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メディア・マスコミ東日本大震災日本人
原発事故から6年、都合の悪いことを黙殺し続ける私たちの「病理」
南相馬の精神科医が目にしたもの
堀 有伸
精神科医
ほりメンタルクリニック院長
プロフィール
ある老医師の「戦死」
2016年12月30日、福島県広野町にある高野病院の高野英男院長が火事で亡くなるという痛ましい事件が起きた。享年81。高野病院は2011年に事故を起こした東京電力福島第一原子力発電所から22kmの地点にある。
震災後は、病院にただ一人残った常勤医師として休むことなく診療に当たった。元来は精神科医であったため、震災前には一般的な救急患者の受診を受け入れてはいなかった。
しかし、周囲の病院が軒並み休業したため、高野病院が福島県双葉郡において診療を行う唯一の病院となってしまい、震災後には救急車で搬送される患者の受け入れも行うようになった。年間の当直回数が100回を超えたこともあったという。
生前の高野医師の姿はテレビでも放映され、その過酷な勤務内容と、次第に足腰が弱りテレビの前で転倒してしまうような姿も、全国で知られるところとなった。
しかしながら、その負担が大きく軽減されることはなく12月の事件につながった。私の脳裏に浮かんだのは、すさまじい戦闘を繰り広げている最中での「戦死」という言葉であった。
高野医師のことはその死後にもくり返し報道され、数多くの人がその姿に感動し、従六位に叙勲されることにもなった。
しかし私は複雑な気分である。もちろん、高野医師が讃えられることに何の異存もない。
そうではあるが、やはり、なぜ生前に高野病院が存在する福島県双葉郡(ここに福島第一原発が立地している)の医療体制が整えられ、高野医師の負担が軽減し、穏やかな余生を過ごすような環境を創ることができなかったのか、そこを問いたいと思う。
高野病院がある広野町よりも原発に近い楢葉町の避難指示は、2015年の9月に解除されている。そしてそれよりもさらに原発に近い富岡町の避難指示も、今春に解除される予定である。
それなのに、そこでただ一軒だけ診療を継続してきた病院が、このような状況で放置されてきたのは、私たちの精神性に根強く残っている戦略性の欠如を示しているのではないだろうか。
お国のために戦って死んで英霊となった高野医師の名誉は大々的に顕彰されている。しかし、高野医師には震災後の人口減少が起きたために経営が苦しくなった民間病院の経営者という顔もあった。
そして、その高野病院の民間の事業者としての側面に対しては、行政からの介入は乏しく、その態度は冷淡なままである。兵站についての関心が乏しかった、昔の大日本帝国の軍部のように――。
高野病院以外にも、原発事故によって避難指示が出た地域の復興のために、人口が激減した不利な状況でも何とかしようとしている多くの事業主たちがいる。
しかし、その人々も現状では多くのサポートをえているとは言えない。4兆円の費用を投じて行われている除染とは、対照的だ。
NEXT ▶︎ 日本人は変わってしまった…
「日本的ナルシシズム」という思考法
筆者は、昨年に『日本的ナルシシズムの罪』という本を上梓し、現代日本に蔓延する病理性について報告した。
そこでは「和を持って貴しとなす」という美徳についての誤解が行われ、狭い仲間内でのみ通用する都合のよい「想像」を共有することが人間関係において過度に重要視されてしまい、その想像と合わない現実を扱うことや、想像を共有しない他者との関係性を構築することがきわめて困難になるという特徴があると記載した。
具体例を挙げた方が分かりやすいだろう。
2011年の原発事故が起きるまで、ほとんどの日本人が共有していた原子力発電についての「安全神話」とそれによって維持されていた日本社会の連帯と安定が、その一つの現れである。
2011年の事故によって明らかになったのは、それが都合のよい想像だったのであり、その想像を強く共有したために私たちが「原子力発電所は事故を起こすかもしれない」という現実を適切に扱えなくなっていたという事実である。
たとえば、原発事故前に津波対策の不十分さも指摘されたのに、それが無視されていたことも、私たちは知らされている。
原発事故によって私たちが失ったものは大きい。
日本人の感性やアイデンティティは、自然の恵みや豊かな風土によって支えられてきた。その多くを私たちは自分たちの手で放射線によって汚してしまった。
避難などの影響が大きい震災関連死として、福島県だけで2000名以上の人が亡くなった。地域のコミュニィティはズタズタにされてしまった。その他にも、技術立国としての自信とプライド、そして信頼も、大きく傷つけられた。
恥を重んじる、伝統的な日本人の心性からすれば、耐えられないことだろう。
〔PHOTO〕gettyimages
「想像的な一体感」と「現実的な一体感」の落差
しかし、どうやら日本人は変わってしまったらしい。
原発事故による損失という現実に向き合い、それを修復し、国民の間に本当の連帯感をもう一度作り上げようという機運は、残念ながらきわめて乏しいと考える。
代わりに目立つのは、事故の責任が不問に近い状態のままであること、生活環境が整わないままの原発事故被災地への帰還の方針の強調、事故を起こした原発の廃炉事業の主体を民間企業に任せたまま国の直轄としない無責任さ、どこまで膨らむのか予想がつきにくい賠償や除染費用についての議論の乏しさ、持てるものと持てないものの格差の拡大などである。
ここに現れているのは、「原発事故によって私たちは多くのものを喪失した」という現実についての否認である。国家の無謬性を、どうしても維持したいと願っているかのようだ。
このような方法で保たれる一体感は想像上のもので「ナルシシズム」の産物に過ぎず、立場の異なる者による対話を不可能にさせて分断をもたらす性質を持っており、それゆえに厳しい試練に耐えられるものではない。
国民が力を合わせて現実の困難を乗り越えることで醸成される本当の「誇り」とは、全くの別のものである。
NEXT ▶︎ 「原子力ムラ」批判の限界
「原子力ムラ」批判だけでは変わらない
つい「原子力ムラ」という言葉を使い、それに厳しい批判の言葉を投げかけたくなる。
たとえば、賠償や除染・廃炉に今後どのような費用がかかったとしても、結局はそれを電気料として広く国民が負担することになり、電気事業者の権益は確保されるとの指摘がなされている。
そしてそのような方法で維持される経済力を背景に、前述したような原発事故の否定的な影響を小さく見せるようなキャンペーンが展開されているという憶測も行われることがある。
もしそうならば、電気事業者は原発事故によって適切な処罰を受けることなく、かえって影響力を増したことになる。しかしそれは誠に不遜な事態であり、厳しく糾弾しなければならない、そのように考えたくなる。
しかし、精神病理学の立場からは、その思考法を進め、その中に埋没する危険性にも意識的でありたい。「全て良い。問題ない」という感覚を「全て悪い。問題ばかり」という反対の感覚に転換させても、現実から遊離した想像にとらわれていることに違いはないのだ。
〔PHOTO〕gettyimages
たとえば「東京電力」という企業について、「原子力ムラ」を代表する悪のイメージに染め上げてしまい、事あるごとにその非についての批判・攻撃を行ったとしても、そこで期待できることは感情の発散に留まるだろう。
「悪を糾弾する」ふるまいを中心にアイデンティティーができてしまうと、批判すべき巨悪への精神生活における依存度が高まってしまう。
その結果、何かについての批判は行えるが、自発的に問題を発見し、その解決を提案・実行する力が大幅に損なわれてしまうことも、警戒したい。
やはり、まず虚心坦懐にあるがままの「東京電力」の姿をみることを行わねばならない。そして現実を踏まえた上で、一つひとつの課題について「是々非々」の判断を行っていくことが必要である。
私は2012年4月から福島県南相馬市に居住している。そこで見聞したものの一つは、事故対応時および廃炉の事業における東京電力の関係者の英雄的な働きである。
事故の最中や直後は、その場にいただけで恐ろしかったに違いない。わずか半年前に完成したという重要免振棟があったので作業が可能となったが、人が長時間留まって作業する環境としては、そこは劣悪であったという。
その人々の貢献が無ければ、原発事故による放射性物質の拡散がより広範囲に大量に行われた可能性があるし、今後の廃炉の事業の進展に大きな問題が生じるのは明らかである。
しかし福祉的な視点からは、東京電力の自社の現地職員や協力企業の関係者への処遇を含む、原発事故によって「それまでの生活を奪われた人々」への対応に疑問が残る。
帰還を目指す人にも避難を続けている人にも、そのどちらに対しても、新しい生活を再建することを可能にする繊細な対応が行われているとは評価できない状況がある。
また、原発の再稼働に向けて、重要免振棟の設置は必須の要件にはなっていないという。より費用のかからない耐震構造でも良いとされているが、私たちは東京電力をはじめとする各電力会社の、事故防止に取り組む姿勢にも注意を払い続けるべきだろう。
NEXT ▶︎ 私たちの心は「分裂」している?
私たちの心の分裂(スプリット)とその克服
精神病理学で「分裂(スプリット)」という用語が用いられることがある。
同じ対象についての矛盾した空想が、私たちの心の中に同時に存在しながらそのことについては無自覚なままであることを指す。
そして、このような「分裂(スプリット)」を抱いている対象については、私たちは一貫性のある現実的な対応を取れなくなってしまう。
「原子力」について、私たちの心の中には、良いイメージ群(系列1)と悪いイメージ群(系列2)が分裂(スプリット)したままで存在している。それぞれのイメージ群の内部の空想上の対象のいくつかは、相互に自動的に結びつき、全体の空気や気分を形作っている。
系列1:「良い原子力」=「強大なエネルギーとそれを保持したい願望」=「国策と伝統の正しさと無謬性」=「経済的な優位性の確保」=「原発事故の否定的な影響、特に放射線による直接的な健康影響の否定」=「帰還」=「原発再稼働」=「保守」
系列2:「悪い原子力」=「強大な破壊力とそれを穢れとして払いたい願望」=「国と権威者たちによる失敗と迫害の事実の隠蔽」=「経済的な搾取と格差の拡大」=「原発事故の否定的影響、特に放射線による健康影響の強調」=「避難」=「反・脱原発」=「リベラル」
さらに、これらのイメージ群に、憲法や自衛隊や沖縄の基地や天皇制などの問題が連動してしまうこともある。
もちろん、これらは本来別々の問題である。一つひとつのテーマについてしっかりと検討した上で結論付け、それを踏まえた上で全体としての結論を目指すのが適切な推論であろう。
しかし、別の場面では現実的に物事を考えられるはずの日本人の中に、こういったテーマについては「系列1」か「系列2」のどちらかを選ぶ独断が先行して、その気分的なもの(空気)に従属することを現実的な思考よりも優先する傾向が生じてしまう。
その空気に巻き込まれることが良しと感じられない場合には、その場から撤退することとなり、思考を欠いた空気が分裂したまま交わらないままに留まる。そして、現実的な課題の解決は先送りにされ、無為に時間が経過することとなる。
幸い、東日本大震災・原発事故を通じて、私たちには考え直す機会が与えられている。しかしながら、私たちは震災から6年の月日を、無為に過ごさなかったと言えるだろうか。
震災と原発事故について、具体的な課題についてしっかりと考えてその解決を目指すことが、この精神的課題を乗り越えることにつながっている。
そのことによって私たちは想像的な一体感に支えられた日本的ナルシシズムを脱却し、現実的な一体感に裏付けられた日本的な誇りを再建することができるだろう。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51030?page=4
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