もう天皇の犯罪を明らかにするしかないだろ: 昭和天皇の身代わりになって処刑された松井石根
ついに本当の事は言えませんでしたね: 「南京事件ではお恥しい限りです。南京入城の後、慰霊祭の時に、シナ人の死者も 一しょにと私が申したところ、参謀長以下何も分らんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、師団長はじめあんなことをしたのだ。 私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などを比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシヤ人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。 政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、 当時とは全く変っておった。 慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが。折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまった、と。ところが、このことのあとで、みなが笑った。 甚だしいのは、或る師団長の如きは「当り前ですよ」とさえいった。 従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている」 http://www.geocities.jp/yu77799/gunjin.html#matuiiwane キーナンは、自分が技巧的に追及してきたその判決を聞いた日の夜、 彼の切り札証言人、田中隆吉と一杯飲みに外出した。彼は酔いにかまけつつ、
「馬鹿げている、まったく馬鹿げた判決だ」と口にした。彼が最も反対してきた判決は、 松井――南京攻略の際、その命令が悪用された痛ましい小柄な大将――の死刑だった。 公正は私に、被告に有罪を決定する際、天皇の免責について再考するよう、求めている。 http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm 鬼頭久二(1916年8月生まれ) 第16師団歩兵第33連隊 第1大隊 南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、 「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」 ちゅう命令やった。 天皇陛下の命令やと言ったな。 当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。 http://www.geocities.jp/kk_nanking/ http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/m/pages/468.html 沢田小次郎(1915年9月生まれ) 第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班
この中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が出ました。つまり虐殺でした。残虐な攻略戦で、その残虐さは南京に入ったらすぐそうでした。 (略) 南京攻略戦はちょっとやりすぎでした。反日の根拠地というので、 南京に入るまでは家を全部焼けという命令がずっと出てました。 するとまた後続部隊が泊まる所がないからといって、家を焼くのを中止したんです。 とにかく「家は全部焼いて、人間は全部殺せ」という命令でした。 命令が出てなかったらこっちはしませんよ。 北支の戦争では「兵隊以外の者は絶対に怪我人を出したらあかん」という命令が出ていました。 だから北支は戦争しにくかったです。 でも南京攻略戦は手当たり次第やったので、戦争がしやすかった。 それももちろん命令があったからです。 皆伝え聞いて分かっていました。中支では、上陸してからずっとやりたい放題にやっとったんです。その代わりこっちの被害も多かったですな。あそこは支那の部隊も集中してました。 http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/ 南京大虐殺は中国からの財宝略奪をカモフラージュする為だった 第二次世界大戦が終結する数ヶ月前、フィリピンにおいて、山下奉文将軍はルソンの山々で遅延活動を闘っていた。 一方、日本の皇室の皇子たちは未来にそなえて準備していた。彼らは略奪した金の延べ棒と、また別の盗んだ財宝を近くの洞穴やトンネルの中に隠すことに忙しかった。
それらは後に発見される運命ではあったのだが。これらは数千年にわたり集積されたアジアの十二の国々の財産であった。 日本陸軍に付属した専門家集団は組織的に、宝庫、銀行、工場、個人の家、質屋、画廊を空っぽにした。 そして一般人からも奪った。 一方、日本のトップの強盗たちはアジアの地下社会と暗黒経済から略奪した。 この点では、日本はナチより遙かに徹底していた。それはあたかも、東南アジアを巨大な掃除機で吸い取っていったかのようだった。 略奪品のほとんどは韓国を通る大陸経由で日本に届けられた。残りは海上輸送であった. どこから、このすべての財宝は来たのか? 今まで、アジアからの日本の略奪は、 酔っ払った兵士による盗みと暴力による、散発的なバラバラな活動として無視されてきた。 しかし、これは偽情報である。 戦争の拡大による略奪は何も新しくはない。 しかし,日本が一八九五年から一九四五年の間に行ったことは、質的に異なっていた。これは酔っぱらいの略奪や打ち壊しではなかった。 日本人は真面目で、しらふで、計画的だった。彼らは普通の泥棒や歩兵たちには 無視されるような、価値のある書籍や写本に特別に注意を向けていた。 彼らはアジアの三合会や暴力団やギャングたちなどの暗黒世界から略奪することに、特に注目し専心していた。 日本は麻薬を持って中国へどっと押し寄せた。その麻薬をギャングたちに与え、交換に黄金を得た。 麻薬は各々の隠された場所から財宝を吸い上げた。個人のレベルでは、拷問は巨頭、部族の長老、銀行家、企業家を含む金持ちの個人を襲うときには当たり前に使われた。 日本に持ち帰られた最も価値ある物品の中に、美術品と歴史的な遺物があった。 今日まで、この世襲財産のごく一部しか盗まれた国や個人に返却されていないという記録がある。 それが問題である。黄金でできた仏像を含む幾つかの主な美術品は、 フィリピンの地下に隠されていたが、最近見つかった。しかし、ほとんどの芸術品と美術品は依然として、日本で個人的に隠匿されているか、東京で皇室の蒐集物となっている。 なぜ、日本がこれを持っていることが許されているのか? 公的には、日本の戦時中のエリート(皇室、財閥、ヤクザ、「いい」官僚たち)は 一握りの「悪い」熱狂的な軍人を生け贄にして、戦争を終えた。 読者がお気づきのように、これは真実ではない。 天皇裕仁を含む日本のエリートたちは、戦争が終わったときには、戦争が始まった時よりはるかに金持ちになっていた。 ある者は終戦前後に、数十億ドルの資産をつくり出した。 http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/571.html
[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理
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