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東大出ばかりでは日本が滅びる 森友疑獄与党の丸腰 日本を数学大国にしたミリオンセラー『塵劫記』 「無用」な努力のススメ 
http://www.asyura2.com/17/senkyo223/msg/329.html
投稿者 軽毛 日時 2017 年 3 月 30 日 18:48:58: pa/Xvdnb8K3Zc jHmW0Q
 

東大出ばかりでは日本が滅びる

一橋、東工大、慶応、早稲田が果たしてきた重要な役割
2017.3.30(木) 伊東 乾

安倍首相、学校法人への国有地格安売却問題で関与を否定

衆院予算委員会で麻生太郎財務相(左)と話す安倍晋三首相(右、2017年2月24日撮影)〔AFPBB News〕

森友疑獄の国会証人喚問は与党の丸腰ぶりと戦略の拙劣さをただただ見せつけるだけに終わったように見えます。今後どのように事態が推移するか、見守るしかありませんが、こういう能無しぶりと「教育勅語」は浅からぬ関係にあります。

今回は少し脱線して、健全な対抗勢力、批判的知性がいかに大切か、というお話をいたしましょう。

米国における二大政党制が端的と思います、カウンターカルチャー同士が互いに妍(けん)を競って、より優れた行政であれ司法であれ、立法であれ文化であれ、育てていくのが本来の形と思います。

で、現下の日本の情けないモノポリぶりはどうでしょう?

メディアを統制して一元化するといった拙劣は、悪事の隠蔽などには適していますが、真の意味での強さを生み出すのとは正反対、あまやかされ、スポイルされて、本当の実力は身につけ損なった2世3世が考えるインチキの典型と言わざるを得ません。

そんなお飾りばかり、ひな壇に並べて、軽い神輿は担ぎやすい、というのも情けない話であって、結局そういう組織の内在論理、端的に言って腐敗と空洞化、どこかの市場の地下空間みたいな国にしてしまったから、こんなお粗末な体たらくになっている。

「肝の据わった反骨はないものか?」という現実を、近代日本に求めるとき「親藩・幕臣」あるいは「土佐・肥前」といった<負け組>の強烈な批判的知性が浮かび上がってくるのです。

一橋・東工大〜カウンターインテリジェンスの系譜

話が突然変わるようですが、東京大学が官学の最たるものだとして、京都大学が批判的知性に見えることがありませんか?

ノーベル賞も初期は京大ばかりで、自由な知性を印象づけた面があります。

また、東大、京大などの「七帝」(北海道・東北・東京・名古屋・京都・大阪・九州)が「官学・帝大」であるのに対して、東京工業大学や一橋大学が、これらに対抗する批判的知性として、鮮やかな切れ味を見せることがないでしょうか?

白川英樹先生を筆頭に、ノーベル賞級の業績をコンスタントに上げ続ける東工大。また都留重人、阿部謹也などのリベラルな学風とビジネス前線での切れ味で知られる一橋。

思想家で考えれば東工大では鶴見俊輔が教鞭を執り(白川先生は在学中、鶴見助教授に教えを受けています)、吉本隆明が学び、吉本の師には数学の遠山啓らそうそうたる人物が並び、保守サイドでも一線を画す論客であった江藤淳こと江頭淳夫などが教鞭を執っている。

また東大、京大、一橋、東工大が国立大学であるのに対して、慶應義塾や早稲田大学が私学の雄としてカウンターインテリジェンスとみなされることがあると思います。

この一橋・東工大、また早稲田・慶應に共通する「ある起源の特徴」があるのです。関西で言えば同志社、関西大学(一部、立命館にも重なる面があると思います)などが典型的にこれらと重なる、その特徴とは・・・。

「反薩長閥」旧幕臣・親藩、あるいは土佐・肥前などの薩長以外の雄藩という「政治的負け組」が、反骨の志を懐に、堕落した長州閥あたりの思考停止と完全に一線を画した人材育成で天下国家・経世済民・殖産興業などを堂々と論じる面を、指摘できると思います。

立命館は西園寺公望に代表される国際派公卿という特殊な背景を持ち、西園寺自身は長州・伊藤博文の腹心でもありましたが、閥と一線を画する意味で重なる面があるかと思います。

ここで「長州閥」という言葉が現実味を帯びて見えなければ、以下すべてこの文字を「安倍政権」と読み替えても、だいたい同じ意味で通じますので、そのようにお覚えください。

連載の文脈としては「ハワイ王国滅亡」を扱う順番ですが、実は明確な関わりがありますので、今回はこの中で「東工大」と「一橋」に焦点を当ててみたいと思います。

一橋や東工大のような知性こそが、しっかりと日本をただしていくべきだと思うのです。

手島精一と矢野二郎:東工大・一橋と幕臣の反骨

東京工業大学の起源は、1874(明治7)年に設立された東大の前身「開成学校」内の「製作学教場」にあるといわれます。

ここから発展して1881(明治14)年「東京職工学校」が建学され、1890年に「東京工業学校」1901年に「東京高等工業学校」と発展的に改組、関東大震災を機に現在の大岡山キャンパスに移り、1929年旧制東京工業大学となり、今日に続く伝統が形づくられました。

この東京工業学校を実質1人で立ち上げ、支えたのが手島精一氏(1850-1918)であると言って、大きな反対意見は出ないと思います。

1890年、40歳で「東京職工学校」校長に就任して以降、1916年に東京高等工業学校長を引退するまで、生涯を東工大の基礎固めに捧げました。

この手島氏は親藩・沼津藩の出身で、藩校で学んだ洋学に長けていたため、維新後は選ばれて年若くして岩倉遣外使節団(1871−73)の通訳官を務めたのち、官界での栄達といったことには一切関心を払わず、ただただ日本の工業の発展と、若い世代の育成に全力を尽くしました。

東工大の原点、1874年の「製作学教場」設立とほぼ同じ時期、もう1つ別の動きがありました。

前後する1875(明治8)年、駐米公使だった森有礼が帰国後、福沢諭吉らの薦めで、東京にとある私塾を作ります。「商法講習所」と名づけられました。翌明治9年には東京府に移管され、官立施設となります。

このとき森有礼が駐清公使として在外となったため、米国駐在中に森のもとで代理公使も務め、設立以来「講習所」の教壇に立っていた矢野次郎氏(1846-1906)が「商法講習所」の経営に責任を持ちます。

読者はだいたい想像がつくと思います、この矢野氏が開国派の幕臣だったわけです。

矢野二郎は1863年、一度開港した横浜を再び鎖港するべく、江戸幕府が派遣した「横浜鎖港遣欧施設団」に随行を命じられ、英語・フランス語を駆使する通訳として活躍します。

このとき矢野は満17歳、高校2年生で幕府の対仏交渉の通訳全責を担うという経験をして、人が伸びないわけがありません。

実は矢野はこれに先立ち、1861年、英国公使ラザフォード・オールコックが水戸藩士の攘夷打ちに遭うと、事後談判の通訳として幕府と英国側との交渉一線に立たされています。

16歳、高校1年で対英交渉の通訳全責を担い、続いて発生した「生麦事件」と併せて賠償交渉を取りまとめた経験を買われて17歳にして渡仏交渉に臨んだわけです。

帰国後、幕府のフランス式兵制整備に参加しますが、維新時の戊辰戦争(1863年)には参加せず、官を辞して潔く下野してしまいます。

このとき矢野二郎23歳。現在なら新卒大学生が社会に出る齢、矢野は最初の人生を終えて幕臣を引退、横浜に通訳事務所を開いて、これまた圧倒的な成功を収めます。

しかし新政府はこれだけの人材を放っておきません。明治3年、再び今度は新政府に三顧の礼で迎えられ、ワシントンに赴任して代理公使として対米交渉の責任を負います。このとき25歳。すごい人生です。

明治8年、米国から帰国した矢野は、先立って日本で設立されていた「明六社」=森有礼、福沢諭吉、西周ら開明的知識人は出自を超えて集まった現在の日本学士院の原型ですが・・・で議論されていた洋楽拡充・殖産興業の流れの中で「商法講習所」への参加を求められ、再びすべての官を辞してこれに参加しました。このとき30歳。

こののち商法講習所は度重なる経営難を矢野の巧みな手腕で乗り越え、農商務省、文部省と移管を繰り返し、1887(明治20)年、日本初の官立高等商業学校「東京商業学校」として確立されます。

東京市神田区一橋通町1番地、現在の千代田区一橋通り2丁目にできたこの学校の後身が何であるか、いまさらいう必要もないでしょう。

関東大震災に伴って一橋大学は国立に移転、現在に至りますが、故地である神田一橋に現在、国際的なビジネススクールが先祖返り的に展開しています。

矢野二郎氏はハイティーン時代、旧幕臣として、水戸浪士やら何やらが英国人を斬り殺す事件の交渉で一国の責任を持ったような出自ですから、それはまあ、筋金入りもいいところだった様子です。

硬骨漢でワンマンの矢野はすっかりぬるくなってしまった明治20年代の東京高等商業学校の学生やスタッフとそりが合いません。三権分立など存在しない江戸幕府時代の日英・日仏交渉での通事ですから即断即決が普通だった人です。

大変な胆力ではありますが「専権的」との批判を受けて学校騒動に発展、大量の退学者を出すとともに明治26=1893年、責任を取って校長職を辞します。48歳、人生50年とすれば、ここまでで一通り燃焼し切ったと言えるかもしれません。

東京高商、現在の一橋大学が持つ合理的批判精神や一本筋の通った気骨は、善し悪しと別に明らかに、矢野二郎という個人の確信と精神とを強烈に受け継いでいると思います。これは東京工業大学が手島精一の精神に貫かれているのと、完全に同一の基礎を持つものと思います

「国内の閥族同士の争いなどで右往左往していては、世界の第一線では全く通用しない!」

「長州あたりの田舎侍の了見で、万国に通じる天道が実現できるか!?」

明六社、慶応義塾、東京工業大学そして一橋に通底する、このような確信が、当時の当事者の精神の背骨にしっかりと一本、筋を通していました。現下の情けない政権の右往左往にそれと同じことを指摘しないわけにはいきません。

私の対案もまた同様で、井の中だけで通用するアホみたいな了見で、右だ左だ猿だ犬だと吼えてみても、下手の考え休むに似たり、そんなことでは我が国の3年5年先も危なっかしくて見ていられない、という話を、今回は対EU学術外交で滞在中のミュンヘンから出稿しているわけです。

間違っても「反日」の何のという寝言は混ぜ込まないでいただきたいと、一応釘を差して、まとめとして「ハワイ王国滅亡」と「教育勅語」などとのつながりを記しましょう。

「条約」で国は滅ぶ〜死ぬか生きるかのインテリジェンス

手島精一、矢野二郎といった人の事績に、やや思い入れをもって長文を記したのは、欲も悪しくもこの人たちの確信と仕事がなければ、現在の私個人の仕事もないからにほかなりません。

森有礼から引き継いで矢野二郎が経営を始めた「商法講習所」に、箕作秋坪、津田真道、箕作麟祥ら津山藩出身で幕府の蕃書調所で外事に携わった明六社メンバーの薦めで、岡山の田舎から出てきて学んだ中に私の曽祖父がありました。

母の祖父、藤田敏郎は津山の田舎から東京に「留学」、東京府管理下の商科学校でこのモーレツ矢野二郎に親しく教えを受け、卒業後は結婚、長男も生まれ、津山藩OBの共同運輸会社で禄を食んで骨を埋めようと決意していた22歳のとき、ハワイ王国・カラカウア国王の来日で急遽決まった公式移民団とともに、外務省出仕。

ホノルル着任を余儀なくされ、そのまま終生、外交官の生活を送ることになります。井上馨から人材を求められたワンマン、矢野二郎の差配でした。

水戸藩士、薩摩藩士らによる「オールコック襲撃事件」「生麦事件」などの「攘夷討ち」に対して、「何たることをしでかしてくれたんだ!!この世間知らずの田舎侍共めが!!!」と思いつつ、高校生の年齢で幕府を代表する英語ベースでの平和裏の交渉を、決死の覚悟で進めたティーン・エイジャーだった矢野二郎から、曽祖父がどのような指導を受けたか、今となって詳細は分かりません。

しかし、貿易会社から転じて外交官としてのホノルル着任、直前まで駐米代理公使として条約改正の下交渉にあたっていた矢野の薫陶と影響は明らかで、曽祖父は相次ぐ「不平等条約」で国を壊され、「押しつけ憲法」で保護国化されてしまったハワイ王国の国難を、幕臣から岩倉使節団、駐清領事を経てハワイに送られた安藤太郎氏の右腕として、安東氏ともに日本に送り続けた。

「不平等条約」や「条約改正」を、何かピンポイントの軽いことと誤解している読者コメントを目にします。

よろしいですか。不平等な条約で国は滅ぶのです。「保護国化」も条約、「日韓併合」も不平等条約、「ハワイ併合」も、経済と武力を背景に次々と無理難題を押しつけ、一方的な条約を無理やり結ばせた末に決めたこと。

条約で国は滅ぶのです。

日本が「関税自主権」を回復するのは、やはり経済力と武力を背景に、朝鮮という植民地を得て、初めて列強から「その一」と認められた1911年になってからのことです。

44年間、明治時代のほぼすべてを通じて、半植民地化の危機と常に相対していたことを、紙の上の歴史のお勉強ではなく、多くの日本人、とりわけ若い世代に、祖国の現実として理解されたく思います。

少なくとも我が家では、その種の常識や外交マナーを家の中でガキの時分から、かなり徹底して教え込まれました。

曽祖父が祖父にこれをやり、祖父が母にこれを徹底して増幅、母はインターナショナルスクールで学んでさらに度合いを極端にして、生れ落ちた直後からこれをやられてしまいましたので、私自身、こんなになってしまいました。

今まで表に書いたことのない話ですが、昨今の状況はあまりに見ておられず、自身のルーツに由来する確信として、今回銘記することにしました。

この時期に準備されたのが大日本帝国憲法であり、教育勅語であったのは前回も触れたとおりです。

駐清領事の北京在勤からハワイ勤務を命じられた領事の安藤太郎氏(この人事だけからでも、何を考えていたか露骨に分かるでしょう。で帰国後に憲法と勅語が制定され、藩閥は日清戦争を仕かけました)は、10年前 岩倉使節団の通訳として東工大=東京高等工業建学の父、手島精一氏と同僚でした。

のちに藤田敏郎は、シカゴで育った長男がエンジニアを志望した際、手島氏にも相談してデトロイトのミシガン大学に進学させ、草創期にあった自動車産業の第1世代に送り出すことになります。この長男、つまり私の祖父と、そしてその末娘だった母を通じて

「田舎侍」

という言葉を、私自身幼時からどれだけ聞かされてきたか分かりません。

ここには2つの意味が籠められていました。外交官の曽祖父が「世界を知らない田舎侍が!」というのが1つ。

それから、第1次大戦中のゼネラル・モーターズ(GM)のエンジニアとしてスタートした祖父が、昭和期に帰国して、またしても国際社会の第一線を知らない閥族とりわけ軍閥を指して吐き捨てるように言ったという「田舎侍」。

いずれも、山県有朋あたりを筆頭とする世界を知らない、また理解する能力も気力もなく、国内の利権でお腹いっぱい、得意満面コンプレックス満載の長州閥やら軍閥やらを見て、

あえて、家の中で使われてきたとおりの言葉、今日メディアで使わない用語ですが、を明記すれば、

「土人やシナじゃあるまいし国粋主義高山彦九郎、田舎侍三跪九叩頭」

「陸軍の乃木さんが凱旋すスズメメジロロシヤ野蛮国クロキンキンタママカローフフンドシ締めたタカジャッポ」

「ポンやりりり李鴻章のはーなぺちゃちゃんちゃん坊主の首とって帝国万歳大勝利・・・」

後半は当時の子供の間に流行ったしりとりの歌で陸軍「の」「のきさんが」「がいせんす」「すずめ」・・・と続きます。

このあたりがメディアに書ける限界と思いますが、それはまあ、家の中では言いたい放題で、合理的な思考の欠如した、ああいうバカにだけはなってはいけない、と自分の子供には教え続けた。

私は幼児期に母親からこれを「キンタマ」だけ「キンマ」と変えて教わり、のちに母の兄である伯父(桐朋学園創設に尽力した藤田英雄)から「キンタマ」と訂正されて焼印を捺されました。

どちらもシカゴ育ちの祖父の子ですが、大正2桁の世代で、当然日清日露戦争期などは知りません。教えられて覚え、それを私にも教えた。これを半世紀近く私自身もずっと記憶していますが、

例えば

「フンドシ締めた高シャッポ」

「ポンヤリ」

している、というのが何であるか、読者にご想像いただければと思います。私は「ある解釈」でこれを 刷り込まれました。

のちに人為的に作られた「教育勅語」の擬似宗教化、過剰な天皇崇拝と思考停止にしても、幕臣外交官はかなり冷ややかに観察していました。

この1つの表れに、旧幕臣系外交官が軒並みクリスチャン改宗した経緯が挙げられます。

政教一致型の天皇崇拝が危険であることは、幕末維新を生きた人、特に負け組となった人々は誰もが基本的に了解しており、そこから様々な動きも出てくるのですが、紙幅も尽きたのでひとまずここまでとします。

次回は相次ぐ不平等条約の押しつけでハワイ王国を丸裸にし、ついには併合してしまった19世紀末年米国の太平洋侵出に話を戻しましょう。

安政の修好通商条約締結から桜田門外の変、浪士たちによる「攘夷討ち」尻拭いの和平交渉にあたった当事者が維新前後を一貫してどのように日本を立ち上げ、日本を守ってきたか。

「田舎侍」の了見では到底無理な話でした。残念ながらそのレベルの落書きが、ネットの日本語でやたらと目につきますが、井戸の中を半歩出れば、世界で到底通用しません。

学術に引きつけてまとめるなら、東大あたりの中でだけ通用する、田舎侍の了見では、世間やお天道様に照らしてまともな仕事になるか、はなはだ心もとない。

さらにそれが、フンドシしめた高ジャッポのポンヤリのご機嫌取ることばかり考えて「全く問題ない」閣議決定などヨイショしていた日には、いったいどんなことになることか、知れたものではありません。

で、トーダイ出身者は、それが正解と丸暗記してしまうとその方向にドッと押し寄せる、露骨な悪傾向が観察される。残念ですが、これがここ140年来の東京大学の事実にほかなりません。

そう言えば今年、2017年は東京大学建学140年目にあたるのに 、いま気がつきました。

紛れもなく東大出身で東大在任も20年になる小生が書いてるんですから、信用してもらってよいと思います。

建学以来の東工大、一橋の精神、批判的建設的なカウンターインテリジェンスがあったからこそ、近代日本の栄光がありました。

これを失えば、日本に未来はないでしょう。必須不可欠の叡智と思います。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/49574


 

日本を数学大国にしたミリオンセラー『塵劫記』
江戸時代に庶民がこぞって読んだ驚異の数学書の正体
2017.3.30(木) 桜井 進

中米エルサルバドルの首都サンサルバドルでコンピューターの画面を見つめる生徒たち〔AFPBB News〕
江戸時代から続く数学ブーム
今から約400年前の1627年、1冊の数学書が誕生しました。『塵劫記』は一気に全国に広まり、子供から大人まで空前の数学ブームを巻き起こすことになりました。 
はたして、現在までそのブームは続いています。私が審査委員を務める「塩野直道記念算数・数学自由研究作品コンクール」は今年で第5回になりますが、小学校1年生から高校3年生までの応募数は1万5000人を超える盛り上がりを見せています。 
主催であるRimse(一般財団法人 理数教育研究所)の ホームページ上で受賞作品を閲覧することができます。ぜひ我が国の子供たちの受験数学を超えた数学力を見てください。
もう1つ私が審査委員を務めるのが数学甲子園(全国数学選手権大会、主催公益財団法人日本数学検定協会)です。 
昨年は全国196校(中学校・高等学校)415チームが参加。今年で10回目を数えます。「問題解決力」「チームワーク力」「プレゼンテーション力」「問題作成能力」など、受験数学を超えた数学力のコンペティションです。 
高度経済成長期とベビーブーム、受験戦争が熾烈を極めた時代、学校での数学は受験のための数学 でしかありませんでした。現在も学校での数学は受験のためだけの数学になってしまっている現状は大方変わりありません。
しかし、学校の外で変化が起きつつあります。 
それが上記で紹介したような受験を超えた数学に子供が青春を懸けて挑戦している風景です。このような子供を応援する教師と保護者にも変化が起き始めています。 
考えてみれば明らかなことなのですが、数学は受験のためにあるのではないということです。私が著者になって作り上げた高校数学教科書『数学活用』(啓林館)の最初のページは「世界は数学でできている」の見出しで始まります。 
身のまわりを数学の視点で見つめれば、至る所に数学が隠れていることが分かります。受験数学のゴールは100点で終わりです。しかし、本来の数学にゴールなどありません。人の世が続く限り数学も続きます。『数学活用』の基本コンセプトは「人とともにある数学」です。 
現代に必要とされているスキルに統計学とコーディングが挙げられます。AIおよびITのシステムはすべてこの2つなしには形になりません。統計学とコーディングのベースになるのが数学と数学的思考です。 
受験数学によって確かに効率よく数学を学習できます。しかし、そのコースの流れに乗ることができない子供を大量に作り出してしまうデメリットがあります。これは国家レベルで見た時に大きな損失です。 
すべてを学校に任せることは不可能です。数学も例外ではありません。私が学校の外で数学をする機会を作っているのはそのためです。 
10代までに受験数学と並んで「世界は数学でできている」ことを実感して、数学と生涯に渡りつき合っていくことができるようにとの思いからです。 
ベビーブームが終わり、受験戦争が沈静化したおかげでようやく本来の数学の姿に向き会えるようになってきたとはいえ、いきなり子供が数学で盛り上がる状況はできません。 
我が国に数学を学ぶ環境(学校、教師、教科書)がこれほど充実するためには長い時間が必要でした。ローマは1日にしてならずです。 
ミリオンセラー『塵劫記』の魅力
日本が数学大国になる礎となったのが『塵劫記』と言えます。室町時代にはかけ算すらできない人が大多数であったのが、『塵劫記』の普及により江戸時代の中頃にはそろばんを使い、九九を覚え、割り算もでき、大きい数から小さい数まで自由に使いこなす一般の人々が大勢あらわれてきました。 
数学の問題を解く魅力をこれほどまでに庶民に紹介し成功したテキストは他に類を見ません。『塵劫記』により日本人の数学センスは劇的に向上していったのです。 
江戸時代、数学の大衆化に貢献した『塵劫記』の最大の特徴は、実に多くの実用問題・数学パズルそして見事なイラストの豊富さにあります。 
はたして、子供から大人までを魅了することに成功し、大正時代まで全国の印刷所で海賊版・類似書が約400タイトルも出版されたロングセラーでした。 
その内容のいくつかをイラストとともに紹介してみましょう。 
(*配信先のサイトでこの記事をお読みの方はこちらで本記事の図版をご覧いただけます。http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/49573
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一、十、百、千、万、億、兆、京、垓、秭(後の𥝱)、穣、穣、溝、澗、正、載、極、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数とあります。 
かけ算の九九

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上記の塵劫記では1の段から始まり、a×bは「abの」と発声します。 4の段からは「の」がなくなっています。また、九九の組合せはa≧bだけを載せているのが特徴です。 
次の塵劫記では1の段も削除されて36通りだけになっています。 

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わり算の九九
塵劫記はそろばんのマニュアル書として重宝されました。その中にわり算の九九がそろばんの珠の動かし方とともに説明されます。割り声(わりごえ)、割り声(わりせい)とも呼ばれます。 

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右ページが2で割る割算九九です。「二一天作五」は、「にいちてんさくのご」と読み、 10を2で割れば商が5のことで、そろばんでは十の位の一の珠をはらい、桁の上の珠を1つ降ろして五とおくことを表します。 
「(逢)二進一十」は「にっちんがいっしん」と読み、 20を2で割れば、商が10であること。 
左ページは3で割る割算九九です。「三一三十一」は「さんいちさんじゅうのいち」と読み、10を3で割れば商が 3で余りが1のこと。 
「三二六十二」は「さんにろくじゅうのに」と読み、20を3で割れば商が6で余りが2のこと。「(逢)三進一十」は「さんちんがいっしん」と読み、30を3で割れば商が10のこと。 
絹盗人算

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「何人かの盗人が橋の下で盗品の反物を分配している。橋の上で、その様子を聞いていると、一人に一二反ずつ分けると一二反余り、一四反ずつ分けると六反不足するという。盗品の反物の数と盗人の人数を求めなさい」 
現代の私たちであれば、xとyを使って方程式を立てて解くのがスマートでしょう。 
反物の数をx、盗人の人数をyとすれば、反物の数をxについて次の2つの式が成り立ちます。 
x = 12y+12、x = 14y-6
したがって、12y+12=14y-6となり、y =9が得られます。x = 12×9+12=120ですから答は、盗人九人、反物一二〇反です。 
ねずみ算

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「正月にねずみの夫婦がいる。この夫婦が正月に子を 12匹生む。親子合わせて 14匹になる。この 14匹が 2月には 7組の夫婦になって、それぞれ 1組が子を 12匹ずつ生む。合わせて 98匹になる。このように毎月子を生むとすれば、 12月の終わりには全部で何匹になるか」 
かけ算ができれば解ける問題ですがいかがでしょうか。1月は親ねずみ2匹から子ネズミが12匹産まれるので計14匹つまり7組の夫婦がいます。 
2月の月初めには7組の夫婦がそれぞれ子ネズミを12匹産むので7×12=84匹が産まれます。月初めにいた14匹のねずみとあわせ2月末には14+84=98匹(49組の夫婦)のねずみがいることになります。 
同様に考えると、3月の月初めには49組の夫婦がそれぞれ子ネズミを12匹産むので49×12=588匹が産まれます。月初めにいた98匹のねずみと合わせて3月末には98+588=686匹のねずみがいることになります。 
こうして1月末14匹、2月末98匹、3月末686匹となりますが、これらの計算はそれぞれ、14×7=2×7×7=98、98×7=2×7×7×7=686です。 
これから12月末のねずみの数は2×7×7×7×7×7×7×7×7×7×7×7×7(2に7を12回かける)であることが分かります。 
この結果は27682574402。答は、276億8257万4402匹となります。いわゆる「ねずみ算式に増える」「ネズミ講」というのはこの問題からきています。 
木の高さを測る法

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「正方形の鼻紙を斜めに折り三角形にします。これに小石をふ゛らさけ゛て、立て た辺か゛地面に垂直になるように保ちつつ、斜辺の延長上に木の頂点か゛見える 位置まて゛移動しました。この場所か゛木の根から7間の距離た゛った場合、木の高さは何間て゛しょうか。鼻紙は地面から0.5間の高さに持っているとします」 
次のように図を描いて考えればすぐに分かる問題ですが、実用的な問題であるところが面白いです。 

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直角二等辺三角形の2辺の関係から鼻紙の角から木の根本までの長さと木の根本からてっぺんまでの長さが等しくなります。地面から木の根元までの高さ=地面から鼻紙までの高さ(0.5間)なので、木の高さ=7間+0.5間=7.5間となります。 
目付字

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図の右下にある一、十、百、千、万、億、兆、京、垓、杼、穣、溝、澗、正、載、極、恒(恒河沙の略)、阿(阿僧祇の略)、那(那由他の略)、不(不可思議の略)、無(無量大数の略)から1つ相手に選んで覚えてもらいます。 
そうしたら、図の下の枝から順に、その枝では覚えた字が花の方にあるか、それとも葉の方にあるかをたずねていきます。 
その返答から、相手が選んだ字を言い当てるゲームです。枝に下から順に一、二、四、八、十六という数が書かれてあるのがポイントです。 
相手が「花の方にある」と答えた枝についている数だけを加えます。その合計数が相手の覚えた文字が何番目のものかを表しています。 
例えば、「億」を選んだとしたら、花に「億」があるのは「二」と「四」の枝です。2+4=6と計算し、一から6番目の億と分かるということです。目付字は2進法を利用したゲームです。 
『塵劫記』の著者・吉田光由が師事した毛利重能と角倉素庵
このような魅力的な『塵劫記』は突然出来上がったのではありません。そのルーツを少しだけ探ってみましょう。 
数学者・吉田光由(1598-1673)は京都の豪商角倉家の一族として生まれました。 
吉田光由が最初に師事したのが江戸初期の数学者・毛利重能です。1622年、毛利は『割算書』を著しています。著者名が分かる数学書として現存日本最古のものです。 
毛利は京都で塾を開き数学を教え、数百人の弟子がいたといいます。中でも有名なのが吉田のほかに、『竪亥録(じゅがいろく)』(数学公式集)の著者今村知商そして算聖・関孝和を育てた高原吉種です。 
吉田光由、今村知商、高原吉種は毛利の三高弟と呼ばれます。まさに毛利重能は近代日本数学の開祖とも言うべき指導者でした。 
『割算書』よりも古い著者不明の数学書に『算用記』があります。体積の計算法、金利計算、測量など日常的な内容です。毛利はこの『算用記』の内容を敷衍し、そろばんでわり算を行う方法、絹布や米の売買、金銀貸の両替、借銀利子、検地、測量、面積、体積の計算方法などを加えて『割算書』を作り上げました。 
そして、吉田が次に師事したのが角倉素庵(すみのくらそあん、1571-1632)です。 
素庵は嵯峨を本拠とした角倉(本姓吉田)了以の長子として生まれました。吉田一族は、医者と土倉業を生業として栄えた豪商です。その環境のもとで育った素庵は海外貿易・土木事業を行う一方で、儒学者、能書家、角倉流書風の始祖という多彩な文化人でもありました。 
そして素庵は、『史記』の刊行を始めとする数々の古典そして豪華な嵯峨本の出版も行いました。 
こうして吉田は2人の師の大きな影響を受けて『塵劫記』が完成していきました。吉田は寛永4年から18年までに6回の改版を続けました。 
吉田に続く伝統があって始めて『塵劫記』が内容、装丁、印刷技術すべてにおいて最高レベルの本に仕上がったということです。 
冒頭で紹介した子供たちの数学の盛り上がりは、このような伝統の中で醸成されてきたと言えるわけです。 
現在、『塵劫記』の画像を以下のようなデジタルアーカイブで閲覧することができます。ぜひ覗いてみてください。 
国立国会図書館デジタルコレクション『新編塵劫記』
東北大学附属図書館和算資料データベース「塵劫記」を検索すると499件ヒットします。
早稲田大学図書館古典籍総合データベース『塵劫記』(1627)

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/49573

 

「無用」な努力のススメ
今フレクスナーのエッセーを読み返すべき理由
2017.3.30(木) Financial Times
(英フィナンシャル・タイムズ紙2017年3月25/26日付)

米大統領、温暖化規制見直し令に署名 「対石炭戦争」終結を宣言
米首都ワシントンの環境保護局で、炭鉱労働者らに囲まれてエネルギー政策に関する大統領令に署名するドナルド・トランプ大統領(2017年3月28日撮影)。(c)AFP/JIM WATSON〔AFPBB News〕
今から80年近く前、米国の教育家のエイブラハム・フレクスナーは「無用な知識の有用性」と題したエッセーを発表した。その中で、最も強力な知的、技術的ブレークスルーは多くの場合、当初は「役に立たない」ように見える実生活とあまり関係がない研究から生じたと論じた。

そのため、たとえ即座に見返りを生まなくとも、こうした「無用」な努力を支援することが極めて重要だ、さもないと次のイノベーションの波が生まれないからだとフレクスナーは唱えた。「役に立つものに結実するかもしれないし、しないかもしれない好奇心は、恐らく近代思考の傑出した特徴だ」と氏は断じた。「これは目新しいことではない。ガリレオやベーコン、アイザック・ニュートンにさかのぼるものであり、絶対に邪魔してはならない」

これはじっくり考えるべき力強い主張だ。ドナルド・トランプ米大統領の新政権が仕事に取り掛かり始めた今は特にそうだ。

フレクスナーは1939年にこうした言葉を書き記したとき、自分が革新的な時代と向き合っていることを知っていた。何しろ、米国は当時、長い恐慌を経験したばかりでなく、欧州は戦争の瀬戸際に立っていた。

無理からぬことだが、こうした状況すべてが「くだらない」研究にお金をかけることを正当化するのを難しくした。だが、フレクスナーはこの大義にコミットしていた。1929年には、米国の裕福な一族であるバンバーガー家を説得し、その莫大な資産の一部を使い、まさにこの種の「目的を定めない」研究を支援するためにプリンストン大学高等研究所(IAS)の創設費用を寄付してもらった。

この取り組みは成果を上げた。アルベルト・アインシュタインなど、ナチスドイツから逃れてきた聡明なユダヤ人科学者がIASに集い、自由なアイデアを追求した。初期の相対性理論を発展させるアインシュタイン自身の研究など、その一部は当初、価値があるようには見えなかったが、多くはやがて、(数十年後のこととはいえ)強力な有用性を生み出した。

「アインシュタインの理論がなければ、我々の全地球測位システム(GPS)追跡装置は7マイルほど不正確だった」。現在IAS所長を務めるロベルト・ダイクラーフ氏は、新たに出版されたフレクスナーのエッセーの復刻版の序文で、こう書いている。量子力学や超電導といった概念も、最初はかなり無用に思えたが、後々、莫大な配当を生んだ。

この主張はなじみがあるように思えるかもしれない。昨今のイノベーションに関する書籍の大半は、既成概念にとらわれない独創的な発想とセレンディピティ(予想外の発見)の重要性を強調している。例えば、筆者の同僚のジョン・ケイによる『Obliquity』を見てみればいい。しかし、IASが今になってフレクスナーの論文を再出版している理由は、ダイクラーフ氏のような科学者が、この中核的な原理原則が次第に脅かされていると感じているからだ。

彼らがそうした不安を抱く理由の1つは、トランプ政権が、芸術、科学、教育機関への資金援助を削減しかねない予算予測を発表したためだ。だが、予算の圧縮――そして懸念――は、トランプ時代より前にさかのぼる。1964年当時、米国の連邦研究開発予算は国内総生産(GDP)比約2.1%だったとダイクラーフ氏は指摘する。昨年は同0.8%程度で、その半分が防衛費に割り当てられていた。一方、米国立衛生研究所(NIH)の予算は過去10年間で25%もカットされた。

右派の論客の一部は、これは悪いことではないと主張するかもしれない。共和党の多くは、研究というものは、政府よりも企業や慈善家から資金を受けたほうが好ましいと考えている。だが、過去1世紀に関する目覚ましい事実は、どれほど多くの米国のイノベーションがNIHと各種連邦プロジェクトから発生したか、という点だ。例えば、国の支援がワールド・ワイド・ウェブ(WWW)の開発を可能にしたという事実がなければ、シリコンバレーは決してこれほど栄えなかったろう。

現在、企業がこの穴を埋める兆候はほとんど見られない。それどころか、企業は近年、基礎研究に対する米国の支出の6%しか担っていない。1つには、株主の圧力のせいで、企業が迅速な成果を生まない研究にお金をつぎ込むのが難しいからだ。

一部の科学者は、フレクスナーの時代のように、民間の篤志家が関与することを期待している。現に何人かの大富豪が飛び込んでいる。例えばビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団が医療研究を支援している様子を見てみればいい。

だが、篤志家は多くの場合、具体的な研究目標に自分のお金の用途を限定し、特定の問題や課題(例えば、ある特定のワクチンやクリーンエネルギーの開発など)に研究を振り向けたがる。そして大学は次第に、境界を打破する研究に慎重になる傾向がある。今日の学界では、助成金と終身地位保証を獲得したいのであれば、科学者は厳正な学問領域に特化しろという圧力にさらされているのだ。

これが、政府関係者と企業経営者のみならず、科学者と有権者もフレクスナーの論文を読み返さなければならない理由だ。一見「無用」な研究を正当化するのは決して容易ではない。今日の資金不足の世界では、とりわけ困難だ。今、公共心を持った大富豪はかつてないほど、流れに逆らって泳ぐ必要がある。そして、この戦いを進めるために、現代のアインシュタインを何人か採用したほうがいいかもしれない。

By Gillian Tett

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/49576  

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コメント
 
1. 日高見連邦共和国[4000] k_qNgoypmEGWTYukmGGNkQ 2017年3月30日 18:54:48 : pYBiRhRShY : JUWRjmwQc1E[760]

>一橋、東工大、慶応、早稲田が果たしてきた重要な役割

東北大学や北海道大学、九州大学も忘れないで〜!!


2. 2017年3月30日 19:55:53 : 8NJCmZzQ1E : kU_P2uC_4oI[2]
成蹊は?

3. 2017年3月30日 20:02:01 : YlB41fsb7U : J2PUwlaSLWk[9]
 
東大出ばかりでは日本が滅びる!
成蹊出バカだから日本は滅びるw

東大出の数万人ぶんの破壊力をもつ安普請三は
まさに「歩く大量破壊兵器」wwww


4. 2017年3月30日 22:11:22 : 0CejVRban6 : urcdmA9xc1s[2678]
「建学以来の東工大、一橋の精神、批判的建設的なカウンターインテリジェンスがあったからこそ、近代日本の栄光がありました。
これを失えば、日本に未来はないでしょう。」

失おうが保とうが、それとは無関係な理由で、日本に未来はないでしょう。
少子化が問題です。インテリジェンスの問題ではありません。

しかし、そんなことも分からないようでは、たしかに東大にインテリジェンスはなさそうですな。


5. 2017年3月30日 22:58:31 : AiChp2veWo : crH3ggO@jw4[970]
成蹊で、ではなぜそんなに大量破壊力があるのか?、東大を含む国立の授業情報の決め事も学校の成り立ちも、血統や系統、せのり、マイノ、近代日本の国家の閨閥の事も分かっている。然しなぜ一人の男がこんな風になっていくのだろうか?。

6. 2017年3月30日 23:19:56 : JW4kQkOW9o : dSI7DqbtatE[-819]

成蹊と三菱の関係

成蹊学園創設に寄与した
三菱財閥4代目総帥・岩崎小弥太
(成蹊学園初代理事長)

成蹊学園初代理事長・岩崎小弥太以来、三菱金曜会のトップが成蹊学園の理事長を務めている。
創立者中村春二は三菱と直接関係はないが、中村春二を支援し、成蹊学園創立に賛助員として尽力し、約24年間成蹊学園の理事長を務めたのが三菱財閥4代目総帥の岩崎小弥太であるため、三菱との関係が生まれた。ただし、三菱グループに所属しているわけではない。
岩崎小弥太の支援は、資金だけではなく社会への橋渡しもあった。三菱は多くの成蹊卒業生を積極的に受け入れ、卒業生は三菱財閥の発展に寄与した。中村春二にあてた書状に「本年度卒業生採用の件、ほぼ決定の運びと相成り候ところ…その中の一、二名は三菱以外の会社にて採用する方が学校の将来の為に良からんと判断、郵便会社に一名、横浜正金銀行に一名採用の交渉致すことと致し候…」とある[1]。
岩崎小弥太は、現在のキャンパスである吉祥寺に約1万坪の農園「岩崎農園」や「清風荘」という数奇屋づくりの別荘を所有していたため、この農園に隣接した約8万坪の広大な土地を購入し、1938年に成蹊学園に寄贈した。8万坪は現在の成蹊学園のキャンパスと同等の広さのため、今の広大なキャンパスがあるのは岩崎小弥太の尽力が大きいことがわかる。1939年、敷地の西側に岩崎小弥太元理事長の鎌倉の別荘の正門が移築され、この門は成蹊学園内に現存している。
1943年、当時の学園理事長だった岩崎小弥太は、岩崎家のゴルフ場であった元箱根の土地6.3万坪を成蹊学園に寄贈し、現在は成蹊学園箱根寮となっている。
1944年6月、トラスコン(当時の屋内運動場)内に「三菱電機成蹊工場」が開設し、勤労動員された旧制高校の生徒達は授業を半ばに深夜までレシーバーの組立て作業に汗を流した[2]。現在は、内装を一新し、カフェテリアやコンビニ等がある憩いの場に用途を変え、「トラスコンガーデン」として現存している。
2007年4月から、成蹊大学・成蹊高校の留学制度を利用して海外に留学する学生の中から、成績が優秀であり、高い留学成果を期待できる派遣留学生を対象とした「成蹊学園三菱留学生奨学金」を導入している。

(ウィキペディアより)

まあここにいる奴らはとりあえず抗っても無駄ということで 笑

[32初期非表示理由]:担当:スレ違い多数により全部処理

7. 2017年3月30日 23:24:13 : 8ri7n1Qw1Y : A7uzapp3Oxs[19]
東大がどうかしたのか? 偏差値などしょせん答えが決まっている問題で少しばかりよい点をとったというだけだろう。

記憶だけなら今ならネットで一瞬に調べられるよ。世の中の問題はほとんどが答えのない問題だよ。

大学ブランドなどしょせん参考程度のもの。それにしても安倍も麻生も小泉進次郎も偏差値が低い。育った環境からすれば信じられないほど低い。橋下はえらそうに言うわりには英語はできんし松井はさらに低い。


8. 2017年3月31日 08:51:12 : rGT9z24w76 : E1gnitVyu0E[865]
相変わらず、長ーい  もしかして東大出?

9. 2017年3月31日 19:01:40 : hUkJW5PNLO : vS5oQ06@H3c[653]
あの頃も 「田舎侍」 幅利かす
夜郎自大は 深く染み込み

10. 2017年4月02日 00:22:44 : McO0iOUv5s : 7cBfXYhkot0[12]
東大 = とうだい = 頭大

今となっては、厄人になる「とうだい」とは、頭デッカチ = 「頭大」であり、知識の至宝と
言うわけではない。

頭デッカチが何人集まろうとも、庶民の生活が豊かになるわけではない。
 



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