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「憲法9条こそが新しい」 施行70周年、故・井上ひさしの言葉に耳を傾け、日本国憲法の価値を再認識せよ!(リテラ)
http://www.asyura2.com/17/senkyo225/msg/223.html
投稿者 赤かぶ 日時 2017 年 5 月 03 日 23:15:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

           
                    井上ひさし公式サイトより


「憲法9条こそが新しい」 施行70周年、故・井上ひさしの言葉に耳を傾け、日本国憲法の価値を再認識せよ!
http://lite-ra.com/2017/05/post-3128.html
2017.05.03 井上ひさし「憲法9条は古くない」 リテラ


井上ひさしは日本国憲法の良さを伝えることを「一生の仕事」にしていた

 本日5月3日は憲法記念日、しかも今年は日本国憲法施行70周年にあたるが、この国には世界に誇れる憲法を守ろうという空気はほとんどない。

 政府の最高責任者がことあるごとに憲法を攻撃し、逆にマスコミや国民が「憲法を守ろう」と声を上げようとすると、「政治的」「偏向」などと吊るし上げられ、公共の場所から締め出されてしまう。

 安倍首相は今日、日本会議の改憲集会に「2020年を新しい憲法を施行する年にしたい」とビデオメッセージを送ったが、国民の思想や言論を著しく制限する可能性がある「共謀罪」を例のごとく強行採決させた後は、いよいよ本丸である憲法に手をつけるつもりらしい。

 そんな状況で迎えた施行70周年の憲法記念日、改めてその存在を思い出したい作家がいる。それは、2010年に75歳で亡くなった井上ひさしだ。

『ひょっこりひょうたん島』、『吉里吉里人』、『キネマの天地』、『父と暮せば』など、小説家としても劇作家としても放送作家としても、いまでも愛され続けている名作を多く残した井上ひさしだが、そんな彼がライフワークとしていたのが日本国憲法と平和についてメッセージを発信し続けることだった。たとえば、湾岸戦争とそれに対応する日本政府の動きに危機感を覚えた彼は「週刊プレイボーイ」(集英社)1991年3月26日号のインタビューでこのように語っている。

「今、憲法の論議を深める必要があると思います。今の憲法の成立から我々は考えなくてはいけない。僕自身もこれを自分のこれからの一生の仕事にしようと決めています。僕らが少年の頃にどれだけ憲法に思いを託したか、やっていきたいんです」

「日本国憲法より教育勅語のほうがよほど古い」と語る井上ひさし

 そういった仕事のひとつが『井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法』(講談社)だ。

 この本はタイトル通り、日本国憲法が生まれた経緯や、その憲法の意義について子どもでも理解しやすい平易な言葉で書かれている。『井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法』は2006年に出版されたものだが、そのなかには、まさに2017年のいまだからこそ思い返されるべきこんな言葉がある。

〈このごろ「この憲法は古い」と言う人がふえてきました。そう主張する人は他方で、「明治の教育勅語はすばらしい」と言ったりしますから、なにがなんだかわからない。古いというなら、日本国憲法より、教育勅語のほうがよっぽど古いではありませんか。
 いったい、もめごとがあっても武力でではなく話し合いで解決しようという考え方のどこが古いのでしょうか〉

 前出「週刊プレイボーイ」のインタビューで彼は「僕らが少年の頃にどれだけ憲法に思いを託したか」と語っているが、『井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法』では、この憲法に書いてあることがそれまでの自分の人生観をひっくり返したと書かれている。

 それまで学校では「兵士となって戦地へ行くのか、防衛戦士として本土で戦うのか、それはわからないが、とにかく二十歳前後というのが、きみたちの寿命だ」と先生から言い聞かされてきた。それが終戦を機に180度変わったのである。戦争のせいで若くして死ぬという可能性はなくなったのだ。

〈敗戦の翌年、日本国憲法が公布されたときです。「きみたちは長くは生きられまい」と悲しそうにしていた先生が、こんどはとても朗らかな口調で「これから先の生きていく目安が、すべてこの百と三つの条文に書いてあります」とおっしゃった。とりわけ、日本はもう二度と戦争で自分の言い分を通すことはしないという覚悟に、体がふるえてきました〉

井上ひさし「日本国憲法を捨ててはならない」

 戦争のせいで夢や幸せを諦めなくてもいい。なぜなら、日本はもう二度と戦争はしないから。それは井上少年にとって〈頭の上から重石がとれたよう〉な出来事だったが、同時に、とても難しい生き方を強いられることでもあることを悟る。

〈二度と武器では戦わない。──これは途方もない生き方ではないか。勇気のいる生き方ではないか。日本刀をかざして敵陣へ斬り込むより、もっとずっと雄々しい生き方ではないか。度胸もいるし、智慧もいるし、とてもむずかしい生き方ではないか。そのころの私たちは、ほとんどの剣豪伝を諳んじていましたが、武芸の名人達人たちがいつもきまって山中に隠れたり政治を志したりする理由が、これでわかったと思いました。剣より強いものがあって、それは戦わずに生きること。このことを剣豪たちはその生涯の後半で知るが、いま、私たちはそれと同じ境地に立っている。なんて誇らしくて、いい気分だろう〉(『井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法』)

 彼のこの考えに対し、ネットを中心に蔓延る“自称”リアリストたちは「何を甘いことを言っているんだ」「脳内お花畑」といった言葉を浴びせるかもしれない。しかし、長期的視点で見れば甘いことを言っているのはどちらなのだろう? 「自分たちを守るため」という大義名分で武力行使したことで世の中はどうなったか? 歴史をひもとけば、そのような行為が新たな憎しみしか生まないことは自明だ。

〈人間には残虐な面があることはたしかですが、言葉をもち、その言葉で気持ちや考え方を交換し合う能力があります。むだな争いをやめて、なかよく生きることもできるはず。ちかごろ、この第九条の中身が古いという人たちがいます。「平和主義」という考え方は古いでしょうか。問題が起こっても、戦争をせず、話し合いを重ねて解決していく。その考え方が古くなったとは、私にはけっして思えません。むしろ、このやり方はこれからの人類にとっての課題ですから、第九条は、新しいものだといっていい。日本は正しいことを、ほかの国より先に行っているのです。「平和主義」という考え方は、人類にとっての理想的な未来を先取りしたものだといえます。その考え方が戦争をふせぐ最良の方法だと注目している人は、外国にもたくさんいます。第九条は、世界の人々のあこがれでもあるわけですから、なんとしても、その精神をつらぬいていきたいものです〉(『井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法』)

 安倍首相をはじめ、憲法改正に向けてひた走る人々はしばしば「愛国心」という言葉を用いる。しかし、それは本当に「国を愛する」という意味の言葉なのか? 「週刊現代」2006年8月19日・26日合併号に掲載された藤原紀香との対談のなかで井上は、為政者が喧伝する「愛国心」の真の姿をこのように断じている。

「自分が住む土地の自然や文化・生活、家族が好きだという愛国心です。ところが、その愛国心は政治家に利用されてしまうことがあるんです。
 第二次世界大戦で日本は、「愛する国のために戦え」と国民を戦争に送り込み、純真な子どもたちを軍国少年に仕立て上げた。小泉首相もさかんに「国を愛する心」なんて言うけど、彼が押しつける愛国心は、「自分が行う政治を愛せ」という意味でしかないですね」

 この「小泉首相」を「安倍首相」に代入しても、そっくりそのまま通じることは言うまでもない。

 1945年8月15日から2017年5月3日の今日まで、この国はどうにかこうにか、戦争によって誰も殺されず、また殺さずに済んできた。70年以上にわたって続いてきたその歴史が、いま、変えさせられようとしている。本当にそれでいいのか? 国民ひとりひとりがもう一度よく考えるべきだ。『井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法』からこの言葉を引いて本稿を閉じたい。

〈この六十年にわたって、私たちは目先のことに惑わされて、いろんなものを簡単に捨ててきました。日本にあるものはたいていつまらないものばかりだから捨ててしまってもかまわないという考え方は、日本にあるものはすべて尊いとする考え方と同じように、まちがいだと私は思います。捨ててよいものもあれば捨ててはいけないものもあって、後者の代表が日本国憲法ではないでしょうか〉

(編集部)



















 

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コメント
 
1. 中川隆[-7815] koaQ7Jey 2017年5月03日 23:24:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

アメリカは1943年の時点で日本には未来永劫 自主防衛力は持たせないという方針を決めていた


日本はアメリカの仮想敵国 _ 米軍は日本が独立するのを阻止する為に憲法9条を作り、日本に駐留している


アメリカはアジアを侵略した日本を懲らしめるため、そして国民が好戦的であるから原爆投下をして戦争を終わらせ、いく百万の人命を救ったと、みずからを平和主義者であるかのように宣伝してきた。

だが実際は、日本を侵略し、単独で占領して属国にする計画を、ずっと以前から持っており、それを実現するチャンスと見なして緻密な計画を持って望んだ戦争であった。日本支配にあたっては、天皇を傀儡(かいらい)とする政府をつくることも計画していたし、戦時中も天皇や皇族を攻撃してはならないという命令を米軍将兵に厳守させていた。それは天皇側にも知らされており、近衛文麿や吉田茂などはその線で動いていた。東京大空襲でも皇居は攻撃されていない。

アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」

日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。

三井、三菱、住友、安田の4大財閥は、太平洋戦争中の4年間に重工業においては全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%にふやし、金融では25・2%から49・7%へと急膨張を遂げており、「三菱は戦争のたびに大きくなった」と三菱電機社長はのべている。

 こうして1945(昭和20)年までの15年戦争で、日本の人民大衆は320万人以上が殺され、日本の都市の大部分は焼け野原となり、親兄弟、息子を殺され、家屋敷、家財道具を空襲で焼き払われて失い、塗炭の苦しみを味わった。だがこの戦争で、三井、三菱などひとにぎりの独占資本はボロもうけし、天皇を頭とする支配階級はアメリカによりすがり、アメリカの日本占領支配の下請機関となって生きのびた。そして戦後61年たった今、世界でもまれにみるアメリカの従属国家となっている。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/320mannninngakorosaretadainizisekaitaisenn.htm


戦後日本の「安保」はこうして作られた 〜アメリカ・昭和天皇・吉田茂 「戦後レジームの正体」


「日米安保条約は、憲法と同じように、アメリカ側が強要ともいえるかたちで日本に求めた」

「内外の共産主義から天皇制を守るためには、米軍駐留を確保することが絶対条件であった昭和天皇にとっては、戦後において天皇制を防衛する安保体制こそが新たな『国体』となった」

占領体制の延長のような安保条約を、昭和天皇は天皇制を守る絶対条件と捉え、そして、ダレスに頼まれて「固辞」する吉田首相を叱りつけた。


憲法は、GHQがいわば密室作業でつくり上げたのだが、日米安保条約が、アメリカの強要によるとはどういうことなのか。あらためて日米安保条約が結ばれる経緯をたどってみることにする。


■踏みにじられた正論


1950年、朝鮮戦争が勃発する直前に、国務省の顧問だったダレスが日本にやって来た。東西冷戦が激しくなり、アメリカは日本を西側陣営に取り込むために、講和条約と日米安保条約の取りまとめを急ぎ、その交渉のために訪日したのである。


ダレスは、当時首相だった吉田茂に「再軍備をせよ」と強く要求した。だが吉田はこの要求を頑として断った。


吉田茂〔photo〕gettyimages


「『経済もいまだ回復していないのに、再軍備をするのはおろかなことだ』というのが、吉田の主張であった。それに、日本が再軍備をすればアジア近隣諸国が日本軍国主義の復活を恐れるだろうし、だいたい、日本は憲法で軍備を持たないことになっているから、持てるはずがないと彼は付け加えた。そして、吉田は彼の主張を支える手を打っていた。彼はマッカーサーに対し、日本の再軍備は無理だという立場を前もって説明しておいた」


当時京都大学助教授だった高坂正堯は『宰相吉田茂』(中央公論社)の中で、こう書いている。


ダレスと吉田は、翌1951年1月末にも「再軍備」の話し合いを行った。


「ダレスは前年と同じ議論をくり返し、吉田もまた同じように反駁した」(前掲書)ということだ。つまり、アメリカ側が執拗に再軍備を要求するのを、吉田は懸命に拒んだということになるのだが、豊下楢彦(元関西学院大学教授)は、著書『安保条約の成立』(岩波新書)の中で、この構図を否定している。


ジョン・フォスター・ダレス。日米安保の"生みの親"〔photo〕gettyimages


ダレスは、吉田と会う前のスタッフ会議で、「我々は日本に、我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を獲得できるであろうか? これが根本的な問題である」と述べているというのである。つまり、日本の再軍備への約束を獲得することが最も重要な課題ではなかったというのである。


もっとも、吉田は、独立後もアメリカが占領時代と同じように日本に軍事基地を持つことに反対だったようだ。


1950年7月29日に、参議院で社会党の金子洋文の質問に対して、吉田は「私は軍事基地は貸したくないと考えております」「単独講和の餌に軍事基地を提供したいというようなことは、事実毛頭ございません」と明言し、連合国の側も日本に軍事基地を「要求する気もなければ、成るべく日本を戦争に介入せしめたくないというのが、日本に平和憲法を据えるがいいと希望した連合国の希望だろうと思います」と答弁しているのである。


だが、被占領国である日本が、占領国のアメリカに対する「バーゲニング(交渉)」能力を持てるはずがなく、吉田首相の筋の通った「正論」は、いわば無残に踏みにじられてしまい、ダレスが述べた「我々(※筆者注 アメリカ)が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を獲得してしまうのである。


■日本を無期限に縛る不平等条約


1951年9月8日のサンフランシスコ講和会議で日本が独立してまもなく刊行された「フォーリン・アフェアーズ」誌(1952年1月号)で、ダレスは講和会議の日の午後に調印された日米安保条約について、「アメリカは日本とその周辺に陸海空軍を維持し、あるいは日本の安全と独立を保障する、いかなる条約上の義務も負っていない」と明言しているのだ。


そこで、豊下楢彦の前掲書を引用して、日米安保条約の核心を点検しなおしたい。


「まず、安保条約の第一条では、米軍の日本駐留は義務ではなく米側の『権利』と規定されている。したがって米側は、みずからの判断でいつでも『権利』放棄をして米軍を撤退させることができるのである。


さらにこの米軍は、『日本国の安全に寄与するために使用することができる』のであって、ダレスのいうように安全を保障する義務を負ってはいない。しかし、他方において同じ米軍は、日本の『内乱』に介入し『鎮圧』することができるのである。


より重要な問題は、これら在日米軍の“任務”を規定した条文の最初に、『極東条項』がおかれていることである。しかもそこでは、『極東における国際の平和と安全の維持に寄与』するためと述べられているだけで、米軍の“行動基準”はなんら示されていない。極東とはどの地域を意味するのか明示されていないし、国連との関係にもまったくふれられていない。


要するにこの規定は、米側が『極東』とみなす広大な地域における、日本を拠点とした米軍の『一方的行動』を“保障”したものにほかならないのである」


「第三条では、米軍の配備を規律する『条件』が行政協定で決定されることが謳われている。五二年二月に締結された行政協定では、基地を設置する地域を特定する規定(米比〔※筆者注 アメリカ・フィリピン〕基地協定にさえ明記されている)が欠落した『全土基地化』の権利が米側に保障されている。


さらに、基地外で公務中ではない米軍人の犯した犯罪についても、フィリピンにさえ与えられている裁判権が日本には付与されていない。要するに、米軍には『治外法権』が保障されているのである」


さらに第四条では有効期限も定めず、日本を「無期限」に縛る、占領下と変わらないひどい不平等条約である。


■すべては天皇を守るため


「バーゲニング」能力が全く持てない吉田首相の精いっぱいの抵抗は、講和会議に出席しないこと、「忌避」することであった。吉田は講和会議には「外交界の長老であり、前総理・衆議院議長であった幣原喜重郎」(吉田の発言)に全権を委任するという決意をダレスに示していた。ところが1951年3月10日に幣原が80歳で他界した。


そして4月に訪日したダレスとの会談では、吉田は、佐藤尚武参議院議長に全権を委任すると主張した。首相の自分は日本を離れられないというのが理由であった。


だが、吉田は講和会議を忌避しているのではなく、同じ日に調印することになっている不平等きわまる日米安保条約を忌避するつもりだったのである。


7月7日には会議の開催地がサンフランシスコと決まったが、吉田の「忌避」の姿勢は変わらなかった。


だが、ダレスを含めて米国側は、吉田首相以外の全権は全く想定していなかった。そして吉田首相の「日米安保条約」の「忌避」を認めなかった。結局、吉田首相は「忌避」を翻すのである。どういういきさつがあったのか。


豊下楢彦は、前掲書で「推測」を交えて、それまで誰も示していなかった大胆なストーリーを展開している。


「それでは、かたくなに『異常』なまでに固辞をつづけた吉田がついに全権をひきうける決意を固めた契機はなんであったろうか。それは、天皇への『拝謁』であった。(中略)一九日(※筆者注 1951年7月)の朝に天皇に『拝謁した後に』、吉田は日本の全権団を率いることに『同意』した」というのである。


そして豊下は次のように書いている。


「推測の域を出るものではないが、ダレスは吉田への圧力として“最後の切り札”を切ったのではなかろうか。ダレスは『然るべきチャネル』を通して、吉田への『御叱り』と『御下命』を天皇に要請したのではなかろうか」


徹底的に「固辞」する吉田首相に「全権」を引き受けさせるために、ダレスは昭和天皇を使ったというのである。


占領体制の延長のような安保条約を吉田首相が認めず、全権を「固辞」したのは、それこそ精いっぱいの正論であった。それを、なぜ昭和天皇は「叱り」、吉田首相を翻意させたのだろうか。昭和天皇は、占領体制の延長のような安保条約をどのように捉えていたのか。


豊下は、次のように説明している。


「内外の共産主義から天皇制を守るためには、米軍駐留を確保することが絶対条件であった(中略)昭和天皇にとっては、戦後において天皇制を防衛する安保体制こそが新たな『国体』となった」(豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本』岩波書店)


占領体制の延長のような安保条約を、昭和天皇は天皇制を守る絶対条件と捉え、そして、ダレスに頼まれて「固辞」する吉田首相を叱りつけたのだというのである。


しかし、これは豊下が勝手に決めつけているのではなく、安保条約が調印されて10日を経た1951年9月18日に、マッカーサーに代わったリッジウェイ司令官との会談で、昭和天皇は講和条約を、「有史以来未だ嘗て見たことのない公正寛大な条約」だと高く評価して、「日米安全保障条約の成立も日本の防衛上慶賀すべきことである」「日米安全保障条約が成立し貴司令官の如き名将を得たるは我国の誠に幸とするところである」と、安保条約の成立を絶賛している。


繰り返し記すが、昭和天皇にとっては、天皇制を内外の共産主義から守ることが第一義で、そのためには米軍駐留の確保が絶対条件だったわけだ。


こうして、占領体制の継続ともいえる日米安保条約は、交渉の最高責任者である吉田首相が固辞するのを、ダレスと天皇の圧力によって翻意させ、締結にいたったのである。
http://www.asyura2.com/16/senkyo203/msg/767.html


[スレ主【赤かぶ】による初期非表示理由]:アラシかも(アラシや工作員によくあるコメントはスレ主が処理可能)

2. 忍穂耳の垢[542] lEWV5I6ogsyNQw 2017年5月04日 00:27:56 : 4eQo1HRGtI : jzF1Oy5mc4c[46]
井上ひさし氏の言葉は、
残念ながら、それは敗戦後の日本という「場」でのみ意味をもつだけのこと。
それは、
誤った政治によって、多くの同胞を失った、その反省に生きる者の言葉だろう。
なんとか武力に傾く性向を押しとどめんとする、かの異常な時代が生んだものだ。


>いったい、もめごとがあっても武力でではなく話し合いで解決しようという考え方のどこが古いのでしょうか〉

武力ではなく、話し合いで解決しようという考えには、残念ながら限界がある。
もし、それで解決できるのなら、警察は必要がないだろう。武力が要らないのだから。
だが、
現実はそうではない。
話し合いの先にある「許し」とは別に、「力」で征圧しなくてはならぬ場面もあるのだ。
あたりまえの話しだ。
たとえばわが子が、怒り狂った猛獣に襲われたとき、話し合いどころの話ではなかろうに。

物事には、必ず「許し」と「力(ちから)」の両面がある。
残念ながら、井上ひさし氏は、そうしたほんとうの知恵から遠ざかるほどに、戦争の傷あとが深かったのだよ。


>〈二度と武器では戦わない。──これは途方もない生き方ではないか。勇気のいる生き方ではないか。日本刀をかざして敵陣へ斬り込むより、もっとずっと雄々しい生き方ではないか。・・

これは、左巻きさんが酔いしれるくだりかも知れぬが、
はたして、
どれだけの左巻きさんが、攻め込んできた暴徒・外敵に無抵抗に従えるのかと、
あなたは、これが出来るのかと、問うておこう。
こうしたことは、自らの命を捨てた求道者がすればよい。それに酔うのは既に部外者ということ。
これを、一般の人に求めてはダメなのは、あたりまえのこと。脳内妄想とは、このことだ。

さて、以降は、井上ひさし氏の言葉ではなさそうだが‥

>しかし、長期的視点で見れば甘いことを言っているのはどちらなのだろう? 「自分たちを守るため」という大義名分で武力行使したことで世の中はどうなったか? 歴史をひもとけば、そのような行為が新たな憎しみしか生まないことは自明だ。

そんなことはない。
「甘いこと」を続けたがゆえに、
さらに「甘いこと」な思想をイスラム国家群にも囁いたがゆえに、
欧州は、たいへんな移民に苦しみ、各地でテロの危険が増すようになった。

自由や人道は、
戦前・戦後を生きた井上ひさし氏にとっては、善きことだったかも知れぬが‥、
それに偏り過ぎれば、風習や信仰が異なる民の争いが増してゆくだろう。今の欧州のようにだ。
それは、
慈母愛にあふれた思想が、必然的に惹起する、内乱なのだ。
人道だ平等だと許してしまう母のもとで兄弟達は、より烈しく争い合うだろう。

歴史は、
この慈母愛への傾きと、それに勝とうとする秩序への傾きとが、
かわるがわるに、立ち上がってきただけのこと。

いいかげんに、目を覚ますがよい。


3. 2017年5月04日 00:44:44 : a5YCGSgYHI : 6RrnF@oq1d4[20]
こういうきれいごとを言いながら妻女にはDVふるってた御仁だから・・・(その作品まで否定しないが)
今さらこんな鍍金の剥げた権威を担ぎ出してくるところに既成護憲派のセンスのなさがあるのではないだろうか

4. 2017年5月04日 00:45:39 : qmqtxfR48c : uyTQ4dcCypU[3]

自衛隊、軍事基地、軍事経済、、、時代にそぐわない腐臭を放つゴミだ、多くの国民が平和国家日本の恥だと考えている。
一掃しなければならない。
宣伝リンク認定28710530.html
自衛隊、軍事基地、軍事経済、
戦後アメリカに無理矢理押し付けられ、いまその犯罪性が全土に染み渡り、社会は酷いことになってしまった。

5. 2017年5月04日 01:03:12 : gknwuDk82w : lCHu7DvXEaU[3]
> 中川隆[-7815] koaQ7Jey 2017年5月03日 23:24:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]


ここはコピペをする場所じゃないんだよ。

何度言ったらわかるんだ。

これだから在日は困る。

少しは忍穂耳の垢さんを見習え!


6. 2017年5月04日 17:16:59 : S2W8kv9dpA : YshdBYf6g5o[1]
嫁を殴り続けた亭主が平和憲法ってどんなブラックジョークだよ。


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