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NHKスペシャル 「憲法70年 “平和国家”はこうして生まれた」 
http://www.asyura2.com/17/senkyo225/msg/124.html
投稿者 赤かぶ 日時 2017 年 5 月 01 日 13:30:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 


NHKスペシャル 憲法70年 “平和国家”はこうして生まれた

NHKスペシャル 動画 憲法70年 “平和国家”はこうして生まれた 2017... 投稿者 vns00223165
※後段に文字お越しがあります。


NHKスペシャル 憲法70年 “平和国家”はこうして生まれた
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20170430
初回放送 2017年4月30日(日) 午後9時00分〜9時58分







日本国憲法の施行から70年を迎える。今、新たな資料の公開で憲法誕生の知られざる舞台裏が明らかになりつつある。

たとえば「昭和天皇実録」などの公開で浮かび上がった新事実。それは昭和天皇が敗戦直後の昭和20年9月4日、勅語で「平和国家の確立」を明らかにし、憲法改正の調査を命じていたことである。

さらに幣原喜重郎首相が戦争放棄をマッカーサーに提唱。GHQは戦力不保持の草案を作成する。しかし、GHQ草案の条文に「平和」の文字はなかった。では、どこから来たのかー。

番組では、近年、発掘された新たな資料をもとに、日本国憲法が誕生していく1年8か月を描く。








































NHKスペシャル「憲法70年 “平和国家”はこうして生まれた」 2017.04.30
http://o.x0.com/m/481923
2017.04.30 Mediacrit

うだるような暑さに包まれた国会に14人の議員が集まりました。

初めにちょっと申し上げる事が…。

日本国憲法の誕生前夜憲法改正案の審議を進める秘密の小委員会です。

議論が白熱。

焦点となったのが戦争放棄を定めた第九条でした。

戦後日本の国のあり方を定めた日本国憲法。

第九条で平和の理念がうたわれます。

「国際平和を誠実に希求し」。

実はこの冒頭の条文はもともとの憲法の改正案にはありませんでした。

憲法の草案を作成したGHQ。

マッカーサーは「戦争の放棄」「戦力の不保持」を規定しますが条文に「平和」の文言は入れなかったのです。

では憲法九条の平和主義はどのように生まれたのか。

その経緯をたどる極秘の資料が発見されました。

昭和天皇が敗戦後間もなく勅語で初めて「平和国家」を掲げたのです。

平和国家の理念が広がる焼け跡の日本。

昭和21年1月天皇陛下が6年生だった時の書には「平和国家建設」とありました。

「平和」の文言はどのようにして憲法九条に盛り込まれたのか。

一人の議員が国会で提案した事が分かりました。

平和国家日本の出発点となった日本国憲法。

新たに発掘された資料から憲法第九条が誕生するまでの1年8か月に迫ります。

日本国憲法が施行されてから70年を迎えようとしています。

「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」を掲げた憲法。

中でも大きな柱である平和主義はどのようにして生まれたんでしょうか。

最近資料の公開が進み新たな事実が次々に明らかになってきました。

平和主義を定めた日本国憲法。

その第九条です。

この3つが規定されています。

そして冒頭に「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という条文があります。

この部分は憲法の基になったGHQ連合国軍総司令部の草案にはありませんでした。

では70年前焼け跡の広がる日本で平和の考え方はどのように誕生し憲法に盛り込まれたんでしょうか。

番組では平和国家の出発点となる重要な資料を堀り起こしました。

敗戦から間もない昭和20年9月の出来事です。

日本は降伏文書に調印します。

ポツダム宣言を受け入れ非軍事化民主化を進める事になりました。

2日後9月4日戦後最初の国会が開かれます。

日本は新たにどのような国家を目指すのか。

国会を召集したのは明治憲法で統治権の全てを握っていた昭和天皇です。

天皇は開院にあたって自ら勅語を読み上げました。

「平和国家を確立」。

新たな日本の建設に向けて昭和天皇が「平和国家」という目標を初めて掲げたのです。

歴史学者の和田春樹さんはこの「平和国家確立」の勅語が敗戦から間もない日本に大きな影響を与えたと考えています。

天皇の「平和国家」の勅語はどのようにして出来たのか。

重要な資料を私たちは去年発見しました。

勅語が出来るまでの極秘の草案です。

何度も修正を繰り返して作成された事が初めて明らかになりました。

草案は第1案から第4案まであります。

その第1案。

ここに「平和国家」の文言はありませんでした。

示されていたのは「国体の護持」です。

国体天皇を中心とする国のあり方を護る事は政府の最大の課題でした。

ところが第2案では「国体の護持」が消されます。

続く第3案で加筆されたのが「平和的新日本を建設」。

ここに「平和」が初めて登場します。

書き加えた人物も分かりました。

首相の東久邇宮稔彦です。

戦後最初の首相となった皇族の東久邇宮。

内閣や宮中に諮りながら草案を編み出しました。

なぜ「平和」の文言を勅語に加えたのか。

東久邇宮は「平和国家」の勅語が示された同じ国会で演説しています。

日本がポツダム宣言に従って非軍事化民主化を進める事を強調しようとしたのです。

昭和天皇の「平和国家」の勅語にいち早く反応した憲法学者がいました。

勅語を報じた記事を切り抜いて大学の講義に用いていました。

東大教授の宮澤俊義です。

後に政府の下で憲法改正に取り組む宮澤は平和国家に着目。

敗戦直後の9月「武装解除と平和主義」について講義を行っていました。

「原子爆弾のようなものが発明された今日戦争を行うという事はどう考えても無意味である」。

宮澤は「武備なき国家」を戦後日本の姿として思い描いていました。

焼け跡の日本に広がる平和国家の理念。

文部省は9月15日に「新日本建設の教育方針」を発表します。

その柱が「平和国家の建設」でした。

昭和天皇が掲げた目標は敗戦から僅か1か月で教育現場でも大きな方針となったのです。

長年憲法の制定過程を研究してきた古関彰一さん。

「平和国家」の理念は新しい天皇の姿を世界に伝える重要な意味があったと言います。

戦前の大日本帝国憲法いわゆる明治憲法では天皇は陸海軍を統帥する大元帥であり国際社会から厳しい目を向けられていました。

昭和天皇は海外に平和国家のメッセージをどのように伝えたのか。

戦後初めて天皇と会見した外国人がいます。

クルックホーンさんの叔父は新聞記者でした。

従軍記者だったフランク・クルックホーン。

9月25日昭和天皇に会見しました。

家族のもとに残した回想録が非公開のまま眠っていました。

回想録には宮中の表拝謁の間で会見した時の天皇の言葉が記されていました。

この会見の記録が宮内庁に残されていました。

クルックホーンの事前質問に対する昭和天皇の英文の回答文書です。

非武装の平和という昭和天皇の回答。

英文の回答を書いたのは戦前外務大臣を務めた…幣原の晩年共に暮らした孫の…戦前軍縮条約を結んだ幣原は軍部から軟弱外交と批判されました。

昭和天皇はクルックホーンとの会見の2日後9月27日マッカーサーを訪ねます。

天皇は「平和の基礎の上に新日本を建設する」事を伝えました。

天皇が占領政策に協力する事を確認したマッカーサー。

日本政府に憲法改正を促していく事になります。

昭和天皇と側近たちもいち早く憲法改正に向けて動き始めます。

3年前に公開された…天皇と憲法の関わりが明らかになりました。

従来は敗戦直後の日本政府は憲法の改正に消極的だったと考えられてきました。

ところが敗戦の1か月余り後9月21日の昭和天皇の記述です。

憲法改正問題について調査を依頼していたのです。

白羽の矢が立ったのが戦前首相を務めた近衞文麿です。

天皇の下近衞はどのような憲法改正を目指していたのか。

当時近衞が持ち歩いていた手帳を初めてテレビで撮影しました。

手帳からは「民主主義の意味」と題したメモ書きが発見されました。

「国民多数の意向に従った」「君民一致」こそ新しい憲法にふさわしいと考えていました。

近衞は天皇の軍の統帥権など大権を制限する事で明治憲法の改正を進めようとしていました。

しかし同じ時期に近衞とは別の憲法改正調査が始まります。

新たな首相に幣原喜重郎が選ばれました。

幣原は内閣に憲法問題調査委員会を設置します。

元東大教授の松本烝治国務大臣を委員長に憲法の改正調査に乗り出しました。

ここに憲法改正は天皇の意向を受けた近衞と幣原内閣による調査が並行する事になりました。

ところがこのころ近衞を戦犯容疑者として訴追しようとする動きが進んでいきます。

東京裁判に向けてGHQが戦争指導者たちを次々に逮捕します。

この間「昭和天皇実録」によれば天皇は「近衞文麿による憲法改正調査」を気にかけその進み具合を何度も確認していました。

12月軍や政府の首脳に続いて皇族の梨本宮が逮捕されます。

更に近衞に逮捕令が出されました。

出頭当日近衞は服毒自殺しました。

近衞の死によって昭和天皇の下で始まった憲法改正の調査は挫折したのです。

ご覧頂いたように敗戦後間もなく昭和天皇は「平和国家の確立」を勅語で示しました。

平和国家という新たな目標は焼け跡の日本に広がりその後の平和の考え方に大きな影響を与えた事が分かってきました。

更に昭和天皇が早くから明治憲法の改正に向けて動いていた事も明らかになりました。

改正のための調査を命じられたのは元首相の近衞文麿でした。

しかし近衞の憲法改正はその死によって挫折します。

憲法改正の調査は幣原首相の下憲法問題調査委員会が担う事になりました。

こうした中マッカーサー率いるGHQは日本政府に憲法改正を促し注視していました。

次は敗戦の翌年戦争放棄の条文がどのように生まれたのかGHQと幣原内閣の憲法を巡る交渉を見ていきます。

元日に昭和天皇はいわゆる人間宣言を行います。

天皇を「現御神」とする神格を自ら否定しました。

GHQは平和国家に向かう日本の動きを注視していました。

それを示す記録がアメリカ国立公文書館に眠っていました。

アメリカ陸軍が撮影した記録アルバムです。

幣原内閣昭和天皇の動向などが報告されています。

学習院の授業風景です。

天皇陛下が初等科6年だった時の書の写真がありました。

写真のキャプションには新年の「書き初め」と記されています。

「平和国家建設」。

平和国家の理念が日本に広がりつつある事をアメリカは把握していたのです。

一方アルバムには東條英機ら戦犯容疑者の姿があります。

東京裁判の開廷を前に昭和天皇の戦争責任を追及する声が国際社会にありました。

こうした情勢を受けて幣原首相が動きます。

幣原はGHQにマッカーサーを訪ねます。

通訳もつけず2人で3時間にわたって話し込みました。

マッカーサーに一体何を伝えたのか。

会談の内容を伝える資料が残されています。

幣原の友人が会談の内容を聞き娘がそれを書き残しました。

幣原がマッカーサーに切り出します。

「どうしても天皇制を維持させたいと思うが協力してくれるか」。

マッカーサーが答えます。

幣原が提案します。

幣原が提案したのが「戦争の放棄」でした。

マッカーサーと幣原「大いに二人は共鳴した」と記されています。

天皇制の維持と戦争の放棄を伝えた幣原。

その真意は何だったのか。

天皇制を守ろうとした幣原。

戦争放棄の提案については次のように書き残しています。

「国民が子々孫々その総意に反して戦争の渦中に引き込まれるが如きことなきよう」。

戦争の放棄を提言した幣原。

幣原の下憲法改正調査を進めていた委員会でも平和国家の理念を新しい憲法に盛り込もうとする憲法学者がいました。

宮澤俊義です。

昭和天皇の「平和国家」の勅語を受けて東大で講義を行っていたあの人物です。

極秘の委員会の議事録から宮澤らの主張が明らかになりました。

「潔く裸になって平和国家としてやっていく」。

宮澤は明治憲法で天皇の軍の統帥権を定めた第十一条など軍の規定を全面的に削除すべきだと主張しました。

しかし宮澤らの主張は軍の規定を残置残しておくべきだという主張とぶつかります。

反対の中心となったのは委員長の松本国務大臣。

明治憲法の改正には消極的でした。

政府が作成を進めていた憲法改正案がスクープされます。

天皇を中心とする君主主義はそのまま認められていました。

GHQは直ちに条文を分析し「極めて保守的」と批判します。

マッカーサーはGHQが憲法の草案を作成する事を決断します。

マッカーサーが急いだ背景には極東委員会の存在があります。

連合国の日本占領の最高機関として2月下旬に発足しGHQを管理する事になっていました。

極東委員会にはソビエトやオーストラリアなど天皇制に厳しい意見を持つ国も加わっていました。

マッカーサーは新たな憲法の基本原則を自ら示します。

いわゆるマッカーサー・ノートです。

そこに後の憲法九条につながる「戦争の放棄」が定められました。

マッカーサーは戦争の廃止そして戦力の不保持交戦権の否認を打ち出します。

更に「自己の安全を保持するための」戦争つまり自衛戦争を否定しました。

マッカーサーはGHQ民政局に1週間で憲法草案を作成するよう命じます。

戦争放棄の条文を担当したのが…ケーディスは自衛戦争を否定した箇所を削除したといいます。

その理由を生前証言しています。

ケーディスによる修正です。

自衛戦争を否定した箇所が削除されます。

新たに「武力による威嚇または武力の行使」が加えられました。

これにより侵略戦争を明確に否定したのです。

GHQ草案が完成します。

新しい憲法草案では多くの人権規定が盛り込まれ天皇は象徴とされました。

翌日GHQは憲法草案を日本側に示し次のように伝えました。

日本政府はGHQ草案を受け入れます。

条文の検討が行われ政府による帝国憲法改正案の作成が進められる事になります。

4月戦後初の総選挙が行われ吉田茂が首相となります。

憲法改正案の条文についていよいよ衆議院で審議が始まろうとしていました。

ご覧頂いたようにGHQ草案を基に「帝国憲法改正案」が作られました。

第九条の基になった条文です。

幣原首相が提案した「戦争の放棄」はGHQによって憲法に規定されました。

GHQのケーディスが「武力による威嚇または武力の行使」を加えて侵略戦争を明確に否定しました。

これは「国連憲章」から引用しています。

そして「戦力の不保持」「交戦権の否認」も規定されました。

こちらは日本国憲法の第九条です。

冒頭には「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」とあります。

ところがこの条文は改正案にはありません。

ではどのようにして生まれたんでしょうか。

実は衆議院の小委員会で国会議員たちが熱い議論の末に書き加えた事が新たな資料から分かってきました。

国会で帝国憲法改正案委員小委員会が始まります。

出入りが厳しくチェックされる秘密会でした。

小委員会の議員は14人。

各政党から法律の専門家らが集まりました。

およそ1か月にわたって憲法の条文を巡り議論を戦わせます。

秘密会だったその記録は戦後50年間封印されていました。

近年速記録が公開されます。

日本人の手で多くの条文が追加修正された事が分かりました。

第二十五条の生存権。

第二十六条義務教育の中学までの延長。

そして第九条。

この小委員会で「平和」の文言が加えられた事が明らかになりました。

九条の「平和」について提言したのは日本社会党の鈴木義男です。

後に司法大臣となる鈴木義男。

その主張は九条の冒頭に「平和を愛好する」という文言を追加する事でした。

ほかの議員からも賛同の声が上がります。

犬養毅首相の息子で後に法務大臣を務めます。

なぜ鈴木は「平和」の文言にこだわったのか。

法学者だった鈴木に影響を与えたのは第一次世界大戦後のヨーロッパとアメリカの留学体験です。

人類初の世界戦争となった…戦死者は1,000万人近くに上りました。

大戦後講和会議が開かれ平和を求めて国際連盟が設立されます。

鈴木は国際協調と戦争を違法化する新しい考え方を学びます。

帰国して東北帝国大学教授となりました。

しかし鈴木を待っていたのは軍国主義へ向かう日本でした。

教育現場に軍人を配属して軍事教練の強化が進みます。

この動きを鈴木は「殺人術を教える」と反対し新聞で訴えました。

「人類文化の理想が平和にある」。

辞職に追い込まれて弁護士となった鈴木は治安維持法違反に問われた人々の弁護に取り組みます。

戦争に突き進む時代の中で無罪を主張しました。

同じ頃日本は旧満州中国東北部に進出。

国際的な孤立の道を歩みだします。

国際連盟の勧告に反発した日本は連盟を脱退しました。

再び起こった世界大戦。

太平洋戦争では日本人だけで310万人が犠牲となりました。

なぜ2度の世界大戦を防げなかったのか。

その反省から…国際社会が協力して平和を維持しようとする動きが生まれました。

鈴木義男は国際連合が誕生していく世界を見つめていました。

戦後国会議員となった鈴木は発言しています。

国際関係史を研究する油井大三郎さんは鈴木義男の孫です。

九条に「平和」の文言を追加するよう主張した祖父の真意を問い直しています。

2度の大戦を経て国際平和に動き出した世界に日本が積極的に参加すべきだという鈴木の提案。

この提案を芦田委員長が受け止めました。

外交官出身の芦田均。

戦前軍部を批判するなどリベラルな政治家として知られていました。

芦田はある資料を持ち出します。

この時芦田たちが手にしていた外務省の資料。

私たちはこの資料を発見しました。

外務省は憲法の修正がどのような国際的な影響を及ぼすかを考察し注意を伝えています。

国際法規は憲法と共に尊重するよう求めていました。

なぜ外務省は国際法規にこだわったのか。

資料を作成したのは条約局長の萩原徹だった事が分かりました。

この資料を提出した理由を萩原は報告書に残していました。

戦前大陸に進出して国際連盟を脱退した日本の外交を「ドンキホーテ式外交」と指摘。

日本の伝統的な外交を破壊したと考えていました。

この資料から憲法改正への外務省のなみなみならぬ期待を油井さんは読み取ります。

「ドンキホーテ式外交論の基調をなしていたものであるから」。

「新日本が国際秩序の中にのみ存在し得る」。

萩原は新たな憲法で日本を国際秩序の中に位置づけたいと考えていました。

外務省が小委員会に提出した資料です。

「条約」「国際法規」に加え鉛筆で「これを誠実に」「遵守する」事が記されています。

これを受け憲法第九十八条に第二項が追加されます。

更に小委員会では芦田委員長がこの外務省の資料を九条の修正に生かそうとします。

各党の委員が争うように条文を提案します。

党派を超えて次々に条文の提案が出されました。

2日後の7月29日。

再開された小委員会の冒頭で芦田委員長が一つの案を示します。

鈴木が最後の「声明す」の削除を求めました。

憲法九条の平和主義が誕生しました。

こうして今から70年前に日本国憲法は誕生しました。

その第九条です。

第九条の冒頭の条文は衆議院の小委員会で加わりました。

鈴木義男の発言そして国際秩序条約の遵守を求める外務省の意向を受け14人の国会議員が党派を超えた議論の末に生み出した事が新たな資料から明らかになったのです。

それは国際連合へと歩み始めた世界の動きを見据え日本が積極的に平和を担おうとする考え方から生まれたものでした。

こうして誕生した平和国家。

そこには多くの犠牲者を出した先の大戦への反省の念が込められていたのです。

「国民主権」「基本的人権の尊重」そして「平和主義」を掲げた新たな憲法。

鈴木義男は新憲法を解説した本で次のように述べています。

敗戦の焼け跡から平和国家として歩み始めた日本。

日本国憲法は今年施行から70年を迎えます。

2017/04/30(日) 21:00〜22:00
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル「憲法70年 “平和国家”はこうして生まれた」[字]


 

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コメント
 
1. 戦争とはこういう物[2001] kO2RiILGgs2CsYKkgqKCpJWo 2017年5月01日 13:55:44 : 9PG0M0b68Q : jKnbezZWN40[644]
ここ数日、この国際放送は「押しつけ憲法改憲」という与党政府の主張と一線を画したいように見えるが。共謀罪強行、献米戦争突入への責任回避だろうか。

2. 2017年5月01日 14:07:32 : n4eHd45SnU : GmqesGz8js4[110]

核爆弾付きアメポチ「平和ボケ」日本はこうして生まれた・・・を、報道してね。



3. 2017年5月01日 14:11:43 : n4eHd45SnU : GmqesGz8js4[111]

それと、
沖縄のどこに「平和」があるのか?

「日米安保条約」賛成本土日本人専用・沖縄除外番組ですね。


4. 2017年5月01日 15:17:21 : fCZ83cf8p2 : ZyE@@HR5cDA[3085]
のど元過ぎればこの国はこんな重大な決意さえ忘れてしまったのか。当時の関係者が如何にして憲法に平和志向、平和への決意を盛り込もうとしていたのかがよくわかった。非現実どころかその重要性に益々重みが加わっているばかりだ。
 
  単に嫌戦からだけでなく積極的に平和を希求するというこの決意は昨今耳にする“積極的平和主義”とは真逆の考え方であり手段としての武力の行使そのものを否定するものである。 そこからは自衛の範囲を超えた海外派兵や先制攻撃的な事前排除の論理への支持、追従などは派生のしようがない。 いったい何時どこから‥

5. 2017年5月01日 16:09:44 : vXvURAFsqA : TrkGG4JERSs[1]
明らかな違法違憲行為が開始された真っ最中だ!

戦争と改憲が共謀罪・弾圧立法が同時に開始されちゅうだ。


現実はとっくに改憲状態じゃないか!米軍の軍事脅迫に同調して、空母を派遣した。
安倍が「あらゆる選択肢」と公言してトランプに同調して派遣したのだ。

破壊憲法行為が先行し、熱狂のうちに条文をイジクル筋書どおりだ。


自衛隊を北の標的として差し出した真っ最中に、犬HKは何か月も前から準備しておいたアリバイ・スペシャルで煙幕張って、国民をお慰め蒙蔽している、現にそうなっているのだ。


自衛隊の米軍共調出動が判明し、うそだ朋美に出動命令出させることが判った時点で、

国会も国民もマスコミも大騒ぎして止めなきゃいけなかった。

「国民はなすすべがない」などと、売文屋洗脳屋にだまされちゃまずい。

電突だろうが、デモだろうが、野党投票用紙の全数再点検だろうが、告訴・裁判だろうが、、、


犬HKがそれらを報道しない、国民を眠らせておく役割を遂行中だ。

まず・・・・・を開始しましょう


6. 2017年5月01日 17:21:05 : 3ah459lR8Q : BQKXrt2t@gY[821]
其の時、アメリカは次の戦争で日本を使う予定がなかった。金目だけ。

7. 2017年5月02日 05:46:27 : hJ9tKaTuTM : z3HSHCaJAvM[7]
 多摩散人です。

 70年間9条を破り、戦争を放棄せず、戦力を持ち、日米安保を維持して来た。だから今の日本は平和なのだ。

 安保法制も出来、集団的自衛権も確立した。だから国民は、改憲の必要を感じないのだ。9条は悪法だが、誰一人守ろうと思っていないから、あっても実害はない。9条はまた必要が生じたら、いくらでも破れる。だから、改憲する必要はない。1970年頃、中曽根内閣が「戦争放棄」を「戦争不放棄」、「戦力不保持」を「戦力保持」に解釈改憲して、「専守防衛」の戦争は9条違反ではないと大嘘で国民を騙して以来、国民も騙された振りをして、9条を護っている。

 護憲派も、新しい解釈改憲には表立っては反対するが、しばらくすると忘れたふりをして黙認・追認する。現に、安保法制のことは最近は忘れたふりをしているじゃないか。立憲主義を守るための倒閣運動はどうなったんだ。


8. 2017年5月02日 12:16:19 : DmJcG1r9M6 : t2zgxHfcOwI[37]

>>7. 2017年5月02日 05:46:27 : hJ9tKaTuTM
>多摩散人です
>70年間9条を破り・・・だから今の日本は平和なのだ
>安保法制・・・

天然ボケ老人が世間に蔓延って晩節を汚すではない! だから平和だと?

ボケ老人よ
毎日のようにカールビンソンと北チのミサイル発射のどこが平和なんだ!

お前のような真性の土アホ人がコツコツと日本の平和と憲法を壊してきた。

タマ山賊よ、お前は二度と人間に生まれるな! お前は既に命終している。



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