http://www.asyura2.com/17/senkyo233/msg/208.html
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前回に引き続き選挙の話をするつもりでいる。
とはいえ、現時点で言えることは少ない。
予測なんてとてもできないし、現状分析さえおぼつかない。
それでもあえて選挙についての文章を書こうと思っているのは、主に記録のためだ。
もう少し丁寧に言えば、すべてが終わって結果が出た後に、何が起こっていたのかをあらためて振り返って考えるための材料として、現時点で見えていることを、なるべく見えているままの形で記録しておこうと考えている、ということだ。
一昨日までの状況は、昨日(9月27日の水曜日)になって一変した。
それで、何もかもわからなくなった。
以下、主だった政党別に、状況を整理しておく。
自民党の状況は、一週間前とそんなに変わっていない。
とはいえ、周辺の状況が一変したことで、この先、選ぶべき戦術には、大幅な修正が求められることになるだろう。
そもそも、今回の選挙は、安倍晋三首相の個人的な独走がもたらしたものだ。
ここが出発点だ。
つまり、現今の混乱状況を安倍首相周辺がどう評価しているのかはともかくとして、この混乱は、首相ご自身が自分で招いたものであり、いわゆる“大義なき解散”がもたらした当然の帰結だということだ。
ともあれ、安倍さんが、唐突に解散を決断した理由が、「国難突破」のためであったのかどうかは、たった一日で、もはやさして重要な争点ではなくなっている。
3日もしたら、「国難突破解散」というこのフレーズ自体、忘れ去られていることだろう。
26日の段階では、解散に大義があるのかどうかは、わりと重要な論点だった。
とりあえずこのことを書き残しておきたい。
26日までの数日間に、いくつかのメディアから電話取材を受けた。それらへの回答の中で、結果として記事に反映されたのかどうかはともかく、私は、おおよそ以下のようなことを述べた。
1.「国難」という現状認識、ないしは問題設定がそもそもズレている:「国民」は多様な人々を含んでおり、それぞれ(年齢、性別、経済状況、就業の有無、家族形態、健康状態などなど)によって、直面している課題やかかえている困難は様々だ。それらを「国難」などという粗雑な言葉で一括することはできない。強いていえば、北朝鮮をめぐる情勢は「国難」と呼ぶにふさわしいものではあるが、それは解散にはなじまないどころか、解散を許さないはず。
2.「突破」という態度が間違っている:百歩譲ってわが国が「国難」に直面しているのだとして、だとしたら、政府は、その国難に「対峙」「対応」しつつ、対応策を国会で議論し、解決策を模索し、状況を改善すべく努力するべきであるはずで、「突破」などという思考停止を含んだ語句(「一心不乱」の「玉砕」戦法的で、「特攻精神」っぽい)で、国民的団結を促すような取り組み方は、柔軟性を欠いていて危うい。
3.「解散」という手段が狂っている:「国難」を「突破」するための手段として「解散」を持ってくる理屈に、まったく論理的なつながりが無い。仮に国難を突破するつもりでいるのなら、求められるのは、むしろ国会の早期開催であり、徹底的な審議であり、知恵の結集であるはずで、「解散」は、それらの課題を真っ向から否定する意味で最悪の打ち手だ。
この分析自体、解散以前の時点で総選挙の前提となっていた政治状況がまるごと破壊されてしまったいまとなっては、ほぼ、意味を失っている。
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ただ、たしかなのは、与党が政治的な課題について国民に信を問うためにではなく、単に「選挙戦を戦う上で有利だ」との状況判断から解散に打って出たという事実だ。
彼らは、民進党の体たらく(代表戦のグダグダ、山尾志桜里議員のスキャンダルでの失点、離党者続出の党内不協和)と、小池新党の準備不足(小池氏の都政専念、若狭代表の知名度不足、人材と資金と時間のすべてが足りない党内事情)を横目に見ながら、落馬した敵に斬りかかるようにして選挙戦を仕掛けたわけだ。
この種の戦術的な状況判断による衆院解散は、少なくとも憲政の常道から外れたもので、議会政党としての矜持を疑わせるに十分な暴挙だったと思う。ついでに言えば、てか、言われ尽くしたことでもあるが、今回の解散は、以上に述べてきた戦術的な選択である以前に、安倍首相個人が国会審議の場で森友・加計問題を追及されることから逃亡するために打ったみみっちい小芝居であり、その意味で、「丁寧に説明する」と言っていたご自身の発言を裏切る振る舞いでもあれば、国会そのものを冒涜するやりざまでもある。「卑怯者」と呼ばせていただいても言い過ぎではあるまい。
であるからして、私個人としては、いくらなんでもこんなにスジの通らない形で選挙に持ち込んだ側が、その選挙で勝てる道理はないのではなかろうかと、26日の段階ではそんなふうに思っていた。
が、状況は、たった一日でひっくり返ってしまった。
二番目に、「希望の党」の話をする。
この党は、自民党が解散を言い出す前の分析では、「準備不足」「リーダー不在」「人材払底」「若狭は未熟さ華の無さ」「こっちの野田はダメなのだ」「資金不足」「烏合の衆」「小池にはまってさあ大変」「理念不在」「政策不在」と、さんざんな言われようだった。言ってみれば政党以前のバーチャル政治同好会組織に過ぎなかった。
それが、どういうことなのか、突然「希望の党」という党名を掲げ、のみならず、ほんの2カ月前に「都民ファーストの会」の代表を退くにあたって「都政に専念する」と言っていた小池百合子氏ご自身が、そう言っていた舌の根も乾かぬこの時期に、にわかに党首としてその希望の党を率いる仕儀にあいなっている。
なんと恥知らずな手のひら返しではあるまいか。
記者会見で、小池代表は、「アウフヘーベン」「シナジー効果」「リセット」といった不可思議な言葉を散りばめて、自らが新しい党を率いて新たな改革に乗り出す決意を語っていたわけなのだが、少なくとも私は、会見の全文を何度読み返してみても、その中で使われている「アウフヘーベン」や「シナジー効果」や「リセット」が具体的に何を意味しているのを読み取ることができなかった。それもそのはず、これらの用語は、何かを説明するための言葉ではなく、説明を回避するための目くらましであるからだ。
築地市場の豊洲への移転を発表した時に漏らした「私がAIだからです」という説明の時も同様だったが、この人が目新しいカタカナ言葉や、キャッチーなスローガンを持ち出すのは、聴衆の注意をそらそうとしている時に限られている。
手品で言うところの「ミスディレクション」というヤツだ。
マジシャンが、観客の注目を高く掲げた右手のカードにひきつけておいて、その間に左手でテーブルの裏にコインを貼り付けるみたいな、あのやり口だ。
「アウフヘーベン」や「AI」には特段の意味はない。
小泉元首相がずっと昔に、説明不能な事態に際して
「人生いろいろ」
と言って笑わせつつ苦境を打開してみせた時のあの手法と同じで、要するに、意外な言葉を持ち出して周囲を混乱させて説明をはぐらかしているのだ。
もっとも、この種の見え透いたごまかしが通用するのは、この人があらかじめメディアを手なづけているからでもある。
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苦しい弁明の中で、同じように小手先のごまかしを繰り出そうとした山尾志桜里議員は、記者たちに
「説明になっていませんが」
「どういう意味でしょうか?」
と、矛盾点を指摘されて追い詰められている。
ところが、小池百合子氏は、あの不思議なまでに余裕綽々な語り口で、記者を幻惑して会見を乗り切ってしまう。そういう下地を作り、生かす能力を持っている。
おそらく、積み重ねてきたキャスター経験と政治経験と離党結党経験が彼女に、特殊能力をもたらしたものなのだろう。
ネット内を見回してみれば、彼女の会見を見て
「この人、説明能力がゼロだね」
「何言ってるのかさっぱりわからない」
と、酷評している人がたくさんいることも事実ではある。
おそらく、言葉を論理の筋道として解釈している人たちは、そんなふうに感じるのだと思う。
私の解釈は少し違う。
小池百合子さんの特殊能力は、「何ひとつ説明していないのにもかかわらずなんとなく周囲を納得させてしまっている」ところにある。つまり彼女に関しては、説明能力が低いというふうに評価するのではなく、「説明回避能力が異様に高い」と考えなければならないということだ。
ともあれ、この人が前面に出てきたことで、状況はすっかり変わった。
「小池新党」を「ガキの政党ごっこ」と見てナメてかかっていた首相周辺は、あわてているはずだ。
仮にガキの政党ごっこだという分析が当たらずとも遠からずなのだとしても、先の都議選で、その「ガキの政党ごっこ」に過ぎなかったはずの都民ファーストの会は、前例の無い圧勝を記録している。ガキをナメてはいけない。有権者がガキ含みである時代、ガキの政党であることは弱点とは限らない。
希望の党がスローガンとして挙げている政策のひとつに「しがらみのない政治」というのがある。
正直な話、意味がわからない。
というのも、「しがらみ」という単語が曖昧すぎて、焦点を結ばないからだ。
とはいえ、意味がわからないながらも、気持ちはなんとなくわかる。
ここが非凡なところだ。
察するに、「しがらみ」は、橋下徹前大阪市長が二言目には繰り返していた「既得権益」とそんなに遠い概念ではなくて、要するに、人間関係がもたらす行きがかりや、過去からのつながりがもたらすなりゆきや、コネクションや義理人情といった、明文化しにくいもやっとした権力の闇を一掃して、ゼロからリセットした環境の中で新しい政治の仕組みをつくっていきましょうではありませんか皆さん的な気分を言語化した何かなのであろう。
その気持はわかる。
しかし、「しがらみ」は、政治家の言行の一貫性や、過去に約した約束を守り抜く誠実さを含んでもいる。
ということは、しがらみを一掃したら、自分の過去や約束や公約をその場限りで適当に捨てることも不可能ではなくなる。
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実際、小池百合子氏は、豊洲問題でも都ファの代表人事でも、それらの以前から繰り返されてきた離党歴を見ても、過去の「しがらみ」を、見事に切り捨ててきた政治家だ。
希望の党の代表に就任するにあたって、小池百合子さんは、自らの公式サイトにあった過去のコンテンツを削除している。
その中には、原発の再稼働を容認する発言や、日本の核武装について「今後の国際情勢によっては検討すべきだ」と回答した2012年衆院選時点の一問一答も含まれている。
おそらく、彼女にとって、これらのコンテンツは「しがらみ」に過ぎないのであって、そうした過去との行きがかりをまるっと無視するところに、未来なり希望があるというのが、彼女の立場なのであろう。
なんともおそろしい政治家だ。
が、機を見るに敏なその反射神経の鋭さと、どんな質問を浴びせられても常に悠揚迫らぬ落ち着いた態度で質問が求めているのとは違う回答を並べにかかる度胸の良さが、他の追随を許さないことはたしかで、この人のこのムードに頼もしさを感じる有権者がたくさんいることを、私は不思議には思わない。
さて、三番目に民進党だが、これもなかなか大変なことになっている。
確定的なところはいまひとつはっきりしないのだが、少なくとも現時点で報じられているところを総合すると、どうやら民進党が独自の政党としての生命を終えようとしていることはたしかなようだ。
ついひと月ほど前の代表選を経て党の代表に就任した前原氏が、みずから「10月に予定されている衆院選の届け出政党とならず、公認候補を擁立しない方向で調整を始めた」と、少なくとも共同通信はそのように伝えている(こちら)。
一方、希望の党の側が民進党の申し出というか秋波をどんなふうに受けとめているのかというと、
《−−略−− 小池氏は27日夜のBSフジ番組で「集団で来られても一人ひとり、こちらが仲間として戦えるか決める」と述べ、公認候補を選別する考えを示した。安全保障や憲法を挙げ「党内で右だ、左だというのは正しくない。一人ひとりの考えを確認する」と語った。−−略−−》(こちら)
てなことになっている。
なさけない話なのだが、あまりにもとんでもない状況過ぎて、理解が追いつかない。
記事を読む限り、多数の現職議員をかかえる国政政党の党代表が、次の選挙に公認候補を認めることをせず、自らは無所属で立候補する決意を語っていることは間違いのない事実であるようで、ということは、これは、事実上の「解党」と解釈するほかにどうしようもないわけなのだが、これだけはっきり書いてあっても、いまだに私は記事の内容を「政治家が本当にこんなことをやるのだろうか」と、信じることができない。
なんというべきなのか、それほど素っ頓狂なことが起こっているということなわけだ。
で、その「解党」が、そのまま「希望の党」への合流なのかというと、さにあらずで、合流先の「希望の党」では、民進党出身の候補者を「選別」した上で、党に加えるつもりでいるという。
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これもまた、信じられない状況だ。
つまり、アレか?
民進党の議員は、蜘蛛の糸を垂らされたカンダタみたいな状況で、ひとりずつ、極楽の蓮の池を目指さないといけないわけなのだろうか。
前原さんの前代未聞の決断が「勝てそうな勢力にぶら下がる」ということなのであったら、そもそも政党を結成した意味がなかったことになる。自己否定そのものだ。
「当選させてくれそうな政党であれば、名前や政策がどうであれその政党の所属議員になりたい」と考えるような候補者に、投票したいと考える有権者が果たして現れるものなのだろうか。
それ以前に、党首自らが解体への道筋を作ったのだとすると、あの代表選はいったい何だったのだろうか。
以上、3つの政党のこの一週間ほどの動きを見ていると、どれひとつとして節操を守っている政党がないことがわかる。
公明、共産、維新、社民などは、とりあえず渦の外にいるというのか、自分たちの立ち位置をかろうじて守ってはいるようだが、先のことはわからない。
とすると、投票先はあるのだろうか。
それもわからない。
はっきりしているのは、今度の選挙が、憲政史上最も醜い争いになるということだ。
卑怯者とうそつきと火事場泥棒のうちの誰に投票すれば良いのか、悩みは深い。
個人的には、候補者が掲げて見せている「未来」にではなく、各々の政党なり候補者なりの「過去」に向けて票を投じるのが、こういう場合の立ち回りかたとして、最も穏当なんではなかろうかと考えている。
未来は不定形だし、現在は常に揺れ動いているいる。とすれば、頼りになるのは過去だけだ。
後ろ向きの結論になってしまったが、投票に行かないよりはマシだと思う。
私は、つい10年ほど前まで、ついぞ投票に行ったことのない人間だった。
で、現在の政治状況は、そのことの報いなのだと、半ば以上本気でそう思っている。
われわれはこの何十年か、政治家を軽んじてきた。
私自身、生まれてこの方、政治家を尊敬したことが一度もない。
ずっと昔、私が子供だった頃、政治家は少なくともいまよりはずっと尊敬されていた。
たとえば、当時からタレント議員という人たちがいたものだが、その彼らは「タレント議員」という呼び方で、一種蔑んだ視線で見られていた。
このこと自体が、「議員」への尊敬の裏返しだった。
しかも、そうやって世間から軽んじられ、嘲笑されていた当時のタレント議員は、その出自を洗ってみれば、一流の落語家であり、講談界の第一人者であり、ナンバーワンのアナウンサーだったりした。
つまり、昭和の半ばまでは、超一流のタレントしか議員になることはできなかったのである。
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それが、現在は、出番を失った芸人や、食い詰めた歌手や、汚れ役にさえお呼びがかからなくなった俳優といったあたりの人々が、タレント議員の供給源になっている。忙しい芸人や、売れている歌手は議員になんかならない。オファーがあっても、即座に断っている。
要するに、昔のタレント議員が、「タレントあがり」(←タレントからの成り上がりの結果としての議員になった人々)であったのに対して、現在のタレント議員は、「タレント崩れ」(タレントから身を持ち崩して議員になった人たち)だということだ。
で、われわれは、自分たちが、そうやって、長い間、政治家を侮り、蔑み、嘲笑し、いびり倒してきたことの報いを、いま受けている。
「勝てるか否か」の判断を最優先する政治家は、それを認めてきた我々が生み出したのだ。
矜持を持った優秀な人間が誰も政治家を目指さず、卑しい人間と、アタマの悪い人たちのポスターだけが路上の風に吹かれる時代を誰が望んだというわけでもないのだろうが、現実に、いま、私たちはそういう時代に生きている。
このひどい選挙のありさまを眺めている子供たちの中から、もしかしたら、10年後か20年後、日本の政治をなんとかもう少しマシなものに変えるために立候補してくれる若者が出てくれるかもしれないが、それまでの間は、とりあえず、目の前に並んでいる人たちの中から、なんとか最悪でない組み合わせを選ぶほかにない。
ひどい結論になった。
候補者の皆さまには、口汚い言い方をしてしまったことを、この場を借りて謝罪しておく。
あなたたちのうちで最良と思える人に投票するつもりでいるので、どうか勘弁してください。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/092800112/?i_cid=nbpnbo_tp
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