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世界が警戒する日本の「極右化」〜私たちはいま、重大な岐路にいる 森友学園や安倍政権を決して侮るな
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51438
2017.01.14 内藤 朝雄 明治大学准教授 いじめ問題研究 現代ビジネス
森友学園問題と日本の右傾化
日本中、さらに世界中で「森友疑惑」が報じられ、ひとびとの関心を集めている。
それはおおむね次のような疑惑だ。
右翼思想を抱く理事長が運営する学校法人森友学園が、幼稚園児に教育勅語を唱和させている。運動会では、「中国、韓国が、心改め、歴史で嘘を教えないよう、お願いいたします。安倍首相、ガンバレ! 安倍首相、ガンバレ! 安保法制国会通過よかったです!」と連呼させていた。
学園は「よこしまな在日韓国人・支那人」、「韓国や中華人民共和国人の元不良保護者」などと記した文書を、保護者に配布したりホームページ(HP)で公開したりしていた。「お仕置き部屋」などでの暴行虐待も報告されている。理事長は政権中枢を牛耳る右翼仲間の同志であり、首相夫人や、政治家や、上層部の意を忖度する役人たちを通じてさまざまな便宜をはかってもらっている。
森友学園は子どもたちを極右思想で教育する小学校をつくることとし、国の土地を極端に安い値段で購入できることになった。首相は自身および夫人の関与を否認し、もし本当であれば辞任すると言った。
不正疑惑が報道されると、かつての仲間たちはトカゲの尻尾切りのような振る舞いをはじめた。裏切られた理事長は、政権中枢の右翼仲間たちに都合の悪いことを暴露しはじめた。このような疑惑のストーリーである(各種報道より)。
国内では、一つひとつの細かなエピソードをめぐって、芝居見物のようににぎわっている。疑惑関係者は、それが人間ドラマとして消費され、飽きられて終熄する時を待っているはずだ。
対して、世界のメディアは、もっぱら日本の現政権と右傾化がどうなるかという関心から森友疑惑を報じている。
というのは、現政権は日本を戦前(特に昭和初期から敗戦まで)の社会に戻そうとしている「ウルトラ・ナショナリスト(ultra-nationalist)」政権であると考えられており、日本が戦前のタイプの社会に戻るかどうかは、大きな関心事だからだ。
日本の大衆も、現政権がこれ以上強くなることに、ぼんやりと不安を抱きはじめている。なんだか変なことになっている。自分たちの社会は、これからどうなってしまうのだろうか。自分たちはこれからどうなるのだろう。
「超タカ派」勢力が動かす日本政治
ひとびとはそれを成熟した大人としてストレートに意識して考えるのではなく、政治とカネやら、「軍国主義」時代を再現する教育やら、お仕置き部屋の児童虐待やらの、「森友劇場」でもりあがることで不安を表現している。
報道される人間模様は、きわめて戯画的である。籠池夫妻、その息子、「アッキー」と呼ばれる総理夫人、便宜をはかる役人、安倍総理、稲田防衛大臣といったどたばた劇の配役とストーリー。
「森友劇場」を見物して喜んでいる大衆は、悪ふざけに興じているようにも見える。悪ふざけを通じて、箱庭で遊ぶ子どものようにしか政治に向き合えない大衆なのかもしれない。
わたしたちは、原発事故と現政権成立以降いまここに出現した歴史の折り返し点(いったん通過するともう戻れない)を子どもっぽくやりすごした後、次に来る本物の全体主義によって身ぐるみ剥がされ、地獄に突き落とされるかもしれない。
「騒ぎすぎだ」という声もある。しかし、森友問題は、わたしたちが目の前にあっても見ようとしなかったことを、日の光に晒すための手がかりになるのではないだろうか。森友問題を入り口にして、現実の危険を直視しよう。
現在、日本を戦前の状態(特に〈天皇中心の国体〉が暴走した昭和初期から敗戦までの時期)に戻そうとする勢力が、閣僚の大多数、国会議員のほぼ半分を占めている。日本社会は、その意向のままに造りかえられてしまう瀬戸際にあるといってよい。
次の資料をみてほしい。
「第3次安倍晋三再改造内閣の超タカ派(極右)の大臣たち」(俵義文(子どもと教科書全国ネット21)作成:トップページの左側リストにある当該資料表題をクリック)、あるいは「国会議員いちらんリスト」。
資料を見ると、閣僚のほぼ8割が「超タカ派(極右)」団体(先進諸国の主要メディアはおおむねそのように見ている。筆者もそれに同意する)のメンバーであることがわかる。またそれが国会議員全員の半数に達しようとしている。
これらの団体は、仲間たちがいくつも掛け持ちしていたり、協力しあったりしているので、ひとつの大きなネットワークと考えることができる。
また、彼らは公明党など他勢力と利害同盟を組んでいる。その意味では、ほぼすべての閣僚と半数の国会議員が、上記資料にいうところの「超タカ派」勢力かそれになびく勢力であるといってよい。
これらの勢力が政権の座にあり、目標達成に向けて着実に歩を進めているのである。
どのような戦前を目指しているのか
彼らがめざすのは、どのような社会か。そのなかで、わたしたちはどのような生活を強いられることになるのか。彼らが人間の精神を根本からつくりかえることに熱心であるとすれば、わたしたちはどのようにつくりかえられてしまうのか。
一口に戦前といっても、いくつもの時期があり、多種多様な要素が混ざりあっている。今政権を盛り立てている勢力は、そのうちどの面に対しファナティックな情熱を示し、どの面に無関心なのか。このことから、私たちがどのような被害を受けることになりそうかを予測することができる。
彼らは、カミカゼ特攻隊、散華(さんげ)、英霊といったものを崇高なものとみなし、ファナティックな感動を示す。また、日本国憲法、個人の権利、個人の自由といったものを憎む。また、中国と韓国が日本に「逆らう」ことに常軌を逸した憎悪を示す(中国が超大国になった21世紀に、この上下感覚は滑稽ですらある。そして国防上きわめて危険である)。
対して、日露戦争で局地的な勝利を得た後、自軍が消耗しきっている事実を認識し、高額の賠償金や領土割譲をあきらめた明治政府の判断をほめたたえる、といったことはしようとしない。それどころか、アメリカと無謀な戦争をしたエリートたちを復権しようとする。
これらのことから、現在の「ウルトラ・ナショナリスト」勢力が取り戻そうとしている「戦前の美しい日本」なるものは、明治維新以降、さまざまな部分が混ざり合って進む日本近代史のなかで、昭和初期から敗戦までの時期に暴走し、悲惨な結果をもたらした最悪の要素であることがわかる。
一言でいえば、それは、個を超えた集合的生命として崇拝される〈天皇中心の国体〉なるものである。この共同幻想が世界の八隅を一つの家のように覆う(八紘一宇)ことをめざす、祭政一致の全体主義社会。これが昭和初期から敗戦までの大日本帝国であった。
これはいったい何なのか。
二つの国家観を理解する
二つの国家観(人間のためにつくられたしくみとしての国と、人間を超えた集合的生命としての国=国体)を対比させて考えると、「ウルトラ・ナショナリスト」勢力の行動様式や、そのめざすものを理解しやすくなる。そして、現状を放置すれば、これから日本社会がどのような被害をこうむるかも予想できる。
第一の国家観では、国家を、ひとりひとりの人間の共存と福祉のための公共財である機械装置と考える。
国は水道や電気や医療や交通網のように、ひとびとの生存にとってきわめて重要なものだ。その意味で、危険な国家メンテナンス業務をおこなっている自衛官は、高圧線上で危険な業務をしている技師と同様に、尊敬されて当然である。
また、国に軍隊があるのも当然である(この観点から、日本が普通の先進諸国なみのリベラル国家になった後で憲法9条を改正すべきだと主張する筆者は、「リベラル・タカ派」と呼ばれることがある)。
この第一の国家観からすると、「ウルトラ・ナショナリスト」勢力のいう愛国心は、水道管や電線を愛の対象にするような、奇怪なフェテシズムの情熱である。すくなくとも、日本で愛国心というとき、そのような意味で語られることが多い。
そのような愛国心ではなく、苦労して磨き上げた、ひとりひとりの人間のための公共財機械装置の性能のよさに対するプライド、という意味での国家プライドはあるかもしれない。
国家が愛国心などというフェテシズムを万人に要求する制度は、日本国装置の性能の悪さとして、国家プライドを大いに傷つけるだろう。ただし、この国家プライドを新しく「愛国心」と名づけることも可能である。
それに対し、第二の国家観では、国家はひとりひとりの生命を超えた、より高次の崇高なる集合的生命とみなされる。このような現実感覚を生きるひとびとにとって、国家装置の防衛メンテナンスのための危険業務組織(軍隊)は、集合的生命の男根のように感じられる。
アメリカに負けて憲法九条を押しつけられたのは、「全能感を断念しなさい」と去勢されてしまったような、屈辱の体験である。
また集合的生命の根本にあるはずの神聖にして侵すべからず天皇を、単なる「象徴」にされてしまったのは、河童に尻子玉を抜かれ、腑抜けにされてしまったような屈辱である。
そして雄々しき大日本帝国は、自由だの人権だの民主主義だの甘ったるいおしろいをぺたぺた塗られて、女にされてしまったと感じる。
国体をひかり輝かせること
第一の国家観は、ひとびとの安全と生命を守りながら繁栄をもたらそうとうするリアリズム政治のための基本である。国益の計算や戦略的思考も、この国家観を前提としなければ何の意味もない。また軍隊は、この国家観にしっかり基礎づけて保有されなければならない。
第二の国家観は、非常時に短時間「だけ」、ひとびとを狂わせるための興奮剤である。必要がないときに使ってはならない。そして21世紀の世界でそれが必要になる時は、もうない。いまではこういったドラッグは、貧しい国々で誤用され、悲惨な流血や国土の荒廃をもたらす廃棄すべき毒物でしかない。
この毒物ともいうべき第二の国家観はどのようにして生まれたか。江戸幕府が支配していた日本列島は、列強の植民地にされる危険にさらされていた。
クーデター成功後、最弱国日本、最弱明治政府を背負った指導者たちは、ゆっくり変化する時間的余裕がないなかで近代国家をつくりあげるために、集合的生命感覚に酩酊させるしかけを、当時入手可能な素材からでっちあげるしかなかった。
それが天皇を中心とする集合的生命としての国体(という共同錯覚)である。そしてこの興奮剤は効いた。国家の集合的生命感覚は、天皇を中心とする国体として、ひとびとの魂の底に埋め込まれていった。
生存のための必要に駆られてこのような興奮剤を使うときは、そのまえに目覚まし時計をセットしておき、時がくれば醒めるようにしておかなければならない。目覚まし時計を管理すべき指導層は、大衆を騙すための薬物にのめりこんではいけない。
しかし、昭和初期から敗戦にかけて、指導層のあいだでも「〇〇は国体にそぐわない」やら「不忠」やらといった、自家中毒が蔓延するようになっていった。ヤクザが売り物の覚醒剤に手を出すように、国家の中枢までもが、緊急用大衆操作劇薬の自家中毒にやられたのだ。
狂気の興奮剤におかされた指導層は、アメリカと戦争をするといった愚行に走り、敗戦の条件交渉にいたっては国民の生命や安全という本来の目的(第一の国家観)よりも国体護持(第二の国家観)などという幻想の薬物を大切にするありさまであった。国家の指導者として、これほどでたらめな酩酊者たちは類をみない。
学者も含め多くの人たちは、昭和初期から敗戦までの日本のありさまを「軍国主義」と呼んできた。軍国主義の社会であれば、軍事的成功を第一の優先事にするはずである。
しかし、戦争中の日本はそうではなかった。合理的に国益を追求したり、戦争に勝ったりすることよりも、国体を護持すること、国体をひかり輝かせることが優先された。
集合的生命としての国体は、単なる全体への外形的服従の積み重ねから成るものではなく、臣民ひとりひとりが自発的に個人であることをやめ、〈全体において永遠の今になる〉ことの内側から高次の命としてひかり輝く。
カミカゼ自爆攻撃などで死ぬ瞬間こそが、その永遠の今であり、人として生まれた最高の栄誉であり、「本当に生きること」である。それは華やかに花が咲いたような生のきらめき(散華)でなければならない。
このような国体の覚醒剤的な疑似哲学作用は、軍隊の合理的運用すら破壊した。
太平洋戦争では、みこまれる戦果と自軍の損失を計算すれば無意味であることが明白であっても、散華の輝き自体が目的となった軍事作戦がなされた(これは即身仏のような自殺儀式であって、軍事的な「作戦」とは言えないのかもしれない)。
毎日新聞記者の栗原俊雄は、このような輝きを後世に残すためと称して、自爆特攻作戦が続けられた例を紹介する(栗原俊雄「日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由」)。
また、航空機の援護なしに戦艦大和を沖縄に派遣するのも、国体を輝かせるための集団自殺である。これが抗いがたい空気となったのである。
もちろん、国体のなかでは「西欧流」の個人主義は徹底否定され、すべての臣民が自発的に集合的生命の一部で「あらねばならぬ」のであるから、すべてが強制である。戦争終結の成り行き次第によっては、一億玉砕というすさまじい「自発的」な散華が、すべての人に強制されたかもしれない。
教育勅語はなぜ問題なのか
「ウルトラ・ナショナリスト」の政治家たちは、なにかと理由をつけて教育勅語を学校教育に導入したがっている。だが、国家大改造に成功する一歩手前とはいえ、今の段階では、まだ露骨な全体主義の本性を出すわけにはいかない。
だから国会の質疑やテレビ番組などでは、「教育勅語にあるように、親を大切にし、夫婦がなかよく、友だちは信じ合い、法律を守り、互いに誠実に生きるのはよいことではないか」といった理屈で、教育勅語を正当化することが多い。
それに対し、教育勅語に反対する側は、「一旦緩急(かんきゅう)あれば義勇公に奉じ」と続くのが「軍国主義」につながるからいけない、といった批判を繰りかえす。それでは、この兵士に関する部分だけ削除すればよいのか?
教育勅語の問題点は、人が人として望ましく生きること全般が、天皇を中心とした国体が生み出したものであり、それと離れては存在しない(「国体の精華にして」「淵源…これに存す」「皇祖皇宗の遺訓にして」とは、そういうことである)、と国家が命令していることだ。よく考えてみれば、これはきわめておぞましい論理である。
もし誰かから、ありとあらゆる望ましく生きることは、「私との関係から生み出されるものでなければならない」と言われたら、あまりの気持ち悪さに胃の内容物を吐瀉してしまうのではないだろうか。これは国体にかぎらず、さまざまな全体主義に共通する特徴である。
教育勅語〔PHOTO〕wikipedia
1890年(明治23年)の教育勅語は、大日本帝国が「国体」というキーワードを打ち出した初期の文書である。
その後、昭和初期から敗戦にかけて、政府は『国体の本義』(1937年)と『臣民の道』(1941年)によって全体主義としての国体の本性を分かりやすく、あけっぴろげに露出する。
この2冊を熟読すれば、閣僚の8割、国会議員の半分弱を占める勢力が、どのような「美しい国のかたち」をめざすかを理解することができる。
いくつか抜粋しよう。
「我らの行住坐臥(ぎょうじゅうざが)の一つとして国家に関係ないものはない。」、「我らの生命は我がものにして我がものにあらずといわねばならない」、「日常我らが私生活と呼ぶものも、畢竟(ひっきょう)これ臣民の道の実践」、「一腕の食、一着の衣といえども単なる自己のみのものではなく、また遊ぶひま、眠るまといえども、国を離れた私はなく、すべて国とのつながりにある。かくて我らは私生活のあいだにも天皇に帰一し、国家に奉仕する念をわすれてはならない」(『臣民の道』)
「人は孤立せる個人でもなければ、普遍的な世界人でもなく、まさしく具体的な歴史人であり国民である。従って我らにあっては、人倫すなわち人がふみ行うべき道は、抽象的な人道や観念的な規範ではなく、具体的な歴史の上に展開せられる皇国の道である。人たることは日本人たることであり、日本人たることは皇国の道にのっとり臣民の道を行ずることである。(『臣民の道』)
「皇国の道と一体たり得ざる学は、真の学たり得ざるもの」(『臣民の道』)
「祭政一致の我が国体」(『臣民の道』)
「我が国こそまさしく世界の光明である」(『臣民の道』)
「我が皇位が天壌無窮(てんじょうむきゅう:天地ともにきわまりない)であるという意味は、実に過去も未来も今において一になり、わが国が永遠の生命を有し、無窮に発展することの意である。我が歴史は永遠の今の展開であり、我が歴史の根底にはいつも永遠の今が流れている」(『国体の本義』)
「我らは、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我らの歴史的生命を今に生かす所以(ゆえん)であり、ここに国民のすべての道徳の根源がある。…絶対随順は、我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我ら国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂(いわゆる)自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威(おみいつつ:天皇の威光)に生き、国民としての真生命(真の命、ほんとうの命)を発揚する所以(ゆえん)である」(『国体の本義』)
我らは「忠において生命を得」る。(『国体の本義』)
その他、『国体の本義』『臣民の道』では、自由主義、個人主義、平等主義、合理主義、普遍的人道(ヒューマニズム)、夫婦中心の家族、などあらゆる「西洋的」なものを激しい口吻で否定する。立憲主義や三権分立も否定する。
「忠を離れて孝は存せず」として親子関係も国体のものであるとし、そのような「忠孝一本」を日本の道理としている。そして、乃木希典夫妻(子どもが全員戦士した)のように、育てた子を国に捧げることを本当の親子の情愛関係とする。
「すめろぎにつかえまつれと我を生みし我が垂乳根(たらちね)は尊くありけり」というわけである。また、日々の労働の内容も、なにからなにまで国体への奉仕であるとする。
これから日本はどのようなかたちであるべきか、天皇を中心とする国体に戻したいか、戦後の自由と民主主義と個の尊厳を守りたいか、決断を迫られる時期がきた。私たちは、『教育勅語』、『国体の本義』、『臣民の道』を熟読した方がよい。
日本に蔓延する全体主義
最後に、日本の学校が全体主義的であり、これが全体主義に抵抗がない大衆を生み出す、強力なインフラストラクチャーになっていることをつけ加えたい。学校の全体主義について知りたい方は、拙著『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』(講談社現代新書)を手にとってください。
もうひとつ、世界各国の腐敗の程度をランキングした以下の資料を参考にされたい。全体主義の国ほど腐敗がひどく、人権を尊重する個人主義自由主義の国ほど腐敗が少ないことが一目瞭然となっている。
・トランスペアレンシー腐敗認識指数(http://www.ti-j.org/CPI2016ranking1.pdf)
・トランスペアレンシージャパン(http://www.ti-j.org/)
山本七平は、戦争中に製粉会社におしかけたパン屋の社長が大げさな国家への奉仕の話を延々しているが、それはすべて小麦粉をまわしてほしいというビジネスの要求であったというエピソードを紹介する(山本七平『ある異常体験者の偏見』文藝春秋)。
ビジネスと政治が分かれない祭政一致の社会は、すさまじく腐敗するのである。「森友劇場」の口利きや忖度、国有地格安払い下げに関する疑惑のエピソードをながめながら、このことを思い出した。
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