>実際に朝鮮人が徒党を組んで東京の深刻な被災地を荒らし回っていたのも事実のようだ これは警視庁の正力松太郎が流したデマだとわかっている:
関東震災後の朝鮮人虐殺の黒幕は警視庁だった
■「虐殺」という表現について
関東震災後の日本人による朝鮮人殺害について、「虐殺」と表現するのが適当かどうか。今回の参考文献に、以下のような記述があった。俄かに信じられない(あるいは信じたくない)内容だと感じると同時に、ここに書かれているのはやはり事実なのではないかと思う。正直に言って、どう取り扱うべきかは手に余る問題だったので、虐殺と言う表現の妥当性については、各位の判断にお任せする。 朝鮮人による、さらにすさまじい回想がある。 所謂自警団、青年団等は「朝鮮人」と叫ぶ高声に一呼百応して狼の群の如くに東西南北より集まり来たり、一人の吾が同胞に対し数十人の倭奴<日本人>が取り捲きつつ剣にて刺し銃にて射、棒にて打ち、足にて蹴り転がし、死せしものの首を縛り曳きずりつつ猶も刺し蹴りつつし屍体にまでも陵辱をくわえたり、
婦人等を見れば両便(ママ)より左右の足を引き張り生殖器を剣にて刺し一身を四分五裂にしつつ、女子は如斯にして殺すこと妙味ありと笑ひつゝ談話せり…… 身体を電信柱に縛り付け先ず眼球を抉り鼻を切り落とし、其の哀痛の光景を充分眺めた上、腹を刺して殺したるものあり……。 (姜徳相・他編『現代史資料・6』みすず書房、一九六三年) 考えられないような殺害方法であるが、朝鮮人すなわち被害者側の怨念のこもった誇張した表現ではない。実は私は最初これだけ読んだ時には、朝鮮人の表現にはしばしば誇張表現がみられるので、その特有の誇張表現ではと思ったのである。そのように思わせるほどの残虐な殺し方である。
しかし誇張表現ではなかった。補強証言がある。 まだ若いらしい女(女の死体はそれだけだった)が腹をさかれ、六、七ヵ月になろうかと思われる胎児が、はらわたのなかにころがっていた、その女の陰部に、ぐさりと竹槍がさしてあった、
という記録を日本人自身が残している(姜徳相・他編『現代史資料・6』田辺貞之助「女木川界隈」みすず書房、一九六三年)。なお、付近の別の住民も同じ光景を見ている(『労働運動研究・三七号)湊七良「その日の江東地区」労働運動研究所、一九九二年)。 女性の陰部へ竹槍を刺したという目撃証言は、場所が特定できるものは江東のもの。したがっておそらく一つの事件、行為が複数の口で語られ、伝聞されていった結果であろう。 (『関東大震災と朝鮮人虐殺』 pp.102-104)
当時の日本人の多くは、自分達が朝鮮人から恨まれているという自覚を持っていました。背景には、朝鮮の植民地化と、そこに住んでいた朝鮮人に対する苛烈な差別待遇がありました。
植民地化に伴って、日本政府は朝鮮の土地所有に関する調査を行いました。そして、朝鮮人の土地を没収して日本人に分け与えました。その結果、土地を奪われ働き口をなくした朝鮮人は、生きる道を探して日本へ渡ります。しかし、そこでも差別待遇が待ち受けていました。 日本国内における朝鮮人の賃金は、日本人最低ランクに位置していた被差別部落出身者や沖縄出身者の5〜7割程度だったと言われています。日本に渡ってきた朝鮮人は同胞コミューンを形成しましたが、多くの場合そこはスラム化していきました。小規模ながら犯罪者集団も発生し、こうした朝鮮人の実情を目の当たりにする事で、日本人の朝鮮人に対する潜在的な不安感が醸成されていきました。 http://www5d.biglobe.ne.jp/DD2/Rumor/column/earthquake_demagogie.htm 〈関東大震災から80年〉 朝鮮人女性への残虐な性的虐待 荒川放水路の四ツ木橋付近での虐殺に関する証言に次のようなものがある。
「22、3人の朝鮮人を機関銃で殺したのは四ツ木橋の下流の土手だ。
西岸から連れてきた朝鮮人を交番のところから土手下におろすと同時にうしろから撃った。 1挺か2挺の機関銃であっという間に殺した。 それからひどくなった。 四ツ木橋で殺されるのをみんな見ていた。 なかには女もいた。 女は……ひどい。
話にならない。 真っ裸にしてね。いたずらをしていた」 (関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会「風よ 鳳仙花をはこべ」教育史料出版会、1992年、58〜59ページ) これは朝鮮人女性を性的にもてあそんだうえで虐殺したということなのであろう。
これは例外的な事件ではない。 女性に対する性的虐待、虐殺の事例は数多くあった。 東京府南葛飾郡での朝鮮人女性に対する虐待、虐殺事件
湊七良、亀戸五の橋で朝鮮人女性のむごたらしい惨死体を見た。 「惨殺されていたのは30ちょっと出たくらいの朝鮮婦人で、性器から竹槍を刺している。 しかも妊婦である。 正視することができず、サッサと帰ってきた」 と回想した。 (「その日の江東地区」『労働運動史研究』第37号、1963年7月、31ページ) 亀戸署内では習志野騎兵連隊の軍人たちが朝鮮人や日本人労働者たちを虐殺した。
この状況を目撃した羅丸山の証言によると、殺された朝鮮人のなかには「妊娠した婦人も一人いた。 その婦人の腹を裂くと、腹の中から赤ん坊が出てきた。 赤ん坊が泣くのを見て赤ん坊まで突き殺した」 (崔承万「極熊無筆耕−崔承万文集−」金鎮英、1970年、83ページ) 当時砂町に住んでいた田辺貞之助は多数の朝鮮人惨殺死体を見た。
「なかでも、いちばんあわれだったのは、まだ若い女が、腹をさかれ、6、7カ月くらいと思われる胎児が、腹ワタの中にころがっているのを見たときだ。
その女の陰部には、ぐさりと竹槍がさしてあった。
なんという残酷さ、 あのときほど、ぼくは日本人であることを恥ずかしく思ったことはなかった」 (「恥ずべき日本人」『潮』1971年9月号、98ページ) 野戦銃砲兵士第一連隊兵士の久保野茂次は1923年9月29日の日記に岩波少尉たちが小松川で
「婦人の足を引っ張り又は引き裂き、あるいは針金を首に縛り池に投げ込み、苦しめて殺した」 ことを記した。 (関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編「歴史の真実 関東大震災と朝鮮人虐殺」現代史出版会、1975年、18ページ) 朝鮮人女性に対する虐待、虐殺の歴史的意味
上記のような朝鮮人女性に対する言語に絶する虐殺の残酷さは、民族差別にさらに女性差別が加わって行われた結果であろう。
このような日本人の行動は、朝鮮人が暴動を起こしたとデマが流されたので、自衛のために自警団を結成したといったものではなく、極めて攻撃的である。 それは民族的には支配民族としての優越心、性的には男性としての優越心に発した行動であったと思われる。 朝鮮人女性に対する虐待、虐殺に関しては、当時も、その後も議論、反省されることは皆無だった。
その無反省がアジア・太平洋戦争の時期の「従軍慰安婦」制度を生み出したといえないだろうか。 吉野作造は、千葉で行われた朝鮮人少年に対する日本人の虐殺事件をつぶさに日記に記し、その末尾に「これを悔いざる国民は禍である」と記した。 (「吉野作造著作集」14、岩波書店、1996年、357ページ) 日本人拉致事件発表後の他者のみに厳しく自己に甘い日本人の二重基準を見ると、朝鮮や中国に対する日本人の良心喪失を憂慮し続けた吉野の言葉を日本人は今もう一度かみしめなければならないように思われる。
(山田昭次、立教大学名誉教授) http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2003/j05/0305j0827-00001.htm 関東大震災直後の朝鮮人に対する殺人行為
当時,埼玉県の「児玉郡本庄町」や「大里郡熊谷町」(いずれも当時の名称,現在の本庄市・熊谷市)で発生した朝鮮人殺戮事件は,関東大地震発生後,東京方面ですでに起きていた朝鮮人などに対する殺人行為から彼らを保護する目的で,その被害の少なかった埼玉県や群馬県方面に彼らを避難させようとする最中に起こされた出来事である。
本庄町のばあい,地元の住民たちによって結成された自警団が,本庄警察署に到着したトラックに乗っていた朝鮮人たちに襲いかかり,リンチに発展した。 警察は人員不足から阻止することもできないまま,この事件で50人から100人程度の朝鮮人を殺させた。 しかも,殺された朝鮮人たちは,妊婦の女性や子どもたちも大勢含まれていた。 それでも,このリンチにくわわった者の多くは,事後に開廷された裁判の判決では「執行猶予付の騒擾罪」を受けるだけの「穏便な処分」で済まされていた。
さらにあとでは「恩赦」があり,彼らの刑罰は免除されてもいた。 これが,朝鮮人の子どもたちの首を刎ね,女性(妊婦)にも竹槍を突きさし,男性を日本刀で切りさいて殺す,などという凶行を働いた人たちに対する「事後の法的刑罰」であった。
この歴史的な殺人事件の犯人たちは,大地震後の社会不安の状況のなかで「流言蜚語」に惑わされてしまった結果,本庄町では,警察が避難させるために保護し護送してきた子どもや妊婦も含む朝鮮人たちを,50人か100人くらい殺してしまった。
けれども,事後にいちおう裁判がおこなわれたものの,犯人たちは「執行猶予」付きの判決で「実質無罪にされ」だけでなく,さらに恩赦もあって,受けた刑をとり消してもらっていた。 第2次大戦後後に法務省の高官は,外国人〔=在日韓国・朝鮮人など〕は「煮て食おうと焼いて食おうと自由だ」(1965年の発言)と言ってのけた。
関東大震災直後に起きた朝鮮人〔など〕の虐殺事件は,それよりも32年も前の悲惨な出来事であったけれども,すでに庶民の次元で「朝鮮人はけしからぬ奴ども」だから,「煮て食おうと焼いて食おうと自由だ」という残虐な情念に即して,同じ地震の被災者でもあった朝鮮人たちを「殺してもかまわぬ」という気持を実行に移していた。
裁判の最中に殺人行為に関してみなで哄笑する
1) 殺人行為の様子 1910年に朝鮮〔当時は大韓帝国と称していた〕を軍事的に脅して合邦し,植民地にした日本帝国であった。 朝鮮民族の底しれぬ怒り・恨みを買ったことはいうまでもない。 この事実が反転されて,日本人・日本民族側の気分においてはどうなったかといえば,朝鮮民族を心底でひどく恐れる感情を醸成してもいた。 関東大震災直後,官庁関係〔警察・政府・戒厳司令部など〕から意図的に提供された《流言蜚語》を真に受けた庶民たちは, 「朝鮮人が井戸に毒を撒いている」 「朝鮮人たちが徒党を組んで攻めてくる」 と聞かされたのだから,大地震のために混乱した状況のなかで自衛し,朝鮮人どもを「捕まえてなんとかしてもかまわぬ」と考えた。 ある意味でこの考えは理の必然でもあった。 国家当局側,それも一部で作為的な虚報を流した部署の関係者においては,たとえば軍隊は「東京などでは朝鮮人が反抗したといった理由で銃剣で刺殺或いは射殺するなどの虐殺をおこなった。
こうしたことは,目撃者の談話などでも明らかにされている」。 さらに,その「流言の拡大に驚いて,日本刀,竹槍,鳶口,棍棒などで武装した自警団が各地に出現したが,こうした軍隊,警察の行動をみて,凶暴な行動に出たことはいうまでもない」。
「各地で “鮮人狩り” がはじまった」。 その「あまりのひどさに驚いて出したと」いう「9月3日の警視庁の宣伝ビラ『急告』も」「鮮人の大部分は順良にして・・・」といいながらも「『不逞鮮人の妄動』を否定していない」始末であった(前掲『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』13頁)。 萱原白洞「東都大震災過眼録(1924)」の写真は,震災後にその記憶を頼りにして描かれた絵画であるが,よくみると右下部分には「虐殺された朝鮮人の死体」が転がっていた(つぎの左側にその部分を切りとった画像をかかげておく)。 まわりの人たちは「朝鮮人をやっつけたぞ!」といって「歓声を挙げている」図である。 これは,萱原の網膜に焼きついて忘れられなかった記憶を復元させたものである。 この絵画全体(9月1日参照)を観察すると,警察官をはじめ,法被を着た男,そして手に棒切れをもった子どもまで描かれていることに気づく。 前段の著作『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』に説明された当時の,官民一体になる殺人実行の現場の様子がこの絵画には正直に写されている。 前掲右側の写真は,関東大震災時における殺人行為を現わした〈有名な1葉〉である。 警察官と民間人が「殺した朝鮮人2体」を,それも民間人は棒で突くかのような格好で,あたかも記念写真を撮るかのように構えている(前掲書,口絵より)。 「凶器は日本刀,鳶口,竹槍,鉄棒や長さ6尺位の棍棒,小刀,包丁或いは石棒など奇抜なものがズラリ」(同書,167頁)。
2) 裁判の様子
さて,警察が東京方面からトラックに乗せて避難させてきた朝鮮人を殺した人たちのうち,埼玉県熊谷市の人びとに対する裁判もおなわれていた。『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』はその一場面をつぎのように描写している。 a) ある被告の答弁。
裁判長から「お前は首を落とす積りで再びやったというぢゃないか」と叱られると 「そうです。そうですが首は落ちませんでした」 といい,石を打ちつけたことについては,「黒い石はこの位でした」と大きな輪を作る。 満廷もクスクス笑う。 事件とは思われぬ光景だ(158−159頁,1923年10月22日『東京日日』夕刊)。 b) 「裁判長の突っ込みも茶気たっぷりで曽我廼家の芝居でも見ているようだ」。
「裁判長が『お前は一番最年長だのにどうしてそう無分別だ』と揶揄すると『毎晩4合ずつ引っかけやすのでツイその』と満廷を笑わせてひとまず休憩・・・」。 〇〇万治は 「私は倒れていた鮮人を殴っていると警官が『もう死んでいるからいいじゃないか』と申しました」 (159頁,1923年10月23日『東京日日』)。 c) 「〇〇隣三郎は事実を是認したがこの樫棒で殴ったろうといわれた時ヘイそのちょっとやったまででと答え,
裁判長からこの6尺もある樫棒ではちょっとやられたってたまるものかといわれ,判官はじめ満廷も吹き出させた。 また,それがそのちょっと飲んでいたものですからというのに,裁判長が酒を飲んでいたのか,ちょっととはどの位飲んでいたのかと問われ,4合ですと答えてまた満廷を吹き出させた」(161頁,同上)。 d) 「『本庄警察の方が騒がしかったのでいって見ますと,3台の自動車に鮮人が乗せられてその内ころがり落ちた3鮮人の胸を刺しました。
一ぱい機嫌でしたからついへゝゝ』 とありのままを申し立て『お前のやった事について今日はどう思っている』ときかれても返事も出来ぬ程の被告である」(175頁,1923年10月25日『東京日日』朝刊)。 それにしても,殺人事件の裁判であるにもかかわらず,この法廷に関する当時の報道をとおしても「ずいぶんに和気あいあい」とした雰囲気が,よく伝わってくるではないか。
そもそも,関東大震災時のこうした虐殺事件で犯人=被告となって裁判を受けた人びとは,関係した非常に多人数の犯行者全員を被告とするわけにもいかない事情があったため,しかたなくその代表として選ばれ応じて出廷していた一部の者であった。
したがって,前段 a) b) c) d) に紹介した法廷におけるやりとりのように,人殺しの犯人たちにしてはふざけたような口調さえ聞こえてくる。 つまり,関東大震災のさい「惹起された他民族殺戮行為」は,官憲がわがでっち上げた朝鮮人騒擾「説」を契機に起こされていた。 しかもこのように,殺人事件の審理とも思われない〈身内を庇うかのような共有の感情〉のなかで,被告たちが裁かれていた(!?)のであるから,その「異常な事態を異常とも思わない」当時の時代精神の恐ろしさがあらためて疑われてよい。 要するに,この大量殺人事件を裁くために開廷された場所においては,裁判官にも被告にも傍聴席にも「満廷に笑いの渦」が吹き出ていたというのである。
そもそも軍隊が,多数の朝鮮人・中国人を大衆の面前で虐殺していただけでなく,社会主義者・無政府主義者もついでにといっていいように,無法なかたちでもって捕縛・虐殺していた。 これでは,国家機関である裁判所が,関東大震災時において殺人行為を犯した一般庶民をまともに裁けるはずもなかった。 http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=2394667 歴史の汚点といえば、大正12年(1923年)関東大震災のときの朝鮮人虐殺はどうであろう。 日本人はよくアメリカ人のマネが得意だといわれるが、なぜこのような、おぞましいことまでまねる必要があったのだろうか。 それもたんなる排斥にとどまらず、虐殺の挙にでたところなど、出藍の誉れというべきか。 しかもその虐殺は、政府筋の計画的煽動に乗って一般の民間人がおかした犯行だという点で、アウシュビッツのことは、その存在さえも知らなかったというドイツ人のばあいとも異なる。
震災がおそった9月1日の午後、東京市内の被害状況を巡視した内務大臣水野錬太郎(元朝鮮総督府内務総監)は、その惨状のなかにあえぐ人々のいら立ちがが支配階級に向けられることを防ぐためには、朝鮮人と社会主義者の弾圧が必要であると判断し、 1日夜から2日夜にかけて、東京、神奈川の各警察署に朝鮮人暴動のデマを流させ、 さらに3日午前、朝鮮人暴動の「事実」についての電文を作成、船橋海軍無線送信所から全国地方長官当宛に打電させた。 中山競馬場の名物になっていたこの無電台が1971年夏撤去され、「なつかしい風物詩」が消え去ったことを嘆く人も少なくないという。
しかしわたしはあの不気味な鉄塔をながめるたびに、背筋に寒気をおぼえずにいられなかった。
朝鮮人暴動のデマは、またたく間に日本全国にひろまり、警察とそれに呼応した民間の自警団は、政府公認の朝鮮人虐殺を開始した。
竹槍で刺し、トビグチで頭を割り、ノコギリで首をひき、さしみ包丁で妊婦の腹をさく……
阿鼻叫喚の地獄絵図のなかで、抵抗のすべもなく殺されていった朝鮮人の数は6,000人をこえた。
「ハダカ同然の死がいが、目をあけたまま頭を北にして空地に並べられていました。
数は二百五十ほど。 ノドを切られて気管や食道が見えている人、 首筋を切られて肉がザクロのようにわれている人、 無理に首をねじ切られたらしく、皮と筋がほつれている人… なかでもあわれだったのは、まだ若い女性の腹が真一文字に切りさかれ、その中に六、七ヶ月の胎児が目をとじて姿でした」
以上は仏文学者田辺貞之助氏が目撃した、その日の朝鮮人の姿である。
「旦那、朝鮮人はどうですい。
俺ァきょうまで六人やりました。… 天下晴れての人殺しだから、豪気なもんでさァ。… 電信柱へ、針金でしばりつけて、… 焼けちゃってナワなんかねえんだからネ…。 そして、殴る、蹴る、鳶で頭へ穴あける、竹槍で突く、めちゃめちゃでさァ。
けさもやりましたよ。…
奴、川へ飛び込んで、向かう河岸へ泳いで逃げようとした。… みんなで石を投げたが、一つも当たらねえ、でとうとう舟を出した。 ところが旦那、強え野郎じゃねえか。十分位も水の中へもぐっていた。
しばらくすると、息がつまったとみえて、舟のじきそばへ頭を出した。 そこを舟にいた一人の野郎が、鳶でグサリと頭を引掛けて、ズルズル舟へ引きよせてしまった。… 舟のそばへ来れば、もうめちゃめちゃだ。 トビグチ一つでも死んでいる奴を、刀で斬る、竹槍でつく…」
『横浜市震災誌』に記録されている、ある日本人のその日の武勇談である。
サンフランシスコ震災で、日本人排斥運動が燃えあがったとき、大統領テオドル・ルーズベルトは怒りにふるえてこれを非難したという。
大統領が国会に送った年頭教書(1906年12月4日)を読むと、大統領は日本人排斥運動を「ウィキッド・アブサーディティー(悪辣な愚行)」と痛罵し、これがアメリカの恥であることを述べ、もしこのような愚行がやまないならば、日本人保護のために、軍隊を動員するとまでいきまいている。
日本のばあいどうか。
虐殺が行われた大正12年から今日にいたるまで、わたしたちは、責任ある日本の為政者から、一言たりとも陳謝の言葉を耳にした記憶はない。
いや、「貧乏人は麦を食え」で勇名を馳せた池田勇人元首相からは一言きいたことがある。
「朝鮮を併合してから、日本の非行に対しては私は寡聞にして存じません」。 http://blog.livedoor.jp/danjae/archives/51404976.html 震災当時、修羅の巷と化していた東京近郊では、もう一つの惨劇が発生していました。 事実無根の流言蜚語に踊らされた人々が、次々に無辜の朝鮮人を虐殺していったのです。 元来、巨大地震などの激甚災害襲来直後には、情報の空白が生まれ、その中でさまざまな流言蜚語が生まれるといわれています。
関東大震災の時にもやはり、根拠の定かではない怪しげな噂が東京周辺を駆け巡っています。 最初は巨大地震再来や大津波襲来、富士山大噴火の噂が流れました。 これら自然の脅威に関する噂は、震災の記憶が生々しい間には威力を振るいますが、事態が小康を得るにつれ、次第にフェードアウトしていきます。 これに取って代わるように頭をもたげて来たのが、世情不安に絡む諸々の噂です。 地震によって刑務所から放たれた受刑者たちが暴動を起こすと言う噂、平生の世の中に不満を持つ社会主義者たちが混乱に乗じて暗躍すると言う噂…。 そして、日本社会で虐げられてきた朝鮮人が、震災を千載一遇のチャンスとばかりに日本人に対する逆襲を行うと言う噂です。
世情不安型の噂の中でも、朝鮮人に関する噂に対する反応は、前二者に比べてひときわ鋭敏だったようで、つまるところそれが虐殺に結びつきました。 当時の日本人の多くは、自分達が朝鮮人から恨まれているという自覚を持っていました。
背景には、朝鮮の植民地化と、そこに住んでいた朝鮮人に対する苛烈な差別待遇がありました。 植民地化に伴って、日本政府は朝鮮の土地所有に関する調査を行いました。 そして、朝鮮人の土地を没収して日本人に分け与えました。
その結果、土地を奪われ働き口をなくした朝鮮人は、生きる道を探して日本へ渡ります。 しかし、そこでも差別待遇が待ち受けていました。 日本国内における朝鮮人の賃金は、日本人最低ランクに位置していた被差別部落出身者や沖縄出身者の5〜7割程度だったと言われています。 日本に渡ってきた朝鮮人は同胞コミューンを形成しましたが、多くの場合そこはスラム化していきました。 小規模ながら犯罪者集団も発生し、こうした朝鮮人の実情を目の当たりにする事で、日本人の朝鮮人に対する潜在的な不安感が醸成されていきました。 惨劇を招いた流言はどこから発生したのか。
噂・流言研究の題材としては定番中の定番ともいえるようなこの関東大震災時流言ですが、実のところ最初の流言が、いつ、どこで発生したのかについて、はっきりとしたことは分かっていないようです。 確認できる範囲でもっとも早い段階の事例だと思われるものは、地震が発生した9月1日当日の夕方、横浜市本牧町あたりのもののようです。 実際には、似たような噂が同時多発的に発生していたと見るのが自然でしょう。 最初に囁かれた噂は、「地震の混乱に乗じて朝鮮人が放火を行っている」という様なものです。 噂は夜を越えるうちに、朝鮮人による強盗、強姦、殺人、井戸水への毒の投げ込みという形へ発展していきました。
噂の伝播・変質をもっと長いスパンで捉えた場合には、「朝鮮人が伊豆大島に爆弾を仕込んで地震を起こした」というような突飛なものまでも発生したようです。 井戸水へ毒を投げ込まれるという毒水流言は、古くその歴史を遡る事ができ、決して関東大震災に特有の珍しいものではありません。
中世ヨーロッパでは、(大正期日本における朝鮮人と同じように差別待遇を受けていた)ユダヤ人が井戸水にペスト菌を投げ込むと言う噂が流れた事があります。 日本国内の酷似した事例では、明治19年、愛知県下之一色村(当時。現在の名古屋市中川区下之一色)での出来事があります。 当時、全国的にコレラが流行しており、下之一色でも患者が発生しました。 そこで官憲が公衆衛生維持のために井戸水へ消毒薬を投げ込んだのですが、これを見た村人たちは「住人を殺害するために毒薬を投入した」と誤解し、竹槍や鎌で武装して暴動を起こしました。 そして鎮圧に動いた官憲と衝突、双方に死者を出しています。 若干余談になりますが、この名古屋の事例からは、人間には自分の命を脅かす者を容赦なく殺す部分があることをうかがえます。 虐げられた朝鮮人の存在は、震災時に毒水流言の真実味を補強する材料となりましたが、虐殺という行為に直接つながったのは、民族差別とは別次元の要素なのかもしれません。 地震によって井戸水が濁るのは良くあることです。
関東大震災の時も上野でこの現象があり、知識のない一般人にとっては、これが毒水流言の真実味を補強する材料となりました。 東京帝国大学教授・吉野作蔵の調査によると、
「朝鮮人はもともとテロ活動を目論んでいたが、震災の破壊と混乱を千載一遇のチャンスとして蠢動しはじめた」 という見方が、数多くの流言の底流にあったと思われる節があります。 そう考えた人たちにしてみれば、「火災被害の拡大も朝鮮人の暗躍のせい」となりました。 また偽情報の傾向を追っていくと、朝鮮人の襲撃は神奈川方面から東京を目指して行われると考えられていたようです。
あるいは、噂の伝播の傾向と一致するものなのでしょうか。 このように流言蜚語による混乱が生じた場合の対処には、正確な情報の周知徹底が必要である事は論を待ちません。 現代的な感覚で言えば、行政の広報や、各種マスコミが正しい情報を発信する役割をになう事になります。 では関東大震災の時、各種情報インフラはどのような状態だったのでしょうか。 当時まだテレビなど存在していなかった事は言わずもがなですが、大正12年にはラジオの放送も行われていませんでした。
NHKによるラジオ放送開始は、震災から2年後の1925年(大正14)の話です。 この時代の情報伝達の手段としては、電信・電話網が重要な役割をになっていたようですが、これも被災して壊滅状態。 在京各社の新聞報道も社屋の被害により停止状態。 復旧が順調だった東京日日新聞の場合で、新聞の発行が再開されたのは5日の夕刊から。遅いところでは19日になるまで新聞記事を発行する事ができませんでした。 これに対し、震災の被害を被らなかった地方新聞は、流言の内容を真に受け、そのまま報道するという失敗(脚注参照)を犯しています。
また地震により発令された戒厳令の関係で、官憲による情報管制も敷かれました。 その官憲は、早い段階においては流言の内容を信じ、むしろ自分が朝鮮人虐殺に加担していたと言われています。
官憲は自分自身が流言情報の権威付けを行った上でこれを民衆に向けて発信し、そこから跳ね返ってきた情報を自分で受信してそれを信じ込むという過ちを犯してしまったようです(脚注参照)。
官憲による虐殺は、関連資料の多くが隠蔽されたため、実態が良く分かっていません。
そもそも、この流言の発生源が、他ならぬ官憲であったとする陰謀論の見方も根強く、これが一定の説得力を有しているようです。
亀戸事件・甘粕事件など、憲兵隊は流言による混乱に乗じて、日ごろから自分達が不穏分子と見なしていた集団の「粛清」を行ってもいます。
マッチポンプの可能性すら疑われている憲兵に比べ、警察や震災を受けて発足した戒厳令司令部は、比較的早い段階で流言はあくまで流言に過ぎないことを看破し、事態の収拾に向けて動き出しています。 日本では伝統的に隣組的な組織が存在しており、その点で自警団の結成をうながす素地はあったと言えます。
関東大震災時に結成された多くの自警団も、もともとは朝鮮人に限らず火事場泥棒に対し、また、地震被害に対処するために自然結成されたものでした。 自警団に参加していた人の言によると、飢餓と流言が自警団を虐殺行為へと駆り立てたという実感があるようです。 また、民衆の中でも流言が流言である事に気づいている人が少なくなかったのかもしれません。 しかしながら、そのことに気づきつつ、これを積極的に吹聴した者もいました。
また、内容に不信を持っていても、頭からそれを否定するような事をしにくい空気があったようです。 噂を否定する事で回りから浮き上がってしまう恐れもあったのでしょうし、万一の危険の可能性を見逃してしまう事を恐れたからなのかもしれません。
ある種の使命感に駆られて積極的に言いふらした者もいたようですが、不思議なもので、事実かどうかは怪しいことを自覚しているはずの情報も、「事実である」と言う触れ込みで吹聴して回っているうちに、話者の中で次第に紛れもない事実であると認識されれるようになっていくようです。
自警団の活動は、流言が盛んに飛び交い始めた前述の1日夜を越えたあたりから始まりました。
手近で武器になりそうなもの、中には銃や日本刀で武装した彼らは、中世ヨーロッパの魔女狩りを彷彿とさせる朝鮮人狩りを開始しました。 外見上では日本人との明確な差異を認められない朝鮮人を識別するために用いられた方法の代表的なものが、「十五円五十銭」と発音させてみる方法です。 朝鮮人には、「チュウゴエンコチュッセン」としか発音できない人が多いそうです。 この方法は官憲も用いていました。
これ以外の識別法としては、「教育勅語の暗誦」「座布団と言わせる」「歴代天皇の名前を答えさせる」「ザジズゼゾ、ガギグゲゴを発音させる」「君が代を歌わせる」「いろはカルタを言わせる」などといったものがあったようです。
もちろんこの方法は、簡易ではあるものの確実な識別法ではなく、勘違いから日本人や中国人も殺害されています。
被害者数は調査主体でまちまちですが、「朝鮮人231人、中国人3人、日本人59人」(内務省警保局調査)、「2711人」(吉野作造調査)、「6415人」(独立新聞調査)などの数字があがっています。内務省警保局の算出した数はあまりにも少ないと言えます。
事後の事務処理を簡略化するため、「虐殺」の認定条件を極端に厳しくしている可能性があるようです。
その反面、独立新聞=朝鮮人側の新聞が提示した6000人超と言う数字も、他の事実との整合性に問題があるために絶対的に信頼の寄せられるものではありません。 政治的思惑がもっとも薄いと思われるのが、吉野作造による調査結果ですが、組織力=調査力において他の二者に見劣りする感が否めないのも事実です。 なお、この件に関する犠牲者をもっとも多く出したのは、神奈川県ということで間違いないようです。 最終的に事態が沈静化に向かったのは、民衆が警察などが発信する情報を受け入れて冷静さを取り戻したためではなく、自警団が軍による力での押さえつけに屈したからだと見るのが妥当なようです。
民衆が理性的な判断を行ったのは、力で行動を押さえつけられ、文字通り手も足も出なくなってからの事でした。 なお余談になりますが、当時の警察は、人員数はもちろん、そしてその武装の内容においても、自警団に劣っていたため、最終的には軍部の軍事力を背景にして事態の沈静化に乗り出さなければならなかったようです。 ■各地方紙の誤報 ※『関東大震災と朝鮮人虐殺』P61より抜粋
「朝鮮人大暴動 食糧不足を口実に盛に掠奪 神奈川県知事よりは大阪、兵庫に向かひ食料の供給方を懇請せり。
東京市内は全部食料不足を口実として全市に亘り朝鮮人は大暴動を起こしつつあり……」(河北新報、九月三日) 「歩兵と不逞朝鮮人戦斗を交ゆ 京浜間に於て衝突す
火災に乗じ不逞鮮人跋扈 近県より応援巡査派遣……」 (福島民友新聞、九月四日) 「放火・強盗・強姦・掠奪 驚くべき不逞鮮人暴行
爆弾と毒薬を所持する不逞鮮人の大集団二日夜暗にまぎれて市内に潜入 警備隊(自警団のこと)を組織して掃討中……」(河北新報、九月四日) 「不逞鮮人凶暴を極め飲食物に毒薬や石油を注ぐ
彼らは缶詰に似た爆弾を所持しつつあり」 (北海タイムズ、九月五日) ■官憲の主な動き(時系列) ※『関東大震災と朝鮮人虐殺』P66より抜粋
九月二日十四時ごろ:内務省警保局長より呉鎮守府、地方長官宛電報。 東京付近ノ震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不貞ノ目的ヲ遂行セントシ、現ニ東京市内ニオイテ爆弾ヲ所持シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、石油ヲ注ギテ放火スルモノアリ。 スデニ東京府下ニハ一部戒厳令ヲ施行シタルガ故ニ、各地ニ於テ十分周密ナル視察ヲ加エ、鮮人ノ行動ニ対シテハ厳密ナル取締ヲ加エラレタシ。 九月二日夕刻:警視庁、戒厳令司令部に、朝鮮人による火薬庫放火計画があると報告。
同 :警視庁菅下各警察署に通達。 鮮人中不逞ノ挙ニツイテ放火ソノ他凶暴ナル行為ニイズルモノアリテ、現ニ淀橋・大塚等ニ於テ検挙シタル向キアリ。 コノ際コレラ鮮人ニ対スル取締リヲ厳ニシテ警戒上違算ナキヲ期セラレタシ。 九月三日十六時三十分:海軍省船橋送信所所長電信発信(独断)。全国で受信。
船橋送信所襲撃ノオソレアリ。至急救援頼ム。騎兵一個小隊応援ニ来ルハズナルモ、未ダ来タラズ。 九月四日八時十分:船橋送信所電信発信。
本所(船橋送信所)襲撃ノ目的ヲ以テ襲来セル不逞団接近、騎兵二十、青年団、消防隊等ニテ警戒中、 右ノ兵員ニテハ到底防御不可能ニ付約百五十ノ歩兵ノ急派取計イ度ク、当方面ノ陸軍ニハ右以上出兵ノ余力ナシ。 ■不逞鮮人
震災当時の政治用語。抗日的な運動を行う朝鮮人に対し、官憲が用いた呼称。 この言葉にも当然、「朝鮮人」と同じ問題が付きまとう。 朝鮮人による、さらにすさまじい回想がある。
所謂自警団、青年団等は「朝鮮人」と叫ぶ高声に一呼百応して狼の群の如くに東西南北より集まり来たり、 一人の吾が同胞に対し数十人の倭奴<日本人>が取り捲きつつ剣にて刺し銃にて射、棒にて打ち、足にて蹴り転がし、死せしものの首を縛り曳きずりつつ猶も刺し蹴りつつし屍体にまでも陵辱をくわえたり、 婦人等を見れば両便(ママ)より左右の足を引き張り生殖器を剣にて刺し一身を四分五裂にしつつ、女子は如斯にして殺すこと妙味ありと笑ひつゝ談話せり…… 身体を電信柱に縛り付け先ず眼球を抉り鼻を切り落とし、其の哀痛の光景を充分眺めた上、腹を刺して殺したるものあり……。
(姜徳相・他編『現代史資料・6』みすず書房、一九六三年) 考えられないような殺害方法であるが、朝鮮人すなわち被害者側の怨念のこもった誇張した表現ではない。
実は私は最初これだけ読んだ時には、朝鮮人の表現にはしばしば誇張表現がみられるので、その特有の誇張表現ではと思ったのである。 そのように思わせるほどの残虐な殺し方である。 しかし誇張表現ではなかった。補強証言がある。 まだ若いらしい女(女の死体はそれだけだった)が腹をさかれ、六、七ヵ月になろうかと思われる胎児が、はらわたのなかにころがっていた、
その女の陰部に、ぐさりと竹槍がさしてあった、 という記録を日本人自身が残している(姜徳相・他編『現代史資料・6』田辺貞之助「女木川界隈」みすず書房、一九六三年)。
なお、付近の別の住民も同じ光景を見ている(『労働運動研究・三七号)湊七良「その日の江東地区」労働運動研究所、一九九二年)。
女性の陰部へ竹槍を刺したという目撃証言は、場所が特定できるものは江東のもの。
したがっておそらく一つの事件、行為が複数の口で語られ、伝聞されていった結果であろう。 (『関東大震災と朝鮮人虐殺』 pp.102-104) 魔女狩りを彷彿とさせる、集団ヒステリーが生んだ狂気か。
この「虐殺」に関する話は、関東大震災を起源とする「防災の日」の各種行事の場面などでも、滅多に触れられる事がないのだという。
この種のイベントは専ら自然災害としての地震の恐ろしさに対する啓蒙を目的に行われるものらしく、天災から派生した人災についてはほとんど言及しないのだそうだ。そして、その現状を無念に思う韓国人・朝鮮人は多い。 参考文献 山岸秀 、2002年、『関東大震災と朝鮮人虐殺 80年後の徹底検証』、早稲田出版 http://www5d.biglobe.ne.jp/~DD2/Rumor/column/earthquake_demagogie.htm
1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生。 この時政府の宣伝 「朝鮮人や社会主義者が震災に乗じて内乱を企てている」
に乗せられた民衆は、社会主義者、労働組合幹部や朝鮮人に対して野蛮なテロを行い、9.3日、亀戸事件により南葛労働組合の指導者・川合義虎らの社会主義者やアナーキストらが亀戸警察署で虐殺された。 9.16日、大杉栄が妻・伊藤野枝、甥(おい)の橘宗一と共に甘粕正彦憲兵大尉に殺害された。 9.7日、政府は、関東大震災時の混乱に対して「治安維持の為の緊急勅令」を公布した。
これは、前に成立を見なかった「過激社会運動取締り法案」を、このたびは天皇の名のもとに議会の審議を要しない緊急勅令という形で公布したということである。 しかし、政府はなお満足せず、やがて治安維持法に向けて着々と周辺整備していく。 「第一次共産党事件」と「関東大震災直後の反動攻勢」に接して、獄中闘争組の中からも解党的方向が提起されたようである。
幸徳秋水の大逆事件、関東大震災時の大杉栄虐殺事件という官憲側のテロル攻勢に「緊急避難」の名目で党の解党止む無し論が強まっていった。 これに関連して福永操は次のように述べている。
「革命運動の犠牲者たちは、人民が(人民のほんの一部でもが)その犠牲の意義をみとめて心の中で支持してくれると思えば、よろこんで死ねるであろう。 なさけないのは、大逆事件関係者に対する日本の一般民衆の反感がものすごかったことであった。 事件そのものにまったく無関係であった社会主義者たちまでが、この事件のとばっちりを受けて、『主義者』というよびかたのもとに一括して世間からつまはじきされて、文字どおり広い世間に身のおきどころもない状態になったことであった。 労働運動も火が消えたような状態になった」(福永1978)。 以下、検証する。
【関東大震災発生】
1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生した。 地震の規模はマグニチュード7.9、震度6であった。 焼失家屋24万戸、崩壊家屋2万4千棟、死者5万9千人、行方不明者を入れると犠牲者は10万人以上という被害が発生した。 これにより関東一円の商工業地区が壊滅的大打撃を受けた。被害総額は当時の金で約100億円(当時の一般会計の6.5年分、現在で数兆円)と推定される。 関東大震災の翌9.2日急遽、軍による戒厳令司令部を設置した。
この日、後藤新平が内務大臣に就任している。 警視庁は、非常事態に備えて臨時警戒本部を設置し、正力官房主事が特別諜報班長になって、不穏な動きを偵察する任務を持ち、その行動隊長として取締まりに専念した。 後藤内務大臣の指揮下で正力が果たした重要な役割は疑問の余地がない。 「内務大臣・後藤新平と正力の繋がり」について
正力は、この後藤新平と深く繋がっており、「直接ルート」の間柄。正力の富山四高時代の友人にして官房主事であった品川主計は、回想録「叛骨の人生」の中で「正力君は、後藤新平内務大臣に非常に信用があった」と記している。
同書に拠れば、越権的な「汚れ役」(ダーティーワーク)仕事を躊躇無く引き受けることで信頼を得ていったとのことである。 「仕事の鬼としての出世主義的性格」が強かった、ということになる。 正力は、後藤内相の下で警視庁警務部長となる。 同時に、財界のご意見番的存在であった郷とも親しくなって行った。 【流言飛語飛び交い、朝鮮人、社会主義者、アナーキストの検束始まる】
直後、
「朝鮮人、中国人、社会主義者、博徒、無頼の徒が放火掠奪の限りを尽くしている」 との噂が飛び交い始めた。 発生源は在郷軍人会、民間自警団辺りからとされているが、今日なお真相不明である。 当時の支配階級は、震災の混乱に乗じて赤化騒乱が引き起こされることを怖れ、「朝鮮人による放火、井戸への投毒」という風評を逆手に取って朝鮮人と社会主義者、アナーキストの検束を始めた。
9.3日、亀戸署には、7百4、50名も検束された労働組合員や朝鮮人がいたと伝えられている。 東京朝日の石井光次郎営業局長の次のような証言がある
「建物は倒壊しなかったものの、9月1日の夕刻には、銀座一帯から出た火の手に囲まれ、石井以下朝日の社員たちは社屋を放棄することを余儀なくされていた。
夜に入って、石井は臨時編集部をつくるべく、部下を都内各所に差し向けた。 帝国ホテルにかけあってどうにか部屋を借りることは出来たが、その日、夜をすごす宮城前には何ひとつ食糧がない。 そのとき、内務省時代から顔見知りだった正力のことが、石井の頭に浮かんだ。 石井は部下の一人にこう言いつけて、正力のところへ走らせた。 『正力君のところへ行って、情勢を聞いてこい。
それと同時に、あそこには食い物と飲み物が集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい』。 間もなく食糧をかかえて戻ってきた部下は、意外なことを口にした。 その部下が言うには、正力から、 『朝鮮人が謀反を起こしているという噂があるから、各自、気をつけろ。 君たち記者が回るときにも、あっちこっちで触れ回ってくれ』 との伝言を託されてきたというのである。 そこにたまたま居合わせたのが、台湾の民生長官から朝日新聞の専務に転じていた下村海南だった。
下村の『その話はどこから出たんだ』という質問に、石井が『警視庁の正力さんです』と答えると、下村は言下に『それはおかしい』と言った。 『地震が9月1日に起るということを、予想していた者は一人もいない。 予期していれば、こんなことになりはしない。 朝鮮人が9月1日に地震がくることを予知して、その時に暴動を起こすことを企むわけがないじゃないか。 流言飛語にきまっている。断じてそんなことをしゃべってはいかん』。 石井は部下から正力の伝言を聞いたとき、警視庁の情報だから、そういうこともあるかも知れないと思ったが、ふだんから朝鮮や台湾問題を勉強し、経験も積んできた下村の断固たる信念にふれ、朝鮮人謀反説をたとえ一時とはいえ信じた自分の不明を恥じた。
正力は少なくとも、9月1日深夜までは、朝鮮人暴動説を信じていた。 いや、信じていたばかりではなく、その情報を新聞記者を通じて意図的に流していた」 内務官僚上がりの石井のこの証言に加えて、戒厳司令部参謀だった森五六の回想談によると、正力は腕まくりして戒厳司令部を訪れ、
「こうなったらやりましょう」と息まいている。 この正力の鼻息の荒い発言を耳にした時に、当時の参謀本部総務部長で後に首相になる阿部信行をして、「正力は気が違ったのではないか」と言わしめたという。
正力にまつわる一連の行動を分析した佐野は、
[正力は少なくとも大地震の直後から丸一日間は、朝鮮人暴動説をつゆ疑わず、この流言を積極的に流す一方、軍隊の力を借りて徹底的に鎮圧する方針を明確に打ち出している] と結論づけている。 更に、警視庁に宛てた亀戸署の内部文書にも、 「この虐殺の原因はいずれも警察官の宣伝にして、当時は警察官のごときは盛んに支鮮人を見つけ次第、殺害すべしと宣伝せり」
と書いてあり、中国人労働者が300人ほど虐殺された大島事件も、正力がこの事件を発生直後から知っていたのは、間違いないと自身を持って断定するのである。 【関東大震災時事件その@、官憲、自警団員による朝鮮人、中国人の虐殺】
当時の支配階級は、震災の混乱に乗じて赤化騒乱が引き起こされることを怖れ、
「朝鮮人による放火、井戸への投毒、襲撃」、 「震災の混乱にまぎれて、朝鮮人と社会主義者が政府転覆を図っている」 という風評を逆手に取って警察と軍による朝鮮人、中国人、社会主義者、社会主義的労働者の検束を始めた。 9.3日、亀戸署には、7百4、50名も検束された労働組合員や朝鮮人がいたと伝えられている。
自警団員による朝鮮人、中国人の虐殺も発生している。 無抵抗の者を陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが一方的に撃ち殺したところに特質がある。この時官憲テロルに倒れた朝鮮人は3千名、中国人は3百名。 その後毎年、9.1日は共産主義運動、朝鮮民族運動の逃走記念日として追悼されていくことになる。 【関東大震災時事件そのA、川合義虎らが虐殺される亀戸事件発生】
9.3日午後10時頃、亀戸事件の被害者となる南葛労働組合の指導者にして共産青年同盟初代委員長にして党員北原龍雄と共に第一次共産党事件後の留守委員会を構成していた川合義虎ら8名の社会主義者と、アナーキスト系の元純労働組合長・平沢計七らが亀戸警察署に拘束監禁された。
9.5日、河合義虎ら7名の革命的労働者(北島吉蔵、山岸実司、吉村光治(南喜一の弟)、加藤高寿、近藤広造、鈴木直一)、アナーキスト系の平沢計七らが亀戸警察署で虐殺された。
これを「亀戸事件」と云う。 その遣り口が憤激に耐えない次のような史実を残している。 古森署長は事後対策を警視庁に上申。この時のこの時の警視庁官房主事が正力松太郎(米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、後特高制度の生みの親であり、読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買った)で、正力は軍隊への応援依頼、千葉県習志野騎兵第13連隊(田村騎兵少尉指揮)がやって来て、留置された中から最も指導能力を有していた危険な人物を選別し、演武場前広場へ引きずり出し、銃剣と軍刀で虐殺した。 その虐殺の様について今日奇跡的に伝えられた二葉の写真があり、これを見るに多数の刺傷はそれとしても生きたまま打ち首にされている。 遺体は家族に引き渡されず、二、三日放置された後、荒川放水路の一般の火葬死体の中に投擲された。 田村少尉らは軍法会議にもかけられておらず、「この乱痴気が軍隊と警察と裁判所、検事局と監獄とを、内部から腐敗堕落させた」(志賀義雄「日本革命運動の群像」)とある。 ちなみに、南喜一は、弟の吉村光治虐殺という権力の横暴に義憤して、共産党活動に入った。 「大正13年の春、私は工場や家を全部処分し、17万円の金をつくつた。 妻子に4万円渡し、13万円を持って、亀戸の南葛飾労働組合に入った。 共産党に入党したのだ」、 「大正15年の共同印刷の争議までは、命ぜられることを名誉とし、火の中でも水の中へでも喜んで飛び込んだ」(「南喜一著作全集」)とある。
【関東大震災時事件そのB、中国人留学生・王希天虐殺事件発生】
この時、東京中華日キリスト教青年会幹事、中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった中国人留学生・王希天は、亀戸署に拉致監禁された上陸軍に引き渡され、陸軍将校の手で斬殺されている。
死体は切り刻まれて川に捨てられた。 警視庁や陸軍の公式発表では「行方不明」。警察と軍の関係を取り持っていたのは、官房主事の正力であった。 10.20日、中国代理公使から王の殺害について抗議が為される。
中国政府は王希天殺害調査団を派遣してくることになり、一気に国際的大事件となった。日本政府はその対応に苦しむことになった。 警視庁はじめとする当局は口裏を合わせて知らぬ存ぜぬの「徹底的に隠蔽するの外無し」対応に終始した。 結局、事件そのものは当時の日中の力関係を反映し、最後にはうやむやのままに葬り去られることになった。 【関東大震災時事件そのC、大杉栄ら虐殺・甘粕憲兵大尉事件発生】
9.16日関東大震災の混乱に際して、アナーキストで社会運動家のリーダー的存在だった大杉栄は妻・伊藤野枝(いとうのえ、28歳)、甥(おい)の橘宗一(たちばなそういち、6歳)と共に甘粕憲兵大尉(あまかすまさひこ、32歳)に殺害された。
享年38歳。妻野技は1895年1月12日生、享年28歳、甥橘宗一は1917年4月12日生、享年6歳。 この日、大杉は、その妻(婚姻はしていなかったので正式には同棲)の伊藤野枝と横浜鶴見にあった弟の家から自宅へ帰る途中に東京憲兵隊本部に検束された。
一緒にいた甥の橘宗一も一緒に連れ去れた。検束された大杉達は、麹町憲兵分隊に連行された。 午後8時頃、取調中だった大杉に対し、部屋に入ってきた憲兵大尉《甘粕正彦がいきなり背後から大杉の喉に右腕を回し締め上げた。
大杉がもがき後ろに倒れると、背中に乗りさらに締め上げ絞殺したと伝えられている。 続いて伊藤野枝も絞殺され、橘宗一は部下の憲兵が殺害し、遺体は憲兵分隊内にあった古井戸に投げ込まれた。 ちなみに甘粕のその後は次の通り。
大杉虐殺事件の軍法会議の進行は非常に早かった。戒厳令下の10.8日に第一回、以後、11.16日、17日、21日の4回で結審となり、12.8日に10年の禁固刑に処せられたものの、軍閥団体の助命運動によって3年で出獄、満州国へ渡り参議の地位に上り詰めていく。 この大杉栄の拘束・殺害が発端となって、軍部による社会主義者の徹底的な弾圧が始まる。
【官房主事・正力松太郎の暗躍】
この時、警察と軍の関係を取り持っていたのは、警視庁官房主事の正力松太郎であった。
これを追跡してみる。正力は米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、特高制度の生みの親であった。 後に読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買うことになる。 9.2日、大震災の翌日急遽、軍による戒厳令司令部が設置された。
船橋の海軍無線送信所から「付近鮮人不穏の噂」の打電が為されている。 今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。 9.3日、「内務省警保局長」名で全国の「各地方長官」宛てに、要約概要「鮮人の行動に対して厳密なる取締要請」電文打たれる。
内務省が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。 実際には「不逞鮮人暴動」は根拠が曖昧で「流言飛語」の観がある。
この指示が官憲、自警団員によるテロを誘発することとなった。
つまり、本来ならば緊急時のデマを取り締まり秩序維持の責任者の地位にある正力が逆に騒動をたきつけていたことになる。 9.5日、警視庁は、正力官房主事と馬場警務部長名で、「社会主義者の所在を確実に掴み、その動きを監視せよ」なる通牒を出している。
9.11日、更に、正力官房主事名で、 「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」命令 が発せられている。
研究者によると、正力が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」のデマを一番最初にメディアを通じて意識的に広め、虐殺を煽ったのは、なんと、官房主事の正力自身であった。 自身も「悪戦苦闘」という本で、 「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。 当局者として誠に面目なき次第」 と弁解しているように、朝鮮人大虐殺の張本人と目されている。
この時、朝日新聞の記者の1人が警視庁で正力官房主事から、 「朝鮮人むほんの噂があるから、君たち記者があっちこっちで触れてくれ」 と示唆されたことを明らかにしている。 しかし、専務の下村海南が「流言飛語に決まっている」と制止したと云う。 「正力の胡散臭さ」について
後に読売新聞の社主となって登場してきた正力松太郎には「負の過去」がある。 関東大震災当時、警視庁官房主事という警察高級官僚であった正力こそ朝鮮人大虐殺の指揮官であった形跡がある。
こういう人物が読売新聞に入り込み、大衆新聞として発展させていく。 その意味で、「読売新聞建て直しの功労者」ではある。 しかし、正力の本領は当時の「聖戦」賛美にあった。 新聞でさんざん戦争を煽った。 これが為、松太郎はA級戦犯指名で巣鴨プリズン入り、死刑になるところを占領軍の恩赦で出所する。 しかし、政権与党に食い入り常に御用記事を垂れ流す体質は戦前も戦後も変わらない。 「読売には権力癒着の清算されていない暗部がある」 こうしたムショ帰りの権力主義者の社主に忠誠を誓い、その負の遺産を引き継ぐことで,出世したのがナベツネといえる。
日本ジャーナリズムの胡散臭さを知る上で、この流れを踏まえることを基本とすべきだろう。 http://www.gameou.com/~rendaico/daitoasenso/what_kyosantosoritu_oosugisakae.htm 正力松太郎の生態はもっと研究されて良いように思われる。 内務省特高課(戦前日帝の諜報・弾圧機関)の創設者にして終始黒幕で在り続けた後藤新平に見出され、米騒動、関東大震災時の「暗躍」で「血塗られた強固な同盟」が確立する。以下、この関係を追跡する。
【後藤新平の履歴(1857〜1929)】
岩手県水沢市の小藩出身。
幕末の蘭学者高野長英の親族。 須賀川医学校を卒業して医師となりも愛知県立病院長を経て内務省に入る。 1892年衛生局長(現在の厚生省事務次官)。 その間ドイツに留学し、プロイセン国家の統一ドイツ建国過程をつぶさに見て、ビスマルク政治に憧憬したと伝えられている。 1895年日清戦争で台湾を割譲させたが、4代目台湾総督になった児玉源太郎が後藤を見出し民政長官となって赴任。 後藤は、「アメと鞭を併用した辣腕政治」で判明するだけで抗日ゲリラ1万1千余名を虐殺している。
結果的に「台湾島民の鎮圧と産業開発で名声を高めた」。 後藤は、台湾総督府初代民政長官を皮切りに、以後、
1906年満鉄初代総裁、1908(明治41)年桂太郎内閣の下で逓信大臣兼鉄道院総裁、1916(大正5)年寺内正毅内閣の下で内務大臣、 続いて1918(大正7).4.23日外務大臣、 山本権兵衛内閣の下で内務大臣再任を歴任し、晩年に伯爵の位を得ている。 植民地政策の統合参謀本部・満鉄調査部を設置したのも後藤である。
未解明であるが、阿片政策にも手を出しており、その収入が機密費として縦横に駆使された形跡がある。 その政治的軌跡は、伊藤博文の後継者。後藤は言論統制に著しく関与している。
1919(大正8)年、後藤は、寺内内閣の総辞職を機会に欧米視察の旅に出た。 訪問先はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スイス、オランダ。 帰国するやいなや、「大調査機関設立の議」建白書を政府に提出している。 これは、アメリカのCIA(中央情報局)のような強力な組織を設立せよという構想であった。 【内務省】
内務省は、一口で云えば「天皇制警察国家」と呼ばれる当時の大日本帝国の最高官庁であった。
要するに内政にかかわる一切の行政権を一手に握っている中央官庁であった。 現在の機構に当て嵌めれば、国家公安委員会、警察庁、公安調査庁、消防庁、自治省、厚生省、労働省、建設省、農林省の一部、法務省の一部、文部省の一部的機能を持つ官庁であった。 全国の知事と高級官僚は、内務官僚が任命し派遣するというシステムで、地方行政は市町村議会の監督権まで含めて内務省が握っていた。 内務官僚は、天皇直属であり、平常時の警察機構、緊急時の法律に対抗する緊急勅令権、警察命令権を握っており、いわば万能であった。 大逆事件の年の1911(明治44)年に高等課特高係(特高)が新設され、後に特別高等部に昇格し、得意な指揮系統を持つ事になった。
新聞の統制など言論動向の調査は特高の中の検閲課の任務であり、更に全国の警察機構の元締め内務省警保局の図書課でも行われた。 両者の関係は、図書課が本庁であり、検閲課は出先機関となる。 内務省本省の図書課は、後藤新平内務大臣時代の1917(大正6).9月、直接の声係りでロシア革命への対応を意識して拡張された。
同時に警視庁の人員増強も要請され、当時の6000名が6年後には1万2000名に倍増された。特高も同時期に12名から80名へと約7倍化している。 【正力松太郎の履歴(1857〜1929)】
1885(明治18).4.11日、富山県の土建請負業の旧家に生まれる。 青春時代を柔道に打ち込む。 1911(明治44)年、東京帝国大学法科大学独語科卒業(26歳)。 翌年に内閣統計局に入り、高等文官試験に合格し、1913(大正2).6月、警視庁に雇用される。 直ちに警部となり、翌年に警視、日本橋堀留署長となる。 1917年、第一方面監察官。
1918(大正7)年、米騒動鎮圧に一役買い、勲章を貰う。 1919(大正8)年、刑事課長。 1920(大正9)年、普通選挙大会の取締まり、東京市電ストの鎮圧。 1921(大正10)年、警視庁で警視総監に次ぐbQの位置とされる官房主事となり、高等課長を兼任(36歳)。 本人自身が「私ほど進級の早いのはいません」(「週間文春」1965.4.19日)と語っている。
1923(大正12)年、正力の警視庁官房主事、共産党の猪俣津南雄宅にスパイを送り込み、早稲田大学研究室の捜査、6.5日、第一次共産党検挙を指揮した。
「米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、後特高制度の生みの親であり、 読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、 軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買った」。 「関東大震災時の暗躍」
1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生した。
関東大震災の翌9.2日急遽、後藤新平が内務大臣に就任し、非常事態に備えて軍は戒厳令司令部を、警視庁も臨時警戒本部を設置した。
この時、正力は官房主事であったが、特別諜報班長になって不穏な動きの偵察、取締まりに専念した。 後藤内務大臣の指揮下で正力が果たした重要な役割は疑問の余地がない。 今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。
「不逞鮮人暴動」に如何ほどの根拠があったのか不明であるが、本来ならば緊急時のデマを取り締まり秩序維持の責任者の地位にある正力が逆に騒動をたきつけていたことになる。
こうして、内務省が流した「朝鮮人暴動説」が全国各地の新聞で報道され、この指示が官憲、自警団員によるテロを誘発することとなった。 後藤−正力ラインが警戒したのは、社会主義者の動きであった。
9.5日、警視庁は、正力官房主事と馬場警務部長名で、「社会主義者の所在を確実に掴み、その動きを監視せよ」なる通牒を出している。 9.11日、正力官房主事名で、「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」命令が発せられている。 後藤−正力ラインはこうした通達のみならず、実際に迅速に先制的官憲テロをお見舞いしていった。
@、官憲、自警団員による朝鮮人、中国人の多数虐殺、
A、川合義虎らが虐殺される亀戸事件、 B、中国人留学生・王希天虐殺事件、 C、大杉栄ら虐殺・甘粕憲兵大尉事件) 等が記録されている。 http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mascomiron_yomiurico2.htm
「朝鮮人来襲の虚報」または「朝鮮人暴動説」の発端については、軍関係者が積極的に情報を売りこんでいたという報告がある。
民間の「流言」が先行していた可能性も、完全には否定できない。 しかし、その場合でも、すでにいくつかの研究が明らかにしているように、それ以前から頻発していた警察発表「サツネタ」報道が、その感情的な下地を用意していたのである。 いわゆる「不逞鮮人」に関する過剰で煽情的な報道は、四年前の一九一九年三月一日にはじまる「三・一運動」以来、日本国内に氾濫していた。 しかも、仮に出発点が「虚報」や「流言」だったとしても、本来ならばデマを取り締まるべき立場の内務省・警察関係者が、それを積極的に広めたという事実は否定しようもない。「失敗」で済む話ではないのである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-5.html 関東大震災に便乗した治安対策
陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒
正力が指揮した第一次共産党検挙が行われたのは、一九二三年(大12)六月五日である。 それから三か月も経たない九月一日には、関東大震災が襲ってきた。 このときの警視庁の実質的な現場指揮者は、やはり正力であった。 この一九二三年という年は、日本全体にとっても正力個人にとっても激動の年であった。 月日と主要な経過を整理し、問題点と特徴を明確にしておきたい。 六月五日に、第一次共産党検挙が行われた。
この時、正力は官房主事兼高等課長だった。 九月一日に、関東大震災が起きた。正力の立場は前とおなじだった。 一二月二七日には、虎の門事件が起きた。この時、正力は警務部長だった。 虎の門事件の際、警備に関して正力は、警視総監につぐ地位の実質的最高責任者である。 警視総監の湯浅倉平とともに即刻辞表を提出し、翌年一月七日に懲戒免官となった。 ただし、同じ一月二六日には裕仁の結婚で特赦となっている。 以上の三つの重大事件を並べて見なおすと、
第一次共産党検挙と虎の門事件の背景には、明らかに、国際および国内の政治的激動が反映している。 その両重大事件の中間に起きた関東大震災は、当時の技術では予測しがたい空前絶後の天災であるが、この不慮の事態を舞台にして、これまた空前絶後で、しかも、その国際的および国内的な政治的影響がさらに大きい人災が発生した。 朝鮮人・中国人・社会主義者の大量虐殺事件である。 さて、以上のように改めて日程を整理してみたのは、ほかでもない。本書の主題と、関東大震災における朝鮮人・中国人・社会主義者の大量虐殺事件との間に、重大な因果関係があると確信するからである。
そこで以下、順序を追って、虐殺、報道、言論弾圧から、正力の読売乗りこみへと、その因果関係を解き明かしてみたい。 どの虐殺事件においても明らかなことは、無抵抗の犠牲者を、陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが、一方的に打ち殺したという事実関係である。
正力は、当然、秩序維持の責任を問われる立場にあった。 正力と虐殺事件の関係、正力の立場上の責任などについては、これまでにも多数の著述がある。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-1.html 「朝鮮人暴動説」を新聞記者に意図的に流していた正力
正力自身も『悪戦苦闘』のなかで、つぎのように弁明している。
「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。警視庁当局者として誠に面目なき次第です」 これだけを読むと、いかにも素直なわび方のように聞こえるが、本当に単なる「失敗」だったのだろうか。 以下では、わたし自身が旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』執筆に当たって参考にした資料に加えて、それ以後に出版された新資料をも紹介する。 いくつかの重要な指摘を要約しながら、正力と虐殺事件の関係の真相にせまってみる。 興味深いことには、ほかならぬ正力が「ワンマン」として君臨していた当時の一九六〇年に、読売新聞社が発行した『日本の歴史』第一二巻には、「朝鮮人暴動説」の出所が、近衛第一師団から関東戒厳令司令官への報告の内容として、つぎのように記されていた。 「市内一般の秩序維持のための〇〇〇の好意的宣伝に出づるもの」 この報告によれば、「朝鮮人暴動説」の出所は伏せ字の「〇〇〇」である。 伏せ字の解読は、虫食いの古文書研究などでは欠かせない技術である。
論理的な解明は不可能ではない。 ここではまず、情報発信の理由は「市内一般の秩序維持」であり、それが「好意的宣伝」として伝えられたという評価なのである。 「市内一般の秩序維持」を任務とする組織となれば、「警察」と考えるのが普通である。さらには、そのための情報を「好意的宣伝」として、近衛第一師団、つまりは天皇の身辺警護を本務とする軍の組織に伝えるとなると、その組織自体の権威も高くなければ筋が通らない。 字数が正しいと仮定すると、三字だから「警察」では短すぎるし、「官房主事」「警視総監」では長すぎる。「警視庁」「警保局」「内務省」なら、どれでもピッタリ収まる。 詳しい研究は数多い。 『歴史の真実/関東大震災と朝鮮虐殺』(現代史出版会)の資料編によれば、すくなくとも震災の翌日の九月二日午後八時二〇分には、船橋の海軍無線送信所から、「付近鮮人不穏の噂」の打電がはじまっている。 翌日の九月三日午前八時以降には、「内務省警保局長」から全国の「各地方長官宛」に、つぎのような電文が打たれた。
「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において、爆弾を所持し、石油を注ぎて、放火するものあり、 すでに東京府下には、一部戒厳令を施行したるが故に、各地において、充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」 正力の『悪戦苦闘』における弁解は、「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました」となっていた。
では、この「虚報」と正力の関係、「失敗」の経過は、どのようだったのだろうか。 記録に残る限りでは、正力自身が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」の噂を一番最初に、メディアを通じて意識的に広めようとしたのは、なんと、正力自身なのである。
シャンソン歌手、石井好子の父親としても名高かった自民党の大物、故石井光次郎は、関東大震災の当時、朝日新聞の営業局長だった。
石井は内務省の出身であり、元内務官僚の新聞人としては正力の先達である。 震災当日の一日夜、焼け出された朝日の社員たちは、帝国ホテルに臨時編集部を構えた。 ところが食料がまったくない。 石井の伝記『回想八十八年』(カルチャー出版社)には、つぎのように記されている。 「記者の一人を、警視庁に情勢を聞きにやらせた。当時、正力松太郎が官房主事だった。
『正力君の所へ行って、情勢を聞いてこい。
それと同時に、食い物と飲み物が、あそこには集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい[中略]』といいつけた。 それで、幸いにも、食い物と飲み物が確保できた。 ところが、帰って来た者の報告では、正力君から、 『朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ』
と頼まれたということであった」
ところが、その場に居合わせた当時の朝日の専務、下村海南が、「それはおかしい」と断言した、 予測不可能な地震の当日に暴動を起こす予定を立てるはずはない、
というのが下村の論拠だった。 下村は台湾総督府民政長官を経験している。 植民地や朝鮮人問題には詳しい。 そこで、石井によると、「他の新聞社の連中は触れて回ったが」、朝日は下村の「流言飛語に決まっている」という制止にしたがったというのである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-2.html 東京の新聞の「朝鮮人暴動説」報道例の意外な発見
ただし、石井の回想通りに、朝日が「朝鮮人暴動説」報道を抑制したのかどうかについては、いささか疑問がある。
内務省筋が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。 『大阪朝日』は九月四日、「神戸に於ける某無線電信で三日傍受したところによると」、という書き出しで、さきの船橋送信所発電とほぼ同じ内容の記事を載せた。
『朝日新聞社史/大正・昭和戦前編』には、震災後の東京朝日と大阪朝日の協力関係について、非常に詳しい記述があるが、なぜか、大阪朝日が「朝鮮人暴動説」をそのまま報道した事実にふれていない。 『大阪朝日』ほかの実例は、『現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人』に多数収録されている。
この基本資料を無視する朝日の姿勢には、厳しく疑問を呈したい。 東京の新聞でも、同じ報道が流されたはずなのであるが、現物は残っていないようである。
わたしが目にした限りの関東大震災関係の著述には、東京の新聞の「朝鮮人暴動説」の報道例は記されていなかった。 念のためにわたし自身も直接調べたが、地震発生の九月二日から四日までの新聞資料は、実物を保存している東京大学新聞研究所(現社会情報研究所)にも、国会図書館のマイクロフィルムにも、まったく残されていなかった。 たしかに地震後の混乱もあったに違いないが、そのために資料収集が不可能だったとは考えにくい。
報知、東京日日(現毎日)、都(現東京)のように、活字ケースが倒れた程度で、地震の被害が軽い社もあった。 各社とも、あらゆる手をつくして何十万部もの新聞を発行していたのである。 各社は保存していたはずだから、九月一日から四日までの東京の新聞の実物が、まるでないというのはおかしい。 戒厳令下の言論統制などの結果、抹殺されてしまった可能性が高い。 ところが意外なことに、『日本マス・コミュニケーション史』(山本文雄編著、東海大学出版会)には、新聞報道の「混乱」の「最もよい例」として、「九月三日付けの『報知』の号外」の「全文」が紹介されていた。
要点はつぎのようである。 「東京の鮮人は三五名づつ昨二日、手を配り市内随所に放火したる模様にて、その筋に捕らわれし者約百名」
「程ヶ谷方面において鮮人約二百名徒党を組み、一日来の震災を機として暴動を起こし、同地青年団在郷軍人は防御に当たり、鮮人側に十余名の死傷者」
同書の編著者で、当時は東海大学教授の山本文雄に、直接教えを乞うたところ、この号外の現物はないが、出典は『新聞生活三十年』であるという。
実物は国会図書館にあった。著書の斉藤久治は当時の報知販売部員だった。
同書には、新聞学院における「販売学の講演」にもとづくものと記されている。 発行は一九三二年(昭7)である。のちの読売社長、務台光雄は元報知販売部長で、同時代人だから、この二人は旧知の仲だったに違いない。 ところが、この二人が残した記録は、肝心のところで、いささか食い違いを見せるのである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-3.html 号外の秘密を抱いて墓場に入った元報知販売部長、務台光雄
務台の伝記『闘魂の人/人間務台と読売新聞』(地産出版、以下『闘魂の人』)には、務台が、震災直後から一週間ほど社の講堂で寝泊まりしたことやら、その奮闘ぶりが克明に描き出されている。
「活字が崩れてしまったので、大きい活字を使って、号外のような新聞を、四日には出すところまでこぎつけた」ということになっている。 ところが、『新聞生活三十年』には、「写真1」のような「九月一日」付けの報知号外のトップ見出し部分のみが印刷されているのである。 「四日」と「一日」とでは、この緊急事態に際しては大変な相違がある。 謎を解く鍵の一つは、まず、『別冊新聞研究』((4)、77・3)掲載、「太田さんの思い出」という題の、務台自身の名による文章である。
そこでは、「直ちに手刷り号外の発行を行う一方、本格的新聞の発行に着手、まず必要なのは用紙だ」となっている。 地震で電気がこないから、輪転機が動かせない。 輪転機用の巻紙もない。 だが、活字を組んでインクを塗れば、「手刷り」印刷は可能だった。 しかも、「手刷り」には、もう一つの手段があった。 さきの『新聞生活三十年』を出典とする「朝鮮人暴動説」の号外は九月三日付けだが、「写真2」のようなガリ版印刷である。
本文中には、「汗だくになって号外を謄写版に刷る」という作業状況が記されている。 務台のフトコロ刀といわれた元中部読売新聞社長、竹井博友の著書、『執念』(大自然出版局)によると、電気がこないので九月九日まで、「四谷の米屋からさがしてきたガス・エンジンでマリノニ輪転機を動かして」いたという。
普段よりは印刷能力が低かったので、手刷りやガリ版印刷で補ったのであろう。 晩年の務台から直接取材したという『新聞の鬼たち/小説務台光雄(むたいみつお)』(大下英治、光文社)では、震災当日に「手刷り」と「謄写版」の号外を出した事を認めている。 つまり、務台自身が、段々と真相の告白に迫っていたのだ。 もう一つの手段は、近県の印刷所の借用である。
斉藤久治の表現によれば、「報知特有の快速自動車ケース号(最大時速一時間百五十哩)」で前橋の地方紙に原稿を届け、九月七日までに、「数十万枚を東京に発、送し、市内の読者に配ることに成功した」という。 さて、そこからが一編の歴史サスペンスを感じさせるところである。 『新聞生活三十年』の本文には、問題の号外の文章は復原されていない。 そのほかにも本文には、「朝鮮人暴動説」報道に関しての記述はまったくないのである。 「写真2」は同書の実物大(WEB上の注:87ミリ×53ミリ)である。 もともとのガリ版が乱筆の上に、かなりかすれている。 しかも、極端に縮尺されているから、拡大鏡で一字一字書き写してみなければ、判読できない状態である。 結果から見て断言できるのは、「写真2」のガリ版号外が、『新聞生活三十年』の本文の記述を裏切っているということである。 奇妙な話のようだが、当時の言論状況を考えれば、真相は意外に簡単なことかもしれない。
著者の斉藤が、手元に秘蔵していたガリ版号外の内容を後世に伝えるために、検閲の目を逃れやすいように判読しがたい状態の写真版にして、印刷の段階で、すべりこませたのかもしれないのである。 わたしは、このガリ版号外の件を『噂の真相』(80・7)に書いた。 読売の役員室に電話をして務台自身の証言を求めたが、返事のないまま務台は死んでしまった。 あの時代の人々には、この種の秘密を墓場まで抱いていく例が多いようだ。残念なことである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-4.html 「米騒動」と「三・一朝鮮独立運動」の影に怯える当局者
「朝鮮人来襲の虚報」または「朝鮮人暴動説」の発端については、発生地帯の研究などもあるが、いまだに決定的な証拠が明らかではない。
軍関係者が積極的に情報を売りこんでいたという報告もある。 民間の「流言」が先行していた可能性も、完全には否定できない。 しかし、その場合でも、すでにいくつかの研究が明らかにしているように、それ以前から頻発していた警察発表「サツネタ」報道が、その感情的な下地を用意していたのである。 いわゆる「不逞鮮人」に関する過剰で煽情的な報道は、四年前の一九一九年三月一日にはじまる「三・一運動」以来、日本国内に氾濫していた。
しかも、仮に出発点が「虚報」や「流言」だったとしても、本来ならばデマを取り締まるべき立場の内務省・警察関係者が、それを積極的に広めたという事実は否定しようもない。「失敗」で済む話ではないのである。 さきに紹介した「内務省警保局長出」電文の打電の状況については、「船橋海軍無線送信所長/大森良三大尉記録」という文書も残されている。 歴史学者、松尾尊兌の論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」(『思想』93・9)によると、 大森大尉は、 「朝鮮人襲来の報におびえて、法典村長を通じて召集した自警団に対し四日夜、 『諸君ノ最良ナル手段ト報国的精神トニヨリ該敵ノ殲滅ニ努メラレ度シ』 と訓示したために現実に殺害事件を惹起せしめ」たのである。 九月二日午後八時以降と、一応時間を限定すれば、「噂」「流言」、または「好意的宣伝」を積極的に流布していたのは、うたがいもなく内務省筋だったのである。
なお、さきの船橋発の電文例でも、すでに「戒厳令」という用語が出てくる。 「戒厳」は、帝国憲法第一四条および戒厳令にもとづき、天皇の宣告によって成立するものだった。 前出の『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』では、この経過をつぎのように要約している。 「一日夜半には、内相官邸の中庭で、内田康哉臨時首相のもとに閣議がひらかれ、非常徴発令と臨時震災救護事務局官制とが起草された。
これらは戒厳に関する勅令とともに二日午前八時からの閣議で決定され、午前中に摂政の裁可を得て公布の運びとなったのである」 前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」によると、この戒厳令公布の手続きは、「枢密院の議を経ない」もので「厳密にいえば違法行為である」という。
ただし、このような閣議から裁可の経過は、表面上の形式であって、警視庁は直ちに軍の出動を求め、それに応じて軍も「非常警備」の名目で出動を開始し、戒厳令の発布をも同時に建言していた。 戒厳令には「敵」が必要だった。
警察と軍の首脳部の念頭に、一致して直ちにひらめいていたのは、一九一八年の米騒動と一九一九年の三・一朝鮮独立運動の際の鎮圧活動であったに違いない。 首脳部とは誰かといえば、おりから山本権兵衛内閣の組閣準備中であり、臨時内閣に留任のままの内相、水野錬太郎は、米騒動当時の内相だった。 その後、水野は、三・一朝鮮独立運動に対処するために、朝鮮総督府政務総監に転じた。 震災当時の警視総監、赤池濃は、水野の朝鮮赴任の際、朝鮮総督府の警務部長として水野に同行し、一九一九年九月二日、水野とともに朝鮮独立運動派から抗議の爆弾を浴びていた。
震災発生の九月一日、東京の軍組織を統括する東京衛戍司令官代理だった第一師団長、石光真臣は、水野と赤池が爆弾を浴びた当時の朝鮮で、憲兵司令官を勤めていた。 つまり、震災直後の東京で「市内一般の秩序維持」に当たる組織の長としての、内相、警視総監、東京衛戍司令官代理の三人までもが、朝鮮独立運動派から浴びせられた爆弾について、共通の強い恐怖の記憶を抱いていたことになる。 さらに軍関係者の方の脳裏には、二一か条の要求に反発する中国人へのいらだちが潜んでいたにちがいない。 その下で、警視庁の実働部隊の指揮権をにぎる官房主事、正力は、第一次共産党検挙の血刀を下げたままの状態だった。 正力自身にも、朝鮮総督府への転任の打診を受けた経験がある。 かれらの念頭の「仮想敵」を総合して列挙すると、朝鮮人、中国人、日本人の共産党員または社会主義者となる。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-5.html 戒厳司令部で「やりましょう」と腕まくりした正力と虐殺
戒厳司令部の正式な設置は、形式上、震災発生の翌日の午前中の「裁可」以後のことになる。だが、震災発生直後から、実質的な戒厳体制が取られたに違いない。
前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」には、当時の戒厳司令部の参謀だった森五六が一九六二年一一月二一日に語った回想談話の内容が、つぎのように紹介されている。 「当時の戒厳司令部参謀森五六氏は、正力松太郎警視庁官房主事が、腕まくりして司令部を訪れ 『こうなったらやりましょう』 といきまき、阿部信行参謀をして 『正力は気がちがったのではないか』 といわしめたと語っている」 文中の「阿部信行参謀」は、当時の参謀本部総務部長で、のちに首相となった。
これらの戒厳司令部の軍参謀の目前で、腕まくりした正力が「やりましょう」といきまいたのは、どういう意図を示す行為だったのであろうか。 正力はいったい、どういう仕事を「やろう」としていたのだろうか。 「気がちがったのではないか」という阿部の感想からしても、その後に発生した、朝鮮人、中国人、社会主義者の大量「保護」と、それにともなう虐殺だったと考えるのが、いちばん自然ではないだろうか。 森五六元参謀の回想には、この意味深長な正力発言がなされた日時の特定がない。
だが、「やりましょう」という表現は、明確に、まだ行為がはじまる以前の発言であることを意味している。
だから、戒厳司令部設置前後の、非常に早い時点での発言であると推測できる。 警察と軍隊は震災発生の直後から、「保護」と称する事実上の予備検束を開始していた。 その検束作業が大量虐殺行動につながったのである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-6.html 「社会主義者」の「監視」と「検束」を命令していた警視庁
関東大震災後の虐殺事件では、直接の殺人犯を二種類に分けて考える必要がある。
第一の種類は、いわゆる「流言」「噂」または「情報操作」にあおられて、朝鮮人や中国人を無差別に殺した一般の自警団員などの民衆である。 前項で検討した材料から判断すれば、虐殺を煽ったのは正力ほかの警察官であり、こちらの方がより悪質な間接殺人犯である。 背後には日本の最高権力の意思が働いていた。 同じ中国人の殺害でも、のちにくわしくふれる王希天のような指導者の場合には、ハッキリと「指名手配」のような形で拉致監禁され、しかも、職業軍人の手で殺されている。
日頃から敵視していた相手を、地震騒ぎに乗じて殺したことが明らかである。 朝鮮人についても同じような実例があったのかもしれない。 社会主義者の虐殺に関与したのは、明白に、警察と軍隊だけであった。 これらの、相手を特定した虐殺の関与者が、第二の種類の職業的な直接的な殺人犯である。 その罪は第一の種類の場合よりもはるかに重いし、所属組織の上層部の機関責任をも厳しく問う必要がある。 上層部による事後の隠蔽工作は、さらに重大かつ悪質な政治犯罪である。 正力らが犯した政治犯罪を明確にするために、虐殺事件の問題点を整理してみよう。
中国人指導者の王希天や日本人の社会主義者の場合には、かれらが警察と軍の手で虐殺されたのは、いったん警察に「指名手配」のような形で拉致監禁されたのちのことである。 警察の方では、軍に身柄を引き渡せば殺す可能性があるということを、十分承知の上で引き渡している。 軍の方が虐殺業務の下請けなのである。 当時の制度では、戒厳令のあるなしにかかわらず、市内秩序維持に関するかぎりでは警視庁の要請で軍が動くのであった。 全体の指揮の責任は、警視庁にあった。警視庁と戒厳司令部の連絡に当たっていたのは、官房主事の正力であった。 『巨怪伝』では、つぎのような経過を指摘している。
「九月五日、警視庁は正力官房主事と馬場警務部長名で、 『社会主義者の所在を確実につかみ、その動きを監視せよ』 という通牒を出した。 さらに十一日には、正力官房主事名で、 『社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ』 という命令が発せられた」 これによると、「社会主義者」の「監視」または「検束」に関する警視庁の公式の指示は、九月五日以後のことのようである。
ところが、「亀戸事件」の犠牲者、南葛労働組合の指導者、川合義虎ら八名の社会主義者が亀戸署に拉致監禁されたのは、それ以前の「三日午後十時ごろ」なのである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-7.html 「使命感すら感じていた」亀戸署長の暴走を弁護する正力
『関東大震災と王希天事件/もうひとつの虐殺秘史』(田原洋、三一書房、以下『関東大震災と王希天事件』)では、川合義虎ら八名の社会主義者が近衛騎兵によって虐殺された「亀戸事件」の経過を細部にわたり、「時系列にしたがって検分」している。
かれら八名の社会主義者が 「三日午後十時ごろ、理由も何もなく、狙い打ちで検束されてしまった」 時点では、十一日の「検束」命令どころか、五日の「監視」通牒さえ出ていなかったのである。 亀戸署管内では、別途、それに先立って、中国人大量虐殺の「大島事件」と、反抗的な自警団員四名をリンチ処刑した「第一次亀戸事件」も発生している。
署長の古森繁高は、社会主義者らの生命を奪うことに「使命感すら感じていた」という点で、「人後に落ちない男」であった。 古森は、「朝鮮人暴動説」が伝えられるや否や、自ら先頭に立ってサイドカーを駆使して管内を駆け巡り、「二夜で千三百余人検束」し、「演武場、小使室、事務室まで仮留置場にした」のである。
社会主義者の検束に当たって古森が「とびついた」のは、「三日午後四時、首都警備の頂点に立つ一人、第一師団司令官石光真臣」が発した「訓令」の、つぎのような部分であった。
「鮮人ハ、必ズシモ不逞者ノミニアラズ、之ヲ悪用セントスル日本人アルヲ忘ルベカラズ」 つまり、社会主義者が朝鮮人の「暴動」を「悪用」する可能性があるから、注意しろという意味である。 『20世紀を動かした人々』(講談社)所収の「正力松太郎」(高木教典)には、正力が亀戸事件について語った当時の新聞談話が収録されているが、つぎのような説明ぶりで、古森署長の行動の後追い弁護になっている。 「実際、二日、三日の亀戸一帯は、今にも暴動が起るという不安な空気が充満し、二日夜も古森署長は部下の警官を集めて決死の命令を下す程、あたかも無警察の状態で、思想団、自警団が横行していたそうで、
軍隊の力を頼んで治安維持を保つべく、ついにこうしたことになったのであるが、 今回の事件はまったく法に触れて刺殺されたものである。 警官が手を下したか否かは、僕としては、軍隊と協力、暴行者を留置場外に引き出したことは事実であるが、刺殺には絶対関与していないと信ずる」 この新聞談話から、社会主義者にかかわる部分を抜き出して、検討してみよう。
まずは、「思想団」が「横行していたそうで」というが、そのような事実があったと主張する歴史書は皆無である。 つぎには、「法に触れて刺殺」と断定していうが、せいぜいのところ、留置場のなかで抗議の大声を挙げたり、物音を立てたぐらいのことであって、 そのどこがどういう「法に触れ」たのかの説明がまったくない。 「暴行者を留置場外に引き出したことは事実」としているが、これも同じ趣旨である。 正力はいったい、どの行動を指して「暴行」だと断定しているのだろうか。 最後の問題は、「[警察側が]刺殺には絶対関与していないと信ずる」という部分にある。
正力としては、虐殺の責任を「軍隊」になすりつけ、監督責任を逃れたかったのであろう。 だが、すでに指摘したように、当時の制度では警視庁の要請で軍が動くのであった。 『関東大震災と王希天事件』には、古森署長がみずからしたためた「第一次亀戸事件」に関する報告が収録されている。
警視庁が編集した『大正大震火災誌』からの引用である。 引き渡しの理由は、「兵器ヲ用ウルニアラザレバ之ヲ鎮圧シガタキヲ認メ」たからだとなっている。 古森は、「兵器」による「鎮圧」を予測しつつ、または希望しつつ、反抗的な自警団員四名を軍に引き渡したのだ。 結果は、違法なリンチ処刑だった。 この四名の自警団員の場合は、道路で日本刀を持って通行人を検問していた。
警官が検問の中止を勧告したところ、「怒って日本刀で切りかかった」のだそうである。本人たちは、警察が流した「朝鮮人暴動説」に踊らされていたわけだから、中止勧告が不本意だったのだろう。 留置場内で警察の悪口を並べ、「さあ殺せ」とわめいたりしたようである。 「結局、軍・警察の処置は妥当と認められ、四人は死に損となった」とあるが、リンチ処刑が「横行」するような「無警察」状態を演出したのは、いったいどちらの方なのだろうか。 しかも、『関東大震災と王希天事件』ではさらに、この四日夜の「第一次亀戸事件」を、川合義虎ら八名の社会主義者の虐殺、いわゆる「亀戸事件」への導火線になったのではないかと示唆している。 反抗的な自警団員四名の引き渡し以後、留置場内は「前にもまして騒然となった」のである。そこで「古森は、ついに五日午前三時」、川合らを騎兵隊に引き渡した。同書では時系列の記述の最後を、つぎのように結んでいる。 「古森は『失態』を告発する恐れのある川合らを抹殺した。 両次亀戸事件の犠牲者十四人の死体は、こっそり大島八丁目に運ばれ、多くの虐殺死体にまぎれて焼却された」 同書はまた、この「両次亀戸事件」に、中国人指導者王希天虐殺事件と大杉栄ら虐殺事件に共通する「パターン」を指摘する。
「法にしばられる警察は、自ら手を下さずとも、戒厳令下で異常な使命感と功名心に燃え狂っている中下級軍人を、ちょっとそそのかすだけで、目的をとげることができた」のである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-8.html 留学生で中華民国僑日共済会の会長、王希天の虐殺事件
さらに重大な問題は、すでに何度か記した在日中国人の指導者、王希天の虐殺事件であった。
ここで「さらに重大な問題」と記した意味には、虐殺そのものとは別の側面も含まれている。 この事件は、読売の紙面が輪転機にかける鉛版の段階で削除されるという事態を招いていた。 つまり、この事件は、本書の主題の読売の歴史に、深い影を落としているのだ。 元警視庁警務部長が、こともあろうに首都の名門紙に「乗りこむ」という事態は、一種の政治犯罪を予測させる。
だが、およそ重大な犯罪の背景には、間接的または一般的な状況だけではなくて、直接的な契機、または引くに引けない特殊な動機があるものである。 とくに、一応は正常な社会人として通用してきた人物を「重大な犯罪」に駆り立てるためには、それだけ強力で衝動的な動機が必要である。 わたしは、この事件の真相を知ることによって初めて、長年の、もどかしい想いの疑問の核心部分に達したと感じる。 読売の紙面の鉛版削除という稀有な事態を招いたこの事件こそが、正力の読売「乗りこみ」という、これまた稀有な事態の直接的な動機だと、確信するに至ったのである。 関東大震災と朝鮮人・社会主義者の虐殺の関係は一応、一般にも広く知られている。
だが、虐殺の被害者の中でも「中国人」の三文字は、これまで付け足りのようだった。 とくに知られていなかったのは、王希天虐殺事件そのものと、その国際的な重要性であった。 中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった中国人留学生、王希天は、陸軍将校から斬殺されていた。 「行方不明」と発表されていた王希天の捜査、調査活動は、当時の政界、言論界を揺るがす国際的な大事件に発展していたのである。 一九九五年には、さまざまな角度から日本の戦後五〇年が問われた。
試みに、その年の暮れの集まりで会った在日朝鮮人の研究者と、駐日特派員の中国系ジャーナリストに、「王希天虐殺事件を知っていますか」という質問を向けてみた。 案の定、二人とも、まったく知らなかった。 詳しく話すと、真剣な表情で耳を傾けてくれたのちに、「大変に貴重な情報を教えていただき、ありがとうございました」と、ていねいにお礼をいわれた。 その後、何人かの日本人ジャーナリストにも同じ質問を向けてみたが、やはり、王希天の名を知っている人は非常に少ない。 ただし、わたし自身も数か月前に知ったばかりで、自慢などできる立場ではなかった。「五十歩百歩」そのものである。 王希天が代表としてノミネートされる中国人の大量虐殺事件については、いまから七三年前の一九二三年(大正12)、関東大震災の直後に、中国政府が派遣した調査団が訪日している。
日本政府が対応に苦慮した国際的大事件である。ではなぜ、そんな大事件が、いまだに広くどころか専門家にさえ知られていないのだろうか。 中心的な理由は簡単である。
当時、日本政府首脳が「徹底的に隠蔽」の方針を決定し、全国の警察組織を総動員して、新聞雑誌(放送は発足前)報道をほぼ完全に押さえこんだからである。 基本的には、そのままの言論封鎖状況が続いているのだ。 王希天は、関東大震災の直後、亀戸署に留置されたのち陸軍に引き渡され、以後、警視庁や陸軍の公式発表では「行方不明」となっていた。
陸軍当局も、当時は警視庁官房主事兼高等課長の正力松太郎を実質的責任者とする警視庁も、王希天殺害の事実を知りながら、国際的追及の最中、必死になって、ひた隠しにしていた。 実際には王希天は、陸軍の野戦重砲第三旅団砲兵第一連隊の将校たちにだまされて連れ出され、背後から軍刀で切り殺されて、切り刻まれて川に捨てられていた。 事件そのものは、当時の日中の力関係を反映し、最後には、賠償問題さえうやむやのままに葬り去られた。 象徴的なドラマは、「支那(ママ)人惨害事件」と題する読売新聞(23・11・7)の社説および関連記事の周辺に展開された。
同社説(別掲)と記事をそのまま載せた地方向けの早版は、少部数だが輪転機で刷り出され、発送まで済んでいたのだが、急遽、検閲で不許可、発売禁止となり、各地で押収されたのである。 同時に、その問題の紙面には、「写真3、4」のような鉛版段階での削除という稀有の処置が取られた。 関係資料は十数点ある。
戦後最初の大手メディア報道は、毎日新聞(75・8・28夕)の「『王希天事件』真相に手掛かり/一兵士の日記公開/『誘い出して将校が切る』」だが、同記事の段階ではまだ、王希天殺害についての証言は、所属部隊の一兵士の「伝聞」にしかすぎない。 以後、日本の研究者、ジャーナリストらの招きで、王希天の遺児が来日した際に、数件の報道があった。 しかし、残念ながら、それらの報道の中には、当時の言論弾圧状況の紹介がなかった。 専門雑誌の記事、少部数の単行本、断片的なマスコミ報道、それだけでは世間一般どころか普通の企業ジャーナリストの目にさえ、「事件は存在しない」と同様である。 わたしが湾岸戦争以来、「マスコミ・ブラックアウト」と名付けている現象である。 王希天事件の場合には、この現象が意識的かつ政治的に作り出され、しかも、約四分の三世紀にもわたって続いていることになる。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-1.html 「震災当時の新聞」による偶然の発掘から始まった再発見
おおげさなようだが、わたし自身も、この問題に関する「マスコミ・ブラックアウト」の被害者の一人である。
というのは、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』執筆の際、わたしは王希天について何も知らなかった。 正力と関東大震災後の虐殺事件の関係を調べるために、何冊かの関係書に当たったが、そこには王希天のことは書いてなかった。 実際には、すでにそのころ、雑誌論文や何冊かの単行本に、王希天に関する研究が発表されはじめていたのだが、わたしの資料探索は、そこまで達していなかったのである。 旧著の発表後にも、つぎつぎと新たな資料が発表されていた。
前出の『関東大震災と王希天事件』の終章の題は「事件発掘史」となっているが、それによれば、王希天に関して戦後に最初の国内論文が発表されたのは一九七二年である。 関西大学講師の松岡文平は、『千里山文学論集』(8号)に「関東大震災と在日中国人」を発表した。 その研究の発端の説明は、「震災当時の新聞に、王の『行方不明』が大きく報じられているのに疑問を抱き」始めたからとなっている。 つまり、当時の新聞を調べていたら、偶然、「王希天」というキーワードに突き当たったわけである。 一九七五年に出版された『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)には、松岡論文を米軍押収資料など裏付け、さらに発展させた横浜市立大学教授、今井清一の研究が収められている。
だが、その時点では、王希天虐殺の事実については、つぎのような推測の範囲にとどまっている。 「野重[野戦重砲第三旅団砲兵]第一連隊の将校が、おそらく旅団司令部の意もうけて人に知られない時間と場所とを選んで殺害したのであろう」 『甘粕大尉』の著者、角田房子は、一九七九年に同書の中公文庫版の「付記」として、つぎのように記している。
「『甘粕大尉』執筆中私は、関東大震災直後のドサクサの中で惨殺された王奇天を調べたが、努力の甲斐もなく確かな資料を見つけることが出来なかった。 本書初版は昭和五十[一九七五]年七月二十五日に出版された。それから一ヵ月後、八月二十八日の『毎日新聞』夕刊に『「王奇天事件』真相に手掛り/一兵士の日記公開』という記事と、王奇天の経歴が発表された。関連記事は九月一日夕刊にもあった」 角田は「希」を「奇」と誤記している。わたしの旧著、『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』(汐文社、79刊)は、この『甘粕大尉』の「付記」が書かれたのと同じ年の、一九七九年に出版されている。そのころまでは、こんな状況だったのである。 さきの毎日報道から七年後、『関東大震災と王希天事件』の著者、田原洋(よう)は、王希天を殺した本人の「K中尉」こと、元砲兵中尉(のち大佐)の垣内八州男を探し当てた。 垣内は、拉致された王希天の「後ろから一刀を浴びせた」ことを認める。 「[殺害を指示した佐々木大尉]は、上から命令を受けておったと思います。…… 後で、王希天が人望家であったと聞いて……驚きました。 可哀そうなことをしたと……[殺害現場の]中川の鉄橋を渡るとき、いつも思い出しましたよ」、 などと、その後の心境を、ポツリ、ポツリと告白する。 『将軍の遺言/遠藤三郎日記』(宮武剛、毎日新聞社、86刊)は、毎日新聞の連載記事をまとめたものである。
のちに紹介するが、遠藤は当時、垣内中尉の直属上官だった。 つい最近の一九九三年に発行された『震災下の中国人虐殺/中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか』(仁木ふみ子、青木書店、以下『震災下の中国人虐殺』)には、「日本側資料について」の項目がある。 それによると、「軍関係資料」の内、参謀本部関係は米軍による接収以前に処分されており、防衛庁戦史資料室には皆無である。 警視庁関係は米軍に接収され、現在は国会図書館と早稲田大学で一部のマイクロフィルムを見ることができる。 一部の、しかし、きわめて貴重な資料が、外務省外交史料館に、「一目につかない工夫をして保存」されていたようである。 『関東大震災/中国人大虐殺』(岩波ブックレット、91刊)の著者でもある仁木ふみ子は、以上のような資料探索の結果、ついに、外務省外交資料館に眠っていた「まぼろしの読売新聞社説」までを発見した。 これだけの材料が揃っているのを知ったとき、とりわけ、「まぼろしの読売新聞社説」の「発見」について、最初に『巨怪伝』の記述を目にしたとき、徐々に、そしてなお徐々に徐々に、長年の疑問と戦慄の想いが、わたしの胸の奥底からこみ上げ、背筋を走り、全身に広がり始めた。 これらの発見は、わたし自身にとっても、大変な半生のドラマの一部だったのである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-2.html 「相手は外国人だから国際問題」という理解の重大な意味
以上の資料に接するより一六年前、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』の仕上げの段階で、わたしは一応、国会図書館のマイクロ・フィルムで当時の読売の記事を検索していたのである。
そこには明らかに、輪転機にかける鉛版の段階での削除と見られる紙面があった。だが、その時には、それ以上の詳しい追及をする時間の余裕がなかった。 そこで旧著では、「なお、読売新聞の紙面そのものの細部にわたる調査も必要である」という心覚えを残し、つぎの点だけを中間報告として記しておいたのである。 「実物をみると、関東大震災の記事に、相当量の、鉛版段階における全面削除がみられる。一部の残存文字から察するに、震災時の朝鮮人、社会主義者に関する記事であることに間違いない」 ところが、「間違いない」と断定的に書いた記事内容の推測は、不十分であった。 まずは「中国人」が抜けていた。 拡大した「写真5」で見れば、全面を削り取られた一九二三年一一月七日の読売記事の残存文字のなかには、明らかにルビ付きで「王希天氏(おう き てん し)」とあるのだが、その意味が、当時のわたしには分からなかった。 その左隣の、やはりルビ付きの「震災當(しん さい たう)時鮮人(せん じん)」の方だけに気を取られて、王希天を朝鮮人だと思い込んでしまったのである。 残念といえば残念だが、わたしは、長年の戦慄の想いに終止符を打ち、この訂正と調査不足の告白を余儀なくしてくれた諸氏の研究に感謝する。 『関東大震災と王希天事件』の著者、田原洋の場合には、わたしとはまったく逆で、偶然の機会に王希天事件の存在を知り、それから追跡取材を開始した。
念のために田原本人にも直接聞いて確かめたが、田原は別の用向きで、元陸軍中将の遠藤三郎と会った。 話がたまたま関東大震災当時におよび、遠藤が、当時は大尉で、江東地区の第一線の中隊長だったと語った。 田原が「大杉栄が殺されましたね」と相槌を打つと、遠藤は意外なことを語りだした。 正確を期すために、田原の著書の方から引用すると、遠藤は、「大杉栄どころじゃない。もっと大変な(虐殺)事件があったんだ」と言い出した。 「オーキテンという支那人(原文傍点有り)労働者の親玉を、私の部隊のヤツが殺(ヤ)ってしまった。 朝鮮人(原文傍点付有り)とちがって、相手は外国人だから、国際問題になりそうなところを、ようやくのことで隠蔽(いんぺい)したんだ」 文中の支那人(原文傍点有り)と朝鮮人(原文傍点有り)の傍点は、田原が付けたものである。 遠藤が育った時代の用語そのままだから、別に他意はないと思う。 最大の問題は「相手は外国人」の部分にある。 わたしの場合、この部分を自分のワープロで入力した時に、初めて、その意味の重大さに気付いた。 それまでの頭の中では、「朝鮮人・中国人・社会主義者」を、関東大震災の際の「虐殺被害者」という項目で一括して考えていたのである。
「虐殺」を告発する立場の人々の多くは、わたしと同じ錯誤に陥っている可能性が高いと思う。 ところが、立場が違えば、同じ物が別の角度から見える。時の権力の頭の中では、「朝鮮人・中国人・社会主義者」の三者は、まったく別の項目で整理されていたのである。 とくに「中国人」は、別扱いの「外国人」だった。 監督官庁としても外務省が加わるから、行政上では決定的な違いが出てくる。 震災時の朝鮮人の大量虐殺事件も、もちろん重大であるし、国際的にも非難を浴びた。
しかし、当時の国際法の秩序からいえば、植民地保有とその支配自体は非合法ではない。 許しがたいことではあるにしても、いわゆる欧米列強の帝国主義国を中心とする国際外交上で考えるかぎりでは、日本人の社会主義者の虐殺問題と同様の国内問題である。 ところが、中国人の虐殺となると、当然のことながら、明確に外国人の虐殺であり、国際外交上の問題とならざるをえない。 だから遠藤は、「大杉栄どころじゃない」と語ったのである。 しかも、当時の日本は、満鉄の利権拡大を中心に、中国東北部への侵略の意図を露骨にしていた。
第一次世界大戦中の一九一五年(大4)には、火事場泥棒で奪った旧ドイツ領の青島に増兵を送って威圧を加えながら、対中国二一ヵ条要求を突き付け、その内の一六ヵ条を承認させていた。 中国の内部での反日運動も高まっていたし、国際的な批判も日を追って増大していた。 だから、「中国人指導者・王希天」の虐殺は、現在の日本人が感じるよりも、はるかに重大な国際問題だったのである。 その後の資料探索で、田原は読売の紙面の削除を知り、紙面の検索をしている。田原は、事前に、その削除された紙面の執筆者が、中国通の著名記者、小村俊三郎だということまで知っていた。
「中国問題に詳しい小村俊三郎」については、『読売新聞百年史』にも非常に簡単ながら、その「入社」が、松山社長時代の項に記録されている。それだけのキャリアが認められる人物だったのである。 しかし、削除された紙面の内容については、まだ、残存文字という手掛りしかない。田原は、非常に残念そうに、つぎのように記していた。 「削除された記事は、いまとなっては復原の方法はない。 『読売』のバックナンバーは、削られた白紙のままだし、小村も記録は残していない」 田原はさらに、つぎのような想像を付け加えていた。 「そこで推測するしかないが、この記事の筆者は小村俊三郎記者であった。 彼は期するところがあって、ある“過激な”記事を書こうとした。検閲にかけたのでは通りっこないから、何らかの策を使って『鉛版』をとり、ともかく早版を刷り出すところまでは行った。 が、いよいよ近郊版を刷ろうとしたところで誰かにストップをかけられてしまった。 鉛版工のベテランが、指定された記事に削り(のみを使う)を入れる。…… と、そのとき、小村が必死の形相で近より『ここだけ削り残してくれ』と耳打ちする。 あるいは何らかの方法で、小村の“頼み”が伝えられた。 残せといった文字は『王希天』の三文字であった。 この三文字が残っていれば、何が書かれていたか、およその察しはつくのである」 田原の想像は、おそらく「当たらずといえども遠からず」であろう。 さきにも記したし、「写真3」で明らかなように三文字のみではないが、「王希天氏(おう き てん し)」と「震災當(しん さい たう)時鮮人(せん じん)」という決定的に重要なキーワードだけが、なぜか明瞭に残っているのだ。 とうてい偶然の結果とは思えない。 戒厳令が敷かれていた当時のことだから、その鉛版がはまっていた輪転機の側には、警察官、それもかなり重要な地位の検閲のベテランが、にらみを利かせていたのではないだろうか。 そうだとすれば、まさに、その目の前で、緊迫の鉛版削りのドラマが展開されていたことになる。 この想像のドラマの緊迫感が、わたしの全身に、いい知れぬ戦慄を走らせるのだ。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-3.html 「まぼろしの読売社説」の劇的発見! 分散して資料を温存か?
さて、それだけのドラマを秘めた削除紙面の実物が、また、なんとも劇的なことには、その後に発見されたのである。
削除は二か所にわたっていて、二面は社説、五面は関連記事であった。 「写真6、7」の「要保存/発売禁止トナレル読売新聞切抜」がそれである。 発見者の仁木は、元日教組婦人部長である。 会ってみると、かつてのいかめしい肩書きとは違って、優しい教師そのままの気さくな人柄だった。 「定年後に時間ができて、ただただシラミ潰しに探し回っただけのことですから……」と、静かにほほ笑む。 とくに事前にお願いしたのでもないのに、貴重この上もない発見資料のコピーをも用意してくれていた。 わたしは、それを押し頂いて、発見の経過をうかがった。 仁木は、『震災下の中国人虐殺』の中で、つぎのように記している。
「これは『要保存、発売禁止となれる読売新聞切抜』と墨書されて、外務省外交資料館にひっそりとしまわれていたのであった」 この「ひっそりと」という表現の裏にも、おそらく大変な戦慄の人間ドラマが潜んでいたようなのである。 仁木は、「人目につかない工夫をして保存」されていたという表現もしている。 くわしくは同書を参照していただきたい。 何か所にも分かれて外務省外交資料館の資料管理状況が記されている。 とりあえず簡略に要約紹介すると、「書類を分散させて一見関係なさそうな項目の下に配列し」てあったのである。 最後には、つぎのように謎を解く鍵の人名が出てくる。 「だれがこのような文書配列をしたのであろうか。
事件の結末に何とも納得できなかった一青年事務官が、歴史の検証の日に備えて、暗号のように分散させ保管したのではなかったか。 かれの名は多分守島伍郎である。後の駐ソ大使、戦後は自由党代議士一期。 日本国連協会専務理事、善隣学生会館理事長をつとめ、一九七〇年、七〇歳で亡くなった」 田原によれば、守島は、「同じ外交出身のワンマン吉田茂(一八七八〜一九六七)とは一定の距離を保ち、『オレは社会党から出てもおかしくはない』と語ることもあった」という。
いわゆるリベラル派であろう。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-4.html 中国側の調査団は「陸軍の手で殺されたと思う」と語って帰国
さて、以上はまだ、王希天虐殺事件をめぐる緊迫のドラマの導入部にしかすぎない。
もう一度、物語の主人公を紹介し直し、この事件の国際的および国内的な位置付け、引いては歴史的な意味を確認し直したい。 王希天は、当時はエリートの留学生で、その後に満州国がデッチ上げられる中国東北部の吉林省から来日していた。 推定二七歳。東京中華留日キリスト教青年会の幹事、および中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった。 1948年、東京にて、前列右から周恩来、王希天 写真提供:仁木ふみ子
事件発生当時においても、日本国内の報道よりも中国での報道の方が早かった。
『中華日報』(23・10・17)の社説では、「共済会長王希天が警察に捕らわれたまま行方不明」という事態を「故意の隠蔽」と疑い、「軍、警察の手」によって「殺された」可能性を指摘していた。 仁木はさらに、王希天の出身地、長春、吉林省の新聞、『大東日報』(23・11・1)の記事から、つぎのような憤激の呼び掛けの部分を紹介している。 「本件発生につき考うるに彼等は吾に人類の一分子と認めざる方法を試みたるものなり。
吾々もし放任し、彼等を問罪せず黙認せば吾々は人間にあらざるなり。同胞起きて醒めよ」 情報源は、捜索に当たった王希天の友人の留学生や、震災発生後、上海に送還された中国人労働者たちだった。
上海や吉林省などの現地の憤激を背景にして、北京政府も調査団を日本に派遣した。 日本側当局は事実の隠蔽に終始したが、中国側代表団は帰国する前に日本の外務省書記官に対して、「王希天は大杉栄同様陸軍の手で殺されたと思う」と語っていた。 『震災下の中国人虐殺』では、「まぼろしの読売新聞社説」という小見出しを立てて、つぎのように指摘している。 「十一月七日、『読売新聞』の朝刊は発売禁止となり、二面の社説と五面の記事を削りとって、この部分は空白のまま発行された。 政府に強烈なインパクトを与えたといわれる『まぼろしの読売社説』は復原すると次のようである」 以下、二面の社説、「支那人(ママ)惨害事件」の全文は、巻末(367頁・WEB版(15)資料)に小活字で紹介する。 とりあえず要約すると、「惨害」の犠牲者を「総数三百人くらい」としている。 「支那人労働者の間に設けられた僑日共済会の元会長王希天も亀戸署に留置された以後生死不明となった事実」を指摘し、「重大なる外交問題」の真相を明らかにしないのは、「一大失態」だと論じている。 結論部分は、「本事件に対する政府の責任は他の朝鮮事件、甘粕事件同様、我が陸軍においてその大部分を負担すべきはずである。[中略] 故に吾人は我が国民の名において最後にこれをその陸軍に忠言する」となっている。 仁木は、この「まぼろしの読売新聞社説」を、つぎのように評価している。 「戒厳令下の執筆であるが、実に堂々たる論調である。[中略] 一本の筆に正義を託す記者魂が厳然とそこに立つ」 同時に鉛版から削除された五面の記事は、
「支那政府を代表し抗議委員が来朝する/王氏外百余名の虐殺事件につき精査の上正式に外務省へ抗議申込/我態度を疑う公使館」 という三段大見出しで、本文約八〇行である。 これは、もしかするとわたしの新発見なのかもしれないが、削除された二面の社説の下のベタ記事を眺めていたら、「虐殺調査委員/支那から派遣する」という本文七行の「北京四日国際発」電が残っていた。 いずれも記事の本文では「調査委員」または「特別委員」となっているのに、見出しで「抗議委員」または「虐殺調査委員」と表現している。 社説の題にも「惨害」とある。 当時の読売新聞のデスクの、この事件に対する判断基準が伝わってくるような気がする。 読売の全面削除された社説は当然、王希天その人と中国側の動きを知り、その惨殺の事実を知るか、またはその事実にせまりつつあったジャーナリストの存在を示している。 全面削除の社説を執筆した小村俊三郎(一八七二〜一九三三)は、「外務省一等通訳官退職後、東京朝日、読売、東京日日など各新聞社で中国問題を論評、硬骨漢として知られる中国通第一人者」だった。 王希天事件については、その後も独自の調査を続け、外務省に「支那人被害の実情踏査記事」と題する報告書を提出している。 しかもこの小村俊三郎は、日露戦争後のポーツマス条約締結で有名な小村寿太郎と、祖父同士が兄弟の再従兄弟の関係にあった。 いわば名家の出でもあるし、もともと東京の主要名門紙に寄稿するコラムニストなのだから、顔も広い。 政府筋が個人的に攻撃すれば逆効果を生み出しかねない。 当時の松山社長時代の読売には、そういう人材が集まっていたのである。 『巨怪伝』では、当時の読売の報道姿勢を、つぎのように指摘している。 「大杉栄殺害の事実を、時事と並んでいち早く号外で報じたことにも示されるように、関東大震災下に起きた一連の虐殺事件の真相と、政府の責任を最も鋭く追及したのが読売新聞だった」 もしかすると、内務省関係者は、田原が想像したような、「王希天」の三文字をかすかに残す印刷現場でのひそかな抵抗のドラマにも気付いて、警戒の念を高めていたのかもしれないのである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-5.html 九二四件の発売禁止・差押処分を大手紙の社史はほぼ無視
さて、ここで愕然とせざるをえないのは、日本の三大新聞、朝日・毎日・読売、すべての社史に、ほぼ共通する実情である。
王希天虐殺事件はもとより、関東大震災下の言論弾圧に関しての記述が、あまりにもお粗末なのである。 まずは前項の「まぼろしの読売社説」の件であるが、『読売新聞百二十年史』を最新とする読売の社史には、たったの一行の記述もない。 それどころか、関東大震災後に報道規制があったことすら、まったく記されていない。 改めて呆れはしたが、読売のことだから、さもありなんと諦めた。 毎日新聞はどうかというと、『毎日新聞七十年』にはまったく記載がないが、最新の『毎日新聞百年史』には、つぎのように記されている。
「新聞は“大杉栄殺し”を直感したが、戒厳令下、報道の自由はなかった」 ただし、これだけでは、陸軍憲兵隊による社会主義者大杉栄の一家惨殺事件のみが、報道規制の対象になったかのような、誤解が生れかねない。 「王希天」の三文字はもとより、「朝鮮人」という単語も、「中国人」という単語もない。 朝日の場合も、『朝日新聞の九十年』には確かに、「惨禍の中で特報や号外を連発」の見出しはある。 「『大阪朝日』数十万部を増刷して、船と汽車で東京に送」ったことなどの奮闘の経過は、八頁にもわたって克明に記されている。 だがやはり、報道規制の「キ」の字も出てこないのである。 朝日は『百年史』を発行せずに、「百年史編修委員会」名で、創立から数えると一一一年目に当る一九九〇年から『朝日新聞社史』全四巻の社内版発行を開始し、一九九五年から全巻を市販している。 本文六五九頁の第二巻、『朝日新聞社史/大正昭和戦前編』には、つぎのように記されている。 「震災直後の流言からおこった社会主義者や朝鮮人の陰謀騒ぎで多数が殺された事件の実態は、九月二日に出された戒厳令によって報道が差し止められ、東朝[東京朝日]は十月二日になってその一部の報道が許された」 ここでかろうじて「朝鮮人」という単語が、報道差し止めとの関係で登場する。 しかし、「中国人」も「王希天」もない。 この状況は、いかにも不自然であり、不都合なのである。
国際的にも評判の「横並び」方式による隠蔽工作が、いまだに継続されているのではないかとさえ思えるのである。 歴史的な資料がなかったわけではない。 さきに挙げたほかにも、たとえば、『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会、75刊)では、これらの一連の虐殺事件に関する「ジャーナリズムの沈黙と右傾化」と、それを促進した権力の「強圧」を指摘している。 出典として『災害誌』(改造社編)などを挙げており、当時の新聞統制の模様を、つぎのように要約している。 「甘粕事件、内鮮人殺害、自警団暴挙に関する差止事項を掲げた日刊新聞で、発売頒布を禁止されたものは、寺内内閣当時の米騒動の際における処分に比すべきものと見られ、 新聞紙の差押えが、十一月頃まで殆ど三十以上に及び、一新聞紙の差押えが優に二十万枚に達したものがあった」 ただし、ここにも「中国人」が登場しないという弱点があるし、さらには、この数字でも実は、まだまだ控え目だったようなのである。
おそらく、ここでいわれている「米騒動の際における処分に比すべきもの」という水準をはるかに越えていたに違いない。 日本の言論弾圧の歴史上、最大規模の問題として根本的な見直しをせよ、日本のメディア史の研究をやり直すべきだと、強調せざるをえないのである。 『関東大震災と王希天事件』の著者、田原は、当時の内務省警保局図書課の秘密報告を入手し、「表1」の「(秘)震災に関する記事に依り発売禁止並びに差押処分に付せられたる新聞件数調」を作成している。 「総件数」は、なんと、さきの『災害誌』の「三十以上」という数字を一桁以上も上回り、「九二四件」に達しているのである。 その内、「亀戸警察署刺殺事件に関する記事」(王希天行方不明記事を含む)と分類されているものだけでも、「三〇件」である。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-6.html 後藤内相が呼び掛けた「五大臣会議」で隠蔽工作を決定
これだけの言論弾圧を行った当時の内務大臣は、いったい誰だったのであろうか。
おりから新内閣の組閣中で、 関東大震災発生の九月一日までは留任中の水野錬太郎(一八六八〜一九四九)、 二日からは再任の後藤新平(一八五七〜一九二九)だった。 つまり、内務大臣としては水野の先輩に当る後藤が、この激動の際に、二度目の要職を引き受けていたのである。 後藤が果たした役割については、『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』に、つぎのように記されている。
「一〇月中旬に王希天の行方不明が報道され、同二〇日に中国代理公使から王の殺害について抗議をうけると、日本政府も対策の検討をすすめた。
内務省当局では大島事件、王希天事件を両者とも隠蔽する意見で、 一一月七日には閣議のあと後藤内相、伊集院彦吉外相、平沼騏一郎法相、田中陸相、それに山本首相も加わって協議したうえ、 『徹底的に隠蔽するの外なし』と決定し、中国がわとの応対方法については警備会議に協議させることになった」 この「閣議のあと」の「協議」については、『関東大震災と王希天事件』にも『震災下の中国人虐殺』にも、さらに詳しい記述がある。
内務省や外務省の関係者の記録が残されているからである。 「協議」の場は「五大臣会議」と通称されている。 本稿の立場から見て、もっとも重要なことは、この「五大臣会議」が行われた「一一月七日」という日付である。 つまり、「まぼろしの読売社説」を掲載した少部数の早版が、輪転機で刷り出されてしまい、その後に急遽、鉛版が削られた日付なのである。 日付の一致は偶然どころではない。 これこそが「協議」開催の原因であることを示す明白な記録が、すでにたっぷりと発掘されているのである。 閣議後に協議を呼び掛けたのは後藤である。 だが、内務大臣の後藤が「五大臣会議」を発案したという経過の裏には、なにやら、ご都合主義の謀略的な臭気がただよう。 本来の建て前からいえば、内務省は、犯罪を捜査し、処罰すべき主務官庁である。
ところが後藤個人は、すでに簡略に紹介したように、外務大臣時代に推進したシベリア出兵とそれに続く米騒動に際して、外務省の霞倶楽部の記者たちと紛争を起こしたり、報道取締りの先頭に立ったりしていた。 メディア界の進歩的勢力とは激しい対立関係にあった。 すでに紹介したように「新聞連盟」結成工作、ただし時期尚早で実らず、などの「新聞利用」なり「新聞操縦」政策を展開していた。 ラディオ放送の支配に関する構想をも抱いていたはずである。 後藤は、しかも、首相の座を狙う最短距離にいた。 その機会に備えて、メディア界の敵対分子を排除したいと腹の底で願っていた可能性は、非常に高い。 当の読売社説の内容自体も重大な問題ではあったが、それを逆手を取って政府部内の主導権を握り、一挙に、かねてからの狙いを実現しようと図ったのではないだろうか。 政府部内の主導権を握る上では、王希天の虐殺事件は絶好の材料だった。 後藤と田中陸相とは不仲だったというし、外務省は国際世論上、日頃から言論統制には消極的だった。 ところが、この際、後藤と相性の悪い陸軍は加害者であり、被告の立場である。 外務省は国際世論対策で四苦八苦である。 いまこそ特高の親玉、内務官僚の出番であった。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-7.html 「荒療治」を踏まえた「警備会議」と正力の「ニヤニヤ笑い」
『関東大震災と王希天事件』では、関係者が残したメモ類を多数収録している。
その日の午後五時から開かれた「警備会議」の冒頭で、岡田警保局長は、つぎのような発言をした。 「本日、急に五大臣会議を開いたのは、今朝の『読売』のためであります。 相手の出方を待つ姿勢で、政府がふらふらしていると、新聞に対する取締まりも徹底を欠くし、むずかしい。 今朝は、 危いところで削除 → 白紙のまま発行 という荒療治になってしまったが、今後は隠蔽の方針も定まったことであるし、お互いに緊密なる連携のもとに、ことを進めたいと思うので、よろしくご協力をお願いします」 早版地区に送られた少部数の「削除前」の読売は、配達直前に押収されていた。 「五大臣会議」の決定は、あくまでも政府段階での正式決定であって、内務省はすでに隠蔽工作を実施していた。 検閲の実務担当者たちは、「まぼろしの読売社説」を目にした時、冷汗三斗の思いだったに違いないのである。 「警備会議」は、実務担当者による実行手段の相談の場である。 そこには、なんと、小村寿太郎の長男の小村欣一が、外務省情報部次長の立場で参加していた。 読売社説の執筆者、小村俊三郎は、東京高等師範学校に在学中、寿太郎の邸宅に書生として住み、この欣一の家庭教師をしていた。 岡田警保局長が、小村たちに事情を話して隠蔽の「諒解を求むる」という方針を報告すると、欣一は、小村たちについて、「主義上の運動者」だから「諒解を求ることすこぶる困難なるべし」という意見をのべ、「考慮を要する」と注意した。 いやはや、こうなると最早、何ともものすごい接近戦である。 敵味方入り乱れての白兵戦の様相である。 関係者たちは、上を下への大騒ぎ、という感じがしてくる。 警視総監の湯浅倉平は「すこぶる沈痛なる態度」であった。 以下、関係者のカナまじりのメモに残された湯浅の「熱心説述」を、ひらがなで読みやすいようにしてみよう。 「本件は、本官のいまだ際会せざる重大問題なり。
本件は実在の事件なれば、これを隠蔽するためには、あるいは新聞、言論または集会の取締をなすにつきても、事実においてある種の『クーデター』を行うこととなる義にて、誠に心苦しき次第なり。 また本件は必ず議会の問題となるべきところ、その際には秘密会議を求め得べきも、少くとも事前あらかじめ各派領袖の諒解を求めおく必要あり。 さればとて、本件の隠蔽または摘発、いずれが国家のため得策なるかは、自分としては確信これ無く、政府において隠蔽と決定したる以上、もちろんこの方針を体し、最善の努力をなすべきも、自分の苦衷は諸君において十分推察されたし」 この「苦衷」を訴えた警視総監、湯浅倉平は、その後、正力松太郎とともに虎の門事件で責任を追って即日辞任届けを提出し、のち懲戒免官、恩赦となる。 警視総監になる以前に岡山県知事、貴族院議員になっていた。 虎の門事件の恩赦以後には、宮内相、内相となっている。 湯浅の発言のあとには、「北京政府が派遣する調査団および民間調査団の調査にどう対処するか、新聞取締などが話題」になった。 新聞取締に関する警保局長の提案は、つぎのようであった。 「適当の機会に主なる新聞代表者を招致し、大島町事件は厳密調査を遂げたるも、結局事実判明せず、 ついては事実不明なるにかかわらず揣摩(しま)憶測して無根の記事を掲載するにおいては、厳重取締をなすべき旨を告げ、 もって暗に発売禁止の意をほのめかせば、効果あるべし」 この発言内容には、当時の言論弾圧の実情が露骨に表れている。
警保局長はさらに、「新聞取締の必要上、戒厳令撤廃の延期」まで提案したが、これには同意者が少く、そのままとなった。 この時にはまだ官房主事兼高等課長だった正力松太郎は、職責からいえば、当然、右の「警備会議」に出席しているはずであるが、以上に挙げた資料の「警備会議」の発言者の中には、正力の名はない。 まだ位が低いのである。 もちろん、研究者たちは、正力の存在を十二分に意識してきた。 田原は、遠藤元中将から直接の証言を得て、詳しい経過を記している。 正力は、遠藤を警視庁に呼び出していた。
「ニヤニヤ笑いを浮かべ」ながら、「聞き込みも一応終わっています」などと脅しを入れた。 すでに後藤と「五大臣会議」の間にただよう「臭気」を指摘したが、この件で、正力または内務省勢力は、陸軍と対等に取り引きができるネタを握ったわけである。 その強みが正力の顔に表われていたのではないだろうか。 田原はさらに、その後の読売への正力の乗りこみと、小村俊三郎の退社との因果関係をも指摘している。 『将軍の遺書』の方には、つぎのような日記添付「メモ用紙」部分の記載がある。 「佐々木兵吉大尉、第三旅団長の許可を得て、王希天のみをもらい受け、中川堤防上にてK[垣内]中尉、その首を切り死がいを中川に流す。[中略] 正力警備課長[警視庁官房主事の誤記]は、その秘密を察知ありしが如きも深く追及せず」 以上、概略の紹介にとどめるが、いやはや、驚くべき本音の記録の連続である。 これらの発言記録を発見したときの、田原ら先行研究者の興奮が、じかに伝わってくるような気がするのである。 事件の翌年、一九二四年(大13)二月二六日に、正力は読売「乗りこみ」を果たす。
同年一〇月四日、読売記者の安成二郎は、築地の料亭で開かれた前編集長千葉亀雄の慰労会での会話を、あとでメモし、「記憶のために」と注記しておいた。 本人が三六年後に自宅で再発見したこのメモは、『自由思想』(60・10)に発表された。 内容のほとんどは、大杉栄ら虐殺事件の関係であるが、その最後の短い(三)は、つぎのようになっている。 「(王希天はどうしたんでせう、軍隊では無いでせうが……)と千葉氏が言うと、 正力氏は(王希天か、ハハハ)と笑って何も言はなかった」 この正力の「ハハハ」という笑い声は、どういう響きのものだったのだろうか。
壮年期の正力の声については、『経済往来』(10・3)に、「男性的で丸みがあり、声量があって曇りがない」と記されている。 六尺豊かの大男が、柔道で鍛え、警官隊を指揮してきたのだったから、それだけの迫力のある声だったに違いない。 だが、「虐殺」の話題で出た「ハハハ」という笑い声には、いわゆる「地獄の高笑い」のような、真相を知りつつとぼける不気味さが、漂っていたのではないだろうか。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-8.html 戒厳令から治安維持法への一本道の上に見る正力の配置
軍や警察当局が恐れていたのは、新聞報道の内容や新聞そのものだけではなかった。
小村欣一の発言にもあったように、「主義上の運動者」の動きもあった。 すでに「警備会議」の「話題」にものぼっていた「民間調査団」がある。 そこには、読売の小村記者以外に、東京日日(毎日系)、大阪毎日、東京朝日の記者が参加していた。 かれらは中国から来日した宗教家の調査団と接触する一方、吉野作造邸で協議をしていた。北京政府が派遣した調査団も、吉野作造邸に立ち寄っていた。 吉野作造(一八七九〜一九三三)は、東大法科卒で、同大教授として政治史を講義していた。
デモクラシーを「民本主義」と訳したことでも知られている。 東大新人会の総帥でもあり、いわゆる大正デモクラシーの理論的主柱ともいうべき存在であった。 後日談になるが、関東大震災の翌年に当たる一九二四年(大13)には、朝日新聞社論説顧問に迎えられ、五か月あまりで退社した。 退社の原因は、「五ヶ条のご誓文は明治政府の悲鳴」という講演内容などを、右翼団体が「不敬罪」として告発したためである。 『朝日新聞の九十年』でも、退社の経過について、「検察当局の意向もあり」と記している。 「不敬罪」の告発自体は不起訴となったが、この件でも朝日は「白虹事件」の時と同様、右翼と検察のチームプレーに屈服したのである。 さて、以上のような状況を背景にしながら、強権の発動による王希天虐殺事件の隠蔽工作が行われたのだが、それはまず戒厳令下にはじまっている。戒厳令は約二か月半も続いた。
解除は一一月一六日である。『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』では、戒厳令の解除後に「かわって憲兵が大増強され、警察官もまたピストルまで配備された上に増員された」と指摘する。 戒厳令下、および以後の虐殺問題報道の全体像をも、調べ直す必要があるだろう。 田原は、王希天虐殺事件の隠蔽工作と大杉殺害事件の関係を、つぎのように示唆する。 「王希天事件は『行方不明』扱いで、十月十七日から二十日にかけて、各紙に掲載された。
『殺害』をにおわせる記述は厳重にチェックされたので、さりげない震災エピソード風に受けとめられ、やがて“関係者”以外には忘れられた。 大杉栄殺害事件で、甘粕らがスケープゴートとなった意味は、単に『犯人』を買って出ただけでなく、報道操作の陽動作戦に必要な犠牲バントとしての役割もあったのである」 大杉栄殺害事件の軍法会議の進行は、非常に早かった。 戒厳令下の一〇月八日に第一回、以後、一一月一六日、一七日、二一日の四回で結審となり、一二月八日には、甘粕に懲役一〇年などの判決が出ている。 この間の新聞報道は、シベリア出兵以来の「反ソ」キャンペーンとも呼応している。 社会主義者への世間一般の反感をも土台にして、甘粕らに同情的な風潮さえ作り出したようである。 その後、甘粕はたったの三年で釈放され、満州国の黒幕となる。
緊急事態を根拠にして公布された「治安維持勅令」は、そのまま法律化され、翌々年の一九二五年(大14)に制定される治安維持法への橋渡しの役割を果たした。 このようなドサクサまぎれの突貫工事によって、外にはシベリア出兵、内には米騒動、関東大震災という人災、天災のはさみうちの混乱のなかで、昭和日本の憲兵・警察支配、治安維持法体制は完成を見たのである。 わたしは、正力の読売「乗りこみ」を、以上の政治状況と深くかかわりながら企まれた一大政治謀略に相違ないと確信している。
さらにさかのぼれば、当時の読売が「出る釘は打たれる」のたとえ通りの襲撃目標に選ばれた理由には、まさに日本のメディア史の矛盾を象徴するような典型的経過があったというべきであろう。 第一の理由は、その明治初年以来の歴史的ブランドである。 第二の理由は、「白虹事件」残党を中心に形成されつつあった大正デモクラシーの「メディア梁山泊」としての位置づけである。 最後の第三の理由、すなわち、「まぼろしの読売社説」をめぐるオロドオドロの衝撃ドラマは、それらの歴史的経過の必然的な帰結であった。 読売は、日本の歴史の悲劇的なターニング・ポイントにおいて、右旋回を強要する不作法なパートナー、正力松太郎の、「汚い靴」のかかとに踏みにじられたのである。 日本の最高権力と、それに追随する勢力は、関東大震災という天災を契機として、大量の中国人とその指導者を虐殺し、卑劣にも、その事実の徹底的な隠蔽を図った。 この虐殺と隠蔽工作とは共に、以後ますます拡大される中国大陸侵略への狼煙の役割を果たした。 正力社長就任以後の読売新聞は、最左翼から急速に右旋回し、「中道」の朝日・毎日をも、さらに右へ引き寄せ、死なばもろとも、おりからのアジア太平洋全域侵略への思想的先兵となった。 正力の読売「乗りこみ」は、いいかえれば、この地獄の戦線拡大への坂道を転げ落ちようとしている日本にとって、雪だるまを突き落とす最初の、指のひと押しの位置づけだったのではないだろうか。 正力本人は、戦後にA級戦犯として巣鴨入りした。 だが、この時も、アメリカの世界政策上の措置によって、その罪は裁かれずに終わってしまった。 今こそ改めて、多数の中国人労働者と王希天の虐殺事件とその報道状況とを、日本のジャーナリズムの歴史の中央に位置づけ直し、事実関係を確認し直すべきなのではないだろうか。 自社の歴史を正確に記して過去を反省するか否かは、また、メディア企業の決定的な試金石でもあろう。 わたしは一応、読売新聞広報部に電話をした。本書に記したような事実を読売新聞は把握しているか、今後の社史などで明らかにする予定があるか、などを問いただした。 しかし、「お答えすべき筋のことではないと思う」という、番犬の唸り声のような返事だけだったので、この件について、本書を「公開質問状」とすると告げた。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-9.html
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