>>19さん 日本は《儒教》が政治や社会規範の基盤とした国と認識する。 歴史を知るはじめでしょうね。 自由があって民主主義、自由がないのが隷従や奴隷。 この奴隷の日本史も教えていないのでは? なんとなく、常識としてと知っているようでというのが、ありますよね。 (原文はネットで)で、日本史の記紀から神武天皇や神道を探すと。日本書紀・神武天皇紀は、天孫ニニギから神武天皇 までが約180万年、神武天皇の前の神々は長寿であった。 神武天皇が即位した年は皇紀元年(紀元前 660年)。 「天皇即帝位於橿原宮、是歲為天皇元年」、スメラミコトは橿原宮で帝位(天下の支配権・政権) についた。 天皇(呼称)と帝位は別なものと読める。 魏志倭人伝(280−300年頃)「名曰 卑弥呼 事鬼道 能惑衆」の時代は、統一国家よりも小国家群が記述され、記紀(古事記712年、日本書紀720年) の史書内容から紀元前660年の統一国家は疑問である 神武天皇の祖母は[龍]で、祖母と母は姉妹であるから、母も[龍]と思われる(母が[龍]と記述はない)。 日本書紀 「窃往覗之、豊玉姫 方産化為龍」、古事記 「窃伺其方産者、化八尋和邇而、匍匐委蛇」とあり 盗み見すると、出産時に龍、大きな鰐であった。 男系の染色体ということよりも前に生物学上の疑問が生じる。 日本書紀の[神道]の初出は、用明天皇(聖徳太子の父) 「天皇信仏法尊神道」や孝徳天皇 「尊仏法、 軽神道斬生國魂社樹之類、是也」 仏教を尊び、神道を軽んじ生国魂神社の樹木を切った。 仏教を信仰 していた。 惟神(かんながら)は、孝徳天皇「惟神(惟神者、謂隨~道。亦謂自有神道也)、我子應治故寄。 是以、與天地之初、君臨之國也」 宇治谷猛訳 「神々は皇孫にこの国を治めさせようと授けられた。 それ故 天地の始めから天皇の治められる国であり」。 出雲大社紫野教会訳「惟神(惟神は神道(かみのみち)に 随(したが)ふを謂(い)ふ。亦(また)自(おの)づからに神道有るを謂ふ)も我が子治らさむと故(こと)寄させき」。 よくわからないが、宇治谷訳から神武天皇の前の神々の時代、治世をさすように思われる。 宗教性は、禊 (イザナギの禊でアマテラスら三貴子誕生)や祈祷(アマテラスの天岩戸)のシャーマニズム。 仏道は、孝徳天皇 「入于吉野、勤修仏道、奉祐天皇」と天武天皇 「東宮見天皇請之吉野修行仏道、 天皇許焉」 寺院は、仏教だけでなく、儒教や中国の宗教、語学、技術などを学ぶところであったと思える。 天皇は国家仏教の権威や守護者であった。 守護者の地位は、武家台頭で荘園を奪われ低下していく。 権威も江戸初期の紫衣事件でとりあげた。 天皇家菩提寺(泉涌寺や般舟院)も維新の仏教排斥で切り離す。 天皇家の祭祀だけが残った。 その後、伊勢神宮を頂点とする社格制度が作られていくことになる。 儒教は、古事記序文の天武天皇を称して 「道軼軒后、コ跨周王、握乾符而ハ六合、得天統而包八荒」 次田真幸訳 「その御政治は、古代中国の黄帝にまさり、御聖徳は周の文王にもまさっておられた。 三種の 神器を承(う)け継いで天下を統一し、皇統を承けて天の下を隈なく統合なさった」。 儒教の理想とする政治を
実現し、かつ中国より優れた政治体制、現代に影響しているのが、江戸の朱子学(儒教)。 乃木希典の逸話 にある中朝事実、著者は儒者・山鹿素行。 吉田松陰も山鹿素行を学んだ。 保守が明治から記紀へ時代を 飛ばす、そういう原点の一節が中朝事実にある。 この山鹿は武士道も書いている。 松下村塾門下の明治の 元勲にこの武士道はなかったようである。 武士道として利用したのが、死ぬこととみつけたりとする葉隠。 葉隠 「毎朝拝みの仕様、まず、主君、親、それより氏神、守仏とつかまつり候也」 主君に忠誠が第一、次が 親に孝、神仏。 山鹿の武士道は、人の上に立つ者の心構えをとく。 葉隠れは、主君に絶対の忠誠や忠義。 (葉隠を読むと武士の奉公や処世術、奉公は終生奉公や滅私奉公とするようなことも書かれている) この儒教 思想の法律は、幕藩の武家諸法度で倫理法であり人治主義。 庶民は、法治主義で公事方御定書によった。 山鹿素行の武士道 http://www2s.biglobe.ne.jp/~yukiya-s/home-2/yamaga.htm 「人皇始定規模於万世之上而 中国明知三綱之不可遺故 皇統一立而億万世襲之不変天下 皆受正朔而 不二其時万国稟 ・・・ 後白川帝後 武家執権 既五百又余年 其間未嘗無 利嘴長距以得擅場 冠猴(猿) 封豕(豚) 縦火秋蓬之類 而猶貴 王室存君臣之儀是」 私訳「後白河天皇(保元の乱)後、武家政権500年、 その間かってない、鳥(嘴かミミズクの頭の毛、距は蹴爪)の独擅場。 猿に冠、豚を封じた。 時に乱れ火を 放つようなこともあった。 しかれども、なお〈皇統は〉貴い。 皇室があるのは、君臣の義が守られたからである」 (文字の語源から訳したが、あまりよくわからない。 しかし、字の意味で、貶めるような表現はわかる。) 尊王と君臣の義で書けないのか、承久の乱(1221年)である。 朝廷が北条執権(政権)に攻撃し敗北した。 北条執権は、首謀者・後鳥羽上皇と二人の上皇を政権から首都からも追放、天皇も廃位させた。 これは革命や 軍事クーデターと今はいう。 朝廷が、鎌倉幕府(北条執権)の権力下になった。 中朝事実(1669年)・皇統章 山鹿素行 国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/754766/40 奴隷制度は日本に無かった。 制度とは奴隷の所有権を登記や奴隷を公設市場で競売するようなこと。 「ローマの法律に、独立の生計を立てる人と、人の奴隷となる者をもって判然別種の民となし、独立の民の有様を 称して「リバーチィ」(自主自由)といい、奴隷の有様を指して「セルビス」(服役)という。 ゆえに自由の語の本来
の意味は、ただローマにおいて独立せる民の有様を言いたるものなり。 しかれどもまたその義を転じて政治上の 意味に用いたることあり。 ・・・ この「リバーティ」の意味は、前に言いたる独立の民と奴隷の民の有様とは事 替わりて、全国人民の身上に自由と束縛の二様あることにて、一国の民、暴君の下に圧制せらるるときはこれを 束縛を受けるといい、もしその圧制を免かるるときは名けて自由を得たりというなり」 西村茂樹 明六雑誌 自由(リバティとフリーダム)のフリーダムを今は使う。 近代民主主義での自由の象徴は、フランスのマリアンヌ (国章)の被るフリジア帽で意味も同様である。 日本国憲法にも、圧政と隷従は書かれている。 で、西洋の奴隷制度に組み込まれたのが戦国時代。 戦利品の捕虜や異教徒(仏教徒など)の妻子をポルトガル 商人に売った。 海外に売られた日本人奴隷の歴史は、ブラジルのニッケイ紙に詳しい。 日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(1)=亜国に残る裁判書類= http://www.nikkeyshimbun.jp/2009/090409-61colonia.html 日本の奴隷史は、日本書紀・孝徳天皇 「又男女之法者、良男良女共所生子、配其父。若良男、娶婢所生子、 配其母。若良女、嫁奴所生子、配其父。若両家奴婢所生子、配其母。 若寺家仕丁之子者、如良人法。若別 入奴婢者、如奴婢法」。 奴(おのこやっこ)婢(めのこやっこ)の子供は奴婢(奴隷)。 売買は、「復有奴婢、 欺主貧困、自託勢家求活、勢家仍強留買不送本主者多」 宇治谷孟訳 「また奴婢の身分の者で、主家の貧し いのを見限って富んだ家に移り、良い生活を求める者がある。 富家は事情を知りつつ、自己のもとに留め、もと の主に代価を送らないということも多い」とあるから、売買はされていた。 奴婢が解放されたのが鎌倉時代。 御成敗式目 「第四十一条 一、奴婢雜人事 右任右大将家御時之例、無其沙汰過十箇年者、不論理非不及 改沙汰、次奴婢所生男女事、如法意者雖有子細、任同御時之例、男者付父、女者付母也」 御成敗式目 http://www.geocities.jp/hgonzaemon/goseibaishikimoku.html 日本書紀巻第廿五 孝コ天皇 http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_25.html 江戸幕府は、御成敗式目(武家法)を踏襲しており、奴隷がいなかったことになる。 しかし、年季奉公と称して 隷従はあった。 秀吉はイエズス会に、奴隷購買者破門令(日本人奴隷を買うとキリスト教から破門)を出させた。 島原の乱の一揆で、禁教(キリスト教)政策として寺院に国民を帰属させ、摘発を目的に五人組を作り、相互監視 と密告を奨励した。 島原の乱は、江戸時代の中で、ただ一人藩主・領主の斬首の例とされる。 切腹や服毒の 自害を幕府が許さず、犯罪者とした。 弾圧の拷問も考案された。 禁教により、寺院は戸籍係となった。 キリシタン史 禁教・潜伏時代 http://www.collegium.or.jp/~take/christi/rekisi4.html 織田信長に。宣教師から黒人奴隷が贈られた。 その黒人奴隷は弥助と呼ばれ、信長の側近で、本能寺の変の後 行方不明とされる。 秀吉の朝鮮出兵での捕虜によって、九州・中国地方の焼き物の産地となった。 イソップ物語は 宣教師とともに伝わった。 こういうのを歴史に切り口にはさむと身近になるのかもしれない。 なんにしても、儒教の君臣の思想は、反民主主義。 明治回帰は、儒教圏国家の中国や北朝鮮化にほかならない。
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