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4日の記者会見で、教育勅語の教材活用を否定しない考えを改めて表明した菅官房長官(画像は首相官邸HPより)
姑息な「天皇隠し」現代語訳で誤解を誘発…教育勅語の復権にこだわる信奉者たちの狙いと妄想
http://biz-journal.jp/2017/04/post_18799.html
2017.04.21 江川紹子の「事件ウオッチ」 文=江川紹子/ジャーナリスト Business Journal
森友学園をめぐる問題では、肝心な点の事実解明がなかなか進まない一方で、2つのことが明らかになった。ひとつは国家公務員を私設秘書のように使う安倍晋三首相の妻・昭恵氏の公私混同ぶりであり、もうひとつは、現政権やそれに同調する人たちの教育勅語への強いこだわりである。今回は、後者について書く。
■教育勅語に対する政権の本音
稲田朋美防衛相は3月8日の参院予算委員会で、森友学園の幼稚園が園児に教育勅語を暗唱させていたことを肯定的に評価していた点を聞かれ、「教育勅語の核である、例えば道徳、それから日本が道義国家を目指すべきであるという、その核について私は(評価を)変えておりません」と答弁した。
同月31日には、政府が「勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導」は「不適切」とするものの、「憲法や教育基本法等に反しないような形で教育勅語を教材として用いることまでは否定されない」とする答弁書を閣議決定した。
この答弁書にある「唯一の根本」という表現は、閣僚の発言にも何度か出てきた。要するに、「唯一」でなければよいというレトリックであり、「根本のひとつ」もしくは「根本の一部」として扱うことは否定しないという趣旨であろう。
4月4日には、菅義偉官房長官が記者会見で、道徳を含めた学校教育の教材として教育勅語を使用することについて、「憲法や教育基本法に反しない適切な配慮の下で取り扱うことまでも、あえて否定すべきではない」と発言。松野博一文部科学相も、「道徳を教えるために『教育勅語のこの部分を使ってはいけない』と私が言うべきでもない」と足並みを揃えた。
さらに、4月7日の衆院内閣委員会では、義家弘介文部科学副大臣が、幼稚園などの教育現場における毎日の朝礼で教育勅語を朗読することの是非を問われ、「教育基本法に反しない限りは問題のない行為であろうと思います」と答弁した。
教育勅語はできるだけ否定したくない、むしろ今の教育に生かしてほしい、というのが政権の本音であるように思えた。
こうした答弁には、メディアからも批判の声が上がった。
「日本の大きな転換期だった明治から昭和期にかけての歴史を学ぶ教材として、教育勅語を用いることは、何ら問題がないだろう。ただし、道徳などで教育勅語を規範とするような指導をすることは、厳に慎まねばならない。」(4月6日付読売新聞社説)
「勅語は大日本帝国憲法の下、天皇を君主、国民を臣民とする国家観を補強する目的でつくられた規範だ。史実として学ぶ意義はあるが、子供たちの道徳教材として用いることは妥当ではない。」(4月9日付日経新聞社説)
しかし、政府は馬耳東風の体だ。
そもそも、歴史の史料として扱う以外、教育勅語を憲法や教育基本法に反しないような形で用いる方法はあるのだろうか。そんな質問に、政府は回答をはぐらかし続けた挙げ句、次のような答弁書を閣議決定した。
「学校の設置者や所轄庁で……憲法の理念などに反しないような適切な配慮がなされているか、さまざまな事情を総合的に考慮して判断されるべきものだ」
要するに、学校や自治体の教育委員会の判断に委ねるということだ。以前の森友学園の幼稚園のように、園児に教育勅語を暗唱させるような行為も、政府としては特に問題視しない、という宣言である。それによって、そういう学校が出てくるのを期待しているようにも見える。
■姑息な“天皇隠し”と「個人尊重」への反発
教育勅語を礼賛する人たちが言うように、確かに勅語には「親孝行し、兄弟仲良く、夫婦仲むつまじく」など、一般的な道徳も含まれている。ただ、それは天皇を中心とする皇国臣民としての心得であって、すべての徳目は最後の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」(災難が迫ってきた時には大義と勇気をもって公に奉仕し、永遠なる天皇の権威を助け守るべし)につながっている。
それにもかかわらず、教育勅語を信奉する人たちは、「一旦緩急アレハ……」の部分を訳す時に、しばしば天皇に関わる部分を割愛する。
たとえば明治神宮の訳では、「非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません」とある。あるいは4月11日付産経新聞の「主張」は「国の危急のとき、国民がそれぞれの立場で一致協力するという意味に尽きる」と解説した。
多くの人に受け入れられやすいようにという意図だろうが、肝心の「以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」を省略するのは、人々の誤解を誘うもので、やり方としてかなり姑息である。
そのような“天皇隠し”をしてまでも、127年も前につくられた古色蒼然たる文書に、どうしてかくも執着するのだろうか――。
それは第一に、戦後の教育を土台となってきた日本国憲法の価値観、とりわけ「個人の尊重」への強い反発であり、嫌悪感の表れであるように思う。
たとえば、教育勅語を「日本の伝統に基づくという意味で時間という縦軸があり、日本を超えて人類普遍の価値観を尊重するという点で世界という横軸もしっかりと意識されている」(『気高く、強く、美しくあれ』PHP研究所)と絶賛する、保守派の論客・櫻井よしこさんは、教育基本法の改正が議論されていた最中に、戦後の教育について次のように書いた。
「現行の教育基本法の問題点は、全てにおいて個人を強調しすぎ、家庭や家族を置き去りにしたこと、現場を強調しすぎ、教育行政への国の関与を“不当な支配”として排除しようとしたこと、日本国民を抱きとめ、守り育てる大きな枠組みとしての国家や、国家を構成する歴史や文明、穏やかで謙虚な精神文明の生成に大きな役割をはたした宗教心の重要性を無視して、まるで人間はみな突然、ひとりでこの世に生れ、ひとりで成長したかのように位置づけたことだ」(「週刊新潮」新潮社/2006年5月25日号)
戦後まもなくに制定された教育基本法は、目指すべき教育の方向性について、前文でこう書かれていた。
「われらは 個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。」
2006年に同法は、「伝統と文化を尊重」「我が国と郷土を愛する」が教育の目的に盛り込まれるなど大規模な改正をされたが、それでも「個人の尊厳」は目指すべき教育の筆頭に残った。
この「個人の尊厳」の淵源は日本国憲法にある。憲法13条「すべて国民は、個人として尊重される」は、戦後日本の根本をなす価値観だ。一人ひとりの人間を、単に国家の一構成員として扱うのではなく、かけがえのない個人として尊重するということである。
ところが、教育勅語を信奉する人たちは、この「個人尊重」が気に入らない。「個人の尊重」を、「自分さえよければ」という「利己主義」や身勝手なワガママと混同し、「行き過ぎた個人主義」が人々のモラルを低下させ、日本をダメにしてきた、と信じてやまない。そして、「個人尊重」の対義概念である「滅私奉公」や「全体主義」を志向する。あくまで国家があっての国民であり、全体があっての個であって、国家のためには個人の犠牲を厭わない、という発想だ。
これは、「公益及び公の秩序」を強調する全体主義的な憲法改正論と軌を一にする。自民党の憲法改正草案は、13条の「個人として尊重」を「人として尊重」に変え、基本的人権の尊重にも「公益及び公の秩序に反しない限り」という縛りをかけた。このような改憲を望む者にとっては、教育勅語の復権は望ましいことだろう。
■「教育勅語が道徳倫理を高める」という“幻想”
それに加え、教育勅語信奉者は、勅語が生きていた戦前・戦中は日本の「美風」が保たれていた、という幻想に支配されているようである。
櫻井さんは「週刊ダイヤモンド」(ダイヤモンド社/2010年8月14・21日合併号)で、現代に起きている親子間の事件を引き合いにして、こう書いている。
「どう考えても、私たちの時代のこの日本は狂っている。戦後教育は完全に失敗し、私たちはどこかで生き方を間違えたのだ。今の日本人に必要なのは、一にも二にも、基本的な道徳倫理である。日教組や社民党に引きずられ、日本のよき伝統であった道徳や倫理を蔑ろにする教育を根本から改める必要がある」
古き良き日本を取り戻せ、という主張である。しかし、教育勅語が教育の根本指針として生きていた頃、日本人の倫理道徳は、それほど素晴らしいものだったのだろうか。
戦前のさまざまな少年犯罪を収集した、タイトルもずばり『戦前の少年犯罪』(管賀江留郎/築地書館)という本がある。それによると、少年による殺人事件は、今より戦前のほうが起きていて、親殺しも例外ではなかった。
ケチで子どもが病気になっても医者にもかからせない父親を長男がマサカリで殴り殺し、高等小学校を出たままぶらぶらしていた長男が母親の手首を鎌で切り落とすなどして殺し、働かずにいた次男が父親に叱責されてナタで殴り殺し……同書には、そうした事件がいくつも収められている。そのうえで筆者は次のように書いている。
「教育勅語にいくら父母に孝行せよと書いてあったと云っても、戦前は少年の親殺しも多発していました」
「(少年による親殺しは)あんまりめずらしくもなかったので(新聞でも)あつかいはごくごく小さく、発生時には記事になっていない事件が裁判判決が出た時点で数行だけふれられていたり、逆に事件記事だけで後の判決は載ってない場合も多いです」
「戦前の親殺しの最大の特徴は、親だけではなく兄弟姉妹もみんなまとめて殺害する一家皆殺し事件が多いことです。教育勅語には父母に孝行だけではなく兄弟仲良くしなさいとも書いてあるのに、こらまたなんとしたことでありましょうか。しかし、よくよく考えてみますと、こんなことをわざわざありがたいお言葉で教えるというのは、当時は親をないがしろにする者がいかに多くて、兄弟ゲンカがいかに絶えなかったかということなのです」
教育勅語が生きていた昔はよかったというのは、虚構、妄想の類いといえるだろう。
それに、現代においても、教育勅語を信奉する人たちの倫理道徳が、そうでない人たちに比べて格別優れているというわけではないように思う。
園児に教育勅語を暗唱させていた森友学園の幼稚園では、決まった時間以外に排泄を許さない幼児虐待のような行為があったとも伝えられているし、保護者に宛てた手紙の中に「よこしまな考え方を持った在日韓国人・支那人」などといった人種差別の表現があったことも問題になった。
「教育勅語と修身の教科書を復活せよ」と主張した、田母神俊雄・元航空幕僚長はどうか。30年以上連れ添った妻と2人の子供がいるのに、50歳前後の女性と恋仲になり、彼女と結婚するために離婚訴訟を起こし、敗訴した。私自身は、個々の恋愛感情に善悪の判定はつけられないと思っているが、教育勅語を信奉する田母神氏自身は、「夫婦相和し」の教えに矛盾する自分の不倫について、どう整合を付けているのだろうか。
また、2014年2月の都知事選挙に田母神氏が立候補した際、選挙運動の報酬として現金を渡していたとして、運動員を含む9人が公職選挙法違反の罪に問われた。田母神陣営の元会計責任者には執行猶予付きの有罪判決が言い渡されている。田母神氏は、「犯罪の認識や共謀の事実はない」として無罪を主張し係争中(検察側は懲役2年を求刑)だが、少なくとも道義的責任は免れまい。
こうした事例を見ると、教育勅語が道徳倫理を高めるというのは、まったくの神話ではないかという気がするのだが……。
(文=江川紹子/ジャーナリスト)
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