>16さん アマテラスとスサノウは、おそらく明治から庶民が知る神話だと思う。 アマテラスは八咫鏡で伊勢神宮、 高天原に住む。 スサノウは、根の国(黄泉)へ行く。 アマテラスの子のオシホミミが自分の子、ニニギ (アマテラスの孫)を地上に降ろす(天孫降臨)。 スサノウは、荒ぶる神やヤマタノオロチ、草薙の剣で 根の国は知られていない。 天・地・泉(黄泉)との考え方から平田神道が明治の神道に影響を与えた。 その前に、江戸官学・朱子学の大義名分「忠」が、幕末・明治でどのように作用したか。 朱子学の理論 とは違う、「忠」で単純化できる。 例えば、忠の解釈で、大政委任論が出て、大政奉還の言葉となる。 保守は歴史伝統といい、なかでも吉田松陰を持ち上げる。 尊王攘夷や国体なども長州に結びつ けるきらいがある。 しかし、初出は水戸藩とされる。 話題の教育勅語も天皇への忠で解釈できる。 教育勅語の時の首相は、山縣有朋である。 山縣は疑獄(山城屋事件)を逃れた政治家である。 教育勅語草案は、元田東野(元田永孚)とされる。 ウィキに、明治天皇の侍読を務めたとあり、 天皇親政で伊藤博文と確執が記述されている。 その20年前、明治初めの政府組織から展開すると、 → 神祇官 (祭祀) 天皇 →| → 太政官 (政務) 最高執行機関となり天皇は承認を与えるのみ、神祇に関与できない 『一方、政務においてこの太政官の権限が大きくなっていったのが摂関政治である。 簡単にいえば これと世襲制とが一体となり、藤原一族の中の北家が太政官の機能を独占し、天皇の統治権を代行 するようになる。 そしてこの体制が定着した後に藤原家が勢力を失うと院政となり、平家が出てそれを 代行し、ついで平家が滅びて源氏が出、今度は太政官の代行を幕府が行うという形で武家政治へと 進んでいくのである。 だがこれはあくまでも太政官の変遷であって、これと並行する神祇官の方は関係 ない。 そしてそれを統率するのは天皇家であって、これはだれも関与できない。 そして、この祭儀権の 周囲に伝統文化の「家元」がいるという体制になっていく。』 山本七平著(日本人とは何か)から引用 神祇官が、神仏分離や廃仏毀釈、大教宣布と神道政策を進めるが頓挫する。 初期の神祇官は平田 神道門下が中心で、宗教観はスサノオやオオクニヌシ系(国津神)の黄泉の国(霊魂に存在を信じる)、 尊王攘夷の後期水戸学はアマテラス系(天津神)と二分できる。 惟神(かんながら)の道、神道と することは同じでも祖をどこにするかで違いがあった。 今は、アマテラス系であり、黄門(光圀)の南朝 を正統としている。 その元は朱子学の忠。 楠木正成や児島高徳は後醍醐天皇の忠臣。 平重盛(平 清盛の子)の「忠ならんと欲すれば孝ならず」。 歴史上の人物をもとに忠の刷り込みを教育した。 「忠」は、議員・官僚・公務員とするピラミッド型組織で機能する。 組織外の国民は「忠」に縛られない。 国民を「忠」へ組み込むため、神祇官(祭祀)が神道を利用した。 神社を氏子神社を底辺に伊勢神宮 を頂点の社格制度を創る。 天皇と赤子の擬制親子や勅語の臣民とする忠孝で上下関係を教育すると 「忠」の国家・社会が出来上がる。 (忠のウィキを参照) 村上重良著(日本宗教辞典)『神社対宗教の 緊張関係は、満州事変勃発の翌1932年(昭和7年)靖国神社で執行された「満蒙上海事変」戦没者 合祀臨時大祭で、カトリック系大学の一部学生が参拝を拒否した事件で最高潮に達した。 大学側の 「神社は宗教か否か」との質問にたいして、文部省は、神社参拝は宗教行為ではなく忠誠心の表現で あるから、いかなる宗教上の理由によっても参拝を拒否することはできない、との公式見解を表明した』 神社参拝は宗教としての神道ではない、御真影に児童が首を垂れるのと同じの忠誠心。 「忠」。 常磐神社(水戸黄門ホームページ) 烈公と慶喜公 〈問て曰、国体の本末とは如何。 を参照〉 http://komonsan.jp/kura/cat24/post_250.html 日本神話・神社まとめ (古事記序文に、当時の儒教思想で、天武天皇を称賛) http://nihonsinwa.com/page/166.html 教育勅語の元田東野は明治時代、幕末の薩長藩士の天皇観を著書から引用すると。 (天皇の側近で 影響を与えた人物はウィキ参照。 父孝明天皇、祖父中山忠能、叔父中山忠光、摂政二条斉敬)
明治天皇を長州藩士はどのように見ていたのか。 朝敵が解除され、王政復古のクーデターといわれる 小御所会議が慶応3年12月9日にあった。 田中彰著(明治維新) 『新政権から慶喜の事実上の追放決定−−これこそが、小御所会議における 討幕派のゆずれぬ一線だった。 それだけに、小御所会議での両派の応酬ははげしかった。 山内 豊信(容堂)は、大政奉還をした慶喜の功績の大きいことを述べ、「然るに二三の公卿、幼沖の天子を 擁し、陰険の挙を行はんとし、全く慶喜の功を没せんとするは何ぞや」と「玉」という操作シンボルによって その政治的野望をつらぬこうとした討幕派の、もっとも痛いところをついた。 だから、岩倉(具視)は色を なして反論した。 「今日の挙は一に皆聖断に出でざるはなし。 何ぞ其の言を慎まざるや」と。』 「玉」は同じく引用から 『一一月二ニ日付の木戸(孝允)から品川弥ニ郎あての手紙は、その情勢の 深刻さをつぎのように述べた。 〈政局の展開にさきんじて、うまく「玉」をわがほうへだきこむことが、何に もましてもっともだいじなことなのだ。 もし万が一にも、彼の手中にそれをうばわれてしまったなら、たとえ どんなに覚悟をきめようとも、実際には四方の志士・壮士の心はみだれてしまい、「芝居」は大崩れとなる。 薩長芸三藩の滅亡はいうにおよばず、ついに「皇国」は「徳賊」の有になってふたたび形勢挽回が不可 能なことは、鏡に照らすよりも明らかだ。〉』 (この言葉から想像できる明治政府の体制はとなる) 明治天皇の教育した幕府が悪いと言う薩摩藩士。 アーネスト・サトウ 坂田精一訳(一外交官の見た明治維新) 『小松(帯刀)と吉井(幸輔)が私たち (アーネスト・サトウとA・B・ミットフォード)に語ったところによると天皇(ミカド)の崩御は二月三日と公表 されているが、実は一月三十日であった。 十五歳の年少の身をもって、天皇の息子(訳注 睦仁親王) が即位した。 この新帝は、外国と日本の政治に関する学問をしかるべき教育によって正しく修めるな らば、賢帝となる素質を有すると思われていた。 ところが、不幸にして、幕府は新帝の知性を増進させる 教師をつけることを決して許さなかった。』 ついでに、不平等条約の関税と日露戦争というのが歴史、発端は長州の外国船砲撃が原因で、幕府が 英国の「改税約書」を受け入れた。 幕府が関税を下げたのはその通りであるが、長州の賠償金を負った ことによる。 (ことの如何はおいても、歴史伝統をいう保守は、検証しているんだろうか?) 神道と生長の家、創始者の政策はさておき、創始者は大本教に入信し脱退。 大本教は、国常立尊 (くにのとこたちのみこと 日本書紀)を祖神としている。 信者の増大、大正維新、祖神の違いなどで、 政府から宗教弾圧受けた。 (宗教は分派していく。 一つにまとまる目的は、何なのか疑問)
大本(教) 艮の金神 http://www.omt.gr.jp/modules/pico/index.php?content_id=5 吉田松陰神社は、ある、高杉晋作神社は、ない。 安倍晋三記念小学校じゃなく、神社だったのかも? それにしても、只管打坐は禅宗。 神道の禊でもなく迷走? 「そもさん」「せっぱ」は、蒟蒻問答。 座右の銘を「不誠 未有能動者也」に変えたほうがよさそうだ。
|