^^日独防共協定は昭和12年(1937)11月にイタリアが加わり、三国防共協定となったが、翌13年(1938)に入ってからは満州国とハンガリー(2月)、そしてスペイン(3月)が加盟し、枢軸陣営はますます強化されつつあった。このような状況下の昭和13年(1938)1月、ドイツ外相のリッベントロップから大島浩中独武官に防共協定の強化が提案された。 日本においても支那事変解決を促進する見地から日独伊の提携強化が陸軍と外務省の一部で主張され、この年5月には陸海外三省事務当局において、その研究が着手されたが、11月にはドイツから正式に三国同盟草案が提示され、日本はその検討を迫られることになった。 そして、ソ連の他にイギリス・フランスも同盟の対象とするドイツ案を支持する陸軍と、対象をソ連に限るとする陸軍以外の意見が大きく対立することとなった。 近衛文麿首相には防共協定強化すなわち枢軸側との提携が英米側を動かし、支那事変解決を促進するであろうという期待があった。これはやがて外相として三国同盟締結に邁進することになった松岡洋右の心事とも一致するものだった。枢軸強化には、支那事変解決のため日本の国際的地位を強化しようとする窮余の一策としての一面があった。 しかし、三国同盟の基本性格をめぐって、日本の国家意思は容易に決まらず、ドイツは日本の回答延期に焦慮した。様々なレベルでの意見の対立を調整させながら、最終的な国家意思を形成してゆく日本の政策決定過程は、ドイツやイタリアのような独裁的ファシスト国家のそれとは全く異質のものであった。 ドイツとイタリアは日本の態度に不満で、1939年5月22日、日本抜きで独伊同盟(鉄鋼同盟)を締結した。 このような状況下の昭和14年(1939)8月23日、突如独ソ不可侵条約が締結され、日本政府当局を愕然とさせた。 独ソ不可侵条約(1939年8月) 対独不信ムードの中で阿部信行内閣が成立。大命降下の際、天皇陛下より「外交は英米と強調する方針をとること」という指示を受けたこともあり、ここに枢軸外交は止め、「中道外交」へ修正された。具体的には親米派の野村吉三郎海軍大将を外相に起用、枢軸派の大島駐独大使、白鳥駐伊大使を更迭した。翌昭和15(1940)年1月に成立した米内内閣の外相には枢軸強化反対の有田八郎が任命された。有田は「中道外交」を継承しつつ、対英米国交調整の途を求めた。 日本とドイツの関係は冷え切った。 ところが1939年9月に第二次欧州(世界)大戦が勃発。ドイツは電撃戦でポーランドを18日間で撃破、オランダ、ベルギー、フランスを6週間で破り、パリを無血占領し、さらに北アフリカでイギリス軍をしりぞけた。 第二次欧州(世界)大戦(1939年9月1日〜) これに対して日本では、とてつもない強さを見せたドイツと同盟関係を結んでおけば将来は安泰だという気運が高まった。「バスに乗り遅れるな」という言葉が流行り、朝日新聞などはドイツとの関係を重視する大々的なキャンペーンを繰り広げた。アメリカを融和しようとして成功せず、アメリカの対日重圧のいよいよ加わりゆく時期であっただけに、日本の親枢軸世論は一挙に高まり、米内内閣は総辞職に追い込まれた。 そして7月22日、第二次近衛内閣が発足、日独提携論者の松岡洋右が外相に就任した。このときは、反英米熱と日独伊三国同盟締結の要望が沸騰点に達した時期だった。 アメリカの参戦を防止するため、ドイツが日本に接近してくることを見抜いていた松岡は、内心は枢軸との接近を急ぎながらも決して焦りを見せず、時にはアメリカと結びかねないポーズを装いつつ、一種の偽装外交によって慎重に対独打診を試みた。 ドイツのイギリス本土上陸作戦が停頓し、対英戦長期化の公算が大となると、俄然、ドイツは焦燥し、対日接近が開始された。 ドイツの三国同盟に対する態度は(1)ドイツは対英戦に日本の援助を求めない、(2)日本が米国の参戦を牽制、防止すること、(3)日独伊三国の毅然たる態度のみがアメリカを抑制することができる、(4)日独伊三国同盟締結ののちソ連に接近するに然かず。ドイツは日ソ親善の多面「正直な仲買人」となる用意がある - などであった。 アメリカが対独参戦の場合、日本が自動的に参戦義務を負うことに強く反対していた海軍も、「ドイツは日本のヨーロッパ参戦を希望しておらず、また参戦の決定は日本が自主的に行うことを了解した」との松岡の説明に接して反対する理由を失い、またこれ以上国内対立を深めることを恐れたこともあり、遂に同盟賛成に踏み切った。 昭和15(1940)年9月27日、ベルリンにおいてイタリアを加えた三国同盟が締結された。第一、二条で日本は独伊の、独伊は日本の、欧州および大東亜における新秩序建設の指導的地位を認め合い、第三条で、「いずれか一国が現に欧州戦争または日支紛争に参入していない一国によって攻撃されたときは、三国はあらゆる政治的、経済的及び軍事的方法で相互に援助する」ことを約した。 また同日、東京で松岡外相とオット大使の間に「締結国が攻撃されたか否かは三国間の協議によって決定する」旨の秘密の公文が交換され、これによって相互援助義務の自動性を制限し、日本の参戦について自主的解釈の余地を残したのであった。 三国同盟を推進した当事者の動機と目的: 当時首相であった近衛文麿の手記では以下のように述べられている。 「・・・日米関係は悪化し、殊に支那事変以来両国国交は極度に行詰った。かかる形勢では松岡外相の云える如くもはや礼譲や親善希求のみでは国交改善の余地はない。歴代の外相、殊に有田、野村両外相は対米交渉で日米間最大の問題たる支那問題について了解に達っせんと惨憺たる努力を重ねたが何の効なく、もはや米国相手の話し合いによっては解決は絶望視されるに至った。ここにおいて唯一の打開策は独伊、さらにソ連と結んで米国を反省させる他なくなった。即ち日独ソの連携も最後の狙いは対米国国交調整であり、その結果としての支那事変解決であった。余は対ソ警戒論者であった。対ソ接近を好まざる余が日独その連携に賛成したのは、これが米国の戸の了解に達する唯一に途と考えられたのみならず、ソ連の危険は日独が東西よりソ連をけん制することで融和しうると信じたからである」 三国同盟に踏み切った日本の当事者の真意はほぼここに尽されていると思われる。 戦後、三国同盟推進者としての松岡に対しては仮借ない批判が浴びせられてきたが、彼の真意図はあくまでアメリカを説いて支那事変を終局せしめる点にあった。 昭和16年4月、日ソ中立条約の調印を終えてモスクワから帰朝の途にあった松岡の胸中にはすでに広大な和平構想が描かれていた。彼は帰国後、6月27日に重慶へ赴き蒋介石と差しで話し合って説得する。直ちにチャイナ・クリッパー機で一緒に米国へ飛んでルーズベルトを交えた三人で膝を突き合わせて支那事変解決の話をつける。支那事変解決の条件としては満洲国の承認と冀東地区の中立化だけとし、ただこれだけの約束で日本は支那と仏印から一兵も残さず撤兵する - これが松岡の東亜和平の構想だった。 独ソ戦という事態が発生しなかったら、この和平構想が実行に移されていなかったとは言い切れまい。 日米開戦の報を病床で聞いた松岡は流ていしてこう語ったという。 「三国同盟は僕一生の不覚だった。・・・三国同盟はアメリカの参戦防止によって世界戦争の再起を予防し、世界の平和を回復し、国家を泰山の泰樹におくことを目的としていたのだが、事ことごとく志と違い、今度のような不祥事件の遠因と考えられるに至った。これを思うと、死んでも死にきれない。陛下に対して奉り、大和民族八千万同胞に対し何ともお詫びの仕様がない」 結果から見れば確かに松岡は誤算を犯したことになる。だが、日本の融和政策をもってしても、あるいは三国同盟を含む松岡の和平構想をもってしても何らの反省も改善もみられなかった硬直したアメリカ極東政策は、歴史の大局から見て正しかったなどとは絶対に言えまい。 三国同盟に対する評価と責任: 当時首相の近衛文麿の手記では以下のように述べられている。 「余は今もって三国同盟締結は当時の国際情勢下ではやむを得ない妥当の政策であったと考えている。当時独ソは親善関係にあり、ヨーロッパのほとんど全部はドイツの掌握に帰し、イギリスは窮境にあり、アメリカはいまだ参戦せず、このような状勢下では日独ソ連携によって英米に対する我国の地歩を強化することは支那事変を解決し、対英米戦をも回避し、太平洋の平和に貢献しうるのである。したがって昭和15年秋の状勢の下においてドイツと結びしことは親英米論者の言うごとく、必ずしも我国にとりて危険な政策なりとは考えられぬ。これを強いて危険なりというは感情論である。感情論にあらざればドイツの敗退を見てから後からつけた理屈である。・・・しかしながら昭和15年秋において妥当なりし政策も、16年夏には危険なる政策となった。何となれば独ソ戦勃発で日独ソ連携の望みは絶たれ、ソ連は否応なしに英米の陣営に追い込まれてしまったからである」 三国同盟が論議された頃、ドイツ不信論、対米衝突を危惧する意見などが一部にあったことは事実だが、それらは近衛が指摘するとおり、ドイツの敗退を科学的根拠より予想せる先見の名に基づく冷静な判断とは言いがたく、国際的な政治力学による三国同盟に対抗するだけの力はなかったのである。 日独伊三国同盟はまさに、「(資源や植民地を)持てる国」の囲い込みが「持たざる国」であるドイツ、日本、イタリアを結び付けてしまったといえる。 しかし、この後1年あまりでドイツは劣勢に転じた。日本はその行く末を見誤ったわけだ。 また、当時、世界の石油を握っていたのはユダヤ人財閥だったが、ユダヤ人を迫害するドイツと手を結んだ日本は、彼らの心証を激しく害してしまった。このことが、後々、石油を生産する植民地を持っていない日本を苦しめることになる。 ABCD包囲陣 当時の日米関係は極度に悪化していた。アメリカの反日政策は日本の友好的な対応ではらちがあかない。 アメリカ相手に話し合いではもう解決は絶望的となった。唯一の打開策は、ドイツとイタリア、さらにソ連と組んでアメリカに反省させる以外になくなってしまった。日独ソの連携も狙いは対米国交調整であり、その結果としての支那事変解決だった。 日本はドイツと組むことにより、強い立場での対米交渉を狙うためにこの同盟を結んだわけだが、結果的に、「防共」が目的の「日独防共協定」が対米軍事同盟になってしまった。また、ファシズム国家であるドイツとイタリアと同盟を結んだことで、日本がファシズム国家のように思われてしまい、連合国が日本を侵略者にするには好都合となってしまった。 三国同盟は日米開戦を引き起こした大きな原因の一つといわれるが、当時の国際情勢かではやむをえないところがあった。当時ドイツとソ連は親善関係にあり、ヨーロッパのほとんどはドイツが掌握し、イギリスは追い込まれており、アメリカは参戦してなかった。このような情勢では日本、ドイツ、ソ連の連携によってイギリス、アメリカに対する日本の立場を強めることは支那事変を解決し、対英米戦争を回避し、太平洋の平和に貢献しえた。しかし、独ソ戦勃発によって日独ソ連帯の望みがなくなり、ソ連は英米の陣営に追い込まれてしまった。
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