研究者によると、正力が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」のデマを一番最初にメディアを通じて意識的に広め、虐殺を煽ったのは、なんと、官房主事の正力自身であった。 自身も「悪戦苦闘」という本で、 「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。 当局者として誠に面目なき次第」 と弁解しているように、朝鮮人大虐殺の張本人と目されている。
この時、朝日新聞の記者の1人が警視庁で正力官房主事から、 「朝鮮人むほんの噂があるから、君たち記者があっちこっちで触れてくれ」 と示唆されたことを明らかにしている。 しかし、専務の下村海南が「流言飛語に決まっている」と制止したと云う。 「正力の胡散臭さ」について
後に読売新聞の社主となって登場してきた正力松太郎には「負の過去」がある。 関東大震災当時、警視庁官房主事という警察高級官僚であった正力こそ朝鮮人大虐殺の指揮官であった形跡がある。
こういう人物が読売新聞に入り込み、大衆新聞として発展させていく。 その意味で、「読売新聞建て直しの功労者」ではある。 しかし、正力の本領は当時の「聖戦」賛美にあった。 新聞でさんざん戦争を煽った。 これが為、松太郎はA級戦犯指名で巣鴨プリズン入り、死刑になるところを占領軍の恩赦で出所する。 しかし、政権与党に食い入り常に御用記事を垂れ流す体質は戦前も戦後も変わらない。 「読売には権力癒着の清算されていない暗部がある」 こうしたムショ帰りの権力主義者の社主に忠誠を誓い、その負の遺産を引き継ぐことで,出世したのがナベツネといえる。
日本ジャーナリズムの胡散臭さを知る上で、この流れを踏まえることを基本とすべきだろう。 http://www.gameou.com/~rendaico/daitoasenso/what_kyosantosoritu_oosugisakae.htm 1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生した。
関東大震災の翌9.2日急遽、後藤新平が内務大臣に就任し、非常事態に備えて軍は戒厳令司令部を、警視庁も臨時警戒本部を設置した。
この時、正力は官房主事であったが、特別諜報班長になって不穏な動きの偵察、取締まりに専念した。 後藤内務大臣の指揮下で正力が果たした重要な役割は疑問の余地がない。 今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。
「不逞鮮人暴動」に如何ほどの根拠があったのか不明であるが、本来ならば緊急時のデマを取り締まり秩序維持の責任者の地位にある正力が逆に騒動をたきつけていたことになる。
こうして、内務省が流した「朝鮮人暴動説」が全国各地の新聞で報道され、この指示が官憲、自警団員によるテロを誘発することとなった。 後藤−正力ラインが警戒したのは、社会主義者の動きであった。
9.5日、警視庁は、正力官房主事と馬場警務部長名で、「社会主義者の所在を確実に掴み、その動きを監視せよ」なる通牒を出している。 9.11日、正力官房主事名で、「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」命令が発せられている。 後藤−正力ラインはこうした通達のみならず、実際に迅速に先制的官憲テロをお見舞いしていった。
@、官憲、自警団員による朝鮮人、中国人の多数虐殺、
A、川合義虎らが虐殺される亀戸事件、 B、中国人留学生・王希天虐殺事件、 C、大杉栄ら虐殺・甘粕憲兵大尉事件) 等が記録されている。 http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mascomiron_yomiurico2.htm
「朝鮮人暴動説」を新聞記者に意図的に流していた正力
正力自身も『悪戦苦闘』のなかで、つぎのように弁明している。
「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。警視庁当局者として誠に面目なき次第です」 これだけを読むと、いかにも素直なわび方のように聞こえるが、本当に単なる「失敗」だったのだろうか。 以下では、わたし自身が旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』執筆に当たって参考にした資料に加えて、それ以後に出版された新資料をも紹介する。 いくつかの重要な指摘を要約しながら、正力と虐殺事件の関係の真相にせまってみる。 興味深いことには、ほかならぬ正力が「ワンマン」として君臨していた当時の一九六〇年に、読売新聞社が発行した『日本の歴史』第一二巻には、「朝鮮人暴動説」の出所が、近衛第一師団から関東戒厳令司令官への報告の内容として、つぎのように記されていた。 「市内一般の秩序維持のための〇〇〇の好意的宣伝に出づるもの」 この報告によれば、「朝鮮人暴動説」の出所は伏せ字の「〇〇〇」である。 伏せ字の解読は、虫食いの古文書研究などでは欠かせない技術である。
論理的な解明は不可能ではない。 ここではまず、情報発信の理由は「市内一般の秩序維持」であり、それが「好意的宣伝」として伝えられたという評価なのである。 「市内一般の秩序維持」を任務とする組織となれば、「警察」と考えるのが普通である。さらには、そのための情報を「好意的宣伝」として、近衛第一師団、つまりは天皇の身辺警護を本務とする軍の組織に伝えるとなると、その組織自体の権威も高くなければ筋が通らない。 字数が正しいと仮定すると、三字だから「警察」では短すぎるし、「官房主事」「警視総監」では長すぎる。「警視庁」「警保局」「内務省」なら、どれでもピッタリ収まる。 詳しい研究は数多い。 『歴史の真実/関東大震災と朝鮮虐殺』(現代史出版会)の資料編によれば、すくなくとも震災の翌日の九月二日午後八時二〇分には、船橋の海軍無線送信所から、「付近鮮人不穏の噂」の打電がはじまっている。 翌日の九月三日午前八時以降には、「内務省警保局長」から全国の「各地方長官宛」に、つぎのような電文が打たれた。
「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において、爆弾を所持し、石油を注ぎて、放火するものあり、 すでに東京府下には、一部戒厳令を施行したるが故に、各地において、充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」 正力の『悪戦苦闘』における弁解は、「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました」となっていた。
では、この「虚報」と正力の関係、「失敗」の経過は、どのようだったのだろうか。 記録に残る限りでは、正力自身が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」の噂を一番最初に、メディアを通じて意識的に広めようとしたのは、なんと、正力自身なのである。
シャンソン歌手、石井好子の父親としても名高かった自民党の大物、故石井光次郎は、関東大震災の当時、朝日新聞の営業局長だった。
石井は内務省の出身であり、元内務官僚の新聞人としては正力の先達である。 震災当日の一日夜、焼け出された朝日の社員たちは、帝国ホテルに臨時編集部を構えた。 ところが食料がまったくない。 石井の伝記『回想八十八年』(カルチャー出版社)には、つぎのように記されている。 「記者の一人を、警視庁に情勢を聞きにやらせた。当時、正力松太郎が官房主事だった。
『正力君の所へ行って、情勢を聞いてこい。
それと同時に、食い物と飲み物が、あそこには集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい[中略]』といいつけた。 それで、幸いにも、食い物と飲み物が確保できた。 ところが、帰って来た者の報告では、正力君から、 『朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ』
と頼まれたということであった」
ところが、その場に居合わせた当時の朝日の専務、下村海南が、「それはおかしい」と断言した、 予測不可能な地震の当日に暴動を起こす予定を立てるはずはない、
というのが下村の論拠だった。 下村は台湾総督府民政長官を経験している。 植民地や朝鮮人問題には詳しい。 そこで、石井によると、「他の新聞社の連中は触れて回ったが」、朝日は下村の「流言飛語に決まっている」という制止にしたがったというのである。 http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-2.html
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