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アパグループ元谷外志雄代表  / 「中国のみなさ〜ん、誤解です(でも、何が?)」 
http://www.asyura2.com/17/senkyo219/msg/618.html
投稿者 赤かぶ 日時 2017 年 1 月 25 日 10:55:06: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

アパグループ元谷外志雄代表  / 「中国のみなさ〜ん、誤解です(でも、何が?)」
http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/3ce70224206e992b6a90b23045fd0d91
2017年01月24日 のんきに介護


サイト「BuzzFeed」に

アパグループ元谷外志雄代表の真意として

「中国人の予約は受けない」発言は、

誤解されてるとある。

☆ 記事URL:https://www.buzzfeed.com/eimiyamamitsu/apa-hotel-global-times?utm_term=.pxZYYGaVnk#.pkELLwWkda

では、どう解したらいいのか、

について説明が漠然として何が真意なのか

はっきりとしない。

これでは

誤解があっても誤解が解けない。

一度、

読んで見られて自分の目で確かめて欲しい。

思うに、

アパホテルは今、

股裂き状態なんだろう。

一方では、

安倍晋三の後援会、安晋会の副会長であるし

排外主義であり、

歴史修正主義の態度は維持したい。

他方で、

中国や韓国から顧客が途絶えると

ホテル業の経営が成り立たなくなってしまう

というわけだな。

どう後始末つけるつもりか。

早く土下座でも何でもして中国政府に詫びを入れないと

倒産の運命が待ち構えているよ。

仮にそうなっても、

安倍晋三は助けには来てくれないよ。

彼は、

長い物が好きなんだ。

窮状を知ったら、

「ほんとか、アパグループって

そんなに脆かったのか」で

お終いだよ。

さっさと意地は捨てた方が賢明だと思うな。

それとも、

APAホテルの

最初のAは、ABEのA。

後のAは、AsiaのA。

二人は、

とっても仲悪かって…なんていう

語呂合わせして、一生、遊ぶかい?。

惨めだよ。

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
 
1. 中川隆[6300] koaQ7Jey 2017年1月25日 10:58:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6752]

「中国のみなさ〜ん、誤解です(でも、何が?)」 


誤解でなく、日本人は元々こういうのが大好きなんだよ:

日中戦争証言 車河堡 王さん(69歳)柳河口

 1回だけ見たことがあります。強姦したのは普通子どもには見せないんです。

1回見たのは、若い女性に沢山水を飲ませて、お腹を膨らませたり、

鉄の棒を火で焼いて、赤い鉄の棒を乳房に当てたり、女性の生殖器に差し込んだり、

あるいは銃剣の先を焼いて乳房や生殖器をえぐり取ったりしました。

http://www.jade.dti.ne.jp/~kaworu/syogen/syakaho.html

日中戦争証言 劉寨子 王さん(64歳)さんの話


 1972年の日中友好国交回復に対して、この地域の人はみんな反対しました。

私たちは、つらい経験したのに、どうして今更友好などという言葉を言い出して関係を回復するのか。

政府は何回も説得して、

「当時は軍国主義のやったことで、日本人民、日本国民たちとは友好関係を持っていかなくてはだめだ。戦争は、普通の人民の責任ではない。」

と教えられた。

しかし、今も気持ちとしては、今になってもやはり「日本」という二文字を聞いたら「憎む」という気持ちが湧いてきます。

私の考え方では、このような歴史はいつまでも次世代、どんな世代になっても忘れてはいけないことです。私はわりと若いですから、当時の詳しい話は次の夏さんに教えていただきたいです。
http://www.jade.dti.ne.jp/kaworu/syogen/ryujya.html#ou78


2. 2017年1月25日 12:18:15 : obRWCKcN7A : YYaSXyTkhCE[13]
南京大虐殺が真実かねつ造かは別にして、自分なりに根拠や理由があって
南京大虐殺はねつ造であるとし、信念を持って南京否定本を客室に置いたなら
中国の客が来なくなって経営危機になろうとも詫びを入れて撤去するなんてことはするべきではないな。
金儲けのために信念や思想を曲げたとなればそれこそ会社としては破滅の道。

3. 2017年1月25日 12:32:51 : w3M1BHSquE : 5KToaZSVnLw[1171]
アッパホテルの主張は、結局 南京事件の 【部分否定に過ぎない】
嘘や大袈裟をたまに見つけて 鬼の首取ったようにあげつらい まるで全てが嘘であるかのような【印象操作】

 これが ウヨの 得意技 というものである

だがしかし 星の数ほどある 中国人民だけではなく 何百人という加害者の日本軍将兵の証言までも
すべて全部 一つ残らず 完璧に 嘘である事を立証せねば 「無かった事の証明」 というのは有り得ない
一部の嘘や錯誤を 暴いて見せたところで 全部が全部嘘である事の証明には 天地が引っくり返っても
成立はしないのである

そう 犯罪行為は 有ったという事は たった一つだけでも 本物の証言が有れば 立証できるのである
たとえ100ある証言の内 99までが 嘘だったとしてもである(ネトウヨが否定できているのは一部分のみ)


そして 日本の国を成り立てている三権 立法府 行政府 司法府 このすべてが南京事件は有ったものとして
公式に 正式に 完全に認めているという 「厳然たる事実」 を、ちゃんと目を逸らさず見据えたまえ

馬鹿ウヨ諸君よ。

_______________________________________

外務省 日中歴史共同研究(概要)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/rekishi_kk.html

安倍首相が立ち上げた「日中歴史共同研究」が南京大虐殺を正式に認めていました
http://saigaijyouhou.com/?no=15129

「南京大虐殺」の存在は、最高裁が家永教科書裁判の判決ですでに認定している
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/5f67375d5de3b6bae0691e4db77964f4


4. 2017年1月25日 12:41:02 : zU3bOA6eeQ : D1Ln9H3teEc[390]
 3さん

 「貴方の主張が理解できない人たち」が「バカウヨ」の定義になりそうにも思えるんですが。


5. 2017年1月25日 13:31:50 : YADZm1T1Ss : RpPrzknPcDE[1]
アッパラパーホテルなど泊まれば、精神が冒されるわ#

6. 2017年1月25日 13:44:29 : 35EuUW7jDw : yWf3pgdtr88[57]
「そう 犯罪行為は 有ったという事は たった一つだけでも 本物の証言が有れば  立証できるのである
 たとえ100ある証言の内 99までが 嘘だったとしてもである」


 戦争になれば(いまでもか?)兵士を戦闘で殺しても、監獄には入らない、むし
 
 ろ勲章をもらう場合もあった、それが当時の常識。

 南京事件も戦闘継続中、便衣兵(ふっうの服に着替えた兵隊)を殺傷しても戦闘

 行為なら犯罪にならないとか言う理屈もでてくる。


 日本政府の見解は 30万人という中国の数字はみとめていない。

 犠牲者の正しい数を認定することは困難との見解である。

 日本政府はゼロとまではいっていないが、大虐殺を認めている

 わけでもない


日本政府は「多くの非戦闘員の殺害や略奪行為などがあったことは否定できない」としつつも、犠牲者数について「諸説あり、政府として正しい数を認定することは困難」との見解を示している。



7. 2017年1月25日 14:54:28 : uxpGdXmeYk : mp1S6n0BgD4[4]
おいお前、中国にケンカを売ったんだろう。中国はそのケンカを買ったんだよ。やらんかい。ただし安倍は助けてくれんよ。逃げるだけだよ。

8. 2017年1月25日 16:02:30 : w3M1BHSquE : 5KToaZSVnLw[1173]
>>6
確かに 30万人は 大袈裟とは思われる だがしかし ただそれだけの事だ 推定での話でしかないし
30万が たとえ3万人だろうと3千人だろうと 大虐殺と言ってなんら差し支えは無い非人道的行為である

疑問を挟めるのは あくまでも【人数だけ】なのである

そしてその、人数を確定できない事への責任は 日本側にある事もまた事実
戦犯追及を恐れて 都合の悪い関係書類を すべて焼却処分し証拠隠滅を図ったのであるから
『証拠隠滅を図った側が不利になる』 のは、世界中どこへ行っても常識中の常識だからして
『国際社会からは 中国の主張が優先的に認められる』 と言う事は 致し方ない事 文句は言えないのだ


そしてさらに 南京の人口は 日本側の調査で113万人だったという事が 日本軍の調査資料が地中から発見され
ウヨ連中の主張 20万人など嘘であった事が 明らかになっている
_______________________________________

日本軍文書:南京大虐殺で南京の人口が80万人近く減少
http://j.people.com.cn/94474/8507124.html

↑ これでは 中国人民が 怒り狂うのは 当然の事であろう。


どうせ 書籍の撤去に 応じざるを得なくなるだろう
アッパホテルの功績は 南京事件を あらためて世界中の人達にアピールし
(馬鹿ウヨ連中という)日本の恥部を世界中に晒した事だけだな。


9. 2017年1月25日 16:42:10 : 7U1W5ro7JM : Fte615eQknU[378]
お望み通り中国人は泊まらなくなるし、
まともな感覚の日本人は泊まらないだろう。
この際、日本会議・統一教会専用の会員制ホテル
「APA統一教会ホテル」とすべきだ。

10. 2017年1月25日 17:11:55 : 35EuUW7jDw : yWf3pgdtr88[58]
中国共産党 VS 一民間ホテルアパ のバトル

アパホテルの会長の度胸は認める

習近平 VS 元谷外志生

引き分けにもちこめばアパの勝ちのようなもんだな。


11. 2017年1月25日 17:19:46 : 9cDZ5auBU2 : 1HLnO1LdbGA[31]
21世紀の今ですら戸籍を持たない国民が多く存在する中国の、80年前の人口動態を信じろと言う方が無理。
80年前の中国はそもそも国家の体をなしてはいなかった。
アパホテルの書籍の問題は、中国のウソがここにあることの証明に他ならない。
ウソつきはそれを指摘されると異常な程全力で反論してくる。
本当の事であればウソの指摘を一つ一つ潰してくる。
意見の相異はあるとしても共通に理解できる事実を基に真実に迫ろうとするはずだ。

中国にとって南京事件はどんな歴史的事実であろうが外交上なくてはならない物なのだ。それは中国の建国の歴史の正当性を担保するための一つとして必要であり、これらの根拠が崩れれば一つの中国と言っている以上、台湾政府が正式な中国になってしまうからだ。


12. 中川隆[6311] koaQ7Jey 2017年1月25日 18:05:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6763]
>>11
南京の農村は何処に誰が住んでいるかわかっていたので、何人殺されたかは正確に把握できたんだよ

事件直後の欧米人の調査結果が30万人虐殺なんだ


13. 2017年1月25日 18:36:12 : 4tjfp7nViQ : 7B5rpwP7WFA[1]
一個人が文句を言うのは勝手だが、中国や韓国の公的機関が不当な政治介入をして、不当な圧力をかけて、気に入らない本を撤去せよなどと日本の民間企業の営業を妨害する言動・行為は絶対に許せない。

もう日本は黙らない。
腰抜けの日本政府や外務省と違って、少なくとも日本国民はおかしなことを言えば、相手が誰であろうと反論する。
中国や韓国の公的機関が日本の民間企業に不当な圧力・不当な政治介入をして、気に入らない本を撤去せよと言っていることにも、日本の民間企業に対する営業妨害であると日本国民は抗議する。
日本政府や外務省も腹を据えて本気で対処しないと、日本国民からの反発は大きくなることを覚悟しておくことだ。
南京大虐殺も従軍慰安婦も存在しない。
日本軍による虐殺も強制連行も性奴隷も存在しない。
真実はこちら側にある。
何も恐れることはない。
アパホテル、よく言った、よくやった、グッドジョブ。
気に入らない本があるから撤去せよというのは中国の不当な政治介入であり、アパホテルに対する営業妨害である。
日本で同じことをしたら不当な政治介入と糾弾されるだろう。
事実、中国の不当な政治介入であり、アパホテルに対する営業妨害だ。
客が嫌だというのは自由だが、問題は中国外務省が気に入らない本を撤去しろと言っていることだ。
明らかに不当な政治介入であり、アパホテルに対する営業妨害だ。
中国では普通のことだろうが、民主主義国家の会社には通用しない。
余計なお世話だと思われるのがオチだ。
それにしても国が恣意的に特定企業を狙い撃ちにして、ネット検索できなくしての不当な営業妨害が通用する中国という国はやはり異常だ。
日本でのネットユーザーなどによる反応は「最近はどこも予約がとり難いから、助かります。ありがとう中国」、「客室の備品が無くならないようになって良かったじゃないか」や「出張の際にはアパホテルを利用しようかな」などと言ったものもあって、アパホテルにとっては大きなビジネスチャンスにつながれる、と考えれる。
大丈夫、意気に感じる客は必ずいる、というよりやっぱりいた。
それに中国人客のマナーは悪いと言うし、そういう面では吉と出たようだ。

2017.1.24 18:42更新
【中国アパ拒否】
「中国人の予約拒否」報道、アパグループが全面否定
http://www.sankei.com/life/news/170124/lif1701240028-n1.html
「南京大虐殺」などを否定する書籍を客室に備えたとして、中国政府が日本のアパホテルを批判した問題で、運営するアパグループの元谷外志雄代表が「中国人からのホテル予約は受けない」と発言したと一部の韓国メディアが報じたことについて、同社は「そんなことは全く言っていない」と報道を否定した。
アパグループによると、報道は19日に開かれた元谷代表が主宰する塾の会合での発言内容を指しているとみられるが、同社は「(発言は)多くの中国の旅行社がアパホテルを予約対象から除いたため、中国人が予約できなくなった」という趣旨だったと説明。「間違った内容が報じられている」と語った。
同社によると、国内のアパホテル全宿泊者数に占める中国人の割合は約5%だが、「今回の問題を受けてのキャンセルは、ほぼない」という。

2017.1.24 21:07更新
【中国アパ拒否】
アパグループ・元谷代表の発言シーンの動画公開 「中国からの予約できない状況」
http://www.sankei.com/world/news/170124/wor1701240054-n1.html
「南京大虐殺」などを否定する書籍を客室に備えたとして中国政府が日本のアパホテルを批判した問題で、運営するアパグループの元谷外志雄代表(73)が「中国人の予約も受けない」と発言したと一部の韓国メディアが報じたことについて、元谷代表の発言部分を含んだ動画が公開されている。
発言は、元谷代表が塾長を務める「勝兵塾」が19日に開いた第68回月例会での開会の辞。動画は21日、勝兵塾の公式ユーチューブチャンネルにアップされた。
動画によると、元谷代表は「営業的には、今、サイトが止まっている状況ですから、予約ができないと。アパの公式サイトからの予約ができないと。中国からも、予約しようとしたら、その…あれが…予約を受け付けない…と。というようなことでですね、いくらかのダメージは受けるかもしれませんが」と発言した。中国からの予約ができない状況を説明した内容で、中国人の予約を受けないとは聞こえない。
アパグループ秘書課は産経新聞の取材に「元谷(代表)の発言は物理上、中国から予約できない状態に至っている、という意味」と回答した。
元谷代表の発言を報道したのは、韓国の中央日報。同紙の日本語版によると、「23日の中国共産党系『環球時報』によると、元谷会長は最近、右翼関係者らが開催したあるフォーラムに出席し、『(客室から書籍を)撤去することは考えておらず、中国人の予約も受けない』と述べた。多くの中国旅行会社がアパホテルを予約リストから削除したことに対抗したのだ」と表現している。
中央日報は24日午後8時現在、日本語版サイトからこの記事を削除している。
(WEB編集チーム)

2017.1.25 11:43更新
【中国アパ拒否】
「いいタイミングで騒いでくれた」アパホテル元谷代表が自信の主張…「本当のことがわかれば保守になる」 大阪での月例会
http://www.sankei.com/west/news/170125/wst1701250038-n1.html
「南京大虐殺」や「慰安婦の強制連行」を否定する書籍を客室に備えているとして、中国政府が訪日中国人に日本のアパホテル利用を禁止した問題で、同ホテルグループの元谷外志雄代表(73)は24日夜、大阪市西区のアパホテルで開催した元谷代表主宰の「勝兵塾」月例会で約130人の参加者を前にあいさつに立ち、「お騒がせしている。だが、今回のことはいずれ起こると想定していたこと」と話した。
「70年間にわたって日本は『押せば引く国』『文句いえば金を出す国』ということで悲哀を味わっていたが、『本当はどうなのか』ということを知ってもらう必要がある」とした上で、「いいタイミングで(中国が)自ら騒いでくれた。ご不安をかけたが営業上のダメージはない。いろんなところに陰湿な攻撃がくることは警戒しないといけないが、これまでのスタンスを変える気はない」と書籍を撤去しない方針を改めて示した。

◆元谷代表のあいさつの詳細は次の通り。
「ご存じのようにここのところお騒がせしている。だが、今回のことはいずれ起こると想定していたこと。どこの国の人(外国人)でも宿泊者に占めるウエートが10%になれば、少しずつ料金は上げて、10%以内にしていこうとやってきた。どこそこの独裁国家がいきなり『(ホテルに)行ってあげない』という風になったときに当社がダメージを受けないように。幸い当社は1200万人以上の会員のビジネスユースが大半で、海外の宿泊者は2割程度。その中でも中国は5%、韓国は3%。10%の規制に達する前のいいタイミングで今回のことは起きたと思っている」
「(南京大虐殺の)ユネスコの登録は受け付けでまだ登録されていない状況。大騒ぎしたことでたぶん中国上層部は『まずいタイミングやな』と思うのではないか。『これで歴史カードとして南京が使えなくなるな』と。これまで1万数千件の激励、称賛のメール、電話をいただいている」
「これまで誰もいってこなかった。向こうが押せば引くと、70年間にわたって日本は『押せば引く国』『文句いえば金を出す国』ということで敗戦国の悲哀を味わっていたが、もうここまで来たら『本当はどうなのか』ということを向こう(中国)の方にも知ってもらう必要がある。いいタイミングに自ら騒いでくれた。向こうは騒いでいるけども張本人の所はたぶん、抑えにかかりたいと思っているはず」
「今回の事案は本年に入ってから始まったように報道しているが、実際は昨年10月末に第一波の攻撃を受けている。その時は、対策を施していなかった関係で迷惑サイトが止まらなかった。今回はサイトもサイバー攻撃でダウンしたが、昨日(23日)から予約もとれるようになった。海外の方もたくさん使っている。私としてはダメージよりも知名度アップに貢献してくれたという思い」
「今や知名度は世界一。今回のことは全世界で報道されている。世界の友人が教えてくれた。何が大事か、本当はどうなんだ、本当のことがわかればみんな保守になる。日本の人は本当のことがわかっていても言えなかったけれども、これからはジワジワと本当のことを知らせてこなかった本国(中国)にダメージがいくだろう」
「ご不安をかけたが、うちは営業上のダメージもない。彼らが悔しいので脅しにかかったり、火をつけたり…。いろんなところに陰湿な攻撃がくることは警戒しないといけない。しかし、これまでのスタンスを変える気はない」
「中国政府がアパホテルの利用中止を求めたという。旅行の予約サイトに中止を要求した。報道官の言葉ではなく、観光局が出したようで。それを振り切ろうという人は中国にはいないでしょう」
「しかし、中国人が使わなくてもビジネスユースが大半ということを考えれば、全体的に見ても中国は(利用者の)5%。多くの人から『アパホテルしか使わない』といった激励もいただいているし、相殺、むしろプラスが多いと思う。当面は政府が(ボイコットを)出したのでニュースになるだろう。しかし、本当のことを知るのが一番大事で、私は本当のことを発表しているということを理解してほしい」

2017.1.18 00:11更新
【歴史戦】
「南京大虐殺」否定書籍 アパホテル「撤去しない」
http://www.sankei.com/world/news/170118/wor1701180002-n1.html
中国国内で非難の声が上がっているのは、アパグループの元谷外志雄代表のエッセーをまとめた本とされる。アパグループは17日、客室から撤去する考えがないとする見解を公式サイト上に掲載した。
同社は「特定の国や国民を批判することを目的としたものではなく、あくまで事実に基づいて本当の歴史を知ることを目的としたもの」と説明。その上で「日本には言論の自由が保障されており、一方的な圧力によって主張を撤回するようなことは許されてはならない」との考えを強調した。

2017.1.18 23:22更新
【歴史戦】
アパホテル書籍「本当の日本の歴史 理論近現代史学II」は社会時評エッセー 南京大虐殺「あり得ない」
http://www.sankei.com/life/news/170118/lif1701180044-n1.html
アパホテルの客室に置かれている書籍のタイトルは「本当の日本の歴史 理論近現代史学II」。アパグループの元谷外志雄代表が「藤誠志」のペンネームで月刊誌「Apple Town」に連載している社会時評エッセーをまとめたもので、英訳も付いている。
書籍では南京大虐殺について、「(日本軍の)攻略時の南京の人口が20万人、一カ月後の人口が25万人という記録から考えても、あり得ない」などと否定。さらに上海大学教授の指摘を引用し、「いわゆる南京大虐殺の被害者名簿というものは、ただの1人分も存在していない」と記している。

2017.1.24 22:58更新
【中国アパ拒否】
アパホテル「本は撤去せず」
http://www.sankei.com/economy/news/170124/ecn1701240039-n1.html
アパグループは24日、中国観光局が中国人訪日客にアパホテルを利用しないよう呼び掛けたことに対し、「政府が一民間企業の活動を個別に批判することに対しては疑問を感じる。書籍を撤去しない方針に変更はない」とのコメントを発表した。

2017.1.18 23:14更新
【歴史戦】
「中国に負けるな」 アパホテル書籍、ネットで反響広がる
http://www.sankei.com/life/news/170118/lif1701180043-n1.html
南京大虐殺を否定する書籍をホテルの客室に置いていることを中国外務省に非難されたアパグループに対して、インターネット上では、ニュースのコメント欄や短文投稿サイトのツイッターなどを通じて反響が広がっている。
アパグループが書籍を客室から撤去する考えがないことを明言したことに対して、「ホテルに政治的主張は不要」などと否定的な意見も出る一方で、「嫌なら泊まらなければいい」と「言論の自由」を支持する声も多い。
アパグループを支持する意見は「よく言った」「中国に負けるな」など。なかには「炎上しても商売に影響しない、という実例を作ってほしい」と斜に構えた見方も。一方で「アパホテルの主張を日本人の歴史認識と思われるのはさすがに嫌」「アパホテルで日本を語らないでほしい」という突き放した意見もあった。
同グループには18日までに、1万件を超える意見が寄せられたという。その多くが「御社の判断を支持します」といった称賛や激励で、「批判的な内容はほとんどなかった」と説明している。また、「今回の件に関連して、中国人客の予約のキャンセルはほとんどない」と影響を否定した。
書籍を客室に置いていることについては改めて、「誤った歴史教育やメディア報道によって誇りを失っている多くの人に、正しいと信じる日本の歴史を広めることを目的としています」と強調した。

【中国崩壊2017年1月21日】アパホテルが完全勝利!!中国韓国以外の国から予約殺到www 世界各国の称賛に中国発狂www【嫌韓嫌中ちゃんねるほぼ日】
https://www.youtube.com/watch?v=qgyGh0iVghE

中国国内、アパホテルのネット予約が不可
© AFP 2016/ Kazuhiro Nogi
2017年01月19日 09:21(アップデート 2017年01月19日 09:26)
https://jp.sputniknews.com/japan/201701193251647/
時事通信の報道によれば、中国の複数の大手インターネット旅行代理店で18日、客室に旧日本軍による「南京事件」を否定する内容の書籍が置かれているとして、批判が出ているアパホテルの予約ができなくなった。
中国は27日から春節(旧正月)の大型連休に入る。日本も人気の旅行先だが、影響が長引く可能性もある。
このうち、予約サイトの「携程(シートリップ)網」では、18日には検索しても同ホテルが表示されなくなった。
問い合わせ先の担当者は「南京大虐殺を否定するような書籍が置かれているため。国内の多くのサイトでも予約できない」と語った。
書籍はアパグループの元谷外志雄代表の著作で、中国が犠牲者30万人と主張する「いわゆる南京虐殺事件がでっち上げであり、存在しなかったことは明らか」と記述している。同グループは「事実に基づき本当の歴史を知ることを目的としている」として、客室から撤去しない方針を示している。
日本国内のアパホテルは155カ所。アパホテルの公式サイトがつながらない状態になっており、アパグループは「詳細は調査中だが、サイバー攻撃と思われる異常なアクセスが継続している」と指摘した。
ところで、日本でのネットユーザーなどによる反応は「最近はどこも予約がとり難いから、助かります。ありがとう中国」、「客室の備品が無くならないようになって良かったじゃないか」や「出張の際にはアパホテルを利用しようかな」などと言ったものもあって、アパホテルにとっては大きなビジネスチャンスにつながれる、と考えれる。

アパホテル炎上に神対応し日本人絶賛!「アッパレ!」「支持します」「これからアパに泊まる!」
2017/1/17
http://borderline.blue/%E3%82%A2%E3%83%91%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB%E7%82%8E%E4%B8%8A%E3%81%AB%E7%A5%9E%E5%AF%BE%E5%BF%9C%E3%81%97%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E7%B5%B6%E8%B3%9B%EF%BC%81%E3%80%8C%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%91/
アパホテルが南京大虐さつが捏造であるという主張を含むアパグループ社長の「本当の日本の歴史 理論近現代史 II」が中国で炎上している件についてまさに「神対応」と言ってよい対応で日本人が大絶賛している。
その神対応が是非知っておこう。

アパホテル炎上に神対応し日本人絶賛
アパホテル炎上までの経緯については以下記事にありますので割愛します。
・アパホテル南京事件本配置で中国人が炎上!海外の反応「ホテルが静かになり良いな」
NYに住むアメリカ人と中国人カップル?(友達?)のYoutuberのような2人組が日本を訪れた時アパホテルに上記の本が置いてあったことを疑問視したものだ。
アメリカ人の女性は冷静で、一方的に否定することはなく、中国人に不利な情報があった上でお金をいただくのは不誠実なので、これを知った上で中国人はアパホテルに泊まるか判断してください、というように微博(中国版ツイッター)で伝えている。
なぜ中国版ツイッターに投稿されたか話題になっているが、元々このYoutuber(といっても再生回数はそこまでなかった)2人組は片方が中国人というのが関係あるのでしょう。

アパホテルの対応
しばらく1月17日の日中はアパホテルのサイトにアクセスできない状態でしたが夜についにアパホテルが対応しました。
その主なコメントが以下。
長くなるので中略し要約しています。
"
・書籍の近現代史に関わる内容は著者が数多くの資料等を解析し、理論的に導き出した見解に基づいて書かれたもの
・国によって歴史認識や歴史教育が異なることは認識しているが、本書籍は特定の国や国民を批判することを目的としたものではなく、あくまで事実に基づいて本当の歴史を知ることを目的としたもの
・異なる立場の方から批判されたことをもって書籍を客室から撤去することは考えていない。日本には言論の自由が保証されており、一方的な圧力によって主張を撤回するようなことは許されてはならない
"
と述べ、さらに、南京大虐殺に関する見解の部分を抜粋して公表した上で
「事実に基づいて本書籍の記載内容の誤りをご指摘いただけるのであれば、参考にさせていただきたい」
と言い切った。

出典:https://www.apa.co.jp/newsrelease/8325

この対応に日本人のほとんどが絶賛。
今まで捏造(当サイトから断言することは出来ないが)のようなもので弱みを握られ反日を繰り返されていたことに対する
まっすぐな反論を堂々としてくれたアパホテルに大きな賞賛が送られている。

アパホテル南京事件本配置で中国人が炎上!海外の反応「ホテルが静かになり良いな」
2017/1/17
http://borderline.blue/%e3%82%a2%e3%83%91%e3%83%9b%e3%83%86%e3%83%ab%e5%8d%97%e4%ba%ac%e4%ba%8b%e4%bb%b6%e6%9c%ac%e9%85%8d%e7%bd%ae%e3%81%a7%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e4%ba%ba%e3%81%8c%e7%82%8e%e4%b8%8a%ef%bc%81%e6%b5%b7%e5%a4%96/
慰安婦問題で揺れる今、なんというタイミングでしょう。
アパホテル全室に置いてあるという社長の「理論近現代史学II」という本がoutubeで紹介され中国人に炎上状態となっている。
理論近現代史学IIはいわゆる南京大虐さつ事件や従軍慰安ふの矛盾点をついたもので、あの事件はねつ造されたと主張するものである。
今回の事件の経緯と海外の反応を見てみよう。
アパグループ代表の元谷外志雄さんが「藤誠志」のペンネームで執筆した「理論近現代史学II」という本は現在通販では確認できませんでしたがアパホテル全室に置いてあるそうです。
これを日本に訪れたアメリカのニューヨークに住む米国人女子大学生Katさんと中国人男子大学生Sidさんのコンビである。
いわゆるYoutuberの「Kat&Sid」が取り上げたのが中国版ツイッターである「微博」で炎上したのです。
katさんは決して一方的に否定的に取り上げたわけではなく、以下のように紹介しています。
"
「彼には、自分の本をホテルに置いたり自分が言いたいことを言う権利はあるが、彼の政治的思想を知らない中国人・韓国人客からお金を取っているのは不誠実だ。このホテルに支払ったお金は、CEOのこのような政治的思想をサポートすることになる」
「日本の人達はとても親切で礼儀正しい」
「このホテルにお金を払う人は真実を知るべき」
「これはこのホテルだけの問題で、この国やこの国の人々には関係ない。日本をディスるつもりはない」
"
と非常にまともなことを述べています。
中国の旅行会社・黄光グループは、この問題を受けてアパホテルの予約受け付けを停止しているとのこと。


[32初期非表示理由]:担当:要点がまとまってない長文

14. 2017年1月25日 18:52:19 : y49MT1FVgL : wXWQc8Bc0hg[39]
アパホテル
本当の国士なら なぜ原爆で 同胞が焼き殺されなければならなかったのか
という本を 置いて欲しいです
東京大空襲だけでも 何十万人が焼け死んでいる
所詮 利権目当ての 宗主国のポチの応援団 だから できないですか??

15. 中川隆[6315] koaQ7Jey 2017年1月25日 18:54:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6767]
>>13 その手の虐殺否定説はすべてデマだと証明されてるよ:

南京事件資料集
http://www.geocities.jp/kk_nanking/


南京事件(南京大虐殺)の真実
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm

「徹底した史料の読解によって、南京事件の真実を明らかにします」
「否定派の解釈の誤りと、捏造のすべてを明るみにだします」 by タラリ 


16. 2017年1月25日 19:16:40 : jpTWYNXzIk : Mdt90ZiXVdg[1]
アパホテル最高、グレイト、ワンダフル。
アパホテルの大和魂に乾杯。

客室設置の書籍について
https://www.apa.co.jp/newsrelease/8325
弊社ホテル客室に設置している『本当の日本の歴史 理論近現代史』等について、南京大虐殺を否定するものだとして批判的に取り上げる動画がインターネット上にアップされたことをきっかけに、昨日からご意見やお問い合わせをいただいていますので、ここで弊社の見解を述べさせていただきます。
ご指摘のあった書籍は、本当の日本の歴史を広く知っていただくことを目的として、弊社グループ代表の元谷外志雄が「藤誠志」のペンネームで月刊誌『Apple Town』に連載している社会時評エッセイを1年分まとめたものに、まえがきとして解説を付して制作したもので、日本語の他に、英語訳も付いています。
本書籍の中の近現代史にかかわる部分については、いわゆる定説と言われるものに囚われず、著者が数多くの資料等を解析し、理論的に導き出した見解に基づいて書かれたものです。国によって歴史認識や歴史教育が異なることは認識していますが、本書籍は特定の国や国民を批判することを目的としたものではなく、あくまで事実に基づいて本当の歴史を知ることを目的としたものです。したがって、異なる立場の方から批判されたことを以って、本書籍を客室から撤去することは考えておりません。日本には言論の自由が保証されており、一方的な圧力によって主張を撤回するようなことは許されてはならないと考えます。なお、末尾に本書籍P6に記載しています、南京大虐殺に関する見解を掲載いたしますので、事実に基づいて本書籍の記載内容の誤りをご指摘いただけるのであれば、参考にさせていただきたいと考えています。 

『本当の日本の歴史 理論近現代史学』P6
二、南京三十万人大虐殺
中国は日本軍が南京で三十万人を虐殺したと主張しているが、そもそも当時の南京市の人口は二十万人であり、三十万人を虐殺し、その一ヶ月後には人口が二十五万人に増えていたなどあり得ないことだ。しかも国民党中央宣伝部に雇われていた二人を除いて、欧米人など第三国の人が虐殺を目撃した日記も手紙も写真も、記録したものが一つもないことなど、更には、上海大学の朱学勤教授が「いわゆる南京大虐殺の被害者名簿というものは、ただの一人分も存在していない」と論文で発表したにもかかわらず、辞職もさせられていないことなどから、いわゆる南京虐殺事件が中国側のでっちあげであり、存在しなかったことは明らかである。
そもそも日本軍が南京に侵攻したのは、一九三六年、張学良が蒋介石を西安で拉致監禁した西安事件をきっかけに、コミンテルンの指導で第二次国共合作が成立したことで、国民党政府軍は中国共産党への攻撃をやめ、国民党政府軍に共産党勢力が入り込み、日本軍を挑発して、日本を戦争へ引きずり込んでいったことが背景にある。
一九三七年七月七日、中国盧溝橋付近で北京議定書に基づき合法的に駐留していた日本軍の軍事演習中に、日本軍とその近くにいた国民党政府軍の双方に対して実弾が発射されたことをきっかけに、戦闘状態になった(盧溝橋事件)。この双方への発砲は、後に中国共産党国家主席となった劉少奇(りゅうしょうき)が指示したものであることを、彼自身が告白している。事件不拡大を望んだ日本軍は、その四日後には停戦協定を結んでいる。
しかし、日本を激怒させ国民党政府軍と戦争をさせる為に、同年七月二十九日、中国保安隊によって日本人婦女子を含む二百二十三人が残虐に虐殺された「通州事件」や、同年八月九日に起こった「大山大尉惨殺事件」、更には、同年八月十三日、国民党政府軍に潜入していたコミンテルンのスパイである南京上海防衛隊司令官の張治中(ちょうじちゅう)の謀略によって、上海に合法的に駐留していた日本海軍陸戦隊四千二百人に対して、三万人の国民党政府軍が総攻撃を仕掛けた第二次上海事変を起こすなど、中国は日本に対して次々に挑発を繰り返し、それまで自重し冷静な対応を取っていた日本も、中国との全面戦争を余儀なくされたのであり、不当に日本が中国を侵略したわけではない。
上海事変で勝利した日本軍は、敗走する国民党政府軍を追撃し、国民党政府の首都であった南京を攻略し、同年十二月十三日に南京占領。このとき敗残兵が住民に対して略奪、虐殺を行なった。それらの敗残兵が民間人の衣服を奪って便衣兵(ゲリラ)となったことから、日本軍は便衣兵の掃討作戦を行った。便衣兵(ゲリラ)の殺害は国際法上認められているものであり、一般住民を虐殺したのはこの敗残兵達(督戦隊が撃ち殺したのは、逃亡中国兵であった。)であった。しかし、こうした事実が歪められて、情報謀略戦として、「南京三十万人虐殺説」が流布されたのである。そもそも既に南京を攻略した日本軍にとって、南京で虐殺行為をする理由はない。一方、通州事件や大山大尉惨殺事件、第二次上海事件などでの日本人に対する残虐行為には、日本軍を挑発し、国民党政府軍との戦争に引きずり込むというコミンテルンの明確な意図があったのである。

理論 近現代史学
数々の事実を付き合わせ、あり得ることかあり得ないことか考えて、矛盾なく、理論的に説明ができる近現代史が、理論近現代史である
「南京大虐殺」が「虚構である」証拠の数々
1.まず、「『南京大虐殺なること』に関する『犠牲者名簿なるもの』は唯の一人分も無い。」(上海大学歴史学部・朱学勤教授による。平成十九年十二月二十日付産経新聞)。この一点だけ捉えても「南京大虐殺なること」が如何に荒唐無稽な作り話であるかは既に立証された様なものである。(仮に、「南京大虐殺」なることが真実であるならば、「三十万人」という数字の何割かの「犠牲者名簿」が存在しないはずがない。)
2.「南京大虐殺」の犠牲者は、「三十万人」ということになっているが、日本軍が南京を制圧した昭和十二年十二月十三日当時、南京市内には、約二十万人の民間人しかいなかったという記録があり、併せて、約一カ月後、昭和十三年一月十四日の時点では、人口が五万人以上増えて、約二十五万人〜三十万人になっていたという「南京安全区国際委員会記録」が残っている(田中正明著『南京事件の総括』二十九頁)。
3.日本軍が南京を占領する約一カ月前、昭和十二年十一月より翌年の九月迄、蒋介石率いる国民党は、ほぼ毎日の様に、欧米のマスコミ関係者を集めて、記者会見を開き、日本軍に対するイメージダウンの目的で、日本軍の不法行為等について嘘八百の発表、宣伝工作を続けていた。そして、その回数は延べ三〇〇回にも及んだという。処が、当時、国民党は「南京大虐殺」などという事を一度も言ったことが無かったという。何故か?それは、その様な事は全く起きていなかったから言わなかっただけである。仮に、当時、南京で「大虐殺」が起きていたならば、其の事を其の記者会見の場で取り上げないはずがなかったであろう。
4.「南京大虐殺記念館」等に展示されている写真は、全て合成写真または、「通州事件」等、中国人が日本人を虐殺した写真を始めとする、全く別の写真であることが、東中野修道教授(亜細亜大学)によって証明されている。もしも、南京大虐殺なる事が真実であるならば、その証拠写真が一枚も無いはずがない(東中野修道・小林進・福永慎次郎共著『南京事件「証拠写真」を検証する』草思社)。 (所謂)「南京大虐殺なること」が有ったと問答無用で決めつけたのは、「極東国際軍事裁判」、(所謂)「東京裁判」の中である。それでは同裁判の内容は一体如何なるものであったのか?  東京裁判を傍聴した冨士信夫氏は、『南京大虐殺はこうしてつくられた』(展転社)の中で、「南京大虐殺」なることが全くの虚構であることを裁判記録として記している。
5.朝日新聞は昭和十二年十二月二十日の朝刊半頁を費やして、『甦る平和都市南京』と題する(平和この上ない、当時の南京の)写真特集を掲載している。この風景こそ虐殺否定の何よりの証拠と言えよう(『南京大虐殺の総括』三十二頁)。
6.「南京に大虐殺が有ったと言う様な記録は、中国側の第一級公式資料である何應欽上将の軍事報告の中にさえ、その片鱗も見出せない。」(『南京事件の総括』八十二頁)。
7.「当時、朝日、東日、読売、日経、など全国紙の各支局を始め、地方紙や通信社も、南京に特派員を派遣していた。これらのプレスマンが異口同音に言うことは、『東京裁判で、南京でのあの様な事件が有ったと聞いて驚いた。』」(同百十一頁)。
8.「中国国民党が、作り話を含めて、日本軍の不法行為を糾弾する為に、一九三八年七月七日、国民党の中央宣伝部が「印刷」した蒋介石の『国民に告ぐる書』のどこを探しても、そこには『南京大虐殺』の文字は見当たらない」(同二百九十六頁)。
その他、多々ある。

通州事件の惨劇「Sさんの体験談」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2717.html


虐殺自体が非合法であり、その非合法である虐殺はゼロです。
あったのは戦闘行為と合法の処罰行為です。
それでも少数の犯罪行為はありましたが、殺人はゼロです。
多くの犯罪行為、殺人は便衣兵と化した中国人の敗残兵や中国督戦隊によるものです。

「南京大虐殺」は捏造ねつぞうだった@
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/nankingmj.htm

南京の日本軍がなした多くの人道的活動
日本兵による犯罪は少数あったものの、日本軍による「大虐殺」はなかった
非道行為を行なったのはむしろ中国兵たちだった

「南京大虐殺」とは?
1937年12月、日本軍は支那事変を終結させるため、南京へ侵攻。12月13日にそこを占領しました。いわゆる「南京大虐殺」とは、その占領から約6週間の間に数十万人単位の人間(市民や捕虜)が日本軍によって南京で虐殺されたとする説です。中国共産党が公式に述べてきたものとしては、その数30万人。中国にある南京大虐殺記念館の外壁には、大きな文字で「300,000」の数が、犠牲者数として掲げられており、中国の子どもたちは、反日感情を植え付けられるために毎年そこへ行かされています。
この「南京大虐殺」は、日本でも戦後、共産党員や共産主義シンパなどを中心に広められ、そののち多くの人々を巻き込み、教科書にまで書かれ、日本人の「自虐史観」の根底に置かれてきました。しかし今日では、このような30万人もの大虐殺、日本軍による大規模の虐殺、また小規模の虐殺さえも、実際にはなかったことが多くの証拠によって明らかになっています。
日本兵たちによるある程度の犯罪はありました。しかし、それはどこの国の軍隊にもある程度のものであり、むしろ南京での日本軍の活動をみてみると、非常に人道的なもののほうが多く目につきます。
南京戦の最中、南京市内にいた民間人は全員、南京市内に設けられた「安全区」に集まっていました。日本軍はそこを攻撃しなかったので、安全区の民間人らは誰一人死にませんでした。
日本軍による南京占領が間近に迫ると、中国兵の多くは軍服を脱ぎ捨て、中国人市民を殺して服を奪い、民間人に化けて南京の安全区に逃げ込みました。安全区に逃げ込んだ中国兵の中には、武器を隠し持ち市街戦を準備する者、また安全区内で強姦や、略奪、殺人などを行ない、それを日本兵のしわざに見せかけたり、被害者を脅迫して「日本兵が犯人」と言わせる反日工作の者たちもいました。
日本軍は彼らを見つけ出すと、彼らのうち特に反抗的な不法戦闘員数千名を処刑しました。国際法では、こうした不法戦闘員は「捕虜」としての扱いを受けることができず、処刑されても致し方ないとされているからです。こうした不法戦闘員の処刑が、誤って「捕虜の虐殺」と伝えられた面もあります。
しかし日本軍は、一方で、市民や捕虜に対し多くの人道的援助活動を行なっています。その結果、日本軍占領下で飢えのために死ぬ南京市民は一人もいなかったのです。また日本軍の活動に感激して、そののち汪兆銘の親日政府軍に入った中国人捕虜たちも多くいました。
南京において非道行為を行なったのは、むしろ中国兵たちでした。軍服を脱ぎ捨てて民間人の中にまぎれこんだ中国兵たちは、裸でまぎれこむわけにはいきませんから、民間人の服を奪うために民間人を殺しました。そうしたことをエスピーというアメリカ副領事その他の人々が目撃しています。虐殺を行なったのは日本軍ではなく、中国兵たちだったのです。

以下はその詳細です。
南京に戻ってきた住民
南京市の人口は、日本軍の南京への攻撃開始前に約20万人でした。20万人しかいない所で、どうやって30万人を殺せるでしょう。しかも日本軍の南京占領後、南京市民の多くは平和が回復した南京に戻ってきて、1ヶ月後に人口は約25万人に増えているのです。もし「虐殺」があったのなら、人々が戻ってきたりするでしょうか。
日本軍の南京への攻撃開始の約1週間前の1937年11月28日に、警察庁長官・王固磐は、南京で開かれた記者会見において、「ここ南京には今なお20万人が住んでいる」と発表しています。そののち日本軍は12月13日に南京を占領しました。それから5日後、12月18日には、南京国際委員会(南京の住民が集まっていた安全区を管轄する委員会)が人口「20万人」と発表しています。また12月21日には、南京外国人会が「南京の20万市民」に言及、さらに南京陥落から1ヶ月後の1月14日には、国際委員会が人口「25万人」に増えたと公表しているのです。
住民が戻ってきました。上智大学の渡部昇一教授によると、南京陥落から1ヶ月後に日本軍が約「25万人」の住民に食糧を配ったとの記録も残っています。
また占領後、日本軍は、民間人に化けた中国兵と本当の民間人を区別するため、ひとりひとり面接をしたうえで、民間人と認められた人々に「良民証」を発行しています(1937年12月から1938年1月)。60歳以上の老人と10歳以下の子どもは兵士ではないでしょうから、その間の年齢の人々に良民証を発行し、その発行数16万人に達しました。南京国際委員会のメンバーとして南京にいたルイス・スマイス教授は、南京の日本大使館の外交官補・福田篤泰氏に宛てた手紙の中で、「この数によれば南京の人口は25万〜27万人程度だろう」と書いています。
このように南京占領後、南京の人口は増えているのです。

南京入城に際し、新聞記者たちも同行
南京が日本軍によって陥落したとき、日本軍兵士たちとともに、多くの新聞記者やカメラマンが共に南京市内に入りました。その総勢は100人以上。また日本人記者たちだけでなく、ロイターやAPなど、欧米の記者たちもいました。しかし、その中の誰一人として「30万人の大虐殺」を報じていません。
アメリカのパラマウント・ニュースも、南京占領の記録映画をつくっていますが、その中に「30万人大虐殺」は報じられていません。また当時、中国で「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」というイギリス系の英字新聞が発行されていましたが、たとえば1937年12月24日(南京陥落の11日後)の紙面をみると、日本軍が南京市民に食糧などを配って市民が喜んでいる光景が、写真入りで報道されています。これが一体「大虐殺」のあったという都市の光景でしょうか。
また南京で実際にどのようなことがあったか、日本の当時の新聞を閲覧してみても、よくわかります。そこには、日本兵が武器も携帯せずに南京市民から買い物をする姿、南京市民と歓談する光景、日の丸の腕章をつけて微笑む南京市民の姿などが、写真入りで解説されています。また、平和回復を知って南京に戻ってくる住民、中国の負傷兵を手当する日本の衛生兵たち、再び農地を耕し始めた農民たち、そのほか多くの写真が記事と共に掲載されています。
それは平和が戻り、再び以前の生活を取り戻し始めた南京市民と、日本兵たちの心と心の交流の姿なのです。当時、報道は「検閲」の下に置かれていたとはいっても、これらは到底「大虐殺」があったという都市の光景ではありません。

蒋介石は一度も「南京大虐殺」に言及せず
中国国民党の総統・蒋介石は、もともと南京にいた人です。しかし彼は、日本軍が攻めてきたことを知ると、南京の防衛はさっさと部下にまかせて、南京を出てしまいました。そののち終戦に至るまで、蒋介石は中国人民向けに何百回ものラジオ演説を行なっています。ところが、その中で彼はただの一度も、「南京で大虐殺があった」等のことは言っていません。もし大虐殺があったのなら、これは非常に不自然なことです。蒋介石の認識の中にも「南京大虐殺」はなかったのです。

南京陥落後に撮影された風景
http://www.history.gr.jp/nanking/fukei.html
昭和12(1937)年12月13日、南京事件が起きたとされる時期である陥落以降に撮影された写真ばかりを集めました。
陥落当時には120名をこえる報道陣が南京に滞在していました。(外国人記者達を含めて)
彼らの多くは戦争が終わり、南京が平和に復興する様子を写真などによって撮影、記録しています。
日本兵と中国人との心温まる交流も多数記録されているのです。
ところが戦後、これらの写真を「朝日新聞」、「毎日新聞」「岩波書店」、「日教組」、「NHK」などのサヨク系団体や組織によって封印されたのです。
戦争ですから戦死体があるのは当然ですが、虐殺とは全く無関係の写真を大虐殺の証拠として(特に)朝日、毎日、岩波書店、日教組、(サヨク)系マスコミなどが大宣伝を行い、現在でも日本国民を洗脳しています。
ホームページ作者はこれら写真を集めるうちに、事実とは大きく異なるウソ宣伝を行う報道(マスコミ)に対して信じられなくなりました。
南京の真実を報道しているのは唯一、産経新聞だけなのです・・・朝日、毎日、日教組、TV朝日(朝日新聞系)、TBS(毎日新聞系)許すまじ・・・。

日本軍によって殺された民間人はわずかだった
日本軍の司令官・松井石根(まつい・いわね)大将は、南京攻略を前に、「決して民間人を殺してはならない」と全軍に厳しく命じていました。
そして、南京攻略戦の最中、南京にとどまった市民たちは皆、南京城壁内に特別に設定された「安全区」の中に避難していました。南京にいた外国人たちもみな、安全区に避難していました。日本軍は、その安全区内にも中国兵が多くいることを知っていましたが、安全区を攻撃することはしませんでした。
そのため、たまたま流れ弾に当たって数人が死傷したものの、そうした事故を除けば、安全区の住人は全員無事でした。実際、南京占領後、安全区のリーダーであったドイツ人、ジョン・ラーベは、「日本軍が安全区を攻撃しなかったことを深く感謝いたします」との感謝状を松井大将に手渡しています。
また攻略戦終了後、日本軍の監督・指揮のもとで、「紅卍会」という南京の中国人団体が、死んだ中国兵の埋葬作業を行ないました。彼らは埋葬した人々のリストを残していますが、その中に女性や子供の遺体はほとんど含まれていません。これは、民間人の犠牲者がほとんどいなかったことを示しています。
また南京安全区の安全と秩序の維持のために、南京攻略戦の前から、南京に住む欧米人らは「南京国際委員会」というものを作っていました。彼らは、日本軍による南京占領後に南京で起きた犯罪事件をまとめ、被害届として日本軍に提出しました。それは、南京で見聞きした日本兵による犯罪(強姦、略奪、殺人)等を記録したもので、日本軍に取締りを求める内容でした。
その被害届には、日本兵によるとされる犯罪が425件記されています。その大部分は伝聞にすぎず、資料的な問題はありますが、たとえすべてを事実と仮定しても、そのうち殺人事件はわずか49件にすぎません。つまり、どうみても「大虐殺」などなかったのです。
しかも、その49件のうち、国際委員会の委員が直接目撃したものはわずか2件でした。あとはみな伝聞です。また、その2件のうち1件は、ジョン・マギー牧師が目撃したものですが、日本兵が、軍服を脱いで民間人に扮している中国兵を探している中、不審な者を見つけて身元を尋ねたとき、急に逃げ出したので撃ち殺したというものでした。しかし、これは国際法上、合法的なものです。
もう1件のほうも、合法的なものでした。つまり国際委員会の委員は誰も、南京において違法な殺人を目撃していないのです。ましてや大虐殺を目撃していません。
また南京が陥落したとき、多くの中国兵は軍服を脱ぎ捨てて、民間人になりすまして安全区内に逃げ込みました。そのため、日本軍は彼らを見つけだすために掃討作戦を行なわなければなりませんでした。
兵士は帽子をかぶっているので、額の上部に日焼け跡がなく、その帽子の跡で兵士とわかります。また兵士は、手をみると、度重なる銃の発射でタコができています。それに兵士は、南京市内に家族がいません。そうしたことなどで日本軍は兵士と市民を区別し、兵士を発見すると、逮捕しました。
その際、誤認逮捕が皆無であったとは言えないかもしれません。しかし、たとえ誤認逮捕があったとしても、その数はわずかだったと言えるでしょう。
このように南京攻略戦の最中、およびその後にかけて、日本軍によって殺された民間人の数は、ごくわずかしかいなかったのです。

岡村寧次大将の記録は?
一方、虐殺肯定派の人々は、しばしば岡村寧次(おかむら・やすじ)大将が書いた次の文章を、しばしば引用します。
「上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
1)南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。
1)第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある」(『岡村寧次大将資料』)
しかし、岡村大将はこの報告を上海で聞きました。彼自身は南京へ行っていません。先に述べたように、南京にいた国際委員会の人々は、日本兵らによる暴行として425件の事件を報告しています。その大部分は伝聞であり、すべてを事実とはとれないのですが、たとえすべてを事実と仮定しても暴行事件は425件にすぎず、「数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行」という岡村大将の記述は、間違ったうわさに過ぎなかったことが明らかです。また「給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある」という記述も、後述するように、南京においては事実ではありませんでした。

軍服を脱ぎ捨て民間人に化けた中国兵たち
捕虜の虐殺はあったか、という問題について見てみましょう。
この問題をみるために、まず、中国兵とはどんな兵士たちだったか、についてみてみたいと思います。中国兵は、じつは国際法感覚のほとんどない兵士たちでした。
多くの日本兵たちが「軍服を着ていない中国兵」たちを目撃しています。
たとえば橋本以行(はしもと・もちつら)氏は、南京攻略戦の最中、揚子江岸で見た中国兵たちについて、「小銃や機銃を大事に携行していても、正規兵の服装をした者は一人も見当たらない」(証言による『南京戦史』10、130頁)と語っています。また彼ら揚子江岸の中国兵らは、降伏勧告にも応えず、戦闘を続けたので、日本軍は攻撃を続行。中国兵はジャンク舟に乗って逃げようともしましたが、多くは溺死し、遺体は下流の揚子江岸にうち上げられました。
その写真が残っていますが、この写真がのちに虐殺肯定派の人々によって「南京大虐殺の証拠写真」として使われました。しかしそれは戦死体だったのです。
また南京の城壁内で、ニューヨーク・タイムズのティルマン・ダーディン記者は、「軍服を一斉に脱ぎ捨てる中国兵たち」に出くわしています。
「私は一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってよいほどの光景であった。多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。小路に走りこんで便衣(民間人の普通の服)に着替えてくる者もあった。中には素っ裸になって一般市民の衣服をはぎ取っている兵士もいた」(ニューヨーク・タイムズ 1937年12月22日付)
また南京陥落後、南京城壁内へ入った日本兵たちもみな、この「脱ぎ捨てられた中国兵の軍服」が街路の至るところに散乱しているのを目撃しています。彼ら中国兵は、民間人になりすますために、軍服を脱ぎ捨て、民間人の服に着替えたのです。民間人の服を盗む者もいれば、民間人を撃ち殺して衣服をはぎ取る者も多くいました(南京のジェームズ・エスピー=アメリカ副領事の報告)。
このように軍服を脱ぎ捨てて民間人に扮した中国兵が死んだとき、その死体は、死体だけを見た者には「民間人の虐殺死体」に見えたでしょう。ですから、こうした中国兵の行動は、日本軍の側に多くの誤解を生じさせる元となったのです。
もう少し中国兵の行動をみてみましょう。
日本軍が南京に達する以前に、蒋介石は、すでに早々と南京から脱出していました。また南京防衛をまかされた唐生智将軍も、敗北色濃くなったとき、敵前逃亡して南京から出てしまいました。残された中国兵らには混乱が走りましたが、敗戦が決定的となったとき、中国兵らには3つの選択肢がありました。
一つは、降伏することです。降伏すれば「捕虜」として扱われることになります。
二つ目は、南京から逃げ出すことです。そのとき、日本軍に殺されるかもしれません。また中国には、「督戦隊」というものがありました。これは戦いを督促する中国人部隊で、背後にいて、戦場から逃げ出す中国兵を見つけると撃ち殺す兵士たちなのです。逃げる中国兵を撃ち殺す中国兵です。そんな非人間的な部隊が、中国にはありました。ですから、南京から逃げ出そうものなら、彼らに撃ち殺されるかもしれません。
実際に、中国督戦隊に撃ち殺された中国兵たちが多くいました。ダーディン記者は、南京城壁の北側の門において、高さ1メートル半にも積み重なって小山を形成していた中国兵の死体を目撃しています。これは日本軍が殺した中国兵ではなく、中国督戦隊に殺された中国兵だったのです。なぜならダーディン記者は戦後、こう語っています。
「これは、この門から脱出しようとした中国兵の死骸です。中国兵はあちらこちらで城壁によじのぼり、脱出を試みました。これらの死体の山は、日本軍がここを占領する前にできたように思うのです。この地域で(日本軍の)戦闘はありませんでした」(1987年8月14日のインタビュー、質問者は笠原十九司、伊原陽子。『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』P571 青木書店)
つまり、それは中国督戦隊によって殺された中国兵らの死骸だったのです。
そして中国兵に残された三つ目の道は、軍服を脱ぎ捨て、民間人に扮して、安全区の中に身を隠すことでした。少なからぬ兵士たちがこの道を選びました。
そのため日本軍は、南京占領後、この民間人に扮した中国兵たちの掃討作戦を行ないました。そして次々に摘発しましたが、武器を隠し持っているなど危険な中国兵たちは、発見されると、処刑されました。市街戦の準備とみなされたのです。その数は数千人に達しました。
問題は、これが国際法上、合法か否かです。しかし、こうした不法な戦闘員の処刑はどこの国でも慣習的に行なわれていたことであり、また「ハーグ陸戦法規」(1907年)にも定められていたことで、明らかに合法的でした。つまり、兵士は明確に兵士とわかるよう軍服を着用しなければならず、また武器は隠さず公然と携帯しなければならないのです。
 その法規を守らなければ、捕らえられても「捕虜」としての保護は受けられません。法を守らない者は、法の保護を受けられないのです。彼らは「不法戦闘員」として扱われ、処刑されても仕方ないというのが国際法上の理解でした。こうした点で、数千人の「不法戦闘員」の処刑は、「捕虜の処刑」でも「捕虜の虐殺」でもなく、合法的なものだったのです。

捕虜は虐殺されなかった
一方、虐殺肯定派がよく引用するものに、第16師団長・中島今朝吾(なかじま・けさご)の日記があります。とくに12月13日に捕虜にした7000〜8000人の中国兵についての次の記述です。
「この7000〜8000人、これを片づけるには相当大きな壕がいるが、なかなか見当たらない。一案として100人、200人などに分割してのち、適当な箇所に誘って処理する予定だ」(現代文に修正)
つまり、この大量の捕虜を殺害して壕に埋めてしまおう、という処理予定を考えたともとれる内容です。当時はたしかに、ただでさえ食糧の調達など大変でしたから、このような大量の捕虜を一体どうしたらいいのか、ということは確かに大問題でした。それで、中にはこうした考えを持つ者もいたようです。
けれども、中島日記をみても、彼ら捕虜を実際に殺害したという記述はありません。また当時の日本軍の記録をみると、この7000〜8000人の捕虜は結局殺害されず、捕虜収容所に送られたことがわかるのです。当時の膨大な資料の集大成である『南京戦史』(偕行社)は、様々な資料を引用し、こう結論しています。
「これらを総合すると、堯化門(仙鶴門鎮)付近の捕虜約七千二百名を中央刑務所(第一監獄所)に護送し収容したことは明らかである」(P324)
また資料によれば、当時南京の捕虜収容所は、これら7200人の捕虜を含む、計1万人ほどの捕虜を受け入れたとなっています。彼らの多くは、そののち釈放され、故郷に帰されました。あるいは苦力(クーリー)として労役に雇われた者も多く、また後に上海の捕虜収容所に移送された者もいました。
さらに、そのうち約2000名は、のちに汪兆銘の親日政権の南京政府軍に編入されました。その中に、劉啓雄(りゅう・けいゆう)少将もいました。彼は南京安全区に潜んでいたところを摘発され、しばらく苦力として使われていましたが、1940年に南京に成立した汪兆銘政府において和平救国軍の軍長となった人です。
また中島今朝吾・師団長の言葉の中に「大体捕虜はせぬ方針なれば」というのがあったことが、よく指摘されます。実際、大量の捕虜をかかえこむことは大変なだけですから、捕虜は少ないほうがいいわけですが、「捕虜はせぬ方針」について、大西 一 参謀はこう述べています。
「それは、銃器を取りあげ釈放せい、ということです。中国兵は全国各地から集っていますが、自分の国ですから歩いて帰れます」 (「正論」61.5 阿羅健一著「日本人の見た南京陥落」)
さらに大西参謀は軍命令、師団命令で捕虜殺害命令など絶対に出ていない、と断言しています。資料をみても、捕虜殺害の記録はありません。また支那事変当時の日本の新聞にも、釈放されて故郷に帰る中国兵たちが荷物を持ち、ニコニコ顔で写真におさまっている姿などが載っています。

虐殺はなかったとする証言
当時の南京を実際に知る多くの人々は、南京で「虐殺はなかった」と証言しています。
たとえば、南京の日本大使館で働いていた外交官補の福田篤泰(ふくだ・とくやす)氏は、日本軍による南京占領の当時を振り返って、こう語っています。「日本軍に悪いところがあったことも事実である。しかし20万、30万の虐殺はおろか千単位の虐殺も絶対にない。……いわば衆人環視の中である。そんなこと(虐殺)などしたら、それこそ大問題だ。絶対にウソである。宣伝謀略である」(田中正明『南京虐殺の虚構』35-37頁)
日本軍と共に南京に入った東京日日新聞の金沢喜雄カメラマンは、こう語っています。「私は南京をやたら歩いていますが、虐殺を見たことがなければ、兵隊から聞いたこともありません。虐殺があったなんて、あり得ないことです。死体はたくさん見ています。敗残兵がたくさんいましたし、戦争だから撃ち殺したり、殺して川に流したことはあるでしょう。しかしそれは、南京へ行く途中、クリークで何度も見ている死体と同じですよ」(阿羅健一『「南京事件」日本人48人の証言』p.42)
東京日日新聞の佐藤振寿カメラマンも、こう語っています。「虐殺は見ていません。12月16、7日頃になると、小さい通りだけでなく、大通りにも店が出てました。また多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集ってましたから、とても残虐行為があったとは信じられません」(同p.53)
福岡日日新聞の三苫(みとま)幹之介記者には、お嬢さんが一人おり、南京には家族で赴任していたので、お嬢さんは1年生から5年生まで南京の日本人小学校に通っていました。彼女に南京大虐殺のことを来てみると、こういう答えでした。「そんな話は全然聞いたことがありません。あちらでは近所の支那人の子供ともよく遊びましたが、彼らからもそのような噂すら聞きませんでした」(同p.138-141)
歩兵第13連隊(熊本)第4中隊のU中尉はこう語っています。「抗州湾上陸以来、私は(中国の)女たちが、墨や油や泥を顔や手足に塗り、ことさらに臭気を放つようなボロをまとって、わが軍の入城を迎えるのを知っております。彼女らは、なるべく醜悪に見えるように努めていました。……日本の兵隊は支那の軍閥の兵隊とは全然素質が違うのだ、ということが了解できると、それから徐々に生地を出し始める。黒い顔が白くなり、汚い服がきれいな服に変わるのであります。南京の難民地区でも、私はやはりそうした女の移り変わる姿を見ることができました」(東中野修道『1937南京攻略戦の真実』p.124)
南京攻略戦に参加した野砲兵第22連隊長・三国直福大佐は、こう証言しています。「昭和13年8月にまた南京に戻ってきました。この時も虐殺があったという話は聞いていません。もう日本人の商人もたくさん来ていました。南京の街は朗らかでした。町の人とも親しく話しましたが、その時も、中国人からそんな話(虐殺)を聞いた記憶はありませんでした」
第十軍参謀・谷田勇(たにだ・いさむ)大佐は、こう証言しています。「(昭和13年11月以降、私が担当していた課は、支那復興のため)南京での経済指導を行なうので、寸暇もないほど多忙であった。したがって課長以下、日中官民と接触して、これを理解し、かつ中支那の風物に親炙(しんしゃ)する機会がはななだ多くなっていった。この時、中国官民と親交を重ねたが、たとえ酒食の席においても南京虐殺に関する話を聞くことはなかった」

日本兵による悪事の証言の信憑性
ところで、日本兵たちの犯した犯罪について、虐殺肯定派がしばしば引用するのが、松岡 環著『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて』です。この本には、日本兵が中国で犯してきたという数々の非道な行ないが、102名の元・兵士の証言の形で書かれています。しかしこの本に関し、亜細亜大学の東中野修道教授はこう批判しています。
「百二名の兵士はみな『匿名』『仮名』なのである。……誰が証言内容に責任を持つのか。証言内容が真実かどうか第三者的に検証できないようでは、客観的報道、客観的記録とは言いがたい。……百歩譲って『証言』が事実だとしても、彼らの多くは憲兵の目を逃れて軍紀違反の違法行為を繰り返しながら処罰を免れてきた悪運強き戦争犯罪人でしかなかったことを明らかにしただけなのである」(『諸君』平成十四年十一月号)。
また歩兵第33連隊第5中隊の第1小隊長だった市川治平氏は、この本をこう評しています。
「本当にばかばかしい本です。私のところに聞き取りには来ませんでしたが、元気な2人の戦友に尋ねたら、2人にも来なかったと言っています。まともな話をする人には行かないようです。確かに予備役には悪い事をする人もいましたが、この本をざっと読んだところ、強姦などの話は、創作8割、本当2割でしょう」(「正論」平成14(2002)年11月号 阿羅健一著「南京戦・元兵士102人の証言」のデタラメさ)
また、アイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京』にも引用されている田所耕三という人物は、南京陥落後約10日間にわたって、殺人と強姦を行ったと述べています(『アサヒ芸能』昭和四十六年一月二十八日号)。ところが、竹本忠雄教授(筑波大学)、大原康男教授(国学院大学)によれば、彼の所属する部隊は陥落2日後の12月15日には南京から転進していて、この人物が10日間も南京に残留したはずがありません。実際彼自身、のちに取材に応じて「記者が何かおもしろいことはないかと聞いてきたので、あることないことを喋ったんだ」と、この発言自体の信憑性を否定しています。
また曽根一夫という人物は「手記」を出版し、そのなかで南京戦と南京陥落後の虐殺事件の実行と、目撃談を書いている(『続・私記南京虐殺』など)。しかし、この人物は手記のなかで自らを歩兵の分隊長と称しているが、実際は砲兵の初年兵でした。また、入城式には彼の属する部隊の一部が参加しただけで、部隊そのものは南京城内に入ってもいません。従って、彼が書いているような虐殺を南京やその近郊で見ることも実行することも不可能であったのです。南京戦中、行動をともにした戦友もそうした虐殺行為を目撃・実行することはあり得ないと証言しています。つまり、曽根の「手記」そのものがまったくの創作だったのです。

市民・捕虜と日本兵の交流・温情
南京を占領した日本兵たちの、市民や捕虜に対する態度は実際はどのようなものだったのでしょうか。以下は彼らの証言です。
「敵の大軍は、わが軍のために完全に撃破されました。見れば、幾十となく敵の死体がころがっております。中にはまだ虫の息でうねっておる者さえおります。これを見られた隊長が、『苦しいか、今、薬をやるぞ』と何かやられますと、一兵士は目を開けて、『水、水』と、かすれた声で哀願しました。誰かが水を飲ませてやりますと、両手を合わせ涙をたたえ、『謝、謝』(シェーシェー)と伏し拝みました。……今までにわが中隊では幾十人となく、敵兵を救い、郷里に帰してやりました。その中には中隊のために骨身を惜しまず、弾丸下もものともせず、じつに勇敢によく働いた者もたくさんあります。そして彼らが郷里に送り帰される時は、別れを惜しんで泣いて別れるのでした」(歩兵第47連隊:大分 第2中隊 伍長S・S)(『1937南京攻略戦の真実p.165)
「(南京への途上)露営のとき、私は道路の警戒を命ぜられました。特に監視すべき方向はこの方向と道路上をさすと、指したところに忽然と姑娘が現われて、窈窕(ようちょう)たる姿態が楚々(そそ)として、この方に来るじゃありませんか。誰だって面食らいます。……『日本の兵隊さんね』、流暢な日本語なんです。年の頃27、8、聞いてみると、上海から逃げてきたけれど、皆殺されたり、はぐれたりして、これは支那軍のほうにいると危ないと思い、やってきたという。
『日本語はどこで覚えた』と聞くと、『長崎に4年、活水女学校を卒業して、上海の日本人書店に雇われていた』と言います。……いろいろ調べられるけれども、くさいところは無いらしい。ちょうど中隊に通訳がいなくて何かと不自由していたこととて、通訳代わりに使うことにしましたが、炊事をさせると日本人の味の好みを心得て、乙なところをみせる。所帯慣れしているから、兵隊に程良く愛嬌を振りまく。皆で大切にしたものです。
ときには宵待草(よいまちぐさ)や、荒城の月を聞かせてくれました。毎日の行軍も宿営も楽しみでした。……しかし、南京へ南京への猛追撃に、我々に伍して行けるはずがない。中隊長殿が見かねて上海の方へ帰されたが、その日の行軍のけだるいこと、道の遠いこと、足の重いこと、皆考え込んでしまっていました。
『おい、きついなあ』『うん』。返事も上っすべり。誰かが思い出し風に、『変なこと言いっこなしよ、皆兄弟じゃないか』と彼女の口真似をすれば、とたんに爆笑がわいたものです」(歩兵第13連隊:熊本 第11中隊 歩兵曹長K・S)(同p.190-192)
「私が洗面していると、前にきて頭をぴょこんと下げ、『兵隊さん、おやよう』とはっきりした日本語で、支那人から挨拶されました。不審に思ってよく聞くと、『大阪に18年間いました』という。……(彼の相談に乗ってあげると)彼は一時間ばかりして喜んで戻ってきました。そして言うことには、『家族も安心しました。長男が27歳になっていますが、長男も日本語が上手に話せます。皆の者に「日本軍が来たからもう安心しておれ」と、言ってきました』と、いかにも落ち着いたものです。齢は50歳くらいでしたが、達者な男で、南京攻撃、安慶上陸から漢口攻略まで、1年3ヶ月の間、日本軍のため忠実につとめ、大きな功績を残して行きました」(第2野戦病院 T・Y)(同)
都新聞の小池秋羊記者は、こう述べています。「食糧がなく飢餓状態で、食糧をくれ、とわれわれにすがりつく人もいました。私たちの宿舎には発見された米が何俵もありましたので、難民区のリーダーを宿舎に連れていき、米や副食品などを大八車二台分やりました」
南京の病院で勤務していたアメリカ人、ジェームズ・マッカラム医師は1937年12月29日の日記にこう書いています。「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がいました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」(東京裁判 速記録210) 
さらに、こう書いています。「12月31日、今日私は民衆の群が該地帯から中山路を横断して集まるのを目撃しました。あとで彼らは、行政院調査部から日本軍の手によって配分された米を携帯して帰って来ました」。「日本人の善行を一つ報告しなければならない。とても気持ちのよい日本人が最近病院にやってきた。彼らに患者の食料の不足を告げたところ、きょう、百斤の豆と牛肉を持ってきてくれた。この一ヵ月というもの肉は食べられなかったので、この贈り物は大歓迎だ。他に欲しいものはないかと言ってくれた」(『南京事件資料集[1]アメリカ関係資料編』p263)
また南京戦により、12月13日の南京陥落からしばらくは、南京市街は水道も電気もとまり、夜は真っ暗といった状態でした。しかし翌年1月元旦から南京全市に、電燈がともり、水道がよみがえりました。1938年1月3日付の朝日新聞によると、電気については日本人技術将校以下80名と中国人電工70名の協力、また水道も同様に150名の編成で、不眠不休で取り組んだ結果であるといいます。また1月3日には、多くの南京市民が日の丸と中国の五色旗を振り、市街で「南京自治政府」(リーダーは中国人)の発足を祝っています。

南京大虐殺と南京事件を区別すべき
以上みてきたように、南京での「30万人大虐殺」はなかったのです。20万、あるいは千単位の虐殺もありません。
とはいえ、南京で強姦、略奪、暴行、殺人などの非道な犯罪がなかったわけではありません。いや、実際のところ、かなりありました。その中には、日本兵たちが実際に犯した犯罪も少数あります。
けれども、一方では、じつは民間人の服を着て南京安全区に逃げ込んでいた中国兵たちが犯した事件も非常に多かったのです。彼らは事件の加害者が日本兵だったと見せかけたり、被害者を脅迫して、加害者は日本兵だったと言わせたりしました。それで加害者が日本兵だったと思い込んだ人々(国際委員会の欧米人など)は、日本軍の残虐を声高に叫んだのです。これが、のちに大きく膨らんで、「南京大虐殺」というウソへと発展していきました。
もし、こうした中国兵や日本兵らが南京で犯した強姦や略奪等を「南京事件」と呼ぶとすれば、たしかに「南京事件」はありました。そうした意味で、当サイトでは「南京大虐殺」と「南京事件」を区別しています。

つぎに、この「南京事件」の真相について詳しく見てみましょう。
中国兵らによる悪事の数々
南京戦に参加した日本兵らの証言によれば、南京をはじめその周囲で悪事を積み重ねていたのは、日本兵ではなく、むしろ中国兵のほうでした。中国軍がどんな性質のものだったかについて、南京に向かっていたある日本兵はこう記しています。
「(通りかかった)この町には、かつて蒋介石の大軍がたむろしていたのですが、空陸一体の皇軍の進撃に、敵はもろくも敗退したのです。城内の住民は食糧は申すまでもなく、家財道具もことごとく支那軍のために強奪され、男はみな壕掘りに、連日連夜酷使されたということでした。このような国の民こそ全く可哀相でなりません」(歩兵第47連隊:大分 第1大隊第2中隊 歩兵伍長 H・G)(『1937南京攻略戦の真実』p.200)
また梶村 止(かじむら・いたる)少尉は、南京戦に参加したのち、南京から上海方面に移動しました。1938(昭和13)年1月15日の彼の日記によると、上海付近に駐屯していたとき、近くの村人が中国兵に襲われ、梶村少尉の隊に救いを求めてきました。しかし村人に案内され、梶村少尉一行30余名が現場に急行したときは、敵の40〜50名が逃走したあとでした。梶村少尉はこう記しています。「自国の兵隊の悪事を、自国民の敵軍に報告。討伐を願うという矛盾が、とりもなおさず支那軍隊がいかなるものであるか、この一時にて判断できる」。また梶村少尉らが村を立ち去るとき、村人らは「非常に名残を惜しんでくれた」と書いています。(同p.188)
アメリカのティルマン・ダーディン記者は、南京で日本軍を迎え撃つ中国軍の様子を、こう書いています。「中国軍による焼き払いの狂宴(12月7日以降)…南京へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払われたのである。中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰塵に帰した。…この中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。これは、南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きい」(ニューヨークタイムズ)。
南京のアメリカ領事館の副領事ジェームズ・エスピーが行なった報告にも、南京陥落時の中国兵の行動について書かれています。「中国兵自身も略奪と無縁ではなかった。……日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって、市民と財産に対する侵犯が行われた。気も狂わんばかりになった中国兵が、軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件もたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った」(エスピー報告)
福岡日日新聞の三苫(みとま)幹之介記者は、南京に入ったのち、安全区にいる中国人夫妻にインタビューを行ない、記事にしました。以下はその抜粋です。
「記者 日本軍がやって来たとき、君たちはどこに何をしていたか。
黄  私たち夫婦は、国際委員会で設定された南京城内西北の山西路からズッと入った難民区にいました。……中央軍の支那兵が銃創を持って夜となく昼となく代わる代わるやって来て難民を検察し、食糧や物品を強奪し、お金と見れば一銭でも二銭でも巻き上げていきました。最も恐がられたのは拉夫、拉婦(拉致されること)で、独身の男は労役に使うため盛んに拉致されていき、夜は姑娘が拉致されていきました。中央軍の支那兵の横暴は全く眼に余るものがありました」

日本兵の犯罪は少数あった
つぎに、日本兵が南京で犯した犯罪について見てみましょう。
南京攻略戦を指揮した松井石根大将は、南京陥落から5日後の12月18日、全軍と共に慰霊祭を執り行いました。それは日中双方の戦死者を弔うものでした。慰霊祭において松井大将は、一同の顔を眺めまわしたのち、異例の訓示を始めたのです。
「諸君は、戦勝によって皇威を輝かした。しかるに、一部の兵の暴行によって、せっかくの皇威を汚してしまった。何ということを君たちはしてくれたのか! 君たちのしたことは、皇軍としてあるまじきことだった。諸君は、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に保ち、絶対に無辜(むこ)の民を虐げてはならない。それ以外に戦没者への供養はないことを心に止めてもらいたい」(前田雄二『戦争の流れの中に』p。122-124)
大将のやせた顔は苦痛で歪められていたといいます。松井大将は、戦争が始まる前は直接、蒋介石にも会い、「日中合同して大きな強いアジアを造ろう」と呼びかけるなど、平和のために尽力し、中国を愛した人でした。南京を攻略する前にも、日本兵たちに厳正に軍規を守るよう通達した人でした。
にもかかわらず、南京陥落後、市民に対する「一部の兵の暴行」があったのです。松井大将は憲兵隊から報告を受け、それを深く嘆きました。この「暴行」とは強姦か略奪等の犯罪だったとも言われています。ただし決して、のちに言われたような「大虐殺」ではありません。なぜなら、松井大将はのちに東京裁判においてこう証言しているからです。
「南京占領に関する周到な配慮にもかかわらず、占領当時の倥惚たる情勢において一部若年将兵の間に、忌むべき暴行を行なった者があったようである。これは私のはなはだ遺憾とするところである。……憲兵隊長よりこれを聞き、各部隊に命じて即時、厳格なる調査と処罰をなさしめた。……私は南京陥落後、昭和13年2月まで上海に在任したが、その間、昭和12年12月下旬に南京でただ若干の不法事件ありとの噂を関知しただけで、何らそのような事柄に関し公的な報告を受けたことはなく、当法廷において検事側の主張するような大規模な虐殺・暴行事件に関しては、1945年終戦後、東京における米軍の放送により、初めてこれを聞き知ったにすぎない。……検事側の主張するような計画的または集団的な虐殺を行なった事実は断じてない」(口述書1947年11月24日。現代文に修正)
 つまり松井大将は、南京占領当時、一部の若年将兵の間に、暴行事件、犯罪があったことを認めたものの、東京裁判で主張されたような「大規模な虐殺・暴行事件」は否定しました。
では、日本軍の間に、いったいどの程度の犯罪があったのでしょうか。詳しくはのちに述べますが、実際はある程度の犯罪はあったものの、当時のロシア軍や中国軍が占領地で犯してきた数々の犯罪に比べるなら、はるかに少数のものでした。また、アメリカ軍兵士が太平洋戦争中に占領地等で犯してきた犯罪と大差ない、という意見もあります。
しかしそれでも、南京攻略は世界の注視する中の出来事でした。それゆえ厳正に軍規を守ることが求められていた時のことで、松井大将にとっては、一部将兵の犯した事件は彼を深く悲しませたのです。
つぎに、南京の安全区に隠れていた中国兵たちが犯した犯罪を見てみましょう。

安全区に隠れた中国兵らの反日攪乱工作
1938年1月4日付のニューヨーク・タイムズ紙は、こう報じています。
「南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一名とその部下の将校六名がそこでかくまわれていたことを発見し、心底から当惑した。実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで二番目に権力ある地位につけていたのである。
この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に、ライフル六丁とピストル五丁、砲台からはずした機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。
この元将校たちは、南京で掠奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には犯人は日本兵だと言いふらしていたことを、アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した」(東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』p.275)
このように、安全区に逃げ込んだ中国将兵らはアメリカ人教授らのもとでかくまわれ、しかもそのうち中国人大佐は、避難民キャンプで二番目に権力ある地位を与えられていたという。彼らは南京で、略奪や、少女たちの強姦などを行ない、それを日本兵がやったと、うそぶいていたのです。この教授たちとは、マイナー・ベイツ、ルイス・スマイス、ミニー・ヴォートリン、ロバート・ウィルソンらです。これはもちろん、安全区の中立を定めた日本軍との協定への違反でした。それまで教授たちは、南京での非道な行ないのすべてについて、日本軍を非難してきたのです。しかしそれら非道な行ないの多くが、じつは教授たちのもとでかくまわれていた中国兵たちのしわざだったのです。
『チャイナ・プレス』1938年1月25日付も、こう報じています。
「その報告書の主張するところによれば、彼らのなかには南京平和防衛軍司令官王信労(音訳)がいた。彼は陳弥(音訳)と名乗って、国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。……また、前第八十八師の副師長・馬中将や、南京警察の高官・密信喜(音訳)もいると言われている。馬中将は、安全区内で反日攪乱行為の煽動を続けていたと言われる。また、安全区には黄安(音訳)大尉のほか十七人が、機関銃一丁、ライフル十七丁を持ってかくまわれ、王信労と三人の元部下は掠奪、煽動、強姦にたずさわったという」(東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』p.277)
このように、安全区に逃げ込んだ中国兵らは、「掠奪、煽動、強姦」にたずさわり、それを「反日攪乱行為」として行なっていました。すなわち、それらの犯罪を積み重ねたうえ、それらを「日本兵がやった」ように見せかける、あるいは被害者を脅して「加害者は日本兵だ」と言わせていたということです。ここに「煽動」と訳されている言葉は、原文では「intimidating」(脅迫。おどして事を行なわせる)なのです。

隠れていた大勢の中国兵ら
いったいどれほどの中国兵が安全区内に隠れ、こうした反日攪乱行為を繰り返していたのでしょうか。ニューヨークタイムズ1937年12月17日付には、こう報道されています。
「昨日、南京の日本軍司令部(が発表したところによると、今もなお)…市内には、軍服を捨て、武器を隠し、平服を着た兵士2万5000人がいると信じられている」(南京事件資料集・アメリカ関係資料編p.415 青木書店)
つまり、この時点でなお非常に多数の中国兵が、民間人の服を着て隠れていると考えられていました。全員でないとしても彼らの多くは、安全区内で「掠奪、脅迫、強姦」にたずさわり、それを日本兵がやったようにし、反日攪乱行為を続けていたのです。小林よしのり氏もベストセラー『戦争論』の中で、「南京の安全区に二万人の国民党ゲリラが入り込み、日本兵に化けて略奪・強盗・強姦・放火を繰り返し、これをすべて日本軍のしわざに見せかけていた」と書いています。
また、大阪朝日新聞1938年2月17日付はこう報道しています。
「皇軍の名を騙り 南京で掠奪暴行 不逞支那人一味捕る 【同盟南京二月十六日発】
皇軍の南京入城以来、わが将兵が種々の暴行を行なつているとの事実無根の誣説(ぶせつ)が一部外国に伝わっているので、在南京憲兵隊ではその出所を究明すべく苦心探査中のところ、このほど漸くその根源を突き止めることが出来た。
右は、皇軍の名を騙って掠奪暴行至らざるなき悪事を南京の避難地域で働いていた憎むべき支那人一味であるが、憲兵隊の活躍で一網打尽に逮捕された。
この不逞(ふてい)極まる支那人は、かつて京城(現在の韓国ソウル)において洋服仕立を営業、日本語に巧みな呉堯邦(二十八才)以下十一名で、皇軍入城後日本人を装ひ、わが通訳の腕章を偽造してこれをつけ、…三ヶ所を根城に、皇軍の目を眩ましては南京区内に跳梁し、強盗の被害は総額五万元、暴行にいたつては無数で、襲はれた無辜(むこ)の支那人らは、いずれも一味を日本人と信じきつていたため、発覚が遅れたものであるが、憲兵隊の山本政雄軍曹、村辺繁一通訳の活躍で検挙を見たものである」
このように、日本語を話し、日本人通訳の腕章を偽造するなどして、暴行を繰り返していた中国兵らもいました。
これらについては、マルクス主義歴史学者として知られる笠原一九司(かさはら・とくし)教授(宇都宮大学)でさえも、「(安全区に逃げ込んだ中国兵にとっては)日本軍をおびやかすだけでは不十分であった。…『強姦、略奪、その他の暴行をすべて日本軍のしわざとする』という散発的な抵抗が存在した」と述べています。(Nanking Atrocities)
松井大将自身も、東京裁判においてこう証言しました。「戦時における支那兵、および一部の不逞(ふてい)の民衆が、戦乱に乗じて常習的に暴行略奪を行なうことは周知の事実である。南京陥落当時の暴行・略奪においても、支那軍民が犯したものもまた少なくなかった。これを全部、日本軍将兵の責任に帰せようとするのは、事実をゆがめることである」(口述文 現代文に修正)

南京国際委員会が提出した被害届は、ほとんど中国人からの伝聞
南京に住む欧米人らがつくっていた「南京国際委員会」は、南京の日本大使館に対し、日本兵が犯したとする強姦、略奪、殺人等の暴行事件を「被害届」として幾度にもわたって報告し、改善を求めました。それら事件の総数は、1938年2月までに計425件にのぼりました。その内容はたとえば、
「事例5: 12月14日の夜、日本兵らは家々に押し入り、女性をレイプし、連れ去った。その地域はパニックになったため、何百人もの女性たちは昨日、金陵大学内に避難してきた」
「事例10: 12月15日夜、多くの日本兵たちが桃園の南京大学のビルに入り、30人ほどの女性たちを強姦した」
こういった事例が延々と続くものです。この被害届は、私たちに何を語っているでしょうか。
まず、たとえこれら425件の内容がすべて真実と仮定してみても、そのうち殺人事件は49件にすぎません。もし事実「30万人大虐殺」が南京であったのなら、これは非常におかしなことです。南京国際委員会の被害届をみる限り、30万人大虐殺はおろか、1万人、1000人虐殺もなかったことになります。
また、殺人事件49件のうち、国際委員会のメンバー自身が目撃したものは、たった2件にすぎませんでした。そしてそれら2件は両方とも、先に述べたように合法的なものだったのです。他のものはすべて中国人から聞いた伝聞でした。
強姦事件についてはどうでしょうか。竹本忠雄、大原康男・両教授はこう述べています。   
「委員会が記録した『被害届』に記された強姦事件(未遂を含む)は何件か。集計すると合計で361件である。しかも誰が事件の目撃者であったのか、誰が誰に聞いて記録したのか、記録者のある事例は僅かに61件であった。この内、日本兵がやったという確証があり、真相究明ないしは逮捕のために日本軍に通報された件数は僅かに7件であった。……なお、日本軍に通報があった7件については、『シカゴ・デイリーニューズ』(1938年2月9日)に報道されているとおり、日本軍は犯人を厳しく罰している。処罰は厳しく、部隊から不満の声が漏れたほどであった」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
南京における日本大使館に勤務していた外交官補佐の福田篤泰(ふくだとくやす)氏も、彼が見た国際委員会の状況について、こう証言しています。
「当時、ぼくは役目がら、毎日のように外人が組織した国際委員会の事務所へ出かけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。『いまどこどこで日本の兵隊が15、6の女の子を輪姦している』。あるいは『太平路何号で日本軍が集団で押し入り物を奪っている』等々。
その訴えをマギー神父(牧師)とか、フイッチなど、3、4人が、ぼくの目の前でどんどんタイプしているのだ。『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る』と幾度も注意した。
時には、彼らをつれて強姦や掠奪の現場に駆けつけて見ると、何もない。住んでいる者もいない。そんな形跡もない。そういうことも幾度かあった。…テインパリーの例の『中国における日本軍の暴虐』の原資料は、フイッチかマギーかが現場を見ずにタイプして上海に送稿した報告があらかただ、と僕は思っている」(国際委員会の日本軍犯罪統計)
このように南京国際委員会が作成した被害届は、ほとんどが中国人から聞いたことを、検証もせずに、ただ書き連ねたものにすぎなかったのです。

ジョン・ラーベのリポート
この南京国際委員会の長は、ドイツ人のジョン・ラーベという人でした。
彼もまた日記などに、日本軍が犯したという残虐や暴行を数多く記しています。それはどの程度信用できるものでしょうか。たとえば彼は、
「民間人の死体はいたるところに見られた。その死体には、私が調べたところ、背中に撃たれた傷があった。逃げるところを背後から撃たれたらしい」(1937年12月13日の日記)
と記しています。しかし、先に述べたように中国兵の多くは逃げる際に、軍服を脱ぎ捨てて民間人の服に着替えており、これらの死体は実際には民間人ではなく、中国兵でした。彼らは逃走する際に、日本兵、あるいは中国の督戦隊に殺されています。ところが、このラーベの記述は、そうした事情を無視しています。
またラーベは、同じ日に、
「日本兵たちは、市内をめぐり、10〜20人程度のグループに分かれて店々や家々を手当たり次第、略奪してまわった。これは私の両目が目撃したものである」
と記しています。組織的な略奪のように書いているわけですが、竹本忠雄、大原康男・両教授はこう書いています。
「入城した日本軍は、まず宿舎の確保に苦労し、宿舎に充てた建物の設備補充のため、将校の指示のもとに無人となつた建物から家具やフトン等を持ち出した。それらを『徴発』した際には、代償を支払う旨の証明書を添付したが、そうした事情を遠巻きに見ていた外国人や中国人は理解せず、日本軍が組織的に掠奪をしていると誤認した可能性がある」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
この「徴発」とは、戦闘によって疎開した後の人家で、食糧や必要物資の調達を行なうことで、日本軍はそれを行なった場合には、つねに代価を支払ってきました。南京でもそれが行なわれた、ということです。つまりラーベが「日本兵らによる略奪」と思ったのは誤解なのです。
また、ラーベはドイツ人ですが、当時のドイツは、蒋介石率いる中国国民党と結びつきが強く、党に顧問を派遣していました。当時(1937年)はまだ、日独伊三国同盟の締結前であり、ドイツは中国国民党と深い関係にあったのです。ラーベ自身、国民党の顧問でした。
ラーベは、ドイツ・ジーメンス社の南京支局長でもあり、ドイツが国民党に売った高射砲、その他の武器取引で莫大な利益を得ていました。ラーベは武器商人なのです。そのためラーベは、当時、ドイツが国民党との取引をやめて日本に接近することを恐れていました。彼の収入源が断たれるからです。こうしたラーベにとって、日本の悪口だけを言うことはごく自然な成り行きだったのです。
実際、東中野修道教授によれば、ラーベは12月12日以来、2人の中国人の大佐をひそかにかくまっていました。大佐たちは、南京安全区内で反日攪乱工作を行なっていたのです。これはラーベが日本軍との間に交わした協定に明らかに違反する行為でした。また彼の1938年2月22日の日記にも、彼がもう一人別の中国人将校をかくまっていたことが記されています。
このようにラーベは、中国人将校らによる反日攪乱工作を手伝っていました。
松井大将の元・私設秘書だった田中正明氏は、このラーベが書いた報告書や日記には数多くの矛盾点があると批判し、こう述べています。
「12月9日、松井軍司令官は休戦を命じ、城内の唐生智軍に『降伏勧告のビラ』を空から全市にばら撒いて講和を呼びかけている。その間攻撃を中止して、10日正午まで待機した。…しかるにラーベの12月9日の日記には、『中華門から砲声と機関銃の射撃音が聞こえ、安全区内に響いている。明かりが消され、暗闇の中を負傷者が足を引きずるようにして歩いているのが見える』。全然「降伏勧告のビラ」も休戦のことも触れておらず、戦闘は続いていたことになっている。…
ラーベの日記には『局部に竹を突っ込まれた女の人の死体をそこら中で見かける。吐き気がして息苦しくなる。70を越えた人さえ何度も暴行されているのだ』とあるが、強姦のあと『局部に竹を突っ込む』などという風習は、支那にあっても、日本には絶対ない。…
金陵大学病院医師マッカラム氏は、『(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がいました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました』と、東京裁判に提出した日記の中に書いている。…ところがラーベ日記には、安全区内に毎日のように火事と強姦が続いたという“地獄絵”が描かれている。一体どちらが本当なのか?…
ヒトラーがジョン・ラーベの原稿に信をおかず、彼を逆に入獄せしめた理由が、私にはわかるような気がする」(講談社刊『南京の真実』は真実ではない!)
このようにラーベの報告や日記は、内容が非常に偏っており、誤解と偏見と、また、何とか日本の残虐を訴えてドイツと日本の同盟を阻止したいという思惑とが、混ざり合ったものでした。そのためその内容は、軍服を脱ぎ捨てた中国兵たちや、督戦隊に殺された中国兵たち、また安全区に隠れた中国兵らによる犯罪などの事実には一切ふれず、ただ日本軍の暴行だけを書き記すものとなったのです。
実際、日本軍による南京占領の翌月、1月9日に南京に戻ったドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長は、自分の目で実情を確かめた上で、「ラーベが語る日本軍の暴行事件」について、2月10日付で漢口のドイツ大使館にこう書き送りました。
「ラーベは最近、日本兵による血なまぐさい事件をまたぶり返し、それを阻止すべく、あいかわらず奔走している。だが私の意見では、ドイツ人はそんなことを気にとめるべきではない。なぜなら南京の中国人らが日本人に頼り、仲良くなっていることは、見れば明らかなことだ。第一、暴行事件といっても、すべて中国人から一方的に話を開いているだけではないか」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
ラーベは、表向きは暴行事件の被害者の救済などに奔走し、中立を装うなどしていました。それでアイリス・チャン(南京大虐殺に関する本の著者)の本などでは、シンドラーに比すことのできる善人であると、持ち上げられています。
しかしその実をみれば、ラーベは中国人将校たちをかくまって反日攪乱工作を手伝い、また自身の虚偽のリポートを通しても、自分なりの反日攪乱工作を続けていたのです。
こうした人物が南京国際委員会の長だったわけですから、彼の姿勢は委員会の他のメンバーたちにも当然、深く影響していました。委員会の他のメンバーたちが残した日記その他の記録が同様なものとなったのは、そうした成り行きだったのです。

強姦事件の真相
つぎに、南京国際委員会のメンバーが残した南京における強姦事件の記録について、もう少しみてみましょう。
ラーベは1937年12月17日の日記に、「昨晩、1000人近くの女性、少女が強姦されたと言われている。金陵女子大学の学生だけでも100人が強姦された」と書きました。また金陵女子大の教授ミニー・ヴォートリン女史はその日、「ああ神よ、野獣のような日本兵らの蛮行を止めてください」と書いています。ジェームズ・マッカラム医師も、12月19日の日記にこう書きました。
「これほどの残虐は、聞いたことがなく、読んだこともない。強姦! 強姦! 強姦! 我々の見積もりによれば、一晩に1000人が強姦され、そうしたことが毎日ある。反抗すれば銃剣で刺されるか、撃ち殺されるだろう。…人々はヒステリックになっている。女性たちは毎朝、毎日、毎夜、連れ去られる。日本兵たちは、気のおもむくまま出入りし、好き勝手に行動しているようだ」
しかし、これらの強姦事件は、実際にラーベ、ヴォートリンやマッカラムが自分の目で目撃したことかというと、そうではありません。『言われている』「見積もりによれば」とか「〜しているようだ」と書かれていることからもわかるように、いずれも伝聞なのです。犯人が「日本兵だった」、というのも伝聞です。委員会のメンバーたちが記した強姦事件は、ほとんどが中国人から聞いたものでした。
そしてこれらの日記が記されてから約2週間後、南京で強姦を繰り返していた中国兵らが、日本の憲兵によって逮捕されます。アメリカ人教授たちのもとでかくまわれ、避難民キャンプで2番目の地位を与えられていたこの中国兵らは、強姦を犯しては、「犯人は日本兵だ!」と言いふらしていました。ニューヨーク・タイムズが報じたように、彼らが逮捕され、それを自白したとき、アメリカ人教授らは「心底から当惑した」のです。
また大阪朝日新聞が報じたように、2月になると、「日本語に巧みで・・・日本人を装い・・・通訳の腕章を偽造してこれをつけていた」中国兵らが逮捕されました。彼らも、日本人になりすましては強姦等、暴行を繰り返していました。そして彼らが逮捕されてのち、強姦事件等はほとんど見られなくなりました。
このように、南京の西洋人らが非難した「日本軍の暴行」の多くは、じつは民間人の服を着て隠れていた中国兵によるのしわざだったのです。実際、マッカラムの1938年1月8日の日記にこんな記述があります。マッカラムは、ある中国人避難民が、
「強姦や略奪、放火などは日本兵がやったのではなく、中国兵がやった。それを証明できる」
と言うのを聞いた、と書いているのです。安全区にいた避難民たちの中には、そこで起きていた強姦や、略奪、その他の事件の多くは、じつは中国兵らによる反日撹乱行為であることを知っている者たちもいたわけです。
しかし、詳しい検証もせず、うわさをそのまま信じ込んでいたのが、委員会のメンバーたちでした。彼らはそのために、南京には「日本兵の暴行があふれている」と思い込んでいたのです。これについて竹本忠雄、大原康男・両教授も、こう書いています。
「安全区に設けられた19カ所の難民収容所の責任者は、婦女子ばかり4000名を収容した金陵女子文理学院をミニ・ヴォートリン女史が務めたほかは、すべて中国人であった。当然のことながら、この難民収容所の治安維持は中国人たちが担当したが、その責任者を何と、市民に偽装した中国軍将校が担当しているケースもあった。そして強姦事件の多くは、安全区委員会が設置した『難民収容所』で起こっており、『難民収容所』が解散した1938年2月以降、そうした強姦事件は起こっていない。難民収容所の責任者たちが主張した『日本軍兵士の犯罪』を額面通り受け取ることは、きわめて危険だと言えよう」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
両教授はこうも書いています。
「そもそも当時の南京には、女性は安全区にしかいなかった。そして日本軍司令部は、安全区に集中している外国権益を保護し、安全区委員会メンバーとの無用の摩擦を避けるため、また、多数の中国軍兵士が潜伏していて危険であるとの判断から、日本軍兵士に対し安全区への立ち入りを禁止した上、要所に見張りまで立てた。このため日本兵は勝手に安全区には入れなかったし、危険を侵してまで入ろうとする兵士もいなかった」(同)
先に見たように、南京で起こった強姦事件のうち7件は、実際に日本兵が犯したものであり、犯人は処罰されています。また他に、日本軍が調査していたものも数件あり、計10件程度ありました。あるいは、知られていないものも含めるとすれば、多くて数十件程度の日本兵による犯罪があったと考えられるでしょう。
しかし他の大部分は、隠れていた中国兵らによる犯行だったと言ってよいのです。また委員会メンバーの記述には、憶測、誇張、デマ、誤解等も少なからず含まれていました。

マギー・フィルムの真相
日本軍による南京占領の期間中、その光景をアメリカ聖公会の牧師ジョン・マギーは、8ミリフィルムに残していました。そのフィルムは、のちに日本の残虐性を表すものとして、虐殺肯定派の間でよく使われました。
しかし、実際にその映画を見ても、明らかに虐殺されたとわかる死体は一つも映っていません。字幕は「日本軍の暴行」等とつけられているものの、日本兵が捕虜を処刑しているシーンも、何千もの死体シーンもなく、映っているのは、ほとんどが生きている人々ばかりです。
またマギーは東京裁判で、「あちこちで殺人が行なわれていた」と証言したものの、「あなた自身が目撃したものはありますか」と聞かれて、「一つだけあります」と答えました。しかし、それは日本兵が、民間人に化けた中国兵の掃討作戦をしているとき、不審な中国人をみて身元を尋ねると急に逃げ出したので、撃ったというものでした。これは合法的なものです。彼は非合法の殺人を一件も見ていません。つまりマギーは、30万人虐殺も、4万〜5万人虐殺も見ていないのです。
またマギー自身が目撃したものとして、ほかに強姦事件が一つ、盗みが一つありました。あとはみな伝聞でした。この「強姦事件」というのも、日本兵がある中国人男性の妻のもとへやって来たのを目撃したというものですが、マギー自身は強姦現場を見たわけではありません。その日本兵は、その中国人妻かその夫に不審な点を見出し、問いただそうとやって来たのかもしれません。また「盗み」というのも、ある日本兵が中国人の家からアイスボックスを持って出るのを目撃したというものです。このようにマギー自身は南京陥落の前も後も市内にずっといたのに、「日本兵による大規模な残虐行為」は一つも目撃していないのです。
もっとも、マギーが記した「南京市内で起きたむごたらしい一家惨殺事件」は有名です。彼のフィルムにも、その事件でかろうじて生き残ったという少女の姿が映っています。ところが、この惨殺事件には大きな矛盾点があります。事件は次のようなものでした。
「12月13日、約30人の兵士が、南京の南東部にある新路口五番地の中国人の家にやってきて、なかに入れろと要求した。戸は、馬というイスラム教徒の家主によって開けられた。兵士はただちにかれを拳銃で撃ち殺し、馬が死んだ後、兵士の前に跪いて他の者を殺さないように懇願した夏氏を撃ち殺した。馬夫人がどうして夫を殺したのか問うと、かれらは彼女も撃ち殺した。
夏夫人は、1歳になる自分の赤ん坊と客広間のテーブルの下に隠れていたが、そこから引きずり出された。彼女は、一人か、あるいは複数の男によって着衣を剥がされ強姦された後、胸を銃剣で刺され、膣に瓶を押し込まれた。赤ん坊は銃剣で刺殺された。何人かの兵士が隣の部屋に踏み込むと、そこには夏夫人の76歳と74歳になる両親と、16歳と14歳になる二人の娘がいた。かれらが少女を強姦しようとしたので、祖母は彼女たちを守ろうとした。兵士は祖母を拳銃で撃ち殺した。
妻の死体にしがみついた祖父も殺された。二人の少女は服を脱がされ、年上の方が二、三人に、年下の方が三人に強姦された。その後、年上の少女は刺殺され、膣に杖が押し込まれた。年下の少女も銃剣で突かれたが、姉と母に加えられたようなひどい仕打ちは免れた。さらに兵士たちは、部屋にいたもう一人の7〜8歳になる妹を銃剣で刺した。この家で最後の殺人の犠牲者は、4歳と2歳になる馬氏の二人の子どもであった。
年上の方は銃剣で刺され、年下の方は刀で頭を切り裂かれた。傷を負った8歳の少女は、母の死体が横たわる隣の部屋まで這って行った。彼女は、逃げて無事だった4歳の妹と14日間そこに居続けた。二人の子どもは、ふやけた米と、米を炊いたとき鍋についたコゲを食べて暮らした。…兵士たちは毎日やってきて、家から物を持って行ったが、二人の子どもは古シーツの下に隠れていたので発見されなかった」
この恐ろしい事件について、マギーは、この「30人の兵士」は日本兵であったと考えていたようです。しかし結論からいうと、この兵士たちは、日本兵ではありません。
なぜなら、まず、マギーはこの話を「(生き残った)8歳の子から部分部分を聞き出し、いくつか細かな点で近所の人や親戚の話と照合し、修正した」と書いています。つまり、これは伝聞であるだけでなく、さらに他者の話をも合わせて「修正」された話です。
さらに、東中野教授によれば、12月8日以降、南京市民は中国軍によって全員「安全区」内に強制的に集められていました。ところがこの一家は、安全区の外側にいました。マギーは事件の日付を12月13日と書いていますが、この日は日本軍の安全区外への砲撃が強く、日本軍が市内に入ってくる日ですから、その日に安全区外にいることは最も危険なことです。にもかかわらず彼らが安全区外にいた、ということは、この事件は実際には12月13日に起きた事件ではないと考えられ、本当は12月8日以前あるいは13日以前に、中国兵たちによって起こされた事件と考えられるわけです。
さらに、「膣に瓶を押し込む」「膣に杖を押し込む」などといった殺し方は、まさに中国式です。中国には昔から、そういうむごたらしい殺し方をする風習がありました。日本兵はそんな殺し方はしません。このように、どうみてもこれは中国兵たちの犯行なのです。

マイナー・ベイツの虚偽報告
マイナー・ベイツは、南京国際委員会においてリーダー的存在となっていました。彼は、東京裁判における主要な証言者です。「日本の残虐」を世界に広めた中心的人物といっていいでしょう。ベイツは、戦後の東京裁判で、
「日本軍侵入後、何日ものあいた私の家の近所の路で、射殺された民間人の屍体がゴロゴロして居りました」
と証言しています。ところが、これらは真っ赤なウソでした。
なぜなら、「東京日日新聞」の若梅、村上両特派員は、占領2日後の12月15日、大学の舎宅にベイツ教授を訪れ、インタビューを行なっています。その時ベイツ教授は、上機嫌で2人を迎え、「秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです」といって両記者に握手しています(東京日日新聞 昭和12(1937)年12月26日)
さらにそのとき両特派員は、「家の近所の路で射殺された民間人の屍体がゴロゴロしている」というような光景は見ていません。12月13日に南京城内に入った第6師団の歩兵第13および47連隊の日本兵たちも、
「(南京城内では)敵兵はもとより住民の姿さえほとんど見なかった」
と証言しています。同じ日、南京城内に入った都新聞の小池秋羊記者も、
「城内はどの家も空き家で、物音一つしませんでした。犬、ネコの姿一つ見受けられず……」
と証言しているのです(南京事件p.144)。誰も、「路にゴロゴロ横たわった民間人の屍体」など見ていません。
一方、南京の安全区に逃げ込んだ中国兵を掃討する作戦を担当した第7連隊の兵士たちも、連隊に発せられた命令は、「市民を殺すな。皇軍の名を汚してはならない」であったと証言しています。彼らは、「民間人に危害を及ぼさないよう非常な注意を払った」と述べています。
またベイツと同様、南京安全区内で日々を過ごした同盟通信の特派員・前田雄二氏も、ベイツの言ったような虐殺死体の存在を否定して、こう述べています。
「いわゆる“南京大虐殺”というのは、2、30万人という数は別にしても、主として住民婦女子を虐殺したものだ。ところが殺されなければならない住民婦女子は(全部)「難民区」内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあり、入城4日目には私たち全員はこの支局に居を移し、ここに寝泊まりして取材活動をしていた。すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活を回復していた。住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。
こういう中で、万はおろか、千あるいは百をもって数えるほどの虐殺がおこなわれるなど、あり得るはずはなかった。すなわち『捕虜の処刑・虐殺』はあったが、それは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の大量虐殺の事実はなかった。それがさも事実があったかのように伝えられ、教科書にまで記載されていることは、見過ごしていいことではない。なぜ歴史がゆがめられたのか。それは、戦後の東京裁判史観によるものだろう」(内外ニュース社発行「世界と日本」 59・4・5、413号)
ベイツは、南京で虐殺があったと証言したものの、実際に虐殺死体を自分の目で見たわけではありません。彼の報告はすべて伝聞体です。南京国際委員会が提出したあの「被害届」においても、殺人の事例の「証言者」の欄にベイツの名はありません。アメリカ領事館のジョン・アリソン領事から市民虐殺の証明を求められたときにも、ベイツはその証明ができませんでした。

ベイツによるすりかえ
マイナー・ベイツはまた、
「埋葬死体の証拠からみると、4万人近くの非武装の者が、南京城の内外で殺された。そのうち約30%は兵士になったことのない者たちだった」
と書きました。ベイツがいった「埋葬死体の証拠」とは、「紅卍会」による埋葬をさしています。日本軍は、ほとんどの戦死者の埋葬作業を、中国人の団体「紅卍会」にまかせました。彼らが埋葬した数は、約4万人に及びました。
ベイツは、「4万人近くの非武装の者が・・・・殺された」と書いていますが、彼ら埋葬された死者は、実際には武装した中国兵の戦死者たちであって、決して「非武装」の者たちではありません。中国兵の多くは逃げる際、軍服を脱ぎ去って逃走しました。彼らは死んだとき軍服を着ておらず、その死んだ姿は民間人とかわりありません。ベイツは、実際は武装した中国兵の死者を「非武装の者」と書き、あたかも民間人の大量虐殺があったかのように、すりかえているのです。
またベイツは、そのうち30%は純粋な民間人だった、と述べましたが、竹本忠雄、大原康男・両教授によれば、紅卍会による埋葬死体のリストを調べると、「女性と子供の比率はわずかに計0.3%」でした。しかもこれは日本軍による南京戦のときだけでなく、翌年の1938年7〜8月の埋葬死体も含んでのことですので、もし南京戦の死者だけに限れば、女性・子供の比率は0.3%以下になります。
もし日本軍が民間人を虐殺したのなら、埋葬死体の中にはおびただしい女性や子供も含まれていたはずです。しかし女性や子供がほとんど含まれていなかった事実は、日本軍による民間人虐殺はなかったことを示しているのです。
また、先にエスピーが述べたように、中国兵の多くは軍服を脱ぎ捨て、民間人を殺して服を奪い、民間人の中にまぎれこみました。埋葬死体4万人の中には、そうした民間人の大人男性の死体も数千体以上含まれていたでしょう。彼ら民間人を殺したのは、日本軍ではなく、中国軍なのです。「0.3%の女性・子どもたち」に関してさえ、その多くを殺したのは中国兵たちだった可能性が高くあります。
しかしベイツはそうした中国兵たちの悪行には何一つふれず、すべてを日本軍のせいに見せかけ、日本軍の悪行を声高に世界に発信しました。
さて、日本軍による南京占領から5日後、1937年12月18日付ニューヨーク・タイムズに、「南京の街路は、女子供を含む民間人の死体で満ちていた」という記事が載りました。これは一体どういうわけでしょう。これはティルマン・ダーディン記者の記事ですが、やはりダーディン自身が見た事柄ではありません。なぜなら、彼はこれを「南京の外国人は……目撃した」という伝聞体で書いているからです。
じつは、これはダーディンが12月15日に南京を去るとき、ベイツから聞いた話でした。ベイツは1938年4月12日の自身の手紙の中で、12月15日に南京を去るダーディンはじめ欧米の特派員らに、南京の状況を書いたリポートを渡したと書いています。つまり情報の発信源はベイツでした。
また1938年、ティンパリー編著の『戦争とは何か』という本が出版されました。この中で「日本軍による南京での市民虐殺」が大々的に取り上げられ、アメリカ人に日本軍の非道を訴え、その後の日米戦争の一因となった本です。しかしティンパリーは上海にいた人で、南京にはいませんでした。じつは、その情報はベイツからもたらされたものでした。そう、ティンパリー自身が本の中に書いています。つまりこれもまた、ベイツが発信源でした。
ベイツはこのようにして、「日本軍による南京での市民虐殺」という虚偽を世界に広めたのです。
ベイツは、じつは蒋介石率いる中国国民党の顧問でした。国民党の戦略は何だったか。それは、たとえ虚偽を用いてでも「中国の悲惨」と「日本軍の残虐」を世界に訴え、アメリカを味方につけて日中戦争に巻き込み、アメリカが日本を叩きつぶしてくれるようにすることでした。そのため、ベイツはこの国民党の戦略に沿って、日本軍の残虐行為という政治的謀略宣伝を世界に発信したのです。
国民党の戦略について、アメリカのジャーナリストで、中国国民党宣伝部の顧問であったセオドア・ホワイトは、こう書いています。
「アメリカの新聞雑誌にウソをつくこと、だますこと……アメリカを説得するためなら、どんなことでもしてよい、(という政策が)中国政府唯一の戦略になっていた」(『歴史の探究』p.76)

スマイス調査が証明する「日本軍による民間人死者は少なかった」
最後に、南京の金陵大学教授ルイス・C・スマイスによる戦争被害調査(『南京地区における戦争被害:1937年12月〜1938年3月』)をみてみましょう。これは南京城内とその周辺地域における人的・物的被害を調べたものであり、加害者が日本軍か中国軍なのかを特定していないものの、被害の実態を知るうえで貴重な資料です。
調査方法は、市術地では50戸に1戸、農村部では約250世帯に1世帯を抽出し、彼が中国人助手と共に面接調査したものです。大雑把な調査ではありましたが、南京における唯一の学術的調査といっていいものです。これは「南京大虐殺」を肯定するものでしょうか。否定するものでしょうか。
このスマイス調査によれば、南京市街地での民間人の被害は、暴行による死者が2400、拉致4200(拉致されたものはほとんど死亡したものとしている)、さらに南京周辺部(江寧県)での暴行による死者が9160、計15,760人が民間人の被害ということでした。これは「30万人」虐殺説には程遠い数字です。また、これは「犯人」を特定せず、被害だけの数字であり、その中には、じつは日本軍による死者よりも、中国軍による死者のほうが多数含まれているのです。
というのは、ダーディン記者の記事にもあったように、中国軍は、南京城外の農村地区のほとんどを焼き払いました。そこでは、多くの中国人が死んだのです。また、安全区の中国人が証言していたように、中国軍は働ける男をみれば拉致して兵士にするか、労役に使いました。またエスピーの報告にもあったように、中国兵は軍服を脱ぎ捨てて民間人に化ける際、服を奪うために民間人を撃ち殺すことも多かったのです。このようにスマイス調査が示す民間人死者のうち、その大多数は中国軍による死者と言ってよいのです。
すなわちスマイス調査は、日本軍による民間人の死者はわずかであった、ということを証明していると言ってよいでしょう。

久保有政著


[32初期非表示理由]:担当:要点がまとまってない長文

17. 中川隆[6317] koaQ7Jey 2017年1月25日 19:27:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6769]
>>16
その話はすべて捏造なんだよ


南京事件(南京大虐殺)の真実
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm

「徹底した史料の読解によって、南京事件の真実を明らかにします」
「否定派の解釈の誤りと、捏造のすべてを明るみにだします」 by タラリ 


18. 中川隆[6318] koaQ7Jey 2017年1月25日 19:30:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6770]
チャンネル桜がデマを流してるから虐殺否定説を信じるアホが増えるんだな

19. 2017年1月25日 20:06:39 : xQ63tN0rZg : IsLokKthc64[1]
毛沢東、蒋介石、本多勝一の言動や朝日新聞の記事からも南京大虐殺なんて嘘・デマ・デタラメだとバレテいるんだよね。

「南京事件はなかった」とする根拠
@毛沢東(1893年12月26日 - 1976年9月9日)は生涯1度も南京虐殺などに言及していません。南京戦に触れているのは、南京戦の半年後に延安で講義し、『持久戦論』としてまとめられた本の中においてです。そこで毛沢東は「日本軍は、包囲は多いが殲滅が少ない」と批判しています。日本軍は敵を包囲しながら、殲滅(皆殺し)せずに逃がしていることを、戦争の常道に反するものとして批判し、中国共産党の幹部に教えているのです。
当方の指摘に対して、朝日新聞元記者・本田勝一は『中国占領区の日本帝国主義』という本に毛沢東が前書きを書いている、という事実を持ち出して反論しています。しかし、その前書きで毛沢東は、「調査なくして発言権なし」という立場から、「日本軍占領区の状況をよく研究してほしい」と述べているだけで、日本を虐殺の故をもって非難しているわけではありません。つまり、これは少しも反証になっていないのです。
A南京戦直前の1937年11月、中国国民党は中央宣伝部に国際宣伝処を設置しました。「中央宣伝部国際宣伝処工作概要」という秘密文書には、南京戦を挟む1937年12月1日から1938年10月24日までに、国際宣伝処は漢江において300回の記者会見を行い、参加した外国人記者・外国公館職員は平均35人だったと記録されています。毎日のように開かれた記者会見の目的は、当然ながら、交戦中の日本軍を非難し国際世論を味方につけることでした。ところが、この300回の記者会見において、ただの1度として「南京で市民虐殺があった」「捕虜の不法殺害があった」などの話をしていません。
朝日新聞元記者・本田勝一は蒋介石の日記に日本非難の記述があるとして、中国国民党は知っていた、などと論じています。しかし、「南京虐殺」は蒋介石によって外国向けメディアに作られた反日プロパガンダです。それを蒋介石が知っていた、などと論じるのは間抜けな話であり、筋違いです。
B南京安全区に避難した南京市民の面倒を見たのが西欧人15人からなる国際委員会です。その活動記録が『Documents of the Nanking Safety Zone』として、国民政府の監修により、1939年に上海の英国系出版社から発行されています。それによりますと、南京の人口は日本軍占領直前が20万人、その後ずっと20万人で、占領1カ月後の翌年1938年1月には25万人と記録されています。朝日新聞元記者・本田勝一は「歴史上まれに見る惨劇が1938年2月上旬まで2か月ほど続けられ、約30万人が殺された」と書いています。市民は20万人なのに、どうして30万人も殺せるのですか。
C『Documents of the Nanking Safety Zone』には、日本軍の非行として訴えられたものが詳細に列記されています。ところが、その中で殺人は合わせて26件にしか過ぎず、しかもその中で目撃されたものは1件のみです。その1件は合法殺害であるとわざわざ注記されています。西欧人は日本軍の大虐殺を記録しようとしたはずですが、逆に日本の無実を示す史料になっているのは皮肉です。
私は十数名の研究会メンバーとともに『Documents of the Nanking Safety Zone』を、既存の日本語訳や関連資料と付き合せながら1年かけて解読しました。それで、事件捏造のからくりがよく理解できるようになりました。例えば、次のようなことがあります。
日本軍部隊は夜間には外出禁止とされ、将兵が安全区に立ち入ることは出来ませんでした。南京市は日本軍が入城した後、全市停電となり、復旧したのはクリスマスの頃でした。ただでさえ不案内で恐ろしい外国の首都を、しかも電燈のない夜間の暗闇の中に飛び込んでいく日本兵がいたとは考えられません。ところが、強姦、略奪などの事件の3分の1は夜間に起こっているのです。これは誰が起こした事件なのでしょうか。英文の記録を読むと、犯人について単にsoldierとのみ書いてあるのに、洞富雄訳では「日本兵」となっているケースがあります。民間人20万人を収容していた安全区には推定1万余の中国国民党軍の敗残兵が、民間人の服装をした敗残兵となって潜伏していました。非行は彼らの仕業です。中国国民党軍のある元将校は、避難民キャンプから少女たちを引きずり出して強姦したあげく、翌日には日本兵が襲った風にしたと、外国人の前で告白しました。ニューヨークタイムズの記事です。
D南京虐殺の「証拠」であるとする写真が南京の虐殺記念館を始め、多くの展示館、書籍などに掲載されています。全部で143枚になります。しかし、科学的な検証によって、そのうちのただの1点も南京虐殺を証明する写真は存在しないことが明らかになっています。それどころか、『週刊新潮』(2014年9月25日号)には、そのうちの1枚が朝日新聞元記者・本田勝一自身が捏造に加担して掲載したものであることを認めています。これについて、まず、朝日新聞元記者・本田勝一は日本国民に謝罪すべきではありませんか?

2014年10月30日
南京大虐殺,歴史問題
本多勝一元記者が、「南京大虐殺」写真の捏造認める!
http://japan-plus.net/182/
朝日新聞が避けて通れない、もう一つの「戦後責任」
本多勝一元記者が捏造認める!
朝日新聞は速やかに「南京大虐殺」報道の検証と記事の取り消しを!
かつて朝日新聞のスター記者だった本多勝一氏が、日本軍による虐殺の証拠として使ってきた写真が、実は捏造であったことを、本多氏自身が初めて認めました。
問題の写真は、本多勝一氏の『中国の日本軍』に掲載されたもので、日本兵が中国の婦女子をかり集めてこれから虐殺するところであるとの説明がなされています。
ところが、この写真の出所は、実は本多氏が当時勤めていた朝日新聞社発行の『アサヒグラフ』(一九三七年十一月十日号)に掲載されたもの。日本兵は家路につく少女たちを護っていたとのキャプションがついていて、少女たちの笑顔もはっきりと写っており、「南京大虐殺」とは何の関係もない写真であることは、誰の目にも明らかです。
この矛盾点を問われた本多氏は、週刊新潮(9月25日号・下写真)に次のようなコメントを寄せています。
「『中国の日本軍』の写真説明はすべて中国側の調査・証言に基づくものです」「『中国の日本軍』の写真が、『アサヒグラフ』に別のキャプションで掲載されているとの指摘は、俺の記憶では初めてです。確かに「誤用」のようです。」
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一切裏付け取材をしなかった本多勝一記者
本多勝一氏は1971年6月から四〇日間かけて中国を取材し、その衝撃のルポルタージュ「中国の旅」は朝日新聞紙面で連載されたほか、「中国の日本軍」「南京への道」などとともにシリーズで単行本化され、長らく「南京大虐殺」説の根拠とされてきました。
しかし本多氏のこの時の取材は実にいい加減なものでした。中国共産党が用意した証人の証言をただ聞き書きしただけで、一切裏付け取材を行っていなかったことを、本多氏自身も後に著書の中で認めています。
また、「中国の旅」の記事で「日本人による虐殺があった」と紹介された炭鉱に勤めていた日本人が、記事は事実と著しく異なると本多記者に抗議の手紙を送ったところ、本多氏からは「私は中国側の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするのであれば中国側に直接やっていただけませんでしょうか。」という、無責任な回答が返ってきました(※下写真参照)。
※本多勝一記者の直筆の書簡
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証言が真実かどうかを調べるのが記者の仕事ではないでしょうか。
これが『中国の旅』の報道の実態です。

当時の朝日新聞が報道!
「南京大虐殺はなかった!」
『中国の旅』(本多勝一著、朝日新聞社発行)には、中国側が提供した「日本軍による虐殺現場」と称する写真が多数掲載されています。
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当時の朝日新聞記者が撮影した 陥落直後の南京市内のようす
当時、南京戦には約80名もの朝日新聞の取材班が同行し、現地の状況をつぶさに報道していました。
下の写真はすべて、当時の「アサヒグラフ」に掲載されたものです。
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左:『アサヒグラフ』(昭和13年1月19日号)  右:『アサヒグラフ』(昭和13年1月12日号)
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『アサヒグラフ』(昭和13年1月12日号)
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『アサヒグラフ』(昭和13年3月23日号)
このように当時の朝日新聞の特派員たちは、我が国の名誉回復につながる貴重な報道写真を多数撮影していたのです。
本多勝一記者の『中国の旅』は裏付けも取っていない、いい加減な聞き書きで、写真もすべてニセモノであったことが判明しています。
本多記者のルポと、南京陥落当時の朝日新聞社特派員の報道。いったいどちらが「真実の南京の姿」なのでしょうか?
本当に「南京大虐殺」があったのなら、南京市民がこのように穏やかな表情で写真におさまるはずがありません。
確かに通常の戦闘行為はありましたが、日本兵は南京で虐殺などしていなかったのです。
日本は今、「南京大虐殺」の汚名をきせられ、ナチス同様の野蛮な民族として、世界中からレッテルをはられようとしています。その発端となったのが朝日新聞の「中国の旅」です。
わたしたちは朝日新聞社に対し、
1.朝日新聞者として、速やかに1971年に朝日本誌に掲載した本多勝一記者のルポ「中国の旅」と、それをまとめた書籍『中国の旅』(本多勝一著、朝日新聞社)、および一連の「南京大虐殺」報道に関する検証作業に着手すること
2.裏付けのない記事、および事実に反する記事の取り消しと訂正
3.『中国の旅』の絶版と回収 
を求めます。


中国の方向から飛んでくる有害物質といえば、黄砂やPM2.5を思い浮かべますが、中国の国家主席自身も国外で積極的に「有害」な発言を撒き散らし始めたようです。本当に迷惑千万です。
ドイツを訪問した習近平国家主席は、日中戦争で3500万人の中国人が死傷し、南京では旧日本軍が30万人以上の兵士や民間人を殺害したのだと講演しました。人口約20万人(当時)とされている南京で30万人も殺害するのは当然、無理です。そんなことはよく考えれば分かる、いや、よく考えなくても分かりそうなものですが・・・。
実は習主席もよく分かっているのに分からないふりをして、反日宣伝のために根拠のない数字を振りかざしている節もあります。突き合わされたドイツの人々も迷惑しているのではないのでしょうか。
冷戦が終わってアジアの派遣を争うライバルである日本を蹴落とすために、同盟国のアメリカ、そして同じ自由主義陣営の韓国に対し、日本との離間工作を仕掛ける、その材料として歴史問題を使っていくという方針を、1992年当時に中国共産党が立てたのです。
反日歴史教育を徹底させるた「愛国主義教育実施要綱」を1994年に江沢民が定めたことは知られていますが、それより前の1992年の段階でそうした路線変更があったことは、香港などのメディアで頻繁に流されています。中国共産党の公式文書で確認したわけではありませんが、アメリカの情報機関も把握していました。
日中戦争の中国側犠牲者数
中国共産党政権維持のための反日プロパガンダも加わり、中国側の「日中戦争の犠牲者数」は指数関数的な勢いで日々増加している。当時の中国人口よりも犠牲者数が増えるのではないかと揶揄する評論家もいる。
@発表年A犠牲者数B調査・出典C補足
@終戦時A132万BGHQ調査・発表C国民党軍人のみ
@終戦時A132万B国民党政府調査・発表
@1948年A438万B国民党政府報告書C1948年までの確認数 国民党軍人のみ
@1950年代A1000万B共産党政権発表
@1970年A1800万B共産党政権発表
@1985年A2100万B共産党政権発表(抗日勝利40周年)Cこれ以後 博物館や教科書で公式数字となる
@1998年A3500万B江沢民発表C江沢民の演説で発言後、南京大虐殺記念館での公式数字となる
@2005年A5000万B卞修躍博士発表(抗日勝利60周年)
日本はこの頃から国連の常任理事国入りを目指していたわけですけど、中国は「戦争犯罪の率直な謝罪が条件だ」と明確に主張し始めたわけです。
それは1993年8月のことで、中国共産党は日本の自立、政治大国化を阻むカードとして「過去」を使い始めたのです。
歴史が問題だと思っているのであれば、戦後50年も経った時点で国連の常任理事国入りの条件に取り上げるのではなくて、記憶が生々しかったはずの日中国交正常化の時点で条件にすべきだった。日本の政治大国化を阻むために反日であること自体、歴史の結果ではなくて、政治謀略であることを示しています。

「中国の旅」は1971年(昭和46年)8月から12月まで朝日新聞に掲載された。中国人が戦争中の日本軍を語る形を取ったルポルタージュで、毎回、残虐で非人道的な日本軍が語られていた。これほど残虐で猟奇的なことを新聞が掲載してよいのかと感じるほどだったから、その残虐さに度肝を抜かれた日本人はいただろう。
しかし、語られている日本軍の行為は日本人の感覚からは考えられないもので、常識的な日本人なら躊躇なく疑うものだ。もし日本軍の実情を知っている人なら言下に打ち消すだろうし、日本の歴史に照らし合わせれば、これも直ちに否定できる。「記事に対するごうごうたる非難の投書が東京本社に殺到した」(「朝日新聞社史」)というように、朝日新聞の読者ですら拒否したのである。
朝日新聞社内からも批判の声が上がった。「中国の旅」は4部に分けて連載され、残虐で非人道的な話の圧巻はそのうちの「南京事件」だが、当時従軍した記者たちが取材した南京と、「中国の旅」に書かれている南京とは全く違っていたからである。
改めて「中国の旅」が虚偽に満ちた内容であることを示す。「南京事件」に絞ると、その冒頭で南京に攻め入った日本軍はこう記述されている。
「日本軍がなだれこむ。大混乱の群衆や敗残兵に向かって、日本軍は機関銃、小銃、手榴弾などを乱射した。飢えた軍用犬も放たれ、エサとして食うために中国人を襲った。二つの門に通ずる中山北路と中央路の大通りは、死体と血におおわれて地獄の道と化した」
この記述が文字通りの虚偽であることはあまたの事実が示している。日本軍が南京城内に入ったのは1937年(昭和12年)12月13日で、城内の第三国人を保護するため、翌日には日本の外交官も入った。外交官の名は福田篤泰といい、戦後、衆議院議員となり、総務庁長官などを務めた人である。南京市民でごったがえす中心部で第三国人の応対に当たった福田領事官補はこう証言している。
「街路に死体がごろごろしていた情景はついぞ見たことはない」(『一億人の昭和史』毎日新聞社)
南京市の中心には日本の新聞社や通信社の支局があった。同盟通信(現在の共同通信と時事通信)の従軍記者である前田雄二は15日に城内に入った。前田雄二記者は支局を拠点に取材をするのだが、その時の支局周辺の様子をこう記述している。
「まだ店は閉じたままだが、多くの住民が行き交い、娘たちの笑い合う声があり、子供たちが戯れていた。生活が生き残り、平和は息を吹き返していた」(『戦争の流れの中に』)
死体もなければ、血にも覆われていない。南京は全くの落ち着いた街だった。
中国人の話だけで成り立つ「中国の旅」からすると、日本人の証言では不十分とされそうなので、第三国人の証言をあげる。
南京には数十人の第三国人がいて、一部は南京安全区国際委員会を作って南京市民の保護に当たった。彼らは南京にやってきた日本の外交官に手紙や要望書を出すが、福田領事官補が南京に入った14日、さっそく手紙第一号の冒頭はこう書かれている。
「謹啓 私どもは貴砲兵部隊が安全地帯に砲撃を加えなかった立派なやり方に感謝」(『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』)
日本軍が南京市民を殺戮することなどなかったのである。
第三国人の証拠を持ち出すまでもない。14日の様子を朝日新聞がこう報道している。
「中山路の本社臨時支局にいても、もう銃声も砲声も聞こえない。14日午前表道路を走る自動車の警笛、車の音を聞くともう全く戦争を忘れて平常な南京に居るような錯覚を起こす。住民は一人も居ないと聞いた南京市内には尚十数万の避難民が残留する。ここにも又南京が息を吹き返して居る。兵隊さんが賑やかに話し合って行き過ぎる」(東京朝日新聞 12月16日)
死体と血に覆われた地獄というのは全くの虚偽なのである。
軍用犬を放したという記述にいたっては腹を抱えて笑うしかない。軍用犬は、最前線と後方の連絡に使われるが、偵察に使ったり、傭兵を救護したり、軍需品の運搬にも使う。そのため飼育され、訓練が繰り返され、人間を食べることなどあり得ない。
虚偽の記述は冒頭で終わるわけではない。続いて「川岸は水面が死体でおおわれ、長江の巨大な濁流さえも血で赤く染まった」「どこへ行っても空気は死臭で充満していました」といった死の世界の描写が続く。
「中国の旅」とは、冒頭からこのような虚偽と噴飯ものに溢れ、それが最後まで続くのであった。


[32初期非表示理由]:担当:要点がまとまってない長文

20. 2017年1月25日 20:12:47 : 35EuUW7jDw : yWf3pgdtr88[59]
いずれにせよ、アパホtル有名になったね。

アパホテルにそんな本置いてること、日本人でもほとんど知らなかったし、話題

にならなかった。 今回は中国共産党外務省がでてきて、大騒動。

本はどこか販売店がつくのかな、書店で販売しますてなるかな?


21. 中川隆[6319] koaQ7Jey 2017年1月25日 20:39:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6771]
>>19
そんなの全部デマだとわ買ってるんだよ。例えば


>毛沢東(1893年12月26日 - 1976年9月9日)は生涯1度も南京虐殺などに言及していません。


これも悪質なデマ


「事実」は

毛沢東は1938年1月週刊誌「群衆」で「南京大虐殺は人類に対する犯罪」と述べている。その内容は次の通りである。

「・・・9・18に敵軍がわが東北・華北ではたらいた残虐な行為は、すでに世のともに知るところとなっている。しかし、南京・上海沿線、とりわけ南京市の大虐殺は、人類有史以来空前未嘗有の血なまぐさい残虐な獣行記録をつくることとなった。

これは中国の全民族に対する宣戦にとどまらず、全人類に対する宣戦でもある。敵の凶悪な残忍さは、人道と正義を血で洗い、全世界・全人類の憤怒と憎悪をよびおこした。・・・」


22. 中川隆[6320] koaQ7Jey 2017年1月25日 20:44:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6772]
>>19
>本多勝一元記者が、「南京大虐殺」写真の捏造認める!

捏造でなく間違った写真を使っただけだろ

本を書けば小さな間違いくらい無数に出て来るというだけだ

小さい間違いを必死に探して、それをもって全体を否定しようとするのが虐殺否定派の詐欺の手口なのさ


23. 中川隆[6321] koaQ7Jey 2017年1月25日 20:45:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6773]
そもそも東京裁判で松井石根が虐殺を認めて死刑になったのに、否定できる訳ないだろ

24. 2017年1月25日 20:48:17 : JW4kQkOW9o : dSI7DqbtatE[314]
ところでこれ何?


韓国体育会、アパホテルに本撤去要求 大会組織委に書簡

来月開幕する札幌冬季アジア大会の選手らが宿泊する「アパホテル」に、南京事件について否定的な書籍が客室に置かれている問題で、韓国体育会は25日、書籍を撤去するよう求める公式書簡を大会の組織委員会に送ることを決めた。書籍が撤去されなければ、韓国選手団に別の宿泊先を用意するよう求めるという。

韓国体育会によると、宿泊先は組織委員会側が決めたという。

一方、韓国メディアは問題の書籍には慰安婦問題についても否定的な内容が含まれていると報じ、日本政府が対応していないとして批判的に伝えている。

[朝日 2017.1.25]
http://www.asahi.com/articles/ASK1T3F4ZK1TUHBI00M.html

★1 2017.1.25 11:15:29.55


25. 2017年1月25日 21:01:02 : UzMuEv4khI : pzFC3IWA1@E[76]
気にしない だから泊まると 高笑い

贈ってる インバウンドで 安倍に塩


26. 2017年1月25日 21:17:14 : 35EuUW7jDw : yWf3pgdtr88[60]
南京の当時の映像見た人いるか。 19368年2月の実写フィルム

南京陥落1937年12月から 約2ヶ月後の南京市外やそこに(日本兵がいるのに

もかかわらずもどってきている中国人の列;フィルム43分52秒の部分)

移されていいる、貴重ナフィルム)

もし南京で30万人が虐殺さらたとして、その2ヶ月後に日本兵のいる南京に

中国人がわんさかもどってくるか?

フルムが本当だとすれば、南京大虐殺は考えられない。

(映画 南京完全版 70分)

https://www.youtube.com/watch?v=SNZ4ewk8hAs


27. 中川隆[6328] koaQ7Jey 2017年1月25日 21:26:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6780]
>>26
>南京の当時の映像見た人いるか。 19368年2月の実写フィルム


それは有名なヤラセ映画


、「事件」直後に撮影された映画『南京』に、「虐殺」を思わせる場面がないことを「否定」の材料にしようとする方も存在します。しかし、映画『南京』のカメラマンであった白井茂氏自身が次の記録を残していることからも、この映画をそのような材料として使うのは無理なことでしょう。
 


白井茂氏『カメラと人生』より
  中山路を揚子江へ向かう大通り、左側の高い柵について中国人が一列に延々とならんでいる。何事だろうとそばを通る私をつかまえるようにして、持っているしわくちゃな煙草の袋や、小銭をそえて私に差出し何か悲愴なおももちで哀願する。となりの男も、手前の男も同じように小銭を出したり煙草を出したりして私に哀願する。

 延々とつづいている。これは何事だろうと思ったら、実はこの人々はこれから銃殺される人々の列だったのだ。だから命乞いの哀願だったのである。それがそうとわかっても、私にはどうしてやることも出来ない。一人の人も救うことは出来ない。


 柵の中の広い原では少しはなれた処に塹壕のようなものが掘ってあって、その上で銃殺が行われている。一人の兵士は顔が 真赤に血で染まって両手を上げて何か叫んでいる。いくら射たれても両手を上げて叫び続けて倒れない。何か執念の恐ろしさを見るようだ。

 とにかく家財道具から何から町の真中にみんな置きっぱなし。

 まだ城内ではどっか隅の方で兵隊は戦っていた。音がしたり、なにか気配があった。ぼくらは司令部の命令で南京銀行の三階へ陣取った。みんな、見当つけてピストル一挺持って探索に出かける訳だ。いつやられるか分からない。銃殺しているところだとか、いろんなところを見た。

 翌日から少し撮影を始め、飛行機の落ちていくのを撮影したり何かしている内に、松井石根の入城式になった。向うの住民も手を振って迎えている。しょうがないから手を振りまわす。メイファーズ( 没法子=どうしょうもない)というわけだ。


 見たもの全部を撮ったわけではない。また撮ったものも切られたものがある。

 さきの延々と並んでいる人たちに対し、兵隊が一人ぐらいしか付いてない。逃げ出したらいいだろうと思った。そうかと思うと、町の真中で、向うが川の所に、こっちへ機関銃一挺据えてある。兵隊一人で。で、向うに百人ぐらい群集がいる。

 あんなものは、一人か二人犠牲になったならば、みんな逃げ出せたと思う。それでも逃げないのはやっぱり、機関銃の前で怖いのか、逃げないのである。

 よく聞かれるけれども、撃ってたのを見た事は事実だ。しかし、みんなへたなのが撃つから、弾が当ってるのに死なないのだ、なかなか。そこへいくと、海軍の方はスマートというか揚子江へウォーターシュートみたいな板をかけて、そこへいきなり蹴飛す。水におぼれるが必ずどっか行くと浮く、浮いたところをボンと殺る。揚子江に流れていく。そういうやりかただった。


 戦争とはかくも無惨なものなのか、槍で心臓でも突きぬかれるようなおもいだ、私はこの血だらけの顔が、執念の形相がそれから幾日も幾日も心に焼付けられて忘れることが出来ないで困った。私は揚子江でも銃殺を見た。他の場所でも銃殺をされるであろう人々を沢山見たが余りにも残酷な物語はこれ以上書きたくない。これが世に伝えられる南京大虐殺事件の私の眼にした一駒なのであるが、戦争とはどうしても起る宿命にあるものか、戦争をやらないで世界は共存出来ないものなのだろうかとつくづく考えさせられる。
(同書 P137〜P138)

日本軍文書:南京大虐殺で南京の人口が80万人近く減少 2014年01月08日

吉林省公文書館で最近、南京大虐殺の記録を含む日本軍の中国侵略に関する文書が見つかった。同文書によると南京大虐殺前後の2カ月半で南京地区の人口は113万人から34万5000人へと78万5000人減少していた。人民日報海外版が伝えた。

 同文書は1938年2月19日と同28日に日本軍華中派遣憲兵隊の大木繁司令官が関東軍司令部に報告した2件の「南京憲兵管轄区内の治安回復状況に関する報告」。報告の「事変前後の人口対比」によると、「事変前」に南京の人口(下関を含まず)は100万人で、2月28日までに33万5000人が帰還し(戻り)、下関の人口は13万人で、後に1万人が帰還した。

 1937年12月13日、中国侵略日本軍は南京を占領した。その後6週間、日本軍はこの世のものとは思えないほど残虐な手段で、中国の市民と軍の捕虜30万人以上を殺害した。だが日本には南京大虐殺の数字の矮小化、さらにはこの犯罪行為の否認を企てる者が常にいる。

 今回の日本関東軍の文書は吉林省公文書館に保管されており、関東軍が中国東北部を統治していた1931年から1945年までの様々な事項が記録されている。現時点で中国侵略に関する世界唯一の関東軍文書であり、非常に貴重で、日本国内にすらないものだ。

 1945年8月15日に日本が降伏を宣言すると、日本軍はこれらの文書を数日間かけて焼却したが、間に合わなかったものを地中に埋めた。これらの資料は1950年に吉林省の工事現場で発見された。(編集NA)

 「人民網日本語版」2014年1月8日
http://j.people.com.cn/94474/8507124.html


28. 2017年1月25日 22:01:21 : 9AR12pI32w : EGgZp4z_140[1]
>2017年01月24日 のんきに介護
 サイト「BuzzFeed」に
 アパグループ元谷外志雄代表の真意として
 「中国人の予約は受けない」発言は、
 誤解されてるとある。
 ☆ 記事URL:https://www.buzzfeed.com/eimiyamamitsu/apa-hotel-global-time s?utm_term=.pxZYYGaVnk#.pkELLwWkda
 では、どう解したらいいのか、
 について説明が漠然として何が真意なのか
 はっきりとしない。
 これでは
 誤解があっても誤解が解けない。
 一度、
 読んで見られて自分の目で確かめて欲しい。


確かめてみた。

のんきに介護という輩は正真正銘のアホだ。

もしくは反日左翼お得意の捏造と言うべきか。

話は簡単で、元谷社長は

「サイトが止まっている状況。予約ができない。中国からも予約を受け付けない」

と説明した。

これを中国の動画ニュースサイト「梨視頻(梨视频)」が

「中国のサイトからたとえ私たちのホテルを予約したいと思う人がいたとしても、

受け付けない」

と誤報を流したのである。



29. 2017年1月25日 22:51:11 : jUTVhXepv6 : AR@uFlN@qik[1]
毛沢東は「南京大虐殺」を避けてきた
2015年10月13日(火)17時30分
遠藤 誉(東京福祉大学国際交流センター長)
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2015/10/post-3985.php
ユネスコが「南京大虐殺」資料を世界記憶遺産に登録することを決めた。中国の歴史問題への逆走が止まらない。実は建国の父、毛沢東は「南京大虐殺」を教科書で教えることも、口にすることも嫌がった。なぜか―?

なぜ毛沢東は「南京大虐殺」に触れたくなかったのか?

毛沢東は生きている間、「南京大虐殺」に触れることを嫌がったし、教科書にも載せようとしなかった。(日本語では「南京事件」と称するが、ここではユネスコで登録されたことと、毛沢東の「南京大虐殺」に関する見方を考察するので、中国流の「南京大虐殺」という文言を用いる)
なぜなら、「南京大虐殺」が起きた1937年12月13日前後、毛沢東ら中国共産党軍は、国民党軍も日本軍も攻撃にこられないほどの山奥に逃げていたからだ。そこは陝西省延安の山岳地帯。南京の最前線で戦っていたのは蒋介石率いる国民党軍だった。
毛沢東らはそもそも、1937年7月7日に起きた盧溝橋事件(日中戦争が本格化した事件)の第一報を受けると「これで国民党軍の力が弱まる」と喜んだと、1938年年4月4日まで延安にいた(共産党軍の)紅第四方面軍の軍事委員会主席・張国トウ(トウ:壽の下に点4つ)が『我的回憶(我が回想)』で記録している。
中共中央文献研究室が編纂した『毛沢東年譜』を見ても、この日付の欄には、ただひとこと「南京失陥」(南京陥落)という4文字があるだけだ。その前後は1ページを割いて1937年12月9日から12月14日まで開催していた中共中央政治局拡大会議のことが書いてあり、13日に4文字あったあと、14日からはまた雑務がたくさん書いてある。
「南京大虐殺」に関しては「ひとことも!」触れていない。
『毛沢東年譜』は毛沢東の全生涯にわたって全巻で9冊あり、各冊およそ700頁ほどなので、合計では6000頁以上にわたる膨大な資料だが、この全体を通して、「南京大虐殺」という文字は出てこない。1937年12月13日の欄に、わずか「南京失陥」という4文字があるのみである。
翌年も、翌翌年も、そして他界するまで、ただの一度も「1937年12月13日」の出来事に触れたことはなく、この「南京陥落」という4文字さえ、その後、二度と出て来ない。
毛沢東は完全に「南京大虐殺」を無視したのだ。
そこに触れれば、中国共産党軍が日本軍とは、まともには戦わなかった事実がばれてしまうことを、恐れたからだろう。そして国民党軍の奮闘と犠牲が強調されるのを避けたかったからにちがいない。

中国大陸のネット空間では

いまごろになって、中国大陸のネット空間には、「なぜ毛沢東は南京大虐殺を教えたがらなかったのだろうか?」とか「なぜ毛沢東は南京大虐殺を隠したがったのだろうか?」といった項目が数多く出てくるようになった。
たとえば大陸の百度(baidu)で検索した場合、「毛沢東 南京大虐殺」と入れると、日によって異なるが200万項目ほどヒットする。そのほとんどは、この疑問への投げかけだ。
中にはきちんと中国建国以来、いつまで南京大虐殺を隠し続けたかを調べた人もいる。この種の記事は多いが、信じていただくために一つだけ具体例を挙げよう。
2014年12月31日付の西陸網(www.xilu.com)(中国軍事第一ポータルサイト)で「毛沢東時代はなぜ南京大虐殺に触れなかったのか――恐るべき真相)」というタイトルで陳中禹(う)という人がブログを書いている。 
彼は1958年版の『中学歴史教師指導要領』の中の「中学歴史大事年表」の1937年の欄には、ただ単に「日本軍が南京を占領し、国民政府が重慶に遷都した」とあるのみで、一文字たりとも「南京大虐殺」の文字はないと書いている。この状況は1975年版の教科書『新編中国史』の「歴史年表」まで続くという。
ちなみに、毛沢東が逝去したのは1976年。陳氏によれば、1979年になって、ようやく中学の歴史教科書に「南京大虐殺」という文字が初めて出てくるとのことだ。
他の情報によれば「1957年の中学教科書にはあったが、60年版では削除されていた」とのこと。実際、確認してみたが、たしかにその時期、南京大虐殺を書いた教科書が江蘇人民出版社から出たことがある。しかし、その後消えてしまっている。
200万項目ほどヒットする関連情報の中に、「1980年代に入ると日本の歴史教科書改ざん(美化)問題があったため、中国の一般人民は初めて南京で日本人による大虐殺があったことを広く認識し始めた」というのが多い。それによれば人民日報が初めて「南京大虐殺」に関して詳細に解説したのは1982年8月で、その書き出しは「日本の文部省の歴史教科書改ざん問題」から始まっているとのこと。
そのため大陸の多くのネットユーザーは、「中国人民は日本の右翼に感謝しないとねぇ。なんたって、彼らがこうやって歴史歪曲を始めようとしなかったら、中国人民は永遠に南京大虐殺のことを知らないまま、生きていたのかもしれないんだから」と、皮肉を込めて書いている。
ちなみに、「南京大虐殺記念館(中国名:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館)」は、日中戦争勝利40周年記念に当たる1985年8月15日になって、ようやく建立された。
なお、靖国神社参拝批判が80年代半ばから盛んになった背景にも、こういった毛沢東の「抗日戦争(日中戦争)観」が関わっている。

習近平政権になってから異常に加速する「歴史カード」

今年8月25日付けの本コラムで「毛沢東は抗日戦勝記念を祝ったことがない」と書いたが、習近平国家主席は、9月3日の抗日戦争勝利70周年記念日に中国建国後初めて軍事パレードを挙行しただけでなく、「南京大虐殺」に関してもユネスコが世界記憶遺産に登録認定するところまで漕ぎ着けた。
習近平政権になってから、中国共産党による日中戦争時の歴史改ざんは加速するばかりである。言葉では「世界平和のため」と言っているが、その実、「日本の戦争犯罪を世界共通の認識」へと持っていき、反日意識を全世界に広げる効果をもくろんでいる。
なぜなら日米が中心となってTPPなどの手段で「普遍的価値観」を世界的に普及させ中国包囲網が思想的に出来上がっていくのを切り崩したいからだ。そのためには「日本の歴史認識カード」は都合の良い切り札になるのである。
その証拠に10月10日、中国外交部の華春瑩・副報道局長は「南京大虐殺は国際社会が公認する歴史事実となった」と述べたことに注目しなければならない。

中国に関する日本人の「歴史認識」の危なさ

問題はわれわれ日本人が、どれだけ正しい中国に関する「歴史認識」を持っているかだ。
今年8月10日付の本コラム「戦後70年有識者報告書、中国関係部分は認識不足」に書いたように、日本の「有識者」は「1950年代半ばに共産党一党独裁が確立され、共産党は日本に厳しい歴史教育、いわゆる抗日教育を行うようになった」と書いている。
日本の政治を動かす、安倍総理のための「有識者」は、こんな程度の「中国に関する歴史認識」しか持っていない。これが日本国民にどれだけの不利をもたらしていることか――。このような状態では日本を守る外交戦略さえ立てることができない。
中国のこの、政治利用とも言える「歴史認識カード」を跳ねのけることができる唯一の道は、日中戦争時代および中国建国後の毛沢東を徹底して研究することである。それ以外に道はない。
それにより中国共産党の真相を正しく客観的に見抜く視点を養えば、ユネスコを説得する力をも持ち得ると固く信じる。
札束と、中共に都合よく歪曲された歴史を世界の共通認識とさせてはならない。
日本の「有識者」が潜在的に中共のプロパガンダに洗脳されていることに気づかない日本政府の怠慢でもある。
なお、本日のコラムに書いた内容は、来月半ばに出版する『毛沢東――日本軍と共謀した男』(新潮新書)で詳述している。出版前に企業秘密のような内容を開示してしまうのはルール違反だが、ユネスコの世界記憶遺産発表を受け、真実を明らかにせずにはいられなく、出版社の許可を得て一部を事前に公開した次第である。
[執筆者]
遠藤 誉
1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会科学研究所客員研究員・教授などを歴任。『チャイナ・セブン <紅い皇帝>習近平』『チャイナ・ナイン 中国を動かす9人の男たち』『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』など著書多数

大虐殺派のウソ写真と証言
http://www.history.gr.jp/nanking/lie.html

•「虐殺派」が用いるウソ写真の解説
•反日映画「バトルオブチャイナ」と「中国之怒吼」
•暴走族のウンコ座り!?
•百人斬りの大ウソ
•中国人(漢民族)の食人習慣(カニパリズム)
•ウソつき証言者(ウソだらけの証拠と証言者たち)
•南京事件またニセ写真
•「南京事件の真相」より「南京事件資料」について
•秦郁彦氏への忠告 「ザンゲ屋・曽根一夫」への信仰  板倉由明
•「東史郎の日記」と「長崎原爆資料館」のニセモノ田中正明(念法時報より)
•広田弘毅(当時、外務大臣)電報のウソ
•高橋義彦さんからの手紙
•「南京大虐殺」はなかった  攻略戦参加者の証言(世界日報社より)
•高橋義彦さんからの手紙2

「虐殺派」が用いるウソ写真の解説
ホームページ上で、「これが南京大虐殺だ」なんて風に発表している様なのがありますけど、実際には南京大虐殺の証拠写真は1枚もありません。
どこから、持ってきたのか解りませんが、厳寒の南京において半袖の夏の戦闘服を着た日本兵が死体の側に立っている変な写真ですとか、ソ連兵を日本兵だと説明していたり、文化大革命犠牲者の大量の骨の写真や昭和19年に製作されたアメリカの抗日、反日映画(『Battle of China』などの)の1シーンに全く異なる解説をしているものばかりです。
写真雑誌等見て育った世代には、単純なヤラセ写真などは容易に見抜けるものです。
南京大虐殺を宣伝している年齢は大体50代後半〜60代後半の団塊世代と呼ばれる人たちが中心であり、従軍経験は当然無く、軍事知識は皆無なのです。
ですから簡単なヤラセ写真にひっかかり、信じ込んだり、意図的にウソを主張しているだけなんですけどね。
真実は100年立っても200年経っても変える事は不可能です。
いずれ必ず事実が広く知られる事を理解しましょう。
私達にとっての祖父達をどうにかして“悪者”にしたてたいという気持ちは全く理解不能ですが、そういう親を見て育った子供達は決してそのような親の世代をを尊敬しません。
むしろ侮蔑の目を向けられることでしょう。団塊世代が、いずれどのように評価されるのか見ておくことです。

馬賊(匪賊)という犯罪集団の処刑後の写真
馬賊(匪賊)とは中国で清の末ごろまでの満州に広くはびこり、馬に乗り近隣の町を荒らし回った集団的な盗賊で、大正から昭和初期にかけて、中国の北部は群雄割拠する馬賊の時代でもありました。
関東軍に爆殺された張作霖のように大小馬賊群ににらみを利かし、自ら大元帥と名乗った権力者もいたのです。さらに驚く事に当時は女馬賊もいた。
当時の支那(中国)では農民は作物が不作の時には、農民が突如として馬賊に変身し近隣の村々を襲ったりもしていた事もあったそうです。
それら馬賊は近隣の街を夜な夜な襲って金品を強奪し、殺人などを行っていた。(当時の中国の町は安全のため城壁で囲んでいたのはここに理由がある。) 満州鉄道も度々襲われていました。
だが、彼らは捕まるとほとんど現地の警察などによって処刑され斬首されたりしたり(写真1-4)見せしめのため首を切りさらし首にしていた(写真1-1、写真1-2、写真1-3)。ここが日本人とは文化が違う事を表すポイントである。(注:日本では斬首、さらし首は江戸時代に廃止している。)
ましてや昭和初期にこの様な野蛮な行為は一切行ってはいない)「南京」の市民なんて根拠のないウソである。少なくとも「虐殺派」は中国の文化について全く知識がないようだ。以下は全てその当時、みやげ物店などで販売されていた写真である。

写真1-1(下写真) 写真1-2(下写真)
当時の中国東北部「鉄嶺」馬賊のさらし首 アイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京』には“南京での数多くの斬首の跡”とある
写真1-3(下写真) 写真1-4(下写真)
斬首された馬賊の首 当時の中国警察による斬首の様子

上段2枚の写真(写真1-1、写真1-2)は、馬賊へのみせしめ(写真1-1)もしくは、おそらく処刑された馬賊の首を集めて撮影した(写真1-2)だけで、何ら南京とは関係のない写真。実はこの写真(写真1-2)には被写体は一緒だが、背景に壁らしきものが写ってる別写真が存在しており、後ろに城壁か壁の一部が見え、その壁は明らかに南京とは違うと断定できる。つまりほぼ南京とは異なることが断定出来るのである。
下段左の写真1-3は、昭和59年8月4日の朝日新聞に「日記と写真もあった=南京大虐殺」と題し宮崎の元兵士が日記と共に見つかったと掲載した(これについては別ページを参照して下さい。)。しかしこれは佐藤進氏(神奈川県藤沢市在住)が昭和6(1931)年10月、朝鮮と中国の国境に位置する会寧にて文房具品兼写真屋にてみやげとして、約10枚買った写真の中に入っており「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首」との文字が刷り込まれていた。
鉄嶺は満州である。朝日はニセモノであることを認め謝罪した。その後「朝日」は日記を公開したが、古くて破れやすいからとの理由で十数メートル下がらせて見させた。
だが、見学者の話では日記には当時戦場には携行されているはずも無かった万年筆で書かれていた(大体の兵士は鉛筆書きがほとんどである)。

南京戦における戦死者の死体(当然、戦争なのだ)
よくぞまぁ、と言いたくなるくらいに「虐殺が有った!」と主張したい連中は戦闘で死んだ中国兵の死体をこれが「南京大虐殺だ!」などと臆面もなく発表しているのである。
南京戦については別ページにて述べた通りだが、戦闘行為後においての戦死体がどうして、ああいうキャプションになるのかおうかがいしたいほどである。
以下の写真は、南京戦によって発生した支那(国民党)兵の単なる死体であり、日本軍側にも多大なる戦死者、負傷兵がおり戦闘下での戦死者にすぎない。これは全て支那(国民党)軍と日本軍による正規戦における死体であり、何ら大虐殺とは関係がない。
ちなみに写真は裁判でも証拠として採用される際には必ず「誰が?どこで?いつ?撮影したのか?」という大条件を満たす必要がある。これが満たせない場合は証拠とはならない。常識でしょ。しかしながら写真からそれらが推測される場合は別となりますが。

写真2-1(下写真) 写真2-2(下写真) 写真2-3(下写真)
村瀬守保撮影支那軍(国民党・現台湾政府)の遺棄死体をこのまま放置すると腐り、疫病の原因となるので焼却した。下関(シャーカン)付近。 故・村瀬守保撮影。揚子江をイカダや泳いで脱出しようとした際の追撃された戦死体。 南京にある「第屠殺記念館」で売られているパンフレットの表紙。当然、ただの戦死体を写した写真で虐殺とは何ら関係がない。

写真2-4(下写真)
新河鎮近くの遺棄死体。当然単なる支那軍兵士の戦死体。

とまあ、こういった写真を4つほど例に説明しましょう。
まず、これらは、全て中国軍兵士らの単なる戦死体です。
撮影者も解っており、写真2-1、2-2、2-4の写真撮影者は日本陸軍輜重(現代でいう補給)隊の兵士だった故・村瀬守保氏(埼玉県川越市)であり。
これらの写真は昭和58(1983)年8月17日、「毎日新聞」が『南京大虐殺 これが証拠写真』と、南京事件の犠牲者のごとく報道したが、実際は只の南京戦での戦死体を撮影しただけであったことが、第45連隊、高橋義彦元中尉その他多くの人達の証言と資料で判明しています。
ちなみに、これら死体には全て戦闘服を着ているので一見して兵士と分かる。
大体、「虐殺があった」等と発言した元兵士達は行動を同じくした隊の者に訴えられたりウソを見破られたりしているのです。
写真2-1、2-2、2-4は新河鎮における敵の遺棄死体(戦死体)。
ちなみに写真2-3は単に南京城外・内での戦死者の死体を集めた場所を撮影してるだけ。
はっきり言って、「南京大虐殺」とは何ら関係ない。(もっと、詳しく知りたい人は田中正明著『「南京事件」の総括』(小学館文庫)を読んで下さい。) 

反日映画「バトルオブチャイナ」と「中国之怒吼」
皆さんは、戦前に反日宣伝ヤラセ映画があったのをご存じでしょうか?
アメリカは日露戦争を日本が勝利するととたんに「未来の敵は日本だ!」と考え、日本を将来の仮想敵国として「オレンジ計画」を発動しています。
つまり、日露戦争直後からアメリカは満州に対する野望を持っていたにも関わらず(鉄道王ハリマンによる満州鉄道の共同経営など・・・)、それを砕いた日本を最初から攻撃するつもりだったのです。そして邪魔者、黄色人種国家・日本を何とか孤立させたいが為に謀略宣伝を戦前・戦中に行いました。
アメリカが日本を邪魔者として攻撃をする理由のもう1つは日本が国際連盟総会に置いて黄色人国家の日本が出した「人種差別撤廃案」が当時の白色人種国家が前回一致(特にアメリカ)で否決した。アメリカ・ヨーロッパは白人優位性を国内・外で取っていたので有色人種の日本そのもののが邪魔になりつつあった。当時国際的に強国になりつつあった日本のそのイメージを操作し、孤立させる必要性があった。
特にアメリカ国内では、その1つの手段として日本人に対する差別意識を植え付けるために国策ヤラセ映画を数多く作っていました。
そのうち特に有名なものは昭和19(1944)年製作の「バトルオブチャイナ」(フランク・キャプラ監督)です。
「中国之怒吼」は「バトルオブチャイナ」を、蒋介石率いる国民党がそのフィルムを譲り受け国共内戦に敗れた後、台湾に逃れた後に再編集したモノです(内容追加としてはミズーリ号上での降伏文書調印式などが加えて挿入されています。
内容は、中国が「善」とされ、日本は「悪」と決めつけ一方的な映画ですが、現代のようにメディアが発達していない当時の人々でしたら単純に信じていたと思います。
長崎の原爆平和博物館にも飾られていたヤラセ写真はこの映画「バトル・オブ・チャイナ」の1シーンを使っていました。
ところで下段の写真3-2、3-3以外は全てヤラセ写真、もしくは「南京」とは全然無関係な写真です。
写真3-2の銃剣がワキにある写真は『「一億人の昭和史」(2)二・二六事件と日中戦争』毎日新聞社の中に掲載されている不許可写真の一枚で「胡山付近」、昭和13年5月10日と受領印があり、便衣兵(ゲリラ)の処刑もしくは中国兵の処刑を撮影した写真であると想像できます。
南京事件(昭和12年12月)とは全くもって関係ない。
写真3-3の刺殺シーンの見物人の中には白色夏服を着ています。
ちょっと隠れてますが夏服を着た人が写っているのですから「南京事件」の有ったとされる昭和12年12月から翌年2月上旬までは時期として真冬です。
むちゃくちゃ寒いと言われる南京でシャツ1枚でいるなんてよっぽど、特殊な趣味の方なんでしょうか?(笑)
ついでに、簡単な合成写真と解っている写真も2枚だけ混ぜときましょう。 

写真3-1 写真3-2 写真3-3
出所不明!合成写真。見守る兵士は真冬の服装。ところが埋葬作業者は真夏の服装?これいかに。 昭和13年5月、胡山付近で捕らえられて処刑される便衣兵。 昭和13年夏、南京で撮影された処刑風景。
写真3-4 写真3-5 写真3-6
南京には崖は無い。これはやらせ写真。 中国人による、やらせ写真。 左右の色が違う、合成写真。
写真3-1は「生き埋めの現場」との解説ですが、見守っている日本兵らしき人達の後ろに校舎らしき建物が写っています。
南京の中に学校の校舎らしき建物は「安全区」以外ありません。
安全区は無用の日本兵は入れませんでしたし、わざわざ入って生き埋めを行う訳がありません。
不思議な写真ですね。
結論を言うとこれは完全な合成写真です。
見物人の視線が全く合っておらず、ばらばらです。
しかも被埋葬者が穴と一致していません。
左側の斬れたところに合成が失敗して出来たところがあります。(兵士は半分の体になってます)
この写真ではこれらをトリミングして誤魔化しています。これらは『日寇暴行実録』なる中国の写真宣伝書にて初めて掲載され、決して中立的な写真では無いことが判明しています。
写真3-6は左に立つ日本兵の服装や装備が全く異なっており明らかなやらせ写真です。
写真3-5の日本兵らしき者の足はゾウリらしきモノをはいており、その上スボンをはき一人はゲートルを巻いてます。
刀は士官のみ持ってます。ゲートルは下士官以下ですからつまり、中国人が日本兵のふりをしてヤラセ写真ですね。
写真3-4日本刀を持って死体らしきモノの真ん中に立っている写真ですが、日本兵のうしろは崖となっていますが、南京には崖はありません。
そして顔の陰と切り落としたとされる顔をつかむ手に合成のミスがあります。
そして決定的な事は斬られた首の口元がしっかり締まっている事です。人間は死亡すると筋肉が弛緩(ゆるみ)しあごがだらりと緩むはずなのです。
虐殺が有った。有ったと宣伝している人達はこんないかがわしい写真を「南京事件」の証拠写真として平然と使用されているのです。

暴走族のウンコ座り!?
皆さんは、チョットカッコ付けたい、どうせなら自慢の一つにしたいっていう写真を撮ってみたくなった時ってありませんでしたか?
私も、中坊の時に悪友のお兄さんがバイクの前でグラサン、リーゼント、うんこ座り、女物のスリッパで斜め上をにらんでチーズってチョツトだけ悪ぶった写真を撮りました。
後日、友達に見せてもらい「はずかしー」と思いました。
これと、同じ事が当時の日本軍内であったんです。
田舎から召集令状一つで中国へ。
何とか、カッコ付けようと探した結果が支那(中国)人や、現地の子供達に頼んでヤラセ撮影。だから、その次の写真が無いんです。
しかもカメラは当時家一軒買えるほど高価でした。
現代の私たちには理解できませんが、そういう変な風潮もありました。
だから、所々変な箇所があるでしょ?
子供を斬るつもりで構えてますけど握り方が剣道ではないでしょ?
それに、中国兵が日本兵の軍服を着て、「日本軍はこんなに悪いんだぞー」なんてウソ写真もあります。
しかも当時国民党軍の中にはこう言った宣伝を専門に行う部隊も存在していました。
日本軍の残虐性を宣伝してウソ写真をばらまく部隊もありました。とにかく見て下さい。

写真4-1 写真4-2 写真4-3 写真4-4 写真4-5
支那人、エキストラによるヤラセ写真。 剣道を知っている人なら人目で、おかしいと感じます。 南京戦では海兵は戦ってませんよ。 やらせ写真として有名な写真。ちなみに背景の木が茂っており南京戦当時の真冬ではないです。 日本軍将校ではないし、服装が変だし何で刀で処刑なの?
まず、写真4-1から。
これは中国人が日本兵の軍服を着て撮った写真です。
隠れてますが右側に別の中国人が写ってます。
しかも制服が旧日本軍のモノとは多少違う。
写真4-2は子供を斬るシーンですが日本人ではない!との説が有力です。
なぜなら「手」の握り方が剣道になっていません。
それにこれでは絶対斬れません。
しかも日本兵の服装が変です。
写真4-3、海軍の海兵ですが、「南京」では海兵は戦っていません。
それと、よーく見て下さい首の下に腕がクロスしてありますが実は腕と首の間に体がうっすらとあります。
実は現像後、体部分をスミで消しているのです。
中国では腕を隠した写真を見せて簡単なトリミングを行っています。
そして決定的なのは斬られた首の口がしっかり閉じています。
人間は死亡すると筋肉の弛緩(ゆるむ)が始まります。
ですから斬られたなら必ずあごの筋肉が緩み口がだらんと開くはずです。
写真4-4は鈴木明著「南京大虐殺のまぼろし」文藝春秋刊でも紹介されていますが、単なる現地の苦力(クーリー)に頼んで記念撮影。
右後ろの人はスリッパはいてまして、ヤラセと解っているから笑ってます。後ろのひげの人物は付けひげですね。(笑)写真4-5もヤラセの有名な写真ですね。
(笑)だって、次のシーンの写真は無いでしょ!兵隊の服装が南京(昭和12年)当時のモノとも全然違います。

百人斬りの大ウソ
百人斬りを報道した当時の東京日々新聞(現毎日新聞) この写真をご存じですか?
これは上海−南京間での戦闘において敵、中国兵を2人共に日本刀で100人斬ったという「東京日々新聞」(現毎日新聞)の報道です。
この2人はこの報道が決め手となって「東京裁判」で死刑となりました。
この新聞報道は本当でしょうか?
実は全くの無実なのです。
彼らは白兵戦を刀一本で戦い100人切ったと書かれましたが、彼らは歩兵ではなく、砲兵の指揮官と副官なのです。
ですから、当然白兵戦等に参加はしていません、そして出来るはずもありません。
ましてやその当時向井(右側)少尉は負傷して後方でタンカに乗せられていました。
その向井少尉の職種は今の自衛隊で言うと特科です。
でも、面白い記事を書こうとしてやらせ記事を書いた記者に戦意高揚のため書かれてしまい困っていた上に「東京裁判」(南京法廷)で死刑。ひどいもんです。
しかも、もし仮にこの新聞記事が全部本当だとしても兵隊が戦争で敵兵と戦うのは正当な行為であって決して虐殺行為でも何でもなく当然の行為です。
戦後、彼らの娘さん(向井)がこれが証拠だと書いた「洞富雄」に会って「うちのお父さんはそんなことしていません」とつめよったら「誠にすいません」と謝ったという。
それに、これが事実だったなら中国兵は刀1本の日本兵にバッタバッタやられるほど腰抜けで、弱い、という証拠ですね。
これが、イギリス、アメリカあたりだったら怒るよ!「うちはそんなに弱くない」なんてね。
友人談「でも、当時の中国ってこれが本当に思えるほど弱かったらしいからね」との事。
(笑)HP作者より、『「南京大虐殺」のまぼろし』鈴木明著、文藝春秋に詳しく載っています。(この裁判の模様の写真を見たい人は写真もしくは、ここをクリック!!)

中国人(漢民族)の食人習慣(カニパリズム)
「虐殺派」の人々は中国の文化や習慣について全く知らない、と言っても間違い無い。
例えば日本では「大虐殺」と言うが中国では「大屠殺」と言う、なぜか?
これこそ、日本と中国との文化の違いを端的に物語っている。
処刑一つにしてもその国の文化があるのだ。
例えば世界広しと言えども「腹切り」するのは日本人だけであるし、日本では成るべく痛みが無い処刑方法を取り、身体的に苦痛を避ける手段を取りたがる。
それでは中国人ではどうか?
ここで「通州事件」昭和12(1937)年7月29日の事件について述べてみよう。(通州事件の詳細はこちら)
親日的な方針をとっていた黄東政府が南京のラジオ放送(ウソをつく事で有名だった)の謀略により、突如として日本人を襲い260名もの日本人民間人を虐殺した通州事件を例にしてみよう。
通州にいた通州の日本人居留民に中国保安隊と暴民が襲いかかり、略奪、暴行のあげく、婦人・子供を含む日本人2百余名が虐殺された事件である。
事件は真夜中に起きた。
中国の保安隊はまず日本の特務機関を襲い、応戦した細木中佐と甲斐少佐を銃殺し、喊声をあげて日本人街になだれ込んだ。
日本人住宅を襲い、略奪・暴行をほしいままにして、婦女子を含む260人の日本人を城壁のところに連行し、そこで皆殺しにした。
見るも無惨な殺し方であった。
街の中央にある日本人旅館近水楼を襲った中国兵は、銃声を放って闖入(ちんにゅう)し、数十人の日本人客や女中を惨殺した。
ある者は耳や鼻を削がれ、女性は陰部に丸太を突き刺され(以下の写真を見て欲しい)、乳房を削がれ、ある者は鉄線で数珠つなぎにされて池に投げ込まれた。
中国人の言う「屠城」による「屠殺」そのままであった(「日本人が虐殺された現代史<新人物往来社刊>参照)。
と言うのを頭において下の写真を見て欲しい。
全て中国人の殺人方法である。
支那人の習慣 身体的な苦痛を与えて殺すやり方は支那人の得意技 太ももの肉が一部取られている。これは支那人が食す為に剥ぎ取った証拠
赤ん坊の目をえぐり取り食す。支那人の食文化 これらは何ら南京事件とは関係が無い。
ついでに支那人の 「食人習慣」について述べよう。
「有名な『三国志』の中で、曹操に敗れ、味方にはぐれた玄徳をかくまった若い主人が、新妻を殺して『狼の肉です、召し上がって下さい』と言って歓待し、玄徳は知らずにこれを食べたが、翌朝別れを告げ発つとき妻がいないことに気づき台所へ行くと妻の死体が横たわっていた。『ああ、これほどまでに我を大切にしてくれたか、ありがたい。』という話がある。このくだりは、三国志の中で最高の美談として中国人が愛読し、語り継いでいる。
しかも、昔の中国の城は都市そのものだったから、強敵が攻めてきたときは、軍隊も市民もすべて籠城する。そして、戦争が長引き食糧が無くなると軍隊が市民を食べ始める。
あの、孔子でさえ、人肉の醢(シシビシオ、ただの塩ずけでなく、干して麹を混ぜ上 等の酒に漬けて密封して100日で出来上がり)が好物だったことはあまりにも有名。
とても、日本人の想像の及ぶ所ではない。(「体験的慰安婦の生態」全貌社 鈴木博雄著より)下段2枚の写真はあるHPでは「おつまみとして食べた」なんて解説している。
この支那人(中国人)による食人習慣は文化大革命時の内容を書いた本にも当時の中国(支那)人の「食人」をどうやったか度々良く出てくる。
いかにも、日本兵がやったように錯覚しそうな表現を用いているが以下は全て中国人によるものである。
ついでにこういったニセモノ写真を用いようとする「虐殺派」の中心人物達の本、「南京大虐殺の現場へ」という「洞富雄、藤原彰、本多勝一」著がありそれら写真について述べている。
本著221ページ掲載の呉氏が拾ったという写真7枚について述べると、「呉さんが断定した7点の写真は即「南京事件の証拠」とすることには大きな危険があると言わざるを得ない」と言ったのち、「南京事件の写真であるかどうか「不明」ということが南京事件の写真でないということにはならない、だから南京事件の写真だと言ってもさしつかえないとする論法もなくはないらしい」との事。
つまり、「虐殺派」でさえも写真を証拠として用いることは余りにもずさんだが使ってもいいじゃない。
と言いたいらしい。(笑)
以前、インターネット上で否定論を展開していたNと言う人物が「洞富雄等の本を読む義務があなたにはある」と言ったので読んでみたが、よく「虐殺派」はこれらで「南京事件はあった」と言い切れるもんだ。(笑)
いや、感心するね。
たしかに、「南京大虐 殺」について全く知識のない者にとっては信じやすいと思うが、われわれ「研究者」にとって「バカにするな」と言いたくなるような資料ばかりである。
先日「南京の真実」講談社が出版されたが、その本の中にも「20万の非戦闘員」(63ページ)と南京の人口を書いているし、虐殺数は「およそ5〜6万とみています」(317ページ)と書いている。
どこかのHPでは「南京では34万人が虐殺されている」とか主張しながら、一方では、「南京の真実」がその証明だ!なんて主張を行っている。
はっきり言って矛盾している。
「虐殺派」はとにかく矛盾していようが何だろうがとにかく「虐殺」はあったと証明出来そうなものは何でも宣伝し、検証は一切行わない。
「無かった証拠」は無視し、黙殺する。
「ビデオ(平成7年に発見された当時の南京城のドキュメント)」が良い証拠。
以前、田中正明氏が一橋大学に招待されたとき藤原彰は討論会から逃げた。
笠原十九司は藤岡信勝教授との討論日にあえて討論を行う事を避けた。
なぜか?実は以前田中先生と奴らの大ボスである洞富雄が直接討論した時に洞(「ほら」と読 む)がこてんぱんにやられたのを見ていたのでこれら「虐殺派」は絶対に「否定派」とは直接討論はやらない。
しかも、全然論理的に証明はしない(そりや、そうだ。無かったモノをあったと言っている訳だから)。
ウソつき証言者(ウソだらけの証拠と証言者たち)

マギー牧師の“南京虐殺”フィルム
大半は病院の風景。 東京裁判、証拠として提出されず。
国民新聞Tel・03-3311-1683、マギー牧師の「南京虐殺」フィルムは大半は病院の風景!東京裁判で証拠として提出されず、53年前「LIFE」誌に掲載されていた! 今月4日、「幻のフィルム、米で発見」という見出しで、大々的に報道されたジョン・マギー牧師の“南京虐殺”を撮った16ミリフィルムは、実は1938年5月16日付けの『LIFE』誌ですでに公表されていたことが、7月9日、東京・丸の内の日本倶楽部で行った本紙座談会(2面で詳報)の中で明らかになった。
また『LIFE』に掲載されていた10枚の写真の大半は中国人が病院で治療を受けている写真で“大虐殺”を裏付けるものは何もなく、さらに撮影したマギー牧師は、東京裁判で証言台に立っているが、同フィルムは証拠としてすら提出されておらず、今回の“幻のフィルム”騒ぎはマスコミの一方的な早とちりの疑いが深まっている。
マギー牧師(米聖公会)は、当時、南京国際赤十字委員会委員長として、日本軍の南京入城後も同市内にとどまった数少ない外国人とされている。
今回発見されたのは、マギー牧師の同僚ジョージ・フィッチ牧師(長老派教会)が事件直後にキリスト教青年会(YMCA)の宣教用に編集した映画で、30分間のフィルムのうち後半の約10分がマギー牧師の撮ったフィルムと確認された、という。
このフィルムに対して藤原彰・元一橋大学教授は「虐殺の事実を裏付けるのに、これだけでも十分」(ニューヨーク3日共同)と手放しの評価を与えている。
ところが、同フィルムの1部は、「幻」どころか、1938年5月16日号の米誌『LIFE』ですでに紹介されていた。しかもその大半は病院で治療を受ける中国人の姿で、戦争の一場面を示す当時どこにでもある写真であった。
また、マギー牧師は、極東軍事裁判(東京裁判)の際、連合国側の証人として出廷。2日間にわたって日本軍の中国戦(特に南京事件)について陳述したが、同牧師が直接体験した殺人場面は逃亡する中国人を射殺する1件だけで、その他の証言は、すべて人から伝え聞いた話であった。
さらに、今回のフィルムの確認の決め手となったと報道されたドイツの外交文書「ローゼン報告」は、日本兵が南京に入城した1週間も前に上海に脱出したローゼン政務書記官(ドイツ大使館南京駐在)がまとめたもの。そのため同書記官の「3万人の死体を見た」という証言は根も葉もないことで、こうした虚構がひとり歩きしている。
(以上は右、国民新聞の内容。) 

南京事件またニセ写真
平成7年(1995)3月5日、産経新聞掲載。平成6年5月20日付「河北新報」夕刊に掲載された「南京事件」のカット写真の兵士の軍服が当時と違う「日本兵でない?」指摘も 【記事内容】平成7(1995)年3月5日、産経新聞より。
東北地方のプロック紙「河北新報」の昨年5月20日付夕刊に掲載された中国政府提供の南京事件(南京大虐殺)の写真について、仙台市在住の旧軍人から「日本兵の軍服が当時(昭和12年12月)と異なる。南京事件とは無関係」という指摘が11日までに、産経新聞に寄せられた。専門家によれば、「日本兵ではない」との分析もあり、誤用は間違いなさそうだ。
問題の写真は、永野茂元法相が「南京大虐殺はでっちあげ」という趣旨の発言で法相を辞任した事件を題材にした特集記事「『戦争責任』問題を考える」のカット写真として掲載された。
折り重なる死体を兵士が悠然と見下している構図で、写真説明には「中国政府が提供した『南京大虐殺の際、日本軍に殺害された中国民衆』とする写真=中国通信」とある。
この写真について「南京事件とは無関係」と指摘したのは仙台市青葉区新坂町の無職、庄司鋭男さん(73)。
昭和16(1941)年に陸軍士官学校を卒業、主に南方を転戦し、大尉で終戦を迎えた。
庄司さんは写真の兵士の軍服を見て、「襟(えり)の形と階級章の位置がおかしい。これは改正後の軍服だ」と直感したという。
庄司さんによると、陸軍は13(1938)年6月1日付の改正令で(1)「詰襟」を廃止し、開襟にもなる「立折襟」に改める (2)肩の階級章を襟に移す―などの軍装改正を実施した=イラスト(小さくてゴメン)。 写真はやや不鮮明だが、兵士は「立折襟」を開襟にしているように見え、襟には階級章らしいものも見える。
庄司さんは「旧軍人が見れば、これ(写真の兵士の軍服)は改正後の軍服だとすぐに分かる。
南京事件は昭和12(1937)年12月にあったとされている。
13年以降の軍服を日本兵が南京事件当時に着ているはずがない」と指摘する。
防衛庁防衛研究室では、「新しい軍服が中国の前線までいきわたったのは昭和13年の後半以降だろう」(原剛・図書館史料専門官)という。
旧日本軍の軍装などに詳しい拓殖大学海外事情研究所の伊達宗義教授は「襟がベルトにかぶさっていることから、折襟の軍服を着ていることは明らか。
庄司さんの言うとおり、昭和12年の時点で折襟の軍服を着ているのは不自然」と分析、さらに「写真の兵士が日本兵とも断定できない」と指摘する。
その理由として、(1)一般に、旧日本軍で高価な長靴をはくのは将校か憲兵で、歩兵はゲートル(巻き脚絆)をつけている。
将校は軍刀もさげている。
写真の兵士は長靴をはいているが、軍刀が見当たらない(2)写真は左肩から右腰にかけてベルトをしているが、普通、日本兵はベルトをしない(3)日本軍も、左腰につるす軍刀、銃剣をつり上げるため、まれにベルトをすることはあったが、その場合、写真と逆向きになる―などを挙げる。
伊達教授は「中国兵は拳銃をつるすため、写真と同じ向きにベルトをすることが多かったと記憶している。鉄カブトが、日本のものに比べ湾曲しており、やや小ぶりのようだ」とも付け加えた。
渡辺英亮・河北新報社広報局長の話「写真は東京新聞から配信され、間違いないと思って掲載したが、指摘があれば、慎重に調べてみたい」

“ニセ物”の独り歩き問題に
南京事件をめぐっては、これまでも信憑性の疑わしい写真の独り歩きや写真説明の改ざんがしばしば問題になっている。
例えば、日本兵が乳母車に荷物をのせて南京城内を行く写真が左翼系の文献には「略奪物資を運ぶ日本兵」という趣旨の説明をつけて使われているが、実際に写真をとった元新聞社カメラマンの指摘で、単に疲れた日本兵が荷物を乳母車で運んでいる写真と分かった。
昭和59(1984)年、人間の生首が並んだ写真が「南京大虐殺」の写真として全国紙に掲載されたが、中国文献(日本侵華図片史料集)では、場所が南京とは異なる会寧(中国東北部)であった。
同じころ、死体が折り重なった写真が「南京大虐殺」の写真として週刊誌に載ったが、実は重慶の空襲下の写真だった。
今回、庄司さんが指摘した写真も「侵華日軍南京大屠殺暴行照片集」「日本侵略軍在中国的暴行」などの中国文献だけでなく、日本の左翼系の文献にも転載され、独り歩きしている。

「南京事件の真相」より「南京事件資料」について
南京事件の研究書を見ていて不思議にたえないモノが1つある。
資料批判が全くなされていないのである。
その資料批判をうんぬんする前に、昭和7(1932)年に初版が出た内藤智秀『史学概論』(昭和36(1961)年第4版、福村書店)を紹介する。資料の等級化に言及する必要があろう。
坪井九馬三博士(安政5年〜昭和11年)と言えば我が国における歴史研究方法の基礎を築いた歴史学者であった。
坪井九馬三が創唱し広く人口に膾炙(かいしゃ)されている分類法は、価値判断の上からして、資料を6等級に分類する。
内藤智秀『史学概論』の紹介するところによれば、一等資料(史料)とは、ある史実が生じた時に、その生じた場所で、責任者の作成した記録類、たとえば日記、書簡、覚え書き、記録映画等を言う。
「南京事件」関係では、中島師団長の「陣中日記」や、南京安全区国際委員会の抗議文書その他が、この一等資料(史料)に当たる。
これに対し、南京にいながらも「南京事件」とは少し異なる時期に書かれた記録や、「南京事件」が生じた時期に南京から少し離れた場所で記録された記録、あるいは後日当事者が暇を得て記した文書類などは二等資料(史料)と呼ばれる。
要するに記録された時期は同じでもチョットでも記録時の場所が違ったり、場所は同じでも時間がチョットでも違ったりすると、責任者の記録も一等資料(史料)とはならない。
南京大学スマイス(スミス)教授の行っ た調査記録「南京の戦争被害 1937年12月−1938年3月」や各種の戦闘詳報などはこの二等資料(史料)に相当する。
そしてこれらの一等資料ないしは二等資料を素材として作成されたものが三等資料(史料)である。
ティンパーリー編『シナにおける日本軍の恐怖』や、阿羅健一『聞き書き南京事件』(図書出版)、China Year Book 1938やChina Journal等の年鑑もしくは雑誌類などが、これに相当する。
なお南京の外国人特派員の書き送った新聞記事は、その内容に応じて、一級資料ともなれば、三等資料ともなる。以上の一等二等三等資料を総称して「根本資料」と言う。
その他「作者も製作年代も、また製作場所も判明しない場合」(『史学概論』112ページ)は四等資料(史料)と位置づけられる。
世に南京大虐殺の写真と称される殆どの写真が四等資料なのである。
「撰者または著者がいかなる資料を手にしたか、いかなる方針で調査、又は審査したか不明なるもの」(同前)は五等資料(史料)となる。
戦後南京大虐殺30万人説を創唱した中華民国側の東京裁判提出資料は五等資料なのである。
従ってその真偽に関する資料批判が不可欠となってくる。
なお、以上の四等五等資料を「参考資料」と言う。それ以外の資料を六等資料と言う。
一等資料だから三等資料よりも優位にあるとは必ずしも言えない。
しかしある出来事を論ずる時は必ず一等資料を必要とする。
それは最も身近な私たち一人一人の自分史を考えてみればすぐ分かることであろう。
たとえば今から数年前に参院選に学歴を偽って当選した新間正次元議員(民社党)は格好の実例を提供する。
M大学中退と公表された氏の履歴(パーソナルヒストリィ)は、氏の提出した私的な記録によって裏付けられるのではない。
その入学という史実が生じた時に、その生じた場所(M大学)で作成された公的な入学記録なのである。
氏の学歴が詐称であるかを決定するものは、一等資料の、氏が確かに入学したという当時の公的記録にほかならない。
同じように、南京事件に関して言えば、日本軍占領下の南京で確かに虐殺事件があったと言うためには、南京虐殺が起きたと言われる時期に、確かに起きたと言える当時の公的な記録 official documentsを要する。
一等資料のなかに、それが有るのか無いのか。戦闘詳報は虐殺詳報ではないのである。
仮に戦闘詳報から何百人かの虐殺を帰納的に推定するにしても、その推定を裏付ける一等資料があるのであろうか?
さて、資料には「多数の偽作物(ヤラセ、ニセモノ)」がある。歴史の研究に際しては資料の真偽の批判が不可欠となってくる。
資料は、「その同一事件、同一時代、同一人物としてはあまりに突飛で信用できないような点がないかどうか、時間的にも、地域的にも、不合理の点がないか?」(同116ページ)を見極めなくてはならない。
「時代的に見ても、場合からしても、又、その事柄においても矛盾のない」(同書)ことを確定しなくてはならない。
南京事件に即して言えば、南京事件が生じたとされる時期に南京で記された記録と比較して、当該資料が矛盾がしていないかどうかを見ると、それが「ニセモノの場合は、傍系的内容において暴露される」(同書)ことになるのである。

秦郁彦氏への忠告「ザンゲ屋・曽根一夫」への信仰
板倉由明
一見本筋の論争ではないように見えるが、視点を変えると重要な問題になる場合がある。
「南京事件」でいえば、中国の虐殺宣伝に有力な武器を与えているのが、一連の曽根一夫著作であり、秦郁彦氏の強力な推薦である。 

渡部−秦論争のあらまし
『新潮45』10月号に、秦氏が書いた「借用の人・渡部昇一の厚顔」のそもそもの経緯は、秦氏が渡辺氏の『ドイツ参謀本部』を「大幅無断借用」の本と断定した(初出『正論』平成元年2月号、再出『昭和史の謎を追う』「論争史から見た南京事件」文芸春秋、平成5年)ことに端を発している。
これに遅まきながら気がついた渡部氏が『正論』本年3月号に「専門家の仕事を見かねる素人の立場について−秦郁彦氏に与う」を書き、それに対する秦氏の再反論である。筆者には渡部対秦論争に介入する資格はないが、この論争で脇役を務める「曽根一夫論」(他に中村粲氏との「乃木虐殺論争」)については、秦氏から筆者が名指しで批判されており、中国では「大虐殺」の重要資料となっていることもあるので、無視できなくなる。
以下【 】内は秦氏の文章又は要約である。

曽根一夫を信ずるもの
曽根一夫氏は、昭和59年に『私記・南京虐殺』、続いて『続私記・南京虐殺』、『南京虐殺と戦争』』と、連続3部の日本軍残虐告発本を出版している。
この曽根氏を最初に絶賛したのが秦氏で、『諸君!』84年10月号「松井大将は泣いたか」の中で、曽根氏を静岡連隊の分隊長・軍曹と紹介し【略奪、強姦、殺人を含む自身の残虐行為を率直すぎるほどの姿勢で語ると共に、そこに至る兵士達の心情を冷静に記録している点で、類書にない特色を持つ】と高く評価している。
この所属連隊について秦氏は、「新潮45論文」では【豊橋歩兵18連隊】と書いているが、この豊橋連隊は、筆者が曽根氏の出身地(御前崎)から「大井川以西は豊橋部隊」と調べての話である。結論としては、秦氏はこの所属連隊の誤りだけを認めて著書を修正し、肝心の曽根氏の体験談?は【削除する必要は認めない】と曽根支持の主張を繰り返している。
ここで「繰り返して」と書くのは、初出、再出のいずれも、出版直後に『正論』編集部、文芸春秋に抗議の手紙を出し、秦氏本人とも話した(特に平成5年末には強く)が、常に修正を拒否されているからである。
曽根著書については、筆者が『諸君!』1988年12月号に「『南京虐殺』のザンゲ屋、『曽根一夫』の正体」と題して、徹底的に論破してある。
その結果、藤原彰氏は岩波ブックレット『南京大虐殺』の新版から削除する旨をT・M氏を介して返答している。
また平成5年の一橋出版『世界史B』に、『私記・南京虐殺』からの「軍命令による略奪」部分が引用されたことに対し、出版社、著者に抗議すると共に、『諸君!』94年2月号に「世界史教科書に出現した曽根一夫氏の亡霊」という小文を掲載した。
その効果があったのか該当部分は削除されたが、これは「大虐殺派」学者でも、曽根著作を信じて頑張る者はいなくなった、ということである。
日本で曽根著作を今でも支持する“学者”は千葉大学教授・秦郁彦氏のみである。
しかし中国では、曽根著作はまだ東史郎日記(虚偽記載による名誉毀損が東京地裁で認められ、高裁での控訴審が進行中)と並んで、「南京大屠殺」の有力な資料として使われている(『悲憤・血涙』1988年・吉林人民出版社など)。
中国が「南京大屠殺」の資料として、日本軍兵士の著作を使う際に、日本の学者の保証は極めて有効なことであろう。

秦氏の誤りとごまかし
少ない紙数なので大所だけ指摘しよう。
(1)秦氏が豊橋連隊の戦友会に問い合わせて書いたというのは前述のようにウソである。
藤原彰氏は秦氏の著作からそのまま引用したから「静岡連隊」と書いている。
(2)さらに、所属連隊さえ修正すればそれで済む問題ではない。
曽根氏は、歩兵の分隊長・軍曹だと書いて、その身分だから出来たことを記しているが、本当は、野砲兵第3連隊の初年兵で、砲車を曳く馬の馭者(ぎょしゃ)であった。
部下(初年兵に部下はいない)を指揮して集落を包囲し、放火して逃げてくる住民を機関銃(砲兵は持っていない)で射殺するとか、監視司令になって部下の虐殺を見る、あるいは伍長を怒鳴りつける、などは初年兵には出来ないことである。
(3)秦氏は、曽根氏の部下が徴発先で若い中国女性を輪姦した後、【若い兵から「分サン(分隊長のこと)の男はよう立たんのか」と軽蔑され、にわかに反発心がおきて最初の強姦をやってのけた、というたぐいの迫力ある体験談がいくつも並んでいる】とやたらに感心して何度も引用している。秦氏の目は節穴か。こういう時、分隊長には先ず「分隊長殿お初をどうぞ」と言うもので、そうしなかったら、ハリ倒してやるくらいの迫力がなければ部下にナメられてしまう。こんなウソが見抜けないのでは困る。
(4)ところが、秦氏は次のように、歴史家として正気を疑わせるような主張をする。【曽根はこうした諸悪行の正確な日時や場所を記している訳では無いのに、板倉が所属部隊の戦闘日記などから初年兵は多忙でそんなことをする暇はなかったはずだ式に論じているからだ。】馭者は行軍中馬にまたがって手綱を握っているのが仕事である。初年兵は馬の手入れから吉兵の世話まで一切せねばならないから、筆者は連日8時間以上の強行軍の中で、昼間(戦場の夜は危険)女を犯しに出かける余裕など無いはず、と書いたのである。食糧が間に合っていたことは、同時に行軍していた師団衛生隊主計の日記で明らかにしてある。行動については、第1大隊戦闘詳報と第4中隊陣中日誌などを中心に推定した。
(5)【考えてみると、真偽のほどはともかく、本人が「悪いことをしました」と告白しているのに、当時まだ生まれていず、中国の土を踏んだこともない「南京事件研究家」が事件から50年後に「悪いことはしていなかったハズだ」とたたく風景ほど珍妙なものは他にあるまい】秦氏は吉田清治の従軍慰安婦強制連行をウソだと断定したが、考えてみると、本人がやりました、と告白しているのに、慰安婦を買ったこともない現代史研究家が「やってない」とたたく風景も珍妙なものではないか。CDにおける秦氏の論理は、「本人の告白」を「資料」より重視する、実証史学の否定である。このような基本姿勢の“学者”には、歴史家としての資格がない、と言われても仕方がないのではないか?なお、筆者は秦氏と同年で南京陥落の時5才であった。
(6)秦氏は、曽根著を【戦闘経過の部分には一切使わず、本人が追撃戦の途中で姑娘をレイプしたシーンと、その種の非行に至った戦場心理の部分だけを、他の参戦者からも傍証をとって使った】と主張している。
待てよ、秦氏は曽根氏を静岡連隊と記している。では本人(曽根氏)のレイプを証言したのは誰か?まさか静岡連隊の「戦友」が野砲3連隊まで曽根氏のレイプ見物に来る訳がない。秦氏は4年後まで曽根氏が野砲3連隊とは全く知らなかったのだから、野砲3連隊関係の戦友を調査できるはずがなく、結局傍証などないのである。このような見え透いた嘘をついては恥になるばかりである。

秦氏への3回目の忠告
秦氏は、結局曽根氏の「告白」を真実として、【削除する必要は認めない】と居直っている。
以下は公刊物発表としては3回目の忠告(同文)で、何度も言うつもりである。
「この考え方は、数学で言えば、式はデダラメ、計算も間違っているが、答えだけは正しい、と言うのに等しい。
しかし『学問』なら、正しい式、正しい計算で出した正しい答えを採用すべきで、仮に、たまたま答えが合致したとしても、このようなウソにウソを重ねた体験談を学説に採用すべきではない」
曽根支持と擁護の強弁は、学者としての秦氏の生涯に、汚点として残るであろう。
この他にも中央新書『南京事件』には、「近代戦史に珍しい慰安婦随伴の日本軍」とか、「日本軍は悪名高い『三光作戦』・・・・」とか「松井大将は泣いた」など訂正していただきたい記述が多い。(月曜評論、平成9年10月5日より)

「東史郎の日記」と「長崎原爆資料館」のニセモノ
田中正明(念法時報より)
サンケイ新聞 平成8年4月26日夕刊より
産経新聞夕刊・(?年)5月30日掲載。長崎原爆資料館に展示していた・南京事件の写真、やはり「やらせ」!弾帯、背のう、軍服、かぶと…兵士の服装に矛盾、伊達宗義拓大客員教授指摘。 「客観的証拠無い」、東京地裁判決、原告の元兵士勝訴。南京虐殺、旧日本軍が中国人捕虜や市民を虐殺したとされる南京事件に関する「南京事件京都師団関係資料集」など三冊の本で「虐殺者」の一人のように書かれ、名誉を傷つけられたとして、元従軍兵士、橋本光治氏(80)が、出版元の青木書店と橋本氏の元部下で著者の東史郎氏(83)とジャーナリストの下里正樹氏(59)の二人を相手取り、200万円の損害賠償と謝罪広告掲載を求めた訴訟の判決が26日午前、東京地裁で言い渡された。
江見弘武裁判長は「残虐行為を裏付ける客観的証拠はなく、描写を真実と信じる理由もない」などと述べ、三冊のうち実名、階級、年齢などが具体的に記されている「資料集」一冊について名誉毀損を認め、東、下里氏らに50万円の支払いを命じた。
問題の書籍は「資料集」のほか、東氏の「わが南京プラトーン」と東氏の日記などをもとに書かれた下里氏の「隠された連隊史」。「西本」という仮名や「橋本」の実名で、「中国人を袋の中に入れ、ガソリンをかけて火を付け、手榴弾を袋のひもに結びつけて沼の中に放り込んだ」などと書かれている。
江見裁判長は「やけどや手榴弾の爆発によるけがを負わずにどう実行したのかという点で、合理的説明がない限り描写は不自然」とした上で、「東氏がこうした点で具体的な供述ができず、当時の同氏の日記にも記載がない。
残虐行為を裏付ける客観的証拠もなく、真実とは認めるに足りない」と結論付けた。
南京事件に関する論争については、江見裁判長は判断を避けた。(ありもしない虐殺を立証できるはずなく、裁判では妥当な判決が下された。産経新聞H8.4.26夕刊)

大虐殺の写真などどこにもない
いわゆる「南京大虐殺」なるものは、デッチあげであり、作り話であるという証拠がこのところ相次いで2つ出てきた。
1つは長崎原爆資料館が展示した「虐殺直前、日本軍に連行された中国の人々)の写真は結局、戦争中の反日宣伝映画のひとコマだったことが確認されたついに長崎市までがそれを認めたことだ。
問題の映像を『日本を守る長崎県民会議』が追跡調査したところ戦時中の、昭和19年(1944年)、米国でも上映されたことが判った。題名は「ザ・バトル・オブ・チャイナ」(フランク・キャプラ監督)である。
この監督は第二次世界大戦中に応召して陸軍映画班に所属し、国策に沿ったドキュメンタリーや宣伝映画を手がけている。
この『日中戦争』もその一つである。第二次世界大戦中、蒋介石の国民政府とそれを支援するアメリカとが共同して、反日宣伝のため「やらせ」を交えてのフィクション映画を作った。
このフィルムがそれなのである。実は、この映画は昭和58年に上映された記録映画「東京裁判」(小林正樹監督)の中で、南京大虐殺の場面を放映し画面の片隅に「中国の怒吼より」と字幕を入れたが、この映画も、前記のアメリカ製の「やらせ」映画であることがわ かった。
私は当時、小林監督に面接して「中国の怒吼」フィルムの入手の経緯について追求したことがある。
小林氏は文京区小石川の林泉寺住職江田和雄氏とドキュメンタリー作家井上勝太郎氏が台湾からもたらしたフィルムだと言う。
私はさらに江田氏に面接して尋ねた。
江田氏はこのフィルムを入手するため、台湾に9回も足を運んだと言う。つまり台湾の中華民国政府は対日感情をおもんばかり、この出来の悪いやらせフィルムを容易に手渡そうとしなかった。
ついには著名人の紹介状を持って何応欽将軍にも会ったが、中国側にはフィルムや写真はおろか大虐殺を証明するような資料は何もないことが判ったという。
それもそのハズである。昭和12年12月13日、南京陥落と同時に入城した日本の新聞雑誌記者・カメラマン約150名(外人記者5名を含む)の誰一人として大虐殺の場面はもとより死体の山も血の河も撮ったものはいないのである。
南京虐殺記念館に飾られている写真はそのほとんどがヤラセであり、戦死体であり、ちがう戦場の写真などの寄せ集めなのである。
南京城内外の戦場を自由に視察することを許されていたマギー牧師のフィルムの大部分は、戦傷者が治療を受けている場面で、大虐殺を思わせるものは何一つ無いことを見てもわかろう。
話を長崎の原爆資料館に戻す。一体、原爆と南京事件や「パターン死の行進」がどういう関係があると言うのか?
平和団体と称する原水禁や社共両党の市議が「加害者・日本」の写真も展示すべしと強く主張した。
これに対し自民党議員団や良識ある市民の反対があり、二転三転した。結局、長崎市は中国共産党の圧力に屈して、中国総領事館の言いなりに従って、前述の写真を掲載したと言うのだ。
「今度の出来事で同市と同館が犯した罪は決して軽くない」と産経抄は次のごとく言う。
《日本の近現代史を暗黒一色にぬりつぶす侵略史観に汚染されて歴代首相も反省につぐ反省と、謝罪につぐ謝罪を繰り返した。歴史認識を改めよと強要されれば、へへーっとはいつくばって恥じることがない。何と情けない民族に成り下がってしまったものだろう。◆「原爆」と関係もない「南京」の資料を要求されれば、これもまたヘナヘナと屈して外圧のいいなりになる。長いものには巻かれろの事なかれ主義で、だれも責任をとろうともしない。だれもが日本人としての誇りを持とうとしない時代になったらしい》(4・24)
「武士道」も「大和魂」も「恥の文化」もこの50年の間に跡形もなく消えてしまったのである。
日本人の誇りや名誉は一体どこへ行ってしまったのか?
こんなふぬけな民族は世界中から蔑視されるのは当然である。全く情けない国家に成り下がったものである。

『東日記』は虐殺派の作り話
南京事件に関する今一つのニュースは、さる4月26日、東京地裁において江見弘武裁判長は、南京大虐殺を記述した3冊の本の中にある、中国人を残虐な方法で殺害したという「虐殺遊び」は全くのウソの記述であるとして、「虐殺者」の一人のように書かれた元従軍兵士の名誉毀損は成立する、著者と出版社に損害賠償金50万円を支払え、と命ずる判決を下したことである。
被告の執筆者東史郎は、京都第16師団歩兵第20連隊(福知山連隊)の原告橋本光治小隊長の部下の上等兵である。
東史郎は帰還してから3〜4年後、回想記を書きこれを『東日記』と称してあたかも戦場でのごとくみせかけ『わが南京プラトーン』と題する本を書いた。
その内容たるやあることないこと日本軍隊の残虐無法ぶりを書き殴った本で、これが大虐殺派の反日学者や評論家・一部マスコミにもてはやされた。
被告、下里正樹は元共産党機関紙「赤旗」の編集員で前記『東日記』等を土台にして『隠された連隊史』および『南京事件京都師団関係資料集』と題する本を執筆編集した。
被告青木書店は左翼の出版物を専門とする出版社で、前記の3冊の本を出版した。
原告の橋本光治伍長はこれらの3被告に対して名誉毀損の賠償金200万円と謝罪広告を求める裁判を、高池勝彦弁護人を通して東京地裁に提訴した。
平成5(1993)年4月から20回の口頭弁論を経て8年4月26日、前記の江見裁判長は「記述には客観的証拠がない」として原告側の主張を一部認め、損害賠償金50万円の支払いを命じたのである。
3冊とも、内容はほとんど同じであるが、『東日記』を土台にして被告下里が書いた「橋 本の残酷な虐殺遊び」というのは次の通りである。 

残酷な「虐殺遊び」
東史郎上等兵の陣中手記には、この時に目撃した一事件を次のように書いている。
法院の前にぐしゃりつぶれた自家用車が横倒れていた。
道路の向こう側に沼があった。
何処からか一人の支那人が引っ張られてきた。戦友達は、子犬を捕まえた子供のように彼をなぶっていたが橋本は残酷な一つの提案を出した。
つまり袋の中へ入れ、自動車のガソリンをかけ、火を付けようと言うのだ。
泣き叫ぶ支那人は郵便袋の中へ入れられ、袋の口はしっかり締められた。
彼は、袋の中で暴れ、泣き、怒鳴った。
袋はフットボールのように蹴られ、野菜のように小便をかけられた。
ぐしゃりとつぶれた自動車の中から、ガソリンを出した橋本は袋にぶっかけ、袋に長い紐をつけて引きずり廻せるようにした。
心あるものは眉をひそめて、この残酷な処置を見守っている。
心なき者は面白がって声援する。
橋本は火を付けた。
ガソリンは一度に燃え上がった。と思うと、袋の中で言い知れぬ恐怖のわめきがあがって、こん身の力で袋が飛び上がった。
袋は自ら飛び上がり、自ら転げた。
戦友のある者達は、この残虐な火遊びに打ち興じて面白がった。
袋は地獄の悲鳴をあげ火玉のように転げ回った。
手榴弾を2発、袋の紐を持っていた橋本は紐に結びつけ、−オイそんなに熱ければ冷たくしてやろうか−と言うと、手榴弾を2発袋の紐に結びつけて沼の中に放り込んだ。
火が消え袋が沈み、波紋のうねりが静まろうとしている時、手榴弾が水中で炸裂した。水がごぼっと盛り上がって静まり、遊びが終わった。東上等兵は、このあと「次の時にはこのような事は少しの記憶も残さず、鼻歌を歌って歩いている一隊であった」と自分たちのことを書いている。(『隠された連隊史』100〜101ページより)

判決文のあらまし
さすが判決文は犀利(さいり)な観察で、このデタラメ記述の虚妄をあますことなく突いている。
その概要を列記すると次の通りである。
(1)『東日記』は陣中日記ではなく、昭和15年、16年頃に創作した作文で、戦場で記載された第一次的資料ではない。
(2)上官の森英生元第3中隊長はじめ多くの戦友からもこの『東日記』は誤りが多い旨を指摘されている。
(3)厳重に管理されている郵便袋が道ばたに落ちていたとされること。
(4)郵便袋に大人を詰め込むことが出来るのか?
(5)ポンプ、バケツ等を携帯していないのに、どうやって自動車からガソリンを抜いて郵便袋にかけたのか?
(6)瞬時に燃えるガソリンが長時間燃えていたとされること。
(7)袋の中にいる人間は飛び上がることは出来ないはずである。
(8)長時間燃焼して袋が焼けたら、中の人間は袋から出られるはず。
(9)耐熱服なしに燃える袋をかかえて沼に投げ込む事が出来るか?
(10)燃焼中の郵便袋に手榴弾を結びつけるという危険極まりない行為を行ったとされること。
(11)手榴弾は4、5秒程度で破裂するのに、これを袋の紐に結びつけ、燃える袋をかかえて沼に投げ込んだなど、客観的に不自然である。
さらに裁判長は「東被告はこうした諸点に関して具体的な説明も出来ず客観的な証拠もなく、真実とは認めがたい」と述べている。
まことに判決書が指摘している通りである。
このような大デタラメの、日本軍の虐殺行為をならべたてた『東日記』なるものを「虐殺派」の大御所と言われる洞富雄元早稲田大学教授はじめ反日評論家センセイ達は信憑性ある貴重な文献であると高く評価した。
『東日記』の一部が中学の歴史教科書にまで引用されたことすらある。
反日マスコミは彼を講師として講演させ、テレビ局もしばしば彼を出演させるなど東史郎は一躍“時の人”としてもてはやされた。
そのバケのカワが今度の裁判ではがされたのである。
この2つの事実、つまり長崎の原爆資料館の南京の虐殺写真が完全に「ヤラセ」のニセ写真であったことと、続いてこの度の裁判で東史郎や下里正樹が書き殴った南京虐殺事件がウソの記述であることが暴露されたことこの2つが重なったことの意義は大きい。

大虐殺派のウソ写真と証言G
http://www.history.gr.jp/nanking/lie.html

2つの突破口をひろげよう
もともと「南京大虐殺事件」は東京裁判から始まった“事件”である。
南京陥落後、松井大将は上海で2回も中国・日本を含む外人記者団と会見しているが、誰一人、この虐殺事件について発言する者も質問もなかったという。
それが東京裁判において、突如この“事件”が大々的に取り上げられたのである。
約3ヶ月間にわたって、30数万人の中国人の女・子供や捕虜が虐殺されたという残酷物語を聞かされ、日本国民は愕然とし、ひたすら身をちぢめ頭を垂れてこの日本軍の蛮行を恥じるほかなかった。
裁判中はこれに反論したり抗議することはもちろん許されなかった。
マッカーサーの厳重なる言論統制によって占領期間中の7年間は東京裁判に対する批判や抗議は絶対に禁止されていた。
その間、占領政策のマインド・コントロールは国民の間に浸透していった。
そのため、東京裁判における検察側の主張とその判決文を絶対に正しいとする、いわゆる東京裁判史観と称する歴史観が今日の日本をダメにしているのである。
ところが、南京大虐殺などというものはもともとなかったのだ。あれはアメリカが、広島・長崎に原爆を投下し、東京をはじめ日本全国44都市を爆撃して非戦闘員100万人以上も殺傷させた、その相殺のためのデッチあげである。
また、東京裁判は「平和に対する罪」「人道に対する罪」という新しい罪名を作って裁いたが、日本にはドイツのアウシュビッツの大虐殺に匹敵するような殺人工場も非人道的行為もないというので、デッチあげたのが「南京大虐殺」であったのだ。
そのことが判れば、謝罪につぐ謝罪の自虐的歴史観も一掃されるであろうし、民族的気概も日本人としての誇りも名誉も失せてしまった現在この亡国的風潮も一変するであろう。
その突破口が、前述の長崎原爆資料館の中国政府に押しつけられた南京大虐殺の写真が「ヤラセ」の映画フィルムの一コマで、これ以外に大虐殺を証明する写真は何もないということ。
さらに「虐殺派」にとって貴重な資料と称賛され、多くの本や雑誌に引用された『東日記』なるものが大デタラメの作り話であるということが裁判で明らかにされたこと。この2つの証明は小さな証明かも知れない。しかし、“蟻の一穴”であることには間違いない。
われわれの一層の努力と、良識ある国民大衆の協力を得て、この一穴をさらにさらに拡大して「南京大虐殺」なるものが全くのねつ造であり、デッチあげであることを大々的に証明する日の来ることを私は信じて疑わない。
そのことは同時に、東京裁判史観の崩壊につながることである。
なぜならば、虚妄の南京大虐殺事件なるものは国際法を踏みにじって強行した理不尽極まる東京裁判の象徴的存在だからである。
そこで私は東京裁判の11名の判事中ただ一人、この裁判は「裁判の外貌をまとった復讐の儀式である」として全員無罪の判決を下したインド代表判事ラダ・ビノード・パール博士の、判決書の最後の有名な言葉を想起するものである。
「時が熱狂と偏見をやわらげ、また、理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取ったあかつきには、そのときこそ正義の女神はその秤(はかり)の平衡を保ちながら、過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう。」その「とき」が、いままさに来つつあるのである。
良識ある国民の一層の努力を期待したい。(5月3日記、念法時報)
広田弘毅(当時、外務大臣)電報のウソ
松尾一郎
数年前からアメリカの学者、特に中国系アメリカ人を中心に当時、昭和13(1938)年に日本の広田弘毅外務大臣が現地を視察して「30万人が虐殺された。」と確認していると主張しています。
現在、これを根拠に「南京大虐殺は事実」と主張する中国系アメリカ人、中国人、台湾人がいます。
しかし、この報告書は中国人が仕掛けた真っ赤なウソで、歴史の改ざんなのです。
この報告書(電文)は2枚あります。206号電と227号電の2枚がセットとなっています。
それはどういう事かと言うと・・・・
206号電の最初には「From : Tokyo(Hirota) To Washington January 19, 1938・・・」で翻訳すると―――
「現地においてティンパーレー(JapaneseTerror in China「中国における日本軍の恐怖」著者マンチェスター・ガーディアン記者)が本社に送ろうとしていた電報を昭和13(1938)年1月17日に差し押さえた(中略)・・・とにかく差し押さえたもの(電文)内容を送る・・・・」
と言うのが上海の外交部から東京の外務省へと送られ、米国ワシントンの大使館あてに送られた電報が175、176電報です。。
ところが米国へ送られた電文を米国が傍受し解読した電報が、米暗号解読書、206号と227号なのです。
これにはティンパーリーが外国に持ち出そうとした事情をつづった本の原文となる内容が227号に書かれており、この227号だけを見るとまさに「30万人もの虐殺があった」と勘違いしてしまう内容です。
中国系アメリカ人や台湾人、中国人達が意図的に、電報の事情が書かれてある、最初の206号電をわざと隠して「虐殺があった」と都合よく解釈出来る227号電を意図的に流布しています。
これこそ中国人がいつも行う、日本を貶おとしめるためだけを目的に行う、歴史の改ざんそのものです。
しかし、この電文は簡単に証拠能力が無い事を証明が出来るのです。
それは、当時日本の外務省は出先機関に送るため文章はすべて日本語で送ったのです。
そのため、当時ティンパーレーについてアメリカ側は全く知らず、暗号を解読する際にティンパーレーの日本語表記を英語に直そうとした際に、つづり(スペル)が分から無かったため適当な単語をあてており、その注釈を一番下に記載しているのです。
「ジャパニーズ・スペリング・オブ・ネーム(これは日本語によるつづり)」と書いてある。
ティンパーリーの正式なつづりはTimperleyであり、下のToinpareでは無い。
したがって227号電に書かれている I investigated reported atrocities committed by Japanese Army in Nanking の "I "は広田弘毅では無く、ティンパーリーの事なのです。
先日、スタンフォード大学のアメリカ史のケネディ教授がアイリス・チャンを叩く論文を出しましたが、非常に残念な事にこの227号電を使っている。彼はこの論文で「広田弘毅の上海への視察旅行(?)によれば、彼も30万という事を認めている。」と書いてしまっている。
残念です。

206号電(抜粋下) 227号電(抜粋)
#206 #227
From : Tokyo (Hirota)
To : Washington
January 19, 1938

#206, Received from Shanghai as #175

The night of the 16th, Toinpare*, special correspondent of the Manchestar Guardian, was disoccvared by our censors as he was about to send a communication as given in separate message #176**.

From : Tokyo (Hirota)
To : Washington
January 17, 1938

#227, Received from Shanghai as #176

Extra message.
"Since return (to) Shanghai (a) few days ago I investigated reported atrocities committed by Japanese army in Nanking and elsewhere. Verbal accounts (of) reliable eye-witnesses and letters from individuals whose credibility (is) beyond question afford convincing proof (that)Japanese Army behaved and (is) continuing(to) behave in (a) fashion reminiscent (of) Attila (and) his Huns. (Not)less than three hundred thousand Chinese civilians slaughtered, many cases (in) cold blood.

高橋義彦さんからの手紙
あまりにも有名な写真。それを唯一証言してくれている方がいます。
それが元第6師団45連隊第11中隊山砲砲兵指揮官(陸士47期)高橋義彦さんです。
田中正明先生の著書「南京事件の総括」の中では度々登場し明確な回答をされています。
そこで私は田中先生にお願いして住所と電話番号を教えて頂きました。
これは、その高橋さんから頂いた貴重な証言と資料を多くの人達に見て頂きたくて掲載しました。
手紙の中で一部わかりずらい点があるかも知れませんがご容赦下さい。

3枚の写真と質問状
写真1 写真1019 写真3
死体の個々の容態から見て、江上砲撃等の戦死者又は遺棄死体と思う。 新河鎮の視界内にはこの様な材木集積場は無かった。又死体の高が一定でその数も少ないので新河鎮の情景内でない。 これについては分からない。
注:写真の上へをポインタを置くと高橋さんが写真にそえたコメントが見えます。
平成10(1998)年3月上旬、夜8時頃だったと覚えているのですが高橋義彦さん宅へ電話をかけました。
夜にもかかわらず高橋さんは快く当時の南京戦について話して下さいました。
ご年齢はもう80歳半ばを越えておられるにも関わらずはっきりとした口調でした。
後日、改めてこの3枚の写真と質問状を送らせて頂きました。そして帰ってきた手紙が以下の内容でした。
拝復
南京事件御研究の由、喜んでおります。
自虐で全てが悪いことにして喜んでおる日本人離れの者が戦史を曲げてしまい憤慨しております折り貴所の如き青年が真相を求めて探求の精神を知り、日本の為に慶賀に存知ます。どうぞ頑張って勉強して下さい。
ご承知と存じますが、郵便袋虐殺裁判が3年前から行われその指導をされており南京戦史の研究委員もされた方、板倉由明様はお近くであり、分からぬことはどしどし聞かれたら何でも教えてくださると思いますので是非ご訪問下さい(tel or手紙連絡でも可)。
 板倉由明先生 〒**** 神奈川県********************** TEL/FAX **********
この方は田中先生と共に、日本最高の南京事件研究の権威者です。また南京に関する研究資料も「南京事件の真実」その他沢山出しておられます。
私の南京戦における所属部隊?と、戦闘。
私は独立山砲兵第2連隊本部観測班長が正式の任命された職務です。つまり、砲兵連隊の火力をいかに集中発揮するか、火力運用の責任者であり、砲兵の運用に就いて連隊長を補佐する職務です。
私は抗州湾上陸以来、南京に向かいましたが、総攻撃の日が早まりそうになったので、連隊長は一部を指揮して南京に急進されました。私は「先遣隊の残り2500名の部隊を指揮して連隊に急追せよ。」との命令を受け、12/11夕方、綿花地(別紙。私が書いた略図の南端の地名)に到着しました。その時、連隊長から特別命令を貰った。
「決死隊を編成中だから、高橋中尉は山砲小隊長として45連隊第11中隊長、大園大尉の指揮に入り13日(12月)の夜が明けたら配属工兵の折畳舟に乗り、揚子江の河上を下り下関方面に攻撃することにして夜明けを待っていたら、6時頃、敵の総攻撃を受け、太鼓、鐘や洗面器等を打ち鳴らし突撃してきました。
私共は、大砲の弾がある限り零距離射撃を行いました。パチンコ弾のようなバラ弾を200発を1コの砲弾で打ち出します。1回に100名位の敵兵が空中に吹き飛ばされますが、敵はここ新河鎮を切り抜けないと逃げ道がないので死にもの狂いの戦闘になりました。
朝6時から11時頃まで乱闘になり、道路以外の湿地帯も彼我の死体で埋めつくされ、枕木代用に人体が使われ、死体や負傷者の上での乱闘は地獄そのものでした。
「これで勝った」と思ったのは、11時頃から敵は裸になって河に飛び込み始めました。それを陸から射撃しました。まるで海水浴場を機関銃で撃つような光景でした。下流を見渡したら、川岸に陸揚げしてあった材木を兵のベルトや馬の鞍の革などで結んで筏(いかだ)を作り、それに乗って対岸に渡り始めたのです。
我が野戦重砲の15糎(センチ)榴弾砲の部隊がその筏を集中砲撃しました。気球を挙げて観測しているので百発百中、揚子江は血の河と化し、戦死者や負傷者が視界を埋める水上光景で揚子江は、地獄と化しました。累図を見て想像して下さい。

3枚の写真について
写真1019の写真(作者注・中写真)は新河鎮の陸地戦場内のものでは無い。
裸の写真(作者注・左写真)もあるので新河鎮戦揚子江上で戦死又はおぼれた者と思われる。
死体の方向が一定であり、死体の吹き溜まりと思う。
その場所は累図A、Bではないかと思う。
(材木置き場の景色と写真内容から判断)正確な位置は撮影者・村瀬守保氏に聞かないと分からない。

督戦隊について
別紙パンフ(大虐殺は無かった No6)南京の世界日報社の昭和58年又は59年頃の取材記事を見て下さい。
(私見)私は中国軍の戦死者の10%〜20%は見方同士の督戦隊が殺したものと思います。10%は下らない。
その他
万人抗とか死体橋の事も読んで下さい。
むすび
貴意に沿う回答が出来ず、申し訳ありません。前にも述べた様に板倉様には是非お会い下さい。ご健勝を祈ります。
高橋さんから頂いた地図
高橋義彦さんから頂いた新河鎮累図
拡大画像はこちら(PDF)
「南京大虐殺」はなかった(世界日報社No.6)
攻略戦参加者の証言

死体乗り越え突撃
”南京大虐殺派”の本多勝一氏の主張する日本軍の残虐行為を象徴するものとして「万人抗」「死体橋」といった言葉がある。それらに関する同氏の記事を引用してみよう。
「昨年(昭和58年)12月13日南京市は南京大虐殺(中国語「南京大屠殺」)の46周年を期して記念碑の定礎式をおこなった。
(中略)石碑の周辺には、最近になって一部が試掘された万人抗(犠牲者たちの大量の骨の堆積)があり(中略)また、石碑の近くにある幅4、50メートルの運河の橋は、日本軍の南京占領直前に国民党軍(蒋介石)が爆破したが、占領後このあとが大量の虐殺死体で埋められて”死体橋”となり、その上を日本軍のトラックが往来していたという」(「朝日新聞」59年3月30日付)
万人抗及び死体橋の跡といわれる江東門は、第6師団歩兵45連隊が戦闘し、南京を去って太平府に移動するまでの1週間滞在した所である。
本多氏の主張に対し、当時同師団左側支隊の山砲小隊長として南京攻略戦に参加した高橋義彦氏(71・久留米在住)は全くのでたらめだと反ばくする。《万人抗は、戦死した中国兵の死体を1ヶ所にかき集めて埋めた場所にすぎません。日本軍の場合には死体を火葬にして内地に送り届けますが、中国軍の場合は兵隊の死体の引き取り手がないし、死体を出身地に送るといった組織もありませんでした。こういうわけですから、中国軍の死体は、大体野ざらしです。戦闘が一段落して、戦場だった所に中国人居住者が戻り、死体を一ヵ所に集めたのです。死体があちこちにころがっていては仕事も出来ないからでしょう》つまり南京郊外の江東門の万人抗なるものも、結局江東門付近での戦闘で戦死した中国兵を埋葬するため現地の中国人が一ヵ所に集めた場所に過ぎないというのである。
この点について当時同じ第6師団の通信隊小隊長(原隊・歩兵45連隊)の鵜飼敏定氏(71・東京都在住)も、江東門付近の万人抗は「江東村の大通りに面した一角で戦闘が行われ、遺棄死体された中国軍の戦死者が埋められている所である」と断言する。
さらに同氏によれば、微に入り細をうがった「中国近代史研究南京大屠殺」にも江東門周辺での虐殺についての記述は一行もないという。
次にもう一度高橋氏に証言してもらう。《私が山砲小隊長として配属された歩兵第45連隊左側支隊(総兵力250)は、昭和12年12月12日夜から江東門より約1キロ北西のすでに廃墟となった新河鎮部落に待機していました。13日朝6時ごろ、敵の斥候の信号弾とともに南京城内から脱出してきた中国兵約2万の総攻撃を受けました》
《そばには揚子江が流れており、まわりは湿地帯で、歩くとひざまでつかるような所でした。そこに突撃してきた中国兵の死体や負傷者が横たわり、湿地帯は枕木を敷いたようになりました。その死体を乗り越えてくる敵がまた倒れるということで、死体は重なり合い、最後にはその上を走って通れるくらいまでなりました》
戦闘とはいえ大変な修羅場が展開されたのである。まもなく敵の戦意が喪失し始めた。その時、高橋氏は中国軍の「督戦隊」を初めて見た。
《督戦隊は「督戦」という腕章をつけ、大型けん銃を構え、約4歩間隔で横に並んで中国兵の後ろにいました。中国兵の突撃部隊を日本軍の方向へと押し出すのが彼らの任務で、後ろへ逃げ出そうとする中国兵はようしゃなく撃ち殺されていました》

死体を1ヵ所に集める習慣
世界日報の特集記事「南京大虐殺はなかったNo.6」昭和59年の記事から高橋義彦さんが送って下さったモノです。 では中国軍の死体はどうなったのか。
《昭和17年12月、私は南京城内の軍官学校に駐屯していた第15師団の野砲連隊の大隊長として再び南京城に戻ってきました。
その時、戦闘のあった新河鎮に行ってみましたが、死体は全くありませんでした。
あれだけ多くの死体をよく片付けたものだと思いました。これらの死体も、おそらく新河鎮付近のどこかまとめて埋葬されたと思います》
さらに高橋氏は、中国人が戦死した死体を1ヵ所に集める習慣があることを証明する興味深い事実を目撃している。
《昭和12年12月17日、南京の中山門を通った時、城外には約60ほどの中国人の死体がころがっていました。
昭和17(1942)年に再びそこを通ると、白骨化した死体がそのままあったのですが、どう見ても数が多くなっているのです、少なくとも白骨死体が500くらいはあると思われました。
戦争当時よりも死体が6倍以上も増えるなんておかしいと思いましたがすぐ合点がいきました。
死体がすべて中国人によって集められてここに置かれたのでしょう》本多氏の言う”万人抗”なるものは中国兵の戦死体を中国人が一ヵ所に集め、あとで埋葬した場所にすぎないようだ。では江東門付近の「死体橋」は事実なのであろうか。
《本多氏は当時12歳くらいの中国人の証言をそのままうのみにしています((注)本多氏は孫殿炎さん=59歳=の目撃談を引用)。
そもそも江東門と江東村の間に流れていた運河は幅20メートルくらいでした。
しかし本多氏が引用する目撃者は幅4、50メートルの運河の橋と言っています。
運河の幅からしてそもそも記憶が間違っているわけです。それに日本軍は工兵隊がいましたから、2〜3時間あれば、20〜30メートルの橋はわけなく造ることが出来ます。わざわざ運河に死体を重ねて死体で橋を造り、その上を通る必要など全くないわけです》
また前述の鵜飼敏定氏もこう断言する。
《江東門の警備を担当したのは第3大隊ですが、警備期間は7日に過ぎず、12月15日、師団長、旅団長の戦場視察、17日軍の合同慰霊祭、続いて太平府への出発準備と部隊は多忙を極めていました。わざわざ死体を積み上げて”死体橋”をつくるなど考えられません》(「南京大虐殺」問題取材班)

高橋義彦さんからの手紙2
平成10年(1998年)9月17日、消印の手紙を頂きました。
松尾一郎様 平成10.9.17高橋義彦
台風5号の為か急に涼しくなって参りました。この前からお世話になり、御疎遠の手紙失礼いたしました。
先般写真判定の件でその死体が虐殺か戦死体かと迷われているのではないかと察しこの筆をとりました。
明かに新河鎮戦闘の死体であることは確定的であり疑う予裕(ママ)はありません。
先づどの位の数の敵の死体がどうなったかを再考してみますと私達を攻撃してきたのは2コ師団でした。(戦場で確認)
1コ師団を7500人として2コ師団では15000人第6師団長はその兵力20000人(別紙賞詞を見て下さい)
敵の戦死者 新河鎮私共の目の前で2200人
私は5000人位かと思っていましたが、45i/III(HP作者注:45歩兵連隊第3大隊の意味)が数えたら2200人でした。
裸で飛び込み或いは筏で逃亡した内で国崎支隊に捕まった者:2300人。  
逃亡したもの:3000人。
わが砲撃で戦死した者:推定7000人。  
即ち敵の戦死者を15000とみても7000人は死体で押し流されています。
あの写真はこの1部に相違ありません。参考として検討下さい。
(尚私の賞詞の写しを同封したのは師団長が敵の兵力や戦死数をどうみていたかの判断資料として同封したもので、功を誇る等の意図は全然ありません。)

高橋さんから頂いた累図2
この累図の中に点線が見えますが、これは高橋さんがFAX用紙を使ってコピーされたからです。
拡大画像はこちら(PDF)


[32初期非表示理由]:担当:要点がまとまってない長文

30. 中川隆[6334] koaQ7Jey 2017年1月25日 23:35:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6786]
>>29 はすべて疾うに否定されているデマだよ


南京事件(南京大虐殺)の真実
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm

「徹底した史料の読解によって、南京事件の真実を明らかにします」
「否定派の解釈の誤りと、捏造のすべてを明るみにだします」 by タラリ 


31. 2017年1月26日 02:44:46 : w3M1BHSquE : 5KToaZSVnLw[1174]
どんなに長々と書き連ねたって 「部分否定」 にしか なっていない戯言。

32. 2017年1月26日 07:43:25 : 35EuUW7jDw : yWf3pgdtr88[61]
南京事件、韓国慰安婦 問題 なんだか100年たっても解決しそうにないわ

平成以降、次の年号かその又次か 長期戦になる予感

3000年もやるのかな、中東のように?


33. 2017年1月26日 14:14:05 : rrhrFN6JLd : C6EI10g_Gy4[2021]
アパ元谷会長 本を撤去するってポリシーもなんもないんやな。ネトウヨとはそんなもんだ。トテチテターとラッパは吹くだけで敵前逃亡する連中だ。

34. 2017年1月26日 14:25:46 : ICMBIT1ydQ : k7FeCwh@w64[5]
>>13
>>16
>>19
糞を貼り付けんな!この糞ヴォケ!

[32初期非表示理由]:担当:言葉使い
35. 2017年1月26日 16:22:02 : HL7ZfQ0cpw : YPVsiMpmuKY[1]
アパホテルは経営者の著作を置いただけである。
そんなホテルや旅館、飲食店は他にもいくらでもある。
ましてホテルには「政治的な中立義務」などない。
あるのは商売上の損得だけである。
旅館業法では、合理的な理由なく宿泊を断ってはいけないという規則があるだけだ。

旅館業法
第五条
営業者は、左の各号の一に該当する場合を除いては、宿泊を拒んではならない。
一 宿泊しようとする者が伝染性の疾病にかかつていると明らかに認められるとき。
二 宿泊しようとする者がとばく、その他の違法行為又は風紀を乱す行為をする虞があると認められるとき。
三 宿泊施設に余裕がないときその他都道府県が条例で定める事由があるとき。

アパホテルが中国人の宿泊を断ったり、南京事件の賛否を問い宿泊を断ったりしてたなら問題だが、全くそんなことはない。
こんな事で騒ぐのは全くおかしいし、無条件で中国を批判するなと言わんばかりの中国政府の対応の方が極めて異常だ。
左寄りの人たちが批判しているようだが、それは内容が「反中国的」だというだけではないか?
左寄りの人たちは日頃「言論の自由」「政治の不当介入」をことさら叫んでるのにおかしくないか?
世の中には反米、反安倍の本もはいて捨てるほどあるが、それがホテルに置かれても多分何も言わないだろう。
これもおかしくないか?

中国大使館の張梅報道官が言う「山ほどある南京大虐殺の動かぬ証拠」とやらをさっさと開示してもらおうか?
中国はユネスコに出したという証拠をさっさと開示しろ。
まだかよ、いつになるんだ?
中国が歴史を歪曲し、日本の人々の感情を傷つけるような公然たる挑発行為は絶対に日本は許さない。
一個人が文句を言うのは勝手だが、中国や韓国の公的機関が不当な政治介入をして、不当な圧力をかけて、気に入らない本を撤去せよなどと言って、日本の民間企業の正当な営業活動を妨害する中国や韓国の卑怯・卑劣な言動・行為は絶対に許せない。
アパホテル、よく言った、よくやった、グッドジョブ。
日本で同じことをしたら不当な政治介入と糾弾されるだろう。
事実、中国の不当な政治介入であり、アパホテルに対する営業妨害だ。
客が嫌だというのは自由だが、問題は中国外務省が気に入らない本を撤去しろと言っていることだ。
明らかに不当な政治介入であり、アパホテルに対する営業妨害だ。
中国では普通のことだろうが、民主主義国家の会社には通用しない。
余計なお世話だと思われるのがオチだ。
それにしても国が恣意的に特定企業を狙い撃ちにして、ネット検索できなくしての不当な営業妨害が通用する中国という国はやはり異常だ。
日本でのネットユーザーなどによる反応は「最近はどこも予約がとり難いから、助かります。ありがとう中国」、「客室の備品が無くならないようになって良かったじゃないか」や「出張の際にはアパホテルを利用しようかな」などと言ったものもあって、アパホテルにとっては大きなビジネスチャンスにつながれる、と考えれる。
大丈夫、意気に感じる客は必ずいる、というよりやっぱりいた。
それに中国人客のマナーは悪いと言うし、そういう面では吉と出たようだ。

2017.1.25 19:52更新 産経新聞
【中国アパ拒否】
「観光業のモラルに反する」 アパを在日中国大使館報道官が批判
http://www.sankei.com/world/news/170125/wor1701250046-n1.html
アパグループのホテル客室に「南京大虐殺」や「慰安婦の強制連行」を否定する書籍が置かれているとして中国政府が批判している問題で、中国大使館の張梅報道官は25日の記者会見で「中国の観光客に対する公然たる挑発行為であり、観光業の基本的なモラルにも反している」と批判した。ただ、アパグループ側に申し入れを行うかどうかについては明言しなかった。
張氏は、「南京大虐殺」などについて「国際社会が公認した歴史的事実であり、動かぬ証拠は山ほどある」と強調。その上で「歴史を歪曲し、中国の人々の感情を傷つけるような公然たる挑発行為は絶対に許さない」と非難した。

「南京大虐殺」は捏造ねつぞうだった
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/nankingmj.htm

中韓を知りすぎた男
南京大虐殺の真実 8月19日(水)
http://kkmyo.blog70.fc2.com/blog-entry-1061.html

大虐殺派のウソ写真と証言
http://www.history.gr.jp/nanking/lie.html

難民区は安泰、感謝状を受け取る
http://www.history.gr.jp/nanking/reason05.html


36. 2017年1月26日 16:47:44 : mDr0T5snzg : BJoalU21S_M[1]
>21

>毛沢東は1938年1月週刊誌「群衆」で
 「南京大虐殺は人類に対する犯罪」と述べている

とんでもない大噓。

よくもこんな大噓を平気でつけるもんだ。

「群衆」は共産党の機関紙の記事であって、毛沢東の発言ではない。

こういう大噓を平気でつけるのが反日左翼だ。

これだから在日(中川隆)は困る。

ちなみに毛沢東がなんと言ってるか教えてやるよ。

毛沢東の総括によれば、

@南京の日本軍は支那兵を殲滅しなかった。
Aそのため、支那軍は助かった。
B逃げ延びた支那軍は再び勢力を再結集して、日本軍に反撃することができた。
C支那軍に反撃の機会を与えたのは、そもそも日本軍が支那兵を殲滅しなかったことに起因する。
Dだから(毛沢東から見ると)日本軍の戦略はまずかった。

と言うのである。

要するに、袋の鼠となった城内の支那兵を日本軍は皆殺しにしなかった―と毛沢東は演説したのである。毛沢東もまた、日本軍戦時国際法違反(南京虐殺)を指摘できなかったことに注意する必要がある。


つまり毛沢東は明白に南京大虐殺を否定しているのである。


37. 2017年1月26日 22:40:49 : x5zROnJ2HQ : OCs4G9_@q_A[2]
>>36. 2017年1月26日 16:47:44 : mDr0T5snzg : BJoalU21S_M[1]

>@南京の日本軍は支那兵を殲滅しなかった。
>Aそのため、支那軍は助かった。

”毛沢東の総括”なる物の出典は?

文言が変だね、毛沢東は紅軍の事を”支那兵”って呼ぶの?と言うか、
南京に居たのは国民党軍系だろ、こんな評価になるわけ無いじゃん




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