銃剣道の楽しさを教えればみんな やりたがる様になるから大丈夫 陸軍第五十九師団師団長陸軍中将藤田茂筆供述書に「俘虜殺害の教育指示」というのがあった。部下全員を集めて次の如く談話し、教育したというものである。 「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此の機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」 「此には銃殺より刺殺が効果的である」 鬼になる洗礼−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 昭和7年(1932年)1月のある日だった。入営して二ヶ月にもならない。兵舎から200メートルほど離れた射撃場からさらに100メートルの所に、ロシア人墓地があった。その墓地に三中隊の60人の初年兵が集められた。大隊長や中隊長ら幹部がずらりと来ていた。 「何があるのか」と、初年兵がざわついているところに、6人の中国の農民姿の男たちが連れてこられた。全員後ろ手に縛られていた。 上官は「度胸をつける教育をする。じっくり見学するように」と指示した。 男たちは、匪賊で、警察に捕まったのを三中隊に引き渡されたという。はじめに、着任したばかりの大隊長(中佐)が、細身の刀を下げて6人のうちの一人の前に立った。だれかが「まず大隊長から」と、すすめたらしい。 内地からきたばかりの大隊長は、人を斬ったことなどなかった様子だった。部下が「自分を試そうとしている」ことは承知していたろう。どんな表情だったか、土屋は覚えていない。彼は、刀を抜いたものの、立ちつくしたままだった。「度胸がねえ大隊長だナ」と、土屋ら初年兵たちは見た。すぐに中尉二人が代行した。 ヒゲをピアーッとたてた、いかにも千軍万馬の古つわもの、という風情だった。こういう人ならいくら弾が飛んできても立ったままでいられるだろうな、と思った。その中尉の一人が、後ろ手に縛られ、ひざを折った姿勢の中国人に近づくと、刀を抜き、一瞬のうちに首をはねた。土屋には「スパーッ」と聞こえた。もう一人の中尉も、別の一人を斬った。その場に来ていた二中隊の将校も、刀を振るった。後で知ったが、首というのは、案外簡単に斬れる。斬れ過ぎて自分の足まで傷つけることがあるから、左足を引いて刀を振りおろすのだという。三人のつわものたちは、このコツを心得ていた。もう何人もこうして中国人を斬ってきたのだろう。 首を斬られた農民姿の中国人の首からは、血が、3,4メートルも噴き上げた。「軍隊とはこんなことをするのか」と、土屋は思った。顔から血の気が引き、小刻みに震えているのがわかった。 そこへ、「土屋!」と、上官の大声が浴びせられた。 上官は「今度は、お前が突き殺せ!」と命じた。 ・・・ ・・・ 「ワアーッ」。頭の中が空っぽになるほどの大声を上げて、その中国人に突き進んだ。両わきをしっかりしめて、といった刺突の基本など忘れていた。多分へっぴり腰だったろう。農民服姿、汚れた帽子をかぶったその中国人は、目隠しもしていなかった。三十五、六歳。殺される恐怖心どころか、怒りに燃えた目だった。それが土屋をにらんでいた。
目前で仲間であろう三人の首が斬られるのを見ていたその中国人は、生への執着はなかった、と土屋は思う。ただ、後で憲兵となり、拷問を繰り返した時、必ず中国人は「日本鬼子」と叫んだ。「日本人の鬼め」という侵略者への憎悪の言葉だった。そう叫びながら、憎しみと怒りで燃え上がりそうな目でにらんだ。今、まさに土屋が突き殺そうという相手の目も、そうだった。 恐怖心は、むしろ、土屋の側にあった。それを大声で消し、土屋は力まかせに胸のあたりを突いた。・・・ ___
基礎さえできていれば応用は楽で楽しくなるんだ: 銃剣が上手く使える様になるとこんなに楽しい事ができるよ: 日中戦争証言 車河堡 王さん(69歳)柳河口 1回だけ見たことがあります。強姦したのは普通子どもには見せないんです。 1回見たのは、若い女性に沢山水を飲ませて、お腹を膨らませたり、 鉄の棒を火で焼いて、赤い鉄の棒を乳房に当てたり、女性の生殖器に差し込んだり、 あるいは銃剣の先を焼いて乳房や生殖器をえぐり取ったりしました。 http://www.jade.dti.ne.jp/~kaworu/syogen/syakaho.html 死んだ人の事を悪く言いたくなかったけど言わせてもらう。 漏れの近所の銭湯で番台やってた爺さん(もう亡くなった)。 漏れが小さい頃よく戦争当時の話を銭湯の番台で自慢げに語ってたバカ。 『チャンコロ(中国人)の妊婦を木に縄で縛って銃剣で刺したら「ボムッ」って鈍い音出して破裂してよー。 ホント面白かったぞー。だから毎日チャンコロの妊婦探して見つけては、それやって遊んでたんだ。あの頃がなつかしいなあ(ニヤニヤ』 小平義雄は戦地より帰って以来、性的に突如放縦になった。
放縦なだけでは留まらず海軍被服廠の軍属であった戦争最後の年に、同じ職場の女子工員を強姦した上殺害している。以後、終戦直後の混乱の中で女性を食料をエサに誘いだし、次々と6人も、犯しては殺していった。 小平が女性を犯して殺す、その味を覚えたのは、中国の前線だった。 予審調書の中で小平は言っている。 「大怙では強姦のちょつとすごいのをやりました。…父親を縛り上げて戸棚の中入れ… クーニャン(娘)を出せと言って出させました。 …強盗強姦は日本軍隊には付き物ですよ。 銃剣で突き刺したり、妊娠している女を銃剣で突き刺して子供を出したりしました。 私も5,6人はやっています」 「村民を銃剣で追い立てて並ばせ、機銃掃射で薙ぎ倒す。
泣き叫ぶ乳幼児や子供たちを銃剣で突き殺し、 妊婦の腹を切り裂いて胎児を放り出す。 死体の山に石油をかけて焼き尽くす。 木に縛り付けて鞭打っては冷水をかけ、凍死させる。殴り殺す。蹴り殺す。死体を野犬に食わせる。 背中に石を結わえて水中に投げ込む。 輪姦し、その女の赤ん坊を銃剣に刺して肩に担ぎ、軍歌を歌って歩き回る。 赤ん坊を投げ殺す。踏み殺す。巨大な石を担がせて圧死させる。 鞭で殴って焼けた棒を押しつけ、冷水をかけて極寒の場に捨てて凍死させる。 婦女子を狩り集めて輪姦し、腹を裂いて内蔵をえぐりだす。 生き埋めにする。眼をえぐる。耳を切る。鼻を削ぐ。首を切り、その数を競う。生きながら解剖する。銃剣で突き刺し、崖から落とす。等々」 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/yowa/yowa7.html
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