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[やさしい経済学]グローバル化とナショナリズム
(1)戦後の認識 見直し迫られる
九州大学准教授 施光恒
第2次大戦後、ナショナリズムは先進各国で自由民主主義の立場から警戒視されるのが常でした。他方、グローバル化は、政治的には人々が国境や国籍にとらわれず平和な世界を目指す試みであり、経済的には関税や各種障壁のない自由貿易の実現を通じて人々に豊かさをもたらすものだと一般に理解されてきました。
しかし、いわゆる新自由主義(小さな政府主義)の影響を受けた昨今のグローバル化により、認識の変化が迫られています。グローバル化をあまり楽観的に捉えるのは誤りで、格差拡大や移民増大など多くの不安定要因を世界にもたらしてきたのではないかとの見方が強まっています。一方、そうしたグローバル市場の猛威から人々の生活基盤を守るものとして、国民国家や国民の連帯意識などナショナルな力に頼らざるをえないのではないかという認識も広まりつつあります。
フランスの歴史人口学者エマニュエル・トッドは近年、「グローバル化疲れ」という言葉をしばしば用いています。トッドによれば先進諸国の多くの人々は、1980年代から続くグローバル化の流れがもたらした格差拡大、移民の急増、民主主義の機能不全、グローバル・エリートの身勝手さなどに辟易(へきえき)し、疲れ切っている。英国のEU離脱や米大統領選挙におけるトランプ現象の背後には、人々に広がった「グローバル化疲れ」があるというのです。
そしてトッドは、世界には現在、「脱グローバル化」や「国民国家への回帰」の兆しが表れつつあると論じています。英国や米国などの一般市民は、現在のグローバル化の果ての不公正な秩序ではなく、より公正で民主的な「脱グローバル化」の秩序を模索し始めているとみるのです。
この連載では、主に政治哲学や政治経済学の諸理論を手がかりに、グローバル化やナショナリズム、自由民主主義の相互の関係性について検討し、行き詰まりを見せつつあるグローバル化の現状や「ポスト・グローバル化」の展望について解説していきます。
せ・てるひさ 慶応大博士(法学)。専門は政治理論、政治哲学
[日経新聞6月13日朝刊P.28]
(2)「ナショナルなもの」の起源重要
九州大学准教授 施光恒
国民意識や国(国民国家)などのナショナルなものはどのように現れてきたのでしょうか。この問いは単なる歴史問題ではなく、現代のグローバル化に対する見方にも関わってきます。
ナショナルなものの起源に関する見方の一つに「近代主義」があります。ナショナルなものは近代化の産物だと強調する立場です。国民国家や国民意識は産業革命以降のものであり、経済発展の要請から構築されたとみます。
英国の社会学者ゲルナーは近代産業社会の登場から国民意識や国民国家の成立を説明しました。小さな町で暮らし、地域特有の方言や生活習慣を保持する人々ではなく、もっと大きな社会の一員だという意識を持ち、標準語や共通の行動様式を身に付けた労働者が多数いなければ、近代産業社会は成り立たない。ナショナルなものはこうした経済上の要請から作られてきたとゲルナーは論じました。
これに対してアンソニー・スミスは近代主義を批判し、ナショナルなものは単に近代化の産物ではなく、民族の歴史的起源に関わる神話や言語、文化の共有も重要だと述べます。
前世紀末以降、次のような言説をよく耳にします。「現代経済は国民国家の枠を超えた。グローバル市場に対応して政治もグローバル化しなければならない。地域統合体など超国家的な政治枠組みが必要だ」
現代のグローバル化推進のこのような言説は、近代主義と非常に相性がいいものです。どちらも経済発展の要請が人々の意識の土台にあるとみるからです。近代主義は、近代の経済発展の要請がナショナルなものを生じさせたと考えます。グローバル化推進派も、経済発展の要請が超国家的な政治体や地球市民意識を求めていると捉えます。
しかしスミスの指摘のように、ナショナルなものの根底には、経済の要請だけではなく、古来の民族の文化や神話などの共有があるとすれば、グローバル化推進派の言説への懸念が生じます。ナショナルなレベルでは民族的要素が人々の連帯意識や秩序の安定性を担保しますが、グローバルなレベルで同様の連帯意識や安定性が得られるのか不明だからです。
[日経新聞6月14日朝刊P.26]
(3)投資家優先なら政治不信招く
九州大学准教授 施光恒
グローバル化の進展は、格差拡大や民主主義の機能不全を招く懸念があると指摘されますが、どのようなメカニズムが働くのでしょうか。グローバル化(グローバリゼーション)とは一般にヒト、モノ、カネ、サービスの国境を越えた移動が盛んになる現象、またはそれを促進すべきだという考え方のことを指します。一番重要なのはカネ、つまり資本です。資本の国際的移動が自由になったため、各国の経済政策は大きく変化しました。
資本の国際的移動が自由になれば、グローバルな投資家や企業はビジネスしやすい環境に資本や生産拠点を移動させるようになります。例えば、法人税率が低い国や地域に本社機能を移動させる一方、生産拠点はできる限り人件費が安く、労働法制の縛りの緩い場所を選択しようとします。
このため各国政府は、自国の国民一般の声よりも、グローバルな投資家や企業に配慮した政策をとるようになります。そうしなければ、海外からの投資が国内に入ってこなくなってしまうからです。また、すでに国内にある資本や企業が国外に流出してしまう恐れもあるからです。
グローバルな企業や投資家に好まれる政策は、一見して一般国民にとっては望ましくない場合が少なくありません。例えば「法人税率を下げる一方、消費税率を引き上げる」「正規社員を非正規に置き換えたり、外国人労働者を受け入れたりして人件費を削減する」「解雇しやすくするなど労働基準を緩和する」「電気、ガス、水道など社会的インフラを民営化する」といった政策です。
以上のような政策がとられる国は、グローバルな投資家や企業にとってはビジネスしやすい、つまり稼ぎやすい環境となります。ビジネスしやすい環境になった結果、国全体の経済成長が促され、一般国民も生活水準の向上を実感できれば政策を支持するでしょう。しかし、生活が改善せず、むしろ不安定化したり悪化すれば、一般国民の不満は高まります。その不満を政府が無視し、グローバルな投資家や企業を優先する政策を続ければ、政治不信を招いて民主主義の機能不全につながりかねません。
[日経新聞6月15日朝刊P.27]
(4)平等の実現 連帯意識が必要
九州大学准教授 施光恒
戦後の日本では、自由や平等、民主主義といった理念を前面に掲げるのは、おおむね革新派(左派)でした。同時に、戦後左派は愛国心や国民意識のようなナショナルなものを嫌い、否定する傾向にありました。
しかし、国民意識や愛国心といったナショナルなものを否定しつつ、自由や平等、民主主義を訴えることは、実はなかなか両立しません。英語圏の政治理論の一潮流に「リベラル・ナショナリズム」があります。これは、自由や平等、民主主義といった理念は、ナショナルなものがしっかりしている環境、つまり安定した国民国家で最もよく実現されると論じるものです。
例えば「平等」という理念を考えてみましょう。平等の実現のためには、現代では福祉(再分配)政策が必要です。福祉政策は人々の間に強い国民意識がないと実現できません。なぜなら、恵まれた立場にある人々が自分の利益の一部を断念し、恵まれない人々のために差し出す行為を前提とするからです。こうした行為は社会に強い連帯意識(仲間意識)が存在しなければうまくいきません。
歴史を振り返ると、福祉政策が実現したのは例外なくナショナルな社会、つまり国民国家でした。福祉とは国民の相互扶助意識のうえに成り立っているのが実情なのです。実際、EUでも金融政策はユーロ圏で共通になりましたが、福祉政策は各国単位が原則です。
リベラル・ナショナリズムの政治理論は、平等を実現するには国民の相互扶助意識が大切だと論じます。逆に言えば、グローバル化が進展し、国民意識が希薄になれば、格差を是正し、平等な社会を実現するのは困難になると示唆しています。むろん、「EU人意識」や「東アジア人意識」、あるいは「地球市民意識」のような国境を越えたアイデンティティーが確立されれば別ですが、こうした意識の確立は今後数十年単位ではほぼ無理でしょう。
資本移動の自由化を伴うグローバル化は、格差拡大を招きがちです。同時に、グローバル化で国民意識が希薄化すれば、再分配政策による格差是正も難しくなります。グローバル化の進展と、平等という理想の実現は両立が難しいのです。
[日経新聞6月17日朝刊P.29]
(5)一般国民 政治過程から疎外
九州大学准教授 施光恒
昨年、英国のEU離脱が国民投票で支持されたり、米国の大統領選でトランプ氏が当選したりするなど想定外の出来事が生じたと騒がれました。しかし、政治学的にはそれほど想定外でもありませんでした。
先に見たようにグローバル化、特に資本の国際的移動の自由化に伴い、各国の経済政策は大きく変わりました。自国内の資本の流出を避け、海外から投資を呼び込むために、各国政府はグローバルな投資家や企業に受けのよい政策を専ら採用するようになります。その半面、一般国民の声は軽視されがちになります。
これは民主主義から見れば問題であると多くの研究者が指摘してきました。例えばドイツの政治経済学者W・シュトリークは、経済のグローバル化以降、各国では経済権力が政治権力に変換されやすくなり、一般国民が自分たちの利益や要求を政治経済的仕組みに反映させる力を大幅に低下させたと論じています。
米政治経済学者R・ライシュも深刻な事実を指摘しています。ライシュによれば、グローバルな投資家や企業は、稼ぎやすくなった環境の下で得た利益を政党や政治家に対するロビー活動につぎ込むようになりました。そして、市場経済の基礎となるルール(知的財産権や契約条件に関するものなど)を自分たちに有利に変更してしまう傾向が近年、顕著になったと論じます。例えば、米国ではかつて自然産物由来のワクチンの知的財産権は認められなかったが、1990年代に認められるようになった。その結果、製薬業界に多大な利益がもたらされると同時にワクチン価格の高騰が生じたと指摘しています(『最後の資本主義』)。
個々の事例については何が公正なのか見解が分かれるかもしれませんが、グローバル化に伴う資本移動の自由化が、グローバルな投資家や企業の政治力の増大を招いたこと、その半面として一般国民が政治過程から疎外されているという感覚を強く持つようになったとは言えるでしょう。ポピュリズム(大衆迎合主義)の政治の噴出を懸念する声も耳にしますが、背景には以上のような各国国民の不満の高まりがあることを考慮する必要があります。
[日経新聞6月19日朝刊P.12]
(6) 保護貿易、政治理論では正当化も
九州大学准教授 施光恒
トランプ米大統領の登場以降、保護貿易を巡る議論が活発化しています。経済学的観点からすれば、保護貿易は全く許容できないものなのかもしれません。しかし政治理論の見方では、保護貿易は必ずしも悪いものとは限りません。
リベラリズムの政治理論では個々人の「選択の自由」を重視します。そして、ある人が「選択の自由」を実際に享受するためには、様々な人生の選択肢が実際に手の届く範囲に存在している必要があると考えます。この場合の「選択肢」とは様々な考え方や生き方、あるいはもう少し具体的に職業選択の幅を意味すると考えても構いません。
するとナショナルな言語(国語)や文化(国民文化)の大切さが明らかになってきます。例えば多くの日本人にとって、実質的に選び取れる職業の選択肢の範囲は、主に日本語を使って就ける範囲であることが普通です。そのため、選択の場としてナショナルな文化や言語が栄えているかどうかを考慮する必要が生じてきます。
経済学的見方ではリカードの比較生産費説に立ち、各国は比較優位な製品に生産を特化し、互いに生産物を貿易した方が効率的なため、自由貿易が望ましいとされます。これは机上の経済理論としては正しいとしても、現実世界では望ましくありません。各国の産業構造が少数の産業に偏ったいびつなものになってしまうからです。人々の人生の実質的選択肢が非常に狭くなり、選択の自由が奪われてしまいます。
このように政治理論的見方では、人々の実質的な選択の自由を守るという理由で保護貿易が正当化される可能性は大いにあります。国民の選択の自由を守るために、政府が貿易条件を監督し調整するのです。もちろん、「自国の市場は守るが、お前の国の市場は開放しろ」という主張は不公正なので通りません。
しかし、国同士でそれぞれ開放する範囲、保護する範囲を公正な話し合いで決めていく。そして、各国の人々が経済的豊かさとともに、選択の自由も享受できる環境を整える。このような形で保護主義的政策の導入が正当化されることは十分にありうるのです。
[日経新聞6月20日朝刊P.26]
(7)民主社会脅かす新エリート層
九州大学准教授 施光恒
昨年、「パナマ文書」問題でタックスヘイブン(租税回避地)が注目を集めました。租税回避地の利用は違法ではないとしても、企業経営者や投資家の倫理として問題ではないかと議論されました。グローバル化が進めば、エリートの社会的責任が問われる事例も増加します。米国の歴史家クリストファー・ラッシュは20年以上も前に『エリートの反逆』を刊行し、グローバル化時代のエリートをいち早く批判しました。
米国でも日本でも、かつてエリートは地域の名望家であり、天下国家を憂い、義務や責任を率先して担う覚悟を持った存在でした。地域社会の中に自らの生産基盤を持ち、自分の現在の地位が地域社会や国からの恩恵を被っていることに自覚的だったため、地域や国の公共の問題に強い関心を抱きました。
ラッシュはこのようなエリート像がグローバル化の進展に伴って変質すると主張しました。スペインの思想家オルテガはかつて『大衆の反逆』を著し、民主社会を破壊するのは、文化や伝統とのつながりを自覚しない愚かな大衆だと記しました。これに対してラッシュは、グローバル化の進む現代世界では、民主主義や一般国民の生活を脅かすのはエリート層の方だという見方を示したのです。
ラッシュがこのように論じたのは、エリート層の存立基盤が地域社会や国ではなく、グローバル市場に変わったからです。ラッシュは次のように記します。「米国の新しいエリート層の忠誠心は、(略)地域的、国家的、あるいは局所的ではなく、国際的である。彼らにとっては、地球規模のコミュニケーション・ネットワークにいまだプラグをいれていない米国の大衆よりも、ブリュッセルや香港にいる商売相手の方が、共通点が多いのである」
つまり、新しいエリート層は地域社会や国には愛着も忠誠心も持たず、同胞国民に対する連帯意識も感じない存在ではないかと危惧したのです。日本は現在、世界で活躍できる「グローバル人材」の育成に熱心ですが、彼らに地域社会や国に対する責任や義務感を身につけてもらうことは、非常に重要な、そして難しい課題なのです。
[日経新聞6月21日朝刊P.26]
(8)功罪見つめ、よき形態探求
九州大学准教授 施光恒
本連載ではグローバル化の招く難問、とりわけ自由民主主義の理念と矛盾する事態をいくつか指摘しました。読者は次のような感想を抱いたかもしれません。「なるほどグローバル化にはまずい点もあるようだが、グローバル化を否定してナショナリズムに回帰するのは危険ではないか」
確かにナショナルなものの重視が自国中心主義的な偏狭なものになってしまう懸念は否定できません。その一方、先に述べたようにナショナリズムには自由で平等な民主的社会の実現を促す働きもあります。
取り組むべきはナショナリズムの全否定ではなく、よりよき形態の探究です。それを考える有力な手掛かりとして2点挙げることができます。一つは「公正さ」という理念です。自分が自らの国や文化、言語に愛着を持ち、そこから様々な恩恵を受けているように、他者もまた彼らの国や文化、言語を大切に思い、そこから恩恵を享受しています。よき形態のナショナリズムは、自国の基準や文化、慣習を他国に押し付けるようなことはせず、他者のナショナリズムも認めて尊重する必要があります。
もう一つは、ナショナルなものを「関係主義的に」捉える態度です。近代以降のどの国の文化や言語も、他国の文化や言語の影響を受けています。日本人は特によく実感できるかもしれません。かつて加藤周一氏は日本文化を「雑種文化」と呼びました。日本は近代以前は主に中国大陸から、明治以降は欧米から学び、国を豊かにしてきました。
日本ほど意識していなくても、どの国も多かれ少なかれ「雑種文化」なのです。自国文化の発展を願う真のナショナリストであれば、他国にも独自の文化が栄えるよう他国の自律を尊重し、またそこから学び自国文化を豊かにできるよう国際交流や貿易も重視せざるを得ません。
「地球市民意識」は一朝一夕には生まれず、やみくもなグローバル化の推進は自由民主主義や安定した人々の生活基盤を損なう恐れがあります。ナショナリズムの功罪を冷静に見つめ、よりよき形態を模索していく必要があるでしょう。
[日経新聞6月22日朝刊P.31]
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