戦争責任をすべてA級戦犯に転嫁させた昭和天皇は、戦争責任を追及されると困るのでA級戦犯を合祀した靖国には参拝できなくなった 昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感・元宮内庁長官が発言メモ
昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)に語っていたことが19日、日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった。昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀以降、参拝しなかったが、理由は明らかにしていなかった。昭和天皇の闘病生活などに関する記述もあり、史料としての歴史的価値も高い。 昭和天皇がある時期から靖国神社を参拝されなくなった理由は「A級戦犯」合祀であろう、という推測が以前からあった。この記事内容が事実であるなら、その推測が資料で裏付けられたことになり意義深いと思う。 首相の靖国参拝問題などの諸問題は、このことで一気に解決するとは思えない。 そこで記事の引用(2件) <昭和天皇>靖国合祀不快感に波紋…遺族に戸惑いも 「だからあれ以来参拝していない。それが私の心だ」。富田朝彦・元宮内庁長官が残していた靖国神社A級戦犯合祀(ごうし)への昭和天皇の不快感。さらに、合祀した靖国神社宮司へ「親の心子知らず」と批判を投げかけた。昭和天皇が亡くなる1年前に記されたメモには強い意思が示され、遺族らは戸惑い、昭和史研究者は驚きを隠さない。A級戦犯分祀論や、小泉純一郎首相の参拝問題にどのような影響を与えるのか。 ■A級戦犯の遺族 「信じられない。陛下(昭和天皇)のお気持ちを信じています」――A級戦犯として処刑され、靖国神社に合祀される板垣征四郎元陸軍大将の二男の正・日本遺族会顧問(82)=元参院議員=は驚きながらも、そう言い切った。 日本近現代史に詳しい小田部雄次・静岡福祉大教授は「昭和天皇の気持ちが分かって面白い」と驚き、「東京裁判を否定することは昭和天皇にとって自己否定につながる。国民との一体感を保つためにも、合祀を批判して戦後社会に適応するスタンスを示す必要もあったのではないか」と冷ややかな見方を示した。その上で「A級戦犯が合祀されると、A級戦犯が国のために戦ったことになり、国家元首だった昭和天皇の責任問題も出てくる。その意味では、天皇の発言は『責任回避だ』という面もあるが、東京裁判を容認する戦後天皇家の基盤を否定することもできなかったのではないか」と話した。
天皇の靖国神社参拝は1975年11月21日に昭和天皇が行って以来、今の天皇陛下も含め行われていない。同神社や遺族側は、その後も「天皇参拝」を求めているが、30年以上途絶えたままだ。これまでいくつかの理由が推測で語られていたが、今回の「富田元長官メモ」は、このうちの一つを大きくクローズアップした。 宮内庁によると昭和天皇は、終戦に際し45年11月に同神社を参拝。その後も数年おきに訪れ、75年までに戦後計8回参拝した。 途絶えた理由に挙げられるのは (1)78年のA級戦犯合祀 (2)対外関係の考慮 (3)公人私人問題――など。 今回のメモは(1)が大きな理由だったと読める。 http://yy32zi.at.webry.info/200607/article_10.html 問題の天皇発言は、富田朝彦元宮内庁長官(故人)の手帳に記されていた(1988年4月28日付)。メモによると、昭和天皇はA級戦犯を合祀した当時の靖国神社宮司を名指しで批判、
「だから私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ」などと語ったという。 天皇メモをスクープした日本経済新聞は「昭和天皇がA級戦犯合祀に強い不快感を示したのは、過去の戦争への痛切な反省と世界平和への思い、米英両国や中国など諸外国との信義を重んじる信念があったためと推察される。そうした昭和天皇の思いを日本人として大事にしたい」(7/21社説)として、小泉首相に靖国神社参拝を自制するよう求めた。「朝日」「読売」なども同様の論調を掲げている。 時代錯誤とはこのことを言う。大手メディアがそろいもそろって首相の行動をいさめるのに天皇の言葉を持ち出すとは、とても主権在民の憲法を持つ国の出来事とは思えない。これは明らかに「天皇の政治利用」にあたる。 そもそも、マスメディアのメモ解釈には無理がありすぎる。 昭和天皇が戦後も続けていた靖国神社への参拝を、A級戦犯の合祀(78年)を理由にとりやめたのは事実であろう。ただしそれは「戦争への痛切な反省と世界平和への思い」からではない。自身の戦争責任追及を昭和天皇が恐れたからだ。 A級戦犯を神と崇める神社に参拝などしたら、苦労して築き上げた「平和主義者・天皇」のイメージが一瞬にして瓦解する。 つまり昭和天皇は天皇家の延命という観点から、靖国神社の勝手な行動に激怒した−−こう考えたほうが自然である。 昭和天皇が松岡洋右元外相らに開戦責任を押しつける発言をしていたことは他の史料でも明らかになっている。戦犯連中にしてみれば、「本来なら最高責任者の陛下こそ戦犯じゃないか」というツッコミをあの世から入れたい気分ではないか。 http://www.mdsweb.jp/doc/947/0947_08a.html 昭和天皇の身代わりになって処刑された東条英機
1947年の12月、戦時中の首相、東条は自らを弁護して証言台に立った。 彼は生贄の羊となることを望んではいたものの、降伏以降、彼への雑言悪態は 限度を越えていた。 中には、天皇自身が、東条の命令不服従の不実を非難しているとさえ報じられていた。あるいは、日本の新聞は、東条が自決しようとして、刀ではなく拳銃を使ったことを、臆病者と呼んでいた。東条の家族は、近所からライ病患者のごとく扱われ、お金にも不自由した。彼の弟は、二ヶ月前、列車中で一袋の米を盗んだとして逮捕されていた 1947年の大晦日、東条への直接尋問のなかで、〔木戸の〕弁護人 ログマンはこう質問した。 「天皇の平和に対してのご希望に反して、木戸侯爵が行動をとったか、 あるいは何かを進言したという事実を何か覚えていますか?」 東条 そういう事例はもちろんありません。私が知る限りにおいてはありません。 のみならず、日本国の臣民が、陛下のご意思に反して、かれこれすることはあり得ぬことであります。 いわんや、日本の高官においておや。 ログマン 以上をもって、木戸卿に代わる私の尋問を終わります。
裁判長(ウェッブ) 今の質問がどのようなことを示唆しているかは、 よく理解できるはずである。 まさしく、それは誰もが知っていたことだった。 そこでキーナンは、彼の証人の切り札たる田中隆吉を、富士山麓の山中湖畔の自宅で休暇中のところより呼び戻し、ただちに巣鴨刑務所の東条に会いに行かせた。 だが東条はそれに応じようとはしなかったので、田中は皇居に行き、木戸の前秘書で 天皇の顧問の後継者、松平康昌に情況を説明した。次いで松平は、同僚の 側近たちと相談し、収監中の元内大臣木戸に手紙を送る許可を裕仁よりえた。 東条とは隣同士の房にいる木戸は、さっそく東条との話し合いに入った。 彼は東条と護衛の監視下で仕切り越しに長々と話をした。 木戸はまた、 刑務所中庭で運動の際、直接に東条に話しかけ、東条の家族の状況を改善させることを約束した。 小男で近眼の木戸ながら、彼は刑務所の雑務中でも裕仁の代理人であったため、東条は彼の話を無視することはできなかった。 二日にわたって話が交わされた後、ついに東条は折れた。 彼は法廷にもどると、キーナンによる反対尋問の中で、 自分が天皇を戦争を始めるよう説得し、それによって、裕仁を自身の気持ちに反して動くように強いさせたかも知れないことを認めるに至った。 http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm 内閣特別顧問の石原莞爾――退役した満州戦略家――は、敗戦の説明をおこなうため、全国の津々浦々を行脚した。
彼の話す内容は、戦争を始めたのは元首相東条であり、彼以外に責任はない、という単純なものであった。 1930年代初め、石原と東条は、天皇の支持を取り付けるため互いに争っていた。だが東条が勝利していた。今、東条を犠牲者に祭り上げるにあたり、石原ほど詳細を知るものはいなかった。 出身地東京で一年以上の退役生活を送っていた東条は、その中傷を冷徹に受け入れ、戦争の責任を全面的に負うのが自分の意思であると、友人たちには内々に語っていた。 友人たちは彼の意思を尊重したが、以前の部下や下僕たちはそれに反発した。たとえば、官邸に20年間使えてきた給仕は、東条を、もっとも人間的で思慮深い人物であると述べていることが幾度も取り上げられていた。 http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_3a.htm マスコミ報道等では、第二次世界大戦は日本の軍部が独走し、 天皇は仕方なくそれに引きづられた・・という事になっている。
そのため戦争中首相であった東条英機は戦争犯罪者として処刑され、 天皇は「罪を問われなかった」という事に「なっている」。 1944年7月20日、天皇の東条英機あての勅語。
「あなたは(東条は)、朕(天皇)の行う戦争において、朕の指導の下に 十分職務を果たした。」・・()内部、筆者の注。 ここで天皇自身「が」主体となって戦争を行っている事、つまり軍部に引きづられて 戦争が行われているのでは無い事、 東条が「天皇の指導の下」にその命令通りに戦争を行って来た事を、天皇自身が証言している。 天皇は、自分の行った戦争の責任を全て東条に押し付け、東条を処刑させ、 自分だけ生き延びたのである。 戦争中、東条は1日に3回天皇を「御機嫌うかがい」のため訪問し、 政界では「ゴマすり東条」と批判されていた。 東条を始めとした政界軍部が「強引に戦争を行い」、天皇がそれに引きづられる等という事は、 この東条と天皇の「力関係」から見て有り得ない。 天皇は東条に全責任を押し付け、自分だけ生き延びたのである。 http://alternativereport1.seesaa.net/article/49704032.html 昭和天皇の身代わりになって処刑された松井石根
ついに本当の事は言えませんでしたね: 「南京事件ではお恥しい限りです。南京入城の後、慰霊祭の時に、シナ人の死者も 一しょにと私が申したところ、参謀長以下何も分らんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、師団長はじめあんなことをしたのだ。 私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などを比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシヤ人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。 政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、 当時とは全く変っておった。 慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが。折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまった、と。ところが、このことのあとで、みなが笑った。 甚だしいのは、或る師団長の如きは「当り前ですよ」とさえいった。 従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている」 http://www.geocities.jp/yu77799/gunjin.html#matuiiwane キーナンは、自分が技巧的に追及してきたその判決を聞いた日の夜、 彼の切り札証言人、田中隆吉と一杯飲みに外出した。彼は酔いにかまけつつ、
「馬鹿げている、まったく馬鹿げた判決だ」と口にした。彼が最も反対してきた判決は、 松井――南京攻略の際、その命令が悪用された痛ましい小柄な大将――の死刑だった。 公正は私に、被告に有罪を決定する際、天皇の免責について再考するよう、求めている。 http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm 鬼頭久二(1916年8月生まれ) 第16師団歩兵第33連隊 第1大隊 南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、 「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」 ちゅう命令やった。 天皇陛下の命令やと言ったな。 当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。 http://www.geocities.jp/kk_nanking/ http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/m/pages/468.html
[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理
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