国に売り渡そうとしていることに気付いていない。
何度でも書く、日本は危険な曲がり角を曲がろうとしている。安倍自公亡国政権が日本を亡き者にしようとしている。グローバル化は後戻りできないラチェット条項付きだ、ということを忘れてはならない。安倍自公政権は亡国政権だ、絶対に勝たせてはならない。
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