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沖縄・名護市にあるキャンプ・シュワブの海岸 (c)朝日新聞社
沖縄論壇と本土との亀裂は取り返しがつかないほど深い〈AERA〉
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170430-00000016-sasahi-soci
dot. 5/1(月) 16:00配信 AERAオンライン限定記事
4月23日に投開票された沖縄県うるま市長選をめぐり、自民党の古屋圭司選挙対策委員長が告示日に自身のフェイスブック(FB)で、野党系候補の公約を「市民への詐欺行為にも等しい沖縄特有のいつもの戦術」と発信した。
これを、「沖縄」に対する蔑視ではない、と突っぱねるのは無理があるのではないか。
「本土」でも報道されたが、批判の声は盛り上がらず、むしろ古屋氏に同調する一団が勢いづいたのが実情だろう。こうした展開には既視感がある。
沖縄本島北部の米軍北部訓練場の部分返還と引き換えに整備された、高江(沖縄県東村)の米軍ヘリパッドはさまざまな疵を残した。とりわけ深く県民に刻まれたのは、反対運動の現場に派遣されていた大阪府警の機動隊員が、市民に向かって「土人」「シナ人」と発した昨年10月の出来事だろう。
沖縄タイムス記者の阿部岳は「発言後の展開も、発言自体と同じくらい、今の日本を象徴していた」(『越境広場』3号)と嘆く。松井一郎大阪府知事はツイッターで「出張ご苦労様」と機動隊員をねぎらい、鶴保庸介沖縄担当相は国会で「差別であると断じることは到底できない」と言い張り、政府は閣議決定した答弁書で問題はないと擁護した。その結果、「政府の公式見解で、差別発言はないことになった」。
阿部は「高江の現場で『安倍政権を倒す』という言葉を聞くたびに、違和感を覚えた」ともつづる。理由はこうだ。「安倍政権の所業は確かに目に余る。だが、それを本土の多数が選挙で繰り返し正当化し、お墨付きを与えている。たとえ何かの拍子に安倍政権が『打倒』されても、本土全体が一歩でも半歩でも変わらなければ、次の政権が同じことを始めるだけではないか」
沖縄を封じる「壁」は幾重にも広がる。「本土」の人間として高江の「座り込み」の現場に通った映像作家の古賀加奈子はこう告白する。
「私自身は、沖縄の歴史と人々の思いを知るにつれ、『加害者の日本人』としての自分にも苦しむようになっていった。主語が変わると歴史は変わる。歴史認識の違いを、沖縄の人は良く知っているけれど、たいていの日本人は知らない。そのことが対話をこばみ続け、問題解決の糸口を見えなくしているように思う」(『越境広場』3号)
「歴史認識の違い」に着眼する古賀の論考は、沖縄と「本土」の対話の土台を築くのに不可欠な視座であろう。過去を学び、想像力を働かせるのは沖縄と向き合う上で必須の作法だが、それだけの忍耐と余裕が今の「本土」社会には失われているように思われる。
「東京で暮らし始めて10年が過ぎた」という国際基督教大学教授の田仲康博は「この街の風景を見ているとひどく気がめいることがある」(1月5日付沖縄タイムス)という。
「東京の<日常>は、さまざまな矛盾の下で生きることを強いられる周縁部の人びとの<非日常>に支えられているのだが、そのことにまったく無頓着な人びとの群れで街は今日もにぎわっている。沖縄をめぐる問題を考える際には、この圧倒的な<まなざし>の非対称性を見すえる必要がある」
田仲はこの「傍観者の群れ」が現政権を支え、「通り一遍の報道しかできない中央メディア」またも、<傍観者>の側に属していると指摘し、こう喝破する。
「本土の人びとにとって、沖縄問題が『地域限定』の『沖縄の人びとのみが担うべき問題』として認識されている限り、日米政府の暴力がやむことはないだろう」
沖縄の中でも国境に接する「周縁部」に置かれた八重山地域。ここでも「基地問題」が最大の焦点に浮上している。陸上自衛隊配備計画をめぐり、昨年末に市長が突如、事実上の配備容認ともとれる表明を行った石垣市は混乱の渦中にある。
島在住の詩人、八重洋一郎のまなざしは鋭く「中央」を射ぬく。
「今日も辺野古では抗議の声が続いている。尖閣では海上保安庁警備艇と中国公船との対峙。沖縄はその苦悩の故に日本という闇をあぶり出し、辺境はその敏感な恐怖の故に中央の鈍感な自己陶酔者を底の底まで透視する」(『沖縄思想のラディックス』未来社所収「南西諸島防衛構想とは何か」)
近年は沖縄でも、軍備強化容認派が一定の存在感を示しつつある印象は否めない。だが、留意しておきたいのは賛否両派に共通する切迫感だ。軍事拠点化が進むことで軍事の標的にされることを拒絶する軍備強化反対派と、中国の軍事的台頭への対抗措置によって安心を得たいとする軍備強化容認派の双方に、生活実感に根差した「リアルな安全保障観」が内在している。
沖縄世論はそうした点からも、他に選択肢がないとの理由で安倍政権を支持し続けている「本土」の多数世論とは異質といえる。こうした内実を踏まえ、「本土」で沖縄を語るのであれば、相手の心象風景を塗り替えるほどの覚悟で臨まなければならない。
そこに、「歌人」はどのように斬りこむのだろうか。
2月5日に那覇市内で開かれたシンポジウム「時代の危機に立ち上がる短歌」を、琉球新報が2月23日付で詳報している。永田和宏(「朝日歌壇」選者)の指摘に頷かされる。
「沖縄に基地が集中している状況を許してはいけないという思いはある。だが、それをそのまま歌うと空々しい言葉になる。『それは本当にお前の言葉か』と、自己相対化する視線を持っていないといけない」
このシンポは、『現代短歌』2月号での「特集 沖縄を詠む」と連動している。同誌に掲載された坂井修一の意見には、「歌人」でなくとも耳を傾けたい。
「歌人として沖縄を思うことは、遠い親戚の消息を尋ねるようなことではない。私たちの心のありようを真剣に探ることのはずだ」
ウチナーンチュ2世の移住者の視点で精力的に執筆している仲村清司の著書は、作品ごとに哀切と陰影が深まっていく。『消えゆく沖縄』(仲村清司著、光文社新書)の読後感も痛切だ。この本の帯には「遺言」と書かれている。それに該当すると考える一節を、私の独断で拾わせてもらうと以下になる。
「間違ったかたちで日本に追随したり支えたりすると沖縄は自滅する」
「移住生活20年の光と影」の副題が付く同書。著者の領域には遠く及ばないが、私も移住者として沖縄に17年間暮らした。地元紙で主に基地問題を担当し、今ひしひしと感じているのは、事態が悪い方向に向かうのを止められなかったことへの痛惜の念である。今や沖縄は誰の目から見ても、日米の軍事拠点と化しつつある。その延長線上には、「沖縄戦」の再来という歴史的既視感が像を結ぶ。
作家の目取真俊は辺見庸氏との対談(4月16日付沖縄タイムス、琉球新報など<共同通信配信記事>)で、こう問い掛ける。
「沖縄が暴動寸前の状況になり、本当に米海兵隊が撤退する事態に至ったとき、ヤマトゥの人は『沖縄県民が望んだことが実現してよかった』と歓迎するだろうか」
さらに沖縄独立論に触れ、「まだ政治的力」はないとしつつも、「そもそも、日本政府が独立を認めることはあり得ないと思う」と悟り、こう予見する。「領土だけではなく、広大な領海も失う。そうなれば、自衛隊が出動し、県民に銃を撃つかもしれない」
これは妄想ではない。歴史認識を欠いたまま、「本土」の人間が沖縄に対して当事者意識をもつとき、その振る舞いはより残酷になるリスクは確かにある。
作家の姜信子は非常勤講師をしていた九州の大学で、石垣市在住の八重山戦史・芸能史研究の第一人者である大田静男氏を招いた特別講義でのエピソードを紹介している。
「大田さんは講演の最後に学生たちにこう尋ねた。『沖縄が独立宣言をする、それを認めぬ日本国が沖縄を攻撃するとする、もし君たちが日本軍兵士ならば、国家の命令通り沖縄に銃を向けるか?』。そのとき、大教室にいた男子学生の多くが、銃を向けると答えた」(3月2日付琉球新報)
これは10年余り前の出来事だというが、現在であれば一層酷い学生たちの反応に直面するのではないか。そう悲観せずにはおられないほど、沖縄と「本土」の亀裂は取り返しがつかないほど深まってしまった。
この国の内部で今、何かが壊れつつある。沖縄のシグナルに耳を傾けることが日本の進路を誤らせないためにも重要である、と確信している。(編集部・渡辺豪)
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