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72年前の9月2日に日本は連合国に降伏、無謀な戦争だったという反省を聞くが、アジア侵略は?
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201709030001/
2017.09.04 櫻井ジャーナル
1945年9月2日に日本政府全権の重光葵と軍全権の梅津美治郎が降伏文書に調印、第2次世界大戦は終わった。8月10日夜半に同盟通信の海外向け放送でポツダム宣言受諾の決定を明らかにし、14日には最終的な受諾通告し、15日には終戦勅語、そして16日に日本軍は停戦命令を出している。
この敗北について、生産力など国力で日本を圧倒しているアメリカと戦争を始めたことに原因を求める意見がある。無謀な戦争だったというのだが、その戦争とはハワイの真珠湾を1941年12月7日(現地時間)に奇襲攻撃して始まったものを指している。いわゆる太平洋戦争だ。つまり、大陸で行われていた侵略戦争は無視されている。
この侵略戦争は1872年から始まる。その前年7月に明治政府は廃藩置県を実施するのだが、72年に琉球国を廃して琉球藩を設置、つまり併合したのだ。本ブログでは何度か指摘しているが、明治政府が琉球国を日本領だと考えていたなら、あるいは日本領にしたかったのなら、琉球藩をでっち上げてから廃藩置県だろう。明治政府は当初、琉球国を日本領だとは考えていなかった。
その矛盾を解くカギが1871年10月に起こった宮古島漁民の難破事件。台湾に漂着した漁民の一部が殺されたとして日本政府は清に抗議、被害者に対する賠償や謝罪を要求したのだ。1874年には台湾へ派兵している。
実は1872年に興味深い人物が日本へ来ている。厦門にいたアメリカ領事のチャールズ・リ・ジェンダーだ。外務卿だった副島種臣に台湾への派兵を勧め、それ以降、75年まで外務省の顧問を務めることになる。その1875年に明治政府は李氏朝鮮の首都を守る要衝、江華島へ軍艦が派遣して挑発、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させることに成功した。
イギリスの外交官、アーネスト・サトウは薩摩や長州に働きかけ、徳川との内戦へ導こうとしていたが、彼以外にも日本人を戦争へ向かわせようとした外国人がいるということである。サトウは平和的な体制の移行に同意していた西郷隆盛を軍事クーデター派へ変えている。関良基が指摘しているように、西郷はサトウの挑発に乗せられてしまったのだ。(関良基著『赤松小三郎ともう一つの明治維新』作品社、2016年)
サトウの盟友だったというトーマス・グラバーはアヘン戦争で大儲けしたジャーディン・マセソン商会が1859年に日本へ送り込んだエージェント。1861年に彼はグラバー商会を設立、武器取引を始める。グラバーの下へは坂本龍馬、後藤象二郎、岩崎弥太郎たちも出入りしていた。
1863年にはグラバーの手配で長州藩が井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)をイギリスへ送り出している。渡航にはジャーディン・マセソン商会の船が使われた。勿論、物見遊山での渡英ではない。
ジャーディン・マセソン商会の共同創設者であるウィリアム・ジャーディンの姉、ジーン・ジャーディン・ジョンストンの孫にあたるウィリアム・ケズウィックはグラバーと同様、1859年に日本へ渡り、横浜でジャーディン・マセソン商会のオフィスを開いている。
1862年には香港へ戻り、アヘン取引の資金を扱っていた香港上海銀行で働くのだが、そうした関係もあり、ケズウィックは青幇の杜月笙と親しかった。杜月笙は麻薬取引の大物で、蒋介石の側近だ。
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