>>10、お、右翼が出てきて、論拠もなしにデタラメを言っている。 明治憲法は欽定憲法で、明治天皇が日本国民に与えた憲法だ。だから、当時の財産制限選挙権(女性はおろか男性だって一定以上の財産がなければ選挙権がない)によって選出された帝国議会ですら、それをありがたく頂戴しただけで承認も同意もしていない。こんなものは天皇個人の憲法ではあっても、日本人の憲法ではない。 現にこの憲法のおかげで、日本人は選挙権すら制限され(最後まで女性の選挙権、被選挙権はなかった)、思想信条、言論表現の自由は否定され、基本的人権は蹂躙され、徴兵され、慰安婦にさせられ、最終的に、この憲法の国体護持のために300万人もの日本人が犬死させられた。そんな日本人を抑圧し貧窮化し殺した明治憲法に日本人の憲法としての正統性は一切ない。 そこへ行くと日本国憲法は、男女普通選挙(選挙権および被選挙権)によって選出された衆参両院の賛成多数を通して、国民によって定められた憲法だ。この憲法においては、人民主権、基本的人権の保障、平和主義が定められ、おかげで日本人の才覚と才能は戦後に至って初めて発揮され、日本はその歴史上未曾有の平和と繁栄を遂げることになった。戦前戦中の右翼ファシズム体制の蛮行のおかげで最低の評判から出発したにもかかわらず、戦後世界において日本が経済的に繁栄する平和な文化国家として尊敬され信頼されるようになったのも、みんなこの憲法のおかげだ。 >>10のような右翼はなにかというと、日本国憲法がアメリカの押し付けだと言うが、その日本国憲法がアメリカの日本支配の防波堤になってきた事実については奇妙に沈黙する。アメリカの占領継続に反対したのも、日米安全保障条約とその地位協定に反対したのも、ベトナム戦争に巻き込まれることに反対したのも、イラク戦争に協力することに反対したのも、安倍自民党の戦争法案でアメリカの戦争に派兵させられることに反対したのも、TPPに反対したのも、みんな憲法の平和民主主義に依拠するリベラルと左翼(護憲勢力)だ。憲法の平和主義を盾にアメリカの支配に抵抗してきたのだ。 それに対して、日本国憲法がアメリカの押し付けだと非難する右翼は、常にアメリカの要求に屈っし、その言いなりになって、護憲勢力に敵対してきた。右翼こそがまったくアメリカの犬だ。それで今では、そのアメリカが、もっと自由に便利に日本を支配するために、自分たちの犬である安倍自民党と右翼の日本国憲法の改悪(平和主義の否定)に期待しそれを支援するようになっている。だったら、アメリカが一番日本国憲法を嫌っているということで、憲法がアメリカの押し付けなわけがないだろう。むしろアメリカの押し付けを言うなら、アメリカの犬である安倍自民党と右翼の主張する改憲こそがアメリカの押し付けだ。 皮肉なことに、明治憲法下であれば、明治憲法の右翼国家主義を否定する思想や信条を持つことも、ましてそれを主張したり広めようとすることも違法で、特高警察によって逮捕拘禁されて拷問されて最悪獄死することになったところだが、戦後の平和民主主義憲法においては、思想信条の自由、言論表現の自由の保障により、>>10のような、憲法とその平和民主主義を否定する右翼も、その妄論を抱いてもネットで書きなぐっても、警察に逮捕されることもなく平和に暮らしていられる。 おかげで、思想信条の自由も言論表現お自由も制限しようという憲法改悪を主張するくせに(自民党憲法改定草案を見ろ)、それが少しでも批判されると、思想信条の自由がある、言論表現の自由の侵害だと開き直る始末だ。アメリカに命じられるまま憲法改悪を強行しようとしているのに、その理由が現行憲法がアメリカの押し付けだからだと言い張る鉄面皮ぶりだ。まさに日本国憲法の民主主義原理と制度を利用しながらその民主主義原理と制度を破壊しようとしているわけだ。 だからこそ>>9で、「今日本で起きていることは、ドイツがワイマール憲法下で経験したことと全く同じだ」と指摘したのだ。 いい加減にしろよ、右翼。 思想信条の自由や言論表現の自由は、それ自体を否定する思想や言論を許すために存在するわけではない。民主主義が寛容であるからといって、それを利用して民主主義自体を打倒しようとするような真似は国家反逆だ。お前たちは反日で反逆者だ。 日本の右翼保守がそういう卑怯で姑息なやり方で日本国とその民主主義を転覆しようとする限り、日本はいずれ「戦う民主主義」を採用して、そういう民主主義を利用する反民主主義を非合法とせざるをえないだろう。 それから、「マッカーサーは裁判官や東京大学といった権威に圧力をかけ『憲法学』という奇妙な学問をでっち上げた」などというデタラメはどこから出てきたのか? 右翼による改竄が激しいウィキペディアか? 東大法学部には、1886年に東京帝國大学として改組されて以来、国法学(ドイツ風の憲法学)講座が開設され、「憲法学者」として著名な、穂積八束、上杉慎吉、美濃部達吉等々が代々憲法学を教えてきた。つまり、戦前にも日本には憲法学がある。 だが、これをあくまでも国法学であって憲法学でないと強弁するのであれば、美濃部達吉は、1920年(大正9年)講座増設で新設された「憲法第二講座」を「行政法第一講座」と兼担した。今度は口座名にちゃんと憲法とあって憲法学だ。 日本の大学法学部教育における講座担当者から見た憲法学史については、高見勝利の論文「講座担任者から見た憲法学説の諸相-日本憲法学史序説」(http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/15092/1/52(3)_p1-38.pdf)を参照だ。 これでも「憲法学」は「マッカーサーは裁判官や東京大学といった権威に圧力をかけ『憲法学』という奇妙な学問をでっち上げた」と言うのか? 右翼の言うことは、これほど左様に、嘘とデタラメばかりだ。 恥を知れよ、アメリカの犬、日本の右翼。
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