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総選挙で「左派社会党躍進」の再現 少数政党が改憲を阻止した62年前の総選挙
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2017.10.20 岩垂 弘 (ジャーナリスト) リベラル21
現行の日本国憲法が施行されたのは1947年である。それから70年もの間、一度も改憲されずに存在し得たのには、それなりの理由がある。さまざまな理由が考えられるが、その一つは護憲を旗印にした政党、それも極めて小さな政党が存在していたからだというのが私の見方だ。その少数政党の名は「左派社会党」である。
日本国憲法がこれまでに遭遇した最大の危機は、1954暮れから55年にかけて生じた改憲への動きである。吉田茂・自由党内閣総辞職を受けて54年12月10日に成立した鳩山一郎・民主党内閣は憲法改定に意欲を示し、鳩山首相も「改憲を目指す」と明言した。
鳩山首相がこうしたの姿勢を明らかにした背景には、米国の対日政策の転換があった。すなわち、太平洋戦争に敗北した日本を占領した米国政府は日本を「非軍事化」することに力を注いだが、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、その方針を転換、日本を「反共のとりで」とする方向に舵を切った。そして、日本政府に防衛力強化(軍備増強)を要求するに至るのだ。鳩山発言も、こうした米国政府の意向をくんだものであった。
当時は、第9条で「戦争の放棄」「戦力不保持」「交戦権の否認」をうたった日本国憲法は広く国民に支持されていたから、鳩山首相の改憲発言は国民に衝撃を与えた。
当時、私は長野県諏訪市の県立高校3年生だったが、下校時に駅のプラットホームで会った同年生が、「政府が改憲を変えるなら、それを阻止するためにオレは命がけで抵抗する」と、思い詰めたような表情で私に話しかけてきたことを今でも鮮やかに覚えている。この一事でも分かるように、鳩山首相の改憲発言は若者たちにも深刻な不安をもたらしたが、戦争が終わってまだ9年しかたっていなかったから、若者たちは鳩山発言に「日本はまた軍備をもつ国になるのか。だとすると、若者はまた戦争に駆り出されるのか」という危機感を抱いたわけである。
鳩山政権下の最初の総選挙(第27回総選挙)が1955年2月27日に行われると決まった時、憲法を支持する国民の関心は1点に集中した。護憲を掲げる政党が衆院議席の3分の1以上を獲得できるかどうか、という点だった。憲法第96条の規定により、もし改憲反対の議員が3分の1以上になれば、改憲を目指す議員による国会での改憲発議を阻止できるからだ。
憲法改定に反対する人々には不安もあった。なぜなら、直近の総選挙結果では、護憲派は全議席の3分の1を下回っていたからである。すなわち、1953年4月19日に行われた第26回総選挙の当選者454人の内訳は次のようなものだったからである。
<自由党199、改進党76、左派社会党72、右派社会党66、分派自由党35、労農党5、共産党1>
要するに、護憲を掲げる左派社会党と右派社会党は合わせて138人にとどまり、衆院議席の3分の1(151人)に届いていなかったのである。
ところが、55年2月27日の第27回総選挙(衆院議席は467人)は次のような結果をもたらした。
<民主党(改進党の後身)185、自由党112、左派社会党89、右派社会党67、労農党4、諸派2、無所属6、共産党2>
左派社会党と右派社会党を合わせると156人となり、衆院議席の3分の1(155人)を1議席上回ったのである。
かくして、鳩山首相の改憲願望は挫折し、日本国憲法は改定を免れた。当時、私は大学に入学したばかりだったが、総選挙の結果に「よかった」と胸をなで下ろしたことを覚えている。
第27回総選挙の結果を受けて、この年10月に左派社会党と右派社会党が統一して「日本社会党」になり、同11月には、民主党と自由党が合同して「自由民主党」(自民党)を結成する。「改憲志向の自民党」対「護憲堅持の社会党」を軸とする「55年体制」の始まりであった。
そして、それ以降、今日までずっと、日本国憲法は改定されるこはなかった。この間、衆院で護憲派が絶えず3分の1以上を占め、このため、自民党も衆院で改憲発議が出来なかったからである。
しかし、2012年12月の第46回総選挙で改憲志向の自民・公明が衆院議席の3分の2以上を獲得、14年12月の第47回総選挙でも、両党を中心とする改憲勢力が衆院議席の3分の2以上を占めた。さらに、16年7月の参院選挙の結果、自民・公明を中心とする改憲勢力が参院議でも初めて3分の2以上を占めるに至った。
こうして、改憲勢力は衆参両院で改憲の発議が可能になった。そして、今回の総選挙。憲法改定が争点となっており、改憲勢力が勝利すれば、来年にも衆参両院での改憲発議、次いで国民投票という運びとなるだろう。
話を1955年2月27日の第27回総選挙に戻す。
ここでは、護憲政党が衆院議席の3分の1以上を獲得し、鳩山内閣の改憲意図を打ち砕いたわけだが、これを実現した原動力は左派社会党だった。
敗戦直後、革新政党がいくつも名乗りを上げたが、最大規模のそれは「日本社会党」であった。が、同党は51年10月、右派社会党と左派社会党に分裂した。きっかけは、同年9月にサンフランシスコ講和会議で調印された対日平和条約をめぐって意見が対立したからだった。右派は、ソ連など社会主義諸国を排除した対日平和条約(「片面講和」と言われた)に賛成したが、左派は、社会主義諸国も含めた「全面講和」を主張し、対日平和条約に反対した。サンフランシスコではまた、日米両政府間で日米安保条約が調印されたが、それには両派とも反対だった。
分裂した時の代議士数は右派社会党30人、左派社会党は17人。が、53年の第26回総選挙では、左社72人、右社66人と逆転、55年の第27回総選挙では左社が89人を獲得し、右社の67人を引き離した。
なぜ、こうした左派社会党の躍進があったのか。同党が掲げた「全面講和」「中立」「基地反対」「再軍備反対」といった、日本国憲法に立脚した平和路線が、有権者の心をつかんだからだと言われている。とりわけ、同党の鈴木茂三郎・委員長の「青年よ再び銃をとるな」という訴えが若者たちの心をゆさぶったと語り継がれている。
間もなく総選挙。62年ぶりに“奇跡”が起こってほしいと願わずにはいられない。
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