御遺体写真を見ると、小林多喜二さんの殺され方ってどう考えても異常だし怪しすぎる。 陰湿で執拗で超残酷で・・こんなの日本人のやることかね。 ほんとは、100歳近く生きたあのおっさんがやったんじゃね? しばやんの日々
特高警察の「拷問」とはどの程度のものであったのか http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-283.html全文
前回まで3回にわたって、宮下弘氏の『特高の回想』の文章を引用しながら、ゾルゲ事件について書いてきた。
この本を読むまでは「特高(特別高等警察)」という存在は悪いイメージしかもっていなかったのだが、その理由はおそらく、マスコミなどで「日本軍」がロクな書かれ方がされないのと同様に、「特高」も長いあいだ意図的に貶められていた点にあるのではないか。 よくよく考えると、戦後のマスコミや教育界・出版界・学会を長らく支配してきた左翼系の人々が、天敵であった特高を悪しざまに言うのは当然のことだと思うのだ。 ●もちろん、特高出身者の宮下氏が語る言葉が、実際にあったことを控えめに述べている可能性は否定できないのだが、宮下氏は高等小学校後職工生活を経て20歳の時に警察練習所を経て巡査となり、26歳で巡査部長、29歳で警部補に昇進し特高に抜擢された苦労人である。また戦後の特高は解散されて公職追放で職を追われ、悲惨な生活の中で栄養失調で歯がガタガタになってやせこけたという宮下氏に、前の職場を美化する動機が強いとは考えにくいのだ。 ●宮下氏は、特高のいい面も悪い面もかなり正直に述べていると私は判断しているのだが、特高の取調べの際の暴力がどのようなものであったのか、宮下氏自身が語っている部分を紹介することから始めたい。 特高の回想
●「特高警察を特殊視して、そこで暴力・拷問といった固定観念がつくられてしまっている。しかし特高警察と一般の警察がまるでちがったものに考えられているのは誤解です。 司法警察官として検事の命を受けることも、普通の刑事犯を扱う司法警察官と変わりありません。刑事訴訟法のたてまえからいうと、検事が捜査し、司法警察官がそれを補助するということですから、検事が中心です。じっさいに検事が捜査を指揮するわけではないのですが、法のたてまえはそういうことです。警視庁特高であるわたしたちの場合は、東京地検の思想部検事の補助をする。 … ●取調べのさいの暴力ですが、ぶんなぐるというようなことがなかったかというと、それはずいぶんあったかもしれない。それはいろんなものが重なり合って、警察にはそういう習慣があるんです。刑事部屋というのはずっとつづいていますから、それに体罰をくわえるというのは、当時は親でも学校の教師でも、かんたんにやった。わたしなんかも巡査時代、同僚に殴られたりしたことがある。軍隊経験者も多いし、挑発されるとつい手がでる。そういう意味では暴力は警察のなかでは日常化しているということはありました。…」(宮下弘『特高の回想』p.123-124) と、宮下氏は暴力行為があったことは否定しないが、当時は体罰を加えることは、親でも学校の教師でもよくあったことだし、宮下氏が特高に抜擢される前の警察勤務時代においてもある程度の暴力はあり、同僚から殴られたこともあると書いておられる。では特高は一般の警察と較べて、暴力を用いることが多かったのか、少なかったのか。 「そりゃあ刑事の対象は罪のおそれで比較的おとなしく卑屈にもなるが、特高はこれを敵と見て反抗する相手に立ち向かうのだから、一般の警察的な暴力にまた加わるのですよ。これは共産主義者が非合法運動をやっているのですから。 … わたしは特高になったとき、最初に先輩に訊いたことがある。いったい、こんなに乱暴に扱っていいのか、とね。そうしたら、なにを言ってるんだ、なんならむこうに訊いてみろ、と話にならない。共産主義の側からいえば、おれたちは革命をやるんだ、お前たちと戦争しているんだ、立場が逆になれば、おれたちがおまえたちを取締る、ということでしょう。まかりまちがえばあなたたちを殺しますよ、というわけです。あたりまえの話なんで、不法だなんだというようなことは言わぬのだ、と。そういうような状態のなかに、取調べる側も取調べられる側もあるので、いまの人たちが考えるように、そうおかしくはないんです。」(同上書 P.125) なるほど、革命を夢見ている共産主義者からすれば、特高は憎むべき敵であり、特高の取調べは国家権力との戦いであり、その戦いに勝つことが正しいことなのである。したがって、逮捕されたところで罪の意識は殆んどないのだ。そういうメンバーを自白させるのには、一般の警察の場合よりもかなり大きなエネルギーを必要としたことは間違いがないだろう。 多くの日本人は、「特高」といえば「拷問」をしたと考えてしまうところなのだが、そのイメージはプロレタリア作家の作品などで拷問の場面が何度も描かれたことから作り上げられた側面もあると思われる。 宮下氏は、 「知識人や作家が書くものには誇張もあるだろうし、自分を美化するところもあるだろうし、戦後自分は軍と協力した、というひとは一人もいなかったように、書かれるのは特高にひどい目にあわされたという話ばかりですから。」(同上書 P.126) と述べて、実際には嘘話が平気で書かれている書物がある事を具体例を挙げて説明しておられるのだが、その点は省略する。 プロレタリア作家からすれば、国家権力に雄々しく立ち向かう主人公を描くためには、特高の取調べが余程厳しく描かなければ物語が成立しないだろうし、嘘をもっともらしく広めて国家権力を貶めることも権力闘争の一手段であると彼らが考えていた可能性もあると思う。 1209_noro.jpg とは言いながら、特高の取調べの最中に死亡した人物がいることもまた事実である。このことをどう解釈すれば良いのだろう。 『日本資本主義発達史』を著した野呂栄太郎が昭和9年2月に品川警察署から北品川病院に移送された後に死亡しているが、このケースでは、もともと肺結核で療養中のところを検挙され、取調べ中に持病が悪化したために死亡した可能性も考えておく必要がある。 蟹工船
●しかし『蟹工船』を著した小林多喜二が昭和8年(1933)2月20日に特高での取調べ中に死亡した件については、写真も残されており拷問があった可能性を感じさせる。 この小林多喜二の件については宮下氏の言葉の歯切れは良くないのだ。 ● 「拷問で殺したとはおもっていませんよ。殺したというんじゃない。死なせたわけですわね。むろんそれはまずいことですよ。死なせてしまったんですから。いいことをしたというようなことはぜんぜんない、まずいことです。大失敗です。しかし、部内で責任がどうこうということはなかった。誰が責任を取る、追及されるという事柄ではなかった。」(同上書 P.126) dd2fac1fdfb907fa8b4478b3562a06d8.jpg ところがプロレタリア作家の江口換は、赤坂福吉町で小林多喜二とともに捕らわれて、膀胱結核で保釈となった今村恒夫を病院に訪ねて、今村から多喜二のことを聞いたとして 「須田と山口は、にぎりぶとのステッキと木刀をふりかざしていきなり小林多喜二に打ってかかる。築地署の水谷警部補と芦田、小沢のふたりの特高も横から手伝う。たちまち、ぶんなぐる。蹴倒す。ふんずける。頭といわず肩といわず、脛でも腕でも背中でもところかまわずぶちのめす」 とひどい拷問が行なわれたことを書いているという。これは取調べというよりもリンチというべきだが、本当に特高はここまでやったのだろうか。 http://blog.goo.ne.jp/takiji_2008/e/669e9970e90e6d399fb57fdd8d50a4a7 ●次のURLに小林多喜二の遺体の写真があるが、両足が内出血で黒ずんでしまっており正視できるものではない。 http://urano.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-774d.html (☚☚注目) ●しかしこのような拷問がもし日常的に行われていたとしたら、報復で特高警部が襲われたり、自宅が襲撃されるようなことがあってもおかしくないと思うのだが、そのようなことはなかったという。宮下氏はこう述べている。 ● 「ありませんね。わたしはいまの暴力の問題もふくめて、そんなに憎まれるような調べをやったことがありませんから。まえにも言ったが、いま住んでいるわたしの家は戦後建てたんですが、あれはわたしが取調べた共青*の中央組織部長がつくってくれたんですよ。加藤工務店という工務店をやっていましてね。」(同上書 p.127) (*共青:日本共産青年同盟の略。現在の日本民主青年同盟の前身。) ●特高には宮下氏のように、後に取り調べを受けた者から感謝された人物もいたのである。取調べられる方も、自白するかどうかは相手の人柄と力量に左右される部分が大きいのだと思う。 とは言いながら、昭和3年から4年の頃には「取調べる方がなんにもわからないんだから、ひっぱたくしかしょうがない。特高にひっぱられたら拷問というのは、そのころの話がいつまでも伝わっているんじゃないかな。もっとも、その後でも、そういうやり方の人間がいたことは否定しませんが。」(同上書 p.128)とも述べている。 ●さらに、宮下氏は取調べには拷問は必要ないとはっきり述べている。 ● 「とにかく調べというのは、意志と意志の戦いですよ。調べるほうの意志が相手を打ち負かすか、相手の方が優位に立つかで、相手が優位に立てば取調べなんかにならないでしょう。だからぶんなぐるというのも、相手の意志を挫き、弱くする方法であるが、調べる側がじゅうぶんな知識をもってのぞめば、拷問というような手段は必要ないんです。 … 取調べる側からいえば、取調主任の能力が問題ですね。調べられる側の話しやすい人間というか、話してくることをピンと受けるとる感度を持っている人間というか、ですね。それからツボを衝かなければ訊きだすものも訊き出せない。自分でもスリができるくらいでないと有能なスリ係の刑事にはなれないと警察ではよく言いましたよ。バクチの調べでもそうです、自分がぜんぜんバクチできなくては取調べはできない。 われわれでいえば、革命運動をやろうとする心理、それが逮捕されたときの心理、そういうものを知っていて、それから言葉づかいでも彼らと同じ用語を使う。仲間としゃべっているような気分にさせてしまうくらいにね。(笑) 留置場に長いあいだ放り込まれていると、しゃべりたくなるのが人情なので、そのあたりをみはからって取調べに呼び出し、ツボをはずさなければ、たいていはしゃべります。それでもしゃべらないというのは、まず、いません。」(同上書p.128-129) ●教育は教師と生徒との魂のぶつかり合いだという話を聞いたことがあるが、特高の取調べも同様であろう。相手から自白を引き出す仕事はリンチのような拷問行為は必要がないという宮下氏の話にはかなり説得力がある。 ●小林多喜二が死んだ年である昭和8年(1933)の12月23日に、当時の日本共産党中央委員であった大泉兼蔵と小畑達夫の二人が、渋谷区内のアジトで仲間に針金等で手足を縛られ、目隠しとさるぐつわをされて暴行されために、小畑が24日に外傷性ショックにより死亡した「日本共産党スパイ査問事件」という事件があった。 二人に暴行を加えた人物の供述によると「最初に大泉に対して棍棒で殴打するなどのリンチを加え気絶させた。その後小畑を引きずり出し、キリで股を突き刺したり、濃硫酸をかけるなどの凄惨な拷問を加えた。最後に薪割で小畑の頭部に一撃を加えた。そして大泉を引き出して小畑同様のリンチを加えた。大泉はこの拷問に耐え切れず気絶したが、宮本らは死亡したものと早合点しそのまま引き上げた。大泉はまもなく蘇生した。この頃小畑が死亡する。裁判では小畑の死因は外傷性ショックであるとされた」というもので、小林多喜二の場合の場合よりさらに残酷なやり方で小畑は命を奪われていることになる。●二人が仲間から暴行された理由は、特高のスパイ行為を働いたというものであった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%9F%BB%E5%95%8F%E4%BA%8B%E4%BB%B6#cite_ref-4 宮本顕治
●このリンチを行なった中心人物は、後に日本共産党委員長となった宮本顕治である。 宮本はこのリンチ事件の2日後で捕えられたが、なぜ宮本の場合は小林多喜二のようにならなくて済んだのか。 ●そもそも地下活動に入っていた小林多喜二が、仲間と待ち合わせしていた場所になぜ特高警察が待ち伏せしていたのか。いったい誰が多喜二の待ち合わせ場所を特高に洩らしたのか。●特高が多喜二を拷問にかけて死に追いやったのがプロレタリア作家・江口換の記述の通りなら、仲間や家族が国を相手に訴えなかったのはなぜなのか。 ● 私には、この事件にはもっとドロドロとした背景があるような気がしてならない。 ●ネットでは宮本顕治が怪しいと考えている人もいるようだが、なかなか興味のある視点である。 http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/nihon/senzennikkyoshico/hosoku_mifuneco.htm (☚☚☚消失!) 今まで小林多喜二が特高による拷問で死んだ話は何度も聞かされてきたのだが、その前に日本共産党員が昭和5年「川崎武装メーデー事件」で拳銃を発砲し警官やメーデー実行委員を負傷させた事件があった。昭和7年にはスパイ容疑で仲間を射殺する事件があり、10月には拳銃と実弾購入資金を得るために銀行を強盗した「赤色ギャング事件」が起こっている。 そして昭和8年2月に小林多喜二事件があり、12月に「日本共産党スパイ査問事件」があった。 ●このような事件が当時の日本共産党で相次いだことを知ったのは比較的最近のことなのだが、このような一連の事件を伝えずに小林多喜二の特高の拷問で死んだことばかりが強調されるのが公平な歴史叙述の姿勢であるとは思えないのだ。 ● 我々は、教科書や新聞などを読み、テレビや映画などを見ているうちに、いつの間にか「共産主義者やコミンテルンにとって都合の良い歴史」に洗脳されてしまっているのではないだろうか。 ************************************************************** <関連記事>
しばやんの日々 特高が送り込んだスパイに過剰反応した日本共産党 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-284.html抜粋
(略)・・・
●インテリは、スターリンは絶対正しくコミンテルンは無謬であるとの考えが固く特高のS(※スパイ)には不向きで、Sになったのは主に労働者であったという。そして情報入手の際には金銭がからむことが多かったようだ。平均的には交通費の名目で10円から20円だったようだが、非合法の共産党員として活動している連中には生活をみてやらねばならず、月に100円以上渡していたという。 ●また、特高は情報を誰から入手したかが相手に分からないように重々配慮し、相手がSをやめてからも一切名前を明かすようなことをしなかったそうだ。 ●そのため、共産党側では、情報が漏れていることは分かってもどこから漏れているかがわからない。そこで、多くの党員をスパイ、挑発者として除名していくのだが、特高からすれば、スパイでも何でもない人間が処分されていたという。 宮下氏はこういう事例を述べている。 「『赤旗』でも、配布ルートのどこかで入手できたし、のちには印刷直後に入手できるようになりました。 ●だから、印刷局の大串雅美が西沢隆二らにリンチされたりした。あれは宮本や袴田の事件*のちょっと前じゃありませんか。大串が監禁されていた赤坂の印刷所から這い出して、警察に自首してきてわかったのですが。しかし大串はスパイじゃありませんよ。われわれが簡単に『赤旗』を入手するし、つぎつぎに印刷所を手入れするしで、彼らがスパイ摘発をあせった、ということです。」(同上書 p.116) *日本共産党スパイ査問事件のこと ●このように当時の日本共産党はかなり多くのメンバーをリンチにかけているのである。●そして、前回話題にした小林多喜二の事件もこのような時期に起こっているのだ。 (新聞記事画像) ●日本共産党幹部からすれば、スパイ分子を組織から排除することが重要であることはもちろんだが、新たな特高のスパイが生まれないようにしなければならないことは言うまでもない。 ●そのためには、特高がとんでもなく怖ろしい場所であるとメンバーを洗脳することが不可欠であったはずだ。 そのことは、メンバーに特高を怖れていない場合のことを考えればわかる。特高が怖くないと認識されていたら、幹部からリンチを受けそうな気配を感じた場合に、実家などに逃げるよりも特高に逃げることが一番安全となってしまうだろう。それではこれから革命を起こそうとする組織の秘密が守りえない。 ●だから日本共産党幹部は特高の怖ろしい拷問シーンをプロレタリア作家に書かせたのだと思う。 ●宮下氏によると、プロレタリア作家らが書いた特高の拷問に関する記述には、特高に実在しない人物が出てきたり、宮下氏が担当していない人物の取調べで宮下氏の名前が出てきたり、特高では存在しなかった電気椅子が登場したりしているのだそうだ。 ●要するに、特高でとんでもない拷問が行なわれたというプロレタリア作家の記述の多くはフィクションであり、これらの文章がそのまま真実の記録であるかのように考えてこの時代を理解しようとする姿勢は誤りなのだと思う。 ●実際にひどいリンチを行なっていたのは日本共産党の幹部の方ではなかったか。 *************************************************************** <関連記事>
しばやんの日々 日本共産党が在日朝鮮人と連携し武装闘争に走った時代を忘れるな http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-450.html
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杜父魚ブログ 歌手小畑実と宮本顕治 渡部亮次郎
2007.07.18 Wednesday name : Jeo http://kajikablog.jugem.jp/?eid=620066抜粋 (略)
●歌手の小畑実(1923-1979)の経歴を読んでいると「小畑が姓を貰った下宿先の大家を継母に持った男性が赤色リンチ殺人被害者の小畑達夫その人である」と出てきて小畑と宮本顕治との意外なつながりにびっくりする。 (略) ●そういえば大館市周辺には小畑姓が多く、戦後長く秋田県知事を務めた小畑勇二郎もそうだったし、現在の大館市長もその親戚で小畑だ。 ● <宮本は1931年5月、日本共産党に入党。1933年12月26日、街頭連絡中に逮捕されるが、警察・予審の取調べには黙秘を貫いたとされる。 ●その間に、警察が逮捕されたほかの人間の取調べから突き止めたアジトを捜索し、床下より小畑達夫の死体を発見した。 検察は「1933年12月23日〜24日に東京 幡ヶ谷の隠れ家で、袴田里見、逸見重雄、秋笹正之輔、木島隆明の4人と共に、大泉兼蔵と小畑の両中央委員をスパイ容疑で査問。 ● 大泉にスパイであることを自白させたが、小畑は認めなかったため、その際暴行を加え、『硫酸をかけるぞ』と脅したり、馬乗りになったり、針金で縛るなどの暴行を加え続け、ついに小畑を死亡させた」として、治安維持法違反、殺人、不法監禁、死体遺棄などの罪で起訴した。 ● (共産党は、小畑の死因は「特異体質による内因性の急性ショック死」であり、査問時に暴力をふるったことはなく、事件はでっち上げと主張している。 ● 一方、同事件で共に有罪となった袴田里見は、共産党除名後の1978年に、週刊新潮誌上において小畑に暴行を加えて死亡させたと主張した。なお、小畑達夫はスパイではなかったことが後に判明している)。 1934年12月、市ヶ谷刑務所未決監に移監。裁判、1940年に始まり、1944年12月5日、東京地裁は殺意は否定したものの小畑の死因はリンチによる外傷性ショック死であるとして、傷害致死、死体遺棄、治安維持法違反などにより無期懲役の有罪とした。 1945年5月に大審院で上告棄却され無期懲役の判決確定(戦時特例により控訴審は無し)。6月、網走刑務所に収監されたが、すぐに終戦となる。 ●1974[昭和59]年6月26日、民社党の春日一幸委員長は『毎日新聞』の参議院選挙取材で、スパイ査問事件を取り上げ、宮本は小畑をリンチで殺したと主張。選挙の共産党批判に使った。 ●共産党は「小畑は特異体質により死亡したもの」と抗議した。1975年12月10日発売の『文藝春秋』1976年1月号で、立花隆もまた、小畑はリンチで殺されたと主張した。 1976年、春日はこれを国会で取り上げ、再び両党の争いとなった。1月30日、民社党の塚本三郎の質問に対し、稻葉修法相はリンチ殺人を認めた。 ●『文藝春秋』はさらに3月号で、鬼頭史郎判事補により違法コピーされた「刑執行停止上申書」と「診断書」を掲載した。浜田幸一は「日本をダメにした9人の政治家」の中で、 ●「死んだ小畑という人がスパイでなかったことは、その後の調査によっても確実になっている。 彼は最後まで、自分がスパイであることを認めなかった。 ●しかし、宮本氏らは、初めからスパイと決め付けており、相手の言い分を聞こうともせず、一方的に痛めつけた。 こんなのは、査問とは言わない。明らかなリンチである。 ●裁判記録や関係者の調書に拠れば、殴るける、さらには薪割り用の斧で頭を打ったりした。 それでもスパイであることを認めなかったので、今度は目隠し、猿ぐつわをし、 耳には飯粒を押し込んで、両手をうしろまわしにし、針金と縄で縛り、 足も同様にグルグル巻きにして身動きが出来ない状態にして、暴行を加えつづけた。 ●苦痛の余り、小畑氏は『いっそ、ひと思いに殺してくれ』と叫んだ。 しかし、宮本氏らは、頭から黒い布をかぶせて体を縛り上げ、火鉢の火を取ってきて足の甲に乗せたり、 股間を露出させて絞めたり殴ったり、下腹部に硫酸を垂らして責め立てた。 ●その結果、小畑氏は悶死した。宮本氏は仲間に命じて、死体を床下に埋めさせた。」と記している。一方、共産党側も、新日本出版社から『宮本顕治公判記録』(ISBN 4-406-00408-4)を出版し、裁判の実態を明らかにした。 自由民主党は民社党と共同でリンチ殺人事件を追及した。しかし、他の野党は、春日が治安維持法を自明の存在として宮本を非難したことから、春日がこの事件にかこつけて言論弾圧を推進していると警戒した。そのため、野党もマスコミも宮本に同情的であった。 (略)
[スレ主【赤かぶ】による初期非表示理由]:アラシかも(アラシや工作員によくあるコメントはスレ主が処理可能)
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